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ID 項目 ID 項目
414 管理システム
431 個人の判断力 
436 感性の秩序の変革       
442  現代詩と大衆のつながり       
457 9条は先進的な世界認識      
         




項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
414 管理システム かんりしすてむ 第三章
 国家と社会の寓話
論文 中学生のための社会科 市井文学 2005.3.1

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ユートピア 集団の成員としての個人と自由な個人 たった一つの希望
項目
1
@ 大なり小なり政治的(つまり社会集団的)理念と論理に関わりをもつ思想ははじめから開かれていなければ「ユートピア」社会を作り得ない。別の言い方をすれば、一般社会のもつ雑種性の自由度と管理システムより優れた管理社会を作り得なければ何の意味もない。つまりは開かれても引き入れる利点をもたないならばどんな口先の当たりがよくても意味をもたない。            (P173)

A これを歴史の理想的な理念でいえば、人間は過去を徹底的に追究することによってしか「未来の歴史」を語ることはできない。追究の不徹底や誤謬に惑わされている限り「未来の歴史」は虚偽以外のものしかもたらさない。「無知が栄えたためしはない」これがマルクスのつぶやきの意味かとおもう。「知る」ことは「怖い」ことでもあるのだ。
            (P175)

                        
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2
B もし伝統の山岸会型の閉じられかつ管理される者と管理首脳とその下僚とを混同したり同一化したりしない管理制度があり得るとすれば一つしかない。
 
管理される者の利益、自由度、志向性、意志をいつも最優先に置くこと。言い換えれば管理制度がそのために必要である当のことを第一義とすることだ。そうでなければ当の管理社会は廃棄されるか改善される以外に意味を持たない。管理社会が開かれて一般社会のなかにあるためには、会員の等価労働が必要となる。この場合の交換価値は一般社会の価値よりも、同種の業目、品目より低くなることは確実である。そこで管理首脳は有利に別途の利潤を管理必要者にまわすことができることになる。たぶん管理組織のなかで被管理者の利益、自由度を最優先するという原則は破られないはずだ。
            (P178−P179)


C 管理社会の首脳の側面から考えると現在の高度管理に異論をもち、自己の発想、現役割、もしかすると収入と支出の自由と規模から考えて自己修正した管理システムを実現しようとする首脳など存在しないといえるかもしれない。わたしもはじめそう考えてもはやどんな修正意見も先細りになってゆくし、反対や改善にまわることはあり得ないとおもえた。絶望するほかないとおもえた。  (P179−P180)

 けれど実例を挙げてみる。有能な経済専門家だとわたしは思っている『経済発展の理論』のジョゼフ・シュンペーターのいちばん説得性のあるマルクスに対する異論を例にとってみる。だが人間の力が当面する通例のようなもので、難しい通り路は塞(ルビ ふさ)がりやすいものだ。
私はこの絶望的にみえる通路こそ塞ぎやすいことを考えるに至った。既成の解決法は何も要らない。爆破も崖崩れも要らない。細い路に水を引き入れるか、軽く塞げばいい。科学や技術は便利なものだが、人間を超えることはできない。
 
わたしは管理社会が高度になればなるほど壊れやすいということに気づいた。この場合についていえば、理想を願望し、だが等価以上の何も自己利益に結び付けない、どこにも徴候がないところに踏みとどまっている管理成員を想定できれば半分は成就したとおなじだ。自らその管理システムを実行する成員と、それを説得できる人員とそれだけで十分なのだ。
           (P181−P182)


D シュンペーターが指摘しているのは資本主義と社会主義の集団的な社交で、おそらく社会的な社交としては最後のものだ。しかしマルクスはあらかじめ予期していた論議で、べつに貧乏臭さに固執するのが思想だといっているのではない。集団の成員としての個人と自由な個人とのあいだには明確な違いがあり、この違いの認知こそが究極の問題なのだといっている。            (P183−P184)

