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27 人間の価値
48 二五時間目
51 なぜ書くか@
57 人間と他の動物を「分つ」という問題
75 なぜ書くかA
96 人間存在
97 人間存在
110 人間理解
111 日本の神話
211 内面の幼児性
217 日常生活の時間意識
254 日本の文化
272 日本国家
273 日本国家
284 能力
329 何故生きてるのか
333 二世代の問題
335 人間という概念
350 二重性
356 残った問題―心
364 人間の本質
380 ナショナリスト
395 人間の理想形
401 人間にとっての最後の課題
405 入院中のメモ


項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
27 人間の価値 カール・マルクス 論文 吉本隆明全著作集12 勁草書房 1969/10/25

吉本隆明全著作集12
第二部マルクス伝「プロローグ」より。

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市井の片隅に生き死にした人物 千年に一度しかこの世界にあらわれない巨匠 しかしけっきょくは、こんな知識の行動は、欲望の衝動とおなじようにたいしたことではない。
項目
抜粋
1

@

ある人物の生涯を追いかけることは、その一生が記録や著述にのこされていても、また、いつどの時代に生き、なにをして生活し、いつ何歳で死んだかわからない人物をあつかっても、おなじ難しさにであう。この難しさは、しかし、簡単な理由に帰着する。かれが、かれ自身につきうごかされて生きようとしても、もともと生きていることが現実ときりはなせないために、かれが力をいれればいれるほど、現実は強固な壁になってたちふさがるはずだ。
つまり、いつでも、果たそうとしたことと、果たしてしまったものはちがった貌で、生ま身の人間におとずれる。これを、隈なくすくいあげることは、どんな記録や思想上の共鳴をもってしても、できそうもない。つまり、現実のほうが手をかした部分だけは、いつも秘されている。


A

ここでとりあげる人物は、きっと、千年に一度しかこの世界にあらわれないといった巨匠なのだが、その生涯を再現する難しさは、市井の片隅に生き死にした人物の生涯とべつにかわりはない。市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世界にあらわれない人物の価値とまったくおなじである。人間が知識ーそれはここでとりあげる人物の云い方をかりれば人間の意識の唯一の行為であるーを獲得するにつれて、その知識が歴史のなかで累積され、実現して、また記述の歴史にかえるといったことは必然の経路である。そして、これをみとめれば、知識について関与せず生き死にした市井の無数の人物よりも、知識に関与し、記述の歴史に登場したものは価値があり、またなみはずれて関与したものは、なみはずれて価値あるものであると幻想することも、人間にとって必然であるといえる。しかし、この種の認識はあくまでも幻想の領域に属している。幻想の領域から現実の領域にはせくだるとき、じつはこういった判断がなりたたないことがすぐわかる。市井の片隅に生き死にした人物のほうが、判断の蓄積や、生涯にであったことの累積について、けっして単純でもなければ劣っているわけでもない。これは、じつはわたしたちがかんがえているよりもずっと怖ろしいことである。
 千年に一度しかこの世界にあらわれない巨匠と、市井の片隅に生き死にする無数の大衆とのこの<等しさ>を、歴史はひとつの<時代性>として抽出する。(P154-P155)


項目
抜粋
2

B

ある<時代>性が、ひとりの人物を、その時代と、それにつづく時代から屹立させるには、かならずかれが
幻想の領域の価値に参与しなければならない。幻想の領域で巨匠でなければ、歴史はかれを<時代>性から保存しはしないのである。たとえかれがその時代では巨大な富を擁してもてはやされた富豪であっても、市井の片隅でその日ぐらしのまま生き死にしようとも、歴史は<時代>性の消滅といっしょにかれを圧殺してしまう。これは重大なことなのだ。たくさんのひとびとが記述の世界に、つまり幻想と観念を外化する世界にわずかでも爪をかけ、わずかでも登場したいとねがうことは、歴史のある時代のなかで<時代>性をこえたいという衝動ににている。そのために、かれは現実社会での生活をさえ祭壇の供物に供し、係累するひとびとに、とばっちりをあびせかける。これが人間をけっして愉しくするはずもないのに、この衝動はやめさせることができない。こういう人間の存在の性格のなかに、歴史のなかの知識のありかたがかくされている。しかしけっきょくは、こんな知識の行動は、欲望の衝動とおなじようにたいしたことではない。幻想と観念を表現したい衝動のおそろしさに目覚めることだけが、思想的になにごとかである。生まれ、婚姻し、子を生み、老いて死ぬという繰返しのおそろしさに目覚めることだけが、生活にとってなにごとかであるように。 (P155-P156)










 (備考)

この『カール・マルクス』(1966年、試行出版部刊)は、吉本さん42歳頃の言葉である。

「しかしけっきょくは、こんな知識の行動は、欲望の衝動とおなじようにたいしたことではない。幻想と観念を表現したい衝動のおそろしさに目覚めることだけが、思想的になにごとかである。生まれ、婚姻し、子を生み、老いて死ぬという繰返しのおそろしさに目覚めることだけが、生活にとってなにごとかであるように。」若い頃、この言葉に出会って衝撃を受けた。わたしはまだ若い行きがけの年代でもあり、知識世界は何事かであろうという意識の中にいた。
しかし、優れた知識の世界の住人や生活世界の住人たちは、そのことを沈黙の内に感じ取っているのかもしれない。さらに、親鸞の他力の世界の光りに照らされるようにして、全ての人間が無意識の内にはその沈黙の内にあると言えるだろう。

もうひとつ付け加えると、この列島社会の知の世界で、この吉本さんのような言葉に出会ったことはかつてなかったし、今以てないような気がする。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
48 二五時間目 都市は変えられるか 対談 「美術手帖」1971.8 どこに思想の根拠をおくか 築摩書房 1972/05/25


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項目抜粋
1

@

・・・・というのは、文学でもおなじで、結局二四時間というのは使えなくて、二五時間目でやらなきゃならないようなところがあります。ものすごい労力ですね。それは日本だけかもしれないけど、どうしてもそういうところに追い込まれますね。それがひっかかっているところで、一人の物書きとしてそこがきつくもあるけど、やっぱりそれがなくなったらダメだぞと思っているんですけどね。(P336)(磯崎新との対談)










 (備考)

この「二五時間目」という言葉を初めて目にしたとき、その意味をうまく捉えることができなかったような気がする。たぶん、具体イメージとして捉えようとしたからだと思う。たとえ日々の生活に追いまくられていたとしても、「二五時間目」という幻想の時間を創出してそこを拠り所として、押し寄せる世界や状況に拮抗するということだと思う。当然のこととして、考えたり表現したりする活動の具体性としては、いろいろやりくりして二四時間の中で行っているわけである。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
51 なぜ書くか@ なぜ書くか 論文 「われらの文学22江藤淳吉本隆明」1966.11 吉本隆明全著作集4 文学論T 勁草書房 1969/04/25


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項目抜粋
1

@

しかし、ここ数年来、なぜ文学に身を寄せるか、なぜ<書く>かという素朴な問いをじぶんに発するようになった。おそらくわたしは、わたし自身に復讐されているのだ。あるいはわたし自身の思想のプリンチープに復讐されているのだ。わたしはまだ若年のころ、戦争のさ中にわが文学者たちの<書くもの>に向かって、あなたはなぜそんなことを書くのか、本心から書くのか、思想の伝染病にかかりやすいためにかくのか、世すぎのためにどうしてもかかざるをえないのかと執拗に、もちろん沈黙のうちに問いかけた。そして、わたしなりにわが文学者たちに等級をつけたり分類したりする基準をこしらえあげていた。まずこの基準のうち、第一原理は、かれのかくものに、かれにとって如何なる必然的な契機があるか、ということであった。そして、かれが、どんな現実的思想をもつかということではなかった。この基準は生活者である読者にとっては重たい根拠をもっていることをわたしは体験的に知っている。(P652-P653)


A

ここ数年来、もっと詳しくいえば一九六〇年以来、わたしは、わたしが戦争のさ中に読者としてわが文学者たちに問いかけた課題を、わたし自身に問いかけることを強いられたといえる。そして、わたしはなぜ文学に身を寄せるのか、なぜ<書く>かという疑問にふたたび回帰した。この問いかけは必然的に<書く>ことよりも<書かない>ことの世界が重要さをもって迫ってくるように出来上っている。・・・・なぜならば、わたし自身が<書く>という世界にすべりこんでいるからである。わたしの等級づけの基準は、こんどはこうならなければならない。
 かれの<書く>ものは、かれにとって如何にして<書かない>ものの世界に拮抗する重量と契機を獲得しているか?そして、わたしの<書く>ものは、わたしにとって如何にして<書かない>ものの世界に拮抗する重量と契機を獲得しているか?(P653)


B

・・・・しかし、このような世界は手易く喪われる。そして習慣の世界がやってくる。わたしのかんがえでは、このような意味での自己資質は、少年のある時期に<書く>ものにとっても<書かない>ものにとっても共通のもので、したがって文学とはかかわりのないものである。文学は、あきらかに習慣の世界が心を占有したときに、はじめて完全にはじまる。そして、人はだれでも自己資質の世界が喪失する過程よりも、<書く>という習慣の世界がかろうじて早くやってきたとき表現者になり、ややおくれてやってきたとき表現者でないのではないか?(P653)


項目抜粋
2

C

 ただ、こういう問いをふたたび発することができるだけである。
 自己資質の世界が崩壊するよりもほんの少し前に、<書く>という習慣の世界がわたしに訪れたのは、どんな契機によるのだろうか?そして、このとき喪失してしまった自己資質の世界は、いったいどんな変容をうけて習慣の世界にはいりこむのだろうか? (P654)


D

・・・・<書く>という不断の習慣の世界は、こうしてわたしにやってきた。つまり、文学の世界がわたしにとってやってきた。わたしの喪失した自己資質は、ここで拡大されて世界と激突するという幻想の世界に変容され、習慣的な<書く>という世界に這入りこんだ、とおもえる。わたしは、日常のある日に、突然、文学というものは生きて生活を繰返し、妻子をもち、生涯のおわりまで職業的人間の場所を離れないでは生きることができないというこの現実世界の成り立ちの根拠を認めるかぎりは、成立不可能なのではないかという自問自答がやってくることがある。その都度ひどく重たい名状しがたい心の状態におそわれる。<書く>という幻想の世界を習慣として受容しているうちに、やがて幻想の世界は無限大に膨れあがり、わたしはじぶんが人間以外の醜怪な化け物になってしまっているのではないか。・・・・(P655)


E

文学の世界は、どこまでもそれをつきすすんでゆくと、結局はしぶんの生活の世界、したがって生存の世界を破るのではないかというかんがえを捨てることができない。








 (備考)







項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
57 人間と他の動物を「分つ」という問題 思想の基準をめぐってーいくつかの本質的な問題ー インタビュー どこに思想の根拠をおくか 築摩書房 1972/05/25


