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ID 項目 ID 項目
417 生き神様信仰
434 味つけ
435  一般大衆という理念        
453  危うい社会状況での対処法      
         





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417 生き神様信仰 いきがみさましんこう @ 還相の視座から インタヴュー 還りのことば 雲母書房゙ 2006.5.1

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1
@ たしかにひとつはそういうことだとおもいます。天然自然信仰をかんがえれば、ずっと以前からそれを理論化するということがあったでしょうね。たとえば儒教の祖である孔子も、何千年も前にちゃんとそういうことを性格づけています。日本がそれとちょっと違うところは、細長い島ですから、中国のように他の要素は入らないで、インド以東の民衆がどういう種族的な出自なのかということだけをかんがえればよかった。ただし日本の場合は半分以上がオーストラリアと東南アジア、それにハワイまで含まれる、ポリネシア人あるいはオセアニア人といった特徴が入っているとおもいます。

 菅瀬 そういうのも、やはり「生き神様信仰」で括れるのでしょうか。

 それは違うとおもいます。生き神様信仰というのは日本でいえば天皇であり、琉球であれば琉球王朝であるといえるでしょう。生き神様信仰にいたるには必ず親子兄弟、叔父叔母で信仰を司るものと政治を司るものがいて、両方をくぐってということになる。ぼくはこれは海ではなく山の思想の影響ではないかとおもいます。だからやはりチベットなんかと似たり寄ったりのところがある。インド以東の山岳地帯、いまのネパールとかパキスタンの辺りまでを含めた東南アジアの奥地にある山岳地帯が、天皇の一族の出自ではないかとかんがえているんです。ここらには生き神様信仰が見られるんです。
                         (P37−P38)
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2
備考





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434 味つけ あじつけ 文学および家族をめぐって(後編) 鼎談 『すばる』1989年12月号 吉本隆明資料集165 猫々堂 2017.5.25

中上健次・三上治・吉本隆明

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おせち料理 受け継いでいる 微細な問題 イエということについてのイメージ
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中上 百八の鐘の一回分を家族でついて、そのあと神社へお参りして。恐らく家族で年越しそばか何か食って帰るんでしょうけどね、そういう自分の習慣、時代を超えても、この国この土地に生きる限りそれはもっているだろうという、そういう保守すべきことの習慣と同じようなものが、漁業に従事する人にも農業に従事する人にもあると思う。それがあるから、おれたちは農業に関しても、そのレベルまで来るとはたからは言えないよという考えを、吉本さんは持っている。この観点ってのはものすごくリベラルな観点だと思うんだね。保守するものみたいなことで言うと、おせち料理を吉本さん、お作りになるんですか?

吉本 いや、僕は作らない。そうなってくると、僕はまた出る幕じゃなくなって(笑)、うちのやつが……。

中上 指揮して?

吉本 病身なのにでしゃばってきて、やりますね(笑)。これはしかし、うちのやつは何なんだっていうと、それはやっぱり母親から教わってくるわけです。その味つけとか……。

中上 だけど普段は大体、半々というか、吉本さんも料理を作っていらっしゃいますね。

吉本 そうですね。パターンとしてやってはいるし……。

中上 買い物に行ったりするのを僕はしょっちゅう見かけるけれど、おせち料理だけは……。

吉本 そうそう。そうなってきたら、ちょっと
出る幕じゃないみたいなふうになってきて、やっぱり……。

中上 味つけが違うんですか。

吉本 違うんですよ。それから、
受け継いでいるんですよね、何はどうする……。そうすると、ちょっと口だしはできねえっていうことになります。どうしてかって、いろんなことがあって、微細な問題について口だしができないということと、もう一つはやっぱり、東京の味というか江戸の味というか知りませんが、そういうもんと、僕は母親が九州だから、それになじんでいる味つけとか、やり方とかね……。大体お雑煮の餅とか具が違うんですよ。

