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ID 項目 ID 項目
414 管理システム
431 個人の判断力 
436 感性の秩序の変革       
442  現代詩と大衆のつながり       
457 9条は先進的な世界認識      
460  還りがけの視線―書くことの世界から       
465 個にとって世界とはなにか      
467  芸術の価値は自己表現      
471 〈緊急の課題〉と〈永遠の課題〉      
476 逆立ということ      
     





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
414 管理システム かんりしすてむ 第三章
 国家と社会の寓話
論文 中学生のための社会科 市井文学 2005.3.1

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ユートピア 集団の成員としての個人と自由な個人 たった一つの希望
項目
1
@ 大なり小なり政治的(つまり社会集団的)理念と論理に関わりをもつ思想ははじめから開かれていなければ「ユートピア」社会を作り得ない。別の言い方をすれば、一般社会のもつ雑種性の自由度と管理システムより優れた管理社会を作り得なければ何の意味もない。つまりは開かれても引き入れる利点をもたないならばどんな口先の当たりがよくても意味をもたない。            (P173)

A これを歴史の理想的な理念でいえば、人間は過去を徹底的に追究することによってしか「未来の歴史」を語ることはできない。追究の不徹底や誤謬に惑わされている限り「未来の歴史」は虚偽以外のものしかもたらさない。「無知が栄えたためしはない」これがマルクスのつぶやきの意味かとおもう。「知る」ことは「怖い」ことでもあるのだ。
            (P175)

                        
項目
2
B もし伝統の山岸会型の閉じられかつ管理される者と管理首脳とその下僚とを混同したり同一化したりしない管理制度があり得るとすれば一つしかない。
 
管理される者の利益、自由度、志向性、意志をいつも最優先に置くこと。言い換えれば管理制度がそのために必要である当のことを第一義とすることだ。そうでなければ当の管理社会は廃棄されるか改善される以外に意味を持たない。管理社会が開かれて一般社会のなかにあるためには、会員の等価労働が必要となる。この場合の交換価値は一般社会の価値よりも、同種の業目、品目より低くなることは確実である。そこで管理首脳は有利に別途の利潤を管理必要者にまわすことができることになる。たぶん管理組織のなかで被管理者の利益、自由度を最優先するという原則は破られないはずだ。
            (P178−P179)


C 管理社会の首脳の側面から考えると現在の高度管理に異論をもち、自己の発想、現役割、もしかすると収入と支出の自由と規模から考えて自己修正した管理システムを実現しようとする首脳など存在しないといえるかもしれない。わたしもはじめそう考えてもはやどんな修正意見も先細りになってゆくし、反対や改善にまわることはあり得ないとおもえた。絶望するほかないとおもえた。  (P179−P180)

 けれど実例を挙げてみる。有能な経済専門家だとわたしは思っている『経済発展の理論』のジョゼフ・シュンペーターのいちばん説得性のあるマルクスに対する異論を例にとってみる。だが人間の力が当面する通例のようなもので、難しい通り路は塞(ルビ ふさ)がりやすいものだ。
私はこの絶望的にみえる通路こそ塞ぎやすいことを考えるに至った。既成の解決法は何も要らない。爆破も崖崩れも要らない。細い路に水を引き入れるか、軽く塞げばいい。科学や技術は便利なものだが、人間を超えることはできない。
 
わたしは管理社会が高度になればなるほど壊れやすいということに気づいた。この場合についていえば、理想を願望し、だが等価以上の何も自己利益に結び付けない、どこにも徴候がないところに踏みとどまっている管理成員を想定できれば半分は成就したとおなじだ。自らその管理システムを実行する成員と、それを説得できる人員とそれだけで十分なのだ。
           (P181−P182)


D シュンペーターが指摘しているのは資本主義と社会主義の集団的な社交で、おそらく社会的な社交としては最後のものだ。しかしマルクスはあらかじめ予期していた論議で、べつに貧乏臭さに固執するのが思想だといっているのではない。集団の成員としての個人と自由な個人とのあいだには明確な違いがあり、この違いの認知こそが究極の問題なのだといっている。            (P183−P184)

E 一般社会に囲まれたユートピアの特徴は簡単に要約される。

   @ 欲望を叶えられる者とその欲望を求めて手に入れてくる者とは別人で分離されていることだ。

   A どんな仕事にたずさわるのも自由だが、ユートピアの経営に直接関わることに無関係だということだ。

 別の言い方をすれば欲求は遂げられるが欲求を遂げに動く主体ではないこと。自由な仕事でユートピアに寄与できるが、そのユートピアを経営する経済力や指導力をもつことはないことだといえる。
 そして大切なことはユートピアを志向するあらゆる管理方式はこのやり方を大なり小なり真似ていることだといえる。例えば、ファシズム(ナチス)やスターリニズム(ロシア=マルクス主義)は、権力者とその下僚が同一の理念をもち、それが一般社会人民の上に独占君臨する方式である。またすべての資本主義社会システムは、何とかして管理システムの上層に位置したいために、激しい能力、学力、経済力の競争に打ち勝とうとする「自由」競争の生涯を送ることになる。これらの違いは管理メカニズムの最上位の権力者が、その下僚を自分の理念に似せた「鉛の兵隊」もしくはそのシンパに仕立てるか否かにかかっており、その変質はたやすいものと考えるべきだ。
 これらの高度な管理システムをどこかに含む国家や社会、また部分社会を擬似ユートピアと呼ぶとすれば、わたしの乏しい知見からは、この擬似性を免れている高度社会は現在まで存在していない。
 どうすればこの擬似性を免れるか、わたしなりにぎりぎりのところまで考えてみた。なぜなら管理システムの高度化は今後電子装置、交通装置の発達と情報科学者たちの無自覚な寄与や関与によって加速加重をかけられることは疑いないからだ。
 科学のもつ中立性は押しとどめることはできないし、またこの科学の中立性は人間の倫理性とは無関係に、どんな資本主義の競争にも社会主義の独裁にも利用され得るからである。率直にいって現在の擬似ユートピアを超える方法は皆無ではないかという絶望感に襲われる。しかしこの絶望感、言い換えれば科学のもつ中立性こそは、また大きな利点であることが見出される。それは絶望の希望というべきものだ。
たった一つの希望とは、繰り返しになるがつぎのような原則だ。

 「すべての管理システムをもっている国家、社会、部分社会は管理される者の利害、健康、自由を最優先すること。これに反する管理システムは破棄されるか、または修正されること。」
           (P185−P188)

備考 註 Cについて  文章の流れ





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
431 個人の判断力 こじんのはんだんりょく どう生きる? これからの十年 インタヴュー 『ブッククラブ回』2006.10 吉本隆明資料集165 猫々堂 2017.5.25

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人生最大の辛さ わからないのは
項目
1

@
吉本 戦後になったその転換が、僕にはもう人生最大の辛さというか、わからなさだったんです。その時の転換の上のおっかなさという体験が、どうしようもないショックだった。ひとつひとつ自分で考えて解いていかないと生きちゃおれん、というか。その時に、何が俺はいけなかったのか、何が駄目だったのかという事を考えないと、ちょっと生きた心地もしない感じだった。その悔しさが、結局は考えることの根本的なエネルギーなんじゃないかな。少なくともそういう事に関する限りだったら、俺は考えることを止めないぞっていう、誰がなんといったって、俺は自分で考えるよっていう。もちろん怠け者ですから絶えずそんな事ばっかり考えてという事はないのですけれどもね。でも持続的に考えてきたというのはありますね。


吉本 すべてのことを自分なりに考える、追及すべきことは追及する、とやってきたつもりです。
「それ」という感じだけでしかわからないぐらい、おおいにわからない事もあるんですけど、たまたますぐにわからないのは「わからない」にしておこう、そのうちわかる事になるかもしれないっていうそういうやり方だから。