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心的領域
項目抜粋
1

@

困難なそして単純な問題だとおもいます。答えるならば、根源的にそして単純に答えられるべきで、もしそうでないのなら、問題はどこまでも派生しておらわらないのではないでしょうか。
 人間とおなじように他の動物も「心的領域」をもつかどうかという云い方は、人間とおなじように他の動物も「言葉」をもつかどうかという云い方とおなじように、「心的領域」、「言葉」という概念をどうとるか、という問題に還元されてしまいます。いいかえれば、人間と他の動物を「分つ」という問題ではなく、あくまでも「人間的概念」としての<言葉>のカテゴリーの問題にすぎなくなってしまいます。具体的には、動物が親愛の行動をとるときと、敵対的な行動をとるときとでは、表情も音声もちがってしまうが、それを「心的領域」や「言葉」のカテゴリーにいれるかどうかという、人間的な判断の基準の問題になってしまいます。そこでできるだけ際どい問いにしてゆくのはどうでしょうか。 (P5)


A

ひとつは、<脳髄が脳髄について考える>ということです。脳髄によって脳髄とはなにかを考えることができる、といいかえてもよろしいとおもいます。これは動物である自分が動物である自分とはなにかを考えるといいかえても、自然物である自分が自然物である自分を考えるといいかえてもおなじです。
 この過程が成立するためには、少なくとも二つの思考の経路が存在しなければなりません。ひとつは、<脳髄が脳髄の作用を直接に(自体的に)識知する>という過程です。もうひとつは、<脳髄が脳髄をあたかも自体の外にあるかのように識知する>という過程です。これは、もちろん、じぶんの生理(自然)過程を生理(自然)過程により直接に識知する過程と、じぶんの生理(自然)過程を、あたかもじぶんの外にある対象であるかのように、じぶんの生理(自然)過程によって識知する過程との二つに云いかえてもおなじです。このいずれの識知も「心的領域」に包括させるとすれば、後者の過程(的矛盾)は、人間にだけ可能な「心的領域」のように推察できます。他の動物は、たぶん、この過程を知らないとおもいます。前者の自体的な識知は、あきらかに生理過程の<変容>そのものであり、信号、反応、刺戟、伝播という概念で記述できる<状態>ですが、後者の対象的識知は、生理(自然)過程の自己矛盾であり、<観念化>という概念を与える以外に、理解の方法はないからです。生理学が<観念>という概念と命名を拒否しても、生理(自然)過程としては絶対的矛盾ですから、<観念>という言葉でいいあらわされるものと、おなじ実体を想定せざるをえないことは確実だとおもいます。 (P6)



項目抜粋
2

B

・・・・ただ、他の動物は、矛盾をさらに対象的に<識知>することなしに<反射>すればよろしいわけです。 ・・・・だから対象物を脳髄が構成できれば、いいかえると一団の継続する刺戟を脳髄が、ひとつの集合として受け入れれば充分です。しかし人間は対象を再構成し、了解することまでやらなければ、対象物にたいして、どう行動するか、どう行動しないか、さえできません。ここでも生理過程は、その矛盾を <観念>の領域へと疎外するほかに、この生理的矛盾を解消する方法はありません。このようにして人間は、他の動物に対して、固有な観念の領域を包括せざるをえません。これは<観念>という言葉を忌むかどうかの問題でもなく、<観念>という概念のカテゴリーをどうとるかの問題でもなく、いやおうない実体をさしているようにおもわれます。(P7)


C

・・・・しかし、そのさきにも、問題はたくさんあります。なぜ人間だけが他の動物とちがってしまったのでしょうか。それは、進化のどの段階で、どの時期に、そうなったのでしょうか。
 これについて、いまのところ具体的なことは何ひとついえないとおもいます。・・・・ただはっきりいえることは、・・・・原人が足をそれほど歩行のために使わず(使えず)に、手を極度に使わざるを得ないという生存の環境に、幾世代も幾世代もおかれたであろうということだけです。それは「心的領域」が人間化するための必須の条件です。つまり対象物(生活必需物)にたいする空間的な接近の世界が制約され、しかも手を極度につかってより高度な道具を作り、対象物を加工し、その空間的な制約を補充しなければならないという生存環境は、<観念>を高度化するための必須条件だからです。いったん人間化した「心的領域」を獲得してからは、<観念>を高度化は、加速度的に進んだはずです。
 (P7-P8)











 (備考)






項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
75 なぜ書くかA なぜ書くか 論文 「われらの文学22江藤淳吉本隆明」1966.11 吉本隆明全著作集4 文学論T 勁草書房 1969/04/25


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一九六〇年以後 わたしの内的変容
項目抜粋
1
 E文学の世界は、どこまでもそれをつきすすんでゆくと、結局はしぶんの生活の世界、したがって生存の世界を破るのではないかというかんがえを捨てることができない。しかし、それにもかかわらず、わたしは<書く>という習慣の世界に身を寄せ、日常生活をくりかえし、けっこう暇をみつけだしては遊び、物を喰べ、明日はもう食えなくなるのではないかとか、明日はちょっと物質的に救われるのではないかという小さな希望や絶望を点滅させ、また、あたかもこの現実世界が強固な政治体制のなかに構築されており、それゆえにこの世界の体制は政治的に打破されなければならないのだという理念を疑問の余地ないものとして提出したりしている。(P655-P656)
 
Fこういうわたしの生存のわたしの文学にたいする関係の矛盾は、<書く>という習慣の世界における<習慣>の意味を変容させずには切りぬけられない。それは、あたかも習慣のように繰返される日常生活の意味を変容させる課題と似ている。わたしは、きっと、文学の世界に身を寄せても文学者の世界に身を寄せることはもっとも少ない人間であるとおもう。また、また、思想の世界に身を寄せても思想者の世界に身を寄せることのもっとも少ない人間である。また、職業の世界にに身を寄せても職業者の世界に身を寄せることのもっとも少ない人間であるにちがいない。しかし、日常生活の世界に身を寄せても日常生活者の世界に身を寄せることのもっとも少い人間であろうか。この最後の場面でわたしはいくらか努力の感をふくめて日常生活者の世界に、もっとも多く身を寄せようとしているのではないか。ここで、わたしにとって日常生活の意味は必然的に転倒され、変容されなければならないという思想的課題に直面する。大衆の意味はここでもわたしに導入される。
 習慣の世界は<書く>であれ<生活する>であれ、思想的にはある固定化された死物の世界としてかんがえられている。じじつ、わたしたちがわたしたちの行為と思想に早急であるとき、それは手ばやく片づけられたうえで、そこから脱出すべき世界の別名にほかならない。どこへゆくのか、それが欲求している真の状態なのかは判然としなくても、習慣の世界は、一刻も繰返えされるべきではない嫌悪の世界である。しかし、このような状態にあるとき、習慣の世界の彼岸には、どんな世界も存在しないのだ。わたしたちは逃れようとしながら依然として習慣の嫌悪すべき世界のほかに、どんな世界も実在しないことを識るほかはない。こういう行為と思想の状態で、救済はただひとつ夭折ということである。(P656)

項目抜粋
2
G夭折というのは、たとえ偶然のまったく外発的な事故死によるばあいでも、わたくしたちにひとつの完結した生涯の感じを与える。啄木や透谷が、竜之介や中也や道造や太宰があたえるものはこの完結の感じである。・・・・
 夭折にたいするこの感じの共通性はどこからやってくるのか?
 わたしには理由はただひとつのようにおもわれる。人間はすべて習慣ににた生存の世界を大なり小なり否定と嫌悪をもってみており、これが夭折者にたいしてせん望や及びがたい異質さの感じとなって反映するのではないかということである。(P657)

Hわたしは文学に愛着も嫌悪ももっていない。わたしの<書く>ものについてもまったくおなじである。本質的な意味でわたしが愛着したり嫌悪したりしているとすれば、文学一般についても<わたし>の文学についても<書く>という習慣の世界以前にに書かれた初期のものについてだけである。<書く>ということは、わたしには耐えるということと同義である。そして時とともに、わたしは耐える力を増大し、さまざまの体験や探求の結果を耐える世界に導入することを覚えこんでいるようにおもわれる。(P657)

Iしかし、わたしは一九六〇年以後において、この耐えるという世界に積極的な契機を与えようとしてきた。わたしの想定している大衆の原型は、まさに耐えるという意識すらとうの以前に無意味になったところで生活をくりかえしている存在を指すからである。そしてこの存在に拮抗しうる<書く>という幻想の世界は、耐えるという意識を無価値化するところで持続される作業のほかにかんがえられないからである。<書く>ことの空虚さが身に沁みる場面に当面すればするほど<書く>ことをやめるな、<書く>ことがおっくうであり困難であるという現実情況が身辺にも世界体制にもあればあるほど、じぶんの思想と文学の契機を公然と示すようにせよ、逃げることによって困難な状況をやりすごし一貫性を見せかけるな、これが私の私自身に課している公準である。
 だが、つぎのような問いはなおのこるだろう。
 わたしはどんな理由でどういう筈の経路を未来に想定しながら<書いている>のか?わたしの<書く>ものは、わたしをどこへつれてゆくはずだとひそかにかんがえているか?

J一九六〇年以後において、わたしの<書く>という世界を誘惑したのは、この世界には思想的に解決されていない課題が総体との関連で存在しており、その解決はわたしにとって可能である問題を提起しているようにみえたという契機であった。わたしの<書く>という世界は変容し、<時間>との格闘に類するものとなった。・・・・ただ、
<わたしに残された未踏!>という思いは静かな緊迫した時間のうちに、わたしの<書く世界>を、ときとして訪れることは確かである。(P659-P660)






 

 (備考)





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
96 人間存在 個体・家族・共同性としての人間 講演 1967.11.2東京医科歯科大学 吉本隆明全著作集14講演対談集 勁草書房 1972/07/30


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自己抽象つけと自己関係つけ

項目抜粋
1
@人間というものの存在は、個体であり、それから家族であり、そしてまた共同体の一員であるというふうに存在しております。そして、人間が個体として存在するということはどういうことを意味するか、というところから、まずお話したいとおもいます。(P215)

Aわたしどものかんがえでは、人間を人間たらしめている、あるいは個体を個体たらしめている基本的な問題は、人間というものは生理体としては自然の一部分である人間の個体が、意識の世界あるいは観念の世界というものをもっているというところにあるとかんがえます。そうしますと、ここに、生理体的な個体あるいは自然体としての個体というものと、それがいかなる理由からかもっているところの観念あるいは意識の世界との両端に、その媒介として境界領域というものがあります。つまり、心身の境界領域があります。こういうものをどう理解するかということが、まず個体としての人間というものにとって基本的な問題となってくるとおもいます。 (P215-P216)

Bその場合に、わたしどもがどういうふうにかんがえるかといいますと、まず、人間を人間たらしめているものは、ひとつは自己抽象つけということだとおもいます。自己を自己として抽象できるということ、そういうことが基本的な問題であります。自己抽象つけというものは、ある一定の自己抽象つけの段階では、概念というものの実体を生みだすわけです。概念というものを生みだす基本的な要素は、ひとつは自己抽象つけ、つまり自己を自己で抽象つけることができるということにあるわけで、そういうことが、人間存在にとって基本的なひとつの問題であるということができます。
 もうひとつの要素は、自己関係つけということです。つまり、自己にたいして、あるいは自己を自己がどういうふうに関係つけるか、その関係つけの意識をもっているということ、そういうことが人間の個体の存在にとって基本的な問題になってきます。つまり、自己抽象つけというものと自己関係つけというものが、人間の個体にとって基本的な問題だとおもいます。(P216) 

