Part 1
母型論

  学研 1995/11/07 発行



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母型論のモチーフ
母型論のモチーフ
母の形式 母型論
母の形式 母型論
母の形式 母型論
母の形式 母型論
母の形式 母型論












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母型論のモチーフ ぼけいろんのもちーふ
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項目抜粋
1

@ この本の試みが着手されるまえに、すくなくとも数個のモチーフが、わたしを錯綜させていた。それを箇条書きにしてみる。

(1) どうかんがえても奈良朝以後に、漢字を借りて表意的に、また表音的に文字にあらわされて古典語とか近代語とか呼ばれているいるものを日本語とかんがえると、日本語という枠組からはみだしてしまう表意や表音があるのではないか。それは『記』『紀』の神話や神名のなかに、また『万葉』や『おもろさうし』や『アイヌの神話』や日本列島の『地名』ののなかに、遺出物のように保管されている。そこで 文字表記がなされなかった以前まで遡行して、日本語とはなにかをかんがえる必要があるのではないか。

(2) このことと密に結びついているが、日本の民族性とかんがえている風俗、習慣、宗教、倫理、自然観 、それからわたしたちが顔を赤らめるような身体の表象としてあらわす心性や、美の感性なども、もっ と遡行すると複合したたくさんの種族の持ちものの融合とかんがえた方がいいのではないか。

(3) (1)(2)にどこかで加担するわけだが、明治の近代化以後から現在までナショナリズムとかインター・ナ ショナリズムとか、西洋を基準につかわれているオリエンタリズムといった概念や論議は、ほんとうは空虚で無意味なもので、さしあたってこういう概念を基にして流布されている論議、対立概念はすべて普遍性の方向にむかって解体されなくてはならないのではないか。

 わたしのなかには実感的にも知識的にも、すこしずつこういう問題意識が醸成されてきていた。

 もうひとつの欲求につなげるためにいうと、言葉と、原宗教的な観念の働きと、その総体的な環境ともいえる共同の幻想とを、別々にわけて考察した以前のじぶんの系列を、どこかでひとつに結びつけて考察したいとかんがえていた。どんな方法を具体的に展開したらいいのか皆目わからなかったが、いちばん安易な方法は、人間の個体の心身が成長してゆく過程と、人間の歴史的な幻想の共同性が展開していく過程のあいだに、ある種の対応を仮定することだ。わたしは何度も頭のなかで(だけだが)この遣り方を使って、じぶんなりに暗示をつくりだした。     (P6-P7)

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2

A おまえは何をしようとして、どこで行きどまっているかと問われたら、ひとつだけ言葉にできるほど了解していることがある。わたしがじぶんの認識の段階を、現在よりももっと開いていこうとしている文化と文明のさまざまな姿は、段階から上方への離脱が同時に下方への離脱と同一になっている方法でなくてはならないということだ。

 わたしがいまじぶんの認識の段階をアジア的な帯域に設定したと仮定する。するとわたしが西欧的な認識を得ようとすることは、同時にアフリカ的な認識を得ようとする方法と同一になっていなければならない。またわたしがじぶんの認識の段階を西欧的な帯域に設定しているとすれば、超現代的な世界認識へ向かう方法は、同時にアジア的な認識を獲得することと同じことを意味する方法でなくてはならない。どうしてその方法が獲得されうるのかは、じぶんの認識の段階からの離脱と解体の普遍性の感覚によって察知されるといっておくより仕方がない。わたしはじぶんが西欧的かアジア的かアフリカ的かについて選択的である論議の不毛さに飽き飽きしているし、現状で理解できる表面の共通性で、国際的という概念の範囲を定めている国際的と称する認識にも同調する気はまったくない。そこでわたしがやったのは、じぶんの好奇心の中心に安堵できる段階からの離脱と解体の普遍性の感覚を据え、孤独な手探りにも似た道をたどることだった。この本でたどりついている場所は、まだ入口近くの迷路のなかのような気がするが、すこしずつ確実に展望をひらきたいとおもっている。
  (P7-P8)

