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ID 項目 ID 項目
412 民族国家
425 姪の問いかけ
433  マルクスとマルクス主義者      
475 三つの幻想概念      
523  明治憲法の構成法      
557 眼に見えない困難      
605 見通せるということ      
608 三浦つとむに学ぶ      
610 昔しかなかったこと      
612 無意識が荒れる      
633  文字が始まる段階      
637 胸の奥の戒律      
659 未明の段階における人間の言葉      
     





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
412 民族国家 みんぞくこっか 第三章
 国家と社会の寓話
論文 中学生のための社会科 市井文学 2005.3.1

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民族
項目
1
@ 現在世界中のおもな「国家」は、民族「国家」とか国民「国家」とか呼ばれている。その共通な点は「民族」を一つにして成立している「国家」で、近代以後のおもな先進的な「国家」はそう呼ばれている。「民族」というのは<あいまいではあるがおもな点で統一性がある>とみなすことができる最大の「国家」の基盤を指している。
 こういっても何のことかわかりにくいのでもう少し説明を加える。
おなじ言語で方言や訛音があっても通じ合う標準語をもち、考え方のあり方が無理をせずとも「社会」に流通し、人種が違っていたり共通の祖先や伝統をもたなくとも風俗習慣も広く捉えれば共通であるか、類似点が多いなど、こういった共通の特徴があれば一つの「民族」と呼べる。その「民族」が一つの「国家」を成立させているのが民族「国家」である。
 「民族」という概念はあいまいなものだが、歴史的な長い周期の時間を経ればひとりでに同一の「民族」は作られる。
 人種や血縁の共同体である親族の集団、その延長や拡大によって作られる氏族や部族の集団は混血なしにはあり得ないと考えてよい。けれども言葉を標準化して一つに整えたり、「社会」の規則や特色をまとめたりできれば、時間の長短はあっても一つの地域に一つの「民族」としての特徴が作られる。
 別な面からいい直してみる。家族の延長として親族組織、その延長として氏族、その連合体として部族までは血縁(血のつながり)の遺制をどこかに考えることができる。たとえ希薄なつながりであってもどこかに血のつながりの名残りを残している。                        (P129−P131)

A 不思議なことに部族や部族連合では「国家」の形成を考えることができない。わたしにはその理由をはっきりということができない。だから想像でいうほかないのだが、第一にはどこかに血のつながりが特殊な親和力として作用している共同体では束縛力が強くて部族連合より高次の集団を形成できないと考えられる。言い換えれば、部族連合までは血のつながりの親和による話し合いで万事解決できるから、それ以上高次の集団を必要としないのではないか。

B 「国家」が成り立つには、血のつながりのある部族までの次元を超えて全く血縁のない集団どうしが連合しなくてはならない。これは「国家」の成立をその他の共同体集団と分ける最も重要な要素の一つだろう。このいちばん大きな表われは、長老会議やその他の支配する側が村落の民衆と関わりなく、自分たちだけで決めた武力を専門とする者たちの組織を作り、軍事の訓練をして武力に精通させ、他の部族を圧伏させたり配下にしたり他の部族連合に勝利しようと試み、場合によっては自分たちの村落の成員さえ強制したりできるように軍事専門集団をこしらえてしまうことだ。それは、血縁が少しもない連合体は長老などの仲裁や和解のすすめなどを認めなくなり、自分たちの利害を最優先に考えるために血縁や伝統的な習慣の親和性が役立たなくなるからだと考えるのが妥当であろう。
 このように血縁親和が無意味になった次元の連合体が上層の意志だけで軍事専門の武装集団をこしらえて、それを行使するようになったとき「国家」と呼ばれるようになり、成員たちの日常の社会生活の上に政治的に君臨するようになる。もう成員の方も年齢が高く経験に富んでいるというだけで長老たちを尊重しなくなるから、長老会議のような年齢階程の合議に従わないようになってゆく。
                         (P132−P134)
項目
2
備考





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
425 姪の問いかけ めいのといかけ 『心的現象論・本論』 文化科学高等研究院 2008.7.10 「あとがきにかえて―『心的現象論』の刊行にあたって」

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問いの具体に思想はどう答えるのか
項目
1
@ 
―例えば若い看護師がターミナル期を迎えた患者さんのそばに行ったときに、たまたまその患者さんに「おれはもう死ぬだろう。死んだらおれはどうなるんだ」と質問されたとします。そのとき、ケアのプロである看護師はどんな答え方が良かろうと、吉本さんはお思いになりますか。

吉本 僕は姪が子宮がんで亡くなったときに、「おじさん、どういうふうに考えたらいいの」と盛んに聞かれました。今だったら何か言えそうな気もしますが、そのときはこの段階でおれが言うことはみんな切実さに欠けているという感じがして言えませんでした。「車いすで病院の中でも散歩するか」と言っただけで、何も言えませんでしたね。今だったら多少何か言えそうな気もしますが。
 でも、どんなことを言っても、死については野次馬的にしか言えない。ご本人がどういう状態か、精神状態は了解できるところもありますが、全体としてどうきついのかは全く分からない。分かるほうがおかしいのであって、分からない。そんなことで何かを言ったら、余計なことを言うな。死という切実な問題でないときだったらいくらでも意見を言います、僕ならそうなります。

  (『老いの超え方』P243-P244 吉本隆明 2006年)


A
  『心的現象論』を書きはじめた時、個人の幻想が共同幻想につながるところ、それは集団性と社会性につながるところまで伸びていけばいい、その意図が推察してもらえるところまでいけばいいというかんがえで、「このように完成する」という意味合いはなく、「だいたい、いくところまでいったな」というところで止めて、そのままになっているのですが、その間、わたしの姪が子宮癌になり、医者から「これ以上の治療はない」といわれた。姪から「あてがないのならば、治療を打ちきりたい」という相談が来たのです。
 ・・・中略・・・当人はもうよくわかっていて、わたしに「おじさん、どうかんがえたらいいの」とたずねられた。要するに死ぬとわかったばあいのじぶんの気持ちをどうかんがえればいいのと聞かれて、それに答えられなかったのです。今も答えられないかもしれませんが、その時はもろに答えられなかった。
 何をどういっていいのかじぶんでもわからない、病院の中だけで車椅子で散歩しながら、世間話、何気ない会話をする以外何もできない、じぶんは何もできない、ほんとうに答えがない。


 『心的現象論』を連載している最中に、姪たちからそのことをいわれて、ほどほどまいったというか、反省にもなりました。つまり、通りやすいところばかり通るな、通りやすいところばかり通ると必ず抜け落ちてしまう重要なことがあって、実際問題としては、人にとっては重要なのであり、そこを適当なところで済ましているのではないか、それはきちんとしっかりかんがえぬかねばならない、それでなければ思想などといえないとおもったのです。
 答えることができないこれでは駄目だ。こんなことに答えられないのに、何か書いたり、やっていたりしても、そんなことでは意味がない、ほんとうに駄目なのだとおもいはじめるようになって、そのことをそれなりに一生懸命にかんがえたりしたのですが、姪のことでじぶんの思想的範囲、囲い、守備範囲の中では答えるだけのものは、じぶんにはない。徹底的に、はじめからこれは駄目だ。これについては、もしじぶんなりにやるならば、これからかんがえていかなければいけない、そういうふうにおもうまま、姪は亡くなったのですが、それは今でもひっかかっています。何とかじぶんなりの出口はないのか。じぶんだったらどうなのか。そういうことは今でもじぶんでわからないけれども、ひとつの問題としてはいつでもあります。
 (『心的現象論・本論』「あとがきにかえて―『心的現象論』の刊行にあたって」)


 そのことは、言語の表現にももちろん成り立つわけで、マルクスの基本的な自然哲学、自然にたいする考え方、じぶん以外の外界にたいする働き方における考え方の根本にそれがある。こういうマルクスの自然哲学であると、観念でわかっても、実感として、具象性を帯びたひとつの考え方としては、どうしてもこちらには入ってこなかった。
 「表現は自己疎外のひとつだ」という言い方をこの本でしていると思いますが、
 「それをじぶんはほんとうにわかっているのだろうか」とたいへん疑問であり、具象性を帯びて、わかったという感じにはならなかった。それが嫌で、この本を刊行するという話が出ても流れてきたという案配です。これをまとめる気にならないというかんがえになっていたのです。
 今はほとんど、それが具象性を持っている気がじぶんではしています。マルクスの考え方は最終的に、未だ滅びていない、とじぶんが信じているところなのです。
 ( 同上 ))

備考   ・この二つ以外にも、この件に触れた文章があったが、この「あとがきにかえて―『心的現象論』の刊行にあたって」がもっとも詳しく述べられている。

 ・テレビの西部劇などでしか観たことがないけれど、遙かな昔のインディアンの長老の言葉は、問いの具体に答えるような深さを持った言葉だったのかもしれない。ということは、そこに生きた人々はそのような「深さ」の世界観の中にいて、その「深さ」を共有していたのだろう。良し悪しは別にして、現代人であるわたしたちは、たぶん心臓と対応する内臓感覚のその「深さ」を摩耗させてきた。そして、目まぐるしい感覚と対応する脳の時代の渦中にいる。





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433 マルクスとマルクス主義者 日本人の宗教観
―宗教を問い直す
対談 『中外日報』2006年 吉本隆明資料集165 猫々堂 2017.5.25

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マルクスとマルクス主義者の違い マルクスの初期の疎外論 深さ
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1

