Part 6
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<古代論>があるかないか <死>体験の意味















項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
<古代論>があるかないか こだいろんがあるかないか <死>体験の意味  インタヴュー 新・死の位相学 春秋社 1997.8.30 新・死の位相学


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項目抜粋
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@ <業>といえば前世の報いだとか、因果応報だとか、すぐ短絡して使われますけれども、本来的な仏教の<業>といったばあいとちがってしまうわけですね。どこがちがうのかといえば規模がちがってしまうんです。悪いことが起これば前世の報いだとか、いまその報いがきたという意味で<業>をとらえると規模が小さくなってしまう。仏教がとらえている<業>という問題は、かならずしも個々の人間的規模ではない。因果応報で<業>を解釈すると意味が削減されてしまい、その規模はどこへ行くのかという問題が残されるんですね。

 ―死後の世界が無くなったとおなじように矮小化してしまうわけですね。 【註 インタヴューアー】

 消えてしまいます。そこが仏教の本格的な問題だとおもいます。それをぼく流の言い方でいえば、<古代論>があるかないかというところにいきます。つまり逆にいえば、<古代論>がないために、因果応報、前世の報いというように置き直されてしまう。
 古代における<業>という概念は、一種の世界観で繋がっています。簡単にいえば、じぶんはどう生きるか、生まれる前は何であり、死んだ後はどうなるのか、また世界はどうなっているのかというさまざまな概念と繋がっていて、<業>という概念だけを切り離すことができないものなんですね。古代の概念を迷信などという言葉で退け、古代を捨てるという考え方は、<古代論>がないからでしょう。そうなってくると本格的な問題はやはり<古代論>をもっていなければ<現在>というものも見えてこない。
<現在>を、古代が発達する過程で迷信や何かを排除してきて成ったというように理解するのは、要するに<古代論>がないんだという言い方になるわけです。そうではなくて、古代が総合的にもっていた世界観性をどう理解するのか、それをもっていなければ全ての規模が小さくなってしまう。
 たとえば善悪ということにしても、仏教の宗派でそれぞれの理解の仕方はちがうでしょうけれど、善といったって、人間的なものの言い方の善とはちがうでしょうし、それも<業>などという世界観と結びついている。それを全部ひっくるめて、人間的な善悪式にいってしまうと、古代の信仰、倫理観、世界観という総合された思想を、すべて規模の小さいものにしてしまうということです。ですから、その規模で<現在>をとらえようとするためには<古代論>がなければならない。マルクス主義がどうしてダメなのかといえば、マルクス主義はモダンな一種の近代思想であって<古代論>がないからだとおもいます。ぼくはそこまでもってきてその問題をかんがえようとおもっています。
 <業>にしても前世の報いにしても、それなりの意識の変遷はあるのでしょうが、本格的なつかまえ方は、本来もっていた世界観の規模で総合的にやらなければならないんです。

 ―共同体の意識が薄れていくのとも重なってきます。日本という国の枠組み、政治機構的には濃密になっているが、心情的にはへだたって   いるということですね。 【註 インタヴューアー】

 黙っていれば共同体の意識はなくなっていくでしょう。混迷が深くなっても、それは不可避的にやむをえないのかもしれませんけれども、かつて共同体にあった平穏、平和、平安は何なのだということに還ってくるとおもいます。それは近代というものが通過したかたちでもう一度つかまえ直さなければならない問題です。
 それが大きな問題だというのは、世界のどこかの地域から展開してきた思想が、それなりの意味はあっても、だんだん相対的な意味しかもたなくなってきているからです。
つまり、<現在>の中心へ入っていくというものがなく、ただ漂っているという感じのものをどこでとらえ直していけばいいのかという課題と、古代における共同体の問題がどういうかたちで再現されればいいのかという課題とが関連して出てくるんですね。政治体制、社会体制というものもまたおなじで、古い意味のブロック経済、ブロック国家といまの欧州共同体などが当面しているブロック体制とはちがうものなんです。以前のブロックというのは、利害が一致したり、イデオロギーが似ているということでつくっていたけれども、いまの欧州共同体が当面しているのは、不可避的に共同体の体制をとらないと単一国家ではいけないとというふうになりつつある問題を含んでいるとおもいます。もちろん利害共同体の面ももってはいます。ですから、共同体の問題はさまざまな面でよみがえってくる不可避なものになってきつつあります。


