Part 5
関連事項@



項目ID 項目 論名
方法 「胎内記憶と臨死体験」
未知の段階へ 「アフリカ的」段階における<死>
文明と自然 三木成夫の方法と前古代言語論



             (P144−P146)






項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
方法 ほうほう 胎内記憶と臨死体験 インタヴュー 新・死の位相学 春秋社 1997.8.30


検索キー2 検索キー3 検索キー4
文明の発達
項目抜粋
1
@ 【三木成夫に触れて】
 それができなくなって、動物みたいにじぶんが行動して食べ物を取ったり、人間なら耕して作ったりしなければならない。生まれる生まれないということも、樹木みたいに、葉緑素の働きで育って実がなるというふうにはならないで、そういう宇宙条件を人間はみんな体内にもってきてしまったという言い方をしていますね。人間には植物神経と動物神経があるし、内臓は心の働きというか、そういうことに関与するんだと言われて、ぼくもたいへんびっくりしましたし、納得しました。
 つまりエコロジストの言うことはこういうことを言おうとしているんだ。
人間も植物も連続したつながり、関連がある。それぞれ別のものだという考え方をしないで、そういう考え方をしてしていかなければいけないと言われると、言われたとおりで、びっくりしました。

A ええ。
こういう掘り下げ方と、文明の未来を考察する考え方とはおなじにならなければいけないんじゃないか。そういう考え方がとうぜんそこから出てくるとおもいますが、これはびっくりしたところですね。
               (P109)



項目抜粋
2
B ・・・・・・・北枕とかそんなものは因習だといえば因習だということになるんでしょうが、それに根拠はないのかといったら、わからないことですね。それは一週間に根拠があるというのとおなじです。
 それから、このごろ感じるんですが、一世紀というのがあって、百年ごとに変わるでしょう。世紀末とよくいう。世紀末もへちまもないんじゃないかとおもうんですが、なんとなくそういう感じがしますよね。もしかしたら百年というのも何か根拠があるのかもしれない。だから、因習とか、大昔から言われていることには意味があるのかもしれません。

 
人類は文明の発達する方向に向かっているというけれども、もしかするとそうじゃなくて、文明のように見えているものが、ほんとうは古代のほうにそれが潜在していて、だんだんはっきりしていきつつあると言えるのかもしれない。そのへんのところはわからないところです。これからわかっていくんでしょう。
               (P115−P116)


備考






項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
未知の段階へ みちのだんかいへ 「アフリカ的」段階における<死> インタヴュー 新・死の位相学 春秋社 1997.8.30


検索キー2 検索キー3 検索キー4
項目抜粋
1
@ いま言われたとおりで、だんだんじぶんの考えにまとまりがついてきて、かたちを取りつつあるということだとおもいます。そのひとつは、ヘーゲルが十九世紀の後半に、アフリカというのは旧世界で、世界史の問題になりえないと言っていた。そこが現在では世界の歴史のなかにちゃんと登場してきて、生々しい問題になってきています。ぼくが「アフリカ的」段階というばあい、もちろんアフリカ大陸という地域の固有問題もそのなかに入りますが、同時にその段階は世界的にある時期にどこの地域でもあったし、いまでもひきずっている地域もある。その意味では、普遍的に取り出せるんじゃないか。いまかんがえると迷信とおもわれようと、未開とおもわれようと、そういうことは問題にならない。とにかく人類史の原型的なあらゆるものが「アフリカ的」段階に含まれるということです。
 もうひとつは、そんなにはっきりと言えるのかということになってくるとすこぶる危なっかしいところはたくさんありますが、「アジア的」段階のつぎの段階として西欧古代的社会が出てきて、それがひとつの段階をひとりでになしていった。しかし、ヘーゲルやマルクスがかんがえた「西欧近代的」段階は地域的なものにすぎないとかんがえて、そのつぎの段階はどこへ行くかわからない。それは
未知の段階で、西欧近代もまたそこへ向かおうとしているし、日本のようにある面で西欧に追いついていった社会も、また何かに向かおうとしている。アジア的な世界の現在も何かに向かおうとしている。その段階はまだ未定であるとかんがえるべきではないか。
 
