Part 2
母型論

  学研 1995/11/07 発行



項目ID 項目 論名
前言語の状態 連環論
前言語の状態 連環論
10 前言語の状態 連環論
11 前言語の状態 連環論
12 前言語の状態 連環論
13 大洋のような母音の音声の波の拡がり 大洋論
14 大洋のイメージ 大洋論
15 大洋のイメージ 大洋論
16 大洋のイメージ 大洋論















項目ID 項目 よみがな 論名
前言語の状態 ぜんげんごのじょうたい 連環論
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前言語の状態とはほんとはなにか
項目抜粋
1

 【一】

@ わたしたちは生誕のあと一年未満の乳児の過程、この過程に異和がうまれることが、乳児の前言語の状態になにをもたらすか、そして前言語の状態とはほんとはなにかについて、もうすこし繊細にかんがえてみたい。そのために乳児が母親(代理)と栄養からもエロスからも接触するただ一個の器官といっていい口(腔)、口(腔)のなかの舌、その感覚(味覚)、歯それにつづくのど、食道管、気管などの機能の意味をはっきりと手に入れておきたい。それと一緒に口(腔)の周辺におかれた鼻(腔)の気道や嗅覚器としての機能もまたひとつの意味をもって、前言語の状態、その異常にかかわりをもつとみなすことにする。これらの知識について、すくなくともわたしはほとんど無能にひとしい。
     (P27)

A ● 乳児の口(腔)と舌、もっている感覚(味覚)がそのまま性についての感覚(エロス覚)と融けあう理由は発生的にどこにもとめるべきか。このばあい、じかに性の感覚の対象になっているのは、母親の乳首だといっていい。…・するとわたしたちは性器をその感覚によってかんがえれば、ふたつに大別される。ひとつは腎管から発達した内臓感覚に支配される内性器とその排出感覚、もうひとつは体壁の筋肉や神経の感覚(エロス覚)はこのふたつの感覚の融けあった排出の解放感と接触の快美感とからできている。
   (P28-P29)

● この性的な器官におこる過程は、本来の機能がそうであるように性的な過程だということは言うまでもない。だがこれを共時的におこる内性器による精子の受容(摂取)とその排出としてかんがえれば、広義の栄養の受容と食行為とみることができる。この受けとるものと与えるものが同時に成立するという特質は性的な行為の特質であるとともに、食的な行為の起源にある特質だということができよう。性的な行為と栄養を摂取することで生命を養う行為とが同致する行為とみなせるとしたら、ここでしかかんがえられない。また逆にここでは性は、生命の持続を分離した雌性と雄性のあいだで分担する行為として食と等価だという言い方も成り立つといっていい。また感覚的な言い方をすれば、ここでだけ味覚とエロス覚とは同調するともいえる。       (P30)


項目抜粋
2
● 乳児が母親から乳頭を介して栄養を摂取する行為は、そうしなければ生命が持続できない最小限度の本来的な栄養を摂取する過程だ。だが母親が環界のすべてであるような場で乳頭を口(腔)のなかに挿入し、乳汁を吸うという行為で、受けいれるものと与えるものとの行為の関係からみれば、内性器がもたらす内臓感覚と外性器に擬せられる母親の雄性の乳頭と、雌性である乳児の口(腔)と舌は、性行為とみなすことができよう。乳児はじかに乳汁を摂取する行為において、性の行為との同調をとげているのだ。
      (P30-P31)


備考




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前言語の状態 ぜんげんごのじょうたい 連環論
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幻嗅
項目抜粋
1

 【二】

B ● 母親と乳児の授乳行為を媒介にした直接の栄養摂取の起源の形と、それに二重化された性的な行為の感覚(エロス覚)との同致、その異常の実態に接近するために、わたしたちはなお、口(腔)の周辺の感覚についても、発生学の知識を与えられていなければならない。
     (P31)

● 正常なばあいにはヒトは自分で呼吸をつめて自死することはできないとされている。だが分裂病の自殺者のばあいにはそれがありうる。このことは呼吸作用本来の姿である植物的な内臓系の律動が意志的に切断できるほど体壁系の感覚支配が乖離変貌したことを意味している。この不可解な心の動きの支配は、いずれにせよ呼吸のような自然な植物性の酸素摂取の器官にたいして、感覚の筋肉支配が分離してきたところに根拠をおいている。
    (P32)