項目抜粋
2
C自己抽象つけというものはなにによって測られるかといいますと、了解性というものによって測られるわけです。了解性というものはなにによって測られるかというと、時間性によって測られるわけです。つまり、時間的構造をもつということなんです。・・・・自己関係つけはなにによってその度合(グレード)を測られるかというと、それは空間性によって測られるというふうにかんがえられるわけです。
 ここでいう個体における時間性および空間性という概念は、もちろん人間の意識に対象としてやってくるすべてのものは根源的には空間および時間に分割されるほかないという意味での時間性および空間性です。そして、人間の存在というものは、自己抽象つけと自己関係つけとによって基本的に規定されるとかんがえることができます。(P216)

Dなぜ、そういう自己関係つけおよび自己抽象つけの錯合した構造として人間の個体というものがかんがえられるかといいますと、最初の意識は自然体としての人間つまり身体としての人間があり、そして、自己意識というものが、それを、現にここに自己があるという、その現にという時間性と、ここにという場所性として認知している、そういうことが人間の個体にとって本質的な問題だからです。だから、人間の個体というものを人間たらしめている基本的な要素というものを、自己関係つけおよび自己抽象つけ、あるいは自己関係つけの空間性および自己抽象つけの時間性というもののひとつの錯合というふうにかんがえていくわけです。  (P218)








 (備考)







項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
97 人間存在 個体・家族・共同性としての人間 講演 1967.11.2東京医科歯科大学 吉本隆明全著作集14 講演対談集 勁草書房 1972/07/30


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言語における実体
項目抜粋
1
Eいままでは、個体としての人間というものをかんがえたわけですけれども、もし対象と個体とのあいだにいまのような概念をかんがえていった場合には、自己関係つけというものはなにに転化するかといいますと、規範というものに転化します。・・・・つまり、規範というものは一般的になにかといいますと、対象にたいする関係つけの意識なんです。
 そして、自己抽象つけというものを、個体の意識構造としてではなく、対象と個体とのあいだにおいて問題とするときには、それを心的概念というふうによびます。つまり、一般にわれわれが概念とかんがえているものを心的な現象としてかんがえれば、自己抽象つけが対象と個体とのあいだに想定されるとき、そうよぶことができます。
 もし、事実あるいは事象というものについて、このかんがえ方を拡張していき、なにが対象と個体とのあいだに介在するかというと、それは言語というものです。言語というものを基本的に成りたたせているのは、規範および概念であります。このばあい、規範というのは、たとえば外的にかんがえれば、文法のことです。・・・・そこでは規範というものは外化されて、いわば言語における文法構造みたいなものになりますし、それから概念というものは、言語における実体というふうな問題となってでてくるわけです。
 一般的に人間存在にとって、人間を人間たらしめている、あるいは個体を個体たらしめている基本的な要素は、自己抽象つけと自己関係つけとの錯合した構造であるということができます。
(P219-P220)

Fつぎに、個体としての人間が他の個体、つまり他者と関係つけられるときに、どういう問題がおこるか、という問題にはいります。つまり、個体というものを、個体内部の問題、あるいは個体における存在の根本的な構造というような問題としてではなく、他者というものと関係つけるときに、どういう問題がおこるかということです。そのときにはじめて基本的にかつ根源的に性としての人間という概念があらわれます。・・・・つまり、男性または女性としての人間ということが、人間の個体が他者と関係するばあいの根源を支配している関係つけなんです。(P220)

G性としての人間というものが他者と関係する最初の関係の仕方を、われわれは対幻想の領域というふうによんでいます。対幻想の領域というのは、一対のペアになった幻想性の領域ということです。それが、人間の個体が他者と関係する関係の仕方の根源を支配するものです。そこで、家族というものが問題になるわけですけれども、家族というものはなにかというと、対幻想の領域を意味しております。(P221) 

項目抜粋
2
Hそこで家族ということがはじめて問題になってまいります。・・・・父親と母親とのあいだに想定される対幻想というものは、自然的なあるいは生理的な性関係というものを基盤にしております。つまり、自然的な性関係というものが、観念として自己疎外されたものが父と母とのあいだにある対幻想というふうにかんがえることができます。
 この家族を単家族として、息子の世代の兄と弟のあいだにある対幻想を想定してみますと、自然的な性関係あるいは性行為というものをともなわないわけです。しかし、幻想性としての対幻想は存在するとかんがえることができます。・・・・そうすると、その兄と弟とのあいだの対幻想の特徴は、前の世代である父親と母親の世代が死滅したとき、だいたいにおいてこわれるだろうという点です。(P222)

Iそうしますと、兄弟と姉妹との関係というものは、対幻想性を保ちながら、いわば空間的な遠隔化というものに耐えることができます。だから、それは共同体大に拡大することが可能であるとかんがえることができます。・・・・そこで兄弟、姉妹の関係というものが、前氏族的あるいは氏族的共同体というものに、はじめて転化しうるわけです。いいかえれば、このとき対なる幻想性というものが、共同幻想性の最初の形態というものに移行する契機というものがはじめてでてくるわけです。 (P225-P226)

Jそこでもうひとつ問題となりうることがあります。・・・・氏族的あるいは血縁的集団が、部族制つまりなんら血縁を含まないけれどもひとつの共同体をなすというような社会に転化するためには、共同幻想性のある位相の相違あるいは位相の飛躍というものが存在しなければならないのです。
(P228-P229)
@そういう規範言語というのは、従わなければならないという、そういうことはわりあいに歴史的に、またある意味で個人にとってはわりあいに小さいときから習わされてきた、そういう規範と、それから概念性というのは自己抽象づけなんですけれども、そういうものはやっぱり言語のいわば実体をなすもものとして、実体をなすものというのは言語の、なんていいますか、ある水準をきめるもの、言語表現の水準をきめるものとしての因子をもって、これが要するに表現された言語というものを構成しているひじょうに根本的な要素です。 (「人間にとって思想とはなにか」 P302)





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
110 人間理解 文芸批評の立場からの人間理解の仕方 講演 東京都立精神医学総合研究所主催1973.11.17 知の岸辺へ 弓立社 1976/09/30


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文学者の立場からの人間理解
項目抜粋
1
@そうすると、その課題というのはなにかといえば、常識的には、異常、正常も含めて、人間のこうむる精神的な状態を、できるだけ広く受け取りたいというのが、おそらく文学者なら文学者というものの祈願としてある立場だとおもいます。しかし文学者といえどもごく普通に市民社会で生活している人間ですから、もちろん日常のごく常識的な考え方に支配されているわけですけれども、しかし、いったん文学を表現するというところにいったならば、異常、正常、病気、いずれをもできるだけ広く包括して、それを肯定したい。それも人間の精神のひとつの状態だというふうに肯定したいというふうな祈願といいますか、祈念というようなものを絶えず持っているものだというふうにおもいます。もちろん、文学者といえども市民であり、また日常生活をきわめて常識的なわく内でいとなまざるをえない、そういう二重の存在ですから、そう云いきることはできませんけれども、しかしひとたび表現する者という立場、あるいはその時間に入ったときには、やはり人間が異常であれ、病気であれ、正常であれ、広く人間がこうむる精神現象をすべて同じこととして包括したい、それをじぶんのものにしたいという欲求あるいは時間というものを持つものを指しているというふうにおもわれます。  (P91-P92) 
項目抜粋
2





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
111 日本の神話 フロイトおよびユングの人間把握の問題点について 講演 山王教育研究所主催
1975.10.11
知の岸辺へ 弓立社 1976/09/30


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洪水神話 兄弟姉妹の関係
項目抜粋
1
 @フロイトの考え方を、もう少し引き伸ばして、ユングが<集合的無意識>の世界といっているところまで拡張してゆきますと、神話の世界になります。日本の神話は、複合型の神話ですけども、日本の神話で基本的に思想を決定しているのは、南方の東南アジアとか南中国とかマレーとか、そういうところ一帯に流布されている洪水神話です。つまりあるとき洪水があって、残されたのは、アダムとイブみたいなんですけども、兄と妹だった。あるいは姉と弟だったてもいいんです。つまり異性のきょうだいだった。その異性のきょうだいが結婚して、だんだん人間ができてきたんだという、洪水神話が、日本の神話を決定しています。
 例えばアマテラスとスサノオという形で、姉弟が初めいまして、その姉と弟を基軸にして、姉は天上を支配し、弟は地上を支配するというようなことが、日本の神話の大きな核心になっています。神話的世界、あるいはユングのいう<集合的無意識>の世界に拡張していっても、日本の神話の基層にあるのは、その構造で、これは、家族内における兄弟姉妹の関係を相当大きくみなければならないことと関連するとおもいます。(P102-P103)

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2




項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
211 内面の幼児性 ドストエフスキーのアジア 講演 1981.2.7 超西欧的まで 弓立社 1987/11/10


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内面の幼児性 了解の時間性をの因果の逆行
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1
【一 ドストエフスキーの現在性】
【イ 内面の幼児性】
@こういうムイシュキンの独自の過剰性のようなものは、どこで位置づけられるかといいますと、一種の幼児性、つまり他者を選択することができない幼児性、また現実というものを現実としての距離でみることのできないための過剰な内面性によっています。そういうものが『白痴』という作品を成り立たせているおおきな要素だということがわかります。
 ドストエフスキーが執着して描いた内面の幼児性、未成熟性、健全な他者の概念からは、うすのろ、白痴のようにうつる性格の周辺にかもしだされるアモルフな、酵母のように膨らみ歪んで、粘着する世界の意味するものは何でしょうか。ムイシュキンのかもしだす人のよさ、純真さと、高度な鋭敏さや知的判断力の異常なアマルガムは、たしかにドストエフスキーがよく愛着をもって描きだした性格類型に相違ありません。またこのような性格が他者に、とくに女性にたいして作りあげる世界は、ドストエフスキーの全作品の宇宙を象徴するにたりるほどの意味をもっています。 (P132-P133)

A現代の心理学的な類別にしたがえば、ムイシュキンの内面の幼児性のようなものは、たぶん乳幼児体験のなかに根源があり、その体験のどこかで母性との接触に失敗しているということになるでしょう。現在、病者とか異常者とかいわれているもののおおきな特徴ののひとつは、幼児性というふうに呼ぶことができます。もっとふつうの性格概念に近寄って、人のよさ、善良さと呼んでぼくたちが精神の病像をかんがえて類別している内面性は、病的とか異常とかのきわめておおきな部分を占めていることがわかります。つまり現在ぼくたちが、内面的な病気あるいは内面的な異常とみなしているものの根柢には、ムイシュキン的な幼児性あるいは善良さが存在するのです。現実にあるべき関係よりも過剰に溢れてしまう精神の幼児性、あるいは善良さの行方はどこにあるかという主題は、現在ますます重要になりつつある主題といってよいのです。たぶんその点でドストエフスキーが固執していった性格、ムイシュキン的な幼児性、あるいは未成熟性、あるいは限度を超えて他者のなかに流れていってしまう内面の過剰性は、予言的な意味をもちました。それは、現在の観点から病気だと異常だと呼んでいる精神の内面のいちばん根柢にある構造だといえるからです。 (P133)