中上 どういうお雑煮ですか、吉本さんのところは。

吉本 僕がなじんでいるのは、もう初めっから具をみんな切り刻んで入れて、それからお餅も入れて、それでぐつぐつ煮て作るわけですね。ところが、江戸前ってのはそうじゃなくて……。

中上 すまし汁に……。

吉本 お餅は焼くんですよ。焼いて、あとからこそっと入れるわけですね。それから具もホウレン草ならホウレン草とかナルトはナルトとかってちゃんと作っておいて、それはこういうふうに(両手で包む仕草で)後からのせるわけです。

― 保守すべきものはちゃんと保守するという……。

吉本 あまりきっちりとはないんですけどね。理屈ないっちゃないわけです。いや、分かんないな。自分が主観的に
イエということについてのイメージがあって、イエの習慣に対してとても保守的になってしまうんです。保守的というのか習慣的というのか分かりませんけど、これをやらないと次の季節にならないみたいなふうになっちゃうんですよね。
  (P158-P160)


備考
 江戸も、吉本家のように様々な地方から来た人々が、携えてきた言葉や食や習慣の微差をるつぼの中でかき回すように長い時間かかって江戸の人々や江戸というものの言葉や風習などを形作ってきたはずである。明治以降もそのような流入は続いていて、この「お雑煮」を巡るような劇がくり返されてきたのだろう。東京に流入した吉本さんの両親の世代を第一世代とすると、第二世代までは家族を通じてその出身の地方のものを浴びつつ、東京というものを呼吸していくことになる。吉本さんの子どもの世代である第三世代になって初めて、東京を自分の故郷として、自然なものとして受け入れることになる
 同じ地域の者同士が結婚して家族を形成する場合でも、背負ってきたそれぞれの家族の風習などの極微差があり得るだろうけど、地域が違う者同士が結婚して家族を形成する場合であれば、吉本さん家のような夫婦のやや増幅された心的な摩擦があり得るだろう。もちろん、さらに地域や家族を背景とするそれぞれの個の固有性のぶつかり合いということもある。





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435 一般大衆という理念 いっぱんたいしゅうというりねん 講演? 吉本隆明資料集 猫々堂

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一般大衆の解放 「支持政党なし」が四一% 先進資本主義国の課題

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@
「先進社会での理想的な、あるいは理念的な課題は、たったひとつしかないんです。それは何かというと、一般大衆の解放ということです。つまり、一般大衆の理念とは何なのか、その理念とそうでない理念との確執・格闘以外は、世界の先進的諸国での理念的・思想的課題は存在しないと、ぼくは考えています。もうそれ以外の課題は、先進社会では終わったと、ぼくはおもっています。そうしたら、どういうことになるのかといえば、どれくらい長い年数か、短い年数か、占い師じゃないから予言することはできませんが、一般大衆とそれを抑圧するものとの格闘ということをきり抜けなければ、一般大衆がこの社会の主人公になることは、金輪際ありえないのです。それは、最終的というか、最初のというかわかりませんが、そんな課題になるとおもいます。「支持政党なし」が四一%になっていることは、そういう理念にとって決して悪い要件じゃないと、ぼくはおもっています。
 今ある労働組合は、みなさんのほうは知りませんけど、総評でなければ、総評をソフトにして連合になったというだけで、何も変わってない。理念が変わっていなくて、それを引きまわしているのは公党の政党員、ないしはそれに類した者だとおもいます。共産党員が社会党員にかわり、社会党員が民社党員にかわりというだけでそんなのは何も変わってないんです。いずれも最終の理念としては全部終わっています。
 しかし、理念の課題としては終わっているということと、具体的に課題はあるよ、ということはちがいます。毎年一年ぐらいは物価にスライドして、ちょっと賃上げやらなきゃいけないとか、また個々の職場でいえば、ここをちょっと改善してもらわなきゃお話にならないよとか、各職場の事情でそういうことはたくさんあります。それはもちろん労働組合の仕事です。でもそれは理念的な課題ではありません。・・・中略・・・だけど、ぼくがいっていることは、理念の課題としては、先進社会でそれしかない、ということです。
つまり、先進資本主義国では一般大衆はいるんですが、一般大衆という理念は、かつて存在してないのです。先進資本主義国では、もはや、一般大衆という理念をつくるべきじゃないかというのがぼくのかんがえ方です。もうそれしか理念はないんだとおもっています。
  (『吉本隆明資料集』P33-P34)