完全にそういうことを理論づけていくには、いまのぼくの考え方はまだ足りないとおもいますが、骨組みとしていえば、「アフリカ的」段階に人類の原型を設定すれば、世界の先進的な部分が西欧近代的なものを通過して、どこかへ向かおうとしているという考え方はとれないんじゃないか、それが視点を普遍化するというか、拡張していく要になるんじゃないか。ぼくはそういうふうにかんがえたいわけです。


A <死>の問題からいうと、「アフリカ的」段階における<死>は、アメリカ・インディアンを素材にしたフォレスト・カーターの『リトル・トリー』などでわかるように、死は一種の移り行きであって、「からだの心」は人間の肉体の死とともになくなってしまうが、「霊の心」は繰り返し生き延びると言っています。この小説でぼくがいちばん感銘を受けたのは、生から死へ移っていくときの描写なんです。おじいさんのときもそうですが、おじいさんの友だちが死ぬときも、死が来るのが予期できているし、またその死が来るのは、生から死へスーッとスムーズに移っていくことです。そういう感じ方や考え方がとてもよく出ています。死の問題でいえば、それは「アフリカ的」段階のたいへん原型的なものなのではないかとおもいます。
 日本でいうと、『古事記』でも『日本書紀』でもいいんですが、初期の神話ではそういう考え方がよく出ているんじゃないかとおもえます。死についての感じ方もそうですが、植物とか、動物とか、風の動きなどの自然現象にたいする考え方も、擬人的というか、人間の言葉がわかるとか、風の言葉がわかるというような感覚がスムーズにもてるような段階があって、それはアメリカ・インディアンの自然なものにたいする感じ方、死の予期の仕方と共通の意味をもつのではないか。それは「アフリカ的」段階の典型だとかんがえることができるんじゃないかとおもいます。とくに沖縄やアイヌにのこっている感じ方は、それにたいへん似ているものをもっているとおもいます。それは「アフリカ的」段階の特徴であるととらえていいんじゃないか。それが<死>ということと「アフリカ的」段階を設定したことの結びつきになるとおもいます。
               (P67−P69)



項目抜粋
2
B その「アフリカ的」段階は現在どうなっているかというと、アフリカはフランスをはじめ西欧の植民地だったところが多いんです。植民地から独立したところもあるし、独立していないところもあります。西欧はフランスをはじめ、そういう独立を援助して、資金援助もたくさんやっているわけです。しかし、その資金援助は、独立したアフリカの地域・国家の指導層であり、留学して西欧近代的教養をもっているエリート層のふところに入っていってしまう。一般のアフリカの民衆がたいへん楽になるとか、よくなるということよりも、指導層だけがうまく使ってしまう。もちろん近代的な西欧ふうの都市を造ってしまったり、建物を造ってしまったり、設備を造ったりしたところもありますが、一般の民衆はそんなに利益をこうむったり、よくなったとはいえない。そこで西欧でも、アフリカを援助するというのは底なしのバケツに水を入れるようなもので、無駄なんじゃないか、そういう反省が起こったり、困ったりしています。
 
これをどう理解するかといったら、「アフリカ的」段階の後進国が、先進国の方に移行していけば幸福になるとか、よくなるという考え方自体がダメなんじゃないかとかんがえるほうがいいんじゃないかとおもいます。ですから、アフリカには原型的なものは全部そろっていて、それをどうやって掘り下げ生かしたまま現在化していくか、という課題に取り組まなければ、アフリカ問題は現在でもこれからも解決しないんじゃないかとおもいます。それは文明史の未来をかんがえることとおなじ方法になっていなければダメなんじゃないか。そういう考え方がもとになって、「アフリカ的」段階という考え方が出てきたわけです。
 おおざっぱなことでいえば、われわれはだいたい奈良朝以降、もっといえば天皇制の古墳時代以降を日本の歴史とかんがえたり、日本人とかんがえたり、日本語とかんがえたりしているわけですが、それ以前、つまり縄文的な時代に日本列島に土着して分布していた人たちを旧日本人といえば、そこの問題に突っ込んでいかなければ、これからの問題はわからないんじゃないでしょうか。そういう問題意識を漠然ともっていたんですが、けっきょくそれを広げていけば、「アフリカ的」段階を設定することになるようにおもいます。そこの問題意識を広げていくことがたいへん重要な問題になってきます。沖縄の問題とか、アイヌの問題を、言葉を含めて、もう少し本格的にはっきり踏み込んでいかないと、これからどうなるのか、これからどこへ行くのか、ということはなかなか言えないんじゃないかとおもうようになっています。