● 呼吸のような生命維持のための自然な植物的な酸素摂取には、代謝交換に対応する性的な自己交換の機能が対応している。そうかんがえたとき、わたしたちは分裂病における前言語的な異常行動にも微かに性感覚(エロス覚)の自傷作用の意味を表象できそうにおもわれる。分裂病者が死にいたるまで呼吸を停止できたり、自分の頸部を絞めて自死したり、金だらいのなかの水に呼吸門を浸して自殺できたりするのは、常人よりも意志が固く強大なため、我慢できてしまうからではない。意志は呼吸代謝の作用と自己矛盾がきわまったときには、撤退できるにもかかわらず、分裂病者は撤退の機構がこわれてしまっているため自死にいたることができるとおもわれる。それならば意志の統御と鼻(腔)や肺の呼吸作用とを結びつけているのは、帰するところは植物的な内臓系と動物的な感覚をつかさどる体壁系の筋肉や神経と、脳中枢への伝達などが、どこかで交叉できているからだといえそうだ。またこの機構に異変をきたせば統御の機構はくずれ、いったん指令された行為はその行為の根拠である生命代謝そのものと矛盾するまで続行されてしまう。そうかんがえてもよいことになる。
     (P33)

項目抜粋
2
● ここにもうひとつ肺の呼吸作用とかかわりのあることがあるとすれば、鼻(腔)の嗅覚の機構と関連するものだ。鼻(腔)に吸いこまれて気管へゆく空気の分流は、ひとつは鼻甲介で適温に温められて咽喉の方へゆくとともに上部の嗅覚部をとおる。わたしたちが日常的に体験しているところでいえば、呼吸器官のどこかに異常や病状があると、嗅覚はきわめて敏感になる。…・これを鼻(腔)をふくめた呼吸器官の自然な防御作用として理解すれば、空気代謝にさまたげのある異物の異臭を嗅ぎけ、これを避けるために呼吸器系の病弱さを保護しようと嗅覚がふつうより鋭敏になるとかんがえることができる。そして極端なばあいには幻嗅を誘発し、ほんとうは存在しない臭気を嗅ぎとることで過剰な防護をとげようとする。もちろん幻嗅はほかの幻覚とおなじように呼吸器官の保護という目的といつも結びついているとはおもえない。むしろ無目的で、恣意的で、偶然としか結びつかないとみなした方が、現象のあり方には適っている。この幻嗅の不定性、無目的な感覚的な浮遊性は、呼吸器官による酸素摂取リズムの在り方と対応するのだが、その対応のリズムは臭覚は酸素摂取による生命の代謝にたいして、対応する自己内のエロス覚の在り方に照応するとみるのが、いちばんいいようにおもえる。対象がなく自己内のエロス覚なので無目的で浮遊する幻嗅がもたらされる基盤がありうる。
   (P33-P34)
備考




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10 前言語の状態 ぜんげんごのじょうたい 連環論
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1

C 呼吸は延髄(鰓脳)の呼吸中枢に統御されているのと同時に、大脳の皮質にも統御されている。これが脊椎動物一般に通じるものだとすれば、この呼吸過程には嗅覚の過程が対応する。嗅覚はいわば呼吸に対応する体壁感覚の生命=性の起源(エロス覚)のいちばん本質的なかたちなのだといっていいとおもう。呼吸器官のどこかで定常状態が破られれば嗅覚はそれに照応して鋭敏になる。また吐く息と吸う息のリズムは乱れる。さらに嗅覚は吸う息の異変を幻嗅として創出することができるようになる。酸素摂取のための吐く息と吸う息のリズムがとりもなおさず嗅覚にとって性的なエロスの過程なのだ。

 呼吸を介してみるとすれば自然な植物性の内臓呼吸を意識的に切断したり追いつめたりすることで得られるヒトの個体の心身の行動は、どこまでも内臓呼吸を体壁の意識的な筋肉と神経につなげ、この意識的な呼吸の統御が優位になってゆく過程を、ヒト的な過程とみなすことになる。ヒトが呼吸作用を介してなにかを言おうとすれば、それは人為的に呼吸が統御されたもの【傍点 もの】を指すことになる。
     (P34-P35)


項目抜粋
2
備考




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11 前言語の状態 ぜんげんごのじょうたい 連環論
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項目抜粋
1