吉本 要するにマルクスは、宗教はアヘンだということを宗教全体を覆い尽くしたつもりで言ったとは僕には思えないんですね。ある時それに近いような言い方をしたという解釈をとります。(註.1)
 マルクスはロシアの社会主義者にあてた手紙の中で、私は歴史の中で発見した法則があると書いています。それは経済構造を主とする下部構造が変化すると、それに従って人間の上部構造、つまり精神構造も変化する、これが私の見つけ出した歴史法則ですと。
 それはあっさり手紙でそういうふうに言ったという以上の意味はないと受け取ったほうがいいと思います。(註.1)
 僕は逆に、下部構造、経済構造をはじめとする社会の物質構造というのがものすごく発達しても、精神構造あるいはそれを担うシステムというのは古代そのままのものをよく保存しているということはあり得ることだと。日本なんかは典型的だけど、そういうふうに
修正しちゃっています。・・・以下略・・・

笠原 つまりマルクスは宗教の深いところを考えた。それについてレーニンはある程度、理解していた。ところがスターリンになるとほとんど理解していないと。スターリンは神学校を出たんですけれど。

吉本 それはまったくよくわかるような気がしますね。

笠原 私は
マルクスの初期の疎外論とか、あのあたりが一番面白いのですが、ああいう宗教の問題は、もっと徹底的にやったほうがいいと思いますね。ところがマルクスの研究家というのは、宗教については非常に表面的な理解しかしていないのではないでしょうか。

吉本 してないですね。食わず嫌いのようなところがあります。
 僕は
マルクスとマルクス主義者の違いということをよく言っているんだけど、エンゲルスは、マルクスという人は幾世紀にかけて世界最大の思想家であるということを誰もが認めざるを得ない存在だったという言い方をしています。マルクスは近代思想の一頂点であって、誰が読んでも考えても良いという普遍的な要素が必ずその中に含まれていると。マルクス主義者というのはレーニンが元祖なんでしょうけど、これは一世紀か一世紀半くらいしかもたないだろうなという気がしますね。ですからそれは分けて考えないと、同じように考えてはいけないと思います。

笠原 なるほど。

吉本 ロシアのマルクス主義はある時期にだけしか通用しないという程度のものだったと僕は思っていますが、マルクスというのは、誰もが認めざるを得ないところをきちんと持っているという
深さがあるような気がします。ですから、いつでも永続的に考えを深めたり高めたり、はみ出したりということをやっていないと、正統なつもりでもだんだんだめになっていくんですね。

笠原 そう思いますね。
         (P68−P70)

備考 (註.1)
親鸞が信徒にだったか手紙で書いた「浄土」という言葉についても、吉本さんは似たような解釈をしている。つまり、浄土で会いましょうのように実在の「浄土」として語っているが、これは常識的なあいさつのような言葉であると。
また、わたしたちの日常でも、まあそういう言葉と捉えられてもいいやと言葉をゆるく使ったり、あるいは厳密に言葉を使ったり、場面によってあり得るように思う。





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475 三つの幻想概念 第二章 吉本隆明『共同幻想論』を語る  インタビュー 『ミシェル・フーコーと「共同幻想論」』 光芒社 平成11年

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違う 違う精神性 本当いうと一人の人間ですから、ぜんぶ混合して出てくるわけです 個人の精神性っていうのは、『心的現象論』で
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@
   三つの幻想概念(引用者註.本文の小見出し)

萩野 共同幻想という概念、それから対幻想、個人の幻想のレベルを『共同幻想論』の序にかなりくわしく説明されたとおもうんですよね。この三つの言葉っていったいどういうものなのか、そしてそれがどう関わるかということを、実際、じかに吉本さんの言葉でご説明いただけますか。

吉本 そのなかで「対幻想」っていう言葉はぼくの造語だとおもうんですよ。それは、要するに、男女、男と女の関係っていうこと、またその関係を基盤にした「家」とか「家族」とかっていう概念ですけれど。「家族」というのは、個々の個人としての人間っていうのとも
違うし、また、社会的な人間、つまり、社会の場のなかでの、個人それぞれの人間とも違う場所なんじゃないか、つまり、男と女の結び付きは違うし、社会的にいっても「家族」っていうのは、国家とも違うし、個人という人間とも違うっていうもんじゃないかっていうのが非常に大きなぼくの問題意識だったんですね。それで、はじめ、社会的にいえば「家族」っていう概念は何なんだっていうふうに、あるいは「家族」の起源は何なんだっていうふうに、いってきたわけです。だんだんとじぶんの考えを展開していくと、『共同幻想論』のなかでは、しまいには、ぼくは一人の個人がじぶん以外の他の一人の個人と出会うといいましょうか、関係する仕方っていうのが「対幻想」なんだっていうふうに概念を拡張しました。性とか男ないしは女っていうふうに限定しないで、どんな場合でも、一人の人間として他の一人の人間と関係するとか、出会うとかっていう場にできる、その精神性っていうのは、それは、全部「対幻想」とよぶべきなんだ。それは、男と男であっても、男と女であっても、同じなんで、やっぱり「対幻想」とよぶべきなんだ。それは、個人とも違うし社会的な人間としての個人とも違う、そういう違う場所っていいましょうかね、違う位置っていうのをもっているんだ。だから、そういう一人の個人対じぶん以外の他の一人の個人との結びつきとか、関係というのは、社会に対しても、あるいはじぶん一人っていうのに対しても違う精神性っていうのがそこにかんがえられなくちゃいけない。それが、男女の結び付きを中心にした「家」とか「家族」はその場所にかんがえればいいんだという考え方をとったんですね。
 だから、
本当いうと一人の人間ですから、ぜんぶ混合して出てくるわけです。「対幻想」のなかに、女性に対する考え方とか関係の仕方のなかに、じぶんの個というのが出てきたりするわけです。しかし、本来的にいえば、別々のものだから、別に分けてかんがえなくてはいけないとかんがえたんですね。
 それで、
個人の精神性っていうのは、ぼくは『心的現象論』でやればできるんだという考え方になりました。それからまた、家族の問題、あるいは、対幻想の問題とその共同幻想の問題というのは、一つのなかに含めて、『共同幻想論』としてかんがえればかんがえられる。そして、対幻想というのは共同幻想の特殊な場合っていうふうにかんがえれば、含めてかんがえることができるんじゃないかってかんがえたんですね。
  (『ミシェル・フーコーと「共同幻想論」』P62-P63 吉本隆明・中田平 光芒社 平成11年)






 (備 考)

 『ミシェル・フーコーと「共同幻想論」』の存在を知り、なんか買った覚えがないなと思って古本を買った。その本は、昔買ったCD-ROM版『吉本隆明「共同幻想論」を語る』に所収されているものなどから成る本らしい。CD-ROM版の方は、windows95版で、もはや現在のOSではインストールして読むことができないようだった。昔、少し見た程度だった。電子ブックにまだ手を出していないわたしにとっては、まだまだ本の方が使い勝手が良さそうだ。

 吉本さんの、この「三つの幻想概念」を設定したモチーフは、確か吉本さんの戦争−敗戦体験の中での異和だったと記憶している。人は現実の中で過剰な倫理性を負わされたり迫られたりすることがある。その無用な倫理性を解除するというモチーフだったと思う。つまり、わたしたちが現実の精神的な大気の渦中で少しでもスムーズに呼吸ができるようになること。

 この人間界で人と人とが織りなす関係の総体の構造を、三つの基軸、「三つの幻想概念」として抽出し、それらの相互関係として開示して見せたということである。この場合、現実の具体性の場面では、「本当いうと一人の人間ですから、ぜんぶ混合して出てくるわけです」というようなことが、重要な問題となってくる。抽象度を持つ「三つの幻想概念」とそこから現実の具体や諸問題にはせ下ってくる場合には、その「本当いうと一人の人間ですから、ぜんぶ混合して出てくるわけです」ということの中身が重要なものとして登場してくるような気がする。つまり、わたしたちはその点をきちんと捉えようとしなくてはならないということである。





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523 明治憲法の構成法 フーコーについて 講演 吉本隆明の183講演 ほぼ日

講演日:1995年7月9日 吉本隆明の183講演の「講演テキスト」より引用

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「天皇は神聖にして侵すべからず」っていう項目 接続点 国軍の規定 私たちの中のあいまいさ
項目
1

@

12 天皇条項のあいまいさ
( 引用者註.「講演テキスト」の小見出し)

それで、近代になって、明治になって、伊藤博文っていうのが、明治憲法っていう、外国に行って、いろいろ研究して、ドイツの憲法なんか勉強してきたりして、勉強してきて、日本国には天皇っていうのがいて、天皇っていうのをどういうふうにしたらいいのかっていうのを、いろいろ考えたりして、明治憲法っていうのをつくるわけです。
明治憲法っていうのは、これは岩波の『世界憲法集』っていうのに書いてありますけど、それ以外になかなか見つけるのがむずかしいでしょうけど、それを見ると、のっけからまた、のっけから二番目ぐらいですかね、
「天皇は神聖にして侵すべからず」っていう項目があるんです。
そうしたら、これは法律か、道徳か、日本の市民社会で守るべき道徳なのか、それとも法律なのか、それとも、市民社会における道徳を普遍化したものが、この条項になっているのかっていうふうに考えると、なかなかこれ、問題になってきます。
しかし、知恵は知恵だし、明治維新はひとつの革命であることには違いないと思えるのは、つまり、それ以下の条項をみると、だいたいほかの国の、つまり、ヨーロッパの国の憲法の条項らしき条項がぜんぶ揃っているわけです。
ただ一か所、ちょっと付随するのがあります。ぼくが考えると、統帥権っていいましょうか、軍隊を動かす権利だけは、直接、天皇にあるっていうのは、明治憲法のあれですけど、それは、ちょっと問題になると思いますけど、
第一条っていうのは、これは道徳であるのか、それとも、法律であるのか、あるいは、国家を規定するあれなのか、市民社会だけを規定するあれなのかっていうのを、ちょっと区別しがたいっていう項目であることに間違いないです。だけど、項目はだいたい、西洋の近代国家における憲法と、ほぼ同じような条項っていうのは、ちゃんとつくられているっていうふうにつくったわけです。