吉本 そうしてだんだん自分で少しずつ「わかってきたぞ」という場所ができてきたから、そういう他者(引用者註.少し前のインタビューアーの言葉「古今東西の哲学者とか思想家」を指す)に対する向かい方がうまれてきたんだと思います。
できるだけ率直に思っていることは本当に言うというのが、原則というか、心掛けなんです。ただ、そういうやり方をやっていると、つい逸脱して何となく同格じゃねえかって妄想を抱くことがあり得るわけです。いい気になると「お前知りもしないこと言うな」とか言われることも多くやっています。そのつど自分自身に対しては反省はある。自分の生き様を逸脱したことを時々言ったり、やってもいないこと、たとえば政治的なことを発言する時に、「オレちっとも政治ってことをやったことねえな」ってことがある。そりゃ実際やっている人から見たら、僕らの政治批判みたいなのは全然見当外れだよということになるのかもしれません。これは僕の性格的なところからくる弱点なんだろうなと思います。それをやっている人からみると実際に体験していることはいろいろあるでしょうから、なかなか思っている通りにはいかないんだよ、ときっと反発されちゃうということはたくさんやっていると思いますね。だからできるだけ注意しているんですけど。「おまえそんなに偉いのか?」っ(註.ママ)言われるようなことは自分の原則としては言いたくないだけど、つい、うかうかと・・・・・・(笑い)。    (P38−P39)


A
吉本 変わっていくということ自体について肯定的ですね。文明も歴史も科学も刻々考えられて、また感じられて、そのつど時代によって変わっていくものだと思っています。社会の変化に見合うだけの勉強をして、考え方を深めていれば、個人の判断力で対応できるんじゃないかと思っています。ただ、ものすごい変わり方の時はどうしようもないこともあるような気がしますね。僕にとって、敗戦の時の変わり方というのは、もっと大きいものというか、もっと根底的なものだった。あの変わり方は、僕がいくら個人として見識を高めたって、それに対応するだけの力は無かっただろうなと思います。それ以後は一生懸命考えているから、時代の変わり方については自分なりの判断はあります。自分の考え方が正確であるかとか、妥当であるかということについては何も保証がないわけだけど、ただ、自分ではわからなくなったなという事は今までのところは無いような気がしているんで、まだ当分は大丈夫でしょう、と思っていますけれど。(笑い)。   (P40)

備考
こういう対談の貴重さは、それらが吉本さんの著作の概念や論理に対する内省に当たっているということである。つまり、ここにはためらいや揺らぎを含めた吉本さんの言葉や思想の現場があり、言葉の肉体性がある。





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
436 感性の秩序の変革 かんせいのちつじょのへんかく 「現代詩における感性と現実の秩序」 『大岡山文学』1950年11月25日 吉本隆明全集2 晶文社 2016.9.30

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現代詩 現実 感性の秩序 批判
項目
1

@
 現代詩が現代に生存する詩人の、感性による統応操作として在る限り、詩の表現形態と韻律に対応する感性の秩序を、現代の現実社会における人間精神の秩序と関連させることによって、また現実そのものの諸条件と照応させることによって論ずることが出来るように思われます。
 僕がここで触れたいのは現代詩の発展方向としての詩の形態内容と韻律の問題だけであり、それを現代の諸条件から帰納することが出来ればこのお便りの目的は達せられるわけです。人間の感性の秩序が現実社会の秩序の写像として形成されていった歴史的な過程を想起して見るならば、現代の現実社会に於る秩序の認識の喪失は、われわれの感性の秩序をの喪失に対応しているように思われます。


 われわれの感性の秩序が混沌として方途を喪っているとき、しかもそれが現代における現実社会の秩序の認識の喪失に原因すると考えざるを得ないとき、われわれの生存の意識を永続的に支えてくれるものは感性による批判という形態で現実に対決することの外にはなかった筈です。・・・中略・・・僕は唯現代における現実の構造が、現代詩それ自体に感性による批判(これは詩の上では韻律の問題として現れる筈です)の機能を要請せざる得ない点を指摘致したいと思います。そしていきおいわれわれは詩概念自体に変革を加えざるを得ないでありましょう。


 僕はここいらで詩の韻律の問題に転じようと思います。詩における韻律は決して言語の持つ音韻の連象を意味するものではありますまい。
言語が人間の意識作用の表象として存在するものであり、詩が何らか意識の持続状態の表現に対応するものであることを考えるならば、詩の韻律は実は意識状態のアクセントの表象であると考える外ありません。詩の音韻というのはこの意識状態のアクセントが最もプリミティブに語音に托されて表象された場合に外ならないと思います。そしてわれわれの詩的操作を検討して見ますと、この意識状態のアクセントは詩人のその時における感性の判断の表象である筈です。僕が詩の中で感性が演ずる批判的な機能を韻律に結びつけて考えているのは正しくこの点においてです。いま定型詩の定型韻というものによって詩の典型を代表させて見ますと、それは肯定韻または従属韻とも言うべきもので、感性はこの定型韻によっては断じて批判の形をとることが出来ません。更に詩の韻律が〈音楽〉と類推して考えられるあらゆる状態において、感性の判断は批判の形をとることが出来ません。詩人の感性が意識の深部において批判の形をとる場合、(まったく!詩人は主題によってではなく、意識の深部において批判せねばならない!)それは否定韻または否定の否定韻として表象されねばならず、このことは詩の韻律を換言すれば意識状態のアクセントの表象を、まるで音韻を構成しない錯綜した構造にせねばならない筈です。
 即ち詩が感性による批判の機能によって現実の秩序に対決する限り、詩の韻律は〈音楽〉から決定的に訣別せねばなりません。現代詩の重要な問題のひとつがここにあります。われわれはどうやら一切のリズムの快感から別れねばならないらしいのです。丁度人間精神が現代において最早神性を憧憬するあの従属感覚から別れねばならないように!斯のように現代詩はその形態内容においても、且て批評が果してきた機能と内容とを自らの内部に包摂するに至るでしょう。(註.1)



 以上の論点は現実社会における人間精神の感性の秩序の変革という思想上の課題からも裏付けることは可能でしょう。
  (「現代詩における感性と現実の秩序」『吉本隆明全集2』P346-P347 初出 1950年11月)


備考
(註.1)
この部分は、この批評とほぼ同時期に書かれた詩集『固有時との対話』(1952年8月1日)の「批評詩」とも呼ぶべき詩作品に実践されていると思われる。

この「現代詩における感性と現実の秩序」という批評は、しばらく後の『高村光太郎』や戦争詩の批判へのベクトルを内包している。この後、戦争−敗戦の過程で自分自身を含めて何が根本的にまずかったのかが、「詩意識の論理化」や「内部世界の論理化」などをキーワードとして批評活動が展開されていく。






項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
442 現代詩と大衆のつながり げんだいしとたいしゅう 「現代詩の発展のために」 論文 1957年1月 吉本隆明全集4 晶文社 2014.9.30

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詩人と大衆の内部には多くの共通点がある 共感の基礎
項目
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@
 現代詩と大衆とのつながりは、詩人の内部と大衆の内部とのつながりあいによってしか、実現しえない。詩人と大衆の内部には多くの共通点がある。そのかぎりでは、詩人の詩は表面的にどんなに難解であり、専門的であるとしても、かならず共感の基礎があるといわなければならない。


A
 
現代詩が、いまの規模と構成をもっているかぎり、大衆とのつながりやコミュニケーションを求める方法は一つしかありえない。それは、現代詩人が、自己の内部世界と、大衆の内部世界との相違点と、共通点を意識的につかみ出して、それを手がかりにして大衆とつながることである。現代詩が、やさしいコトバでわかりやすくというような、大衆の内部をも、詩人の内部をも小馬鹿にしたような通路をたどるかぎり、ますます大衆との真のつながりも、芸術性をも喪う外ない。それは、俗流民主主義詩人の詩作品と、その指導の下でのサークル詩運動が、どんな作品を生んだかをあわせて考えるとことによって自明である。
 (「現代詩の発展のために」『吉本隆明全集4』P375-P376 初出 1957年1月)

備考
 この現代詩と大衆との関係ということは、一般化すれば専門家と素人との関係と言い換えることができる。そういうふうに一般性を持つと同時に難しい問題を含んでいる。しかし、芸術の領域の違いにも寄るかもしれないが、工夫次第では、専門家と素人との橋渡しも可能かもしれない。次のような体験をした。