 【三】

D 頭蓋や脳の発生的な形は、ヒトの一般的な共通の基盤を語っている。もし前言語の状態や感覚系の一般的な性質についてかんがえるなら、頭蓋と脳の形は何らかの意味でヒトの一般的な性質に対応しているとみなすことができる。でもわたしたちがヒトの〈心〉とか〈精神〉と名づけてきたものの性質やその働きは脳の一般的な働きと同一ではない。何を〈心〉と呼び何を〈精神〉と名づけてきたかは、げんみつにいえばあいまいで、個体によっても個別の文化の基層のちがいでも、まちまちでありうる。ただ〈心〉とか〈精神〉とかと呼びならわしているものが、発生的にいえばいままでたどってきた植物性の器官と動物性の器官の運動や自然な律動のうえに、ヒトの特質といえる肥大した大脳の皮質の、いつも自己距離を微分化し、覚醒している運動のうえに三つ巴に綜合された建物だということは確かだといえよう。脳器質的な異常があれば〈心〉や〈精神〉の動きに何らかの異常をあらわすとはいえる。でも脳の器質的な異常や損傷は〈心〉とか〈精神〉とかの異常な損傷ではない。このことで〈心〉や〈精神〉の一部の異常にしかなりえないといっているのではない。脳の気質の異常や損傷と、それからじかに〈心〉や〈精神〉に及ぶ異常は、ほんとうは〈心〉や〈精神〉の異常とかんがえるものとは異質なもので、それを〈心〉や〈精神〉の異常という概念から除外したいという動機を、わたしたちはもっている。
    (P37-P38)

項目抜粋
2
E たとえば体温を定常状態(三六〜三七℃)にたもつために血液の流れは交感神経によって調節されている。いまヒトが何かショックをうける事態にぶつかったとすると、循環系の大元の心臓の動機は高鳴ってドキドキし、乱れたりする。ほんらい植物系の自然な支配にあるべき血流が、交感可能な神経の支配をもうけて、外界のショックに交感し、血流を早めたり、つまらせたり、乱れさせたりするからだ。〈心〉が恐れたり、驚いたり、喜んだりといった言い方で、わたしたちは〈心〉の感情を指したりするが、こういう言い方の状態に入りこんだとき、心臓の植物神経と交感神経(あるいは交感しうるようになった植物神経)の動きの状態から、〈心〉の動きの状態を指すところに跳出しているのだといえる。この微分的な跳び移り(転移)が〈心〉とか〈精神〉とかと呼んでいるものの発生の起源だといっていい。これは言葉で指すことも証明することもできないが、経験や実感、もっと無意識のところでは、誰でも〈心〉が高揚したり、驚いたり、恐怖したりしているあるひとつの感情状態と心臓の動悸の異変とが対応する状態を知っていることになる。では何によってこの状態を知っているのか。規範をつくることができないために、はっきりした輪郭をあたえられない前言語的な内コミュニケーションによって、この状態を指すよりほかないようにみえる。たとえば乳児は出生後一年ほど言葉をもたない、規範的な輪郭をつくれぬ状態とは、そんなに重要な問題ではない。輪郭をつくれぬために内コミュニケーションが植物神経や交感神経系をつかって内臓器質的につくり出され、それが微分的に〈心〉や〈精神〉を感情の動きとして跳出させる発生機の状態【ルビ ナッセント・ステート】をつくれることが重要なのだ。
    (P38-P39)

備考




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12 前言語の状態 ぜんげんごのじょうたい 連環論
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言語状態の発生
項目抜粋
1

F この状態には音声の側からも近づくことができる。ほんらいは自然な植物性のリズムによって営まれる呼吸の作用は、無意識でも意識してでもいいが、緊迫した外界の場面に出合ったとき、詰められたり、停止されたり、停滞したりすることで、リズムは乱される。その挙句には吐息のように吐き出されたり、勢いをもって呼びだされたり、憤りをもって断続させられたりする。この呼吸のリズムが植物性から動物性の感覚神経にゆだねられ、ある呼吸リズムの規範に近づいたとき、いいかえれば脳へいたる感覚神経系に共通した刺戟通路をつくることができるようになった長い世代の音声リズムに共通性を見出したとき、この呼吸リズムの強弱や断続や間のとり方の独自さと偶然とは、前言語的な共通の規範とでもいうべきものを手にいれたとかんがえることができる。ここまでくれば、呼吸作用は限りなく内コミュニケーションを呼吸または声として成り立たせていることがわかる。ただ、ここでもわたしたちはたくさんの問題につきあたる。呼吸作用の前言語的な状態は、わたしたちにヒトとしての普遍的な共通性を感じさせる。ヒトとしての器質や器官や神経の共通性が根柢のところにあるとかんがえて不都合を生じない。それにもかかわらず、前言語の状態から言語の状態にまで展開されたとき、どうして種族語群や民族語群にわかれてしまうのか。それは偶然なのか、それとも口(腔)や鼻(腔)や呼吸器官や神経管の成り立ちに固有の違いがあり、それが固有の風土や風俗によって機能を違えてしまうのだろうか。このことについて、さしあたり推量できそうなことを言ってみたい。

