Part 3
アフリカ的段階について 
             ―史観の拡張

  試行社 平成10/1/20 発行 <私家版>



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アフリカ的な段階を人類の原型とみなすこと アフリカ的段階について W
人類の原型的な内容を掘りさげることが永続課題だ アフリカ的段階について W












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アフリカ的な段階を人類の原型とみなすこと あふりかてきなだんかいをじんるいのげんけいとみなすこと アフリカ的段階について W
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アフリカ的な段階を人類の原型とみなすこと
項目抜粋
1
@ アフリカ的な段階を人類の原型とみなすことは、ひとりでにモルガンの『古代社会』がいう野蛮の下層、中層、上層という歴史規定や未開の下層、中層、上層という類別で人類の初原状態を微進過程とする考え方を解体することになる。もっとひろくいえばヘーゲルやルソーからマルクスやエンゲルスなどにいたる巨匠たちが、十九世紀の後半が、外在(文明史)と内在(精神史)の稀な調和を前提としてつくりあげた歴史という考え方や、分類原理を解体することになる。このことはマルクスにはいくらか気付かれていたような気がする。マルクスが未開や原始と古典古代のあいだに「アジア的」という歴史段階を挿入しようとした(これは異質または異和概念とおもえる)のはそのためではなかろうか。野蛮、未開、原始というような歴史の進展概念を外在史と内在史の調和のもとに仮設してしまえば、「アジア的」な世界は、近代主義的な進歩史観をはみ出した異物概念だといってもよい。そこは時間の停滞と反復と遅延が、季節ごとに反復している農耕の世界だからだ。歴史はいちばん先進的な西欧近代との接触点が拡大する側面からかんがえるかぎりは、この「アジア的」な社会もまた、遅ればせに西欧文明のあとから進歩すると同時に「アジア的」な停滞と退歩の精神(内在)史を蓄積してゆく社会にほかならない。これは外在的に進歩を追跡することが、同時に内在的に退歩を追跡することと同義だという方法を、歴史概念にする以外には解決しようもないとおもえる。そのためには、はじめに原型として「アフリカ的」な段階を設定するほかに普遍性をもちえないとおもえる。
     (P95−P96)


A ・・・・・(中略)・・・・・むしろ逆にアフリカについての処方箋は西欧の絶対的な近代主義の歴史哲学や歴史の分類原理の範囲からは、誰によってもつくれないとみなした方がいい状態になっている。
 ここからすぐにもう一歩踏み込んでみてもいいのだが、すこし
迂回路を通ってみる。過去のアフリカ、あるいは「アフリカ的」段階の豊かな精神の表情と、現在のアフリカが当面しているきびしい文明史の局面とはどう結びつけたら理想的なのか。結びつきなどはなく修復は不可能になっていて、その不可能性をつくりあげたのは西欧の近代主義と、それをなんの疑問もなく追いかけて、偶然も幸いして西欧先進国なみになった日本のような追従国の理念だということになるのだろうか。からみ合った糸がもつれて、サジを投げたくなったアフリカ問題の表情だけがうかがえる。
 自力で文明化したのではなく、欧米の先進文明の洪水によって水浸しになって溺れかかった固有アフリカの問題は、ほかのアフリカ的な段階にある地域とおなじように、欧米の先進文明の植民地になるか、欧米の文明史の洪水をうけいれて、知識的なエリート層からはじまって欧米化してゆくほかに道はないのか。
もちろん文明史を歴史の生理とみるかぎり、自然のまま成り行きにまかせるほか方途はありえない。それが現在のアフリカ問題の根本にひそんでいる。この根本にある課題は文明的な環境が早く進んだ地域と遅く後を追っている地域とが、いずれにせよ均等化するところへ集約されることでは解決にはならない。なぜならアフリカ的な段階には人類の原型的な課題がすべて含まれていることを掘り起しえなければ、たんに進みと遅れ、進歩と停滞、先進と後進の問題に歴史は単純化されてしまうからだ。人類は文明の進展やエリート層への従属のために存在しているのではない。人類が何であるかの課題はそんなところには存在しない。
     (P101−P102)