E 一般社会に囲まれたユートピアの特徴は簡単に要約される。

   @ 欲望を叶えられる者とその欲望を求めて手に入れてくる者とは別人で分離されていることだ。

   A どんな仕事にたずさわるのも自由だが、ユートピアの経営に直接関わることに無関係だということだ。

 別の言い方をすれば欲求は遂げられるが欲求を遂げに動く主体ではないこと。自由な仕事でユートピアに寄与できるが、そのユートピアを経営する経済力や指導力をもつことはないことだといえる。
 そして大切なことはユートピアを志向するあらゆる管理方式はこのやり方を大なり小なり真似ていることだといえる。例えば、ファシズム(ナチス)やスターリニズム(ロシア=マルクス主義)は、権力者とその下僚が同一の理念をもち、それが一般社会人民の上に独占君臨する方式である。またすべての資本主義社会システムは、何とかして管理システムの上層に位置したいために、激しい能力、学力、経済力の競争に打ち勝とうとする「自由」競争の生涯を送ることになる。これらの違いは管理メカニズムの最上位の権力者が、その下僚を自分の理念に似せた「鉛の兵隊」もしくはそのシンパに仕立てるか否かにかかっており、その変質はたやすいものと考えるべきだ。
 これらの高度な管理システムをどこかに含む国家や社会、また部分社会を擬似ユートピアと呼ぶとすれば、わたしの乏しい知見からは、この擬似性を免れている高度社会は現在まで存在していない。
 どうすればこの擬似性を免れるか、わたしなりにぎりぎりのところまで考えてみた。なぜなら管理システムの高度化は今後電子装置、交通装置の発達と情報科学者たちの無自覚な寄与や関与によって加速加重をかけられることは疑いないからだ。
 科学のもつ中立性は押しとどめることはできないし、またこの科学の中立性は人間の倫理性とは無関係に、どんな資本主義の競争にも社会主義の独裁にも利用され得るからである。率直にいって現在の擬似ユートピアを超える方法は皆無ではないかという絶望感に襲われる。しかしこの絶望感、言い換えれば科学のもつ中立性こそは、また大きな利点であることが見出される。それは絶望の希望というべきものだ。
たった一つの希望とは、繰り返しになるがつぎのような原則だ。

 「すべての管理システムをもっている国家、社会、部分社会は管理される者の利害、健康、自由を最優先すること。これに反する管理システムは破棄されるか、または修正されること。」
           (P185−P188)

備考 註 Cについて  文章の流れ





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
431 個人の判断力 こじんのはんだんりょく どう生きる? これからの十年 インタヴュー 『ブッククラブ回』2006.10 吉本隆明資料集165 猫々堂 2017.5.25

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人生最大の辛さ わからないのは
項目
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@
吉本 戦後になったその転換が、僕にはもう人生最大の辛さというか、わからなさだったんです。その時の転換の上のおっかなさという体験が、どうしようもないショックだった。ひとつひとつ自分で考えて解いていかないと生きちゃおれん、というか。その時に、何が俺はいけなかったのか、何が駄目だったのかという事を考えないと、ちょっと生きた心地もしない感じだった。その悔しさが、結局は考えることの根本的なエネルギーなんじゃないかな。少なくともそういう事に関する限りだったら、俺は考えることを止めないぞっていう、誰がなんといったって、俺は自分で考えるよっていう。もちろん怠け者ですから絶えずそんな事ばっかり考えてという事はないのですけれどもね。でも持続的に考えてきたというのはありますね。


吉本 すべてのことを自分なりに考える、追及すべきことは追及する、とやってきたつもりです。
「それ」という感じだけでしかわからないぐらい、おおいにわからない事もあるんですけど、たまたますぐにわからないのは「わからない」にしておこう、そのうちわかる事になるかもしれないっていうそういうやり方だから。