  第一に、前言語状態の共通性(内コミュニケーションの同一性)をヒトがげんみつにもつことができる  のは、言語をもたない(歴史的な)時期だけにかぎられる。この時期を想定できれば普遍的な了解反応 が成り立つとかんがえられる。

  第二に、種族語群や民族語群は交換可能であり、とくにある種族や民族が、ある特定のひとつの種 族語や民族語と一義的に結びついているとかんがえなくてもいい。べつな言い方をすれば、ある種族 またはある民族が、ある種族語群や民族語群を話すのは、ただの偶然だとかんがえていいのはヒトの (歴史の)幼児期までとみられる。


項目抜粋
2

  第三に、単語の母音や連続母音に意味がある種族語群や民族語群、たとえば旧日本語(たぶん縄 文語に由来する日本語の特質)やポリネシア語などでは、さきにのべたような心臓の交感神経系のリ ズムの変異に対応するような〈心〉におこる感情的な内コミュニケーションと、呼吸リズムを意志的に  変動させることによってえられる前言語的な音声によるコミュニケーションとは同致しやすく、しかもお なじように脳の言語優位の半球で桑納はこるとみなされる。(角田忠信『脳の発見』)。たとえば日本語 では母音の「あいうえお」のどれにも意味ある言葉をあてはめることができる。あ(吾)、い(井)、う(卯)、 え(江)、お(尾)のように、角田忠信はポリネシア語にもこの特徴があるが、そのほかに近隣の言語で  この特質をもつものはないと指摘している。さらに角田忠信は、こおろぎの鳴き声を例にあげて、日  本人とポリネシア語圏の諸族だけがこおろぎの鳴き声を脳の言語優位の半球で聴いていると確定している。

 これらいくつかの推量は、わたしたちに言語状態の発生が呼吸器系統、いいかえれば口(腔)、鼻(腔)、気管、肺の自然なリズムの分節化に由来するだけではなく、内臓、たとえば心臓や胃の交感神経系のリズムの異変からもたらされる〈心〉の内コミュニケーションの発生にも由来していることを語っているようにみえる。このふたつの発生は種族語群や民族語群で同致するか二重化して存在するか、いまのところふたつの系統に分けられるとみなされる。
       (P39-P40)

備考




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13 大洋のような母音の音声の波の拡がり たいよう 大洋論
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種族語や民族語の差異を超えた母音の共通性
項目抜粋
1

 【一】

@ 人間の音声が発せられて言葉にまで分節される器官の場所は、誰にもはっきりと指さすことができる。まず喉頭(腔)(のどぼとけ)で発せられた音声が、口(腔)と鼻(腔)をぬけたり、こもったり、渦巻いたり、ひらかれたり、つぼめられたりしながら分節された吐息になってゆく複雑で微妙な過程のあいだに、意味をもった種族語あるいは民族語の話し言葉に変わることだけは確かなことだ。なお発生学があきらかにしていることをつけくわえれば、この喉頭(腔)から口(腔)、鼻(腔)にかけての部分は、腸管(鰓腸)のいちばん前端の部分でありながら、複雑で微妙な運動と変形の感覚が高度に分化している。喉頭(腔)(のどぼとけ)から下の食道や胃や十二指腸の管には、すくなくとも鋭敏な体壁系の感覚はないから、熱い液体や個体を呑み込んでも喉頭(腔)から下ではそれほど熱さを感じない。反対に熱さに敏感なのは、のどぼとけから上の口(腔)の部分ということになる。
     (P42-P43)

A ここでひとつ言うべきことが出てくる。喉頭(腔)から口(腔)や鼻(腔)までの、言葉がそれぞれの種族語や民族語としてつくられる管腔の鋭敏な部分は、すこしずつの相違はあっても、ヒトの類として同じ構造をもっている。そうだとすればこの同じ構造に対応する言葉の同一性は、どこに由来するかかんがえられるべきだ。この同じ構造に対応できる言葉の素因子があげられるとすれば、母音がやっとそれに該当するといえる。母音はそれぞれの民族語や種族語で八母音を数えたり、三母音でまとめられたり、六母音だったりしている。だがこれはヒトの類に共通した言語の原音とみなされるもののヴァリエーションとかんがえてよいとおもえる。
    (P43)

