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ID 項目 ID 項目
417 生き神様信仰
434 味つけ
435  一般大衆という理念    
453  危うい社会状況での対処法  
499 内からわかる      
500 オカルト的なことへの関心      
503 内からわかる②      
513 アジア的王朝以前の問題      
519 イデオロギー      
533 女の人は難問      
560 埋まらない空隙      
578 老いてみると      
586 明るさと暗さ      
593 イメージ論 ①      
594 イメージ論 ②      
595 イメージ論 ③      
596 イメージ論 ④      
597 イメージ論 ⑤      
598 イメージ論 ⑥      
611 江藤淳      
697 一夫一婦制      
742 欧米から学ぶものは、もう何もない      
745 「生きる」ってなんだ?      
     





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
417 生き神様信仰 ① 還相の視座から インタヴュー 還りのことば 雲母書房゙ 2006.5.1

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項目
1
① たしかにひとつはそういうことだとおもいます。天然自然信仰をかんがえれば、ずっと以前からそれを理論化するということがあったでしょうね。たとえば儒教の祖である孔子も、何千年も前にちゃんとそういうことを性格づけています。日本がそれとちょっと違うところは、細長い島ですから、中国のように他の要素は入らないで、インド以東の民衆がどういう種族的な出自なのかということだけをかんがえればよかった。ただし日本の場合は半分以上がオーストラリアと東南アジア、それにハワイまで含まれる、ポリネシア人あるいはオセアニア人といった特徴が入っているとおもいます。

 菅瀬 そういうのも、やはり「生き神様信仰」で括れるのでしょうか。

 それは違うとおもいます。生き神様信仰というのは日本でいえば天皇であり、琉球であれば琉球王朝であるといえるでしょう。生き神様信仰にいたるには必ず親子兄弟、叔父叔母で信仰を司るものと政治を司るものがいて、両方をくぐってということになる。ぼくはこれは海ではなく山の思想の影響ではないかとおもいます。だからやはりチベットなんかと似たり寄ったりのところがある。インド以東の山岳地帯、いまのネパールとかパキスタンの辺りまでを含めた東南アジアの奥地にある山岳地帯が、天皇の一族の出自ではないかとかんがえているんです。ここらには生き神様信仰が見られるんです。
                         (P37-P38)
項目
2
備考





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
434 味つけ 文学および家族をめぐって(後編) 鼎談 吉本隆明資料集165 猫々堂 2017.5.25

中上健次・三上治・吉本隆明
初出 『すばる』1989年12月号

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おせち料理 受け継いでいる 微細な問題 イエということについてのイメージ
項目
1

中上 百八の鐘の一回分を家族でついて、そのあと神社へお参りして。恐らく家族で年越しそばか何か食って帰るんでしょうけどね、そういう自分の習慣、時代を超えても、この国この土地に生きる限りそれはもっているだろうという、そういう保守すべきことの習慣と同じようなものが、漁業に従事する人にも農業に従事する人にもあると思う。それがあるから、おれたちは農業に関しても、そのレベルまで来るとはたからは言えないよという考えを、吉本さんは持っている。この観点ってのはものすごくリベラルな観点だと思うんだね。保守するものみたいなことで言うと、おせち料理を吉本さん、お作りになるんですか?

吉本 いや、僕は作らない。そうなってくると、僕はまた出る幕じゃなくなって(笑)、うちのやつが……。

中上 指揮して?

吉本 病身なのにでしゃばってきて、やりますね(笑)。これはしかし、うちのやつは何なんだっていうと、それはやっぱり母親から教わってくるわけです。その味つけとか……。

中上 だけど普段は大体、半々というか、吉本さんも料理を作っていらっしゃいますね。

吉本 そうですね。パターンとしてやってはいるし……。

中上 買い物に行ったりするのを僕はしょっちゅう見かけるけれど、おせち料理だけは……。

吉本 そうそう。そうなってきたら、ちょっと
出る幕じゃないみたいなふうになってきて、やっぱり……。

中上 味つけが違うんですか。

吉本 違うんですよ。それから、
受け継いでいるんですよね、何はどうする……。そうすると、ちょっと口だしはできねえっていうことになります。どうしてかって、いろんなことがあって、微細な問題について口だしができないということと、もう一つはやっぱり、東京の味というか江戸の味というか知りませんが、そういうもんと、僕は母親が九州だから、それになじんでいる味つけとか、やり方とかね……。大体お雑煮の餅とか具が違うんですよ。

中上 どういうお雑煮ですか、吉本さんのところは。

吉本 僕がなじんでいるのは、もう初めっから具をみんな切り刻んで入れて、それからお餅も入れて、それでぐつぐつ煮て作るわけですね。ところが、江戸前ってのはそうじゃなくて……。

中上 すまし汁に……。

吉本 お餅は焼くんですよ。焼いて、あとからこそっと入れるわけですね。それから具もホウレン草ならホウレン草とかナルトはナルトとかってちゃんと作っておいて、それはこういうふうに(両手で包む仕草で)後からのせるわけです。

― 保守すべきものはちゃんと保守するという……。

吉本 あまりきっちりとはないんですけどね。理屈ないっちゃないわけです。いや、分かんないな。自分が主観的に
イエということについてのイメージがあって、イエの習慣に対してとても保守的になってしまうんです。保守的というのか習慣的というのか分かりませんけど、これをやらないと次の季節にならないみたいなふうになっちゃうんですよね。
  (P158-P160)


備考
 江戸も、吉本家のように様々な地方から来た人々が、携えてきた言葉や食や習慣の微差をるつぼの中でかき回すように長い時間かかって江戸の人々や江戸というものの言葉や風習などを形作ってきたはずである。明治以降もそのような流入は続いていて、この「お雑煮」を巡るような劇がくり返されてきたのだろう。東京に流入した吉本さんの両親の世代を第一世代とすると、第二世代までは家族を通じてその出身の地方のものを浴びつつ、東京というものを呼吸していくことになる。吉本さんの子どもの世代である第三世代になって初めて、東京を自分の故郷として、自然なものとして受け入れることになる
 同じ地域の者同士が結婚して家族を形成する場合でも、背負ってきたそれぞれの家族の風習などの極微差があり得るだろうけど、地域が違う者同士が結婚して家族を形成する場合であれば、吉本さん家のような夫婦のやや増幅された心的な摩擦があり得るだろう。もちろん、さらに地域や家族を背景とするそれぞれの個の固有性のぶつかり合いということもある。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
435 一般大衆という理念 「日本の現在・世界の動き」 講演 吉本隆明資料集174 猫々堂 2018.4.15

※ 1990年9月14日の講演

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一般大衆の解放 「支持政党なし」が四一% 先進資本主義国の課題

項目
1

「先進社会での理想的な、あるいは理念的な課題は、たったひとつしかないんです。それは何かというと、一般大衆の解放ということです。つまり、一般大衆の理念とは何なのか、その理念とそうでない理念との確執・格闘以外は、世界の先進的諸国での理念的・思想的課題は存在しないと、ぼくは考えています。もうそれ以外の課題は、先進社会では終わったと、ぼくはおもっています。そうしたら、どういうことになるのかといえば、どれくらい長い年数か、短い年数か、占い師じゃないから予言することはできませんが、一般大衆とそれを抑圧するものとの格闘ということをきり抜けなければ、一般大衆がこの社会の主人公になることは、金輪際ありえないのです。それは、最終的というか、最初のというかわかりませんが、そんな課題になるとおもいます。「支持政党なし」が四一%になっていることは、そういう理念にとって決して悪い要件じゃないと、ぼくはおもっています。
 今ある労働組合は、みなさんのほうは知りませんけど、総評でなければ、総評をソフトにして連合になったというだけで、何も変わってない。理念が変わっていなくて、それを引きまわしているのは公党の政党員、ないしはそれに類した者だとおもいます。共産党員が社会党員にかわり、社会党員が民社党員にかわりというだけでそんなのは何も変わってないんです。いずれも最終の理念としては全部終わっています。
 しかし、理念の課題としては終わっているということと、具体的に課題はあるよ、ということはちがいます。毎年一年ぐらいは物価にスライドして、ちょっと賃上げやらなきゃいけないとか、また個々の職場でいえば、ここをちょっと改善してもらわなきゃお話にならないよとか、各職場の事情でそういうことはたくさんあります。それはもちろん労働組合の仕事です。でもそれは理念的な課題ではありません。・・・中略・・・だけど、ぼくがいっていることは、理念の課題としては、先進社会でそれしかない、ということです。
つまり、先進資本主義国では一般大衆はいるんですが、一般大衆という理念は、かつて存在してないのです。先進資本主義国では、もはや、一般大衆という理念をつくるべきじゃないかというのがぼくのかんがえ方です。もうそれしか理念はないんだとおもっています。
  (『吉本隆明資料集』P32-P33)


項目
2

それについて、ぼくの観点からいいますと、ポーランド問題という国家は、もっとも進んだ理念的国家だとおもえます。ポーランドはここ数年来、民衆・労働者の理念を代表してると称する国家権力と、生のままの労働者・一般市民の理念を代表してる「連帯」とは獲執(ママ 「確執」?)し、争ってきて、現在、連帯の半分が国家権力のうちに入って政府をつくっています。それは何を意味するかというと、一般大衆という理念が半分だけ国家のなかに入ったことを意味します。つまり、国家を一般大衆が半分くらいは掌握したことを意味しています。しかし、それでもさまざまな問題がでてきます。ポーランドでも国家としての一般大衆と労働組合としての一般大衆とは対立がおこります。それは新聞をみると、よく、連帯の分裂というかたちで出てきます。それは国家がいかにむつかしいかということを意味しています。そのへんは社会主義国はまったくできてないのですが、国家を掌握してない一般大衆との利害は、ほんとならばうまくやれば一致できるのに、理念がなければ一致できないのです。必ず分裂がおきてしまいます。
  (『吉本隆明資料集』P34)

備考
毎月送られてくる猫々堂の『吉本隆明資料集』の包み紙二枚も毎回読んでいる。「もっとも進んだ理念的国家、ポーランド」という小見出しがある。『吉本隆明資料集』の第何号所収で、吉本さんのどの講演(たぶん)だかわからないけど、印象深い言葉。太古の始まり同様、私たち普通の住民が主人公になるということ。

②から判断すると、ポーランドの連帯の運動の始まりの頃の吉本さんの講演のように思われる。

「一般大衆の理念」から、柳田国男が従来の歴史叙述とは異なる、「常民」という概念の下にこの列島の大多数の普通の人々の精神史を発掘し何段階にも渡る過程として叙述しようとしたことを連想した。この柳田国男の仕事も「一般大衆の理念」に位置づけられると思う。

特に、②の部分には、吉本さんの若い頃の組合長としての労働組合活動のきつい体験が実感として踏まえられているように見える。

※ この文章の出所がわかりました。 (「日本の現在・世界の動き」 『吉本隆明資料集174』 猫々堂 2018.4.15) ※1990年9月14日の講演。
2018.5.15に気づきました。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
453 危うい社会状況での対処法 「吉本隆明が語る 5」 西日本新聞2003.10.1 『吉本隆明資料集168』 猫々堂 2017.9.10

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世論 世論とかけ離れたら 民衆のところまで下がる
項目
1


      〈しゃべりにくい状況〉
 僕はこのごろ少しは新聞などに詩のことを書いたりするようになっているんですけど、時事的な文章を書こうとする場合にはたいてい、もしも少し角が立ちすぎるような表現があったりすると、こういう言葉は使わないでくれというふうに言われたりして、直されてしまいますね。
 直されてごもっともという場合もある。だけど、もう一つ、その「ごもっとも」ということが世論という形や名称をとりながら、本当は割合に一般のごく普通の大衆の考え方を非常によく反映していることがある。つまり、何かしゃべりにくいな、書きにくいなという状況があるということです。僕なりの感じ方や見解というのをまっとうに出していったら、一般の人々と自分の考え方とは、徐々にかもしれないけど、今、一番距離が遠くなっているときだろうなと思うわけです。
 
大勢の民衆の意見を象徴しなけりゃ世論ができないわけで、新聞記者の人がそれに従って、というか、そこに合流するのはある程度やむを得ないとは思います。でも、自分にとっては、何かをしゃべったり考えを率直に述べたりすることがしにくくなっているなということが、世論とのずれを知るうえでの一つの指標になるんですね。



      〈世論とかけ離れたら〉
 
そういうとき、お前はどうするんだっていうことになるわけです。僕は、戦争中の体験から自分で勝手に導き出したことですけれど、世論との距離がもうずいぶん離れちゃったなというぎりぎりのところまで来ない限り、世論と離れてもいい。
 だけど、一般の人々の考えと全く離れちゃって、お前の考え方はちょっと通用せんよとか、お前の考え方は採用できないよというふうになって、ぎりぎりのどん詰まりまできたらどうするんだといった場合、僕の戦争体験から導いたことは、民衆のところまで下がるということですね。

 全部下がっちゃえ、つまり、自分は何者でもないし特別な見解もないごく普通の民衆なんだよというところまで下がっちゃえというのが、僕の考え方です。要するに、孤立するなということ。ただし、今はまだ孤立してもいいんですよ。今は、孤立しなけりゃあいけないぐらいていいと思っています。
 だけど、もっと追い詰められてしまうということはあり得るわけですね。戦争中、どうして知識人らがみんな、愛国、戦時主義というふうになっちゃったのかな、と考えると、まだ下がるべきじゃゅないよというときに、一斉にみんな下がっちゃってる。それを見た民衆がなおさら下がる形になってしまう。



 これは非常によくないことだというふうに思っているんです。つまり、何でもないときだったら、孤立しようがどうしようが、そんなことはかまやしない、自分の考えていることを言いたいように言え、とこれだけでいいわけです。
 今はまだ、何をしゃべっても自由だし、それで済むよと思っているわけだけど、でも、最近は大体において、こりゃいかんというか、専門の人が世論を気にして危ないことはあんまり言わなくなっちゃった。それとは反対に、危ないことを言うような人が出てきている。日本も原爆を持つべきだとか。そういうことを言うと恥ずかしくてね、知的といわれる人がそんなことを言ったら、おかしくて仕方がないはずなのに、恥ずかしさが飛んじゃっているんですね。
 
今、憲法の非戦条項を変えるべきかそうでないかということで国民投票をしたら、多分半々か、もしかしたら変えようという方が多いかもしれないですね。もう、そういうふうになってきちゃったなとは感じますね。それは割合に敏感に感じるわけで、それでどうするんだとといえば、まだ抵抗できるさ、どん詰まりまではまだあるさという感じ方をしていますね、僕は。
 ただし、いよいよどん詰まりになったら下がる、僕はそうすると思います。下がって、
自分の内面だけしか生きていないようなところは別にやめちゃうわけにはいかないし、やめる必要もないわけだから、自分の中だけではちゃんと保っているよということもできるだろうと思います。
 (「吉本隆明が語る 5」『西日本新聞』2003年10月1日 『吉本隆明資料集168』※全文引用しています。)


備考
この吉本さんの文章は、『吉本隆明資料集168』ではじめて読んだ。

内容は、読めばわかると思う。吉本さんは、もう10年以上も前に現在的な悪状況を探知していたことになる。

吉本さんの戦争-敗戦の体験と戦後の労働組合の活動経験などがこの言葉の背後に思い浮かぶ。吉本さん自身は孤立を恐れずに、若い頃の安保闘争への関わりや、反核運動批判やオーム真理教の麻原批評などの悪戦を潜り抜けてきている。しかし、この「民衆のところまで下がる」という吉本さんの言葉には、上昇過程にある知識人でもなくかといって生活者そのものでもない〈非僧非俗〉のこの社会における有り様を示していると思う。どん詰まりの状況においてなお、わたしたち生活者大衆の生活意識や政治性の歴史的現在の水準が依然としてそうでしかあり得ない無惨なものであるとするならば、しずかに「民衆のところまで下がる」ということだろうと思う。

しかし、追い込まれた現在もまた「まだ抵抗できるさ、どん詰まりまではまだあるさという」状況であると思う。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
499 内からわかる 「病院からもどってきて」 インタビュー 『悪人正機』 新潮文庫 2004.12.1

※ 「話し手」吉本隆明、「聞き手」糸井重里
※ 最終章「病院からもどってきて」(2004年)を除いたものは、2001年6月に単行本として刊行。
※ この項目は、項目498 「自己概念による包括」と関連する項目です。

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わかる方法 心の内側から 「外から見てあるものがわかること」と、「中でもって中がわかるということ」とは、ぜんぜん違う
項目
1