 今日(2017.7.20)、NHKの「ららら♪クラシック『とことん音楽!わたしのショパン』」(2017.7.20 この番組、3〜4回くらい観たことがある)を偶然ぼんやりと観ていた。ここでの音楽作品の解説(NHKの番組案内によると、ピアニストの仲道郁代)は、わたしのようなクラシックに関心もなくあまり聴いたことがない素人にも親切でわかりやすい。ショパンの曲の具体的な表現とその音楽的な表現の意味するものにわかりやすく触れていた。また、青年期に故郷ポーランドを後にしてパリに出たショパンの曲に、故郷の民衆の音楽のリズムの影響があることも具体的に指摘していた。

 もちろん、専門家と素人とがある共通の地平に立てたとしても、人間が生み出した言葉という自由(制約)の恣意的な解釈可能性や作者(個)との相互理解ということのむずかしさという問題が横たわっている。



(ところで、現代詩に関する吉本さんの晩年の捉え方については、)

吉本 一番先細りになりそうなのは、現代詩というふうに言われていますが、そのとおりになりそうな気がします。
 短歌は千数百年、俳句も数百年の伝統をもっていて、万世一系かどうかはわかりませんけれども、短歌と俳句はちょっと日本語が存在する限り、滅びないんじゃないかなというふうに思っています。

道浦(母都子) 常に、短歌は滅びる、滅びると言われながら、滅びないできていますね。

吉本 ええ、逆にそう思いますね。だから、たとえばあなたの世代ともっと若い世代というので、詩を書いている人はいるでしょうけれども、その書いているものが、これでどうかなるのかね、疑わしいねって今は、思いますね、逆に。だからそれは反対に、短歌とか俳句のほうが残る。まだ寿命はあるというか、そういう感じがします。
 そこがやっぱり一番、めんどうっていえば、めんどうな、日本の詩歌の、詩のめんどうなところだと思いますけれども、それでもちゃんと歌の場合は、伝統的に千数百年の歴史をもっています。はじめに問答の歌謡があって、問答の歌謡からだんだん七五調の短歌になんとなく、こう、ひとりでに水が集まるみたいに集まっていった。それがだんだん、表現として間延びをしてくると、今度は次の形式、俳句と詩が出てくる。その形はなくならないような気がするんです。つまりは、必ずそっちは残るでしょうけれども、ただ、現代詩と言われているものは、これはどこにももう取り柄がない。とらえどころがないっていいましょうかね。これは本当にわからないよっていう感じがしますね。
 現代詩を書いている人たちは、もう今から、どうしていいのかわからない、どうしてどう抜け道を作っていいのか、今からこの一、二年間だと思いますけれども、もうすでにわからなくなっているんじゃないかな。だからといって、こうすればいいというのは、誰か模範を示してくれれば、だいたいそこへずっと集中していくわけで、その作者なら作者を主体にして、だんだん集約されていくということがあり得るんだけれども、今のところ、そうはいえないっていう段階ですね。
 だからたとえば、あなたや『サラダ記念日』の俵さんのように脇の力といいますか、脇を締める力っていいますか、そういう力をもって詩を書く人っていうのは、今いないですね。どう考えたって、現代詩が先になくなっちゃうと思います。
 ・・・中略・・・
 それが本当に少数でも、二人でも三人でも、おっ、っていう人が出てくれば、ちゃんとそこに、なんとなく集約していく。ひとりでに形がちゃんとついてくるっていうことがありうるんだろうけれども、そういうのはないし、また、僕らの年齢の人でも、それより少し若い人もだいたい似たようなものですね。詩の衰退に対して、関心をもって考えなから詩を書いているという人は、あまりいないんですよね。
 それこそ、立原道造みたいな人はそれをやりました。詩を書きながら、具体的な形象に関する限りは、最盛期の短歌と詩をつなげようという、つまり、連結しようということをやっていますよね。

道浦 『新古今集』から学んで書いていらっしゃる。

吉本 ええ。短歌の人でも、岡井隆さんは詩なんかもちゃんと書いてるじゃないかと。昔からよく試みて、研究している人だけれども、まっとうな詩をちゃんと書いていて、呼吸は短歌の呼吸が残っている。本当に呼吸というしかしょうがないんですけれども。でも、ちゃんとした現代詩を書いているじゃないかっていうふうに思います。

  (『吉本隆明 最後の贈りもの』 P109-P112 2015年4月)
 ※本書のこの「吉本隆明に聞く 短歌のゆくえ」は、2009年1月のインタビューとのこと。


 この吉本さんの現代詩に関する認識は、吉本さんがたどってきた和歌(短歌)の変貌や俳句などの興隆の歴史と言葉というものの歴史、そして自らの詩作体験を踏まえた視線からの晩年の言葉である。もちろん、現代詩が死んでも別の文学的な表現は残るだろう。しかし、意志的・意識的に詩を書き続けている者にとっては、現代詩の生命感あふれる表現ということは切実な課題であるはずだ。





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457 9条は先進的な世界認識 「9条は先進的な世界認識」 『東京新聞』2007年8月8日 『吉本隆明資料集169』) 猫々堂 2017.10.15

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超先進的な世界認識 憲法の非戦の考え方 考えどころだっていう課題
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@
 つまり憲法九条はどの資本主義国にもどの社会主義国にもない、超先進的な世界認識なんだと思うんです。これは右か左かで論じたら全然狂っちゃうわけですよ。
 戦争では、弱い方の土地が戦場になって荒らされる。米国なんかすり傷を負った
(引用者註.)だけで大騒ぎでしょ。本当の戦争なんか知らないんですよ。だから僕の理解の仕方では、うまい物は食ってないけど平和な暮らし方をしているうんと後進的な国家や社会、地域、アマゾン川流域の共同体みたいなところは多分、憲法九条に賛成してくれるはずですね。
 日本人はそういう人たちと連携して「おれたちは米国とも中国やロシアとも違うよ」って国際的な広場で積極的に主張したらいい。そしたら
憲法の非戦の考え方にとっては大きな力になると思います。今のように非戦条項を放り出したまま米国一辺倒っていうのが一番だめなやり方です。
 近代化の過程にある東洋諸国の中で、日本は文化的にも文明的にもあるいは産業的にも科学技術的にも、近代化はほぼ終わってます。だから僕に言わせれば「日本は考えどころだぜ、ここでまた西欧のまねをしてちゃだめだぜ」って。金もうけに頭がよく働くヤツが得するような、
ばかな社会をつくるまねをするなって思いますね。
 
自分らの土地と天候と風俗習慣あるいは遺伝子的なものに一番適合したやり方を考えてみろよって思います。世界中のどこにも同志となる国がない特殊な国でしょ、日本は。
 憲法九条に同意してくれる国と一緒にやろうじゃないか、平和について世界を変えようじゃないかってことができたら一番いいね。そういうところが
考えどころだっていう課題だと思います。
 (「9条は先進的な世界認識」P105-P106『東京新聞』2007年8月8日、『吉本隆明資料集169』)


(引用者註.)この「かすり傷」は、2001年9月11日「アメリカ同時多発テロ事件」のことを指しているものと思われる。

備考
現在の日本の社会は、相変わらず先の大戦の戦犯の生き残りやその子孫、あるいはわたしたち普通の生活者から大きく乖離したアメリカ帰りの政治家や官僚によって牛耳られている。まだまだわたしたち普通の生活者(あるいは、市民、国民 )がほんものの主人公となっていない。さらに、敗戦後70年が戦争の体験や教訓を風化させ、わたしたち普通の生活者の意識の中にもその風化が及んでいるように感じられる。「ネトウヨ」にかぎらず、世界政治における軍事バランスという虚構の軍事や防衛に足下をすくいとられている者も多いような気がする。