吉本 そうしてだんだん自分で少しずつ「わかってきたぞ」という場所ができてきたから、そういう他者(引用者註.少し前のインタビューアーの言葉「古今東西の哲学者とか思想家」を指す)に対する向かい方がうまれてきたんだと思います。
できるだけ率直に思っていることは本当に言うというのが、原則というか、心掛けなんです。ただ、そういうやり方をやっていると、つい逸脱して何となく同格じゃねえかって妄想を抱くことがあり得るわけです。いい気になると「お前知りもしないこと言うな」とか言われることも多くやっています。そのつど自分自身に対しては反省はある。自分の生き様を逸脱したことを時々言ったり、やってもいないこと、たとえば政治的なことを発言する時に、「オレちっとも政治ってことをやったことねえな」ってことがある。そりゃ実際やっている人から見たら、僕らの政治批判みたいなのは全然見当外れだよということになるのかもしれません。これは僕の性格的なところからくる弱点なんだろうなと思います。それをやっている人からみると実際に体験していることはいろいろあるでしょうから、なかなか思っている通りにはいかないんだよ、ときっと反発されちゃうということはたくさんやっていると思いますね。だからできるだけ注意しているんですけど。「おまえそんなに偉いのか?」っ(註.ママ)言われるようなことは自分の原則としては言いたくないだけど、つい、うかうかと・・・・・・(笑い)。    (P38−P39)


A
吉本 変わっていくということ自体について肯定的ですね。文明も歴史も科学も刻々考えられて、また感じられて、そのつど時代によって変わっていくものだと思っています。社会の変化に見合うだけの勉強をして、考え方を深めていれば、個人の判断力で対応できるんじゃないかと思っています。ただ、ものすごい変わり方の時はどうしようもないこともあるような気がしますね。僕にとって、敗戦の時の変わり方というのは、もっと大きいものというか、もっと根底的なものだった。あの変わり方は、僕がいくら個人として見識を高めたって、それに対応するだけの力は無かっただろうなと思います。それ以後は一生懸命考えているから、時代の変わり方については自分なりの判断はあります。自分の考え方が正確であるかとか、妥当であるかということについては何も保証がないわけだけど、ただ、自分ではわからなくなったなという事は今までのところは無いような気がしているんで、まだ当分は大丈夫でしょう、と思っていますけれど。(笑い)。   (P40)

備考
こういう対談の貴重さは、それらが吉本さんの著作の概念や論理に対する内省に当たっているということである。つまり、ここにはためらいや揺らぎを含めた吉本さんの言葉や思想の現場があり、言葉の肉体性がある。





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
436 感性の秩序の変革 かんせいのちつじょのへんかく 「現代詩における感性と現実の秩序」 『大岡山文学』1950年11月25日 吉本隆明全集2 晶文社 2016.9.30

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現代詩 現実 感性の秩序 批判
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@
 現代詩が現代に生存する詩人の、感性による統応操作として在る限り、詩の表現形態と韻律に対応する感性の秩序を、現代の現実社会における人間精神の秩序と関連させることによって、また現実そのものの諸条件と照応させることによって論ずることが出来るように思われます。
 僕がここで触れたいのは現代詩の発展方向としての詩の形態内容と韻律の問題だけであり、それを現代の諸条件から帰納することが出来ればこのお便りの目的は達せられるわけです。人間の感性の秩序が現実社会の秩序の写像として形成されていった歴史的な過程を想起して見るならば、現代の現実社会に於る秩序の認識の喪失は、われわれの感性の秩序をの喪失に対応しているように思われます。


 われわれの感性の秩序が混沌として方途を喪っているとき、しかもそれが現代における現実社会の秩序の認識の喪失に原因すると考えざるを得ないとき、われわれの生存の意識を永続的に支えてくれるものは感性による批判という形態で現実に対決することの外にはなかった筈です。・・・中略・・・僕は唯現代における現実の構造が、現代詩それ自体に感性による批判(これは詩の上では韻律の問題として現れる筈です)の機能を要請せざる得ない点を指摘致したいと思います。そしていきおいわれわれは詩概念自体に変革を加えざるを得ないでありましょう。