 数百万年前から数十万年前までのあいだのどこかで、人間は地域ごとに違う言葉をしゃべるようになった、っていうことなんですけども、その間にいる人たちが、何を考えていたのか。どういう精神の内容を持っていたのか。
 
中沢新一のやっているようなことは、これは、まさにそこに行き着くようなことですよね。ぼくは、彼の本を読みなおして、感心しました。
 ただ単にほじくりかえすだけなら、「こういうところに、こういう遺物があるから、こんなことを考えていたんだろうなぁ」と判断してしまって、それでおわりだけど。その遺物がある時の人間の心の中がどんなものか、どういうことを考えていたのかまでは、わかんないんですよ。
 
その人たちが何を考えていたのかは、同じことをやってみたりとか、それ以外に、わかる方法がないわけですね。
 中沢さんは、それを、趣味じゃなくて、本気でやっているらしいんです。
 チベットで、この人はたいへん能力のある人だと知られている宗教家の人のところに弟子入りして、初歩のところから、修行するわけですね。ひとつできたら、次の段階はこれだ、とか言って、そういう人から、教わる。その修行の中味は十万年単位より以前の人間の心の働きの内容に当たります。
 教わる中で、その人たちが何を考えているかを推察する。
未開の時代からあった宗教の儀式みたいなのを続けている大家たちが、今もいるわけだから、そいつらのところに弟子入りして、弟子入りしながら、「何を考えていたんだろうな、昔の人たちは」っていうことを、察知するっていいましょうかね。そういうことを、やっているんです。宗派の研究よりも以前のことに、つっこんでる。これはぼくなんか、「それだよ!」って思うわけです。
 
未開社会の人にいくら話を聞いても、宗教家から言葉でいくら解説を受けたとしても、そこに生きていた時の精神内容は依然としてわからない。それをわかるには、そこに生きていた人とおなじことをやるよりしょうがねえ、みたいなね。ふつう、ぼくらが書いた本を読んだり、翻訳された読みものをいろいろ読んだりして、「あいつの気持ちがわかるなぁ」って言うのは、やっぱり外部からなんです。内側からではない。
 
心の内側からっていうことで、わかるためには、その人とまったく同じことをするしかないっていうのは、中沢さんの方法だし、それはとても重要というか、おもしろい考えなんだと思うんですよ。
 (「病院からもどってきて」 P331-333 『悪人正機』新潮文庫)



 中沢さんは、チベットの現在の宗教家の中で、人から重んじられてる人が、祖先の考えを受け継ぎながら、今は何を考えて、これまでどういうことをやってきたんだかをわかりたいと考えた。そのためには、その人と同じことをするしかないということで、彼は修行のしかたを、習うわけですね。教わりながら、相手が考えていることを察知するというか。
 間接的に推察しないで、
直接的に推察する、っていうのが、あの人の根本の方法です。間接的に推察するって、わかりっこないから、やっぱり、宗教家から直に、その人がやってきて、修行してきたことを次々と言う通りにやってみて、それで、実感的に「あ、こうだ、こうだ」ってわかってくる。
「頭の方から背骨のほうに、赤い光みたいなのが出る」と言われる状態になるまでやってみたりという、おもしろいっちゃおもしろいけど、まどろっこしいって言ったらまどろっこしい。しかし、とても重要な試みなんですね。
 (「同上」 P333-334 )



 ぼくらがふだん「あいつの気持ちはわかる」とか言ってることだって、やっぱり外側からのもので、ほんとに内側からじゃあないんですよね。その人が内側から感じているものを拾おうと思うなら、昔だって今だって、同じ心の行動をする以外にはない。
 人の心の中を、かんたんにわかったとか言うのは、ウソだっていうか、中沢さんのやっていること以外にわかる方法はないんだなぁっていうのは、なんとなくわかりまして・・・・・・それは、とても重要だっていうか、おもしろい考えですよね。
 そういうことは、ぼくの場合は、自分が身体(からだ)を悪くしたから、余計にわかるんです。
 それがなかったら、これほど中沢さんをわからなかった。

 それまでは、「なるほどな」というか、趣味でもって、チベットに出かけているもんだと思ってたのですが、大まじめだよということがわかった。
「外から見てあるものがわかること」と、「中でもって中がわかるということ」とは、ぜんぜん違うってことが、わかったんですね。
 中沢さんとは、対談もしたことがありますが、その当時は、「あの人は、要するに、逸(そ)らす人だ」と思っていたんです。剣術家で言えばうまく身をかわして、今度は逸らしちゃったよっていうのとおんなじ意味合いで、「うまく身をかわす」という人だと思っていた。この人は、何でもスルリとうまくよけるなぁ、みたいな感じでいたのですが、とんでもない話で。
 実は、大まじめな人だった。今は、なるほどって感心してるところですし、ずいぶん一生懸命なんだよなって思うんです。・・・中略・・・
 なんで当時、そう思われなかったのかは、「むずかしい」とされていたからだと思うんです。読み手の側のほうでは、中沢さんに比べると、「知識不足」っていうのもあったでしょう?それが、ひとつあるわけで、もうひとつは、それはまだ、『チベットのモーツァルト』の頃はあの人が若い時で、文章を、書き慣れてなかった。
 その感じは、読みなおしてみて、よくわかった。
 (「同上」 P334-P336 )















 (備 考)

ここでは、まず吉本さんの中沢新一体験があり、外側と内側の問題が取り上げられている。こういうふうに誰でも読み間違いということがあるものだ。吉本さんは、そのことを包み隠すことなくちゃんと披露してくれる。例えば、項目497の「日本社会の大転換点」でも、「じぶんの日本社会のイメージが大ちがいだったよ、とんでもなくまちがってつかまえていたよとかんがえたときに、どこでずれちゃったのだろうか、しきりにかんがえました。」と語られている。今回の場合、吉本さんの病気の体験が、その読みの修正をもたらしたと語られている。要するに、他人の心の現場にほんとうに降り立つことが他者を理解する入口だろうけど、長い付き合いであってもこれは誰にとってもなかなか難しいことである。


③の吉本さんの「「あの人は、要するに、逸(そ)らす人だ」と思っていたんです。」という部分は、わたしの印象や捉え方では、中沢新一のポスト・モダンふうの概念や文体は、ホントかよ?それって飾りじゃないの?流しているんじゃない?ということになる。今もそれは消え去ってはいない。


人と人(あるいは作品)との出会いには、一方の過剰な思い込みのような理解もあり、誤解もあり、とっても難しいことであるが、それでもわたしたちは、か細い通路を通って他者(あるいは作品)のありのままの現場に出会おうとする。


「内からわかる」ことに関して、もうひとつ。「僕は七九歳くらいの時にやっと気がついたのですが、スポーツ選手と同じで本当に身体を動かすのに朝起きぬけに一時間くらいか一時間半くらいあちこち自分の身体を動かさないと歩くのがダメですね。歳をとらないとわかりませんね。やっと最近一年か二年で初めてわかったのです。」(『子供はぜーんぶわかってる 超「教師論」・超「子供論」』2005年8月批評社)


最後に、少しよくわからない部分もあるけど、吉本さん本人に関して「内からわかる」ことについて晩年の決定的な言葉を。

吉本 いや、今あなたがおっしゃったね、僕が書いたね、自分で書いて表現して自分の考えを述べたり、芸術らしき詩を発表したり、それはね、それはちょっと自信があるんですよ。まだ俺は、俺の考え方の底のほうまで理解してくれた人はおらんな、っていうそういう感じがします。それは俺はちょっと自信がありますね。
 
表現っていうか、思考っていうか、考えっていうか、そいうものに基づく表現という、書いたものには自信があります。これは今のところ、今もこれからも、もしかするとそうかも知れませんけど、そういうことを認めてくれないまんま終わるし、時代は過ぎてゆくことになるかもしれない、そういうふうに思って書いたもの、とことん書いたものを読んでくれたら大変、あれですね、解る、解ってくれるように思いますけれども。それは今のところありませんから、半ばこれでいいやと。
 
編集者の人でひとり、編集して、類別して、鑑別して整理してくれている人がおりまして、それが 3 〜 4 人の人の手元にありますが。それは、なんていうか、僕だけの個人的な自信というのでいいんじゃないかな、というふうにあきらめてますけど。

あの、僕の、あれができるのは、どういったらいいでしょうか、時代を読むっていいましょうか。時代を読むっていうことはいつでも考えていないと駄目なんですよね、空白を作らないこと。いつでも考えています、何やってるときでも考えてますけど。結局僕はいちばん能率の悪い物書きで、何か書いて、読みたいやつが読んで読みたくないやつは読まない、そんなことで過ぎてきている。それだけのことですけれど。そこはもう全貌を読んだ人がひとり、編集をやってくれたんですけれど、それは、その全貌を読んでもらわないと、僕自身は物書きとしてつまんないことを書いて、ちょっぴりとお金をもらって、それの繰り返しで、それだけで、それ以上のことはないんですけれど。
 (「吉本隆明さんを囲んで①」 聞いたひと…前川藤一、菅原則生。2010年12月21日。「菅原則生のブログ」より。)






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500 オカルト的なことへの関心 「宗教」ってなんだ? インタビュー (『悪人正機』 新潮文庫 2004.12

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好き 気にかかって 素質
項目
1


 自分はオカルト的なことへの関心を源まで遡ると、結局「
好きだった」ということが言えるでしょうね。
 人生でいちばん最初に買った本が、近所の古本屋で買った、主に手相について書いてある占いの本と啄木かなんかの詩集でしたからね。
 それで、手相なんかに凝ってね。凝ったあげく、生命線がここで切れてるのは何歳で死ぬ可能性があるとかかいてるんで、それがもう
気にかかって気にかかって、ナイフじゃないんだけど、先の尖ったもので、傷つけてつないだりとかね。そういう、占い的っていうか、何か得体の知れない賭け事じみたこととか、運命じみたことには、もともと子供の頃から関心が深かったんですね。
 それから、小学校を卒業して、工業学校に行ってからでも、俺、頭おかしいんじゃねえかって思うようなことがありましたね。道を歩いていると、舗装路とそうじゃないところがあるでしょう。僕は、舗装されてるところからそうじゃないところへとか、そうじゃないところから舗装路へっていうときに、必ず左足が先に乗っからないと、どうも気分が悪いんで(笑)。
 だから、境界線に近づいてくると、わざわざ歩幅を狭くして、左足から乗れるように「調整」したりね、そういうことをやたらにしてましたね。
 
小さいときから、そういうものに興味というか、執着はありましたねえ。その素質が大人になるにつれて高じてきてという部分と、またそれが嫌になってという部分と両方あります。
 でも、今でも、これは運とか偶然っていうよりほかにねえぜ、っていうようなことに対する非常に大きな興味というか、関心がありますね。宗教的なことに凝りやすいってことは、あると思います。
 (『悪人正機』P120-P121 吉本隆明/糸井重里 新潮文庫 2004年12月)
 ※ 単行本としては、2001年6月に刊行



 僕は
宗教と唯物論と、どっちに興味があるって言ったら、はるかに宗教のほうに興味があります。そのことに理屈をつけるとしたら、宗教には幅とか領域とか広さっていうことの他に、深さっていう概念が通用する。しかし、唯物論はもう、非常に平らな表面だっていうことですね。それ以上考えようがないんじゃないかっていうことになってね。極まるところ、これは確かマルクスやエンゲルスが言ってることなんですけど、歴史の中で確実なことってのは何なんだって言ったら、それはナポレオンが何年何月に生まれて、何年何月に死んだっていうそれしかない。つまり、唯物論っていうのは究極的にはそういうものですよ。
 一方、宗教っていうのはあやふやなこと、それからおかしなこととか、怪しげなこととか、いろいろ含めて、なんか深さっていうようなものがあるんじゃないかと思ってるんです。とにかく対象としてはもう宗教のほうがはるかにおもしろいっていう感じはしますね。
 マルクスの『資本論』第一巻を読めば頭がスッキリするっていう言い方があるけど、読めば頭が深くなるっていうんだったら、ドイツの中世の牧師というか神学者で、
エックハルト(ドイツ神秘主義の代表者)っていう人がいて、その人の『エックハルト説教集』っていうののがあるんですけど、それはもう深さっていったらこれほど深い本はないぞっていう深さがありますね。なんか水の底に連れて行かれるみたいな、そういう意味合いの作用があります。危ないところとか、怪しげなところをいっぱい含んでるんだけど、深さっていうのがあるんです。唯物論っていうのはスッキリしてるけど、でもこれは表面だよっていうふうに思いますね。
 (『同上』P121-P123 )









(備 考)

若い頃、わたしはロシア文学にひかれドストエフスキーの作品に熱中したことがある。ドストエフスキーつながりだったか、ロシア神秘主義のベルジャーエフの本も何か読んだ。『エックハルト説教集』、読んでみようかと思う。


『エックハルト説教集』、買って少し読んでみた。確かに、「深い」としか言いようがない。背後には、キリスト教の長い「説教」の歴史というものがありそうだ。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
503 内からわかる② 「学童期というのは人間の持っているものが全部出てきてしまう」 インタビュー 『子供はぜーんぶわかってる』―超「教師論」・超「子供論」 批評社 2005.8.1

聞き手 尾崎 光弘 向井 吉人

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後年 青春期以降の反発
項目
1



僕にも子供が二人います。けれども後年、子供をバカにしたつもりはないのにバカにしたようなことになってしまったことがあります。小さい時に公園かどこかに連れて行って遊ばせていたときのことです。二人で愉快そうに滑り台や砂場で結構楽しそうに遊んでいるので、僕はいい気になってポケットから本を取り出して読んではときどき子供の方を見ていたことがありました(笑)。そういうのを後年子供たちが青春期になった頃、オヤジは子供たちをよく遊ばせてやったみたいに言うけれども、自分たちだけで遊んでいたのだ。オヤジは本を読んだり、あらぬことを考えたりしてベンチに座っているだけだったじゃないか、なんて言われてアッと思いましたね。だけどその場ではちゃんと楽しそうに二人でガチャガチャやっているなという感じでしたからほっといていたわけなのですが、僕の性質もあるからどこでもそんな調子でかまっていなかったのかもしれません。とにかくそのことを指摘されてヘーッて思ったことがあるのです。そんなことを夢にも思ってみませんでしたから、なるほどその通りだと思ってショックでしたね。確かに大丈夫だと思って勝手に本を読んだりしていたのですが、娘たちはそれをちゃんと見ていて、もしかすると内心では面白くなくて、オヤジも一緒に身体を動かして遊んで欲しいという気持ちがあったのかなと思いますが、だいたい外から様子を見ていただけではそうは思えないのですね。もしかすると子供たちはちゃんと見ていて、あのオヤジは、・・・・・・と思っていたのかもしれません。
 (『吉本隆明 子供はぜーんぶわかってる』―超「教師論」・超「子供論」 P25-P26 批評社 )



 それは
青春期以降になると反発になって起ってくるわけですね。親の言うことを聞かないという場合、意識した場面では僕の方は放任主義でしたが、そう悪い扱い方をした覚えはないのに反発力はすごいものですね。これは世代的反発とか、社会が変わったからとか、そんなことのせいにするのは簡単ですが、ずっと放任主義といいながら結構自分の好き勝手なことをやっていたじゃないかという、そういうことに対する反発みたいなものがやはり思春期以降に出てきたのかな、と自分が反省する時はそうなりますね。あまり時代とか社会のせいにしたくないし反発は自分がそういう扱いをしたからだと本当はよくわかっていましたから、子供たちの不満とか寂しさとかが、全部蓄積されてきて何かの機会があって出てきたんだという解釈になりますね。
 (『同上』P26-P27 )

※①と②は連続した文章です。


備考
(備 考)

こういう体験は、誰もがあるような気がする。つまり、家族の中で親として子に関わる理想像を想定したとして、誰もがそこからそれて行かざるを得ないような過不足の有り様が現実だという気がする。

外からの視線では見えず、しかも中を想像してみることの失敗というものがこのようにあり、それはこんなに時間がたたないと内からの理解に到達できないということがあり得るということを示している。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社
513 アジア的王朝以前の問題 『吉本隆明 戦後五〇年を語る』157 インタビュー 週刊 読書人1999年4月2日号 読書人