A

ところが、どうしても、天ぷらじゃないけど、衣だけ衣替えしたって、なかなか西洋並みにはならんですよっていうのが、第一条によくあらわれているので、昔ながらの、つまり、守るべき法律なのだか、国法なのだか、それとも、ただの道徳的な規定なのかっていうのが、すこぶるあいまいであるっていうような、そういう項目を、どうしても、一条一カ条のっけから載せておくことによって、古来からの、日本の憲法っていうのは、聖徳太子以来、あんまり、道徳だか、なんだかわからないような、そういうことしかつくってこなかった、できてこなかったっていうのに対して、かろうじて、そういうところとの
接続点を設けているわけです。
だけども、ほんとうに、そんな外国に行って、ヨーロッパに行って、むこうの憲法を勉強してきて、おんなじようにつくろうじゃないかっていうふうにして、そういうつくり方をしないで、鎌倉幕府法とか、諸藩の持っている、各藩が持っている藩法っていうのがありますけど、それをよくよく検討して、明治維新、あるいは、幕末の連中が、それを一生懸命、研究していて、そこから道徳的要素が比較的少ないっていうような項目だけをもってきて、それを、一種の普遍的な要素として、拡大したら、拡張したらこういうかたちになるぜっていうふうに憲法をつくったら、たぶん、それこそ理想的な、つまり、日本の憲法が理想的なっていうのは、たぶん、ふさわしい日本の憲法が自発的に、自律的にできたってことになるのでしょうけれど、
それよりも手っ取り早く、とにかく留学して、むこうへ行って、むこうの憲法を全部さらってきて、それを、うまくあんばいして、古来からの日本の憲法っていうものの考え方っていうのも、どっかで入れて調和しないとっていうので、第一条みたいなものを、「天皇は神聖にして侵すべからず」みたいなものを入れたと思います。


B

それで、今度は、
国軍の規定ってことになります。近代国家ですから、国軍を持たないといけないってこと、国軍を持つ規定のなかで、いちばん重要なのは、国軍っていうのは、天皇が統帥するんだぞ、つまり、国軍を統帥する権利は天皇にあるんだぞっていう言い方をしているわけです。
これは、付随する非常に重要な、古来からのっていえば、古来からのだし、これは邪魔っけでしょうがないっていう考えをとれば、邪魔っけでしょうがないので、いまだにかたがついてないっていうふうに、
いまの憲法だって、象徴だっていうふうなかたちで、くっついているみたいなことになっているわけです。くっついていても、あいまいでしょうがないと思う人もいるでしょうし、これがあってちょうどいいんだって思う人もいるでしょうし、また、こんなのはないほうがいいっていう人もいるでしょうし、また、少数でしょうけど、ウルトラナショナリストもいて、また昔の明治憲法の神聖天皇っていうのにしたほうがいいっていう人もいるでしょうけれども、どんなふうな考え方をしようと、この一項目は、「神聖にして侵すべからず」から「象徴天皇」になって残っている、この一項目は、日本国の伝統的考え方を象徴してあって、それは同時に、日本人のもっている、農家の人も、漁業の人も、それから、都会の働いている人も、学者みたいなインテリも、全部がそのあいまいさをいまだにもってる、引きずっているんだって、自分の鏡みたいなもので、これは、依然として、重要な問題として、考えなきゃいけない。これを抜きにして、平和憲法を守れなんて言ってるやつがいるけど、平和憲法を守ることは、この象徴規定を守ることを同時に意味します。
それは、あいまいなことなんです。それは、厳密にそれは考えなきゃいけないってことになるわけです。
だけど、あいまいなことで済ましてるっていうのが、ピンからキリまでっていいましょうか、あるいは、右から左まで同様であるっていうのが、いまの状況です。この項目っていうのは、そういう意味をもって、十七条憲法からずっとあれしてくわけです。
  (『 A172フーコーについて』吉本隆明の183講演 講演日:1995年7月9日)
 ※@、A、Bは、連続する文章です。











 (備 考)

これと同様に、大化の改新もまた先進中国の諸制度をそっくり模倣したものだったと記憶する。

この件は、ここに説明的に付け加える必要のないほど、わたしたちにとっては自明のことに属している。しかし、その「自明」ということとなぜそのような「あいまいさ」の中にわたしたちは安住しているのかということとは、また別のことである。すなわち、わたしたちがあいまいさの中にいるという自明さは、その自明さの根拠をあらゆる現実的な諸関係の場において具体的に問われ続けている。

その場合わたしたちは、(西欧化の波などでいくらか変貌してきた)「あいまいさ」自体とその「あいまいさ」を内省するという両端にまたがる状況にいる。アジア中国やヨーロッパの大波をかぶって滲透されてきたわたしたちには、その「あいまいさ」の両端にわたる渦中で、現実的な理想のイメージのベクトルに沿って進んでいけばいいのだと思う。


俗っぽい考えかもしれないが、ひとつ思いつくのは次のようなことである。この列島の住民たちは、いくつかの種族がぶつかり交わりあってきている。大きな時間のスケールで少なくとも二度はこの列島への大きな流入があったと言われている。その長い経験が列島の狭い居住・生活区域での血を流す対立をできるだけ避ける「あいまいさ」を生み出したのではないかとも考えられる。しかし、吉本さんが「心的現象論」で、南方の島々の人々と共通するこの列島人の心性として、例えばマレビト崇拝(他所から来る者への崇拝と残虐、あるいは、人見知りの意識)について触れていたと記憶する。もしかするともっと古い太古からのアフリカ的な段階からの心性なのかもしれない。よくわからない。





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557 眼に見えない困難 「『最後の親鸞』のこと」 論文 『〈信〉の構造』 春秋社 1983.12.15

※この論は、初出は1976年11月、原題は「『最後の親鸞』への註釈」。
※この論は、『初源への言葉』にも収められている。

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西欧の宗教思想とわが国の宗教思想を理解するについて、この種の倒錯した困難が存在すること 宗教は、法や国家や倫理や政治や文学の、時代的な一変態であるにすぎない性格を持っている。 宗教すなわち観念論的迷蒙という概念 宗教を理解するばあいの要
項目
1

@

 こんど『最後の親鸞』という本をつくった。読んでくれればその論旨は明瞭だといえばそれまでだが、いくつかの点でこの種の仏教的な思想家を俎上にのせるばあいに、眼に見えない困難があることを云っておくのが、親切なことだと考える。簡単なところから入ってゆくと、現代の批評家といえども、パスカルを論じたり、ルッターを論じたりすることはありうる。また現代の研究者がパスカルやルッターを対象にして論著をつくるというばあいもありうる。こういうばあい、読者は、
現代にあって獲得している諸概念さえあれば、そのままこれらの論著にとりつき、読みとおすのに困難を覚えないだろう。困難があったとしても知識の有無に関することだけである。
 
ところが不思議なことに親鸞や道元や日蓮を対象にして作家や批評家が論著をつくったとしてみる。このばあいには現代の論者も読者も共に、現に獲得している諸概念で論ずることも読むこともきわめて難しいという事態が生ずる。論者の方は、抹香臭い雰囲気を掻きわけて、まず現代の諸概念の流通する広場へもってくることだけで、息が切れるほどの困難に出遇うのである。下手にこれをやろうとすると、現代のパターンで往古の時代の仏教的思想家を割りつけることになるし、のめり込めば自ら抹香臭い雰囲気をふりまくことになる。おおくの宗教家によって論じられた親鸞や道元や日蓮が、漢訳を通した抹香臭い雰囲気にどっぷり首をひたしたものになるのはそのためである。これは感覚的な云い方だから、すこし云い直すと仏教の諸概念を表わす用語に分け入るとき、すでにどっぷり抹香臭さにひたることなしには理解できないということになる。まして理解した上でひき返すのがとても困難なのだ。では、文学者や哲学者の書いた親鸞や道元や日蓮はどうか。云わぬが花というものだ。かれらは、自前の思想なんぞ持ちあわせていないのだから、抹香臭さそのもののなかに思想をみることなどできようはずがない。読者もまたおなじ困難さに遭遇する。親鸞や道元や日蓮という名辞が、すでに先験的に抹香臭いのだ。現代の読者はパスカルやルッターにとりつくとおなじ虚心さで親鸞や道元や日蓮にとりつくことができない。またとりついてみたら予想どおり抹香臭かったという失望感をしこたま体験することになる。本来的にいって、こういう馬鹿気たことは無いはずである。しかし、あらゆる意味で現在でも西欧の宗教思想とわが国の宗教思想を理解するについて、この種の倒錯した困難が存在することは疑いない。これをわが国の近代以後の思想と文学との悲劇的な、あるいは喜劇的な宿命とすればよいのか。この種の名状し難い困難に眼を閉じて比較文学などをやっている連中の貌が、ひとしなみに間が抜けているのは当然でなければならぬ。
 
わたしは親鸞を論じながら、この種の眼に視えぬ困難ともっともおおく確執した。これは書くことに則していえば、どこへも責任をもってゆきようがない不毛な困難さであった。ともすればこの確執に負けそうにもなった。またこういう確執をおして道をつけてくれていない近代以後の文学や思想の歴史に恨み言をもってゆきたい気持がした。読者がもし、『最後の親鸞』をパスカル論やルッター論を読むのとおなじように虚心に読むことができたとしたら、わたしにとっては大半の意味は成ったということになるし、名辞からして抹香臭いという先入見なしにとりついてくれたら、それ相応の世界が親鸞のなかに在ることが知れるだろうと思っている。
 
 (「『最後の親鸞』のこと」、『〈信〉の構造』所収 P224−P225)