項目抜粋
2
B ・・・・・・この民話【註.アフリカの民話】では木はもとより、獣も花も言葉という共通のものをもとにして区別されていない。人間は言葉をもっているという差異を自覚したとき、木や獣や花が動くときに発する音を言葉だとおもい、同列の存在として扱った。明瞭に分節をもっているかどうかは、別々の種族語を語る人間どうしのわからなさとおなじとみなした。母音を意味あるものとみれば、それは人間のあいだでも、植物や動物や自然の無機物のあいだでも、すべて共通に通じる言葉であった。それはアフリカ的な段階の基礎になっているとみなされる。
 おなじような話を日本神話から採掘することができる。

   【日本書紀からの引用(1)(2)(3)(4) 】

 引用の(1)で雷神の宿る木が人語の命令を解し、絶対主義の王の権威に従うという自然観。雷神が小さな魚になって木の股にはさまれたという自然の変化。これはアフリカの民話とおなじ段階にあると言うべきだ。(2)で髯を抜いて放つと杉の木になり、胸の毛を抜いて放つと桧の木になり、尻の毛は槙の木になる。眉の毛は樟になったというのも自然の樹木が人体になぞらえられて対応している。(3)の「また草木もみなよく物をいう」という認識もおなじだ。これらの自然の樹木、動物、雷のような自然現象にたいする認識は基本的に住民がしぶんを(人間を)天然の自然や、植物、動物と区別したり、分離したりせずにその一部分としておなじ水準のおなじ眼の高さに無意識のうちに同化していることを意味している。これはアフリカ的な原型だといっていい。これをすこしでも外在化(文明化)を体験した視点からみれば引用の(4)の蝦夷にたいする中央王権の認識になるといっていい。この認識ははるかに西欧の近代主義のアフリカ的原型にたいする認識とつながっている。
現在の世界史についてのわたしたちの哲学がどうあるべきかはおのずからあきらかなことだ。内在(精神)史としてアフリカ的段階をおなじ眼の高さから内在化する課題が、同時に外在(文明)史的な未来を認知することと同義である方法を、史観として確立することだ。それは明瞭なことにおもえる。
     (P109−P114)


備考




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人類の原型的な内容を掘りさげることが永続課題だ えいぞくかだい アフリカ的段階について W
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文明との接触 見識
項目抜粋
1
@ この女流旅行家【註.『日本奥地紀行』を書いたイサベラ・バードという英国女性の旅行家】のアイヌ人にたいする高い評価は注目に価する。なぜなら文明との接触がいわば混血が種族に与える身体的な特徴とおなじように、無意識にたいする内在的な影響を与えないことが洞察され、しかもこの影響が堕落でありうることが言及されているからだ。動物にちかいようなひどい生活をしながら、アイヌ人が高貴だということを見抜いているだけでも見事なものだといっていい。この女流旅行家のもっている見識はわたしたちが身につけたいとかんがえているもののひとつだといっていい。
 祖先が神と呼んだから自然の個々の存在は気候現象から山河や樹木や海や森のものがみな神だとおもわれている。だが崇拝されているという意味ではなく自然の存在は無生物も生物もみな神だという意味で神だとかんがえられているというに過ぎない。そしてこの女流旅行家がいうように、この自然に宿る神を集約すれば、イナウ(御幣)が象徴的神体ということになる。また動く自然は動かない自然よりも上位におかれているかもしれない。また宗教になっていない自然の宗教性がここに的確に描かれている。
 引用はながくなったがアイヌ人について書かれている内外の文献の記述のうち、いちばんいいもののひとつだとおもえる。
 アイヌの家屋が日本人の家とは似ていなくて、むしろポリネシア人の家屋に似ているというのは、いい洞察だとおもえる。動物生とさしてちがわないような生活の仕方をしていて、善悪の倫理もないようにみえる。宗教的な信仰の概念もない。だが人格的に威厳にあふれ、親身で正直で、老人を思いやり、敬虔である振舞いが、原型としてそうなっていることも間違いなくとらえている。また太陽、月、火、水や大切な熊などをじぶんとおなじ水準の存在とみなしている。そして日本人はすでに中国経由の外在(文明)史に汚染されてみえるが、無文字、動物生に似た未開人とみえるアイヌ人が、容貌も振舞いも魅力的であることも洞察されている。