※聞き手 山本哲士・内田隆三・高橋順一

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村々のユタ 琉球王朝 「柳田国男の視点
項目
1


吉本 沖縄ではかつて、ご神託を受ける女の長がいて、その兄弟が政治を行うやり方をしていました。村々の鎮守様を信仰している人たちは、魔術的なユタの超能力を信じて、ユタに拝んでもらい、その人こうだと言うとそのとおりにやるわけです。それはまったく別々に分離していたのですが、ある時期に、琉球王朝が村々のユタから代表者を集めて、王朝周辺の宗教的な祭祀のやり方との連結をはかり、それが制度化されていきます。この連結の問題がなかったら、村々のお祭りと王朝がやっているお祭りは別個のものとして扱える。そうなれば、こちらの要素は肯定できるし、こちらの要素は否定できると言えるわけです。
 それはどこでわかるかと言えば、王朝以前、
村々のユタ以前の母系制の社会における宗教と政治のあり方があって、そこまでさかのぼれば問題は明瞭になりますから、そこから派生したものだと考えればいい。普遍的には王朝以前の問題、あるいはアジア的王朝以前の問題になり、村々の問題もユタ以前の問題になるのではないかという解釈になっていくわけです。
 そうすると、「柳田国男は右翼だ」とか「左翼だ」とか、「どちらともつかなくて曖昧だ」とか言われていますが、本当はそうではなく、結局、柳田の言っていることは、王朝以前、村々のユタの支配以前ののところで考えればイメージが明瞭になると思えてきたんです。ですから、僕はだいたいにおいて、こちらの要素には肯定的で、こちらの要素には否定的だということはあり得るという観点になっていったんですね。



山本 
天皇制以前の時間の奥行きを通して天皇を見るという場合に、この時間の奥行きは、通俗的な意味での歴史的な時間というより、もっと累積して持続している別種の時間なのでしょうが、そのことが普遍文学の方法論や想像力に結びついていくと考えていいのでしょうか。
 
吉本 自分ではそういうつもりでおります。
もうそこまで行くと、アフリカ的段階だ、天皇や宗教もその段階だ、村落の共同体もその段階だというふうに僕は思います。そこまで行けば鮮明なイメージになる。柳田国男の視点はそこまで届いていたとだんだん思えるようになってきたわけです。それは、先ほど言いました「無意識という段階よりもう少し深いところまで考えたらどうか」という問題意識と似てくるところがあります。
 そういうことを明瞭につかまえて、その視線も入れていくと、われわれが進歩的、左翼的理念と、そうでない民族主義的理念、あるいは伝統的理念といって区別してきた問題も、
もう少し違う視点から見えてくるかもしれません。それを明瞭につかまえることは、まだ自分ではできていませんが、方向性としてはあって、もしかすると展開できるかもしれないと考えています。
 (『吉本隆明 戦後五〇年を語る』157 週刊 読書人 1999年4月2日号)
 ※聞き手 山本哲士・内田隆三・高橋順一












(備 考)

②について
たとえば、琉球王朝の宗教・政治と村々の宗教・政治とはある時期に接合させたわけだが、そのような対象に対して解体的にあるいは分離的に、遙かに遡る視線を行使することにより、言葉や思想の視野を対立的な場所から変位させようとしている。互いに対立的だった理念も「もう少し違う視点から」見えてくるかもしれないと。たぶん、そういう視野が吉本さんの内景には見えていたはずだ。

わたしは、少しずつだがずいぶんと柳田国男を読んできて、「柳田国男の視点はそこまで届いていたとだんだん思えるようになってきた」ということが、わかるような気がする。柳田国男は天皇に関わる役人の役職も経験したせいもあってか天皇に対する親愛の情も持っていたようだが、柳田国男の文章に底流しているのは、無名の集落の普通の人々は愚かなこともずいぶんとしてきたけれど、かれらの日々の生活のなかに腰を下ろしその笑いや喜びに心安らぐような視線である。


先日、『ナニコレ珍百景』(3時間スペシャル 2018年7月5日放送) のビデオを観た。沖縄の久高島が出てきた。ここは、今はもうやめているようだが十二年毎に行われるイザイホーの祭りで有名だった。この久高島関連では、写真集『イザイホー 沖縄・久高島』(写真/吉田純・解説/吉本隆明 )や『日本人の魂の原郷』(比嘉 康雄 集英社新書)等を読んでいくらか知ってはいた。それをテレビ画像で観ることができた。


世界遺産の斎場御嶽から臨める久高島は、その昔カベール岬に琉球の始祖神アマミキヨが降臨したことから「神の島」と呼ばれる島。
島内は神域と人間の住む地域で分かれていて、人が住んでいいのは南だけ。島の北側は神の領域なので建物を建ててはいけないそう。
島の土地は神様からお借りしているものという考えから個人の私有地というものはなく、土地は昔から平等に分割しているという。
また、石や木、土に至るまで島のものは全て神のものという考えから、自然の物を島外に持ち出してはいけない、神の使いであるイラブー(ウミヘビ)は決まった時期に決まった人がとるなどの掟もある。
島のいたる所に祈りの場所が設けられており、神女(儀式をとり行う選ばれた女性)以外は立ち入り禁止とする場所も多い。
神女は満70歳で引退するが、島の女性が神女になるために12年に1度行われていたイザイホーという神聖な儀式は高齢化による後継者不足で40年も前から途絶えてしまっているという。
それでも「神の島」として今でも年間30以上の神事を行っていて、島民は日々祈りを捧げるなど日常生活に神様が浸透している。(テレビ朝日『ナニコレ珍百景』HPより)



これは、神女であるユタを中心に、もうずいぶんと整序された村の宗教・政治の有り様だけど、自然にまみれた生活に近い、自然との深い切実なつながりの中から生み出されてきた村の宗教・政治だったろうと思われる。神域と人の居住区とがはっきり分離されている映像も見ることができた。現在から見れば、それらを含めて面倒な年中行事だらけの日々の生活であるが、この列島の村々も二昔前まではそのような年中行事だらけの日々の生活であった。また、今年の2月の入院中に読んだ『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』『諏訪信仰の発生と展開』『古諏訪の祭祀と氏族 』三巻に描写された、縄文期にまで遡る古諏訪の村々の宗教・政治も同様のものだったと思う。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社
519 イデオロギー フーコーについて 講演 吉本隆明の183講演 ほぼ日

講演日:1995年7月9日 吉本隆明の183講演の「講演テキスト」より引用

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宗教性をまとうイデオロギー 他人を規制する 現在的な宗教のあり方について
項目
1



6 宗教とは何か(引用者註.「講演テキスト」の小見出し)

そうすると、いまの言い方からすると、国家以前に法律があり、法律以前に宗教がありっていうふうに、そういうふうに歴史を考えますと、いま宗教あるじゃないかとか、また、これから宗教つくろうなんていう人も出てくるかもしれないですし、それはどうしてなんだってことになります。
つまり、すでに国家のところまで、宗教のかたちっていうのは、人を規制する意味合いとしては、神の言葉から法律の言葉になり、それは、国家の言葉っていうふうになって、あるいは、政府の言葉ってことになって、もう宗教の段階は終わっちゃったじゃないかっていうふうになっているにもかかわらず、現在、宗教はございますし、また、新しく宗教をつくろうなんて人もいるわけですし、それは、新宗教と言ったり、新進宗教と言ったりしてますけど、そういうのはどうしてできるんだってことになるわけです。つまり、これは、
日本国は市民社会にかなり高度な産業を発達させて、高度な、そういう社会生活をしているわけですけど、それにもかかわらず、宗教っていうのは、まだあるし、また、出てくるのもあるじゃないのっていうふうに考えることができます。




もうひとつ、それと裏腹なことですけど、理念って言ったらいいんでしょうか、思想と言ったらいいんでしょうか、イデオロギーと言ったらいいんでしょうか、イデオロギーっていうのがあります。つまり、そういう言い方をすると、資本主義のイデオロギーとか、社会主義のイデオロギーとか、社会、あるいは、産業は、資本主義の自由競争でなければいけないっていうようなイデオロギーを持つ人もいますし、社会主義で、ちゃんと貧富の差のない平等な社会でなければいけない、そのためには、国家がそれを規制しなければいけないとかいう考え方の人も、いまもいるわけです。
そうすると、何故に、理念とか、思想とか、
つまり、本来的には、社会生活のなかで出てくるはずのものが、どうして、一種の規制するイデオロギーっていうものとして、現在、出てくるかっていうと、このイデオロギー性っていうのは、かならず、宗教的なかたちをとって人を規制する、あるいは、そういう人を規制するってなって出てきます。
本来ならば、イデオロギーっていうのは、宗教性とは関係なく、宗教性とか、党派性っていうのと関係なく出てくるっていうふうになってる、そこまできているはずなんだけど、そうじゃなくて、イデオロギーを持っているやつは、どっかで宗教性を持っています。イデオロギーを宗教的に使おうと思っています。
こうしちゃいけないぞとか、おまえこうしたら悪いぞとか、おまえこういうことで勝手なことを言うのはダメだぞとかいうふうに言う場合の、ダメだぞっていうのは、一種の信念とか、主義とかっていうかたちで、つまり、宗教の形態として、イデオロギーはかならずいます。いまでもそういうふうに出てきます。
だから、それ相当の知識人がイデオロギーを持ちますと、たいていその人のどっかが宗教的です。自分も規制しますし、他人も規制しようとしますし、他人も自分と同じような考えであるべきであるって規制しようとしたり、それから、本当に規制したりします。
そういうふうに、
本来は、イデオロギーは社会生活に便利なもの、あるいは、社会生活を自由にさせるために存在すべきものであるにもかかわらず、社会生活が(ママ この「が」は、「から」か)発生したものであるにもかかわらず、イデオロギーっていうのは、いまでも宗教的に出てきます。宗教的なかたちをどっかで出てきます。また、イデオロギーを持った人間っていうのは、どっかが宗教的です。何か信念みたいのを持っていて、信念を持っているのはいっこう構わないんだけど、他人がそのとおりじゃないと気に食わないので、他人を規制するような、自分の信念で規制するっていうようなことをやめないです。やります。つまり、それはイデオロギーを持った人は、かならず宗教的に出てきます。
宗教を持った人は、つまり、宗教だけやっていればいいでしょっていう、つまり、自分の心の中を平安にしたり、平和にしたり、静かに研ぎ澄ましたりってことだけやっていればいいでしょっていうのに、なんかつくってみたり、サリンつくってみたり、武器をつくってみたり、余計なことをするわけです。宗教が社会全体を規制しようみたいな、本来的には、国家、法律、それから、宗教っていうのは、慨していえば、神の共同性みたいなところから、宗教なんていうのは発生していくべきものなのに、現実社会を規定するためのいろんな手段をつくろうとしたり、そういうことを考えたりします。したりするっていうようなかたちで、宗教っていうのは出てきます。そうじゃなければ、お寺でお葬式をしているか、観光でお金を取ったりとか、そういうことになって、それは死んだ宗教として、いまも存在しています。




 ほんとうに自由な宗教になりうる、日本でいうとなりうる要素っていうのは、浄土系の宗教っていうのは、日本でも自由になりうる要素なんですけど、たとえば、具体的にいえばいいわけです。つまり、本願寺系統の、東本願寺とか、西本願寺とかありますけど、そういう系統の宗教は、浄土系統なんですけど、
浄土系統の宗教っていうのは、いちど宗教を壊すやりかたをしていますから、教祖がやってますから、いちばん自由であるべきかたちをとれるわけなんだけど、それはとってないんです。
ほんとうに、いま、浄土系の宗教家、あるいは、僧侶っていうのは、いちばんそれをとりやすいから、どういうかたちをとったらいちばん理想的か、現在に合うように理想的かっていったら、ようするに、そういう僧侶は、これはわれわれも、みなさんもそうだけど、市民社会の職業に従事する、勤めるサラリーマンになったって、商売人になったって、なんでもいいですけど、そういうふうに、
昼間はちゃんと市民社会の一市民と同じように勤めをやったりなんかして、そこで生活の費用を得て、そういう生活をして、それで、ぼくはそういう言い方をしますけど、だいたい25時間目になったら、はじめて宗教やればいいわけです。
つまり、自分の宗教の修行とか、お経を読むとか、お葬式に行くとか、そういうのは、だいたい25時間目でやる、あるいは、職業が休みの日、ようするに、土日の日にそれをやるってすれば、非常に、
現在の社会における、市民社会における宗教のありかたとして、宗教家のありかたとして、いちばん理想的なわけです。ですから、本願寺系統の人のお寺なんかもやめて、みんなサラリーマンになったほうがいいわけです。それで、まだ、それでも宗教をやりたかったら、ようするに、25時間目でやればいいってことになります。




なぜ、そんなことを言うかっていうと、現在の社会では、そのこと自体が即座に実効性がない、つまり、なんか手を加えたら商品になって、これは、値段がついて売れるっていうようなことに従事している、それに従事しているとか、商品を売ってるっていう職業に従事している人とか、みんなそうやっているんです。24時間そうやって、それ以外のところで、趣味で詩を書いているんだっていう人は、だいたい25時間目で、みんなが寝静まったころ、詩を書いたりして、それで、それを発表したりっていうふうにやっているわけです。それは、文学みたいな、直接なんかの役には立ちませんから、心には役に立つかもしれないですけど、直接、実効性はないですから、でも、それをやめられるかっていうと、そんなことはないので、それはやめられないわけです。
そうしたらば、
文学芸術をやっている人は、人が買ってくれるから、食おうと思えば食えるよっていうふうになれば、便利ですから食いますけど、そうじゃないかぎりは、だいたいみんなそうしているわけです、小説を書こうなんて人は。みんな24時間勤めて、25時間目で小説書いて、それで作品をつくって、同人雑誌をつくって発表してってことを、それはやるわけです。
そうだったら、お坊さんだって同じなので、
こんなもの役に立ちませんから、それで、人間のなかに宗教心っていうのはあるわけで、宗教心とは何かっていったら、自分を超えたいっていう願望です。自分を超えたいっていう願望が、さまざまな掛け道をもちますけど、さまざまなやりかたがありますけど、宗教もそのひとつであって、自分の心が自分の心以上のものになりたいっていうのが、宗教のはじまりですから、つまり、そういうものは、実際には役に立ちませんから、自分の心には役に立つけど、役に立ちませんっていうのが大筋ですから、やっぱり、そういう生き方っていうのをしなきゃいけないのですけど、たとえば、本願寺系統のお坊さんをみたって、それは、やってないんですよ、お寺の中にいて、お寺を守ってっていうふうにやっているわけです。つまり、それは宗教っていうのは、どう生きるかみたいなことを、あんまり、昔は考えてた、教祖は考えてたんです、教祖は考えたけども、もう、いまになって考えるのも嫌になっちゃったっていう、そういうのが、お葬式と観光だけやるっていうことになっているわけです。
 (『 A172フーコーについて』吉本隆明の183講演 講演日:1995年7月9日)
 ※①、②、③、④は、連続する文章です。












 (備 考)

「イデオロギー」は、辞書的な意味としては、「人間の行動を左右する根本的な物の考え方の体系。観念形態。」などと説明されているが、わたしは集団的な考え方や集団思想程度の意味で使っている。

この「イデオロギー」は、吉本さんの提出した概念である「マス・イメージ」と密接な関係がある。時代の「マス・イメージ」が、無意識的な表現として押し出すのが「イデオロギー」と言えるだろう。現実的、具体的には、新自由主義などの経済支配層やそれを支える学者・評論家などの経済イデオローグたちが生み出したイデオロギーが、具体的な企業社会の場面に採用され降りてきて、マス・イメージへと還流していくように見えるのだろうが、本質的には、時代の主流のマス・イメージの無意識的なひとつの表現としてイデオロギーを捉えるべきだと思う。

特に、時代の過渡期には相反するイデオロギーへと凝縮する傾向がある。例えば、もはや現在ではそれは収束しているだろうが、ケイタイなどの文明の利器が普及すると、相反する渦流が社会のマス・イメージの中に起こる。その相反するイメージ流は、変動する〈現在〉に対する何度もくり返されてきた親和や異和の表出に過ぎないのだが、それがひとつのまとまった考えとして対立的にかたち成していく、つまり、いろんな事実や考えを総動員して「ケイタイは悪だ」のイデオロギーを形成していくのである。もっと大がかりな場合は、現在の政権やネトウヨたちの復古的なイデオロギーのように、全社会的な現在の有り様に対して否定的なイメージ流を束ねて、オタク趣味的な復古的なイデオロギーを構成していく。