A

 マックス・ウェーバーは、親鸞教の性格についてつぎのように云っている。

  真宗は、クリシュナ崇拝から成長したインドのバクティ宗教意識――これについては、まもなく論ずる――に類似  しているが、けれども、古代ヒンドゥー教の主知主義的救拯論から生じた一切の宗教意識に特有な、いかなる狂  躁的・恍惚的要素をも拒否しているという点では、バクティ宗教意識とは異っている。阿弥陀仏は、救難聖人で   あり、それを信頼することが、ただ救済をもたらす内面的態度であった。それゆえ真宗は、僧侶の独身や出家主  義一般を排除した唯一の仏教宗派であった。仏僧(ポルトガル人によって「坊主(ボンズ)」といやしめられた)は、  妻帯し、ただ仕事のうえでは、特有の服装〔僧衣〕を着た僧侶であるが、その他の生活態度では、俗人のそれと  変るところがなかった。妻帯は、他の仏教的諸宗派においては、日本の内部であっても、外部であっても、戒律  の堕落した産物であったが、真宗では、それは、多分にまず自覚的な現象として現れたのである。
   (『アジア宗教の基本的性格』)

 インドから中国を経て極東の島国で開化した大乗仏教の一宗派の特徴を、これだけ概観できる透徹した理解力は、羨望にたえない気がする。わたしたちは、たぶん現在でも西欧のキリスト教の一地方的な小宗派の教義をこれだけ的確に概観することはできないだろう。だかウェーバーの方法あの基本的な弱点も同時に、これだけの断片からでもみることはできる。
ウェーバーにとっては、宗教は宗教であるという認識の世界普遍性が信じられている。けれどほんとうは、宗教は、法や国家や倫理や政治や文学の、時代的な一変態であるにすぎない性格を持っている。現在でも〈科学〉的な識知が宗教的にあらわれたりしているのは、誰でも知っている。とくに古来からの文化の辺縁地帯では、人間の存在の仕方についての基本的な構えの考察と、その実行は、ある時代には仏教、ある時代には儒教、またある時代にはキリスト教の言語と教義的な迷路の仮面をつけてあらわれる。親鸞をはじめ中世の新仏教の創始者たちは、たんに宗教改革者だっただけではなく宗教の解体を体現している面をもっていた。とくに親鸞ではその度合が徹底的であった。
 真宗の始祖親鸞は信仰によって僧侶で在ったのではなく、知識がたまたま〈信〉の形をとらざるを得ない時代だったから僧侶だったにすぎなかった。また、僧侶だったから浄土門の経典を註釈したのではなく、思想がたまたま仏教の形をとらざるを得ない時代だったから、仏教的であったにすぎない。この意味は、ウェーバーの方法からはとうてい理解することはできないものである。とくに親鸞にあらわれている口称念仏による往生論は、すでに大乗仏教におけるユートピアとしての浄土が、観念的な異空間に描くことができないものであることを象徴していた。
つまり観想力による浄土のイメージは、親鸞ではすでに解体されていた。それが無意味なことは僧侶によっても民衆によっても、かなりはっきりと自覚されていた。親鸞はそれに思想的な内容をあたえたといいうる。それを根拠づけるために親鸞がやったことは〈善〉と〈悪〉との価値を転倒してみせることであった。かれは、ある絶対善にたいして、善行よりも悪行の方が近くにあるという概念を造りだした。ただこの悪行は、意志的に(あるいは目的意識的に)なされるかぎり、直ちに善行よりも絶対善にたいして、かえって迂回路に滑りこむという保留が与えられたのである。こういう理念は、ウェーバーがいうような意味では宗教的なものではなく、宗教からの逸脱であり、また宗教の解体であるといってよい。
 (「同上」 P226−P227)


B

 宗教にたいする通念のうち、もうひとつ難解なのは、
宗教すなわち観念論的迷蒙という概念が、どうしても支配的にでてくることである。また、浄土という概念がただちに空想的ユートピアだという考えに陥りやすいことである。これは、一般に、ウェーバーのような実証的(と称する)方法が陥りやすい迷蒙である。宗教には、思想がユートピア的な構想をとらざるを得ない時代だったからユートピアが想定されたにすぎないという面がある。このことは逆に、現在〈科学〉的と称する思想が宗教的に受容されている側面をもっているのとおなじである。日本における大乗仏教の浄土も必ずそういう側面をもつものであった。ユートピア的な浄土の概念を捨てきれなかったがゆえに、日本における大乗仏教は、空想的・観念的なのではない。また、宗教が一般に空想的・観念的なのでもない。ここを誤解しないことは、たぶん宗教を理解するばあいの要をなしている。・・・中略・・・
宗教はどんな宗教であれ観念の構造そのもののなかに本質的な意義をもつもので、その現実的な形態に本質をもつものではない。ある宗派の観念の構造のなかに、時代の必然的な形がどのように正確に捉えられ、どのような萌芽が在るかが問題のすべてであるといっても過言ではない。親鸞がユートピア的な浄土の概念をほとんど否定しようとしたところには、たんに時代的な〈信〉の解体を正確に捉えている面だけではなく、
その以後に永続的につながる課題にたいする漠然とした予見があったといってよい。とした
 (「同上」 P227−P228)
 ※@とAとBは、続いた文章です。











 (備 考)

・この「『最後の親鸞』のこと」は、1976年11月公表の文章。
・フーコーと吉本さんとの対談は、1978年4月25日
・「ミシェル・フーコーへの手紙」(『吉本隆明全集17』所収)は、フーコーとの対話後の1979年の文章。
・「現代のむなしさと不信は越えられるか」1979年4月27日親鸞塾での講演。 (『〈信〉の構造』所収 P356−P372)
 ※この講演は、「吉本隆明の183講演」には収められていない。

この講演と「ミシェル・フーコーへの手紙」との後先はわからないが、この講演では親鸞と対比的に道元にも少し触れられている。そして、〈アジア〉的段階と〈ヨーロッパ〉的段階についても触れられており、「ミシェル・フーコーへの手紙」はこれをもっと緻密に追究したものになっている。読んでいて、吉本さんが道元についてことこまかに長々と触れているなと思ったが、それは、フーコーが日本滞在時に座禅体験していることと、「〈性〉と権力」の日本での講演をしているからである。その二つを手がかりにして、〈ヨーロッパ〉的段階の現在の渦中にいてそれを突き抜けようともがくフーコーと〈ヨーロッパ〉的段階の大波をかぶり影響下にある〈アジア〉的段階を遺制としてのように引きずる現在を生きる〈自立〉思想の吉本さんとの対話の試みである。両者には目に見えない大きな世界の断層があるから、真の対話が直ちに世界普遍の言葉でできるわけではない。


※ 上に引用したAの部分、この宗教認識を踏まえて、〈ヨーロッパ〉とアジア中国の波や近代のヨーロッパの波を大きく被ってきた〈アジア〉日本との間に依然として横たわる大きな言葉の断層(イメージや概念の構成や感受の位相差)が存在する。先日、NHKの「100分で名著」という番組で、わたしはまともに読んだことのないスピノザの「エチカ」を取り上げていた。「20年来スピノザを研究し続けている國分功一郎」が出ていた。しばらく見ていたら、國分功一郎は、この彼我との間に横たわる「大きな言葉の断層」を意識せずに世界普遍として語っているのではないかと思われた。現在では、グローバル化を背景として、またわが国の十分な西欧化の促しとして、そのような擬似的な世界普遍性が信じられているのかもしれない。しかしもちろん、これは相変わらず現在でも受け継がれている日本の知識層の負の伝統であり、錯覚である。現実の政治の外交でも個々人間の交流においても、沈黙の内にその大きな断層による軋みを経験しているはずである。


吉本さんは 「ミシェル・フーコーへの手紙」において、「西欧の宗教思想とわが国の宗教思想を理解するについて、この種の倒錯した困難が存在すること」を超えて、言いかえると上に述べた大きな言葉の断層(イメージや概念の構成や感受の位相差)を超えて、同じ世界普遍の場で対話する、その下準備のようなつもりでこの手紙を書いたのではないかと思われる。それが、吉本さんの「ミシェル・フーコーへの手紙」の末尾の言葉に示されていると思う。

吉本さんのこの「ミシェル・フーコーへの手紙」の批評を「日本の知についての絶望 吉本は身を縮こまらせ、恥じている」という表題で橋爪大三郎が「週刊読書人ウェブ」に書いていた。吉本さんにとって、その絶望は若い頃からの自明のことで、まさにそこに〈自立〉という思想が抗い続けており、いまさら取り立てて言うことではないはずだ。橋爪の批評は、その表題に収束すると思えるが、「身を縮こまらせ、恥じている」が不明だと思った。自分の体験的なことや思い込みのフィルターにかかってきた像のように感じる。何を勘違いしているのだろうか。橋爪の本は、『「心」はあるのか』(ちくま新書)を何年も前に1冊買ったきりで、パラパラ見て、まだ読んでいない。つまり、橋爪についてはよく知らないが、その出している本を眺めれば、西欧の知にどっぷり浸かっていることはわかる。しかも、橋爪のこの批評を読んでも、自分が棚上げされていて、彼の知識世界での位置がわたしには全然伝わってこなかった。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
605 見通せるということ 「はじめての吉本隆明」   トークイベント 週刊 読書人 2017.6.2

 『吉本隆明全集』(晶文社) 第U期刊行開始記念 トークイベント  2017年4月15日上野寛永寺・輪王殿
 「はじめての吉本隆明」 糸井重里×ハルノ宵子
 「週刊 読書人ウェブ」 https://dokushojin.com/article.html?i=1452 新聞掲載日:2017年6月2日(第3192号)

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大体親のやってきた悪いことを子どもはあんまり超えることはないんです 超えそうになったらやることは違うんだけどその範囲だったらなおりますよ
項目
1