 アイヌ人の宗教心についても言及しているが、アフリカ的な段階の原型をたもった自然への崇敬で漠然と樹木や川や岩や山を神と同格なものと感じ、海や湖や森や火や太陽や月を人間に善や悪をもたらす力があるものとかんがえていることも指摘されている。そしてわざわいや危難に出遇うごとに、木を削ってつくった神体の象徴であるイナウを投げてはらう習俗もとらえている。自然のなかにはじぶんたちに恐怖を与えたり、希望を与えたりする力が具わっている。西欧的な概念からは自然崇拝ということになるが、じぶんは自然にへりくだるという意味は何も含まれていない。狼とか黒蛇とか、フクロウとか熊とかは固有アフリカのクリックスターの役割と似ている役割をもっているが、これらはスターであるよりも「神(カムイ)」と呼ばれている。フクロウは「神々の鳥」、黒い蛇は「大鴉神」、雷は「神々の声」というように。
 わたしはこの女流の旅行家はとても優秀な人類学徒だとおもう。ある角度をもって日本列島の奥地に入っているのではなく、いきなりアイヌ人の習俗や宗教に似た感情のあらわれに遭遇しておなじ眼の高さで適確にみている。そのくせに西欧のキリスト教的な神の概念が至上のものだという思い入れも、偏見もなく、西欧人からは当惑するほか言いようのない自然への畏怖や恩恵の独自さもきちっとみている。それはいわばアフリカ的段階の自然観を適切に抽出している。倫理的な意味での善悪感が存在していないことも、きちっと把握している。中国文明の外在史の軌道に乗りはじめて千年を経た日本人とほとんどアフリカ的な未明の段階を出ようとせずに生活しているアイヌ人との差異もよくとらえている。ついでにアイヌ人がポリネシア起源であるかもしれないことも示唆している。
     (P125−P128)



項目抜粋
2
A アフリカ的な段階として普遍化できる外在(文明)史と内在(精神)史の在り方は、個々の地域と時代によって固有の特徴をもっていることは、すぐに理解される。わたしたちがこの文章で当ったわずかな範囲でも、その地域的、時代的な特徴はよく出ている気がする。南アメリカや北アメリカの原住民のあいだでは、自然崇拝とか畏敬とか恐怖とかいえるものは、むしろ自然との融和感、一体感あるいは自然のなかに無限に細かい感覚の粒子として入り込めるような実体感としてあらわされている。またブラック・アフリカでは、自然の霊を呼び出してくるような人間の生命力の競り合いや重なり合いに自然との接合が実現されているようにおもえる。また日本列島のなかのアイヌ人では善とか悪とかいう倫理観にまでなりきらない動物生に似た未明の生活が、豊かな人(ヒト)という格の在り方のなかに実現されているようにおもえる。日本人もまた初期の神話や民話のなかにこの段階の個性をのこしている。もちろんこの言い方には一回性しかない。いいかえれば個々の編著者や観察者の主観や視点が入り込んでいることを避けられない。しかし言えることは、地域の天候、地勢、地形などの条件に育まれた固有性が、アフリカ的な段階ではおおきく物をいう要素になることは、これらの自然条件が次第に外在(文明)条件に変貌した後とは比較にならない。これはすぐに理解されることだ。