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2
【イ 内面の拡張】
Bドストエフスキーの作品が、ぼくたちに与える感銘や深い衝撃みたいなものを想定しますと、その根柢にはいまいいましたように、人間の内面の動かし方の領域を拡大して、了解の時間性をの因果の逆行をも包括した概念を、作品自体によって提出していることがわかります。ドストエフスキーの作品によって人間の内面性、その了解という概念はいちじるしく拡張されているといいうるでしょう。
 懐疑がそこに存在するがゆえに、懐疑は起こりうるのだという内面性もあれば、懐疑を生ずることと懐疑の結果が同在し、他者に伝達されるのは同時なんだという内面性も人間のなかにあることを、ドストエフスキーの作品は啓示しているということができます。
 この根柢的な課題は、現在の精神性の理解の仕方でいいますと、追跡妄想とか、被害妄想とか、一般的にそういうものをひっくるめたパラノイアの精神性の問題ということになりましょう。パラノイアとかんがえられる精神の動き方では、しばしばある事柄が起こったと感受されることと、ある事柄の結果の了解とが時間性として逆行するということが生じます。あるいはその同時性というようなものがあらわれてきます。(P138-P139)





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
217 日常生活の時間意識 日本資本主義のすがた 講演 1981.11.7 超西欧的まで 弓立社 1987/11/10


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1
 @そうすると、わたしたちの時間意識、あるいは時間感覚は何に支配されるかというと、この大企業の寡占的な、つまりふつうの二倍から三倍あるスピードで成長する企業の成長の度合、その時間に、日常コントロールされているとかんがえるのが、とてもかんがえやすい考え方です。 (P253)
Aわたしたちの日常生活の時間意識を基本的に支配しているのは、小数の寡占的な、大規模な大企業の成長率・生産率だとおもいます。それに支配されて小さい企業の時間もせかせか速くなくてはいけないというふうになっています。それを内面的に受け入れざるをえなくなった場面にいきますと、たれでも不安感にかられるとか焦燥感にかられるとかいうことが起こります。そんなのでちっとも豊かになった実感がなく、せわしなくてしょうがない実感を、日々体験されることでしょう。 (P255)

Aつまり、そういう形で、マス・コミュニケーションが付加しているイメージは、大体において寡占的な企業が付加しうる競争のイメージ−価格競争じゃない−、それにともなってでてきたコントロールされたマス・コミュニケーションのあり方を示す大きな尺度になります。そのあり方を基本的に無意識の奥底のところで規定しているのは、やはり現代の資本主義のメカニズムでしょう。直接、規定しているとかんがえると悪い云い方になってあまりそういう云い方をしちゃいけないとおもいます。社会的無意識にまで沈んだそういうところで規定しているといっているということです。 (P258)

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2





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
254 日本の文化 ”新型の精神異常”が現れたアメリカの読み方 インタビュー 超「20世紀論」』下 アスキー 2000/09/14


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広義の日本人という概念
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1
 @僕は、「日本の文化」とか、「日本の伝統」とかいう場合、日本の知識人たちが概して無視しがちな奈良朝以前の弥生・縄文時代も含めて、考えなければいけないと思っているんです。そこまで歴史を掘り下げずに、「日本の文化」とか、「日本の伝統」とかいうことを安易にいってはいけないと思います。
 弥生・縄文時代も含め、そこまで歴史を掘り下げて、視野を拡大していけば、「日本の文化」とか、「日本の伝統」とかいっているものと、西洋やアフリカなどの伝統も含む
「世界的な伝統」との共通点も見えてくるはずです。そこから、もっと”広義の日本人”という概念を獲得しなければいけない、と考えているんです。   (P188)
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2





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
272 日本国家 V 国家について 談話 遺書 角川春樹事務所 1998/01/08


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1

@国家の起源からはじめましょうか。
 日本国家は天皇制と切り離して考えられない。以前は、日本国家の起源は、天皇制がまだ存続すると見なして、天皇制国家の成立から考えていました。ですが、この数年来もっと遡らなければいけないという考え方になっています。
 天皇制の起源はいわば新・日本国家の成立で、日本という国家の起源そのものではないということです。
 天皇制以前の国家というのは、沖縄(琉球)のようなところに、村々の宗教的儀礼や土俗的習慣などの遺制を追究していけば、解けていくと思っていました。

Aしかし、日本国家の起源となると、弥生時代末期以降ではなく、縄文時代から考えないと駄目だと思うようになりました。

B『古事記』『日本書紀』の記載でいえば、初期の神話は場所(空間)不定ですが、古いと確定できます。日本国の起源を考える上では大きな手掛かりになります。
 たとえば日本語は、Aという言葉とBという言葉があったところで、Aは旧日本人−縄文人の言葉で、Bという言葉は、弥生人あるいは弥生人以降の言葉で、朝鮮半島、東南アジア経由で大陸からやってきた。その二つの言葉が長い年月に混合して、そしてCという言葉ができた。
 そのCという言葉が、奈良時代以降の日本語ではないか。それはAにも似ていないし、Bにも似ていない。これが大ざっぱにいうと、いま考えていることです。
 そのCという言葉が、奈良時代以降の日本語ではないか。それはAにも似ていないし、Bにも似ていない。これが、大ざっぱにいうと、いまかんがえていることです。
 AとBという言葉をできる限りはっきりとさせよう。そう突きつめていくと、それが日本国の起源はどうなんだという問題意識とつながっていく。ですから、言葉の問題を追究していくと、どうしても日本国の起源まで遡らなくてはいけなくなります。
 それは、これからのことにもつながり、国家というのは終焉まで行くことになります。(P66−P67)

項目抜粋
2





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
273 日本国家 V 国家について 談話 遺書 角川春樹事務所 1998/01/08


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近代以後の民族国家、社会
項目抜粋
1

 @日本国が未来にかけて、これからどうなるのかは、国家の起源と密接に関わった大事な問題です。日本国はどこまでは平穏無事にいけるのか、近代以後の民族国家、社会がいつの時代で死んでしまうのかという問題です。さきほどフランス国家社会は、もう死んでいるといいました。別の言い方をすれば、近代民族国家としは終わっているのに、それ以後の「死後」の世界がわからないということです。近代日本の民族国家、社会もいま死にかけていると、僕は思っています。
 僕は、いまから十五〜二十年後にひとつの切れ目がくると思ってきました。それまでに、日本がどうなればいいのか、どうすればいいのかの方途と条件を確定できなければ、フランスなど西欧の先進国の後追い死ということになりそうです。別の言葉でいえば、一度死んで、その後の死後の世界が、射程に入ってなくてはいけないということです。
 大ざっぱにいえば、現在考えられているような日本国家とは違う概念のものになっているだろうと思います。

Aそのもっともわかりやすい目安は、日本の一般の民衆の意識です。たとえば経済面で見ると、いま自分たちの生活が中流だと考えている人たちが九十一パーセントを占めるようになっています。過去の流れから推測して、九十九パーセントの人が自分の生活が中流になったというようになるのは、そんなに遠くない。別の言葉でいえば、国家社会に特別の要求はない、したがって関心も理想も切実にいらないということです。そうなると、いま考えられているような国家や社会は終りになるでしょう。
 そのとき、いまの資本主義は終わったということです。  (P66−P69)

項目抜粋
2

Bいまの先進国のほんとの課題は、近代以降命脈を保ってきた民族国家をいつどうやって死なせたらいいのか、ということです。資本主義が産業経済として最高の段階である消費資本主義に到達した現在の先進国は、その課題に突入しています。ところが現実には、先進国家を支配している政治屋の意識は遥かに低いところで低迷しています。
 強大国は軍事的に経済的に自国の意志で世界中も統御しようとし、弱小を意識している国家は、それに依存して生き延びようとしている。すでに経済的には国家を超えると自覚してしまっている先進国の国民は、自国の首脳の弱腰と古くささを批判し、強大国の専横を拒否しようとします。ここに民族国家として統一していない地域国家では宗教イデオロギーの相違に名目を借りた内戦が噴出します。これらの複雑なからみ合いは、保守思想を一様に民族国家主義のリバイバルにしてしまうのだと思います。・・・・・・日本国の課題は、すでにいかに国家を死なせるかという本質的な課題を踏まえていなければ、無意味だということを知らなさすぎます。  (P69−P70)





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
284 能力 [ わが回想2 「六〇年安保」から「現在」まで 談話 遺書 角川春樹事務所 1998/01/08


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1

@年齢を重ねる(「馬齢を重ねる」ということばがありますが)ことは、それだけで自分が何者かであるような錯覚を与えます。ただ押し出しトコロテンに過ぎないのにね。だから未開、原始のときの村落が長老会議に支配された年齢階梯的な秩序感にはわかりやすく理にかなっているところがあります。多少でも能力の違いが加味されてくると、王制がはじまるのです。僕は労働組合の委員をしているときしきりに考えました。労組として要求または要請できる給料の階梯は、勤続年数、扶養家族数、本人の年齢の三要素の大小によるのが、いちばん正当なのではないかということでした。企業体や政治体は左右を問わず、かならず能力給と上級者からの勤務評定を基準に据えようとします。裏面から見れば、勤続年数、扶養家族数、本人の年齢はどれも能力を減殺する要因でもあります。僕は他から見てどう評価されるのかわかりませんが、能力という考え方が嫌いです。自分も無能と規定しています。有能な奴と闘える無能がさしあたっての理想です。  (P215−P216)

項目抜粋
2
備考





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
329 何故生きてるのか 第二章 フロイト、ユング、そして人生  対談 遊びと精神医学
―こころの全体性を求めて
創元社 1986.1


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項目抜粋
1
@ 何故生きてるのか、何の目的で生きているのか、どういうモチーフで生きているのかというふうにいわれて、自分で幾つかの殻をつくっているような気がするんです。
 その一つの殻というのは、町沢さんが今おっしゃったことと、いい方は違うけど同じようなことになっちゃうと思うんです。何のために生きているのかというふうにいうのは一足飛びに大袈裟ですから、何のためにこんな煩わしいことをやって、それを職業にして、それで生活してということをしているのか。
 知識というものが大変虚しいことであるし、また知識についての表現というものも全部虚しいことで、ある瞬間の解放感を除いたら、ちっともいいことないし、重たいことばっかりだ、煩わしいことばっかりだというふうになっているんです。どこかでそういうことをしている自分に、別に役に立つまではとてもならないんですけど、そういうことの中に
何か信じられるものがあるんだという感じ方があると思うんです。何か信じられることがあるんだという・・・・・。それは主観的かもしれないし、全然意味がないことかもしれないけど、自分の中では何か信じられることが、その中に微かに含まれてて、そこでちょっとだけですけど炎が燃えてて、それがまだ燃えつきてなくて、小さく燃えているみたいなところがある。そこのところだけは何となく信じられるというようなことが、一つあるような気がするんです。
 これはいってみればまだ、何故生きているんだということの回答になるほど大層なことじゃなくて、何故お前が今やっているようなことをしているんだということについての、自分なりの自己弁明なんです。つまり何故こんなことを止めないでいるんだろうなということを、どんどん問い詰めていくと、最後にそのちいさな炎があって、それでそれは何となく信じられるみたいな感じがあって、今はまあそれでやっているんだなという感じになるんですね。
 そうすると今度は、お前さん、何故生きているんだということになりますと、僕は積極的な答えというのがあんまりつくれないんです。これは単に自分の考え方というんじゃなくて、
自分の資質というか、あるいは素因かもしれないんですけど、要するに何故生きているかということの、何故というのに引っかかって生きている部分というのは、自分の中では半分しかないような気がするんです。
 