@

 「人生相談の大家みたいな」(糸井)(引用者註.これは見出しのようなもののようです)

糸井
 吉本さんとは関係ないところで何か大変なことが起こって、自分が相談を受けたときに、俺はこう思うんだけどそれは浅知恵かな、器用過ぎる答えかなというときがあるんです。器用過ぎる答えでしのいじゃうと本当の解決にならないみたいときに訪ねていくと、吉本さんは大体明快に答えをくれるんですよね。

ハルノ
 そうですね、あれはちょっと見事でしたよね。

糸井
 僕の割に近い人の話で子どもさんが手がつけられなくなっちゃってなかなか大変だった。そのときに吉本さんに聞きに行ったら、それはね、
大体親のやってきた悪いことを子どもはあんまり超えることはないんですと、大体自分がやってきたことのあたりなんですよと、超えそうになったらやることは違うんだけどその範囲だったらなおりますよと言われて。その人はそうか、と本気で思ったんですね。だったらいま子どもがやってることを応援しようくらいに思って、確かにその通りでなおっちゃったんです。

 『吉本隆明全集』(晶文社) 第U期刊行開始記念 トークイベント
 「はじめての吉本隆明」 糸井重里×ハルノ宵子 「週刊 読書人ウェブ」 より






 (備 考)

ある職人さんが、自分の取り組むものにくり返し、慣れ、十年二十年三十年とくり返していたら、誰でも一人前になれるのだろう。自分の職人技に依然としてよくわからない未知の部分があったとしても、その分野のことは大体は手に取るように見通せるようになるものだろう。

吉本さんの場合は、人間的な身心の場面であるが、これも長らくやってきた職人さんの見通す力と同様のものだ。吉本さんの場合も、批評活動自体がこの世界での人間の活動や本質の闡明(せんめい)でもあったが、特に人間的な身心が関わる場面については、『心的現象論』や『母型論』などとして長い研鑽と考察をくり返してきている。

そうして、「大体親のやってきた悪いことを子どもはあんまり超えることはないんです」という吉本さんの見通す言葉は、『母型論』での子は母の物語を転写されるという以下のような考察から来ているはずである。


母の感情の流れは意識的にも無意識的にも、すべて無意識になるよう子に転写される。わたしたちはここで感情の流れゆくイメージを暗喩として浮かべているのだが、母から子への流れが渋滞し、揺動がはげしく拒否的だったりすれば、子は影響をそのまま受ける。影響の仕方は二極的で、一方では母の感情の流れと相似的に渋滞、揺動し、拒否的であったりと、そのまま転写される。だがこの拒否状態がすこし長い期間持続すれば、あるいはもう一方の極が子どもにあらわれる。ひとことでいえば無意識のうちに(もともと無意識しか存在しないのだが)母からの感情の流れを子が〈作り出し〉、流線を仮構することだ。後年になって人が病像として妄想や幻覚を作るのは、この母からの感情の流れを〈作り出す〉胎乳児の無意識の核の質によるものとかんがえられる。たとえば被害妄想では、加害者は〈作り出さ〉れた母の感情の流れの代理者だ。
(『母型論』「母型論」P12-P13)



外コミュニケーションに転換したはじめのとき、母と子がどんな関係におかれるかは(母と子以外の関係は存在しないとみなしてよい)、出産したすぐあとの母子の病気その他偶然によってもちがうが、習俗のちがいによって左右される。たとえばひと昔まえの日本の習俗では、うぶ声がたしかめられたあと、出産した胎児は母親の傍らに寝かされて乳首を吸うことをおぼえ、すぐに授乳され、それからあと添寝のまま数日から数週のあいだ授乳がつづけられる。母親が出産のあと体調が回復して動きまわれるまでのあいだ、終日、母と子の添寝の授乳はつづくことになる。これは出産の習俗としては一方の極の典型になるほど重要なやり方だといっていい。巨大な〈母〉の像が子にとって形成されるからだ。たとえば思春期以後、家族の内部で子の暴力が許容されることがあるが(家庭内暴力)、これは日本の出産習俗でしか起こらないものだ。胎乳児にとっては理想的で甘美な無意識の核を作られるとき、これが病態にかわると独特の母親依存の分裂病像を作り出すからだ。外コミュニケーションに転じたばかりの胎乳児は、授乳のときの口腔による接触、乳首の手による触感、乳房のふくらみ、乳汁の味覚、匂いなどを世界環界のぜんぶとみなすことになる。この極端な母親依存と母親への親和は、出産の習俗として人類の一方の極を代表するといっていい。(『同上』P13-P14)







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608 三浦つとむに学ぶ 「資本主義の新たな経済現象と価値論の射程」 インタビュー 『別冊ニッチ』第3号 『吉本隆明資料集 181』 猫々堂 2018.12.30

(「資本主義の新たな経済現象と価値論の射程 ―贈与・被贈与、そして相互扶助をめぐって」
 ※ 聞き手 津森和治 (2010年6月1日) 『別冊ニッチ』第3号 2011年7月10日発行

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三浦さんだけが即座に枝葉のことまで含めて答えてくれました
項目
1

@

―民主党のお話がでましたが、前回、三浦つとむさんの『レーニンから疑え』に書かれている政治理念が、鳩山由紀夫さんのなかにある政治理念の理論的根拠にあたるのではないかというお話でした。・・・中略・・・吉本さんがおっしゃった三浦さんの政治思想と鳩山さんの政治理念の理論的根拠についてもう少しお聞きしておきたいと思います。

吉本 それは単純にお話しますと、僕は戦争が終わってすぐの一年か二年の間に一所懸命、マルクス経済学といったらいいのか、マルクスの考え方と、その頃古典経済学と呼んでいましたけれども、アダム・スミスからマルクスに至るまでの経済学の考え方について勉強していました。いろいろなマルクス経済学の専門家の学説を聞いていて、ここはどういう意味になりますか、と分からないところは質問します。その時、即座に「それはこうです」と即答できる人は三浦さん以外にいなかったのです。
 僕は不思議だと思いますが、他の経済学者はみんな余計な理屈を言うのですが、肝心のことには答えてくれませんでした。
僕がここのところの意味がよく分からないのですが、と質問すると、三浦さんだけが即座に枝葉のことまで含めて答えてくれました。他のマルクス経済学者とは段違いなのです。
 この人は黙っているけれども、本当に力がある人だな、ということが分かりました。もう一つは、『レーニンから疑え』『スターリン批判の時代』というあからさまにそういうタイトルの書物を出版して率直にやっていましたね。レーニン批判もやっていましたし、スターリン批判も言語学から経済学まで批判していました。この人は独学だけれど良くできる人だなという感じを確実に受けました。それが一番の理由ですね。
 それから、僕らみたいにもともと経済学が専門ではない人間が専門書を読む時に、何が重要なのかということについてもはっきりと、こういうことはじゅうようなのです、と教えてくれました。僕にとっては、少なくともこの人くらいよく分かっている人はいないなと思いました。


A

 三浦さんの政治思想や理論が民主党の政治理念の根拠になったのではないかという問題ですが、三浦さんは、はじめは共産党に所属していたマルクス主義者でしたが、共産党を辞めて、旧社会党(今の社民党)へ移ったということですが、僕は三浦さんの考え方が別に違ってしまったとは思いませんでした。共産党のやり方がおもしろくないということだったと思います。
 そうしたことと、マルクス経済学者に関する何を聞いても即答できる人でしたので、すごく力のある人なのだと感じたことと、やさしい喩えをよく使うのですが、それがぴたっと嵌っているのです。非常に縦横に応用できる人ですね。どう考えてもこの人が一番だ、と思いましたね。他の経済学者は弁証法的方法ではこうである、とは言うのですが、そんなことは聞いたってしょうがないですからね。


B

 どうして天然自然と人間の関係は基礎になるのか、と言えば、人間は食べ物が何もなかった時代には谷から落ちてくる水を飲んだりしてわずかな栄養物を摂っていた時代から始まるわけです。それから植物や動物を捕らえたり、食べたりすることを覚えてくるわけです。そういう経路を辿ったわけですから自然と人間との関係は基礎になるのだ、ということになるのですね。同時に一番最後に来る経済関係もそうだ、というわけですから、最後は、つまり贈与ばかりになるのが理想社会ということになるかもしれないし、贈与はなくなってしまって、交換するモノの価値が一〇〇円なら一〇〇円を払えばモノが買える関係だとはっきりしていて、何も他に理由はいらない、官庁もいらない、そういう理想社会というものをもし考えるとすれば、その時の力関係だと思いますね。
 理想社会が訪れるとすれば、そのどちらかの社会でしょうね。今の時代から考えても想像することはできるわけですから、三浦さんはそういうことに対して無駄のない近道を算出できる人だと、僕は思いますね。ですから、屁理屈を言う日本のマルクス主義者の人はたくさんいますが、こういう問題に即答できる人はなかなかいませんね。

 (「資本主義の新たな経済現象と価値論の射程 ―贈与・被贈与、そして相互扶助をめぐって」P29−P31
  『吉本隆明資料集 181』猫々堂 )
 ※ @とAは連続した文章です。














 (備 考)

三浦つとむ(1911年(明治44年)2月15日 −1989年(平成元年)10月27日)

三浦つとむの『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫) と『弁証法はどういう科学か 』(講談社現代新書) は、何度も読んだ覚えがある。


別に付け加えることはないが、吉本さんの追悼文から引用しておく。

 最後に三浦さん。あなたと反対に(学歴)はあっても(学問歴)などまったくない怠惰なわたしにもひと言言わせて下さい。あなたの死と自叙伝は、まだまだ早過ぎて、とても残念であります。あなたが亡くなられたあとも、この世界一般について、わたしたちは泣きたいほどの難問をかかえながら、まだしばらくは独力で歩みつづけなくてはならないからです。
 では、ひと見知りがつよく、孤独で、庶民のように口が悪く、そのくせ開けっぴろげで、懐かしかった三浦つとむさん、さようなら。
                                 一九八九年十月三十日
                                      告別の日に
 (「三浦つとむ 別れの言葉」『追悼私記 完全版』講談社文芸文 2019年4月 )