 僕はここいらで詩の韻律の問題に転じようと思います。詩における韻律は決して言語の持つ音韻の連象を意味するものではありますまい。
言語が人間の意識作用の表象として存在するものであり、詩が何らか意識の持続状態の表現に対応するものであることを考えるならば、詩の韻律は実は意識状態のアクセントの表象であると考える外ありません。詩の音韻というのはこの意識状態のアクセントが最もプリミティブに語音に托されて表象された場合に外ならないと思います。そしてわれわれの詩的操作を検討して見ますと、この意識状態のアクセントは詩人のその時における感性の判断の表象である筈です。僕が詩の中で感性が演ずる批判的な機能を韻律に結びつけて考えているのは正しくこの点においてです。いま定型詩の定型韻というものによって詩の典型を代表させて見ますと、それは肯定韻または従属韻とも言うべきもので、感性はこの定型韻によっては断じて批判の形をとることが出来ません。更に詩の韻律が〈音楽〉と類推して考えられるあらゆる状態において、感性の判断は批判の形をとることが出来ません。詩人の感性が意識の深部において批判の形をとる場合、(まったく!詩人は主題によってではなく、意識の深部において批判せねばならない!)それは否定韻または否定の否定韻として表象されねばならず、このことは詩の韻律を換言すれば意識状態のアクセントの表象を、まるで音韻を構成しない錯綜した構造にせねばならない筈です。
 即ち詩が感性による批判の機能によって現実の秩序に対決する限り、詩の韻律は〈音楽〉から決定的に訣別せねばなりません。現代詩の重要な問題のひとつがここにあります。われわれはどうやら一切のリズムの快感から別れねばならないらしいのです。丁度人間精神が現代において最早神性を憧憬するあの従属感覚から別れねばならないように!斯のように現代詩はその形態内容においても、且て批評が果してきた機能と内容とを自らの内部に包摂するに至るでしょう。(註.1)



 以上の論点は現実社会における人間精神の感性の秩序の変革という思想上の課題からも裏付けることは可能でしょう。
  (「現代詩における感性と現実の秩序」『吉本隆明全集2』P346-P347 初出 1950年11月)


備考
(註.1)
この部分は、この批評とほぼ同時期に書かれた詩集『固有時との対話』(1952年8月1日)の「批評詩」とも呼ぶべき詩作品に実践されていると思われる。

この「現代詩における感性と現実の秩序」という批評は、しばらく後の『高村光太郎』や戦争詩の批判へのベクトルを内包している。この後、戦争−敗戦の過程で自分自身を含めて何が根本的にまずかったのかが、「詩意識の論理化」や「内部世界の論理化」などをキーワードとして批評活動が展開されていく。






項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
442 現代詩と大衆のつながり げんだいしとたいしゅう 「現代詩の発展のために」 論文 1957年1月 吉本隆明全集4 晶文社 2014.9.30

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詩人と大衆の内部には多くの共通点がある 共感の基礎
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@
 現代詩と大衆とのつながりは、詩人の内部と大衆の内部とのつながりあいによってしか、実現しえない。詩人と大衆の内部には多くの共通点がある。そのかぎりでは、詩人の詩は表面的にどんなに難解であり、専門的であるとしても、かならず共感の基礎があるといわなければならない。


A
 
現代詩が、いまの規模と構成をもっているかぎり、大衆とのつながりやコミュニケーションを求める方法は一つしかありえない。それは、現代詩人が、自己の内部世界と、大衆の内部世界との相違点と、共通点を意識的につかみ出して、それを手がかりにして大衆とつながることである。現代詩が、やさしいコトバでわかりやすくというような、大衆の内部をも、詩人の内部をも小馬鹿にしたような通路をたどるかぎり、ますます大衆との真のつながりも、芸術性をも喪う外ない。それは、俗流民主主義詩人の詩作品と、その指導の下でのサークル詩運動が、どんな作品を生んだかをあわせて考えるとことによって自明である。
 (「現代詩の発展のために」『吉本隆明全集4』P375-P376 初出 1957年1月)

備考
 この現代詩と大衆との関係ということは、一般化すれば専門家と素人との関係と言い換えることができる。そういうふうに一般性を持つと同時に難しい問題を含んでいる。しかし、芸術の領域の違いにも寄るかもしれないが、工夫次第では、専門家と素人との橋渡しも可能かもしれない。次のような体験をした。