A また先進的な社会というのは、農業にたいする考え方がそれこそモダンなんです。近代的なんです。都市にくらべたら、いくらか遅れて近代化されつつある地域だという考え方をしています。
 しかし本来的にいうと、農業や農村は、都会にくらべて、あるいは資本主義的な産業にくらべて、少し遅れてやってくる近代化の部分ではありません。太古の当初、農耕の村落共同体がつくられ、何事をなすのもいっしょにやり、公平に分けるひとつの共同体なんですね。けっきょく、本来的なものにどういうふうに返れるかが基本のような気がします。最初の農耕共同体というものにたいして、どうやって絶えず新陳代謝していくのかという問題ですね。つまり、産業のような、生産増大、労働の寄与率、賃金などの問題とはべつなわけです。
 しかし、先進的な資本主義国のホンネは、農村は社会が発達して高度になっていくとやや遅れて近代化していく場所である。そして究極的には自国に農村がなくても地球には農耕を主とする地域があるので、そこから食糧を買ってくればいい、とかんがえられているのではないでしょうか。食糧というのは早い話が世界の遅れた地域、農耕を立国としている地域で生産したものを買ってくればいい。それにたいして何かを売ればいいという考え方だとおもいます。
 ではその考え方は正当かどうかということになりますが、ぼくは
放置すればそうなるだろうとはおもいますけれども、農業は人間の食糧、生命の存在の新陳代謝のために有用であるところから発生しているのだから、農耕共同体の原型にたいして本来的なかたちを求めていかなければならないのではないでしょうか。だから放っておくのではなく、意識的にかんがえていくということです。
 
東洋の地域でいえば、原始時代から古代に移るところで、農耕共同体はできたとおもうのですが、そこの問題を根本的に考え直さなければならない。放っておくと先進的な国は食糧は全部、金銭であがなうというところへいきますね。どうしても<古代論>の欠如というところへ傾いていく。
 ある意味で
歴史の自然な経路といえますが、それは<古代論>がないんだということになります。
             (P213−P217)


項目抜粋
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B ここで父母、祖父母のことを思いあわせてみると、ぼくのところは浄土教だけれど、父や母の世代では、現世で苦でも死んだら浄土に行けるんだという信仰はもう薄れていました。しかし祖父母の代では、絶対にそうおもって信じていましたね。それは五十年前だからつい最近といってもいいんです。
 だから百年前は大部分の人たちがそういうことを信じていたんじゃないでしょうか。それがここ五十年のあいだに崩れ、これからも崩れていくでしょうけど、それでは浄土といっていたのはいったい何か、ということは本格的な意味で課題になるとおもいます。

 日本は世界的な意味での<現代>というものに本格的に入ったという気がします。そのときに近代のイメージの延長線で行っていいのかといえば、肯定的なイメージがどうしても出てこないとおもいます。やはり、不安や混乱が出てきます。それをどうしたらいいのか、そこの処理は現代の入り口の課題だとおもいます。実際取り組んでいて混乱しているのは、各国の現代ではなく世界の現代に首を突っ込んでいて、わからなくなっているというのが実情です。それは底流としては近代精神の延長でやっているためで、近代意識の延長線でまだ処理できる、いけるという錯覚をもっているからでしょう。事実、そこの問題で混乱しているし、停滞しているし、一種の陥没感が横溢してきています。
 そこで<古代論>がまた登場するということになるのですが、それはぼくにも今後の問題です。

             (P219−P220)


備考





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