B わたしたちが資本制度の初期から隆盛期までを近代としてきたとき、ヘーゲルに象徴される絶対の近代主義の史観、いわばエントロピー増大の原理のように歴史は進展する一方向をもつだけだとする世界史の哲学や分類の原理に、懐疑をもったのは、わたしたちに知られているかぎりでは、マルクスだけだったといっていい。かれは歴史は停滞するし、また歴史が退歩することが歴史をより有利にすることがありうることに気付いた。それが原始と古典古代のあいだに、「アジア的」という異質な概念を挿入したモチーフだったといってよい。マルクスが後進のロシアでの革命が、発達した西欧よりも先に実現の条件をもつことがありうるとしたとき、半アジア的という言い方でそれを説いたのは、そのためだったといっていい。しかしマルクスは近代主義史観の枠組を解体することができなかった。それを具体的に挙げてみれば、
   (1) アジア的という概念を、唐突に原始と古典古代のあいだに挿入したとき、ほんとうは野蛮、未開、原始という歴史進展の分類の枠組     自体を解体してしまうべきであった。なぜならヘーゲルに象徴されるような十九世紀後半に輩出した史観は、外在(文明)史と内在(精神)    史の幸福な同致を線型にたどっても大過のない近代主義の所産で、普遍性をもっているといえないからだ。ヘーゲルやマルクスのいう     歴史や、モルガン、エンゲルスの発展史観では、歴史という概念は、外在(文明)史という概念と同義になっている。あるいは歴史という     概念は限りなく外在史だけに収斂してゆくとみなされている。だがいちばん素朴にいって、歴史は全人類の一人ずつが何をかんがえ、そ    の瞬間にどう行動したかの総和のことであって、外在(文明)をどう追尾していったかの総和ではない。

   (2) 全人類のそれぞれのメンバーがどう内在(精神)を働かせ、どう行動したかということ、その結果人類はどうなったか、またこれからど    うなるかは、判りようがないから、経済を核にした唯物史観で近似したという言説は成り立たない。歴史は外在(文明)史と内在(精神)史     との二重性と、そのずれ【註.「ずれ」に傍点】、乖離によって総合されうる。そして歴史の外在(文明)史的な未来を考察することが、同時    に内在(精神)史的な過去を解明することと同義である方法だけが、世界史の哲学や分類の原理となりうる。

 マルクスは外在(文明)史と内在(精神)史のずれ【註.「ずれ」に傍点】、乖離という、本来は普遍的な歴史の課題を、「半アジア的」という外在(文明)史的な折衷によって解こうとしている。その結果は、ロシア革命の無惨な結末がしめしたとおりで、「半アジア的」というマルクスの概念は<半迷妄>という意味の要因にしかならなかった。どこにも利点や優越性を発揮する余地はなかったのだ。


C アフリカ的な段階を段階として設定することの重要な意味のひとつは近代(プレ・現代)以後固有アフリカがかかえた現在の課題にはっきりした通路がつけられるためだといっていい。段階など設定しなくても、固有アフリカは固有アフリカにちがいはないではないか、ということは成り立ちうるだろう
。しかしアフリカ的ということを段階として設定することは人類の原型的な内容を掘りさげることが永続課題だとすることと同義である。現在のアフリカの課題について、固有アフリカのエリートたちはもちろん、アフリカに植民地をもっていた西欧先進国の外在(文明)史的指導者も内在(精神)史的なイデオロギストも、また固有アフリカの、いまでも採取食糧でしのいでいるいちばん未明の住民たちも、文明の進歩性と遅延性との課題に単純化しているだけで、まったく問題にならない。かれらは一様に近代主義を基準として、進歩性とそれに追従しながらも及ばないもの、知識と無智、発達と未発達、停滞して箸にも棒にもかからない地域と西欧的な開明観との対立の複雑骨折の様相として解釈し、処方箋を求めたりしている。そんな史観もそれに基く政策や利害の追及も意味をなさない。わたしたちは現在の歴史についてのすべての考察をアフリカ的な段階を原型として組み直すことが必須とおもえる。アフリカ的な段階のあらゆる初原的な課題を、すべて内在(精神)史化することが、同時に未来的(現在以後の)課題を外在(文明)史として組み上げることと同義を成す方法こそがこれに耐えうるとおもえる。
 固有アフリカの現在のさまざまな問題は、南北アメリカの固有史にもあるし、日本列島の原型的な固有性をのこしているアイヌや琉球や本土の固有の古典史にも存在している。

     (P128−P133)



備考 註1.ヘーゲル・マルクスの方法について論じた頃からの微妙な展開?あるいは、本格的な改変?
註2.過去へ遡及することがすなわち未来を追及することと同義だ、ということが初めて出てきたのはどこだったっけ?




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