人類は、集落を形成し、そして隣の集落との摩擦や争い、国(お国はどちらの「国」で、戦国時代など)同士の侵略、戦争、江戸期以降の統一社会・国家の形成、近代民族国家の成立、というように幾多の血を流しながらではあるが戦争という矛盾を解消してきた。世界には、まだ国内で対立し合う地域もある。また、現在少し立ち止まっているがEUのような民族国家を超えた試みも存在する。これは国家間の対立や戦争という矛盾の解消の方法とも見ることができる。人類は、戦争に関しては、主要には国家間レベルの解消の舞台にまで上り詰めてきている。この一方で、核兵器を脅しの手段とした力の政治が世界には居座り続けている。





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460 還りがけの視線―書くことの世界から 「川上春雄さんを悼む」 論文 「ちくま」2001.12 『ドキュメント吉本隆明@―〈アジア的〉ということ』 弓立社 2002.2.25

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文筆をもてあそぶこと
項目
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@
 
文筆をもてあそぶことは、おそろしいことだ。これはさまざまな出来ごとに書く人間として出遇ってきたわたしの実感のひとつだ。著作家は著作によって死ぬこともあるし、殺傷することもあるにちがいない。

 (川上春雄さんを悼む」「ちくま」2001.12 、『ドキュメント吉本隆明@―〈アジア的〉ということ』所収 弓立社)








この言葉は、長年書くという世界で、本質的な批評に奮闘してきた吉本さんの内省の言葉のように見える。言葉が時に人を深く傷つけることがあるのは、この人間の互いに関わり合う社会に生きているわたしたちの誰もが持つ実感である。吉本さんは他者の作品や思想やイデオロギーもたくさん批判したり、論争したりもしてきている。自らが言葉として生き延びていく過程では、言葉が他者を「殺傷」しているなと感じられることも多々あったのだろう。
現下のSNSに駆動されて引き出されるわたしたちの存在も、その言葉も、「つぶやく」ことのおそろしさをも秘めているはずである。

この「さまざまな出来ごとに書く人間として出遇ってきたわたしの実感」には、吉本さんがどこかに書いていたが、吉本さんの本を読んで悩み考え詰めて自殺してしまった青年があり、その葬式の場でだったか父親から(お前のせいでこうなったんだ)みたいな責められ方をしたことがあるということも含まれているだろう。また、ガンにかかった吉本さんの姪の女性からの(死んでいく自分というものをどう考えたらいいの?)という深い問いかけに答えることができなかったということも含まれているだろう。

ところで、この言葉は、書くという世界の内部での「内省の言葉」のように見えるとわたしは書いた。この言葉には、説明的にはっきりとは分離しがたいけれども、行きがけの内省の言葉そのものではなく「還りがけの言葉」の視線が含まれているのではないかと思う。その佇んでいる吉本さんの表情のようなものからわたしはそう感じるのである。ここで、「還りがけ」ということは、現在は行きがけ中心が知や書くことの主流のように、他人の言説と言い争ったりの俺が俺がの血気盛んな社会でわかりにくいと思われるが、個の死ということではなく普遍としての書くことの死滅のイメージであり、知の世界からの帰還のイメージということである。しかし、まだまだそのことを明瞭なイメージで語ることは難しいような気がする。





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465 個にとって世界とはなにか 「歴史と宗教」 インタビュー 『現代思想』1975年4月号 『吉本隆明資料集169』 猫々堂 2017.10.15

インタビュアー 三浦雅士

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歴史意識として個にはいってくる時間 いまの段階 矛盾のいろいろな解決法
項目
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@
― 歴史的時間と個人的時間はどのようにかかわるのでしょうか。

吉本
 個体が生まれてから死ぬまでの時間というのは、これも歴史的社会的な変遷がありますが、三十年から七十年くらいの範囲ですね。それで、歴史時代にはいってからの時間というのは、世界史的には五千年なら五千年、日本でいえば千数百年ということになります。神話時代をぬけて歴史時代にはいってからということでいうとそうなります。いまでも神話時代のような意識の地域もあるでしょうし、それも現在的に同時に並んでいるということです。歴史時代を数千年経てきているという地域もありますし、千数百年という国家もありますし、まだ神話時代さながらに生き死にしているという地域もある。そのなかで個の意識にはいってくる時間、
歴史意識として個にはいってくる時間について、はっきり云えることは、歴史的にいっても地域的にいってもいいわけですが、未開においては、個の中では歴史時間が無限にとられているとおもうんですよ。したがって個の意識の時間もまた無限にとられているわけです。そこで、もっとはるかに進展した段階での歴史意識を考えてみると、それは、個の時間の範囲内でしか歴史の時間を把えないというふうになるんじゃないでしょうか。
 未開人の場合には、肉体が終ったところが個人の終りではない。肉体が終ると魂の時間が続いていますし、それがまた別個の肉体に宿るということもある。再生するわけです。生命を悠久にかんがえているわけです。
現在がずっと続いている。その場合には歴史性がない。神話性だけがある。神話性というのは宇宙の空間的なイメージがあればいいわけです。歴史時代にはいってはじめて、歴史時間と個の時間のギャップ、矛盾がはっきり自覚されてくる。自覚されてきて歴史時代にはいる。それが極度に進んだ場面を想定すると、個の時間意識と歴史の時間とは同じなんだというところにいくんじゃないかと。逆にいえば、個の生成が歴史の生成そのものであって、現在いまここに自分が存在するということが個であるとともに歴史性そのものでもある、と、究極にはそういうかたちで一致してしまうんじゃないかな。


A
吉本
 それでは
いまの段階ではどうかといえば、せいぜい百年足らずが個の生まれてから死ぬまでの時間ですが、まずその時間の範囲内で歴史に関与する。そして、自分が死んで関与することができなくなっても、複数の自分というか、それは関与しつづけるだろうということ、それが歴史意識にとって重要な仮説、というかイメージになっているわけですね。だから、まだ未開のイメージが残っていて、自分の生存の時間よりも歴史の時間の方が長いだろうと考えている。しかし、これがもっと極限まで展開していけば、やはりそんな馬鹿なことはないのであって、自分の生成消滅、個の生成消滅は、歴史の時間と同じである、というようになっていくでしょう。どうしてそうなり得るかというと、個が死んでも歴史的な時間は続くだろうということは依然としてまちがいないんですけどね、そこに価値観がはいってくる。つまり、個の生成消滅以外の歴史性を考えるのはまったく無意味である、無価値である、そういう価値観が、個の意識の中で大きくなっていくとおもいますね。疑問の余地なくそうなってゆくとおもいます。いまの人間はそうではない。じぶんが死んでも、じぶんにとっては終りだろうけれども、まだ社会はあるし、歴史は続くだろう、いまの段階では個々の人間は平均的にいってそうかんがえているとおもいます。しかし、そこにはちょっと曖昧性が介入していて、ほんとうにつっこんでいけば、個が死んだときに歴史も社会もなお生きつづけるだろう、そういうことを立証することはできるのか、といった場合には、ほとんどそれは不可能なんですよ。過去にそうだったからというだけで、それは実証が難しいんですね。難しい部分だけ、それは、信仰、宗教とはいわないまでも、観念を観念的にかんがえているということに属するとおもいます。それは、価値観が徹底していない段階だからだろうとおもいます。ほんとうに価値観が徹底してきたら、個人の生成死滅以後に歴史があるとかんがえること、あるいは個人の意識の外に歴史があるとかんがえるのはまったく無意味だ、とかんがえていくでしょう。そうなったときはすっきりするとおもいます。いまの段階では、自分が死んでもまだみんなやっていくんだろうな、とこうなるわけです。しかし、そんなことはわからないですよ、誰も証明はできないです。自己証明ができないのにあるイメージをもっているというのは、それは信仰の問題ですよ。観念を観念的にかんがえる問題、宗教性の問題です。過去もそうだからこれからもそうであるだろうというのが唯一の類推の基盤であるわけですが、自己立証できない問題です。その矛盾がなぜあるかというとやはりそうだからじゃないか。個人の生成死滅ということと歴史の生成展開発展とは対応することであって、それ以上の意味づけはまったく無意味だということです。
 (「歴史と宗教」 1975年4月 P158-P160『吉本隆明資料集169』猫々堂)
  聞き手 三浦雅士 『現代思想』1975年4月号