C 半世紀も前でしたら、これからどうなるのかというときに、日本はアジアの国のなかで先進国で、西欧に追いつき追い越して、西欧現代なみになっていくことが課題だし、西欧文化についてそういう取り入れ方をしていくことが、さしあたっての課題である、とじぶんも含めて、疑いをもたないでそうおもっていました。
 しかし、ぼくは途中で疑いをもちだして、そうではないんじゃないかとおもうようになりました。西欧もどこか未知のところへ行こうとしているし、日本も、ほかのアジアの国も、それなりに未知のところへ、あるいは未知の段階へ行こうとしている。そうかんがえたほうがいいんじゃないかとおもえてきたんです。実感的にいえば、たとえば
マリノウスキーがパプアニューギニアならパプアニューギニア、つまりオセアニア地区にフィールドワークして、死生観を含めていろいろな民俗を追求しているのを、疑いもなく「そうか、なるほど」ということで読んでいましたが、あるときからちょっと疑いだしてきた。いくらがんばっても日本あるいは日本人、あるいは日本語、日本の風俗、習慣というのは、マリノウスキーから何割かはわかりませんが、ある部分はどうしてもフィールドワークされている側に立って内側からかんがえないとほんとうはわからないのではないのか。マリノウスキーを疑いなく読んでいた時期から、そうではなくて途中から疑わしくなってきたわけです。
 じぶんはたしかに西欧近代のものを模倣して身につけようと努力してきたし、そういうふうにやってきたから、そういうのは、「わかる、わかる」というように、あとから追いかけていくみたいなところにいたのが、ある時期からじぶんのなかにある何かが、どうもこれはフィールドワークされている側に属するんじゃないか。そういう実感が出てきて、それは「アフリカ的」段階というのを設定したくなったことと、実感的に関連するわけです。

・・・(中略)・・・・たとえば現在の西欧の哲学者でも、つまりフーコーを読んでも、そのつぎの世代のデリダとかドゥルーズという人のものを読んでも、疑いもなくこの人たちはじぶんよりも考え方が先へ進んでいて、しかもかなり緻密だ。そんなにたくさん隔たってはいないけれども、先へ行っている。そういうふうにだけ読んでいたんですが、ある時から、このやり方ではいくら追いかけてもダメだと実感的におもえるようになったんです。そうすると、かえってそれがある部分で欠陥にみえてきたわけです。
 この人たちはすでにどこかというのはよくわからないが、どこかに踏み込もうとしている。そうすると、そういう比喩を使えば、あることについて、〇.一の桁まで十分正確で、それ以上やることは無駄で間違いとおもえるのに、〇.〇〇一まで計算している。それは緻密さが増していいんだと解釈すれば善意な解釈になりますが、べつな意味ではここまで計算したらかえって値を間違えてしまう。それが積み重なったら、完全に逆の誤差が出てきてしまう。そうおもえてきて、かならずしもこれはじぶんたちよりも緻密な考え方で先を行っているとはおもえない。そのように実感的になってきたんです。
 
こういうかたちで、いくら〇.一から〇.〇〇一までというようにじぶんが追いかけていっても、それは意味がないんじゃないか。それをやると西欧現代化するかもしれない。あるいは、じぶんが代々もってきた言葉とか、風俗、習慣、種族的な特徴というものを全部なしにして架空のものとしていけば、それでいいんですが、そうじゃないかぎりは、やはりこういう追いかけ方は無駄なんじゃないか。むしろじぶんの場所から、どこかわからないが未知の段階をめざす。そのめざすのは西欧もおなじで、西欧現代的なところから未知の段階をめざしているのであって、それは西欧を通ってめざすということではないんじゃないか。そういう考え方になっていったんです。
               (P71−P74)