B 発生学者三木成夫によれば顔の表情は、腸管の末端があたかも肛門の脱肛のようにめくれ返って腸管の内面を露出したものにあたっている。だから顔の表情は内臓管の視覚的な表象とみなしてよいものだ。内臓管の不全のため心がくもって不機嫌なときは、顔の表情も色調もくもって快活な情感のとききのようにはならない。それとおなじように喉頭(腔)(のどぼとけ)の発する音声と、それが分節化され話し言葉になった音声は内臓管(腸管)の聴覚的な表情といっていい。いいかえれば声は音声でできた顔の表情であり内臓管(腸管)がくぐもって心が萎えているときは、音声もくぐもって活き活きしないし、内臓管(腸管)が内攻していれば音声も外部に向かって押し出されずに内攻する。
   (P43-P44)

項目抜粋
2

C ● わたしたちはここで、種族語や民族語の差異を超えた母音の共通性を、ヒトの類としての共通性に対応するという仮定にたてば、その共通性は喉頭(腔)(のどぼとけ)から口(腔)や鼻(腔)にかけての洞腔の構造が同じということに帰着するとかんがえるのが、いちばん理に適っているようにおもえる。そしてこの仮定はもっとさきまでおしすすめることができる。

 ひとつは母音は波のように拡がって音声の大洋をつくるというイメージだ。そして母音が喉頭(腔)(のどぼとけ)から口(腔)や鼻(腔)までの微妙な変化する洞腔のあいだでつくられ、発音されたにもかかわらず、大洋の波のような拡がりのイメージを浮べられる理由は、この母音が内臓管(腸管)の前端に跳びだした心の表象というだけではなく、喉頭(腔)から口(腔)や鼻(腔)の筋肉や形態を微妙に変化させる体壁系の感覚によってつくりだされるものだからだ。いいかえれば母音の大洋の波がしらの拡がりは、内臓管の表情が跳びだした心の動きを縦糸に、また喉頭(腔)(のどぼとけ)や口(腔)や鼻(腔)の形を変化させる体壁系の筋肉の感覚の変化を横糸にして織物のように拡がるため、大洋の波のイメージになぞらえることができるのだ。

● わたしたちが展開してきた論議に沿って、それぞれの種族語や民族語における母音の共通性と末端でのヴァリエーションがどこから生れ、どんな根拠をもっているかをいってみれば、母親と胎乳児のあいだの関係の本質とその種族や民族の習俗のわずかな、あるいはおおきな差異のほかからは生みだされないことがわかる。いいかえれば母音とは胎乳児と母親の関わりの、種族や民族を超えた共通性と、習俗の差異のつみ重なりから生みだされた言語母型の音声にほかならないといえる。
    (P44-45)


備考




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14 大洋のイメージ たいよう 大洋論
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大洋のような母音の音声の波の拡がり
項目抜粋
1

 【二】

D ● 大洋のような母音の音声の波の拡がりは、それ自体で言語といえるだろうか?ごく普通にいえば、内臓(腸管)系の情感の跳びだしである心の動きと、喉頭(腔)(のどぼとけ)から口(腔)や鼻(腔)にかけての管状の洞腔の筋肉の動きの表出である感覚の変化から織りあげられた母音の波は、「概念」に折りたたまれた生命の糸と出合えないかぎり、言語と呼ぶことはできないはずだ。

 だがここで特異なことが起りうる。母音の波を言語に近い状態で感受する種族語群や民族語群と、この母音の波を、ただの感覚音や機械音に近い状態として感受する種族語群や民族語群とに分極されてしまうことだ。
   (P45)

● なぜ母音の波の響きを旧日本語族やポリネシア語族は左脳(言語脳)優位の側で聴き(このことは母音を言語に近い素因として聴いていることを意味する)、それ以外の語族では右脳(非言語的)優位の側で聴いているのか?角田忠信は、旧日本語族やポリネシア語族では、母音がそのまま意味のある言語になっているために、この母音の言語化の現象が起きたと推定している。わたしたちはこの推定をもうすこしおしすすめることができる。旧日本語族やポリネシア語族では、自然現象、たとえば山や河や風の音や水の流れの音などを、すべて擬人(神)化して固有名をつけて呼ぶことができる素因があり、また自然現象の音を言葉として聴く習俗のなかにあったことが、母音の波の拡がりを言語野に近いイメージにしている根拠のようにおもえてくる。…・そこでは自然現象は擬人化され、自然物の発する音は、言語になった音の世界だとみなされる。この特性は母音の波の拡がりが自然音とともに言語化された世界になぞらえられて左脳(言語脳)優位でうけとられる世界をつくる根拠だとみることができる。
    (P46-P47)