項目
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A
それについて、ぼくの観点からいいますと、ポーランド問題という国家は、もっとも進んだ理念的国家だとおもえます。ポーランドはここ数年来、民衆・労働者の理念を代表してると称する国家権力と、生のままの労働者・一般市民の理念を代表してる「連帯」とは獲執(ママ 「確執」?)し、争ってきて、現在、連帯の半分が国家権力のうちに入って政府をつくっています。それは何を意味するかというと、一般大衆という理念が半分だけ国家のなかに入ったことを意味します。つまり、国家を一般大衆が半分くらいは掌握したことを意味しています。しかし、それでもさまざまな問題がでてきます。ポーランドでも国家としての一般大衆と労働組合としての一般大衆とは対立がおこります。それは新聞をみると、よく、連帯の分裂というかたちで出てきます。それは国家がいかにむつかしいかということを意味しています。そのへんは社会主義国はまったくできてないのですが、国家を掌握してない一般大衆との利害は、ほんとならばうまくやれば一致できるのに、理念がなければ一致できないのです。必ず分裂がおきてしまいます。
  (『吉本隆明資料集』P35)

備考
毎月送られてくる猫々堂の『吉本隆明資料集』の包み紙二枚も毎回読んでいる。「もっとも進んだ理念的国家、ポーランド」という小見出しがある。『吉本隆明資料集』の第何号所収で、吉本さんのどの講演(たぶん)だかわからないけど、印象深い言葉。太古の始まり同様、私たち普通の住民が主人公になるということ。

Aから判断すると、ポーランドの連帯の運動の始まりの頃の吉本さんの講演のように思われる。

「一般大衆の理念」から、柳田国男が従来の歴史叙述とは異なる、「常民」という概念の下にこの列島の大多数の普通の人々の精神史を発掘し何段階にも渡る過程として叙述しようとしたことを連想した。この柳田国男の仕事も「一般大衆の理念」に位置づけられると思う。

特に、Aの部分には、吉本さんの若い頃の組合長としての労働組合活動のきつい体験が実感として踏まえられているように見える。





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453 危うい社会状況での対処法 「吉本隆明が語る 5」 西日本新聞2003.10.1 『吉本隆明資料集168』 猫々堂 2017.9.10

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世論 世論とかけ離れたら 民衆のところまで下がる
項目
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@
      〈しゃべりにくい状況〉
 僕はこのごろ少しは新聞などに詩のことを書いたりするようになっているんですけど、時事的な文章を書こうとする場合にはたいてい、もしも少し角が立ちすぎるような表現があったりすると、こういう言葉は使わないでくれというふうに言われたりして、直されてしまいますね。
 直されてごもっともという場合もある。だけど、もう一つ、その「ごもっとも」ということが世論という形や名称をとりながら、本当は割合に一般のごく普通の大衆の考え方を非常によく反映していることがある。つまり、何かしゃべりにくいな、書きにくいなという状況があるということです。僕なりの感じ方や見解というのをまっとうに出していったら、一般の人々と自分の考え方とは、徐々にかもしれないけど、今、一番距離が遠くなっているときだろうなと思うわけです。
 
大勢の民衆の意見を象徴しなけりゃ世論ができないわけで、新聞記者の人がそれに従って、というか、そこに合流するのはある程度やむを得ないとは思います。でも、自分にとっては、何かをしゃべったり考えを率直に述べたりすることがしにくくなっているなということが、世論とのずれを知るうえでの一つの指標になるんですね。