D それは矛盾でしようがないんですが、いまエコロジカルな考え方があるでしょう。そればかり言ってしまうとダメなんだみたいなことをいうべきだが、おまえだってときどき自然にまみれてじぶんを解放したい気持が実感としてあるだろうと言われると、ほんとうにあるわけです。そういうことの矛盾は、いつたいどういうふうに解けばいいのか。
 エコロジカルなことばかり言っているのは間違いであるとして、それでは文明史的な進歩だけを言えばいいのか。文明史的なというのは、これから西欧なみに発達していって、逆戻りはしないということだけを言えばいいのかというと、たしかにそれを抜きにしたらダメだとはおもうけれども、おまえだって自然まみれになったり、素朴まみれになるのは、何かが解放される感じがあるからじゃないのかと言われると、そのとおりだとおもうわけです。
その矛盾は何なのかということを、それなりにかかえ込んできたんですが、「アフリカ的」段階ということで、原型が全部ここにあるんだという設定の仕方がもしできれば、それは矛盾としてじゃなく、あるいは対立としてじゃなくて、エコロジカルなことを掘り下げていくことと、文明史的な未来を解明していくということは、おなじ方法なんだという考え方ができるんじゃないか。そういうふうになったほうが、じぶんなりのある矛盾が解決できるんじゃないかという感じも実感としてはあるんです。
               (P75−P76)


備考





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
文明と自然 みきしげおとまるくす 三木成夫の方法と前古代言語論 インタヴュー 新・死の位相学 春秋社 1997.8.30 新・死の位相学
検索キー2 検索キー3 検索キー4
三木成夫とマルクス 三木成夫とマルクスへの補い 先住の人と後住の人が共存していた時代
項目抜粋
1
@ 三木さんの考え方というのは、やはり本質的な意味でのナチュラリストなんだとおもいます。生物はナチュラルな宇宙から、だんだん逸脱していって、じぶん独自のリズムを築こうとして、やってきた果てが人間ということになります。そうすると宇宙のリズムに背くというかたちでしか人間は生きていない、ということです。けっきょく、天然自然に背くのはダメなんだ、というナチュラリストの観点に収斂するのが、三木さんの考え方だとおもいます。人間はそれを底に沈めるようにして、宇宙のリズムを崩してしまう、これはダメなんだというのです。この考え方に欠落しているのは、文明史だとおもうんです。三木さんの考えをつきつめれば、文明が高度化するのは、自然に反する行いの果てなんだということになります。三木さんの考えのいちばんの弱点は、ここなんじゃないかとおもいます。補足すべきは、ここではないか。ぼくは文明に所定の意味を与えるべきだとおもんです。ぼくはエコロジストと喧嘩ばかりしているんですが、いつでもこの点でぎろんするんです。文明史は自然史の延長としてあるんだ、とおもうんです。文明が自然に反する、とはかんがえないんです。
               (P177−P177)


A つまりマルクスの労働価値説を経済に限定しないで普遍化すると、自然に何か働きかけをおこなったときには対象になった自然の部分が価値化される、というのがマルクスの基本的な考え方です。そうすると価値という概念が生きてきます。つまり文明とは、人間が外界に何らかの手を加えた果てのものだとかんがえますと、マルクスの価値論は文明論に還元できることになります。こういう同一化の概念が、三木さんにはないんです。文明はよくないんだ、ということになってしまう気がします。いまのエコロジストは、そういうことばっかり云っています。・・・・(中略)・・・・・・・文明とは、マルクス流にいえば、価値化を積み重ねた末に出来たわけで、自然に手を加えたうえの、人工的な自然なんです。つまり文明とは自然史の延長線上にある、手を加えられた自然史と理解することができます。こうしますと、三木さんやマルクスの発想に文明を取り入れることができます。文明はかならずしも自然のリズムと対立するわけではない、これも自然史の一段階で、これを逆さまにもできませんし、価値ありませんよ,とも云えないんじゃないかとおもうんです。こうしますと、三木さんの考えを補えるとおもうんです。かならずしも文明と自然とが対立することにはなりません。根底は自然の歴史で、それにどれだけ手を加えたか、自意識によりどれだけ加工された自然か、ということです。
               (P179−P180)