客 ・・・略・・・
おれはこの人の漱石を論じた文章がいちばん好きだったなあ。漱石は文学とはなにかを科学的につきつめていって、じぶんのつきつめた(あるいはつきつめきれなかった)文学理論をじっさいに作品で試みるために小説を書きはじめたという見解を、漱石文学の動機に挙げたのは、おれの知っているかぎり三浦つとむだけだよ。おれはおもわずハッとしたね。これはものすごい卓見で、ほんとうにそうだったかもしれない面を、漱石の文学はもっている。漱石の作品はどこかしらに〈問題〉小説の面があって、それが講談調になってみたり、推理小説風になってみたり、観念の長口舌を登場人物がやってみせたりというところに、あらわれている。意識的か無意識的かは別として、文学理念があって創作はそれをためしてみるための手段だという面があったからだといえなくない。三浦つとむのこの漱石観には、謎解きの論理に熱中したところから、しだいに哲学に踏みこんだしぶんの体験と、芸術理論家としての知見がとてもよく発揮されていた。三浦つとむの文章のなかでいちばん文学的な文章だったとおもうな。
 (「三浦つとむ他 かがやかしい独学像」『追悼私記 完全版』講談社文芸文庫 2019年4月 )

 ※主と客の対話形式になっています。





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610 昔しかなかったこと 「二〇〇八年について」 インタビュー 『吉本隆明資料集 188』 猫々堂 2019.9.10

 (「二〇〇八年について」
 聞き手 糸井重里
 掲載 『ほぼ日刊イトイ新聞』2008年2月19日〜2月27日

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安保のあと 昔は危険な人が家の玄関まで来るようなこともありました
項目
1

@

糸井 吉本さんは、何かが強いんじゃないでしょうか。運なのか、身体なのか。

吉本 何か・・・・・・、何が強いのかな? 強いのかな?

糸井 海で溺れたり、昔は逮捕されたし、たいへんなことがたくさんあって。

吉本 ああ、ああ。
昔は危険な人が家の玄関まで来るようなこともありました。今はそんなこと、もう全然ないですが。

糸井 やっぱり「昔しかなかったこと」ってありますね。

吉本 ありますよ。
安保のあとがいちばんそういうことが多かったでしょう。

糸井 「政治の季節」みたいな時期ですね。

吉本 そうそう。
ですからそのときは、いつでも上着を脱いで手元に置いていました。「体から離れている布が一枚あれば、プロに刺されることになっても大丈夫だ」って、ある空手の先生に教えられたんです。

糸井 そうしろと言われてもとっさに上着で体をかばえるかどうか、それは賭けみたいなもんですね。

吉本 でも、気持ちが高ぶって異常になってるからか、できるようになってるんだと思います。

糸井 そんな時期があったんですね。

吉本 あったんです。それに比べたら今はわりと、表面的には平穏です。

 (「二〇〇八年について」P2−P3 『吉本隆明資料集 188』猫々堂 )
 ※ 聞き手 糸井重里  掲載 『ほぼ日刊イトイ新聞』2008年2月19日〜2月27日












 (備 考)

「ですからそのときは、いつでも上着を脱いで手元に置いていました」ということに関しては、吉本さんの講演会で聞いたことがある。
兵庫の伊丹空港で降りた覚えがあるが、どこでの講演会だったか覚えていない。その講演会で、なんのきっかけだったか、脱いだ背広を演壇の机の向かって左側において、もし何かあってもその背広ですぐ対応できるようにしているようなことを語られていた。知り合いの空手の先生(たぶん南郷継正だろう)から教わったと言われていた。そんな心配りまでしなくてはならないのかと少し驚いた覚えがある。





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612 無意識が荒れる 「大衆としての現在」 インタビュー 『吉本隆明資料集181』 猫々堂 2018.12.30

「大衆としての現在」 1984年11月刊
聞き手 安達史人 ほか

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精神異常になる要因 無意識のいろんなあれ方 決定論のように個に訪れ規定する 人間っていう概念はその決定論をいつでも越えようとする
項目
1

@

吉本 
乳・胎児期に母親との関係をね、失敗してるかどうかっていう問題が第一次的にあって、第二次的には、思春期に入りたてのとき、近親とのあいだで僕の言葉で言えば対幻想なんですが、性的関係に異常があったかどうかして、それが決定的なんじゃないでしょうか。何故人間が精神異常に陥るかっていう場合、そのふたつの要因がとても正常で健康だったら、ほとんど僕、ならないとおもってますね。そうとうきつい精神的な試練にあっても、精神異常にはならない。なる人の要因には、必ずそのどちらか、特に第一次的な乳・胎児期だとおもいますけれども、それへの問題はそうとうきびしいとおもってます。
 あのー、一見すると、精神異常になるとか、精神の病気になるっていう、きっかけはは全然、違うようにみえるでしょう。あの、学生運動で失敗したとか、まあ僕の周辺だとそういう人、多いんだけども。そういう機会に出会っておかしくなったって人多いんです。それはきっかけを作ってることには間違いないんだけども、それは本当のきっかけと、その根底はそうじゃないとおもいます。そのつまり乳・胎児期の問題と、それから思春期の入口のときの問題がとても大きな要因だと、僕は理解してます。

安達 じゃあ、吉本さんは
その半分を、持ってるわけですね。

吉本 そうです。危なっかしいんじゃないでしょうか。どっかでかろうじて支えてるとか、本当はそうとうおかしいんだけど、かろうじて、バランスをとってるとかっていうことあるような気がします。そうとう弱いんじゃないでしょうか。無意識が荒れてない人に較べたら、脆弱じゃないかな。
意志的にカバーしたりとかっていうことは、大きいんじゃないかなって自分ではおもってますけど。

吉本 無意識が荒れるっていうのを、もう少しくわしく―。

吉本 はい。
無意識が荒れるってひと口に言っても、いろんな荒れ方があって、無意識が傷ついてるっていった方がいい場合もありますし、荒れてるって言った方がいい場合もありますし、それから無意識が空洞だ、って言った方がいい場合もあるとおもいます。つまり無意識が荒れるとか傷ついてる、なんていうのは贅沢な話で、そんな俺らもうらもう乳児の時にはコインロッカー・ベイビーで、捨て子になっちゃったとか、すぐにね他人の家へ養子にやられちゃったとか、つまり夏目漱石はそうですよね。そんだから、母親との関係がどうだとか、そんなこと言ってるのはまだ贅沢なんだっていう人もいるとおもうんです。そういう人っていうのは、無意識が空洞になってるって形容をするといいような気がするんです。


A

吉本 
空洞になってるというのは、どういうところに出てくるかっていうと、心理的ニュアンスとか、そういうのを触覚で感知するとかね、それを表現するとかっていうことが下手な人じゃないでしょうか。あの文芸批評家でもある作品から心理的な細かいニュアンスっていうのを、論じないと作品論にも何にもならんじゃないかっていうのに、この中にあるイデオロギーはこうでとかやっちゃうみたいな、そういう批評をやる人がいるでしょう。作品の中に微妙な心理のニュアンスとか、うねりとか、そういうのを見つけるのにあまり関心ないし、それを取り上げて解析することは苦手だっていうのは空洞なんじゃないでしょうかね。だから、その傷つくとか荒れるとか、さまざまな言い方できるとおもいます。
 でも、そういうことは第一次的な乳・胎児期の母親との関係で殆ど決まっちゃう。成長してから文学が好きになって、文芸批評をたくさん読むとか、芸術、絵画みたいなのにうちこんでニュアンスがわかるっていうふうになっていっても、それは意識的にわかるっていうことで、無意識がわかってるってことは、違うような気がするんです。それはかなり重要な気がするんです。


B

吉本 
ただそれでゆくと、ある程度決定論になっちゃうのです。人間っていう概念は多様だから、その決定論をいつでも越えよう、越えようとするわけです。それが人間っていう概念でしょうから、それで運命が決まっちゃうとか、そういうことじゃないわけです。無意識が強いる心の動きの決定論をいつでも越えようとか否定しようとか、そういうことを誰でもやってるわけです。またやって行くってことが、人間っていう概念でしょうからね。僕はもうそういうことがありうるんじゃないかなっておもいます。
 (「大衆としての現在」聞き手 安達史人 ほか 1984年 『吉本隆明資料集181』P111−114)
 ※@とAとBは、連続した文章です。






 (備 考)

現在までの研究や知見の頂から、乳・胎児期の母親との関係に注目して考察を展開した後の『母型論』は、後々まで規定する人間の精神の発生期の本質的な考察であり、同時にこの列島の人々の風習などの発生期の考察でもあり、最後に吉本さん自身の精神の発生期への内省に当たっている。


今までなら、すぐにかっとなりやすい粗暴な人間や犯罪を犯す人間や心や精神の病にかかる人間などには、「育ちが悪い」という簡単な理解や割り切りの言葉しかなかったが、この吉本さんの『母型論』の考察によって、わたしたちは自分自身や他者の心や精神への新たな入口を手にしたことになる。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
633 文字が始まる段階 第U章 言語の属性 論文 『定本 言語にとって美とはなにか T』 角川書店 1990.8.7