備考 註1.これを読む準備として、『柳田国男論』と『海・呼吸・古代形象』(三木成夫)を読んでおいた。




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母型論のモチーフ
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1


B

 柳田国男が「海上の道」を書いて、日本人はどこから来たかという課題に、じぶんの世界にたいする理念のイメージをこめて立ちむかったのは、生涯の経験知を叡智にまで凝縮した円熟期にはいってからだった。これは人類の種、土地、水陸と山岳、その複雑な交換の過程から産みだされる習俗の形態などを素材にして、世界観を凝縮したイメージにしてみせたものだ。これが実証的に正確か誤謬かなどと挙げつらっても、まったく無意味なことだ。それは学説ではなく、イメージでで造成された世界観だからだ。これが理解できなければ、柳田国男を理解したことにはならない。    (P8-P9)



C

 わたしもじぶんの自閉的な資質にふさわしいやり方で、いつかおなじような主題にとりついてみたいと空想してきた。しかし、言うにたりる経験知もないから、その集積からイメージをつくることはできそうもない。また踏んだ土地も、ただ点と線をつないでいるだけで、いわゆる土地勘にたよることもできない。知識もひろくない。いまのところ、じぶんの資質が話し言葉とぶつかった遠い日からの言葉の表出のもどかしい停滞感が、書き言葉の表出を介して、いくらか自由になったといえるだけだ。この内的体験を反復することで、わたしなりの課題のとば口に立ってこの本の試みをやった。いずれどこかへたどりつくにちがいない。  (P9)



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2
備考




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母の形式 母型論
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1


 【一】

@

 母の形式は子どもの運命を決めてしまう。この概念は存在するときは不在というもの、たぶん死にとても似たものだ。母の形式は種族、民族、文明の形式にまでひろげることができる。また子どもの運命は、生と死、生活の様式、地位、性格にまでひろげられ、また形式的な偶然、運命的な偶然の連関とも不関とみなせる。この決めにくい主題が成り立つ場所があるとすれば、ただひとつ、出生に前後する時期の母親と胎乳児とのかかわる場だとみなされる。もっとこまかくいえば、それは受胎八か月から出生後一年くらいのあいだといえよう。
    (P10)



A

 このあと出産となる。胎児にとってエラ呼吸的な母胎の環界から肺呼吸的な乳児の環界へとつぜん変わることを意味する。また約三十七度Cの環界から常温(十八〜二〇度C)の環界へと転換する。心のことでいえば胎内での母子の内コミュニケーションは外コミュニケーションに変る。内コミュニケーションとは、考想察知、超感覚、思い込み、早合点、誤解、妄想、作為体験などに開かれているかわりに、母と子だけに閉じられた交通の世界のことだ。母胎ののなかで羊水にかこまれ、母親から臍の緒をとおして栄養を補給される。いわば二重の密閉環境のなかで、生命維持の流れは母から子へじかにつながっている。外の環界の変化を感じて母親の感情が変化すると代謝に影響するため、母と子の内コミュニケーションは同体に変化する。母親が思い、感じたことはそのまま胎児にコミュニケートされ、胎児は母親とほとんどおなじ思いを感じた状態になる。これは完全な察知の状態にとてもよく似ている。これが胎乳児の無意識の核の特徴になるといっていい。ただ母から子への授受がスムーズにのびのびと流れるかどうかは、べつのことだしいえる。母の感情の流れは意識的にも無意識的にも、すべて無意識になるよう子に転写される。わたしたちはここで感情の流れゆくイメージを暗喩として浮かべているのだが、母から子への流れが渋滞し、揺動がはげしく拒否的だったりすれば、子は影響をそのまま受ける。影響の仕方は二極的で、一方では母の感情の流れと相似的に渋滞、揺動し、拒否的であったりと、そのまま転写される。だがこの拒否状態がすこし長い期間持続すれば、あるいはもう一方の極が子どもにあらわれる。ひとことでいえば無意識のうちに(もともと無意識しか存在しないのだが)母からの感情の流れを子が〈作り出し〉、流線を仮構することだ。後年になって人が病像として妄想や幻覚を作るのは、この母からの感情の流れを〈作り出す〉胎乳児の無意識の核の質によるものとかんがえられる。たとえば被害妄想では、加害者は〈作り出さ〉れた母の感情の流れの代理者だ。
    (P12-P13)