A
      〈世論とかけ離れたら〉
 
そういうとき、お前はどうするんだっていうことになるわけです。僕は、戦争中の体験から自分で勝手に導き出したことですけれど、世論との距離がもうずいぶん離れちゃったなというぎりぎりのところまで来ない限り、世論と離れてもいい。
 だけど、一般の人々の考えと全く離れちゃって、お前の考え方はちょっと通用せんよとか、お前の考え方は採用できないよというふうになって、ぎりぎりのどん詰まりまできたらどうするんだといった場合、僕の戦争体験から導いたことは、民衆のところまで下がるということですね。

 全部下がっちゃえ、つまり、自分は何者でもないし特別な見解もないごく普通の民衆なんだよというところまで下がっちゃえというのが、僕の考え方です。要するに、孤立するなということ。ただし、今はまだ孤立してもいいんですよ。今は、孤立しなけりゃあいけないぐらいていいと思っています。
 だけど、もっと追い詰められてしまうということはあり得るわけですね。戦争中、どうして知識人らがみんな、愛国、戦時主義というふうになっちゃったのかな、と考えると、まだ下がるべきじゃゅないよというときに、一斉にみんな下がっちゃってる。それを見た民衆がなおさら下がる形になってしまう。


B
 これは非常によくないことだというふうに思っているんです。つまり、何でもないときだったら、孤立しようがどうしようが、そんなことはかまやしない、自分の考えていることを言いたいように言え、とこれだけでいいわけです。
 今はまだ、何をしゃべっても自由だし、それで済むよと思っているわけだけど、でも、最近は大体において、こりゃいかんというか、専門の人が世論を気にして危ないことはあんまり言わなくなっちゃった。それとは反対に、危ないことを言うような人が出てきている。日本も原爆を持つべきだとか。そういうことを言うと恥ずかしくてね、知的といわれる人がそんなことを言ったら、おかしくて仕方がないはずなのに、恥ずかしさが飛んじゃっているんですね。
 
今、憲法の非戦条項を変えるべきかそうでないかということで国民投票をしたら、多分半々か、もしかしたら変えようという方が多いかもしれないですね。もう、そういうふうになってきちゃったなとは感じますね。それは割合に敏感に感じるわけで、それでどうするんだとといえば、まだ抵抗できるさ、どん詰まりまではまだあるさという感じ方をしていますね、僕は。
 ただし、いよいよどん詰まりになったら下がる、僕はそうすると思います。下がって、
自分の内面だけしか生きていないようなところは別にやめちゃうわけにはいかないし、やめる必要もないわけだから、自分の中だけではちゃんと保っているよということもできるだろうと思います。
 (「吉本隆明が語る 5」『西日本新聞』2003年10月1日 『吉本隆明資料集168』※全文引用しています。)


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備考
この吉本さんの文章は、『吉本隆明資料集168』ではじめて読んだ。

内容は、読めばわかると思う。吉本さんは、もう10年以上も前に現在的な悪状況を探知していたことになる。

吉本さんの戦争−敗戦の体験と戦後の労働組合の活動経験などがこの言葉の背後に思い浮かぶ。吉本さん自身は孤立を恐れずに、若い頃の安保闘争への関わりや、反核運動批判やオーム真理教の麻原批評などの悪戦を潜り抜けてきている。しかし、この「民衆のところまで下がる」という吉本さんの言葉には、上昇過程にある知識人でもなくかといって生活者そのものでもない〈非僧非俗〉のこの社会における有り様を示していると思う。どん詰まりの状況においてなお、わたしたち生活者大衆の生活意識や政治性の歴史的現在の水準が依然としてそうでしかあり得ない無惨なものであるとするならば、しずかに「民衆のところまで下がる」ということだろうと思う。

しかし、追い込まれた現在もまた「まだ抵抗できるさ、どん詰まりまではまだあるさという」状況であると思う。





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