 今日(2017.7.20)、NHKの「ららら♪クラシック『とことん音楽!わたしのショパン』」(2017.7.20 この番組、3〜4回くらい観たことがある)を偶然ぼんやりと観ていた。ここでの音楽作品の解説(NHKの番組案内によると、ピアニストの仲道郁代)は、わたしのようなクラシックに関心もなくあまり聴いたことがない素人にも親切でわかりやすい。ショパンの曲の具体的な表現とその音楽的な表現の意味するものにわかりやすく触れていた。また、青年期に故郷ポーランドを後にしてパリに出たショパンの曲に、故郷の民衆の音楽のリズムの影響があることも具体的に指摘していた。

 もちろん、専門家と素人とがある共通の地平に立てたとしても、人間が生み出した言葉という自由(制約)の恣意的な解釈可能性や作者(個)との相互理解ということのむずかしさという問題が横たわっている。



(ところで、現代詩に関する吉本さんの晩年の捉え方については、)

吉本 一番先細りになりそうなのは、現代詩というふうに言われていますが、そのとおりになりそうな気がします。
 短歌は千数百年、俳句も数百年の伝統をもっていて、万世一系かどうかはわかりませんけれども、短歌と俳句はちょっと日本語が存在する限り、滅びないんじゃないかなというふうに思っています。

道浦(母都子) 常に、短歌は滅びる、滅びると言われながら、滅びないできていますね。

吉本 ええ、逆にそう思いますね。だから、たとえばあなたの世代ともっと若い世代というので、詩を書いている人はいるでしょうけれども、その書いているものが、これでどうかなるのかね、疑わしいねって今は、思いますね、逆に。だからそれは反対に、短歌とか俳句のほうが残る。まだ寿命はあるというか、そういう感じがします。
 そこがやっぱり一番、めんどうっていえば、めんどうな、日本の詩歌の、詩のめんどうなところだと思いますけれども、それでもちゃんと歌の場合は、伝統的に千数百年の歴史をもっています。はじめに問答の歌謡があって、問答の歌謡からだんだん七五調の短歌になんとなく、こう、ひとりでに水が集まるみたいに集まっていった。それがだんだん、表現として間延びをしてくると、今度は次の形式、俳句と詩が出てくる。その形はなくならないような気がするんです。つまりは、必ずそっちは残るでしょうけれども、ただ、現代詩と言われているものは、これはどこにももう取り柄がない。とらえどころがないっていいましょうかね。これは本当にわからないよっていう感じがしますね。
 現代詩を書いている人たちは、もう今から、どうしていいのかわからない、どうしてどう抜け道を作っていいのか、今からこの一、二年間だと思いますけれども、もうすでにわからなくなっているんじゃないかな。だからといって、こうすればいいというのは、誰か模範を示してくれれば、だいたいそこへずっと集中していくわけで、その作者なら作者を主体にして、だんだん集約されていくということがあり得るんだけれども、今のところ、そうはいえないっていう段階ですね。
 だからたとえば、あなたや『サラダ記念日』の俵さんのように脇の力といいますか、脇を締める力っていいますか、そういう力をもって詩を書く人っていうのは、今いないですね。どう考えたって、現代詩が先になくなっちゃうと思います。
 ・・・中略・・・
 それが本当に少数でも、二人でも三人でも、おっ、っていう人が出てくれば、ちゃんとそこに、なんとなく集約していく。ひとりでに形がちゃんとついてくるっていうことがありうるんだろうけれども、そういうのはないし、また、僕らの年齢の人でも、それより少し若い人もだいたい似たようなものですね。詩の衰退に対して、関心をもって考えなから詩を書いているという人は、あまりいないんですよね。
 それこそ、立原道造みたいな人はそれをやりました。詩を書きながら、具体的な形象に関する限りは、最盛期の短歌と詩をつなげようという、つまり、連結しようということをやっていますよね。

道浦 『新古今集』から学んで書いていらっしゃる。

吉本 ええ。短歌の人でも、岡井隆さんは詩なんかもちゃんと書いてるじゃないかと。昔からよく試みて、研究している人だけれども、まっとうな詩をちゃんと書いていて、呼吸は短歌の呼吸が残っている。本当に呼吸というしかしょうがないんですけれども。でも、ちゃんとした現代詩を書いているじゃないかっていうふうに思います。