この復古イデオロギーも、行き詰まりの諸問題ばかりでわたしたちのどうしたらいいかわからないというわからなさの感覚も、ともに、行き詰まってきた〈現在〉の有り様が、現在を生きるわたしたちに未来に突き抜けていくある表現を促していることに対する諸反応の違いということに過ぎない。現在を生きるわたしたちが、未来へ突き抜けていくある表現、ある思想を促されているということだけが本質的な問題なのである。つまり、新自由主義の経済思想と張合わさった復古思想の様々な衣装は、歴史の主流に湧く、消えゆくあぶくに過ぎない。そして、そんなあぶくに自分の心や存在をかけざるを得ないというネトウヨたちの生存の空虚こそが本質的な問題である。そして、その空虚は現在を生きる全ての人々が共有している。



②で、本来ならば」とか「本来はと語られているけれど、これは人間がよりよい理想のあり方を求める場合のイデオロギーのあり方として捉えられているのだと思う。

集団的な考え方や集団思想としての「イデオロギー」が、作為や規制や強制などの宗教性を放棄して、ただよりよい理想のあり方を求める人間の叡智の表現としてのみ行使されるなら、無意識的にでも一部の人間の経済的・精神的な利害を追及するイデオロギーの対立は終わるだろう。そして、ただ普遍としての開かれたイデオロギーが存在することになる。しかし、ここで吉本さんが語っている「本来ならば」と対立する、他人を規制する「イデオロギー」の有り様は、遙か太古の宗教性の段階の歴史の時代から付きまとっているもので、簡単にははがれ落ちないような強度を持つ権力性のようなもののようにわたしには感じられる。




項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
533 女の人は難問 「二〇一〇年、吉本隆明が『人はなぜ?』を語る。」 インタビュー 『BRUTUS』2010年2月15日号 吉本隆明資料集175 猫々堂 2018.5.25

聞き手 糸井重里

関連項目532 「死のイメージは変化する」

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難問だったのを楽しんだ 苦手なお話に関しては逃げてきた
項目
1



糸井 難問を見ると、一生懸命、その難問と付き合う〈難問好き〉という人がいますよね。
吉本さんが『共同幻想論』を書こうとというときには、難問だったのを楽しんだと思うんですよ。僕も、自分の得意なことについては、人がどうしてそんなことするの?ということを、簡単ではなく、難しいほうに行こうとしたこともあるんです。・・・(中略)・・・他人から見たら、吉本さんの仕事は、なんでこんな難しいことばっかりやるんだろう、俺なら嫌だなと思うことばかりやってこられていると思うんです。でも、吉本さんはご自身の苦手なお話に関しては逃げてきた。例えば、「女の人のことは・・・・・・」とおっしゃるのは、女の人のことは全部そういう風に見てきたわけですよね。

吉本 少しわかる気がします。

糸井 死の問題は若いときは難問中の難問で、考えたくないんだと思うんです。僕は難問のままですけど。吉本さんはわかってきた。怖がってはダメですよね。つぶされますよね。

吉本 怖がってはいけません。そうかあ。僕にとっては女の人は難問ですね。これは解ける可能性はない。ダメだったなと思います。子どもの頃から。

糸井 それは勝ち負けで言えば、勝てっこない、という発想ですよね。
 (「二〇一〇年、吉本隆明が『人はなぜ?』を語る」P73-P74『BURUTUS』2010年2月15日号 『吉本隆明資料集175』猫々堂)










 (備 考)

「難問だったのを楽しんだ」ことと「苦手なお話に関しては逃げてきた」ということは、対立的、分離的なものではなく、ひとつながりのことのように見える。つまり、吉本さんの批評の言葉や思想は、自らにも関わるこの世界の不明のもの、奇妙なもの、不可解なもの、などを解明しようという欲求に貫かれている。そのことと、関係の具体性において、苦手な女の人を避けようとすることとは矛盾はしない。そんなことは誰にもあることであるからである。ちなみに、苦手な女の人という難問を批評の言葉や思想の舞台に引き寄せようという試みとして、吉本さんが心理分析(註.1)を受けたことや、『母型論』の試みがある。

おそらく、吉本さんのこの女の人が苦手という難問は、自らを対象化したり内省したりしようもない〈大洋期〉に被った傷によるものだろうと思われる。そして、誰もが否定的なイメージとして、自分はどうしてこんな性格なんだろうと不可解に思う瞬間があると思われるが、それはおそらく遙か〈大洋期〉に発祥しているから、探索が不可能のように思えるのだろう。つまり、宿命的に見えるのだと思う。吉本さんは、物心つく前の小さい頃の自分について母親に聞きそびれたともどこかで語っていたように思う。また、聞いてもほんとうのことは語らないだろうとも。

ここでは、構造的に捉える余裕はないけれど、「女の人が苦手という難問」は吉本さんが自ら切開した『母型論』の〈大洋期〉に発祥しているのは確かだと思われる。そしてこれは、「言葉の吉本隆明①」の項目387の「一種の破局感」や項目330にある「対人恐怖」や「赤面症」とも連関しているものと思われる。いいかえると、これらは吉本さんの起源としての存在の受難とも言うべきものに関わっている。そうして、そういう存在の受難の場所から、あのよく知られた詩句(註.2)は浮上してきているのである。


(註.1)
 「吉本隆明の心理を分析する」(ユリイカ 1974年4月号)
  ロールシャハ・テストをもとに、 吉本隆明、馬場礼子の対話。
 ※この対話は、『吉本隆明全集12』に収められている。

(註.2)
「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ」
 (吉本隆明 「廃人の歌」、『転位のための十篇』所収、大和書房 『吉本隆明全集撰1』より)





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560 埋まらない空隙 「日本の歴史ブームをめぐって」 インタビュー 『吉本隆明資料集178』 猫々堂 2018.9.10

 「日本の歴史ブームをめぐって」 (インタビュー 2000年11月18日。 『吉本隆明が語る戦後55年』第2巻 2001.2.5 所収)

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日本語の起源を探る場合 この空隙をどういうふうにしたらいいのかということ どうしても外からの考察と内からの考察の間に空隙ができちゃいます
項目
1


吉本 日本語の起源を探る場合は、折口信夫のように内側から自分が入ってバーチャルな世界としてみていく方法と、まったく客観的な対象物として外側に置く日本語学の方法と、両方から探求しないといけないという考え方が浮かびます。
ようするに、比較言語学でわかっている限りのことを使いながら、日本語を大ざっぱに位置づけていく外側からのやり方と、折口さんみたいな内側からのやり方と、両方をうまく合わせていかないと、ちょっと間違えちゃうぜっていう気がします。
 それができないと、日本語はいつまでも
普遍性の部分だけしか出てこないことになり、セイロンのタミール語だとかパプアニューギニアだとか、とんでもなく遠く離れた地域の言葉と似てるという話にもなってきます。
 折口信夫は、比較言語学のような外側からの知識は一切使わないという方法に固執したわけですが、僕はそれで一定の成果をあげているなと思います。

―吉本さんが書かれていますが、柳田国男の方法もそうですね。

吉本 柳田国男も民俗や風俗習慣について、
外側の知識をあんまり使わないで、外との比較もとくにやらないで、やっぱり内側からの視線を重点に見ていくんですね。そうすると、日本の内側から見ていったことと、外側から民族学的・人類学的に追求していったこととは、ぴたっと一致しないで必ず空隙ができちゃいます。この空隙をどういうふうにしたらいいのかということが、よくわからないんです。
 本当だったら、空隙がないようにできたら一番いいと思うんですけど、それはこれからの課題になりますね。でも、今のところはだめです。
どうしても外からの考察と内からの考察の間に空隙ができちゃいます。そこは実感でして、言葉でうまくいってやろうと思うんですが、なかなかうまくいえません。
 
たとえば柳田さんが、紀州、和歌山県の山林では樵夫が苗を植えて、それが丈夫に育つようにということで、幹を叩いて「大きくなれよ」というんだとかいうわけです。すると、その手の習慣はフレーザーの『金枝篇』を見ると、世界各地いたるところにあるんだっていうことになってきます。しかし一般論では、紀州の樵夫さんの心性から吐き出された言葉をいい尽くせないでしょう。僕の実感ではそこは一致していなくて、空隙があって埋まんないんです。そこが埋まるようにならないと、だめなんじゃないかなって思っていますけれども。
 (「日本の歴史ブームをめぐって」P19-P20『吉本隆明資料集178』猫々堂)










 (備 考)

この問題を敷衍すると、わたしたちの誰にも関係する他者理解にも通じている。他人のある行動の内面をその振る舞いの数々から推し量ってあるイメージや判断を下したとする。一方、そのイメージや判断を告げられた場合の本人の思いは、八割くらいは当たっていると思っても、どうしてもわかってもらえないなあという行動の内面の核のような部分があるのが一般的なような気がする。

例えば遠い昔のことではあるが、高校でわたしが受け持つクラスの子に学校での生活が嫌になって退学するという子がいた。いろいろ話し合った後その子は退学してしまった。たぶん、その子の内面の切実さは肌感覚レベルまでは他人には容易にはわかりにくいのだろうと思う。一般に、大人は社会を見聞きしている経験もあって社会で働くより学校の方が楽だよ、どうせ後で後悔するよと、退学を引き留めようとするのだが、もちろん体験したことのない子どもにはそのことはわからないし、そんな未来のことは念頭にもない。ただ、逼迫した切実さの現在があるだけである。自分も高校生の生活を昔に体験していても、この退学しようとする子どもの内面を捉え尽くすことはむずかしいと思う。また、たとえ捉え尽くせたとしても、その子と対話が成り立つことはむずかしいという気がする。このことは、一般に人と人との関係において言えることだと思う。なぜむずかしいのか。それはわたしたちひとりひとりが固有の母の物語を持ち、固有の日々の経験を積み重ねてきているからである。



 (上の関連として)

九州のほぼ中央部に位置する、宮崎県椎葉村。ここでは日本で唯一、原始的な焼き畑農業が続いている。ルーツは縄文時代とされ、2015年には世界農業遺産にも登録された。

(焼き畑の)火入れの前には、必ず唱える言葉がある。

 <これより、このヤボ(やぶ)に火を入れ申す。ヘビ、ワクド(カエル)、虫けらども、早々に立ち退きたまえ>
 <山の神様、火の神様、お地蔵様、どうぞ火のあまらぬよう、焼き残りのないよう、お守りやってたもうれ>
 (「続く”究極の有機農法” 1戸だけが担う世界遺産、伝える94歳の語り部」2018.10/15)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181015-00010000-qbiz-bus_all )







項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
578 老いてみると 「第二章 老いのことば」
「第三章 老いと「いま」」
インタビュー 『生涯現役』 洋泉社 2006.11.20

聞き手 今野哲男

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以前よりも反省することが多くなったんじゃないかなと感じます この変化のスピードは尋常じゃない 老人期というものを、こっちがまったく勘違いしてた
項目
1



 歳をとると頑固になるとか、あるいは依怙地になるとかよくいわれますが、ぼくの実感では、むしろ、
以前よりも反省することが多くなったんじゃないかなと感じます。若いころには、老いのことなんかろくに考えませんし、。だんだん歳をとるんだろうとか、それくらいで軽くすませていたのを、いざ老いてみると、こりゃ冗談じゃないぞ、それは間違いだったねと思い知らされたせいかもしれませんけど。
 だからというわけじゃありませんが、たとえば社民党や共産党なんかでも、もっと自然に、慎ましやかに活動するようになったら、もしかすると日本だって変わるかもしれないなと思いますね。いまのあのやり方ではどうしても少数しかついていかないです。
 (『生涯現役』P119 洋泉社 2006年11月 )




 安原さんはぼくに、自分が癌になったら貯金全部下ろして世界旅行をやって死にますなんていってたんです。でも、なってみるとそうはいかなかった。まったくの判断違いだったわけで、ぼくもそういう意味では同じ勘違いをしていたと思います。
老人になったら経済的にも気分的にもゆったりできて、そうしたら俺は隠居仕事でこういうの書くんだと思っていたし、人にもいっていたわけですから。でも、なってみたら冗談じゃない、あらゆるものが全部違いました。それで、それなりのペースを見つけ出すのに、考えてみると四、五年はかかりましたね、途中では原稿なくしたりゲラをなくしたり、やっとつい最近ですよ、一応これで終わりまでいけるなと思うようになったのは。
 (『同上』P146-P147 洋泉社 2006年11月 )




 ご老人のことで考えますと、たとえば文学の世界だっら、これはひょっとして気分の格差社会というようなことになるのかもしれませんけども、昔は、小説家のなかに川端康成とか谷崎潤一郎とかいった、いわゆる老大家と呼ばれる人たちが大勢いました。歳相応の、結構いい作品を書いたりしてね。室生犀星もそうでしょうし、そのほかにもたくさんいたと思います。つまり、才能の問題を別にして、たとえ才能がないとしても、老人になれば気分がゆったりとして、それなりのものを書くゆとりのようなものが出るという世間一般の思い込みがあったと思うんですね。ぼくもそういうことがあるんだろうと錯覚してましたけど、ないですね。
 つまり、これも格差とか不況とかに関連しているのかもしれないけれど、もはやああいう意味あいの古典的なというか、
古典戦後的な大家ってのはちょっと不可能ですね。これは、小島信夫さんもそうでしょうし、古井由吉さんにしたってそうじゃないでしょうか。そういう気分のゆとりはもう誰にもないと思います。
 (『同上』P150-P151 洋泉社 2006年11月 )




そういう、何といいますかここまで慌ただしい社会に、これほど急速になっていくということは、正直にいって予測もできませんでしたね。七〇年代の半ばに、ミネラルウォーターが売れ出したときには、こりゃ変わったな、いままでの考えではもう当たらないよというふうに思ったですけどね。しかし
、この変化のスピードは尋常じゃないです。歳をとるのも急速で、ある日突然という感じがしましたけれども、これはちょっと予測もつかんかったなという感じです。
 ぼくも本がなぜそうなったかといえば、人のせいにすれば、病気などでゆったりと仕事をさせてもらえなかったということになりましょうが、本当はそんなことよりも、
老人期というものを、こっちがまったく勘違いしてたからといいますか、あるいは老大家ではなく老小家だったからといいますか、気分のゆとりができるだろうと自分では考えていたのに、実は全然そうではなかったというところが真相なんじゃないでしょうか。ぼくの場合は、老人だなという自覚が出てから驚くほど急速に老いが進んだという実感がありましたから、こりゃすごいもんだなと思っているうちに時間が過ぎていって、ゆとりもへちまもないやという感じでした。いまは、それに対抗して、自然に衰えるのに精一杯という状態まで、何とかきていますけども。
 (『同上』P151-P152 洋泉社 2006年11月 )









 (備 考)

新しく店ができたり、たたんでしまったり、わたしたちの周囲の風景が変化する速度が昔よりも短期的で目まぐるしくなってきているような感じがする。大都市であればもっと目まぐるしく大規模な変化なのかもしれない。

私の住む地方の小都市でも、昔風の個人商店はほとんど死滅状態になってしまい、その代わりにコンビニが取って代わっているようだ。このことも店舗の変貌しやすさと無縁ではないと思う。次は、わたし近くのコンビニの話である。数年前、道路の斜め向かいに新しくコンビニができたら、それより少し前からあったコンビニが閉鎖した。また、数年間営業していた別のコンビニが、思ったほど利益が上がらなかったからであろうか、昨年急に閉じてしまった。いずれも閉鎖後から現在まで空き店舗となっている。一昔前や二昔前との変化の兆候は、いろんな所で感知できるに違いない。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
586 明るさと暗さ 「Ⅰ 実朝的なもの」 論文 『日本詩人選12 源実朝』 筑摩書房 1971.8.28


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〈実朝的なもの〉 太宰や小林の実朝像に共鳴する若き吉本隆明 太宰や小林の実朝像とそれぞれの自己像の二重化
項目
1



 太宰や小林の〈実朝〉
(註.1)から、わたしがうけとったものは〈実朝〉でなくてもよいような何かであった気もする。それを〈実朝的なもの〉と名づけておくとすれば、この〈実朝的なもの〉は、暗い詩心ともいうべきものに帰せられる。そしてこの暗い詩心は、そのまま太宰や小林の内面に帰せられるものであった。太宰が「平家ハ、アカルイ」、「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」と作中の実朝にいわせたものが心に響いたといいかえてもよい。
 (『日本詩人選12 源実朝』 P7-P8 吉本隆明)