項目抜粋
2
B ぼくは、べつの機会に少し書いたことがあるんですけど、マルクスの価値論にも補いを加えてみたいんです。つまり、マルクス流に考えを普遍化していくと、文明化イコール価値化、すなわち対象にむかった人間の行為や、自然にたいする人間の行為は精神的だろうと物質的だろうと、行為を行ったらさいご、対象はすべて価値化され、商品になったり、人工的な建物になったりするわけです。しかし、この価値化という考えは、ちょっと息苦しいなあとおもうわけです。自然も何もかも価値になっちゃう。全て人工物になっちゃう。マルクスを徹底していくと、そうならざるをえないんです。マルクスの経済学はそういうふうにできあがっていますし、経済学というのはもともとそういうものなんだ、と云われればそれまでです。しかしぼくは、価値という概念をもう少し内在化してみてもいいんじゃないかと、おもうわけです。わかりやすくいえば、文学とか美術は元をただせば、じぶんの精神にじぶんが手を加えて、小説やタブローを表現するという価値化なんですね。マルクスの思想にこの精神の価値化もつけ加えられれば、いいなあとおもうわけです。息苦しくなくいえば、娯楽とか芸能とか遊びとかも、手を加えた価値化に包括したらいい、とぼくはおもいます。そうすれば価値論も息苦しくなくなるのではないか、ということです。
               (P181)



C 言語論にじつはこの考え方をもっていくことができるとおもうんです。言語は、自己表出と指示表出というふたつの表出からできています。そして、潜在化した指示表出を通った自己表出が言語の価値です。それはまさに、マルクスが交換価値が要するに価値なのだと云っているのとおなじことで、自己表出が価値なんです。指示表出というものは潜在化されていて表に出ず、自己表出されて表に出たものが言語の価値になります。だから、文学作品の価値も文体となったところにある、といえます。ぼくの考え方の基本はここにあり、この点でソシュールとは大変ちがっています。ソシュールは、喋言ることが目に見えないことだとかんがえています。だから、耳から入ってくる聴覚映像と聴覚概念、つまり聴覚映像の系列と概念の系列が何らかの契機によって結びあわさることによって言語になる、というのがソシュールの理解です。かれはとても根本的なことをかんがえているわけです。しかしぼくは、文学に必要な言語領域だけでいいとおもったものですから、文字に書かれた以後の文学論になりうる言語論を展開したわけです。そこからあとのことで三木さんから受けた影響が物をいうとかんがえました。自己表出と指示表出という考えはマルクスに負っていますが、ところがおなじ考え方を三木さんもしているんです。

 三木さんの書かれたものを読んでいるうちに、この人の考え方とぼくの言語論とを対応させることができるんじゃないか、と気がつきました。

 ぼくがはっとしたのはそこのところで、それならばぼくの云う言語における自己表出というものは、内臓器官的なものを主体とした動きに対応するのではないか、とおもったのです。対象を感覚が受けとめたり見たりすることがかならずしもなくても、内臓器官の動きというものはありうるし、人間の精神の動きとか表現というものもありえます。つまり植物器官を主体とした表現を自己表出といえばいいのではないか、そうかんがえました。では指示表出は何かということになりますが、指示表現というのは、目で見たり耳で聞いたりしたことから出てくる表現ですよね。たとえばぼくが誰かの顔を見て、あいつの人相は悪いと表現したとすれば、それは指示表出です。そしてこれを三木さんの考えと結びつけていえば、指示表現は感覚器官を動かしている表現である、ということになります。
 そういうふうにかんがえていきますと、じぶんはこれまで文字で表現された以降の言語論ばかりしてきたけれども、じぶんにも、文字で表現される以前の言葉だとか、赤子のような言葉がないときの表現というものまでも含めた言語論ができるのではないか、べつにソシュールの言語論の向うを張る気はありませんし、ソシュールのような大才はもっていないんですから、向うを張ろうにも張れませんが、
じぶんの言語論の体系を文字以前のところまで拡張することができるんじゃないか、と気がついたわけです。そのヒントになったのがまさしく三木さんの方法でした。三木さんからは最大の恩恵を受けたという感じがします。
               (P183−P185)