● わたしたちはここで何をしようとし、どんな問題に当面しているのだろうか。

 母音がそれだけでは意味をなさない音声の波であるように、母音の波の拡がりであるイメージの大洋は、意味をもたず、言語ともいえない世界なのだが、それにもかかわらず言語優位の脳で感受されるとともに意味(前意味といってもよい)をもってしまう特異な領野に当面している。
  (P47)

項目抜粋
2

● この領野はわたしたちに新しい地平を垣間見せているようにおもえる。

 【註 ソシュールやラカンのシニフィアンに触れて】

 わたしたちがここでかんがえてきた母音の波の拡がりである大洋のイメージは、ソシュールやその心理的な理念としてのラカンのシニフィアンにはなりえたとしても、おなじ意味はもっていない。ただシニフィアンという概念との対応をしめすことはできる。ひと口に「神」の代りに擬人化され、命名されたすべての「自然」の事象と現象が登場し、「父」の代りに胎乳児に反映された「母」の存在が登場するところに、わたしたちの大洋のイメージがある。そしてわたしたちが設定させたいのは前意味的な胚芽となりうる事象と現象のすべてを包括し、母音の波をそのなかに含み拡張され普遍化された大洋のイメージなのだ。そのために完全な授乳期における母と子の心の関係と感覚の関係が織り出される場所を段階化してみなくてはならない。
            (P47-P48)

備考




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15 大洋のイメージ たいよう 大洋論
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1

 【三】

E 素因子としていえば、すくなくともこれらの内臓系の感受性からくる心の触手と、筋肉の動きからくる感覚の触手とは大脳の皮質の連合野で交錯し、拡張された大洋のイメージを形づくっているとみなすことができよう。この大洋のイメージの拡がりは、すこしも意味を形成しないが、その代りに内臓(その中核をなす心臓)系の心のゆらぎの感受性のすべてと、感覚器官の感応のすべてを因子として包括していることになる。この拡張された大洋のイメージは、言語に集約されるような意味をもたず、それだけで意味を形成しはしない。だが、それにもかかわらず心の動きと感覚のあらゆる因子をむすんだ前意味的な胚芽の状態をもっている。そこでは顔の表情と舌や唇と手触りのすべてが触覚を形成し、この触覚の薄れの度合いが距離感として視覚と協働している。嗅覚の薄れの度合いもまた距離感や空間の拡がりの認知に、無意識のうちに加担していることになる。おなじことを心の動きについていえば、この内臓系の感受性の薄れの度合いは、記憶という作用に連合しているとみなせる。感受性の薄れの度合いの極限で、心の動きは記憶として認知されるといっていい。もうひとつ発生学者の考え方から汲みとるべきことがあるとすれば内臓感覚には自然な自動的なリズムがあり、これは心音や古希勇のような小さな周期のリズムから、日のリズムや季節のリズムまで多様なリズムを表出し、体壁系の感覚もまた睡眠と覚醒のようなリズムをもち、これは心の動きに規範を与えることに加担し、やがて大洋のイメージが意味形成にむかうことにつながってゆく。
       (P50-P51)

項目抜粋
2
備考




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16 大洋のイメージ たいよう 大洋論
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項目抜粋
1

 【四】

F●わたしたちは大洋のイメージの世界を、ソシュールのシニフィアンやラカンのシニフィアンの意味づけを拡大した「父」の世界のエディプス複合とはちがい、「母」と(胎)乳児との関係から発生した心と感覚の錯合した前意味的な芽ばえをもった世界とみなしてきた。そしてその世界では母音は言語的な皮質の優位で感受され、また「母」の像の根源にはあらゆる自然事象と現象を擬人化し、命名せずにはおられない発生機の習俗が関わってくるものとみなしてきた。それは母音そのものが言語として意味をもつという二重性の機能をもった個有言語の世界へと展開されてゆく。     (P51)

●だがそれ以前に、この大洋のイメージの世界はすくなくとも二つの段階を包括している。これをわかりやすくするために、(前)言語的な事例になぞらえてみれば、

 第一段階は、いわゆる乳児の「アワワ」言葉の段階だということができる。

 第二段階は、幼児言語の世界に対応している。

 乳児の「アワワ」言葉の世界は、

         (P52)

G

         (P56)



項目抜粋
2
備考





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