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2

B

 外コミュニケーションに転換したはじめのとき、母と子がどんな関係におかれるかは(母と子以外の関係は存在しないとみなしてよい)、出産したすぐあとの母子の病気その他偶然によってもちがうが、習俗のちがいによって左右される。たとえばひと昔まえの日本の習俗では、うぶ声がたしかめられたあと、出産した胎児は母親の傍らに寝かされて乳首を吸うことをおぼえ、すぐに授乳され、それからあと添寝のまま数日から数週のあいだ授乳がつづけられる。母親が出産のあと体調が回復して動きまわれるまでのあいだ、終日、母と子の添寝の授乳はつづくことになる。これは出産の習俗としては一方の極の典型になるほど重要なやり方だといっていい。巨大な〈母〉の像が子にとって形成されるからだ。たとえば思春期以後、家族の内部で子の暴力が許容されることがあるが(家庭内暴力)、これは日本の出産習俗でしか起こらないものだ。胎乳児にとっては理想的で甘美な無意識の核を作られるとき、これが病態にかわると独特の母親依存の分裂病像を作り出すからだ。外コミュニケーションに転じたばかりの胎乳児は、授乳のときの口腔による接触、乳首の手による触感、乳房のふくらみ、乳汁の味覚、匂いなどを世界環界のぜんぶとみなすことになる。この極端な母親依存と母親への親和は、出産の習俗として人類の一方の極を代表するといっていい。これとまったく反対の極に、ユダヤ=キリスト教的な習俗としてあった割礼や陰核切除の習俗がかんがえられる。またメラネシアには異性要素を排除する儀礼がある。
     (P13-P14)



備考




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1

C こういった無意識の核が形成される過程は母の行動としてみれば、つぎのいくつかの要素

 (1) 抱くこと。

 (2) 授乳。

 (3) 眠らせる。

 (4) 排便その他の世話からなる養育行為。

これくらいでできている。これは胎乳児の側からいえば、母親の行動を能動要素として対応する陰画のように、受動要素になるといっていい。またこの母親の行動を、心の物語として読もうとすれば、子の物語は、「対応」と「刷り込み」からなる転写されたおなじ物語とみることができよう。

 無意識の核を作る母親の行動要素は、前半の「抱くこと」と「授乳」は、父親との(夫婦の)性行為から得られる。また後半の「睡眠」と「養育行為」は、おなじように性的な相互行為の変形とみることができる。そして乳児であるか成人男性であるかの違いが、この変形を生みだす。母と胎乳児とのあいだの物語は、母と成人男性との性的物語と二重化されているといえよう。このそれぞれの要素の二重化は、心の物語としての母と胎乳児のあいだで交換される「複合」と「二律背反」の基になっている。

 (1) 抱きたくない。しかし乳児が泣くので抱く。

 (2) 授乳のゆとりがないが、授乳がなければ乳児は栄養をとりこめない。

 (3) 眠らせる安息感はないが、眠らせなければ乳児は充足しない。

 (4) 排便の世話をしたくない(汚い)が、世話をしなければ、乳児がゆったりくつろいだ気分にならない。

 この二重化はもっと複雑な対応を作ることができるはずで、すこしも一義的ではない。要素の否定の形をとれば、この二重化は屈折としてあらわすことができる。こういったことを介して、わたしたちは母と胎乳児のあいだの物語が、親和と分離、摂取と排出、安定と不安、睡眠と覚醒のような二項の対立を含み、それが安堵と不安、上昇感と下降感のような生命の流れ方に集約されてゆくように感じられる。

 性の生活をかんがえるとき胎乳児の性、幼児期の性、児童期の性と、思春期以後の性とはそれぞれ別の形式的な段階として想定することができる。それはすべて異なった形式のようにみえるが、ほんとうは内的な連関をもっている。そしてこのつながりのなかで、ある段階は習俗や社会の構成の変化によって消去されることもありうるとかんがえられる。
       (P15-P16)