D こういうふうにじぶんの言語論の体系を拡張しようしてかんがえていったとき、真っ先に問題にしたのは、大昔の日本語です。現在、日本語といわれているものは、最大限さかのぼっても奈良朝以降の言葉です。ところが日本人はもっとはるか昔にも日本語を使っていました。ところがその頃どういう言葉を使っていたかというのはわからないんです。でも、それを知る方法は
ふたつあります。ひとつは日本語と類似した言語だけれども、まだ未発達な社会、ぼくの言葉でいうと、「アフリカ的」段階にある地域で話されている言語で、日本語の祖先と似ていると思われるような言語を探っていくやり方です。もうひとつは、個人のばあいで、母親のお腹にある時期の後半から一歳未満までの人間の言葉というのを突きつめていくやり方です。このふたつのやり方は、三木さんの言葉でいえば、種族の発展と固体の発展ということになりますが、このふたつのやり方で接近するほかありません。

 そのばあいに参考になったのは、
折口信夫っていう人で、この人は三木さんとおなじ方法を使っていて、この人が発見した重要なことがあるんです。奈良朝以前の言葉はどうなっていたのだろうとおもい、言語学者や国語学者や国文学者が探求してわかったことがいくつかあります。わかっていることの一部を申しあげますと、接頭語とか接尾語といった表現がじつは奈良朝以前につくられた言葉、いちばん古い言葉だということです。接頭語とか接尾語というものは、もとを正せば、南方のオーストネシア語にあります。本来は接尾詞なのだが、それが分離して助詞のようになってしまっている、あるいは本来は接頭詞だが、それが分離して修飾語のようになってしまっている、そういう言葉がいくつかあるんです。


 これ【 註.折口信夫の琉球語にみられる逆語序 】は、先ほどの南方語の接頭語や接尾語の問題よりもずっと重要な問題です。そこでぼくはそれを一生懸命追尾しました。そこでわかったのは、奈良朝以前には逆序の時代があった、それが奈良朝以降の日本語では正序になったということです。そうなりますと、逆語序から正語序に移っていくところの
中間の均衡点の云い方があるはずだ、とかんがえられるでしょう。時代的にかつ言語的にか、わからないけれども、その均衡点に達し、その均衡点を通過した後、正序に移ったとかんがえざるをえません。

 ぼくがそうかんがえるようになったもとには、折口さんの示唆があったのはもちろんですけれども、もうひとつには
賀茂真淵がありました。真淵のやった仕事のひとつは『冠辞考』で、これはいまでいう枕詞の研究ですが、真淵のやったことのなかでもうひとつ重要なことは、歌の始めは何だったかということを確定したことなんです。それまでは歌の始めは、スサノオノ命が八俣の大蛇を退治して、クシナダヒメと結婚するとき、

   八雲立つ  出雲八重垣  妻ごみに  八重垣作る  その八重垣を

とうたったのが歌の始めだと『古事記』のなかに書いてあります。そのため、それまでの人はことごとく、それが歌の始めなんだとおもっていました。しかし、言葉の言種【ルビ いぐさ】からいってもリズムからいっても、これが始めだとは云えません。そうは云えないということをはじめて確定したのが真淵なんです。それを折口さんが追尾した。それではどれが歌の始めなのだろうかということになりますが、折口さんは
片歌というのが日本の歌の始めなのだと云っています。


 真淵や折口さんのこういう考えをぼくは追尾し、何が歌の始めなのだろうかとかんがえたんです。『古事記』のなかで神武天皇が大和の三輪山のふもとを歩いていて、向うから歩いてきた七人の女の子に出会う場面があります。オホクメノ神という側近が天皇にどの女の子がいいですかと聞いたら、いちばん先に立っている少女がいいというので、オホクメノ神がそれでは私が交渉してきましょうといって、その女の子のところへ行きます。すると、その女の子は、オホクメノ神の入墨をした鋭い目を見て、

   あめつつ  ちどりましとと  など黥ける利目

とうたいます。あま鳥や、つつや、千鳥や、しととのように、どうして裂けたような鋭い目をしているのですか、と聞くんですね。するとオホクメノ神は、

   媛女に  直に逢はむと  我が黥ける利目

と答えます。おまえをよく見ようとおもったので、こんなに裂けてしまったのだと云うわけです。ここには、片方が五七七ないし四七七で尋ねると、もう片方がやっぱり五七七ないし四七七でで答えるという形ができています。
つまり問と答がおなじ構造をもっているわけで、これが歌の始めだと、ぼくはかんがえているんです。
               (P186−P191)