 実朝の在世中は、源平合戦の余燼がまだくすぶり、とくに南海道や西海道では不安な小競合いがつづいていた。また、実朝が将軍職におさまる前後から死ぬまで、地方の家人たちと律令国衙の官人たちとの争いや、社寺の反目、家人たちの領地あらそいは絶えなかった。・・・中略・・・しかし、この全国的な戦乱は、けっして〈暗かった〉わけではない。戦乱も合戦も単純で直截で愚かでというように、人間の心の動きと行動を規制してしまう。むしろ健康で、〈建設的〉で、痴呆でといったものが社会を支配する。これは戦乱をしらないものにいくら強調してもたりないくらいである。かれらはもしかすると、健康で明るく〈建設的〉であることが平和の象徴だと錯覚しているかもしれないから。そう教えこんだものたちが痴呆なのだ。実朝の生涯を世情として規定していたものは、こういう明るい危うさであったといってよい。
太宰も小林も戦争期のこういう明るさと、〈建設の槌音〉との健康さがもつ退廃に、どこかでついてゆくことができなかった。それは文学の宿命のようなものであるといってよい。かれらの描いてみせた実朝像は〈暗いもの〉のもつ内実であったとかんがえてよい。これは、〈明朗アジアの建設〉というようなスローガンのどこかに、かすかな疑念をいだいていたわたしの心に浸みこむだけの力をもっていたのである。明るいもの、健康なもの、建設的なものはすべてまやかしであり、疑いをもったほうがよいというかんがえを、太宰や小林の実朝像からうけとった。かれらにとって、戦争のただなかにある自分という設定と、戦乱と合戦と武将たちの内訌のただなかにのっかった実朝という設定とは、おなじことを意味していたはずである。また、明るさ・単純さ・健康さ・痴呆・殺し合いのうえにのっかった実朝という設定と、建設的・単純・健康・鍛錬・戦争のただなかにおかれた自分という設定とは、おそらくおなじことを意味していたはずであった。わたしには、これが〈実朝的なもの〉の本質としてうけとられたのである。
 (『同上』 P8-P9)


                       








 (備 考)

(註.1)
太宰治 『右大臣実朝』、小林秀雄 「実朝」論

 ぼくらを、源実朝という詩人に近づけてくれた契機をなした文章ってものがあるわけです。そのひとつは、太宰治の『右大臣実朝』っていう、現在の言葉でいえば、中編、ないし、長編といいましょうか、つまり、『右大臣実朝』っていう作品があるわけです。この『右大臣実朝』っていう作品は、太宰治自身が、自分にとってちょうど中期、中期っていうのは、太宰治にとっていちばん安定した時期なんですけど、中期のひとつ代表作を、おれはつくるんだっていうような、そういうふうに、自身が言っているように、太宰治の中期の代表的なすぐれた作品だっていうふうに、いえると思います。
 もうひとつは、時期としては、それほど違わない、戦争中の時期なんですけど、小林秀雄の実朝、これは、『無常といふこと』っていうエッセイ集のなかのひとつですけど、「実朝論」っていうのがあります。このふたつは、ぼくらが、実朝という詩人に近づくのに、非常に大きな契機をなした文章なんです。
(「吉本隆明の183講演」、A015「実朝論」講演テキストより 講演日:1969年6月5日/12日)


若い吉本さんも、戦争体制の動向に共鳴しつつも、どこかに異和を抱えていた。そこから、太宰治 『右大臣実朝』や小林秀雄 「実朝」論への共感があったということ。


この吉本さんの「明るさと暗さ」についてのイメージは、次の若い頃の「理想の自分のイメージ」(「言葉の吉本隆明①」の項目15)とも対応していると思う。

「東京の街中の街路樹が植わっている道を、一人の男が俯いて、ポケットに手を入れて歩いている、それが自分の理想的なイメージだ。」


ところで、吉本さんが明らかにした1970年代以降の消費資本主義社会への転換、そしてそれ以後の世界において、吉本さん自身は自分の「明るさと暗さ」で捉える世界イメージの修正の必要を語っていたような気がする。ほんとうにそのことが語られていたか、どこでだったかわからない。ただ、社会の主流として飢餓が退場し、豊かさが登場した、そういう社会では旧来の飢餓と対応する論理や思想は転換・修正されなくてはならない、その社会に対応する新たな倫理を生み出す必要があるというようなことは語られていた。吉本さんの「明るさと暗さ」で捉える今までの世界イメージも同様に転換・修正されるべきものだったのかもしれない。





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593 イメージ論 ① Ⅶ「心像論」、1 心像とはなにか 論文 『心的現象論序説』 北洋社 1971.9.30


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〈心像〉は想像するひとがそれを欲し思念しなければやってこない 〈心像〉の領域は、形像が支配するすべての領域と、概念的な把握が支配するすべての領域にまたがっており、一般的には不鮮明な形像と一挙に把握をゆるす綜合的な概念把握との二重性となってあらわれる ここであきらかにできるのは、〈心像〉が、なんらかの意味で既知の対象についてだけあらわれることである。
項目
1



 〈夢〉(固有夢)と〈心像〉とが決定的にちがうところは、〈夢〉は、夢みるひとが欲するかどうかにかかわりなくあらわれる睡眠(入眠)時現象であるが、
〈心像〉は想像するひとがそれを欲し思念しなければやってこないという点である。これは〈心像〉の有意味性をネガティヴに性格づけている。〈心像〉は想像するものと、それに関係づけられている対象のあいだの結節点としてあらわれるかぎりでは、有意味的であるが、想像するものが意志しないかぎりやってこないという意味ではネガティヴなものといえる。
 (『心的現象論序説』Ⅶ 心像論 1 心像とはなにか P268 吉本隆明 北洋社 )




 ここで〈心像〉がなぜ不鮮明な形像と、たれにとっても誤られることのない対象物の〈心像〉そのものとしてあらわれるかという問題にむかってみる。形像としての不鮮明さは〈心像〉の対象物が、知覚的(視覚的)に存在しないものであるところからきているようにみえる。また、〈心像〉が誤られることのない対象の〈心像〉としてあらわれるのは、〈概念〉作用が〈心像〉の形成に参加しているためであるとおもえる。ただ〈概念〉はここでは対象物の〈概念〉としてではなく、ただ〈心像〉の対象にたいする〈関係〉と〈了解〉として参加する。そこで、できるかぎり形像が参加せずに対象物の〈概念〉が参加する〈心像〉と、できるかぎり〈概念〉が参加せずに形像が参加する〈心像〉をえがくことができる。
 
おそらく〈心像〉の領域は、形像が支配するすべての領域と、概念的な把握が支配するすべての領域にまたがっており、一般的には不鮮明な形像と一挙に把握をゆるす綜合的な概念把握との二重性となってあらわれるのである。
 (同上 P270-P271)




 なぜ、わたしたちは〈心像〉を喚びおこすことができるのだろうか?対象が眼のまえに存在しないのに、その対象を思念するとき、どうして〈心像〉は不鮮明な闇に溶けるような形像と確定した綜合的な把握の可能性としてやってくるのだろうか?あるいは対象が眼のまえにないのに対象を思念する(対象について【ついて に傍点】思念するのではない)という矛盾がなぜ〈心像〉をうみだすのだろうか?
 (同上 P271)





 
ここであきらかにできるのは、〈心像〉が、なんらかの意味で既知の対象についてだけあらわれることである。そして既知であるとすれば、〈わたし〉がその対象を知覚的にか概念的にか知っていることを意味しており、それ以外のことをなにも意味していない。
 (同上 P272)

 ※②と③は、ひとつながりの文章です。










 (備 考)

image(イメージ)は、人間が生み出すものであり、人間にとってのイメージであるから、「心に浮かんだ像」や「心像」という意味が与えられている。また、この人間が生み出すということを背景にまで退けるならば、単なる「像」という自然科学的な客観性の意味が得られる。イメージは、ここでは当然ながら人間的な心的現象として、心像として取り上げられている。

心像は、個によって生み出されるものであるから、個の心的現象として解析されていく。ここでは、吉本さんの心像(イメージ)の考察に絞って取り上げてみるが、その考察の進め方には実験化学者らしい手つきが感じられる。そこでは、思いつきや独りよがりの想像ではなく、わたしたち誰もが日常体験する心的現象の普遍的事柄が前提として踏まえられて考察が進められていく。





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594 イメージ論 ② Ⅶ「心像論」、2 心像の位置づけ 論文 『心的現象論序説』 北洋社 1971.9.30


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心像における形像的な要素は、対象が眼のまえに存在しないということに、ことさら重要な意味をあたえる意識のあり方にかかわりがあるようにおもわれる。 思念の志向性はプリミティヴな心性に由来するかもしれない この暗闇は〈概念〉が構成する背景
項目
1



 ここで当面しているのは、〈心像〉の可能性が感性的(あるいは情感的)な把握と概念的な把握に源泉をもっているらしいのに、このいずれともちがってあらわれるとすれば、なにが知覚や概念作用から変化しているのか、あるいはなにがまったくべつものであるのかという問題である。
 このばあい〈心像〉にもっとも類似しているようにみえるのは、心的な病者あるいは病的状態であらわれる〈幻覚〉である。


 
さきにのべた〈固有夢〉の状態を、覚醒時の心的世界を軸にして〈中性〉としてかんがえれば、〈幻覚〉は他者からの作為や強制に支配されてあらわれ、〈心像〉は意志的に思念するするときにのみあらわれるという意味で〈幻覚〉と対称的にならべてかんがえることができる。
 (『心的現象論序説』Ⅶ 心像論 2 心像の位置づけ P272-P273 吉本隆明 北洋社 )




 
まず、心像における形像的な要素はどこから由来するのだろうか?
 
おそらくそれは〈心像〉において、対象が眼のまえに存在しないということに、ことさら重要な意味をあたえる意識のあり方にかかわりがあるようにおもわれる。いいかえれば〈心像〉の意識は、〈眼のまえ〉に存在しない対象を、眼のまえに存在するかのように思念するという眼のまえ的な矛盾の領域を固執する意識である、ということができる。眼のまえに存在する対象を、眼のまえ的に再生しようとする意識にとっては、視覚像があらわれるのだが、眼のまえに存在しない対象を、眼のまえ的に再生しようとする意識にとって、〈心像〉は形像的な要素を視覚像とはちがったように現前させるほかはない。だからもし〈心像〉の意識が、〈眼のまえ〉的な再現ということを固執しないならば、そのような意識にとって〈心像〉はあたうかぎり形像をともなわずに現前することはまちがいない。
 (『同上』P274)




 
この意味では〈心像〉の意識はプリミティヴなものである。わたしたちの世界にたいする対象的な関係づけの意識は、本来的には可視的な関係づけに限定され、固執されるものではない。それにもかかわらず〈心像〉は、本来は可視的でない関係づけによって到来するはずの対象を、可視的な関係づけの領域で到来させようとする心的な矛盾を固執するのである。
 
〈心像〉の矛盾は、本来的には思念の志向性に由来している。〈心像〉においては、目のまえという志向を固執するところから、心像における形像のもんだいが発生する。わたしたちはなぜ〈目のまえ〉に存在しない対象を〈目のまえ〉によびだそうとする志向性をもっているのか、現在までのところ知ることができない。ただこの志向性はプリミティヴな心性に由来するかもしれないと判定することはできる。
 〈心像〉において、いいかえれば感性的な往古に、形像の輪郭はいつも不鮮明なままで暗闇に溶けてしまう。わたしたちはこの暗闇を〈無〉とかんがえがちであるが、
ほんとうはこの暗闇は〈概念〉が構成する背景であり、この〈場〉には対象についてのあらゆる概念的な構成がはめこまれている。だから〈心像〉は、形像としては不鮮明であるにもかかわらず、対象にたいする一挙の綜合的な把握だけは、まちがいなくなされていると確信させる。
 (『同上』P274-P275)
 ※②③は、ひとつながりの文章です。










 (備 考)

ここまでたどってきて、わたしは少し「混乱」を感じている。わたしたちの日常では〈心像〉(イメージ)はふと訪れる記憶像の断片みたいなものが多いような気がする。〈心像〉は、意志的に何かを思い浮かべるというよりも、よく脈絡もわからないままにふと訪れてくる受け身的なものという場合が多い気がする。しかし、ここで言われる〈心像〉は、ふいと訪れる記憶像とは違った、意志的、想像的なものとして捉えられている。


いま〈わたし〉が、友人Aを想像的におもいえがこうとする。この友人Aはどういう〈心像〉としてあらわれるか、ということには特定の傾向はない。あるばあいには顔の表情だけが〈心像〉としてあらわれ、あるばあいには背広をきて歩いている全身が〈心像〉としてあらわれる。そして友人Aのあらわれかたは、ただ〈わたし〉にとってなんらかの意味でもっとも印象深い場面のひとこまを択んであらわれるようにみえる。この印象深い場面というのを、〈わたし〉と友人Aの関係で結節点とみなされる場面であるとみなせば、〈わたし〉にとって〈心像〉はいつも意味ありげにあらわれるということができる。〈心像〉が、いつもそれをよび込んだ個人にとって有意味的にあらわれるとすれば、それは固有夢のあらわれかたとよく類似している。
 ここで混乱をさけるために、もうひとつべつのことをかんがえてみる。友人Aが〈わたし〉との関係で印象深い場面における〈心像〉であらわれるとすれば、この場面の友人Aは、記憶の連鎖によって〈わたし〉の〈心像〉をよびおこすのではないか、といった心理学的な理解の仕方ができそうな気がしてくる。けれどじっさいはそんなことはない。〈心像〉にあらわれるこの印象深い場面は、ただ、〈わたし〉と友人Aの関係の結節点として、現在のわたしの〈心像〉にやってくるので、過去の記憶像が現在に再生するわけではない。ただ〈心像〉が、記憶とむすびつけられやすいのは、知覚(視覚)の形像として〈心像〉を截断しようとすると、〈心像〉は、たんに不鮮明な知覚(視覚)像の別名としてみなされやすいからである。そのため、この不鮮明さが、過去の記憶の不鮮明さと対応するかのように錯覚されてくる。それは遠くへだたった視覚の対象は、小さく不鮮明にみえるという経験的な事実から、〈心像〉を不鮮明な視覚像として類推しやすいという理由によっている。
 (『心的現象論序説』Ⅶ 心像論 1 心像とはなにか P267-P268 吉本隆明 北洋社 )



 ここで、あらためて〈心像〉とはなにかという問いを提起してみる。
 この問いの答えは、〈心像〉そのものである。いいかえれば〈わたし〉にとって〈心像〉とは、〈わたし〉にやってきた〈心像〉そのものである。たとえば〈わたし〉にとって友人Aの〈心像〉というのは、友人Aを視覚的にみないところで友人Aを思念するときにやってくる不鮮明な形像であらわれる〈心像〉そのものである。おなじように、べつのたれかにとって、ある対象の〈心像〉とは、対象が眼のまえにないとき、その対象を思念することによってやってくる不鮮明な形像をもった〈心像〉そのものである。
 (『同上』P268-P269)



〈心像〉は、「ある対象の〈心像〉とは、対象が眼のまえにないとき、その対象を思念することによってやってくる不鮮明な形像をもった〈心像〉そのものである」と捉えられ、ここから〈心像〉の意識はプリミティヴな心性に由来するのではないかと進められていく。

わたしはこの『心的現象論序説』も何度か読んだが、もはや全体のイメージは分明ではない。そうした状況でここに限定していうのだが、ここで感じたわたしの疑問を書き留めておく。吉本さんが言う、人が意志的に想像するとき訪れてくる〈心像〉も受動的に訪れてくる記憶像も、時間を下って遙かプリミティヴな心性の方に収束させるとある同一性の場に至るのではなかろうか。

ところで、吉本さんは、その扱いに慎重であったのか、〈記憶〉ということをあまり取り挙げなかったような印象がある。それは、「この場面の友人Aは、記憶の連鎖によって〈わたし〉の〈心像〉をよびおこすのではないか、といった心理学的な理解の仕方ができそうな気がしてくる。」とあるように、〈記憶〉というものは、心的現象の本質に関わる概念というより、「心理学的な理解」の範疇と見なしていたからかもしれない。





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595 イメージ論 ③ Ⅶ「心像論」、2 心像の位置づけ 論文 『心的現象論序説』 北洋社 1971.9.30


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〈心像〉をまねきよせる原因 〈心像〉の世界は時代的であり、また歴史的である。 非感性的な世界にたいする不安
項目
1