あとの半分は、向こうからしゃにむに生きさせられるといいましょうか。現実にあるものがあって、それで生きさせられているというのが、半分はそうなんだという感じ方なんです。つまりそれは挫折ばっかりしてたからじゃないかなと、自分では思うんです。つまり自分が生きている目的とモチーフがあって、それでこういうふうにやったら、こうなったということの体験が、今までにほとんどないっていう感じがするんです。大抵は、自分でこうしたいと思って、こういう意志で、こう努めたということのとおりには、絶対にいったことがないし、いかないものでした。そうするとそのいかないという要素は、どうもこちらがどういう目的をもって、どういうモチーフで生きているかということとは、まるで関係ないといいますか、まるでそれが届かない向こうのほうからきているといいましょうか。
 向こうのほうからというのは、別に神秘的なことじゃなくて、現実のさまざまな条件、あるいは簡単にいえば環境条件といいましょうか、そういうのがあってそれとの小競り合いの結果、後からいうと、いつでもこういっちゃったという感じ、あるいはこう生きちゃったという感じがあるんです。
 だからそういう問いに対して、自分が答える要因がいつでも半分しかない、とても
受身だなという感じがあるんです。その受身というのは一種の挫折感の連続みたいなことからきているという気がします。だからそこのところで、何故生きているんだ、あるいは何を目的に生きているんだという場合に、納得できる答がせいぜいつくれて半分という感じがするんです。その半分というのも、目的とモチーフに溢れて生きているというふうには、とても思えないんです。こうしなければならんとか、こうする以外ないじゃないかという要因に囲まれてて、それでそういうふうにしているという要因のほうが、僕は多いんですけどね。

【町沢 それは不快ではないわけですね。】

 ええ、不快ではないです。自分の資質にとって自然な振る舞い方のような気がしているんです。だからわりあいに不愉快ではないんです。
 ただ要するに、いつだって状態としては不愉快ではないけど、不愉快な場面とかきついこととか、そういうことだったら、それはあんまり楽なことはなくて、これはメタフィジカルに、こんなきつい状態が続いたら、そんなに生きちゃいられないよというふうに、若い時には思っていましたけど、それは大嘘で、大体きついことは、増える一方だという感じがしてしようがないですね。年くうと増える一方だと思います。
 ただそれを、若い時ほどメタフィジカルなふうにもちこたえないで、生きにくくなる、きつくなる一方だというのも、フィジカルなことに分散していっているような気がします。だけど全体としてみれば、若い時考えた、いつかここら辺までいけば楽になるに違いないという、それは嘘だという気がします。それは嘘で、増える一方だ。きつくなる一方だという感じです。


  僕の書いたものを読んで頭が変になっちゃった奴はいるけど(笑)、これを読んで、助かったという奴は一度も聞いたことがないのです。変になっちゃったというのは、ずいぶんこっちにも話が入ってくるんです。それで直接押しかけてきたりとかいうのは、何人かその都度いるんですけど、これでもって、俺は救われたという人はあんまりいないんですね。
 また自分でも、人が救われるというようなことを書いていないような気がするんです。
どこかにいつでも、死じゃないですけど、何か否定的な要因があって、これが取っ払えれば、多分これを読んだら、ちょっとホッとしたとか助かったとかということはあり得るような気がするんですけどね。まだそういうのが自分の中にできていないですから、今のところそういう人助けみたいな、人をこういうふうにしたというふうには、どうしても思えないんですね。
                (P217−P222)


項目抜粋
2
A だからそこまではいけないんですけど、なんとなく半分だけ、もちこたえてきたと思います。それで自分なりの考え方の工夫はしてきて、要するに人間の生き方というのは、逸脱だという考え方をしているんです。
 つまり
人間の理想的な生き方というのは何なのかといったら、日常生活だけで、日常生活以外のことは何も考えないで、日常生活で当面する、明日はどう稼ごうかとか、こういうふうにやって幾ら儲けようとか、そういうことだけを考えて生きていくというのが、人間の理想だという考え方にしているわけなんです。
 だけど人間は大なり小なり、それから逸脱してしか生きられない。だから大なり小なり余計なことを考えたり、余計なことをやってみたりしながら生きていくというように、誰でも大なり小なりなっているけど、本当はそれは逸脱なんだって考えます。本当の人間はどう生きるべきかという生き方、あるいは人間の最も価値ある生き方というのは、明日どうやって幾ら稼ごうか、稼いで子供をどうしようかとかそういうことだけ考えていけるということでね。それが要するに
人間の最も価値ある生き方なんだみたいな、そういうふうに自分をいい聞かせて、納得させているところはあるんです。だけども要するに逸脱してしか生きられないから、大なり小なり逸脱しているんだという(笑)、そういう考え方にしているんです。そのほうが楽だし、なんとなく本当らしい気がしましてね。
 つまり本当に気にくわないんですよ。サルトルでもそうですし、マルクスみたいな人もそうですしね。偉い人というのは大抵非日常的でしょう。それでそういうのはあんまり本当は価値があるというふうに思っちゃいけないんじゃないかというのが基本的にありましてね。だからそこはさかさまにして考えているんですよね。
それは生きていることの一つの救済になっているんですけどね。自分の場合にはね。
                (P222−P223)


備考





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
333 二世代の問題
<個>としての病理現象  対談 時代の病理 春秋社 1993.5.30

対談者 田原克拓


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1
@ ぼくが『言語にとって美とはなにか』をはじめたときに、既成のものとしては社会主義リアリズム論というのがあって、文学作品の表現はそこに近づいていくのを理想とするみたいなひとつの「立場」があったわけですが、その「立場」をいかにして壊して言語表現の全体性にいけるかということがモチーフだったとおもいます。それは、文字表現というところでかんがえるのがいちばんやりやすかったからやったわけですが、ぼくのいまの問題意識は、もっと言葉の原型のところまで入っていけないとだめなんじゃないかという考え方になっています。その言葉の原型の問題は、人間の生理的な構造という問題とどこかで対応があるにちがいないとかんがえています。
 もうひとつは、そういう言葉の原型の問題は、人間の生み出した、言葉がまだ民族語といいましょうか、種族語といいましょうか、それに分かれる前の段階、あるいは分かれた直後の問題というところに関係があるにちがいないとおもえるわけです。そうするとそれは一代、二代の問題でいいますと、ちょうど民族語に分かれる以前の人間の言葉を母体としてかんがえると、そこから各民族に分かれが生じる、それを二代とすれば、つまり民族語という概念、あるいは種族語という概念と、そうじゃなくて言葉という概念とを二世代の問題というふうに理解すれば、それはやっぱり二世代の問題まで入っていかないとだめだなというふうになってきます。
それは歴史的な時間でいえば、十万年くらいの単位ということになります。つまり、人間が動物との関連において言葉を獲得したとかんがえれば、それは百万年の単位とかんがえないといけないですが、そうじゃなくてこのばあいは、輪廻転生をかんがえるのとおなじようなことであって、言葉が民族語に分かれた直後と直前の二代の問題をかんがえればいいんだろうなとおもうわけです。そうするとそこがだいたい人間の心の問題としても、「核」として存在しているもので、それがやっぱり母親の胎内にいた時と一歳未満の時とがたぶんそれに該当するんだろうというふうにかんがえられるとすると、人間の精神の、心の構造の問題の全体性の像が掴めるんじゃないか、そこがいちばんの考えどころだということでやっているわけです。そこからいろんなことが派生してくる感じがします。つまり、日本語とか日本人とかいうのはあんまりわかっていないなという感じがします。
                (P78−P80)


項目抜粋
2
備考





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
335 人間という概念
<社会>問題としての病理現象  対談 時代の病理 春秋社 1993.5.30

対談者 田原克拓

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自然 聴覚の映像 言語以前の言語
項目抜粋
1
@ それからもうひとつは、いろんな問題もみんなおなじことになってくるんですが、マルクスでも宮沢賢治でもいいんですが、人間は自然の一部だという言い方があるでしょ。そうすると、その自然というのはたぶん、天然自然あるいは地誌的な自然といいますか、宇宙的な自然といいますか、そういうものを意味しているようにおもうんです。だけどそれはほんとをいうと、正確じゃないというふうにかんがえないといけないんじゃないかとおもうんです。つまり、都市とか大都会の高層ビルも、人工的なものもみな自然物というふうに自然の概念を拡張すると同時に、人工臓器といいましょうか、人工臓器を部分的にもっているとか使っているとか、あるいは天然自然としてのじぶんの臓器じゃない他の人間の臓器とか、あるいはヒヒだかブタの臓器をもっていても、それもまた自然としての人間なんだというふうに、人間という概念といいますか定義を変えないといけないんじゃないか。いや、変えないといけないかどうか知りませんが、すくなくとも変えたらお前はどうおもんだということは、問われつつあるんじゃないかとおもえるんです。
 それじゃ、脳が人工になっちゃったら、それを人間といえるかどうかという問題になります。その段階を定義するには、すくなくとも
「肉体の死」と「精神の死」とは平行しているもんだというくらいに、人間の肉体的なことも、精神の動きもわかってきたという段階にならないと、人間の脳が人工だったらとか、脳が他人の脳だったら人間といえるかみたいなところまでは、問題を定義することはできないんじゃないかという気がするんです。しかし、すくなくとも、他人の臓器とか人間以外の動物の臓器をもっていたとか、部分的には人工的な内臓をもったものを人間といえるか、それは人間というべきじゃないかみたいなところまで入れないと、人間の定義は成り立たないというところまでは、きつつあるような気がします。
                (P126−P127)


項目抜粋
2
A 一歳未満までの問題は、音と共に生ずる映像というもので、言葉とおなじ作用を受けとってくる段階だとおもいます。胎児でいえば、母親の胎内でいちばんの音は心臓の心音でしょう。もちろん、母親から伝わってくる胎内でのいろんな音もちゃんとわかっている。母親の言葉もすくなくとも胎児のある段階以上はわかって、それで聞こえちゃったものをどのように保存するかというと、聴覚の映像音から生じる映像でもってわかって、溜め込んでいる状態だとおもうんです。母親とか父親のほうは言葉として聞かせているんでしょうが、胎内の子どもはそれを言葉として受けとるのではなく、聴覚の映像として憶えているとおもいます。一歳未満までいってもう言葉を覚える段階になったら、それがわかっちゃうみたいなことになるとおもいます。いまに母親ならだれでも、たとえば胎児に外国語を覚えさせようとかやりだすでしょう。要するに聴覚映像というのはもっとも先に、言葉を覚える前の言葉としてやってくるようにおもいます。それはもうどうしても人間の精神の「核」にできあがっちゃっている。そうすると一歳から三歳まで、それから三歳から五、六歳までという段階で言葉に直していくやり方はちゃんとできあがってつくられちゃうんじゃないかとおもいます。
 だから、もとからくる映像ということからできてくるものは、いま田原さんがいわれた身体像といいますか「身体図式」のかたちを決めるだろうとおもいます。それは、決まるまでの決め方が正常でしたら、無意識のなかにだんだん押し込められていくというかたちになって、あまり田原さんのところにカウンセリングにこなくて間に合っちゃうわけでしょう。そこがうまく無意識のなかに押し込められなかったら、やっぱり田原さんのところへくるということになる。でも、だいたい一歳未満の「核」につくられた「身体図式」といいますか、あるいは聴覚イメージに問題があるひとは、まず田原さんのところにはこないようにおもいます。田原さんのところへくるのは、たぶん三歳以降から十歳未満のところで「身体図式」の、あるいは聴覚映像のつくり方に失敗というか、おかしいところがあって、無意識といいますか、下意識のほうに押し込められなかったというひとなんじゃないかとおもえます。一歳未満の「核」のところでこりぁいかんといったかたちであったばあいには、ほんとをいえば、いかんともなしがたいとおもいます。しかし唯一、なしうることがあれば、言葉をどんどん言葉以前の言葉、一歳未満の母親がつくった「身体図式」までもどせることになったら大丈夫なような気がします。それ以外はちょっとだめなんじゃないか、どうすることもできないんじゃないかとおもえます。