E ・・・・・・・・・・・この一行目では春日【ルビ かすが】という地名に春日【ルビ はるひ】という言葉がついているんです。だから「春日の春日」【ルビ はるひのかすが】になっています。最初の「春日の」が枕詞です。これが枕詞の原始的なあり方だとおもうんです。となりますと、もしも日本国に逆語序の時代があって、その後に並立の時代が、それから奈良朝以降、正語序の時代になったんだとすると、その中間の並立の時代に枕詞が並立していたとかんがえるのが妥当なのじゃないでしょうか。
 それでは、並立の時代とは具体的にどういう社会だったんでしょうか。並立の時代の前には、旧日本人という原住民が住んでいました。しかし並立の時代になると、新たに渡来してきた人々と旧日本人とが並立して混在するようになりました。そしてそれからさらに後の時代になると、新しい日本人の方が大部分になっていくんです。そして枕詞でおなじ言葉をふたつ並べていた時代というのは、逆語序の時代から正語序の時代に移りかわっていく中間の均衡点だったのだとおもうんです。

 もうひとつ、『古事記』のなかでヤマトタケルノ命が東国に遠征に行ったときの例をあげてみましょう。ヤマトタケルノ命をのせた船が三浦半島の沖を走っているとき、嵐になります。その嵐を鎮めるためにオトタチバナヒメが海の上に三種類の畳を八枚ずつ敷き、その上に飛びおりて死にます。彼女の犠牲のおかげで波が鎮まって、ヤマトタケルノ命は無事に陸に着くわけですが、オトタチバナヒメが海に飛びこむ前にうたったとされる歌があります。

   さねさし  相模の小野に  燃ゆる火の  炎中に立ちて  問いし君はも

 相模の国に行ったとき、野原のなかでまわりに火をつけられて立往生したときにも、あなたは私の安否を尋ねてくださった、という意味ですが、この歌のはじめに「さねさし」という枕詞があります。この「さねさし」はぼくの考えではアイヌ語に由来し、「長い岬」を意味しています。先住民のアイヌ人(あるいはエゾ人)のあいだでは「相模」は「さねさし」と云われていたんです。ところが後住の人たちが入ってくると、「さねさし」は「相模」と呼ばれるようになりました。
しかし、もしもこの後住の人たちがアイヌの人たちを北海道の果てまで追い払ってしまっていたら、「さねさし」という言葉が残ったはずはありません。ですから「さねさし」と「相模」というふたつの言葉が並立しているということは、先住の人と後住の人がちがう言葉を使いながら、おなじ地域に共存していたことになります。そうなると、「さねさし相模」は、「真蘇我よ蘇我の」や「春日の春日」とおなじく、おなじ地名を重ねているわけです。ただし、「さねさし」の方はアイヌ語で、「相模」の方は新しい日本語です。要するに、先住の人と後住の人が共存していた時代、奈良朝以前の日本語と奈良朝以後の日本語が並立していた時代があったんです。そしてそれを象徴しているのが「さねさし相模」という枕詞だとおもうんです。
 そのようにかんがえていきますと、奈良朝以前の日本語と奈良朝以後の日本語がどの点でちがうのか、またどの点で共通しているのかということが突きとめられるのではないか、とおもうんです。そしてそれを突きとめるのに大きな助けとなるのが三木さんの方法であり、国文学では折口さんの方法なんです。
つまり原型があり、その原型を囲む条件が複雑に変わっていくことによって、現在の形になっていったとかんがえなければ、この問題は理解できないでしょう。
               (P193−P195)
 ・・・・・・
このように枕詞は逆語的な枕詞から、同語的な枕詞へ、それから枕詞が上にくる正語的な枕詞へと変遷していきました。
               (P196)


F ・・・・・・・・・・・
しかし日本語と全面的にくらべられる言語はじつはどこにもないんです。ところが日本語は旧日本語と新日本語がいっしょになってできたものだとかんがえれば、問題はかなり突きとめられるのではないかとおもうわけです。
 そのばあいには、どうしても
文字なき世界の言葉までさかのぼっていかなければならないでしょう。それはたとえば赤ん坊や胎児の「あばばばば」というような文節のない言葉ですが、そんな言葉でも母親には通用するのです。そういう言葉は一歳未満までありますよね。それを種族についていえば、種族語になる以前の言葉だといえるでしょう。
               (P199)


備考





inserted by FC2 system