 
〈心像〉はなぜ人間にとって可能となるのか?その可能性はどこからやってくるのか?
 まず俗流唯物論者のようにかけはなれたところからはじめる。はじめに、感性的な世界(外界)との〈関係づけ〉を、直接的、一次的なものとかんがえれば、非感性的な世界(外界)は、それ以外の間接的、二次的な〈関係づけ〉の世界とみなすことができる。
そしてこの非感性的な世界(外界)にたいする間接的な〈関係づけ〉の世界を、感性的な世界の直接的な〈関係づけ〉の領域にひき込もうとする心的な志向性が〈心像〉をまねきよせる原因であるとみることができる。
 なぜ、このような心的な志向性をもつのだろうか?それは、人間が生活の総過程で、物的な関係か、心的な関係として間接的に〈関係づけ〉られているはずの対象を、あたかも直接的な感性的な関係づけのように思いならわされているという経験に反覆(ママ 反復か)遭遇しているからのようにみえる。
 この意味では
〈心像〉の世界は時代的であり、また歴史的である。たとえば未開人における〈心像〉と、現在における〈心像〉とは、この意味で成りたちではちがっているはずである。未開人では感性的な世界は、かれらにとって世界の全部である。そこで感性にやってこない世界は、大なり小なり彼岸の世界であり、この彼岸の世界からやってくるとみなされるすべての事象は、かれらには人格化された〈自然〉、あるいは物神化された〈自然〉によってもたらされたものとみなされる。そしてこの人格化された、あるいは物神化された〈自然〉の意志によってもたらされたものは、未開人にとって〈心像〉の対象である。このばあい未開人の〈心像〉は、むしろ〈幻覚〉ににている。なぜならばかれらにとって〈自然〉の意志によって作為された体験にほかならないからである。
 (『心的現象論序説』Ⅶ 心像論 2 心像の位置づけ P275-P276 吉本隆明 北洋社 )




 現代人には、非感性的な世界は、非感性的な意識によって手のとどく世界である。たとえば、わたしたちは、概念によって非感性的な世界の対象を理解し意味づけることができる。ここでの〈関係づけ〉が間接的であることは、感性的な意識(感覚)にとっては不都合であっても、非感性的な意識にとってはどんな不都合さもない。むしろ多数の〈関係づけ〉が可能であるという意味では、わたしたちは、非感性的な世界にたいしては自由さをもっているとさえ云える。この自由さは感性的な意識を大なり小なりギセイにして得られる自由である、という意味では、たんなる恣意性にすぎないが、
この恣意性が、物的な感性的な世界の不自由さや制約の代償としてはじめて得られる拡大された心的世界とみれば、ただ心的世界においてのみ手にいれた自由さであるという意味で、貴重品をあずけられているのだ。もし、わたしたちが〈心像〉の意識のように、非感性的な世界の対象を、感性的な世界の領域にひき込もうとする衝動をもつとすれば、この衝動の奥には、非感性的な世界にたいする不安が存在している。比喩的にいえば、眼のまえで確かめられないものは信じられないというように〈心像〉の意識はたえずつぶやいているのだ。
 (『同上』P276-P277 )




 この〈心像〉の意識の挙動の仕方に対応するものを、生活過程のなかにもとめるとすれば、物的に、また心的に、多重関係のなかにいる人間と対象世界との〈関係づけ〉を、たえず一重の直接的な〈関係づけ〉のように見做さざるをえない人間の現実的な存在の仕方にある。間接的な多重関係によってつながっている対象は、直接的な一重の関係でつながっている感性的な世界にひきよせられるとき、不可避的に一部分形像の形となってあらわれざるをえない。
この形像は、知覚像や知覚の記憶に由来するのではなく、多重関係を意図的に(意志的に)直接的な一重関係にとびうつらせるときに生ずる関係意識の矛盾にもとづいている。
 (『同上』P277 )




 たれでも〈心像〉を知覚(視覚)に類比したくなるのは、それが形像をともなうからである。けれど〈心像〉にともなう形像は、知覚から借りられたものではない。ただ〈心像〉において、わたしたちがこの世界とむすぶ対象的な関係のうち、間接的であり多重的でもある〈関係づけ〉を、直接的な一重の〈関係づけ〉の領域にすべりこませているため、そこにやむをえず形像の要素が出現するというにすぎない。もし〈心像〉の形像的なものを知覚から借りるものだとすれば、〈心像〉はただおぼろ気になった知覚像の記憶にほかならなくなる。
 わたしたちが直接的な一重の〈関係づけ〉をなしうる世界(外界)は、感性的、知覚的な世界である。これにたいし、間接的な多重な〈関係づけ〉をやってい世界(外界)は、概念的な了解の世界である。そうだとすれば〈心像〉の意識がもたらす世界(外界)は、概念的な世界を感性的な世界へと跳躍させようとする断層の構造を意味しており、概念的な作用と感性的(知覚的)作用とのあいだの〈関係づけ〉の矛盾にほかならないといえる。
 ところで、いったん概念的に把握された対象は、〈実在〉の次元から離脱する。いいかえれば対象が現に〈実在〉しているか否かということは、概念的な対象となった対象にたいしては、どうでもいいことである。そこで〈心像〉は、すでに概念的な対象に化けてしまった対象を、感性的な対象に転化しようとするときにあらわれるのである。
それゆえ、〈心像〉の形像的な要素は、メルロオ=ポンティのいうように知覚から類同物を借りたのではなく、むしろ概念の対象であるべきはずのものを知覚化しようとする思念によって形成されたものというべきである。
 (『同上』P279-P280)
 ※①②③は、ひとつながりの文章です。









 (備 考)

わたしは、個に訪れる〈心像〉についての吉本さんの記述をたどりながら、何をしようとしているのだろうか。吉本さんの言葉、その概念や論理の生成の現場を見極めたいということである。すなわち、「心像とはなにか」→「心像の位置づけ」→「心像における時間と空間」→「引き寄せの構造」→「引き寄せの世界」の旅程を持つ「心像論」の方法、媒介、構成の渦中を潜り抜けてみたいということである。そうして、これは吉本さんの他の考察にも共通性として当てはまるように思われる。





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596 イメージ論 ④ Ⅶ「心像論」、3 心像における時間と空間 論文 『心的現象論序説』 北洋社 1971.9.30


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〈心像〉はいったいどこにあらわれるのだろうか? 〈わたし〉は〈心像〉において、ただ〈わたし〉の心的世界の空間性と時間性をみているだけである。 〈心像〉において、わたしは概念的な実体そのものに肉体をあたえようとしている。
項目
1



 
〈心像〉はいったいどこにあらわれるのだろうか?いままでみてきたとおり、眼のまえに、ではないことだけははっきりしている。瞼のうらにとか、脳裏にとかいういいかたは、比喩的にはなかなか巧みないいかたであるにはちがいない。なぜならば、こういう云いまわしは、〈心像〉が〈眼で触覚する〉ようにおもわれる性格をよく象徴しているからである。
 人間が対象の世界と関係づけられるとき、まず空間化として関係づけられるという原則を適用することとする。すると〈心像〉が〈わたし〉に関係づけられる空間性は、〈わたし〉の〈わたし〉に対する関係づけの空間以外のものを意味しないようにみえる。
〈心像〉が思念するときにあらわれ、しかも思念することが空間的及び時間的な関係づけを包括するとすれば、〈心像〉は〈わたし〉にとって思念の仕方そのものを意味している。
 じぶんの思念の仕方に空間性をあたえうるとすれば、それは〈わたし〉の〈わたし〉自身にたいする空間性である。この空間性は〈わたし〉の心的世界が〈わたし〉の〈身体〉にたいして関係づけられるとかんがえるとき、はじめて外在的な意味をもっている。
つまり〈わたし〉は、じぶんの〈身体〉を観念化して把握しうる度合に応じて、まったくおなじ度合でだけ〈心像〉を空間化して受けいれることができる。だから〈心像〉の空間性とは、けっして対象のとしての〈心像〉の空間性ではない。いいかえれば現に〈心像〉となっている事物が、現実の事物とどれだけ異った形像となっているかというところに空間性があるのではなくて、〈心像〉としてあらわれるわたしたちの心的世界の空間性いがいのものではない。
 (『心的現象論序説』Ⅶ 心像論 3 心像における時間と空間 P280-P281 吉本隆明 北洋社 )




 
おなじように心像の時間性は、〈心像〉となってあらわれている〈事物〉が、現実的存在としての事物と、どれだけちがうか、という差異の了解性を意味するのではなく、〈心像〉としてあらわれた〈わたし〉の心的世界の時間性である。
 
つまり、〈わたし〉は〈心像〉において、ただ〈わたし〉の心的世界の空間性と時間性をみているだけである。そうだとすれば〈心像〉を、あたかも〈わたし〉にとって対象性であるかのようにかんがえること自体が無意味ではないのか?たしかに無意味である。なぜならば、心像は〈心像〉となってあらわれた〈わたし〉の心的世界そのものにほかならず、けっして〈心像〉となってあらわれた〈心像〉の対象物ではないからである。〈心像〉において、対応する現実存在は、じつは〈心像〉の対象になった〈事物〉ではなく、〈わたし〉の心的世界そのものである。
 (『同上』P281-P282 )




 だがしかし、わたしのかんがえでは(引用者註.引用した『想像力の問題』のサルトルの捉え方とは違って)、〈心像〉において決定的なことは、その対象が非現実的であるということではない。
非現実的な対象が、間接的な多重な関係づけによってあらわれるはずの対象物を直接的な一重の関係づけの世界(感性的あるいは知覚的世界)にひき入れようとする思念によって、はじめて不鮮明な形像的な対象としてあらわれるということが決定的なのだ。いいかえれば〈心像〉において、わたしは概念的な実体そのものに肉体をあたえようとしている。このばあい概念的な対象物が、なんであるかということは、〈心像〉の意識にとっては、その都度撰択され、思念される恣意性にすぎないが、対象物が〈心像〉にあらわれるあらわれ方は、その対象の種類や質にかかわらず、いつもおなじ仕方でしかあらわれないということが重要なのである。なぜならば対象がなんであれ、〈心像〉においては、ただ概念の実体がさまざまな鏡によってさまざまな貌をしてあらわれるだけで、いつもおなじ実体に対面しているだけである。
 (『同上』P283-P284 )
 ※①②は、ひとつながりの文章です。









 (備 考)

③の前には、「サルトルは『想像力の問題』のなかで、〈心像〉の時間と空間についてつぎのようにのべている。」として、サルトルの〈心像〉の時間と空間についての捉え方が引用されている。

わたしたちの身心や言葉は、明治近代と先の敗戦後と二度の大きな欧米からの大波をかぶってきた。そうした事情と状況が、この吉本さんの人間の心的現象の考察を可能とする背景となっている。ここでは、吉本さんは、相変わらずの外来思想の輸入屋たちとは違って、世界思想の舞台にひとり果敢に乗り込んでいることになる。メルローポンティやサルトルなどの考察が引用されているが、吉本さんの考察の参考になったと思われる。それらは良くも悪くもヨーロッパが生み出した世界水準の人間的なものの考察だからである。

 





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597 イメージ論 ⑤ Ⅶ「心像論」、引き寄せの構造Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ 論文 『心的現象論序説』 北洋社 1971.9.30


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心像における対象の引き寄せの特性を、おおくの他の引き寄せのなかで位置づけてみる 〈心像〉の意識が、意志力の此岸にあるとすれば、正常な〈妄想〉あるいは正常な〈幻覚〉という概念では、意志力はいつも主体の心的な世界の彼岸にある。 正常な心的世界が、対象の世界にたいしていつも自由な選択性をもっているようにみえるとしたら、それは意志の恣意性にもとづいている。
項目
1



 〈心像〉について考察をすすめてゆくと、かならずある種の失望を味わう。また〈心像〉についての在来の考察をたどった場合も失望の種類はまったくおなじ質のようにおもわれる。この失望の感じは比喩的にいえば〈一本の樹木〉が眼のまえにあるとき、〈これは一本の樹木である〉ということはたれにとっても自明であるのに、たれもがけっきょく〈これは一本の樹木である〉ということ以上になにもつけくわえられないときの失望ににている。
 
そこで、まったくべつの角度から心像をとりあげてみる必要がありそうである。ひとつの可能性は、心像の意識において、わたしたちは対象の本性のうちなにを引き寄せ、なにを遠ざけているのかをかんがえることである。そして心像における対象の引き寄せの特性を、おおくの他の引き寄せのなかで位置づけてみることである。
 いまここで、
対象世界にたいする心的な引き寄せ(引き込み)の類型をとりだし、そのなかで心像のはめこまれる位相をはっきりさせてみる。この見地からいえば、いままでのところ、心像における引き寄せは、現に感性的な世界にない対象を、感性的な対象世界にあるかのように現前させるものだ、といえるだけである。
 心的な世界にやってくる現象は、すべてなんらかの仕方で対象が引き寄せられた現象であるといってよい。そこで、たんに引き寄せ一般の構造が問題になるのではなく、はじめに特異な心的現象として具体的にあらわれる引き寄せが問題になる。
 (『心的現象論序説』Ⅶ 心像論 4 引き寄せの構造Ⅰ P284-P285 吉本隆明 北洋社 )




 いわゆる〈妄想〉には、よりおおく概念的な了解の異常が関与しているが、〈幻覚〉にはよりおおく感覚的な了解の異常が関与しているといっていい。しかし究極にはこの二つをはっきり分離することはできないようにおもわれる。そこで、正常な(
以下、「正常な」に傍点)〈妄想〉とか正常な〈幻覚〉とかいう矛盾した概念が想定できると仮定すれば、この概念のうちには〈心像〉の概念ときわめて近似した心的な作用が包括されるようにみえる。
 ただ、正常な〈妄想〉あるいは正常な〈幻覚〉という概念を仮定したとしても、〈心像〉とくらべて一つの条件が不足している。
〈妄想〉あるいは〈幻覚〉では、対象の引き寄せの作用において、その動因が〈不可知〉であるとかんがえられている点である。だからたとえ正常な〈妄想〉や〈幻覚〉を想定できたとしても、動因が〈不可知〉であるために、強制や命令のような作為体験としてしか引き寄せの作用はやってこないはずである。〈心像〉の意識が、意志力の此岸にあるとすれば、正常な〈妄想〉あるいは正常な〈幻覚〉という概念では、意志力はいつも主体の心的な世界の彼岸にある。つまり何者かの意志に強制されて〈妄想〉や〈幻覚〉はやってくるのである。そしてこの何者かは、〈妄想〉あるいは〈幻覚〉する本人でないことだけは確実である。逆に、さきにものべたように〈心像〉は、主体が対象を意志するときにしかやってこない。ここでは強制したり命令したりするものは、いつも主体のがわである。作為はいつもこちらがわにあるといっていい。これは心像の意識が〈妄想〉や〈幻覚〉にくらべて正常だからではなく、それぞれの本来的な性質に由来している。
 (『同上』Ⅶ 心像論 4 引き寄せの構造Ⅱ P292-P293 )




 
〈妄想〉や〈幻覚〉や〈変容〉のような、大なり小なり異常な心的体験には、ひとつの共通性をみつけだすことができるようにおもわれる。それは対象世界にたいする意志の方向性(志向)に、正常な位相がかんがえられないことである。このばあい志向性は、あるときは対象そのものに、あるときは対象との関係に付随しているような仮象を呈する。そして対象に付随しているようにみえる志向性は、作為体験として引き寄せられ、関係に付随しているようにみえる志向性は不可避体験として引き寄せられる。志向するときにのみ引き寄せられ、志向しないときには引き寄せがおこらないという恣意性のみが、人間を対象的な世界(環界)に結びつける正常な仕方である。なぜならば対象世界が〈自然〉ならば人間の存在も〈自然〉であり、対象世界が〈心的〉世界ならば、人間もまた〈心的〉世界であるという対応性は、きわめて客観的なものとしてかんがえられるからである。人間が存在しても存在しなくても、対象的世界は存在しうるということは、論理系として証明するのは手やすくはないとしても、きわめてありふれた陳腐な事実であることはまちがいない。そうだとすれば、人間は心的な世界では(「心的な世界では」に傍点)、対象世界が人間にむかって存在していると見做すことも、むかっていないと見做すことも、恣意的でなければならないはずである。そこでは意志(志向)を対象にむかわせる衝迫がなにに由来するかは、一律に云うことはできないとしても、対象との関係について判断をくだすものが、その都度意志であることだけは保証されているとみなされる。正常な心的世界が、対象の世界にたいしていつも自由な選択性をもっているようにみえるとしたら、それは意志の恣意性にもとづいている。
 (『同上』Ⅶ 心像論 4 引き寄せの構造Ⅲ P298-P299 )