                (P144−P145)


B くりかえしになりますが、ぼくはやっぱり、形成される言葉以前の言葉、つまり「聴覚映像」の問題に帰する問題は、言葉を習得する一歳以降の段階になったら、だんだんと無意識の方にうまい対応のしかたで、けっこう解放感もあり、あるところでは抑制もきくという、わりあい自由なかたちで押し込められていくところにいけば問題はないだろうとおもいます。そういうふうにふつうはいくんじゃないかとおもいます。
                (P147−P148)



C 
【田原  ところで「人間の概念を変える」ということに関連して、前の章でオセアニア、ポリネシア、ミクロネシアの数十万年前の大陸にいた人間についてのお話は、私たちには未来のヴィジョンの「原型」になりうるとかんがえられます。<気持の安心>というイメージで了解できる吉本さんのお話で肝心なところは、聴覚すなわち言葉にいたる知覚による身体概念のイメージは、生理的身体の「核」をなしているから、「原型」になりうるということだとかんがえています。これは母親が病的に緊張していないという意味で、人間関係とか、共同性とか集合としての社会での<気持の安心>の差し出し方になる理性的な方法であるとかんがえます。吉本さんはこのような「共同性のイメージ」についてお考えになっていると理解してもよろしいでしょうか。 】



 いや、そこまではいってないとおもいます。でも、そういう考え方に帰着するんじゃないかなとはおもいますが、それ以前にわからなくなっちゃうことがあるんです。
 たとえば
、旧日本人もふくめたオセアニア、ポリネシア、ミクロネシアとか、日本も島尾敏雄流にいえばヤポネシア、スマトラとかボルネオとか、ああいうところもふくめた島々の段階で、みんなまったく同類だったというところまでいくと、だいたい「言語以前の言語」までいけそうな感じがするわけです。そうすると、「言語以前の言語」の段階、つまり個人でいえば胎児の時から一歳未満というところになりますし、また人類でいえば、言葉がまだ民族語とか種族語の違いとか、あるいはいろいろに分節していくことをしない段階、十万年単位のところなんだとおもいますが、そこまで遡って「核」のところまでいける。そうすると、自然にたいすることと、じぶんが自然になることとがおなじだというところまでやっちゃえばいいんだという「森田療法」がある程度かんがえたことは、存外、日本人みたいなものの「核」に手を届かせているというこになるのかなという感じもするんです。
 つまりそういうときの日本人の一般的な特徴はなにかというと、『古事記』とか『日本書紀』とか、初期の神話の描写のなかにあるんです。たとえば、「草木がそう言う」みたいな、みんな言葉として擬人化されてきて、自然が言葉をしゃべっているというふうに感じちゃう。自然をなんでも人間にしちゃうわけです。・・・・(略)・・・・そういう認識は、オセアニアンといいましょうか、言葉からいえばオーストロネシアンというわけでしょうが、そういうところの特徴なんです。日本人もそうだといわれています。
自然物の音とか、みんな言語脳で感じている。言葉だけは左の脳だということに分けられないという、なにか言語脳で聴覚、自然の風の音とかに感じちゃっている。そういう特質のある段階があるんです。つまりそういうことと、言語以前の「核」の形成のしかたとはおんなじなんじゃないかとおもえるところがあります。そうすると、「森田療法」がいっていることは存外、日本人もふくめて、オセアニアンみたいなそういう人間のばあいにとってはいいやり方なのかもしれないという気がするんです。
 そこのところがいちばん根本の問題としてひっかかってくるわけで、日本人の精神の働き方というのはわかりにくい、変な人種のようにおもえるんです。その変なというところがどこからきているかは、「言語以前の言語」みたいなところまでいかないとどうも解けない。大陸の中国人とも、東南アジアの人とも、朝鮮とかツングース系の人ともちがう、なにかわかりにくいところがあるというのは、もっぱらそこに帰着するような気がします。たぶん日本人は、そういう時から日本の島のなかにわりあいに少人数が分布してて、それでわけのわからない言葉をいろいろしゃべりあってて、というようなことになっていたんじゃないかという気がします。


 だから、そういう「聴覚の映像」のイメージとしてはべつになんら人間の生の欲望に当面しないんですが、ある一定程度以上イメージが蓄積されて重なっていくと、
「生命の糸」みたいなものを、つまり生きるという欲望を形成できるような糸の重なりといいましょうか、細い糸がゴチョゴチョ丸まったものといいましょうか、そういう「生命の糸」をつかまえられる契機が出てくる。それは言葉として形成されていく。ほ゛くはそういうとらえ方をするんです。その問題が精神のいちばん「核」のほうに存在しているとおもいます。
                (P150−P153)



備考 Aを 語彙集の「記憶」にコピーする








項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
350 二重性 オウムが問いかけるもの−聞き手 弓山達也  対談 超資本主義 徳間書店 1995.10.31


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もう少し普遍的な倫理
項目抜粋
1
@ 僕は思想家麻原を評価する根拠が一点あるんです。それは『生死を超える』という本の前半部で、麻原さんが修行の過程と段階とをとても実感的に説いていて、はっきり体験的に表現している点です。仏教系の経典とか本とかで、日本の奈良朝までの修行僧が、何をやっていたのかは『生死を超える』を読むと、ああこういうことをやっていたんだ、ということが全部いわれてしまっています。僕は『生死を超える』という本は『チベットの死者の書』や仏教の修行の仕方を説いた本の系譜からいえば、そうとう重要な地位を占めると思っています。あそこまでいってしまったら、仏教の修行の秘密や秘密めかしたところが何もなくなってしまいます。つまり、相当な人手ないとここまでやれないよ、と思うのです。やっぱり相当な思想家だと思います。だけど、本当はまだ不明なところがたくさんあるわけです。

 【 弓山 思想の中にわからない点が多いとは? 】

 裁判の過程の中でもなんでもいいんですけれど、麻原という人が「自分たちは市民社会の善悪の基準、法的善悪の基準からすれば、確かに悪いことをしていることになる。市民社会的な倫理から弾劾され、法で罰せられることは仕方のないことだ。しかし、われわれの持っている宗教的世界観からすれば、それはこういう位置づけができて、こうなんだ」と、はっきり表明するということをやれば、不明な部分がわかってくるような気がするんです。それをやってくれないと、わからない。麻原さんが世界観を話さない次元で、オウム真理教のやったことを弾劾したり、否定したり、これは犯罪者集団であり、異常者、殺人集団であるからダメだといいたてて、きめつけたって、オウム真理教、あるいは宗教一般の持っている超越的な(現世の倫理を超えた)部分を否定することにならないと思います。

 【 弓山 麻原被告やオウム真理教の行った犯罪自体はどう考えるのですか。 】

 で
すから、僕の中では、一般市民として大衆の原像を繰り込んでいこうという考え方の自分は、オウムの犯罪を根底的に否定します。特にサリンによる無差別殺りく、無関係な人の殺りくというのは、まったく肯定すべき余地がない。まったく否定します。大衆の原像というのを考える限りは、そうなるわけです。ところが、僕の中で、否定だけで終わるかといったら、そうではないです。本来、超越的な性格を持っている宗教の問題、理念の問題、思想の問題が僕の中にあります。その問題を僕が重点にすれば、「麻原彰晃、つまりオウム真理教というのは、そんなに否定すべき殺人集団ではないよ。この人は宗教家としては現存する世界では有数の人だよ」という評価になると思います。そうすると、僕の中で二重性をはっきりさせなくてはいけないでしょう。なぜ、お前の中に二重性ができたのか、分離してきたのかをですね。二重性の解決が、僕にとって、オウム真理教事件の一番の課題なんです。
                (P322−P323)



項目抜粋
2
A 親鸞が「自然法爾章【】ルビ じねんほうにしょう」の中で漏らしている本音ですけれど、仏教の中には危険な要素があります。造悪論も仕方がないんだといわざるをえないところがあるんです。僕はオウム真理教のやったこと、やらせたことは、親鸞流にいえば、造悪論の中に入ると思います。それで、僕の願望では「麻原、あいつは極悪深長できっと往生しやすいよ」といいたいわけです。いえるようになりたいわけです。けれども、僕の器量が小さくていえないわけですよ。ただ自分の中に二重性の矛盾としてその問題があります。それは自分のダメさかげんでもあり、どうしても二重性になってしまうのです。

 【 弓山 二重性の解決のために、葛藤されている。 】

 どうすれば、この二重性を解けるのか。方向性だけは自分にあるつもりです。「市民社会あるいは庶民の善悪の倫理よりも、浄土の善悪の倫理のほうが規模が大きいのだから、庶民の善悪なんていうのは、あまり問題にならないんだ」というのが親鸞の言い方だと思います。僕らは信仰者ではないから、「浄土の善悪の規模のほうが大きいんだ」とはいえないんだけれども、市民社会の倫理というものが、
もう少し普遍的な倫理に置き直せるんじゃないかなと思っています。それがたぶん未来社会、消費社会の次の倫理になりえると考えます。浄土の善悪ではないけれど、市民社会の善悪よりも、もうすこし普遍化した善悪の規模、倫理の規模というものがつくられるのではないかな、と僕は思っているわけです。

 そうです。だから麻原氏だって、ある意味で自分なりに解こうとしたし、解いたと思ったと思うんです。だけど、それはちょっと違うよ、ということになると思うし、僕らも、それはこうなんだとはいえない。けれども、
今の市民社会の倫理は狭くて絶対の正義とはいえない。もう少し普遍化できるんじゃないかな、と思います。僕は、それを見つけたいんだ、探したいんだという願望を持ちますね。そういう願望が遂げられるときに、自分の中にある二重性みたいな矛盾が解けるんだと思います。今のところは、そんなはっきりしたものがないですから、自分の中にやっぱり矛盾を抱えこんでいます。市民社会の倫理として、その社会の一員としての自分を否定する以外にない一方、思想として市民社会のあり方を超えたい自分があります。何か超えようとするものがあります。そういう自分ががありますから、どうしても二重性を抱えこんでしまうんです。
      (P324−P326)