  (『吉本隆明 最後の贈りもの』 P109-P112 2015年4月)
 ※本書のこの「吉本隆明に聞く 短歌のゆくえ」は、2009年1月のインタビューとのこと。


 この吉本さんの現代詩に関する認識は、吉本さんがたどってきた和歌(短歌)の変貌や俳句などの興隆の歴史と言葉というものの歴史、そして自らの詩作体験を踏まえた視線からの晩年の言葉である。もちろん、現代詩が死んでも別の文学的な表現は残るだろう。しかし、意志的・意識的に詩を書き続けている者にとっては、現代詩の生命感あふれる表現ということは切実な課題であるはずだ。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
457 9条は先進的な世界認識 「9条は先進的な世界認識」 『東京新聞』2007年8月8日 『吉本隆明資料集169』) 猫々堂 2017.10.15

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超先進的な世界認識 憲法の非戦の考え方 考えどころだっていう課題
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@
 つまり憲法九条はどの資本主義国にもどの社会主義国にもない、超先進的な世界認識なんだと思うんです。これは右か左かで論じたら全然狂っちゃうわけですよ。
 戦争では、弱い方の土地が戦場になって荒らされる。米国なんかすり傷を負った
(引用者註.)だけで大騒ぎでしょ。本当の戦争なんか知らないんですよ。だから僕の理解の仕方では、うまい物は食ってないけど平和な暮らし方をしているうんと後進的な国家や社会、地域、アマゾン川流域の共同体みたいなところは多分、憲法九条に賛成してくれるはずですね。
 日本人はそういう人たちと連携して「おれたちは米国とも中国やロシアとも違うよ」って国際的な広場で積極的に主張したらいい。そしたら
憲法の非戦の考え方にとっては大きな力になると思います。今のように非戦条項を放り出したまま米国一辺倒っていうのが一番だめなやり方です。
 近代化の過程にある東洋諸国の中で、日本は文化的にも文明的にもあるいは産業的にも科学技術的にも、近代化はほぼ終わってます。だから僕に言わせれば「日本は考えどころだぜ、ここでまた西欧のまねをしてちゃだめだぜ」って。金もうけに頭がよく働くヤツが得するような、
ばかな社会をつくるまねをするなって思いますね。
 
自分らの土地と天候と風俗習慣あるいは遺伝子的なものに一番適合したやり方を考えてみろよって思います。世界中のどこにも同志となる国がない特殊な国でしょ、日本は。
 憲法九条に同意してくれる国と一緒にやろうじゃないか、平和について世界を変えようじゃないかってことができたら一番いいね。そういうところが
考えどころだっていう課題だと思います。
 (「9条は先進的な世界認識」P105-P106『東京新聞』2007年8月8日、『吉本隆明資料集169』)


(引用者註.)この「かすり傷」は、2001年9月11日「アメリカ同時多発テロ事件」のことを指しているものと思われる。

備考
現在の日本の社会は、相変わらず先の大戦の戦犯の生き残りやその子孫、あるいはわたしたち普通の生活者から大きく乖離したアメリカ帰りの政治家や官僚によって牛耳られている。まだまだわたしたち普通の生活者(あるいは、市民、国民 )がほんものの主人公となっていない。さらに、敗戦後70年が戦争の体験や教訓を風化させ、わたしたち普通の生活者の意識の中にもその風化が及んでいるように感じられる。「ネトウヨ」にかぎらず、世界政治における軍事バランスという虚構の軍事や防衛に足下をすくいとられている者も多いような気がする。

人類は、集落を形成し、そして隣の集落との摩擦や争い、国(お国はどちらの「国」で、戦国時代など)同士の侵略、戦争、江戸期以降の統一社会・国家の形成、近代民族国家の成立、というように幾多の血を流しながらではあるが戦争という矛盾を解消してきた。世界には、まだ国内で対立し合う地域もある。また、現在少し立ち止まっているがEUのような民族国家を超えた試みも存在する。これは国家間の対立や戦争という矛盾の解消の方法とも見ることができる。人類は、戦争に関しては、主要には国家間レベルの解消の舞台にまで上り詰めてきている。この一方で、核兵器を脅しの手段とした力の政治が世界には居座り続けている。





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論文 吉本隆明全集4 晶文社 2014.9.30

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備考






















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