 (備 考)

〈心像〉について考察において、ここで「対象世界にたいする心的な引き寄せ」という概念が導入される。と同時に、それは〈妄想〉や〈幻覚〉におけるそれと対比させながら論理の言葉が探索していく。

③の「正常な心的世界が、対象の世界にたいしていつも自由な選択性をもっているようにみえるとしたら、それは意志の恣意性にもとづいている。」の個の「自由な選択性」や「意志の恣意性」は、現在的な段階の心的世界の有り様のように見える。次回に触れられているが、「心的な世界と現実的な世界とが〈地続き〉で」あるような、個が共同世界に埋もれている「未開的な思考の世界像」(いずれも、「心像論 8 引き寄せの世界」より)では、現在からは〈病〉と見えるほかないような有り様だったろう。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
598 イメージ論 ⑥ Ⅶ「心像論」、引き寄せの構造Ⅲ、Ⅳ、
引き寄せの世界
論文 『心的現象論序説』 北洋社 1971.9.30


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〈心像〉においては概念的に把握された対象を、感性的な世界の対象であるかのように再現させなければならない 自己妄想による場面の再現は、じっさいの場面の再現であると信じられているが、想像力による場面の再現は想像的再現であると識知されている。 想像力は現実の世界を抹消することはできない。ただ現実の世界が、有形あるいは有声として〈心像〉に関与することが、想像力の世界では禁止される。現実の世界はただ二次的な世界に退かされるのである。
項目
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 こうかんがえると、〈心像〉においては〈身体〉的な行動によって代理しうる要素はまったくないといってよい。
それゆえ〈心像〉にとって〈身体〉的な要素が関与するとすれば、ただ意識作用の生理としてだけである。そしてあらゆる心的な現象は生理的な器官の上に座しているという意味では、このばあいの〈身体〉生理的な変化は、べつに〈心像〉に固有なものとは云えない。
 
〈心像〉が〈身体〉的な行動によって代理される要素をもたないということは、〈心像〉においてあらゆる心的な行動の経路が、すべて心的な構成に参加することを意味しており、このことは〈心像〉によりおおく価値を与える根拠をしめしている。




 対象が眼のまえに存在しないという意味では、〈心像〉と〈視覚的直観像〉は区別することはできない。そして質的な差異があるとはいえ、形像的に再現されるという意味でもこの二つはおなじような属性をもっている。ただ引き寄せの構造からみれば、〈視覚的直観像〉は単純な視覚的な形像の〈再現〉にほかならないが、〈心像〉の引き寄せはたんなる形像の再現を志向してはいないのである。
 
〈心像〉においては概念的に把握された対象を、感性的な世界の対象であるかのように再現させなければならないし、たんなる視覚的に把握された対象をも、無数の心的な経路の綜合的な同時像として再現しなければならない。〈心像〉におけるこのような再現作用は、〈身体〉的な行動を無意味化することによって、〈身体〉的な行動の意味を心像のうちに、価値として吸いあげることを意味しているようにおもわれる。
 (『心的現象論序説』Ⅶ 心像論 4 引き寄せの構造Ⅲ P303-P304 吉本隆明 北洋社 )




 ところで、
わたしたちは想像力の世界が、もともと直接的関係の世界には存在しない対象を、直接的関係として現前させようとする志向によってもたらされる世界であることを知っている。それならば想像力の世界もまた、すべてを直接的世界として関係づけようとすることによって成りたっているということができるはずである。けれど想像力の世界は、想像的意識によって引き寄せられる世界である。考想察知の世界はしかし察知の意識によって引き寄せられる世界ではなく、自己妄想の〈投射〉によって引き寄せられる世界である。)
 (『同上』Ⅶ 心像論 7 引き寄せの構造 Ⅳ P308 )


 
そうだとすれば、〈予知〉能力者にあらわれる能動態としての考想察知と、ごくふつうの想像力による対象の構成とは、どこがちがうのだろうか?
 そのちがいは、わずかにつぎの点である。
 〈予知〉能力者にとって対象の再現は、たとえ有形におこなわれても、それは〈事実〉だと確信されている。かれはじぶんの遭難場面が再現されるたとき、すくなくともその瞬間には実際の場面の〈察知〉または〈遠隔予知〉であると確信してうたがわない。想像力においては、あくまでも想像的再現であることは本人にとって意識されており、それが実際の場面とかかわりがあるとはかんがえられていない。
いいかえれば自己妄想による場面の再現は、じっさいの場面の再現であると信じられているが、想像力による場面の再現は想像的再現であると識知されている。
 妄想的再現は、本質的には
心的に構成された世界と、現実の世界地続きであるという識知にねざしている。もちろん、人間にとって世界がこのように視えた時代はあったにちがいない。かれらにとって雨乞いをしたがゆえに雨が降ってきたのであり、何者かに呪詛されているがゆえに病気は治らなかったのである。世界がこのようにみえるかぎり、たんに妄想的な再現が現実の場面の再現として識知されるばかりでなく、逆に妄想的な再現のとおりに、現実の場面が成就することも可能とかんがえられたのである。
 (『同上』Ⅶ 心像論 7 引き寄せの構造 Ⅳ P315-P316 )




 考想察知現象の世界のように、心的な世界と現実的な世界とが〈地続き〉であり、したがって心的にそうであると信じられたことは、ある契機さえあれば、現実的にそうであると信じられてすこしもうたがわれないといった世界は、どのようにできあがっているのだろうか?
 
未開的な思考の世界像も、ある程度このような世界であるとかんがえられている。このような未開的な思考の世界では、心的な世界と現実的な世界とを接地させているものは、なんらかの意味で共同的な観念の世界とかんがえることができる。たとえば、未開的な種族にとって、太陽はもっとも高位の種族的な信仰の対象であったとする。そうだとすると、太陽の方向にむかって弓や矢をむけて射ることは、冒涜であり、かれらが戦で敵に敗れたのはそのためである。このことはまともに信じられる。


 考想察知の現象では、心的な世界と現実的な世界とを〈地続き〉のようにかんがえさせているものは、さきにものべたように〈自己妄想〉の世界である。しかしこのばあい〈自己妄想〉は、たんに病的な個体の内部に発生する〈自己妄想〉という意味ではない。いいかえれば自己妄想の意識によって心的な世界と現実的な世界とが〈地続き〉のように接続されているわけではない。
このばあい自己妄想は、対象に〈投射〉されたうえで自己妄想の世界として引き寄せられるため、自己妄想が対象と自己とのあいだをボール投げの繰返しのように往き来することによって、共同観念の世界の代同物の性格をもつようになる。そしてこの共同観念に擬せられる性格をもった自己妄想の世界が、心的な世界と現実的な世界とを接続する媒介の世界となるとみなすことができる。


 想像力において、わたしたちが当面するのは、二律背反の世界である。もしも現実の世界が有形または有声として把握されるならば、そのものについての〈心像〉【ルビ イメージ】の世界は存在しえない。そして存在しえないばかりでなく、このばあい〈心像〉の世界は、迂遠であり無意味なものとなる。逆に、もしあるものについての〈心像〉の世界が存在するならば、そして存在することに意味があるならば、現実の世界は有形または有声の世界から遠ざけられる。もちろん現実の世界の存在は、〈心像〉の世界の有無にかかわらず存在しうるものであり、また存在している。
想像力は現実の世界を抹消することはできない。ただ現実の世界が、有形あるいは有声として〈心像〉に関与することが、想像力の世界では禁止される。現実の世界はただ二次的な世界に退かされるのである。(了) 
 (『同上』Ⅶ 心像論 8 引き寄せの世界 P316-P319 )
 ※①②は、ひとつながりの文章です。









 (備 考)

個の内に湧き上がる〈心像〉の世界、想像力の世界を、病や太古のそれと対比させながら明らかにされる様をたどってきた。
現在は、現実的な具体性よりもイメージ(個的、共同的)が優勢の時代のように感じられる。そのことは、旧来的な自然が人工の度合いを深め、わたしたちの自然感覚や自然意識がバージョンアップされているように見える。そうして、このことはサービス産業や広告産業の隆盛という現在の産業の構成と対応しているはずである。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
611 江藤淳 「江藤さんについて」 インタビュー 『吉本隆明資料集 181』 猫々堂 2018.12.30

 「江藤さんについて」
 ※ 聞き手 大日方公男 (2011年9月9日) 『江藤淳1960』2011年10月発行
 

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「ぐるり一回り違う廻り方をして同じ場所に出る」 僕も江藤さんも小林秀雄の批評をどこかで超えられないかという野心があった。 個人と個人より狭い「固有の個人」
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― 対談を読むと、お二人とも思想や文学をめぐって対極的な立場であると同時に
「ぐるり一回り違う廻り方をして同じ場所に出る」というような、よき理解者でもあったという印象です。

吉本 周りからは左翼と保守派の論客のように捉えられていたけれど、私怨はもとより敵愾心を持ったり、対立者であると思ったりしたことは、一度もありませんでしたね。
 江藤さんは大変な才能と文学的な資質を持った人で、頭もよく分別があり、敬意を表してきました。自分より下の世代(八歳年少)からこういう優れた人が現れたという驚きがあり、向き合うと終始、その世慣れた物腰や態度に僕のほうが年少で未成熟であったかのような格好でした。
 江藤さんもそういうことはよく了解されていて、言葉の端々では対立的な物言いをしていましたし、本音とは違う役割の場所から無理して応対していたけど、
文学的な問題意識は地続きで、芯は同じだよと感じていたと思います。そういう実感が長く続いてきました。
 (「江藤さんについて」P39-P40 『吉本隆明資料集 181』猫々堂 )
 ※ 聞き手 大日方公男 (2011年9月9日) 『江藤淳1960』2011年10月発行




― 
六〇年安保前後に江藤さんは『作家は行動する』(五九年)を、吉本さんは『言語にとって美とはなにか』(六五年)を書かれ、言語を批評の基軸に据え文学論を展開されました。・・・中略・・・

吉本 
僕も江藤さんも小林秀雄の批評をどこかで超えられないかという野心があった。そこで文学作品を人間の宿命的なドラマとしてよりも、言語や想像力という問題から微分化して捉えることができないかと考えました。別の言い方をすると、作品の評価や歴史的価値を何とか論理や理屈でできないものかと考えて、埴谷雄高さんなどからは「文学作品に論理的な優劣をつけることなどできるかね」と皮肉られましたが、僕はがんばって「できると思います」と答えました。
 江藤さんの『作家は行動する』は、作品の現実的な価値と想像的な価値を作家の行動というところで統覚しながら、そういう問題意識に先鞭をつけた本で、僕は大いに励まされた覚えがあります。しかし、理屈だけで作品を評価することはなかなかうまくいかないということも後にだんだん出てきて、僕などもやはり小林秀雄が古典を論じたような批評の魅力に太刀打ちできないと感じることもしばしばありましたが・・・・・・。
 僕の場合は戦前から小林秀雄の追っかけでしたから、まさに骨絡みでしたが、江藤さんは初めの頃は小林秀雄的な批評に不満があったと思います。しかし、六〇年安保の渦中で小林秀雄の批評に本格的に取り組んで「これはいかん」と思い始めた。僕などがむしろ小林から離れていこうとしていた時に、逆に江藤さんは接近して、小林の言語の出所やその人生まで実証的に調べ、その批評のあり様を徹底的に解剖して、自分の血肉にしていくという転換期を迎えていたように思います。もとより、江藤さんの文章力や軟らかい文学性は僕らには真似できないほどすごいものでしたし、小林秀雄同様、江藤さんの文章自体が文学になっているといってもいいくらいです。
 (「同上」P41-P42 )




― 吉本さんの批評が、歴史的な実証性よりも論理の強度や詩的な飛躍を特徴とすることと比べて、江藤さんは初期の夏目漱石論から米国の占領期研究まで実に実証的に展開しながら、時代との格闘や現実的で複雑な対人関係から人間のドラマを描き出しているようにも思えます。

吉本 僕の批評との様相の違いからすると、そういうことはあるでしょうね。
江藤さんの批評的な資質はそういうところで開化していったのかもしれません。
 ただ、僕らがどこか左翼レーニン的なものの名残りで、人間の意思を社会的な思想や相互関係から性急に割り出そうとしてしまいがちなのに対して、江藤さんは時代や社会の中に深く潜ることで、その両義性をちゃんと捉えて、理解を行き届かせていった。そのあたりは見事なものだと感嘆したことが何度もありました。
 
その一方で、自分に対しての解説や精神の秘められた部分への言及にはあまり熱心ではなく、説明抜きでばさっと自分を打ち出してくるようなところがあった。そういうところが、江藤さんの文学の最も軟らかい部分を成り立たせている資質でもあり、同時に何か精神的な暗い部分でもあったと感じていました。
 (「同上」P42-P43 )


吉本 好んでかどうかは分かりませんが、
資質として江藤さんはそういう政治家的なところがあった。江藤さんは、日本の統治や権力の中に潜む謎を解くことが自分にとっての文学なんだと言いました。
 僕は、そんな関心は持たなければいいのに、
先進国の最も大切な課題はアメリカのいいなりにならない日本を主張することなどではなく、国家やそれを支える父性というものが稀薄になった後の問題だと思っていました。でも、江藤さんはそう考えずに、文学の問題として国家を扱った。そのために受けた評価と圧力は江藤さんを大きくはしたでしょうが、一方では不幸にしたかもしれません。そこが江藤さんの不思議なところで、最も興味深いところです。
 (「同上」P44-P45 )




― 大塚英志さんとの対談『だいたいで、いいじゃない。』(二〇〇〇年)で、吉本さんは、サブカルチャーなどの広範な影響によって文学作品が変容し、村上龍や村上春樹の作品は、江藤さんの文学観に沿うものではなくなったと言われています。
 
吉本 僕もかなりイカれましたが、江藤さんが小林秀雄の後継者として文体や方法を磨き上げ、純文学の世界できちんとした批評的散文を作り出してきたことからすると、サブカルチャーやそれを成り立たせている現代社会のあり様はどうしたって馴染まない。
 
僕ならどこかで、文学はもう知的な特権でもなければ、作家の独創性の刻印でもないと開き直って、特殊な作業には違いないけれど、消費や流通の側面も含むものだと考える。でも江藤さんは自分の姿勢を崩さなかった。
 もっとも、後から広く含まれてきたものだけを拡張すると、文学作品には孤立的な精神も情況を引っかくような力も失われて、それでは文芸批評の意味はなくなってしまう。江藤さんが作品に向き合って「これではいかん」と感じたことはよく分かりますし、
それはもうなかなか僕らの手に負えない問題になってきています。江藤さんがあんなに若くして亡くならずに(引用者註.江藤淳は、1932年-1999年7月21日。)、もう少し長く生きていたら、そういう問題にどんなけじめをつけたのか気になることではありますね。
 (「同上」P45-P46 )


― 「戦後と私」(六六年)や『一族再会』(七三年)で、江藤さんが生まれた山の手の大久保界隈が戦後の都市化で猥雑な街になったことへのつらい郷愁を吐露し、軍人であった祖父への思い入れがあったりする。それが江藤さんに戦後民主主義や大衆文化への、曰くいいがたい違和感を抱かせた。その虚構や喪失感が、江藤さんに文学への手応えを失わせ、自分を公然と認知できるような政治評論や政治史研究に向かわせた理由と言えますか。

吉本 そう捉えることもできると思います。個人の育ち方や家のあり方もいろいろ異なりますし、それぞれの地域の風土で違うところがありますが、それを一緒くたにすることは実はできないのではないか。
個人より狭い「固有の個人」を意識しなければうまく解けないことがあり、そこが問題だという気がします。身体を捻らないと通れない道があるように、孤独な個人通る狭い道があって、それを設定しないと風景の中にも社会の中にもうまく入っていけない要素があると感じます。それはとても大事なものですが、僕には明瞭には分からないもので、絶えず悩まされるものです。
 山の手ばかりでなく、東京の下町もとても様変わりしましたし、その時に僕が何をどう感じてどう言葉にしたいのか、そのことを本当は知りたいわけです。しかしそこへ積極的に踏み込んでいくとうまく伝わらない。自分にとって寄る辺である故郷や記憶が確かにある気がすることと、そんなものどこにもないやという気が同じ地平で感じとれる。戦後の日本はそれが本当に分かりにくい空白として残ります。
(註.1)スキーで滑るとあれあれという間にまったく自分が辿り着くと思ってなかった場所に辿り着いてしまう感じによく似ています。江藤さんもそういう迷路に入り込んでいたのかもしれません。
 (「同上」P49 )