項目抜粋
2
Dただその段階【註 出産】が過ぎたあとは、憤りや満足や苛立ちや抑鬱これらの複合は、母から子への「刷り込み」される過程としてみられる。それから約一年後には受容、拒否感、諦めとなって母と子に共通に写しだされる。この母と子の物語の「写し」「刷り込み」のうち、いちばんわかりにくく、また重要なのは、複合や二律背反の「写し」や「刷り込み」、いいかえればヒトの関係にかかわるものだ。わたしたちヒトだけが精神分裂病になりうるとすれば、この複合や二律背反の「写し」や「刷り込み」に根源があるとみなすことができる。これは無意識の核の構造そのものとしては、知ることができないほど深くしまわれている。だが胎乳児期を過ぎたあと幼児期から母と子の関係として、はじめにあらわれてきて、さまざまな形をとるとみられる。
   (P17-P18)

備考





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母の形式 ははのけいしき 母型論
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1

 【二】

E「複合」や「二律背反」のほかに、ヒトだけと呼べるような母と子の障害があるとすれば、もうひとつの物語の「枠組」の障害、喪失、不定ともいうべきものがかんがえられる。こんな母親は胎乳児との関係で、はっきりした物語の輪郭を作れないとみられる。もちろん母親に先天的な素質があるばあいもあるにはちがいないが。もうひとつは生活経済的、生活心理や生活生理のうえで、すこしでも近親や夫と安定した関係をもつことができない時期が、ある期間持続するばあいだ。病気、夫婦の不和、経済生活のひっ迫、近親の不幸など、さまざまな環界の不安定な要素が枠組を作らせないことになる。 (P20)

F胎児がエラ呼吸的、内コミュニケーションによって母と親和し、栄養の内摂取の状態から出産によって急激に外コミュニケーションの関係に転換されるため、否定的な衝撃に充たされた場合を「死」と同型の構造をもつものとみなしてみる。(ロス『死ぬ瞬間』)。すると否定的な衝撃のすぐあとに、乳児の無意識には〈なぜじぶんはこんな不安な外界に生れてしまったのか〉という憤りや悔いの状態がやってくる。そしてつぎに〈もう一度母親と親和の接触を与えてくれたら、生れた状態を肯定してもいい〉との取りひきが起り、そのあとで〈生れたことのながい(一年にも及ぶ)抑鬱の状態〉を予感するが、やがて、「いたしかたない」諦めの受容がやってくる。もちろん母親には乳児の無意識のなかで、こんな複雑な心のうごきが形成され「NO」【ルビ ノオ】を緩和する過程などわからない。乳児自身もじぶんの無意識の核のところで形成される意味形成的なシニフィアンの存在などわかるはずがない。すると、この状態は誰にもわからないことになる。そして生涯の終りの死のとき、はじめてその存在を知ることになるかもしれない。
       (P21-P22)

G…・わたしたちが精神分裂病と呼ぶ病像は、どうしても無意識の核のところまでその理由づけを引き込んでゆくようにおもえる。だがこの核にはほんとうは意味形成の機能がなく(言語がなく)、かりにそれをあると仮定したばあいでも、ひとつの「かがやき」の状態も露出できなければ、誰にもその意味形成に類似したシニフィアンの存在をとらえることはできない。また無意識の核の存在が、関係としてではなくそれ自体として照しだされることは、とても重要な意味をもつものといえよう。
  (P22-P23)

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2
備考




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無意識の中間層
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1

 【三】

H わたしたちの区分では、幼児期が意識の領域にむかって拡がるのといっしょに無意識の中間層がつくられる。この中間層は言語的な発現と言語にならない前言語(ソシュール的にいえばシニフィアン)的な発現との葛藤を通じて形成されるものだとみなされよう。無意識がかかわっている行為は、正常心であっても異常であってもこの層のスクリーンで、はじめて写しだされる。ほんとうは無意識の核がかかわっているばあいも、無意識の表面層がかかわっているばあいもあるのに、中間層に葛藤や錯合があるかのように集約されるといってよい。   (P23)