B
吉本
 
この矛盾にはいろいろな解決法があったわけで、宗教でいえば来世が、他界があるとかね、霊魂は滅びないとかね。マルクスは、その矛盾は個と類の問題なんだと云っている。類としての自己は続く、人類としての類を引き受けていく自分は続く、続いていくと考えている。じぶんの子供とか、そういう具体的なものを介在させてもそうだし、あるいは、じぶんが生み出した道具とか物とか観念とかそういうものを通して、類としてのじぶんは続いていく、こうかんがえていますね。個は死滅するけれど類としては生きると、そういうものとしてマルクスはその矛盾を云っています。未開社会の場合は、肉体の死滅は個の死滅ではないといまでもおもっているでしょう。それは、過渡期というか、いまはそういう段階だからそうなのではないでしょうか。この矛盾を解決する方法としてさまざまな考え方がだされているわけですよね。
 (「同上」 1975年4月 P160-P161)


C
― 補足して伺いたいと思います。『共同幻想論』の「対幻想」の章において、時間の原因としての女性、あるいは性ということが示唆されているように思われます。それは一個の人間的時間の提示のように思われます。性と時間、あるいは性と歴史についてどのようにお考えでしょうか。

吉本
 
性の問題でいえば、歴史時間に該当するのが世代の時間だと思います。世代の時間を止揚するということは現在に全部凝縮させてしまうというか、個の男か女であるとともに世代時間をもそこに包括してしまうものになるということです。個と、男女あるいは性の問題は、そのようにして、世代時間と個の時間を一致させられる。世代の時間と個の時間がそのようにして性の問題として一致してゆくとおもいます。それが根本的、本質的なところになります。
 
ところで、その時間は歴史的な時間とどのようにつながってゆくか、ということが次の問題になってゆくわけです。そうすると、地域によって違いがあるけれど、もっともはじめに母系制があって、そこから歴史が展開してゆくうちに父系制に変っていった、という考え方がある。日本なんかそうですね。あるいははじめに男があって、父系的社会ができて、歴史時代にはいったというのもある。しかし、当初に何があって、それがどのような契機で変っていったかということについては、はっきりとした法則性はどうもないんじゃないかという気がする。おそらく、現在考えられている種族とか人種とかの概念がありますが、そのために、たとえば種族の母親のようなものがあった、はじめに女性があったというようにかんがえやすくなっているんじゃないか。それは、いまの種族とか人種とかの概念でいっているからそうなんであって、人間というのはどのように発展してきたのか、それは依然として固定的ではないようにおもわれます。いまかんがえられている種とか人種とかは、どうもぼくには、壊れていってもっとちがう概念がそれに替るんじゃないか、という気がします。ちがう概念に替らないと、遡れもしないし今後のこともわからないんじゃないか、という気がするんです。いまかんがえられている種という概念は、人間というのはある単一の地域で猿らしきものから進展してそれがさまざまなところに移動して、そして各人種を移動したり混血したりして形成した、とかんがえられているわけですが、だけどそれが疑わしいんじゃないか。単一の地域から発生したのでも、猿から進化してにんげんになったのでもない、とぼくにはおもえます。それで、種という概念を替えなければいけないんじゃないか、とおもうわけです。いまかんがえられている種だったら、黒人を人類とすると、白人というのは人類じゃないとか、そういうようにいわなくてはならなくなっちゃうじゃないでしょうか。あまり包括的な概念ではない、とおもえるんですよ。猿は猿なんで、猿は進化するわけはない、猿はそれ自体で究極的な種である。人類というのは全然ちがう。しかも、ある段階における人類というのは、たとえばある地域から発生した人類だった。道具なんかをもっとよく使えるような人類は、それとはちがう地域から来た人類なんだ。どうもそういうような気がするんですよ。だからいまの種の概念は狭い概念なんであって、それは過去も包括できないし、未来も包括できない概念だとおもうんです。そういう根底的なところから変わっていったら、おそらく、母系的であるとか父系的であるとかいう云い方も変わってくるんじゃないか。ある種族、ある人種、あるいはある地域は、はじめに母系制があったとか、あるいは父系制があったとか、そういう云われ方自体をもっと包括する、そういう概念になっていくのではないかとおもえるんです。
 (「同上」 1975年4月 P161-P162)
※@、A、B、Cは、続いた文章です。


備考
(備考)

Cについて
ささいなことの備忘としてであるが、吉本さんが人間は猿から進化したということを受け入れた言葉も吉本さんの文章のどこかでわたしは出会った印象がある。


一連の問題で、わたしにはとても重要だと思われたので、長い文章を引用した。これはとても難しい問題であるが、その背景にはふとした瞬間に誰もが思い浮かべたことがある、不明であるとしか言えないようなこの世界の有り様やそんな世界に自分が生きていることへのイメージや疑問が控えている。そして、わたしたちが抱くそういうイメージにも歴史的な段階のような水準があるということ。


このインタビューで触れられた問題は、1975年4月とある。これは三十余年後の、2006年7月〜10月の吉本−茂木健一郎の対談(『「すべてを引き受ける」という思想』吉本隆明/茂木健一郎 2012年6月刊)における晩年の吉本さんの言葉や考えにつながっている。次の部分には、割とすっきりとした見通しとして二つの人類史が語られている。


吉本―人間の身体も一個の人類史である。(引用者註.小見出し)
 まだ熟した考えではありませんが、最近ぼくはこんなことを考えています。
 人類史というのは、人間がおサルさんと分かれたときから現代までずっと続いていて、ふつうはわれわれの身体の外にある環境(外界)、つまり政治現象や社会現象などの歴史も一応、「人類史」と考えられています。ところが、このあたりのことをもう少し細かくいうと、これまで考えられてきた古代史以降の環境の歴史というのは、いわば文明史あるいは文化史にすぎない。人類史全体ではないということになります。したがって人類史を探るにはやっぱり人間がおサルさんと分かれたところまでさかのぼる必要があるのではないか。
 それからもうひとつ、「人類史」にはそうした人類史のほかに、もう一種類あるのではないかということを考えています。別種の人類史とは何かといえば、個々の人間がそれぞれの身体性のなかにふくんでいる人類史です。個々の人間の身体性の範囲のなかで行われる精神活動や身体の運動性は人類史を内包していて、文明の移り変わりとか社会の変遷といった一般的な人類史とは別個のものとして考えられるように思います。
 そうしたふたつの人類史を媒介するものが、身体性の順序からいえば、種としての遺伝子の変化、風俗習慣の変遷、地域的差異に基づく言語の発展の仕方の違い、文明・文化の進展具合と、その根底にある自然へのはたらきかけ方・・・・・・これをつづめていえば、種、住んでいる地域的環境、言語、この三つがふたつの人類史を媒介している。いまはそんなふうに考えています。
 (『「すべてを引き受ける」という思想』p70-p71 吉本隆明/茂木健一郎)





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
467 芸術の価値は自己表現 「超人間、超言語」 対談 「群像」2006年9月号 『吉本隆明資料集168』 猫々堂 2017.9.10