『言語にとって美とはなにか T』の最初の単行本は、1965年5月に、『言語にとって美とはなにか U』は、1965年10月に刊行された。

関連項目
 言葉の吉本隆明@ 項目234 文字以前の言葉・言葉以前の言葉
 言葉の吉本隆明@ 項目235 文字以前の言葉・言葉以前の言葉 A

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文字の成立によって、表出は意識の表出と表現とに分離する。 書き言葉は、言語の自己表出につかえるほうにすすみ、語り言葉は指示表出につかえるほうにすすむ。 言語の美のもんだいは、あきらかに意識の表出という概念を、固有の表出意識と〈書く〉ことで文字に固定せられた表現意識との二重の過程にひろげられる。
項目
1

@

 たんなる遊吟であり、謡いであり、語りつたえであり、また対話であった言語が、文字としてかきとめられるようになったとき、言語の音声が共通に抽出された
音韻の意識にまで高められたことを意味した。同時に、その意味伝達の意識がはっきりと高度になったことを意味している。おそらく文字は、たんに歌い、会話し、悲しみをのべていた古代人が、言語についてとても高度な抽出力を手に入れたとき、はじめて表記された。語り言葉、歌い言葉との分離と対立と滲透との最初のわかれは、文字の出現からはじまったといっていいほどだった。
 ここで、もうすこし文字の成立がなにを意味したのかはっきりさせておきたいとおもう。
 
文字の成立によってほんとうの意味で、表出は意識の表出と表現とに分離する。あるいは表出過程が、表出と表現との二重の過程をもつようになったといってもよい。言語は意識の表出であるが、言語表現が意識に還元できない要素は、文字によってはじめてほんとの意味でうまれたのだ。文字にかかれることで言語の表出は、対象になった自己像が、じぶんの内ばかりではなく外にじぶんと対話をはじめる二重のことができるようになる。
 
書き言葉は、福田恆存のいうように語につかえるのではなく、言語の自己表出につかえるほうにすすみ、語り言葉は指示表出につかえるほうにすすむ。かなづかいの歴史的な変遷は、文学を頂点にする書き言葉の進化と、生活語を頂点にする語り言葉との対立と滲透の複雑な過程がひとりでにきめる。また、書き言葉の専門家である文学者でさえも、生活語の世界に生きているという内的な矛盾をもち、この矛盾に内発されてじぶんの文学的な語法をきめざるをえない。そういうところにしか、かなづかい問題の本質はありえない。
  (『定本 言語にとって美とはなにかT』P97−P98 角川選書)


A

 文字には、時枝、福田のいうように表音文字と表意文字の区別があるのではない。こういう区別は〈さらさら〉というのは水の流れる擬音からうまれた表音文字であり〈死〉というのは、生きものが死ぬことを意味する表意文字であるというような、つまらぬ区別からうまれたものにすぎない。
 
言語には、自己表出にアクセントをおいてあらわれる自己表出語と、指示表出にアクセントをおいてあらわれる指示表出語があるように、言語本質の表記である文字にも自己表出文字と指示表出文字の区別があるだけで、これが本質的なのだ。
 (『同上』P98 )


 これをかりに品詞区分をかりていいなおせば、名詞から副詞のほうへ、いいかえれば、指示表出からしだいに自己表出へアクセントをうつしておらわれる言語ほど、この
像の表象力や喚起力は弱まってゆくことが手やすく了解される。助詞とか助動詞とか、感嘆詞のような自己表出語は、それ自体で像を表現したり喚びおこしたりする力をもたない。
 (『同上』P100 )


B

 いままで、あるばあいに
表出せられた言語を、文学的な表現と、無造作に同一にあつかってきた。それは、言語の現実的な属性をあつかうばあいにも、書かれた表現(文字表現)を例にとらざるをえなかったという理由によっている。
 言語の意味、価値、像などの概念から言語の芸術にふみこもうとするいま、言語の表出(ausdrucken 註.「u」は、ウムラウト)を、表出(ausdrucken 註.「u」は、ウムラウト)と表現(produzieren)のふたつを分離してふくむとかんがえるのが適切だとおもう。もちろん、
文学の表現もまた、意識の表出であるが、この表出はその内部で、〈書く〉という文字の表現が成り立つとともに、表出と表現とに分裂する。言語の美のもんだいは、あきらかに意識の表出という概念を、固有の表出意識と〈書く〉ことで文字に固定せられた表現意識との二重の過程にひろげられる。もちろんその本質的な意味はすこしもかわらないのだ。
 
このことは、人間の意識を外にあらわしたものとしての言語の表出が、じぶんの意識に反作用をおよぼすようにもどってくる過程と、外にあらわされた意識が、対象として文字に固定されて、それが〈実在〉であるかのようにじぶんの意識の外に〈作品〉として生成され、生成されたものがじぶんの意識に反作用をおよぼすようにもどってくる過程の二重性が、無意識のうちに文学的表現(芸術としての言語表出)として前提されているという意味になる。それは文字が固定され〈書く〉という文学の表現が成り立ってからは、文学作品は〈書かれるもの〉としてかんがえられているからだ。もちろん、語られる言語の表現もまた文学、芸術でありうるし、現在もありつづけている。けれど、おこりうる誤解をさけるためにいえば、現在まで流布されている文学理論が、いちように〈文学〉とか〈芸術〉とか以上に、その構造に入ろうとはせず、芸術と実生活とか、政治と文学とか、芸術と疎外とかいいならわせば、すんだつもりになるのは、表出という概念が固有の意識に還元される面と、生成(produzieren)を経て表現そのものにしか還元されない面とを考察しえなかったがためだ。
 (『同上』P106−P10 )






 (備 考)

わたしたちは、現在はシームレスに文字を介した書き言葉の世界に自由に出入りしているように見える。しかし、この列島の書き言葉の世界の始まりは人にとって荒波立つ状況だったろう。そのことは、書き言葉を習得する子どもの世界の困難や苦労として現在も保存されているように見える。

吉本さんは、その荒波立つ状況を「文字の成立によってほんとうの意味で、表出は意識の表出と表現とに分離する。あるいは表出過程が、表出と表現との二重の過程をもつようになったといってもよい。」ということから押さえていく。そこから、「言語の美のもんだいは、あきらかに意識の表出という概念を、固有の表出意識と〈書く〉ことで文字に固定せられた表現意識との二重の過程にひろげられる。」それは、物語作品であれば、〈作者〉の固有のモチーフと、〈作者〉自らが派遣した語り手や登場人物たちによって実現された〈作品世界〉の有り様ということに対応している。


森田真生の『数学の贈り物』(2019年3月)を読んでいたら、「新興のテクノロジー」(wikipediaによると「ギリシア文字の案出は、紀元前9世紀頃まで遡ると考えられている」から、それから数百年は経っている) の書き言葉(文字)に対するソクラテスの否定的な言葉をプラトンが書き留めている。


 『パイドロス』のなかでプラトンの描くソクラテスが、文字や書物を批判している場面がある。ソクラテスはエジプトの神タモスの言葉を借りて次のように語る。すなわち、文字を学ぶと、忘れっぽくなる。文字が与える知恵は真実の知恵ではなく、見せかけの知恵である。書物ばかり読んでいると、知者となる代わりに、知者であるといううぬぼればかりが育つ、と。書かれた言葉は真実の言葉、すなわち「生命をもち、魂をもった言葉」の影にすぎないというのだ。(『数学の贈り物』P98)


 いまや読み書きは、慰みどころか、なくては生きていけない能力になった。文字は、話すことができるのと同じ内容をただ記録するためのメディアではないのだ。文字は、文字によってしか不可能な思考の世界を立ち上げる。文字によって、人はそれまでと違った人間になる。現代の社会は、読み書きの能力によって生まれ変わった人間を前提として設計されている。社会そのものが、文字によって変わってしまったのである。

 読み書きを身につけることは大変だ。いまだに子どもたちは読み書きを覚えるために、何年も学校に通わなければならない。労働をする代わりに何時間もかけて自己変容のための訓練をする。その訓練の果てでなければ社会に参加できない。人類は膨大な時間とコストを捧げて「読み書きする身体」を生きることを選択したのだ。
 コンピュータリテラシーを身につけることは、読み書き能力を身につけるのと同じように人間を根本的に変容させる可能性がある。コンピュータを単に道具として使うのではなく、コンピュータによって、人間が生まれ変わる未来をこそアラン・ケイは夢見ているのだ。
 (『数学の贈り物』P99−P100)



 森田真生は、書き言葉の問題から「コンピュータリテラシーを身につけること」も同様のこととして捉えているが、これは言葉の問題ではない。人間と対象の関係は相互的だから、それはもちろん人間を変容させるだろう。しかし、このことは、例えばわたしたちが銀行の現金自動預け払い機(ATM)に慣れ親しんできていることと同様の社会システムの旧来的な自然性からの離脱の一環としてあると思う。それは同時に、自然感覚や自然認識の人工的なバージョンアップを伴う全社会的なものであり、コンピュータリテラシーを身につけること」もその一環に過ぎないと思う。

 森田真生が紹介していることに興味を持ってどんなものだろうかとプラトンの『パイドロス』(岩波文庫)を読んでみた。該当箇所は、P163から書き留められている。ソクラテスの考えは、森田真生の要約で十分として、付け加えれば、プラトンの書き言葉による描写によれば、ソクラテスは書き言葉(文字)という新たな事態に退行的な心性を発揮している。これはソクラテスが話し言葉による「対話」を重視していたこと、そして、そこにこそ言葉の生命や真実が宿ると考えていたからだろう。しかし、皮肉にも書物を著さなかったソクラテスだが、プラトンの書物によってわたしたちは遙か昔のソクラテスの思想を知ることができる。ギリシア文字の案出されて数百年も経っているが、まだまだ言葉の過渡期の状況であることがソクラテスの言葉からわかる。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
637 胸の奥の戒律 「なにに向って読むのか」 論文 1972.3.30 『読書の方法』 光文社 2001.11.25