I 幼児期(二〜五歳)

     (1) 言葉がつかわれることにより、心が身体を離れて遠隔化される。

     (2) 言葉をはじめてつかうことで得られる世界-知。

     (3) 言葉と言葉以前との複合から得られる無意識層の形成。

       (イ) 空想、恐れ、偏執。

       (ロ) 想像(不在のものの形象)

       (ハ) エディプス的な性のはじまり。恐れ、罪、良心、不安。

       (二) 遊びの発見。

 それほどの註釈はいらないとおもう。もしわたしたちが心の世界の異常について語ろうとすれば、その手がかりになるものがこの時期から意味としてつくられるようにみえる。だがほんとうは第一次的な形成は終っている。恐れや不安を表現すると、それは周囲からある普遍性として理解できるようになり、生活としての遊び(反復の意味づけ)も、この時期からはじまる。あるいは反復と常同の分離がはじまるといってもいい。

   児童期(五〜十歳)

     (1) 知識、技術、規範の習得。

     (2) 性の社会的(共同体)な抑圧とその反撥。



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2

     (3) 勤勉観念とその反撥としての怠惰。

     (4) 道具、技術の法則を習う。

     (5) 適・不適、劣等・優越がつくられる。

 ほんとうにはこの時期のことはよくわかっていない。教育、学習といった外部からの注入がはじまり、心の内在的な展開を攪拌するからだ。生物生理としての性の奔騰のはじまりに外部からは技術的なもの、規範的なもの、知識による抑圧が注入される。胎乳児期で形成されたものが、現実世界と衝突させられることにより、無意識の表面層がつくられるとかんがえられる。無意識の核と中間層の複合とでつくられたヒト的な性もまた、はじめて押しつぶされるような力としての社会(共同体)にぶつかる。その錯合と葛藤が無意識の表面層を形成する。わたしたちはこの児童期の区分の存在を、しっかりと根拠づけることができていない。比喩としていえば第二次的な割礼や陰核切除の儀礼にあたるものが、教育であるような気がしている。
    (P24-P25)



備考 註1.「ほんとうにはこの時期のことはよくわかっていない。」…・吉本さんは、どこかで以前、児童期のこどもは、ほんとうに学習・教育をうける必要があるのだろうか?といっていた。 【関連】『詩人・評論家・作家のための言語論』(P64-P66)




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無意識の核、中間層、表面層 三つの層の枠組
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1

J ライヒのいいたいようにいえば、出生するということ、いいえかえれば胎児から乳児への環界の切り換えは、それだけで女性の約90%、男性の70〜80%をマス神経症にかからせるほどの負荷を強いることになる。それにもかかわらず(ライヒほど極端にかんがえないとしても)、わたしたち人間のおおくは、ある瞬間とか日時とかをとってくると、どこかで無意識が病んでいる、荒廃しているとかいう実感を、内在的にか(思いこむか)、または他者からわかるほどの程度でか、自覚することも観察することもある。これにはたぶん例外はない。それにもかかわらずわたしたちは、女性の90%、男性の70〜80%に病像を申し立てず何とかやってきている。それは自他ともに症状が短時間あるいは短日時で、正常にもどるからではないかとわたしにはおもえる。それが「母型論」のモチーフでもあるわけだが、わたしたちの病像は、無意識の表面層のコミュニケーションの異常で済んでいたり、中間層のエディプス錯合の異変で解けてしまったり、また、ときとして無意識の核にまで追いつめられる経験に遭遇したりするが、この三つの層の枠組を区分し、その各層のどれかに症状を分離できるため、大過なければ何とか病的事態をこらえてゆくことができているのではないだろうか。そこで異常心理学や精神神経学の病態の考察はここで設定した何れかの層についての考察として位置づけることができる。そうしたいというモチーフを、わたしたちはここで語ったことになる。
     (P26)

項目抜粋
2



備考




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