※ 対談 中沢新一・吉本隆明 2006年6月7日

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使用価値と交換価値 自己表出と指示表出
項目
1

@
吉本 つまらないといえばつまらないことなんですけど、『資本論』の中でマルクスは、ギリシャを未開的な社会で、ギリシャ芸術がすばらしいのはどういうわけだみたいなことを盛んに問題にしているんですが、ほんのちょっと、うかうかとすれば読み過ごしだという本当に一行か二行ぐらい、芸術の価値も労働価値じゃないかということをいっているんですよ。翻訳の人の文章だと、「価値じゃないだろうか」と疑問符的にいって、自分でも少し疑っていする。・・・中略・・・
 芸術というのは即興的にうまくできちゃうことがありますし、いくら考えて手をかけたって、この詩はあまりいい詩になりそうもないなということもあります。それは、マルクスもそういうことを一、二行、それも疑問符をつけていっている。長谷部(文雄)さんの翻訳ではそうなると思います。
つまり、これが経済的価値論と芸術の価値の分かれ目だなと僕は理解したんですね。
 言語の価値というのは、
(註.1)★『資本論』の「使用価値と交換価値」という概念と同じつもりで、「自己表出と指示表出」と、これが言葉の本性だみたいなことをいっているわけですけれども、経済論から来る価値論に、これ以上かかわっちゃいけないなというので、僕は、芸術の価値は自己表現に必ず帰着するといっている。その自己表現というのは作者の自己表現であって、芸術、文学なんていうのは読者が勝手に読んで、勝手にこれはいい作品だといって、百人いれば百人違っちゃう。けれども、もしほかのことが同等であるとすれば、百回読んでくれれば、必ず一致するところへ行く。その収斂する点はどこかといったら、作者の芸術力ですね。そこまでやれば芸術の価値の、例えばだれの何という作品とこの作品とどっちがいいかというのは決められるはずだ。僕は、究極的にはそうだと考えて、最近そういうことを書きました。『言語にとって美とはなにか』のときには、だいたいそういうことは考えていたけれども、そこまで言い切れなかった。


A
中沢 このあいだの「SIGHT」(引用者註.これは、2006年7月刊の「SIGHT」28号に掲載された「言語論要綱」〔吉本隆明資料集166」所収〕を指していると思われる)ではそう言い切っていますね。

吉本 言い切れると思って、そういうふうに書いたのです。
芸術作品を鑑賞する領域はそんなのではなくて、各人各様に違うというところに特色があるんだから、それでいいんだけれども、もしも本気になって、いや、それはおかしい、あいつはいいというけれども、おれはいいとは思わないとかいう違いをどこかに同一化しようとすれば、一回あるいは二、三回読んだとかいうのじゃなくて、とにかく百回ぐらい読んでくれ。百回ぐらい読んだら必ず同じようなところに行くに違いないと考えています。
 (「超人間、超言語」P50-P51『吉本隆明資料集168』)
  ※ @とAとは連続した文章です。

備考
(備 考)

・吉本さんの発想の型。
 とにかく、日常的な印象把握に終わらず、そこからその実感を携えて、ものごとの根源的な有り様にまで追求していく。この背景には、吉本さんの苦難の「大洋期」以後の固有の自己形成と文学の経験と実験化学の習練、そして科学や数学的な発想を身につけてきたことなどがある。

・この吉本さんの「芸術の価値は自己表現」ということは、特に文学においては古代国家の成立あたりから現在につながっている、独立してきた個が芸術の表現を担う人類史の段階でのことに属している。なぜこのような但し書きをするかといえば、人類の歴史で言えば、それ以前の個が共同性の中に埋もれてまどろんでいた段階の、人類としての芸術的な表現というものもあり得るからである。

・この「百回読む」ということを意識して、わたしは作品を読んだことがある。この百回はとてもていねいに読むという比喩でもあると思うのだが、私が読んだのは、上橋菜穂子の『ラフラ』という45ページの短編で、しかも十一回だった。
(作品を読むということ I ―作品の入り口で I (2014.5))
http://blog.goo.ne.jp/okdream01/e/4d21b0ab56abc4fed7ae7783e7b76ced

(註.1)★ ★に関して
吉本さんは初めマルクスの『資本論』の使用価値を自己表出と見なし、交換価値を指示表出と見なしていたが、後には逆に、使用価値を指示表出と見なし、交換価値を自己表出と見なすようになった。わたしは、「自己表出」などをネットで検索していてこのことに偶然出会った。今はそのことがよくわからないし、また追究する余裕はないから、ここに備忘として長いけれど資料としてあげておく。以下の文章は、初めてネットで出会った中村友三氏という人のものである。もうリンク切れていることもあり、長いけれど全文を挙げておく。


http://yuzonakamura.asablo.jp/blog/2015/02/16/7573979 
YUZO'S NOTE PAGE 中村友三
自己表出 ―
2015年02月16日 22:14
2012年10月15日(月)08時55分41秒


吉本隆明は『言語にとって美とはなにか』での指示表出と自己表出という概念を、マルクスの『資本論』から考え出してきたと述べており、手元にある資料では以下のものがあります。

『言葉という思想』(弓立社 1981年の「幻想論の根柢」。1978年に京都教育文化センターで行われた講演のテープ起こし。音声は『吉本隆明 五十度の講演』ほぼ日刊イトイ新聞 2008年の「共同幻想論のゆくえ」に収録。)
『超西欧的まで』(弓立社 1984年の「経済の記述と立場」。1984年に日本大学で行われた講演のテープ起こし。音声は『吉本隆隆明 五十度の講演』(ほぼ日刊イトイ新聞 2008年の「経済の記述と立場」に収録。)
『ハイ・イメージ論 U』(福武書店 1990年の「拡張論」)
『吉本隆明 自著を語る』(ロッキング・オン 2007年の「言語にとって美とはなにか」)
『日本語のゆくえ』(光文社 2008年の「第2章 芸術的価値の問題」)

一番最初に読んだのは光文社の『日本語のゆくえ』で、ここでは指示表出は交換価値から、自己表出は使用価値から取ってきたと述べています。しかし最近ネット上で検索すると<指示表出は使用価値、自己表出は交換価値から>という関係で考えている人がたくさんいるのを知りました。『日本語のゆくえ』では次のように述べています。
「この使用価値という概念は、僕の芸術言語論でいうと、自分なりに自分が納得できる言葉である「自己表出」と、コミュニケーションのための言葉である「指示表出」に対応します。初めはそう考えて、使用価値に当たるのが「自己表出」で、交換価値に相当するのが「指示表出」であるとしておけばいいのではないかと思っていましたから、『言語にとって美とはなにか』でもそう書いたわけです。」このことから最初は「指示表出→交換価値、自己表出→使用価値」と考えていたことがわかります。

「交換価値」から「共同意思によって決められた等価性」という概念を抽出し、たとえば「社会的規範で決められた意味を示す等価物」という概念につなげて指示表出に対応させ、また「使用価値」から「人間が関与してくるときに生まれる普遍的特性」という概念を抽出し、「人間の本来的価値である自己疎外」という概念につなげて自己表出に対応させれば、言語表出の二重構造ができあがります。「自己表出=表現」は<からだが資本>というように本来的には資本として、交換とは関係ないところにある価値そのものとしての「沈黙」や、自己疎外による累積性としての自己増殖ともつながります。

それに対して<指示表出は使用価値、自己表出は交換価値から>という考えを詳しく述べているのは『ハイ・イメージ論』(福武書店 1990年)の「拡張論」での論述です。ここでは使用価値と交換価値ではなく、1段階進んで、商品が実際に交換過程に入ったときにそれぞれ変容した相対的価値形態と等価形態から拡張概念を抽出します。相対的価値形態からは「使用価値のちがいが実体のちがいという系列」を、等価形態からは「(交換)価値がじぶんじしんにたいする差異によって任意の実体におきかえできる系列」という概念を抽出し、商品体の二重構造と対応させます。

ここではマルクスの『資本論』での相対的価値形態を説明する「相対的価値形態=等価形態」という<式>を使って対応させます。
この式の意味は、「自分の物を他人の物と交換するときに、自分の物を基準に相手の物と比較して価値が同じかどうかを判断すること。」を言っており、「比較しなければ(主部)、つぎの段階(述部)で等価(合意価値)に達しない。」という<判断の順序>に従わせた左項→右項という格付けと意味付けをしています。この<式>に先ほど抽出した概念を表象する言語を代入して対応させます。

たとえば、左項の相対的価値形態の場所に他人が持ってきた「1個のりんご」を、右項の等価形態の場所に自分の「2個の梨」を置くと「1個のりんご=2個の梨」になり、それは「1個のりんごは2個の梨と同じ価値だ。」という文章になり、さらに「1個のりんごは2個の梨と同じようだ。」という文章も成立します。左項の相対的価値形態の場所には名詞などの指示表出的な言葉を、右項には名詞のほかに、助詞、助動詞や形容詞などの自己表出的な言葉を置けるが、左項には助詞や助動詞を置くことができないということがこの式でわかります。そうすると先ほど相対的価値形態から抽出した「使用価値のちがいが実体のちがいという系列」は指示表出に、等価形態から抽出した「(交換)価値がじぶんじしんにたいする差異によって任意の実体におきかえできる系列」は自己表出に対応することになり、ここで初期の対応と逆転します。