※初出は、「文京区立図書館報」50号1972年3月30日

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なぜ文章を書くようになったか 喋言ることへの不信から、書くことを覚えるようになった。 自分自身を探しに出かけるというモチーフで読みはじめた できるだけ文章を書くことを専門とする人たちだけの世界に近づかないようにしてきた。
項目
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@

 わたしは、なぜ文章を書くようになったかを考えてみる。
心のなかに奇怪な観念が横行してどうしようもなくもて余していた少年の晩期のころ、喋言ることがどうしても他者に通じないという感じに悩まされた。この思いは、極端になるばかりであった。とうとう、誰からも無口だといわれるほど、この感じは外にもあらわれるようになった。父親は、おまえこのごろ覇気(はき)がなくなったというようになった。過剰な観念をどう扱ってよいかわからず、喋言ることは、じぶんをあらわしえないということに思い患っていたので、覇気がなくなったのは当然であった。
 われながら、青年になりかかる頃の素直な言動がないことを認めざるをえなかった。いまおもえば、〈若さ〉というものは、まさしくそういうことなのだ。他者にすぐ判るように外に出せる覇気など、どうせ、たいした覇気ではない、と断言できるが、そのとき、そういいきるだけの自信はなかった。
 
そうして、喋言ることへの不信から、書くことを覚えるようになった。それは同時に読むようになったことを意味している。
 
わたしの読書は、出発点でなにに向って読んだのだろうか。たぶん、自分自身を探しに出かけるというモチーフで読みはじめたのである。じぶんの思い患っていることを代弁してくれていて、しかも、じぶんの同類のようなものを探しあてたいという願望でいっぱいであった。すると書物のなかに、あるときは登場人物として、あるときは書き手として、同類がたくさんいたのである。
 自分の周囲を見わたしても、同類はまったくいないようにおもわれたのに、書物のなかでは、たくさん同類がみつけられた。そこで、書物を読むことに病みつきになった。深入りするにつれて、読書の毒は全身を侵しはじめた、といまでもおもっている。


A

 ところで、そういうある時期に、わたしはふと気がついた。じぶんの周囲には、あまりじぶんの同類はみつからないのに、書物のなかにはたくさんの同類がみつけられるというのはなぜだろうか。
 ひとつの答えは、書物の書き手になった人間は、じぶんとおなじように周囲に同類はみつからず、また、喋言ることでは他者に通じないという思いになやまされた人たちではないのだろうか、ということである。
もうひとつの答えは、じぶんの周囲にいる人たちもみな、じつは喋言ることでは他者と疎通しないという思いに悩まされているのではないか。ただ、外からはそう視えないだけではないのか、ということである。
 後者の答えに思いいたったとき、わたしは、はっとした。わたしもまた、周囲の人たちからみると思いの通じない人間に視えているにちがいない。
 
うかつにも、わたしは、この時期にはじめて、じぶんの姿をじぶんの外で視るとどう視えるか、を知った。わたしはわたしが判ったとおもった。もっとおおげさにいうと、人間が判ったような気がした。
 もちろん、前者の答えも幾分かの度合で真実であるにちがいない。しかし、後者の答えのほうがわたしは好きであった。目から鱗が落ちるような体験であった。
 
わたしは、文章を書くことを専門とするようになってからも、できるだけそういう人たちだけの世界に近づかないようにしてきた。つまり、後者の答えを胸の奥の戒律としてきた。
 もし、わたしが書きとしてすこしましなところがあるとすれば、わたしがほんとうに畏れている人たちが、ほかの書き手ではなく、
後者の答えによって発見したじぶんをじぶんの外で視るときのじぶんの凡庸さに映った人たちであることだけに基いている。
 (『読書の方法』P11−P14「なにに向って読むのか」吉本隆明 光文社 2001年11月)
  ※@とAは、連続した文章です。






 (備 考)

若い頃は、自分もそうだったが、一般にある意味横着で独り善がりのところがある。いろいろ深刻に思い悩むことがあっても、なかなか「じぶんをじぶんの外で視る」ことが難しい。吉本さんの「じぶんをじぶんの外で視るときのじぶんの凡庸さに映った人たち」とは、じぶんもまたそこに属している凡庸な人間の一人であるという自覚と共にある人間の像であり、後の〈大衆の原像〉につながるものである。


「少年の晩期」とはいわゆる思春期の頃だろうか、本文に「青年になりかかる頃の」とあり、年譜によると、「1937(昭和12年)年 十三歳 4月 東京府立化学工業学校応用化学科に入学する。」とあるから、この頃より少し後の時期か。たぶん、それ以前の学校や塾に入る前の「幼年期」は、吉本さんの書き記したことに基づけば黄金期だったと言えるのかもしれない。「幼年期」にあったとしても顕在化しなかったようなものが、学校社会という今までとは異質の世界の渦に浸かった、その時期に顕在化したのだろう。このような事態は、誰にも訪れるものであるが、現在では小さい頃から保育園や幼稚園に通うようになっているから、つまり、幼い頃から学校化かが敷かれているから、昔ほどその世界間の断層は大きくはないのかもしれない。

確認のため、少年期など検索したのをまとめておくと、

・少年期は、一般的には児童期とほぼ同じに解釈され、児童期は「幼児期と青年期との間に存在し、知的発達が顕著で社会性も次第に発達し集団生活を営みうるようになる時期」とされている。 発達心理学などにおいては「児童期」という言葉を使っているが、教育の領域では学校教育制度にあわせた6歳から15歳の小・中学校期を「少年期」としてる。

・思春期は、
1.子どもが大人へと成長するための移行期間を指し、8歳頃から17、18歳頃までの時期に相当します。
2.身体構造・生殖生理作用が発育完成する時期。十二歳から十七歳ぐらいのころ。

・厚生労働省の一部資料(健康日本21など)では、
 幼年期: 0〜 5歳
 少年期: 6〜14歳
 青年期:15〜30歳
 壮年期:31〜44歳
 中年期:45〜64歳
としており、それ以降の高齢期(高齢者)を、
 前期高年期 :65〜74歳
 中後期高年期:75歳〜
としている。





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659 未明の段階における人間の言葉 U言葉の起源を考える 『詩人・評論家・作家のための言語論』 メタローグ 1999.3.21


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個人における胎児期後半から一歳未満までの状態は、人類の歴史でいえば、野蛮や未開のような未明の社会や原始社会の段階に対応します。 また、世界には未開原始の段階をあまり出ていない状態の地域がまだ存在しています。 二つの方法 日本の言葉の調べ方
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@

 個人における胎児期後半から一歳未満までの状態は、人類の歴史でいえば、野蛮や未開のような未明の社会や原始社会の段階に対応します。人間が言葉をはじめて獲得した時期や、そのすこしあとの状態とパラレルにかんがえることができます。言葉がまだ民族語にわかれていないか、民族語にわかれたばかりの段階です。
 つまり、未明の段階における人間の言葉、民族語にわかれてすぐの言葉がどうなっていたのかを類推するばあい、いちばん役立つのは、一歳未満の乳児が言葉を覚えはじめるときの状態をよく観察してみることです。どんな優れた言語学者の考え方も、もとをたどれば乳児を多く観察して、言葉の発生や民族語の分化を類推しているところがあります。
 また、世界には未開原始の段階をあまり出ていない状態の地域がまだ存在しています。人類学者などは文明社会からフィールドワークに出かけ、その土地の人と一緒に住んで風俗,習慣、言葉を観察しながら、じぶんなりのの考え方をまとめていくのです。
 このふたつ以外に、一歳未満の状態、未開原始の状態を追究していく手段はありません。だれもがどちらかの手段、あるいは両方の手段をとりながら、言葉について考え方をつくってきたわけです。
 (『詩人・評論家・作家のための言語論』 P111−P112 吉本隆明 メタローグ 1999年3月)


A

 日本は言葉の調べ方が発達していませんから、現在でも西欧の言語理論を使っています。インド−ヨーロッパ語を基準にした理論か、西欧からみた未開原始の場所での体験からつくった理論か、あるいはその両方からつくった理論です。つまり、日本語からつくられた理論でもなければ、日本の未開原始時代をもとにつくられた理論でもありません。ですから、西欧の言語理論からはインド−ヨーロッパ語の特徴とおもわれる部分はあまり使わないで、もっと骨格となる部分の理論を使っています。
 西欧の理論を借りてこないとすれば、日本語から独自の言語理論を築く以外にありません。現在、言葉の問題として大きく引っかかってくるところです。
 (『同上』 P113−P114)











 (備 考)

ここでの個人における胎児期後半から一歳未満までの状態と人類の歴史の野蛮や未開のような未明の社会や原始社会の段階とを対応させて考えることは、以下の『母型論』の序に出ている。「いちばん安易な方法は」とあるように、その頃はまだこれでいいのかなというためらいもあったものと思われる。ここでは、二つの方法しかないと考えていて、そういうためらいは見えない。

 もうひとつの欲求につなげるためにいうと、言葉と、原宗教的な観念の働きと、その総体的な環境ともいえる共同の幻想とを、別々にわけて考察した以前のじぶんの系列を、どこかでひとつに結びつけて考察したいとかんがえていた。どんな方法を具体的に展開したらいいのか皆目わからなかったが、いちばん安易な方法は、人間の個体の心身が成長してゆく過程と、人間の歴史的な幻想の共同性が展開していく過程のあいだに、ある種の対応を仮定することだ。わたしは何度も頭のなかで(だけだが)この遣り方を使って、じぶんなりに暗示をつくりだした。  (『母型論』1995年11月)


Aの「西欧の理論を借りてこないとすれば、日本語から独自の言語理論を築く以外にありません。現在、言葉の問題として大きく引っかかってくるところです。」ということは、旧日本語の特性も含み言語の発生以前を包括した、拡張された『言語にとって美はなにか』が築かれなくてはならないという思いが語られていると思う。






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