備考





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
356 残った問題―心 第二章 精神的エイズの世紀  対談 だいたいでいいじゃない 文藝春秋 2000.7.30


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ジャック・ラカン レーニン マッハ その残った問題 判断する自分
項目抜粋
1
@ ラカンなんかだと、無意識というものは言葉がいつでも入ってくる問題なんだと言うんですけどね。言うんだけど、無意識の集合、あるいは集合的表現というふうに考えると、それは要するに「心という問題」がそうなんだと言っていると思うんです。「心」という言葉は古くからあるわけですけれども、新しい感じで「心」というのを考えたとしても、「心の問題というのはどこから出てくるか、それは無意識の集合的表現として出てくる」というふうに、ラカンは考えていると思います。
 そのときの「心」というのは何かっていえば、おかしな言い方をしますけれども、経済学的な概念でいうと、要するに交換価値なんです。あるいは単に価値なんですね。使用価値じゃないんです。有効かどうかじゃないんです。
ラカンが「心(魂)」と言ってるやつは、有効かどうかじゃなくて、ただ要するにそれは価値としてあるんだと、そしてそれは無意識の集合なんだと、そういう概念を出していると思うんですね。
 女は気ちがいだと言って、その気ちがいという概念は、たとえばフロイトの弟子で、ラジカルな左派ですけど、ウィルヘルム・ライヒ、あの人は、女性の七割は気ちがいだと言っています。こういうふうに言う場合の「気ちがい」は、いわゆる精神医学者が精神異常だと言っているのと同じだと思います。そういう意味合いで、ライヒは女性の七割は気ちがいだと言っている。
 だけどラカンが「気ちがい」だと言うときは、もっと本質的な意味合いで言っているので、気ちがいだから悪いかいいかなんて問題じゃないんですね。悪い良いの問題じゃなくて、もっと
本質的なところで気ちがいだ、おかしいんだと、そういう意味で言っていると思います。
 
だから、そこまで言っちゃうならば、もう徹底して言っちゃったことになると思いますし、男って何なんだ、男性原理っていうけど、要するにそれはもう欲するのは自分を女性にしちゃって、同性愛的になるということが男の本質だというふうに言っちゃっていると思うんですね。これは僕は、男性というものを定義する場合に、相当本質的なことなんじゃないかという気がする。
 そうすると、価値概念としての心という問題、あるいは魂といってもいいんですけど、それはやっぱり残る―残るというのはおかしな言い方ですけど、
それはやっぱり未処理のまんま残るんですよね。それこそ問題なんだと・・・・・。時代によって、社会によって形を変えるけれども、「心の問題」という新しい問題というのは、そこで残るんだと。それは少なくともいまの文化の方向性では解決しないよ、ということなんですね。つまりいまの文化の問題というのは、できるだけ割り切れるように、割り切れるようにと、サイエンスに似せた方向に行こう行こうとしますから、そうするとどうしてもそこには過剰な無意識が残っちゃう。


A 
それをいちばん便利に、残さないのが人間だと言い切っちゃったのが「唯物論」ですよ。要するにマルクス主義ですよ。ロシア・マルクス主義っていうのは、もう言い切っちゃって、人間というのはみんな表層だというふうにしちゃった。嘘ですよ、そんなことは。だけどそうしないと「唯物論」というのは成り立たない。だからみんな人間という表層なんだ、表層になりゃあいいんだということになります。だから使用価値だけ、有効価値だけがずーっとのっぺらぼうに拡がっていく、それが人間なんだ、人間的本質はだんだんそう行くんだ。科学を見てみろ、サイエンスを見てみろ、そうなってるじゃないか、こういうふうになるんですね。ところがサイエンスなるものの一面だけ、分りやすいところだけ取ってくればそうなんだけど、実はたいへん難しい問題なんです。
 これはレーニンがものすごくやりたくて、できなかった問題だと思うんですね。つまり、レーニンが言ってることで、まあこれでいいんじゃないか、おおよそはこういう言い方でいいんじゃないかと思えるのは一つだけあって、
それは「唯物論」とは何かといえば、人間の脳よりも先に自然の歴史はあったんだというのを認めるのが「唯物論」だと、こう言ってるわけですよね。
 
すると、エルンスト・マッハみたいな人は、そんなことはねえ、人間の脳がなければ自然が先にあったかなかったか、そんなことも判断しないわけだから、そんなこと言えないじゃないかと、こうなるわけです。レーニンはもうそれを言い切るわけですよ。言い切っちゃって、人間の脳より先に、あるいは人類の成立より先に宇宙はあったんだ。これを認めるならば「唯物論」だと言って、その他のことはどんなことを言ったってみんな観念論だというふうにレーニンは決めつけるわけです。
 
マルクス主義者はそれにまた解釈を加えて、人間というのは表層だけだというふうにしちゃった。無意識なんて認めない。いまここにある具体的なこれだけが人間だというふうに人間を考えるし、またそういうふうにしちゃえというふうになった。だけどほんと言うと、おおよそのところは、人間の脳が発生するよりも、あるいは人類が発生するよりも先に宇宙はあったとか、自然があったとか、誰でも認めるように思えるでしょう。それから宇宙物理学の認識によれば、そうなっているじゃないかと。いま地球よりももっと若い天体が生じつつあるというところの天体も、観測されたりするじゃないかというのを見て、そういう観測からそう判断すれば、まあおおよそ間違いねえというふうに言えそうだけど、それはあくまでも”おおよそ”なんです。
だけどお前という個人の脳がそう認めなけりゃあ、そんなことは言えもしないじゃないかっていうことになっちゃうんですね。
 つまり「唯物論」のインチキ性っていうのと、それからそれを証明する難しさというのはそこにあるわけで、レーニンの言い方は、一見すると科学的に成り立つように見えるけれども、ほんとはだめなんです。
なぜかといえば、レーニンの唯物論の問題点はちょうど人間の死と同じなんです。人間は必ず死ぬもんだというと,われわれは、そうだそうだと思うわけです。一応はね。だけど、お前はほんとにそうか、それをどうやって確かめたんだと言ってみると、他人の死しか確かめたことないです。自分の死を自分では確かめられないんですから。だから言えないんですよ。自分だけは除外しなきゃ、人間はいつか死ぬもんだぜと言えないんです。みんな人の死を見てそう言ってるというだけですよね。骨を見たらそうだったとかで決めているだけで、ほんと言うと、自分の死というのは自分で分かんねえんだから、だから人間は必ず死ぬもんだぜなんて言えないじゃないかって言うのが正確なところですね。
 
ただ、言えないじゃないかと言うためには、魂というか、心というか、その問題を人間の中に入れておかないと言えないんです。だけど「唯物論」というのは、それを言い切るために、人間というのは表面だけだよと。現にここにあるこれだけだよというふうにもうしちゃったんですよね。そしたらマルクス主義者っていうのはそれを本気にしちゃったんです。そうすると、もう「唯物論」自体が宗教になってきちゃうわけです。冗談じゃないぞって思います。人間は表層だという前提なしに、これは成り立たんのだぜと。そうすると、その前提は非常に宗教的な思い込みだよと。ほんとはそうじゃないんですよね。その残った問題こそが、これから資本主義という人類の最高の段階、最終の段階―現在のところそう思われている段階へ、つまり先進国家に順々に入っていく社会の問題のような気がします。


B じゃあどうするんだと
。昔から魂とか心とかって言ってきたやつは、どうなっていくんだという問題について解答を与えられなかったら、それはだめだよ、ここで終わりになっちゃうよ、人間は必ず死ぬんだみたいなことを言ったってだめだぜ。きちっと問題にしないとだめだぜと。つまり自分の死は永久に分んないのに、他人の死だけ見られるって、これはどうしてなんだ。同じように、自分を抜かせば、宇宙は人間より先にあったっていうのは、それは誰でも認めるだろう、唯物論者じゃなくたって認めるだろう。しかし判断する自分というのを入れなかったらそれは言えないんだよということです。その問題は、本当は科学が解決しなきゃいけないのに、科学というのは、少なくともいままでのところで言えば、その問題は一応退けておこうとなって、どんどん発達していってますけどね。
 それはいまはいいけど、資本主義がどんどん、どんどん最高の段階に進んでいって、目に見えないことばっかりになってきた。たとえば農業も、工業も携わるやつが少なくなった。多いのはどっか後進地域だけになってきた。そうしたらどうするの、ということです。何でもって何かをつくったとか、つくらなかったとか、消費したとか、しないとか、何で判断するのと、そういうことになっちゃう。そこの問題をほんとは解決しないといけないわけなんだけど、これまでのところはほうっておいてもすんできた。・・・・・(中略)・・・・・・・でも、これはこれから大問題になると僕は思ってます。
                ( P148−PP154)



項目抜粋
2


備考 註.科学・・・・・「不確定原理」以降
註.このことは別のところでも触れられていたと思うけど、どこだったか・・・『言葉という思想』?





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
364 人間の本質 マルクス者とキリスト者の対話(1)   インタヴュー マルクス―読みかえの方法 深夜叢書社 1995.2.20

「止揚1」1970.12月

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人間の最高の智恵がうみだした最高の制度が、資本主義 根本思想
項目抜粋
1

@
 つまりこれは<猿から人へ>ということと関連するわけですが、
”人間をどうかんがえたらいいのか”ということがあるでしょう。そのばあいすぐいえるのは、人間は自然の一部だということです。このばあい自然は人工物であってもなくてもいいわけです。その自然の一部という考えは、初期マルクスもいっているのですが、宮沢賢治という人が昔から好きで宮沢賢治という詩人は<人間は自然の一部です>といっているのですよ。そういえばそうなんで、疑いもなく人間の身体でも神経でもみな自然物からできているので、ほかのなにものでもないわけです。つまりなにかほかにあるわけではないです。自然物からできているだけで、また自然の一部であるわけだから、まったく自然として生活して、生命活動を続けていければいちばん幸いなわけですが、どういうわけかわからないけど、人間だけは自分で自分を拘束するものを、つまり社会制度をつくってしまったわけです。それからまた、男女の性の観念(それもまた一種の束縛あるいは不自由さを含むわけです)もつくっちゃいました。もっといえば制度としての政治とかあるいは宗教とか習慣とか、そういうものもつくっちゃったわけです。できちゃったということとつくっちゃったということとは表裏でしょうが、人間だけがそれをつくっちゃったといえます。普通は人間が高級だからだとかんがえるかもしれないが、ほんとうはそうでもありません。それほどいいことばかりではないにもかかわらず、そういうものをつくったということが問題なんで、そこがつまり動物と区別される人間的ということだというのがいちばん根本にあるとおもいます。あまり自分の利益になるわけでもないし、かならずしも自分に幸福をもたらすわけでもないけど、そういう制度の世界をつくったということが、なにはともあれ人間にとって【「人間にとって」に傍点】いちばん本質的【「本質的」に傍点】なことだとおもわれます。だから、常識的には”人間というのは社会に生きているのだから、集団のなかの人間ということをよくよく考えなくてはいけないんだ。そういうことを無視して、ただ利己的なことばかりやっているのはよくない”というふうにいわれたりしますが、そのいい方はまったく逆で、そんなものはなければないほうがいいということが根本にあるとおもうのです。
                ( P31−P32 )