ここで疑問なのは、そもそもこの式は文法の語順と同じではないか、これでは「思考順序→文法→等価式→文章」というように、もとに戻っただけで、そこに言葉を入れてもただの文章になっただけで、対応を説明したことにはならないのではないかということです。ただ逆に、人間にはそういう語順以外のものがあるのか?という考えも成り立つわけです。

この先はこの逆転から導いた対応で説明が進んで行きますが、むずかしくてわかりません。本人も「ここまででもほんとはたくさんの疑問につきあたる。」と述べています。たとえば、「リンゴの使用価値としては紅くきれいで甘酸っぱい果肉の像をすぐ想いおこさせるが、言語の指示表出としてのリンゴはリンゴという概念を指示するだけだ。」という疑問を述べていますが、これを指示表出を自己表出に置き換えれば「リンゴの使用価値としては紅くきれいで甘酸っぱい果肉の像をすぐ想いおこさせるし、言語の自己表出としてのリンゴも紅くきれいで甘酸っぱい果肉の像を想いおこさせる。」と言えるわけで、これは相対的価値形態(使用価値)→指示表出という対応づけによるものだと思います。

自分の対応での商品価値(意識表出)の変容プロセスはつぎのようになります。
1 物には人間が関与してくるときに生まれる普遍的特性としての使用価値があり、これを資本と考える。(自己疎外)
2 社会的存在としての商品の価値は、使用または消費されることによってのみ実現される使用価値と、使用価値からまったく独立してあるものとして現れた交換価値の二重構造になる。(内部表出)
3 実際の交換過程に入った商品の使用価値は、他の商品の使用価値との比較で相対的なもの(相対的価値形態)に変容し、一方が他方の価値の基準になるという関係ができ、この関係から生まれた合意価格(等価形態)で交換が成立する。この場合の合意価格を交換価値という。(外部表出=表現、会話、表記)
4 交換後の使用価値は社会的な価値と個人的な価値に二重化し、社会的な価値は交換価値として等価化する。(反作用、対象化)
つまり、2の段階で抽出すれば<式>に拘束されずに概念抽出ができます。

「使用価値、交換価値」の段階で類似概念を抽出するのと、「相対的価値形態、等価形態」という段階で類似概念を抽出するのとは意味が違ってきますし、抽出する概念によっても違ってきます。<式>を使う使わないに関係なく、「相対的価値形態、等価形態」という段階での対応を考えるのであれば、ここでは「同じ価値だと判断する方法と論理」を言っているので、あるかたち(形態)に変容(客観化と基準化)したものというところまで上昇し、相対的価値形態からは、たとえば「価値が普遍化できる状態」という概念を、等価形態からは「社会的に共有された状態」という概念を抽出し、相対的価値形態→自己表出、等価形態→指示表出として対応させるとすれば、「究極の自己表出は等価的な指示表出になる。」という意味に考えることができます。これと意味として近似的な表現が「拡張論」にあります。

「等価価値形態の表出が(自己表出が)、どんな使用価値との対応をもとめずに、等価の等価(等価内部における等価)を目指すような領域にはいる。」

この文章で「等価価値形態」を「相対的価値形態」に換え、この引用文の前に述べられている文脈から「使用価値」は「指示表出」に換えることができ、「等価の等価(等価内部における等価)」は自己表出の連鎖による指示表出化と考えれば、「相対的価値形態の表出が(自己表出が)、どんな指示表出との対応をもとめずに、等価的な指示表出を目指す領域に入る。」となり、「究極の自己表出は等価的な指示表出になる。」という文章と意味が通じます。これはまた「文学作品の抽象的で緊張度が高い言葉を<法>に入れてもいいのではないか」という考え(『吉本隆明 五十度の講演』ヘーゲルについて「法の言語と文学の言語」1995年 西武百貨店での講演 ほぼ日刊イトイ新聞 2008年)にも通じるものだと思います。
by 中村友三






項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
471 〈緊急の課題〉と〈永遠の課題〉 「親鸞から見た未来」 講演 『吉本隆明が語る親鸞』 東京糸井重里事務所 2012.1.16

※「親鸞から見た未来」は、1988年10月の講演。

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現在の特徴 何が永遠の課題で、何が緊急の課題なのか
項目
1
@
 現在ということの特徴(引用者註、これは小見出し。以下同じ。)

 現在、さまざまな社会現象や世界現象が我々の目の前で起こっています。そうした社会現象や事件に、ひとつの特徴があるとすれば、
一見すると、〈緊急の課題〉に見えるもののなかに、本当は〈永遠の課題〉が混ざって、一緒に出てきていることではないかと思われます。もうひとつ申しあげれば、小さな問題と考えられていることのなかに、永遠の問題と緊急な問題とが一緒に混ざって入ってきているということが、とても大きな特徴ではないかと思うのです。
 大きな事件や大きな問題として出てくることのなかに、大きな問題が真にあると考えたり、また、小さな問題を小さな問題とだけ考えると、誤解を生ずるかもしれない気がして、それが、
現在の特徴のような気がしています。
 (「親鸞から見た未来」P178『吉本隆明が語る親鸞』2012年1月)
 ※「親鸞から見た未来」は、1988年10月の講演。


A
 〈緊急の課題〉と〈永遠の課題〉は、二者択一ではない

 この問題に対する親鸞の考え方は、ぼくにとってはたいへん示唆の大きい考え方です。 ぼくなりの解釈を申しあげますと、眼前に切実な問題や事件、あるいは社会現象が次々に起こっている場合に、それを〈緊急の課題〉と考える、あるいはこれは〈永遠の課題〉なのだと考える、どちらの考え方をとっても、たぶん、駄目なのではないかと思います。 もっと投げやりな言葉を使えば、それはどちらでもよくて、大した問題ではなく、手をつける場面に自分が当面していたら手をつけたらいいし、していなかったら、それでもよろしいではないですかと、ぼくなら考えます。
 
つまり、これは二者択一の問題として存在しないと思います。
 先ほどぼくは、あらゆる社会的な事件、身近に迫ってくる問題や現象は、緊急の課題と永遠の課題が混ざって出てきていると申しあげました。
 混ざって出てきている問題に対して、二者択一で、たとえば緊急な課題にだけ対処する、あるいは緊急な課題はどうでもいいと考えて、永遠の問題としてだけ考えるというふうに、
どちらかを選択すると、必ずその事柄に対する理解を間違えると思います。
 社会では、これをどちらかの課題として解けとか、おまえはどちらかの課題に着けとしばしば言われますが、その言われ方はたぶん間違いです。
 これはよく見なければいけません。
つまり、ひとつの課題として見えるもののなかに、何が永遠の課題で、何が緊急の課題なのかを、よく見なければいけないと思います。
 この問題に対して、「聖道の慈悲と浄土の慈悲は違うのだ」という親鸞の言い方は、ぼくにはたいへん示唆が多くて、勇気を与えられるのです。

 (「同上」P181-P183)


B
 親鸞の浄土についての考えを、現在に応用する

 現在、身近に迫ってくる社会的な事件は、〈緊急の課題〉と〈永遠の課題〉が両方混ざって出てきていると理解した方がいいと申しあげました。そういう考え方にたいへん示唆を与えてくれたのが
親鸞の「浄土から再び還ってきて、自在なる慈悲を発揮すべきだ」という考え方なのです。
 緊急の課題っていうのは、こちらからあちらへいく課題です。それでは永遠の課題とは何かといったら、ある社会的な事件があったら、その事件を、時間的にいえば未来、もっと親鸞的な言い方をすれば浄土、あるいは死からの光線で照らし出してみなければわからない問題です。その永遠の課題が、あらゆる社会現象のなかに見ようとすれば見られるようになったことが、とても重要なことです。
 