 (備 考)

吉本さんから見た江藤淳の美点とふしぎだねというところに注目して取り出してみた。


『追悼私記 完全版』(講談社文芸文庫 2019年4月)の「江藤淳氏を悼む」には次のようにある。

 江藤淳さんは現在の日本で最大の文芸批評家だったと思う。
 彼が学生時代に書いた「夏目漱石」は、それ以前の漱石論が「暗い内面の心理を掘り下げて分析する」というスタイルだったのに対し、漱石の全体像をはっきりとつかみ取って見せた。弟子の森田草平や小宮豊隆らの漱石理解の水準も突破する画期的な評論だった。
 そして書き継がれてきた「漱石とその時代」では、妻鏡子への評価など極めてラジカルな視点を打ち出した。文芸批評家としての江藤さんの仕事は、まさに「漱石に始まり漱石に終わる」と言っていい。


 それは、彼がイデオロギー的に保守や進歩を裁断したりせず、公式的な教条とも無縁だったことと関係している。つまり、彼の本質は、あくまで文学にあったということだ。意見が異なろうが、大変信頼できる人だったのも、そういうところがあるからだった。


(註.1)
これと関連する表現として、ここには引用しないけど、「佃渡しで」という詩がある。『吉本隆明前著作集1 定本詩集』(勁草書房)に掲載されている詩で、巻末の川上春雄の「解題」によると、昭和三十九年かその直近年代と推定されている。吉本さん四十歳近くの作品ということになる。、「佃渡しで」は、自分が生まれ育った地が大きく変貌した中での思いを、父と娘の対話の形式で表現したものであり、わたしの特に好きな詩のひとつでもある。

吉本隆明略年譜(作成・石関善治郎)によると、長女の誕生が1957(昭和32)年12月だから、昭和三十九年だとすると、娘は7歳くらい。娘と二人佃島を訪れたことが「佃んべえ」(『背景の記憶』所収)と言う短い文章に記してある。その体験がこの詩のもとになっている。その「佃んべえ」には詩「佃渡しで」のモチーフが次のように語られている。(※ 「佃んべえ」でその詩に触れていることは、平川 克美の「見えないものとの対話 第9回失われた風景」という文章で知った。)

二度目にいったのは縁者の急病のためだったが、このときは娘と二人だけだった。すでに佃大橋もできかかり、堀割は埋立がすすんでおり、舗装路が貫通し、少年のころ住んでいた家のあとも、ひとつは完全に消失していた。もうおれは、用件以外の雰囲気を込めてこの街へ来まいとおもった。すでにそれは都市の膨化に追い立てられ、やむをえず改装され、ペンキをぬりかえられる場末の安キャバレーににていた。木下杢太郎よ、パンの会よ、明治の大川端趣味よ、おれがこの風景にとどめを刺してやると思って、『佃渡しで』という詩をかいた。」


④の「個人」も「固有の個人」も、言葉によって抽出された一般性の概念には違いない。「個人」と言えば、近代以降の概念で、世界普遍性を持つような概念である。しかし、それぞれの国家や風俗習慣の歴史性の下の「個人」というものが考えられる。例えば、現在のアメリカにおける「個人」の概念やイメージとわが国におけるそれとは色合いが違うだろうということ。さらに、わが国内でも、近代以降と近代以前では「個人」の概念やイメージが微妙に違うだろうということ。

またさらに、ここで吉本さんが提出しているように、同時代であってもそれぞれが違った家族や地域で生い育ってきて背負っている
ものを無視できない場合は、すなわちより抽象度の高い一般性の「個人」という括りではこぼれ落ちてしまうものがある場合は、「固有の個人」ということを想定せざるを得ないと言うことだろう。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
697 一夫一婦制 第1章 「終わらない恋愛」は可能か 語り 『超恋愛論』 大和書房 2004.9.15

構成 梯久美子

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やっぱり一夫一婦制というのは、人類の理想なんじゃないでしょうか。
項目
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 恋愛というのは、一人の人とずっと続くのがいいのか、それともいろいろな人と何度もしたほうがいいのか。
 現実問題として、「一生、一夫一婦制でいかなきゃいかん」なんてことを言い出すと、友達の半分は失うし、うちの子どもとの関係だって相当まずいことになりかねないわけですが、これについては、いい・悪いの問題ではないと思っています。
 もし理想的な社会機構になっていて、自分の気持ちだけで自由に相手を選べるということになれば、一生、その相手と続くのは当たり前という理屈になるはずです。
 やっぱり一夫一婦制というのは、人類の理想なんじゃないでしょうか。誰もそれで文句ないでしょう、という男女関係なんだろうと思います。
 社会的・政治的・経済的に、あらゆる条件が自由であれば、そこで相互に選び合う男女は、本質的なところでお互い相手を理想的だと思っているわけで、生涯、一緒に行くというふうになるんじゃないでしょうか。
 けれども今の社会の段階では、たぶん駄目だと思います。





 離婚も浮気もせずに一夫一婦制で行っている夫婦もいるでしょうが、それは相当いろんなことを我慢しているんじゃないかと思います。
 一夫一婦制が成立しづらいのは、まだまだ経済的なものが大きいでしょうね。あっちは大金持ちで、こっちはぜんぜん駄目、ということになれば、そりゃあ判断の目も曇ってきます。その他にも、選択を間違うのが当たり前、という条件がたくさんある世の中ですから。
 自分の親とうまくやってくれるかどうかを気にする人もいるでしょうし、自分が仕事しやすい環境を作ってくれるかどうかを選択基準にする人もいるでしょう。あとは、人さまに「いい人と結婚した」と評価してほしいとか。多かれ少なかれ、こうした要素を入れて相手を選んでいるわけです。
 相手を見るときに、いわば先入観のようなものがあるわけですから、本当に自分に合う相手をなかなか見極められない。
 こうした状況の下では、間違うのが当たり前、一生添い遂げられないのは当たり前、ともいえます。
 離婚に至らなくても、「間違えたな」「これはちょっと失敗したかな」と思いながら、生涯行くわけです。
 (『超恋愛論』吉本隆明 P35-P37 大和書房 2004年9月)
 ※①と②は、連続した文章です。









 (備 考)

新潮社「波」に連載されていた。永田和宏「河野裕子との青春 あなたと出会って、それから・・・・・・」が第18回(最終回は、2021年6月号)で終わった。しばらくして単行本になって出るようだ。これ以前にも連載があって、それは『歌に私は泣くだらう―妻・河野裕子闘病の十年』(2012年7月)という本になっている。その時疑問に思ったが、普通の人はこんな本は書かないだろうなと。やはり、二人とも歌人という表現者だからだろう。
 
人が生きていく上での喜びや悲しみや抱えた問題や、それらを徹底して表現するのが表現者(文学者)であるとすれば、このことは表現者としての宿命であり同時に作者にとっての愛惜でもあろう。作者の家族内に関わることも多いがそれがオープンにされることは、読者にとっても意味のあることに違いない。
 
今回の連載は、永田和宏と河野裕子の恋愛から結婚に至るまでのいろんないきさつが、今は亡き河野裕子の日記や歌なども引用しながら、ていねいに描写されていた。普通の人々同様だろうが、いろんな条件を二人が受けとめ乗り越えてきたことがわかる。

恋愛から結婚に至る上記の引用に関わると思われたので、触れてみた。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
742 欧米から学ぶものは、もう何もない 「国際化」ってなんだ? 対話 『悪人正機』 朝日出版社 2001.6.5


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日本人の欧米に留学した人たち 森鴎外と夏目漱石だけは、別でした 模範になるようなところ
項目
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 欧米云々に関して言うと、僕は、日本人の欧米に留学した人たちが気に食わねえんですよ。
 明治の初め頃から、頭のいいやつらが欧米に留学してきて、みんながみんな「欧米はすごい。人間はできてるし、話がわかるやつらだし、もう、憧れの地だ。ありとあらゆることが上等なんだ」みたいなことを言ってたわけでしょう。森鴎外と夏目漱石だけは、別でしたけど。
 だけど、今回のユーゴもそうだけど、あんな小さな国の中で、日本でいえば東京と大阪が戦争しているようなもんでしょう。アイルランドなんかもそうだけど、なんだ、ずいぶんと野蛮なことしてるじゃねえか、と。
 ヨーロッパっていえば、ものすごく立派な国で、あらゆる意味で模範になるんだっていうような印象を与えてきたわけですよ。向こうに行ってた秀才どもが。
 だけど、それは違うんだってことが、もうわかっちゃった。今になるとね。
 欧米、例えばフランスをひとつの代表国と考えてみたら、もう向こうから輸入するものなんか、何もないでしょう。日本が学ぶものなんか、もうないわけですよ。
 あえて言えば文化でしょうか。
 そういう立場の人もいるけど「それも、もうないぜ」と言っていいと、僕なんかは思っていますけどね。貧弱なもんですよ、例えば万博みたいなイベントで各国のパビリオンを見て回ってみると、進んでいるって言われた国に何もないのがよくわかりますよね。筑波の万博の時に、つくづくとそう結論づけましたよ。
 鴎外と漱石が別だって言ったのは、今思うと、要するにホントのところを書いていたなと。
 ロンドンに行った漱石なんか、金はねえし相手にされないで、汚い格好でふらふら歩くだけ。学校行っても何の勉強にもならねえってんで、本買って下宿にこもって勉強するって生活してたら、下宿先の人に神経衰弱扱いされたとかね。自分でも「あそこの空気を何立方センチか吸ったってだけでもイヤでイヤでしょうがない」みたいに書いてるし。
 でも、それ以外の人たちは、ちょっととんでもなく違うことを言い続けてきたって感じですよね。模範になるようなところなんてのは、ありゃしないんですよ。
 (吉本隆明『悪人正機』P94-P96 聞き手 糸井重里 朝日出版社 2001.6.5)









 (備 考)

吉本さんの根拠、実感の形成。吉本さんは別の所であんまり自宅から出ないと語られているが、必要なことはこのように、「例えば万博みたいなイベントで各国のパビリオンを見て回ってみると、・・・」というように、科学者が実験をするように見て回って、自らの実感や論理を形成している。


ちなみに、その「つくば万博」のことは何度が触れられている。いくつかあげてみると、

1.「文芸雑感」(講演日時:1985年9月7日 吉本隆明の183講演 A085)
 ※この「講演のテキスト」に、出だしの部分の「2 究極のイメージとしての文学とは何か」に少し触れている。

2.「イメージ論」(講演日:1986年5月29日 吉本隆明の183講演 A092)
 ※この「講演のテキスト」に、「3 究極映像という考え方」という項目の見出しがあり、そこで触れている。

3.「続・日本人の死生観」(講演日時:1986年11月17日 吉本隆明の183講演 A096)
  ※この「講演のテキスト」に、「3 つくば万博・富士通館の高次映像」という見出しがある。
  ※「つくば万博」は、1985年3月17日から同年9月16日までの184日間にわたって行われた国際博覧会。

4.『ハイ・イメージ論Ⅰ』、「映像の終わりから」に触れてある。


ところで、「欧米から学ぶものは、もう何もない」というこの問題は、大ざっぱに言えばこの列島に生きるわたしたちが、アフリカ的な段階の基層の上にアジア的な段階やヨーロッパ的な段階をどの部分までどう浸透させてきたのか、という問題と関わるものであり、受け継がれてきたそのようなわたしたちの精神の遺伝子のようなものの物語の構造を内省し、はっきり捉えようとしないかぎり、やわらかな未来性は生み出されないような気がする。そうでなければ、時代や状況や社会に現象する事件などに流され続けることになる。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
745 「生きる」ってなんだ? 「生きる」ってなんだ? 対話 『悪人正機』 朝日出版社 2001.6.5


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いちばんの修正結果は「死は自分に属さない」っていうことでしたね。 これは形而上的には考えていたはずなんですけどね、 僕らが若いころは
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 この歳になると目や足も不自由になってきたりするし、一度、死んでるしね(笑)。(註.1) こんな状態で生きてるっていうのは、どうも自分の趣旨に反するぞって思ってね、それをしきりに考えましたね。
 目が見えなくなるっていうのは相当キツイことでね。あの、梅棹忠夫さんなんかでも自殺しようかなんて思ったっていうんですね。僕もそれに近いところまではいったかな。こうなってなお、この世は生きるに値するかみたいなことを考えてね、それまでの自分の考えを修正したわけですよ。
 いちばんの修正結果は「死は自分に属さない」っていうことでしたね。
 たとえば臓器提供における本人の意思が云々の話にしても、いくら自分のハンコ押したって、てめえが死ぬのなんかわかんねえんだから、結局は近親の人が判断するしかないんですよ。死を決定できるのは自分でも医者でもない。要するに看護してた家族、奥さんとかですよね。その人が、「もう十分・・・・・・」と判断した時、もう結構ですからと言われた医者が延命装置を外して、死はやってくるんです。
 つまり、老いたり身体が不自由になったりした次に死が訪れるんだという考え方は、本当は間違いじゃないかって思ったんですよ。
 これは形而上的には考えていたはずなんですけどね、肉体としての死というものは、どうやら自分には属してないらしいぞということが実感的にわかったんで、それまでの考えを修正したわけです。
 (吉本隆明『悪人正機』P17-P19 聞き手 糸井重里 朝日出版社 2001.6.5)




 ただ、そこで「さて、お前にそんな価値あるのか」って言われると本当にわからねえなあと思うんだけど (笑)。 ただ、死が自分のものじゃないってことが言えるだけでね。でもそれは十分、生きるための「抜け道」にはなったんですね。
 それで結局、生きる価値はどこにあるんだ?それはちょっとね、本当にわかんないですね。わからないでしょう。何で価値があるかなんて、わかんないですよね。
 わからなくても、ある場合には何かに夢中になってるから、その時間があるから、まあ、間に合ってるというか、生きてるほうにいるわけだけど、生きてどうするんだとなんて言われても、そんなの何もないですよね。
 そんなものないし、あるぞ、みたいなことを言うのはおかしいんじゃないかと、逆にそう思いますね。
 (『同上』P19-P20 )




 僕らが若いころは「何か一つのことっていうのを積み重ねていくと、なにかまとまりのつく結論的な姿が見えるようになるはずだ」っていうことが、生きる目標の中に無意識のうちに入っていたと思うんです。
 ところが、今はどうなんだっていうと、正直「おまえ、こういうふうになるのが一番得だぞ。これがいいぞ」とかってないんですよね。実は、ないっていうことを、若い御当人たちはしっかりわかってるから、俺が言うことなんてないんじゃないか。そうすると何も言うことないじゃないか、ってなっちゃうんですね。
 言うこともないし、こうすればいいんじゃないかみたいなこともないし、みたいになっていくと、変なところであんまり線を引かない方がいいよ、みたいになりますよね。結局、それがいちばん、言えることなんですよね。
 (『同上』P27 )









 (備 考)

(註.1) これは以下のことを指していると思われる。
1996(平成8)年 七十二歳
8月 家族と夏の休暇を過ごす西伊豆土肥海岸で、遊泳中に溺れる。(吉本隆明超略年譜より)


 若い頃からの「形而上的には考えていた」吉本さんの思想や言葉に慣れていたわたしたちには、老年の吉本さんの言葉は少しとまどいを感じさせもする。しかし、身体的にも思想的にも老年を潜り抜けていく吉本さんの実感に支えられた言葉に出会っているのだと思う。

また世界性を持った思想の言葉に違いはないが、その対象が本人にとっても切実な身近な生活や生きることの実感の世界に向かってきたと言えそうだ。そうして一方に、『芸術言語論 ― 沈黙から芸術まで』や『ハイ・イメージ論』や『母型論』などに象徴される、この社会の総体のイメージや動向や人間の本質について解明するある抽象度を持った世界性を持った思想については、ある程度の道筋を付けてきたという思いがあったものと思われる。

 人生論や人生の価値論のたぐいは、たぶん書物としてあふれているのだろうと思う。おそらく、人間のはじまりから人間の「生きる価値」はくり返しくり返し問われてきただろう。しかし、吉本さんの「それで結局、生きる価値はどこにあるんだ?それはちょっとね、本当にわかんないですね。わからないでしょう。何で価値があるかなんて、わかんないですよね。」という言葉が、今以て人類の実感じゃないかと思われる。






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