たぶん、親鸞の浄土とは似ても似つかないものですが、生死に対する考え方や命に対する考え方が、仏教が発生当時からもっているものと、現在の文明社会におけるものとでは違ってきたことのあらわれとして、考えるほかないでしょう。
「ひとたび浄土へ往って還ってきて、自在に慈悲心を発揮すべきだ」ということは、あるひとつの課題のなかに必ず緊急な問題と永続的な問題の両方が入っているんだ、ということです。一見つまらないように見えても、そこには永遠の課題が入ってきていると言えることが非常に重要なことではないかと思われるのです。(※以下略するが、具体的な喫煙の問題に触れる。)
 (「同上」P185-P186) 


 ※ 細かなことであるが、まず「吉本隆明の183講演」のA112「親鸞から見た未来」、その「講演テキスト」をコピーしてそこからわたしが引用する部分を取り出し、『吉本隆明が語る親鸞』所収の「親鸞から見た未来」と照らし合わせ、そちらの文章に手直ししている。吉本さん自身が手直ししたのだろうか、講演そのものの語りに対して、本になった方は、語りの文体ではあるがずいぶんと切り整えられてすっきりしている。つまり、吉本さんの語りの具体性が整序されている。
備考
(備 考)
@について、永続的な問題と緊急な問題が二重の色合いで立ち現れるようになってきた現在の特徴は、現在というものがある大きな歴史の段階の終盤にさしかかっているからではないだろうか。

〈緊急の課題〉も〈永遠の課題〉もごちゃ混ぜで、二者択一に迫ったり考えたりしてきた状況の中、誰もが薄々とは感じてきたようなこと―その問題は本質的な解決は現状では難しく対処療法的に振る舞わざるを得ないとか自分たちの生涯の内ではその問題が根本的に解決されることはないだろうとか―を現在の状況的な課題として〈緊急の課題〉と〈永遠の課題〉を抽出したのは、絶えず考えを深く詰めてきた吉本さんならではである。

Bは、言葉や論理が親鸞の時代と現在とでは時代的に大きく変貌してしまっていて少し苦しげにも見えるが、つまり、「親鸞の浄土とは似ても似つかないもの」に見えたとしても、〈緊急の課題〉と〈永遠の課題〉という中に、親鸞の思想をすくい取り現在に生かしたことは、絶えず考え続けてきた吉本さんの優れた思想の達成と言うことができると思う。

この〈緊急の課題〉と〈永遠の課題〉(または、永続的な課題)という捉え方は、わたしたちが日常の中で曖昧にしてきたことをすっきりさせ、そしてより正しい判断を下すよう助けてくれると思う。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
476 逆立ということ 第二章 吉本隆明『共同幻想論』を語る  インタビュー 『ミシェル・フーコーと「共同幻想論」』 光芒社 平成11年

※ 読みは、「ぎゃくりつ」あるいは「さかだち」

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実感(具体例) 抽出された概念(三つの幻想) 自己幻想と共同幻想との相互関係の通常状態と励起状態
項目
1

@

吉本 ぼくは、共同幻想の最小単位っていうのは、三人だ、三人集まったときっていうのは二人とは全然違うんだっていうんですね。たとえば、三人集まって、同人雑誌を作って、会費はいくらずつ払おうってなったときに、会費は、千円ずつ毎月払おうとかって三人で決めて、三人で同意したとします。そのうちに、たとえばそのなかの一人が失業しちゃって千円が出せなくなっちゃった。そうした場合に三人で取り決めた、毎月千円払うこと、という取り決めで、その人はもうグループからはずれてもらうんだ、なぜなら、三人で同意して取り決めた規則からはずれちゃったんだから、それはやっぱり、やめてもらうよりしかたがない、っていうふうになりますね。その個人は最初の取り決めのときは同意したそういうグループからはずれざるをえなくなった。そうなったとたんにもうその個人にとっては、じぶんも参加して取り決めた三人の規則っていうのは重荷になってきますし、また、否定的になっていく。また逆に守っている人の方からみれば、その人はいかなる事情があってもとにかく払えなくなったんだから、あいつは、やっぱりグループではない。取り決めだけに照らしていえば、つまり、国家でいえば、法に照らしてだけいえば、もう、法にはずれたんだ、というふうになってくる。そういうふうにして個人と、三人のグループで決めたこととはだんだん反対して相互否定的になっていくことはあるわけで、そういうふうにかんがえてみると、どうしても、共同の取り決め、国家のなかでの個人っていうのは、本当は、自分も暗黙のうちに同意して国家の法律っていうのはできているんだけど、じぶんがそれを守れなくなったら途端に、共同で取り決めたそれと、個人の精神性とは違和感をもつようになって、もっと極端になれば、反対に否定的になっちゃう。
だから、ぼくは、共同幻想というものと個人の幻想というのは元来が逆立するものなんだというふうにかんがえたんですね。
 そういうところが特色で、あとは、その三つに分けたなかで何が特色かっていえば、対幻想、つまり家族とか社会というのは、家族の精神性っていいますか共同性っていうのは、共同幻想つまり国家みたいなものからも閉じられていくっていうふうになる。
また、男女が恋愛でもいいんですけど、男女が関係をもち濃密になってくればくるほど周囲から閉じられていくってことがあります。つまり、家族という概念は、結局は二人の共同なんだけど、社会的な共同性とも、また個人とも違うレベルのところでかんがえて、取り扱わないといけないんじゃないかなっていうことはやっぱり、特徴といえば特徴だとおもうんですね。個人の精神性と共同社会における精神性っていうのは逆立、逆さまなんだっていうのが、多分、共同幻想をかんがえていくときの特色っていいますかね、ポイントであったようにおもうんですけどね。

萩野 個人幻想と共同幻想が逆である、逆立している、逆立ちしている、そういう形なんだといわれたところが、私は本を読んでいて、深い意味があるような気がしていたんですが、ただ、今お話しを聞くとそれは初めから反対ではなくて、つながっているんだけれども、ある問題を介すると全然違う方向に作用する、逆立するという考え方ですね。

吉本 そうですね。極端までといいますか本質までいっちゃえば逆に行くだろうけれど、普通一般的にはどうなっているかというと、一種の違和感としてある。・・・中略・・・だけど、きわどくしていけば、どちらも、やっぱり、逆立して矛盾して、相互否定的になってるとおもうんです。
普通、一般的に正常なときには一種の違和感としてある、あるいは同和感としてあるっていうだけでいいんじゃないでしょうか。逆までいかないんじゃないでしょうかね。でも、とことんまで推し進める事態がやってきてしまえば逆立してしまうっていうふうになります。
 (『ミシェル・フーコーと「共同幻想論」』P64-P66 吉本隆明・中田平 光芒社 平成11年)






 (備 考)

ささいなことだが「逆立」の読みについて。
上の吉本さんの語りの終わり部分「個人の精神性と共同社会における精神性っていうのは逆立、逆さまなんだっていうのが」と、その吉本さんの言葉を受けた萩野氏の「個人幻想と共同幻想が逆である、逆立している、逆立ちしている」という言い方によって、「逆立」は「ぎゃくりつ」と読まれていると推定できる。

三つの幻想として抽出された概念は、本質として位相が違うということになる。個と共同性が、普通は個の中で軽い異和感や同和感と感じられて相互の異質さはあんまり意識されないとしても、突き詰められた状況では相互の異質さが際立ってくる、つまり位相の違いが気づかれることになる。
三つの幻想という概念の抽象性は、恣意的な思いつきといったようなものではなく、きちんとわたしたちの生活実感と対応させられている。その実感が踏まえられている。同人雑誌の例や恋愛関係にある男女の例などは、その実感の例に当たっている。

「逆立」ということがわからないとかいうことを昔ときどき見かけたが、それは論者が頭の概念世界でばかり考えているからだろうと思われる。理論物理が実験科学参照するように、概念や論理というものが日々の大多数の人々の実感をきちんと参照すべきなのだ。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
論文 吉本隆明全集4 晶文社 2014.9.30

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