A
 じっさいに、人間の生理過程だけをかんがえてみれば、そんなものはどこにもはいる余地がないので、たとえば感覚作用でもそうなんで、なにかものをみると、みたやつが眼の網膜に映って、それが網膜のうちに分布している神経刺激にかわり、それが脳の視覚中枢にいって、それがみえて”ああこれはなになにだな”とわかった、というようなことになるわけです。その過程だけをかんがえるてみると、自然過程以外のものはなにもはいっていないわけです。だけれどもぼくはこうだとおもうのです。つまり、自然過程しか人間の身体にはないのだけれども、自然過程自体として、矛盾を生みだしたときには、それは自然過程であるにもかかわらず<観念の過程>をかならず生みだしてしまうということです。つまり、自然過程がもし無矛盾に行われているならば、それは観念を形成しないとおもいます。なぜなら、人間の生理過程というのはぜんぶ自然過程だから、それが無矛盾であったら完全に<観念の世界>はつくらないわけだとおもうのです。
けれども、生理過程がその過程自体として矛盾を生みだしたときには、その矛盾はどういうふうにして解けるかというと<観念の世界>をつくりだすことによって解く以外に、はけ口はないのです。そういう意味で<観念の世界>ができてしまったということはたいへん必然であったとおもわれるわけです。
                ( P33−P34 )


項目抜粋
2

B
 ・・・・(中略)・・・・つまり自然の一部分として生活していればいいのに、自然の一部分のくせに自分の生理過程のなかに矛盾があるから<観念の世界>をちょっぴり生みだしてしまい、そして<観念の世界>と縁がない無機的な自然というものと対立してしまう。つまりなにかを生じてしまう。それは<醜悪な穢れ>でもなんでもいいですよ。それでつまり一種の<しこり>をつくってしまう。その<しこり>というものがきわまるところ、いろいろな制度、法、宗教に、等々になり、またタブーとなり観念的世界ができあがったということです。だけど、そんなことは本来しなくていいはずです。なぜなら、人間だって自然の一部分なのですから、自然の一部分が自然と対立するというのは、まったくナンセンスではないかということです。動物みたいにやっていればいいのに、とにかく生理過程として、なにはともあれ、<しこり>を生じたということから、自分も一部分であるその自然と自分が対立してしまう。そういうことが、人間の幸福のはじまりか不幸のはじまりか知らないけど、それがはじまりだとおもうのです。
つまりそれを、規範とか道徳とかのいちばん最初にあるものとみればいいわけです。あるいは宗教的なお祓いのはじめでもいいですよ。だから、ぼくなんかが根本的に大事におもっていることは、けっしてそんなことほんとうは幸福なことではないので、人間は個人として自由に生きられ自由にかんがえられ、そして不自由がなければいちばんいいのにもかかわらず、社会的にも集団的にも生きなくてはならないということになってしまったということです。最初から人間は社会的動物であるとか、人間は集団なしには生きられないといういい方は、ぼくは嘘だとおもっているわけですね。ほんとは、集団なしに生きられたらそのほうがいいんだ、という本質はつかまえる必要があるということです。
                ( P36−P37 )



C
 そんなものはなければないほうがいいのだという問題から、
つぎに派生する重要なことは、いったんつくってしまった以上【「以上」に傍点】は、ストレートにそこにいけないということだとおもいます。つまり、そこがものすごく、むずかしいところだとおもうのです。

 ・・・・(中略)・・・・つまり個人個人が悔い改めればそういくじゃないかとおもえるけれど、その認識の仕方はまちがいだとおもうのです。まちがいだというのは、いったんできてしまった以上は、ものすごくかんたんなようにみえて”ひとりひとりが悔い改めて一億人がそうすれば日本なんて全部天国だ”ということになりうるはずなのに、
いったんできてしまった以上は、ものすごい遠い廻り道をとても適確に通っていかないと”ポリバケツで当番でやれば、いいじゃないか”というところにはいかないということです。これがすごく重要だとおもいます。
 そこから、制度に対しては集団をとか、権力に対してはやはり力をという問題が過渡的にある状況のなかではでてきます。それが正確であるか否かはべつとして、そういう道を通らねばならぬということがありうるのです。つまり、わりあいに動物に近い生活に、できてしまった人間の世界をもう一度もっていくということは究極的にはものすごくむずかしいことです。人類が四千年かかってやっと到達したのはせいぜい資本主義という制度です。それは、一見自由そうで、勝手に能力があって儲けたいやつはいくらでも金が儲けられるし、儲けたやつは金をだせば何だって手にはいる。それはいいようにみえるけれど、こっちのほうをみると、あすどうやって食うか困っているやつがいるというふうになっていて、ちょっとそういうのは困るということです。
しかし、その制度をよしとしてくるまでに人類は少なくとも有史以来六千年ぐらいかかっているわけです。六千年かかって、人間の最高の智恵がうみだした最高の制度が、資本主義だということです。だから、資本主義というのは単に悪ばかりでできているのではなくて、やはり四千年なら四千年、六千年なら六千年の智恵が、そのなかにあることは確かです。つまり前代の封建時代に比べてよりよい智恵があることは確かなのです。だから、それでせいぜい四千年もかかって、つくりあげたものは何かといったら、資本主義だということで、これが人間が制度的にかんがえて最高のものだということです。それで、それをつくるのに四千年とにかくかかっているのだぜ、というようなことがあるでしょう。だから、そんな意味でいけば、みなひとりひとりが悔い改めれば、いっぺんにこの世は天国だというようなことをいったって、そんなにかんたんなことではないということ。かんたんなことではなくて、そうとうな迂回路を、しかもわりあいに正確に検討しながら通っていかないと、そこにはいけないという問題がやっぱりあります。だから、さっきいったように制度の世界、観念の世界をつくったなんていうのは、あまりいいことでも高級なことでもないんだということと、同じ意味から派生してくる第二の問題は、頭で空想している限りは、わりあいにたやすく到達できそうだけれど、そうはなかなかいかないという問題です。そこへいくためにやさしそうでもたいへんな迂回路を、一見するとまるで反対なような迂回路を通らなければ、どうしてもそこへはいけないというような問題があるということです。
                ( P38−P40 )


D
 ぼくらは批判されるばあい、いまでもそうですが、お前の考え方は反社会的であるとか、非社会的であるとか非集団的であるとか、そういう非難とか批判を、しこたま体験してきました。そのことはそれでいいとおもうのです。しかし、そういうふうに批判する人の
根本思想のなかに社会とか集団というものを絶対化して、つまり過渡的に迂回路を通る過程としてやむをえないのだという認識がなくて、これこそがほんとうに人間的なものだ、そして人間は集団的動物でありそれが本質なのだというような、そういう居直りで通しているばあいがおおいです。ぼくはそれは嘘だとおもう。それはまちがいなんで、そんな集団なんてものはなければないほうが、ずっといいにきまっています。<観念の世界>なんてものもなければないほうがよかったのだ。だけれど、そういうふうにつくっちゃって、その歴史を何千年も体験してきちゃっているのだからしようがないじゃないか。だから、はじめて人間は集団的にも機能しなければならないし、社会的存在でもあらねばならないということであって、そんなものは、なにも絶対化することはない。つまり、個人的に自由に個体として生きたいにもかかわらず、そういうものをやむをえずつくっちゃって、そして、ある歴史をへてきちゃった。だからこそ、人間は社会的であり、また集団的であるのだという認識が根本になくて、集団的人間こそが真実の人間だというような、そういう認識はおおいわけですが、ぼくはそれはまちがいであるとおもっています。絶対化したら官僚化するわけですし、だれかが権力を握り、だれかが落っこちるというような、だれかが経済力を握り、だれかが握らないというようなことがかならず起こるわけですから、あまり絶対化しないで、迂回路としてはやむをえないのだ、というような認識が根本にないと、ぼくはちょっとまずいとおもいます。
                ( P41−P42 )


備考 註.すごいことが、つまりほんとうに本質的なことが語られている。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
380 ナショナリスト 第一章 アメリカでの同時多発テロ事件を読み解く インタヴュー 超「戦争論」 上 アスキーコミュニケーションズ 2002.11.21

インタヴューアー 田近伸和

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国民国家 太平洋戦争の際の日本
項目抜粋
1
@ 石原慎太郎をはじめとするナショナリスト(国家主義者)たちもそうですし、小林よしのりなんかもそうですが、この人たちがダメなんじゃないかと思う点は、国民国家を固定的なものであり、恒久的なものであるかのように考えている点です。
 そういうふうに国民国家というものを固定的に考えているから、この人たちは、いつも「国家を守る」とか、「国家の威信を守る」とかいうことをよく口にするわけです。世界史の中で、国民国家がどういう発展過程を経て生まれてきて、今後、どういうふうに動いていくのか―国民国家というものは
歴史的存在にすぎず、けっして固定的なものではないということについての考察が、この人たちには不足しているんです。
 歴史的な変遷過程をたどれば、国民国家というものは、宗教とは切り離せない形で生まれてきました。人類が現段階で国民国家をもっているということは、人類が宗教をもっているということの成れの果てである、といってしまえば、その通りなんです。国民国家がもつ法律、つまり国法もそうです。国法も宗教とは切り離せない形で生まれてきました。国民国家や国法というものは、宗教とは切り離せない形でつながっているんです。
 
歴史的な移行の仕方としては、宗教と切り離すというふうにして、国民国家や国法というものをつくっていったということはいえても、現在、国民国家や国法が宗教を完全に払拭しえているかといえば、そうはなっていないんです。国民国家や国法は、宗教的な要素―宗教的な迷妄性を、依然として引きずっている面があるわけです。
 しかし、西欧的にいえば、国民国家というのは、端的にいえば政府を指すというふうになっていますし、歴史的な流れということでいえば、日本の国民もそういうふうな見方をする人が、今後だんだんと増えてくると思います。
 そして、文明の最も発達したヨーロッパにおいては、すでにEU(欧州連合)が生まれ、ユーロという形で通貨も統一されました。文明の最先端のところでは、国民国家はそういうふうにして、ゆるやかに国家を開いているというか、国家の解体に向かっている。それが、歴史的な大きな流れなんです。国民国家というのは、けっして恒久的なものじゃないんですよ。
                ( P237−P238 )


A そういう歴史の大きな流れというのは、数学でいえば、どこか公理のようなところがあって、今さら時間を逆向きにできないんです。宇宙はビッグバンにはじまり、膨張をし続けています。人間もまた宇宙の一部ですから、人間の存在とか思考とか、あるいは人間の歴史とかというのは、宇宙が膨張していく方向の中で変化し続けていくわけです。逆向きになるとか、それ以外の方向での変わり方はありえないわけですよ。
                ( P240 )

B 国民国家の指導者たちは、戦争をはじめれば、勝つか負ける負けるかはだいたい最初からわかっているわけです。でも、わかっていても、がまんができないということがあれば、戦争をやっちゃうということはあります。
 太平洋戦争の際の日本の指導者たちも、そうでした。アメリカは、満州国から日本軍は撤退し、満州国は中国に返還しろ、そして中国からも日本軍は撤退しろと迫ってきたわけです。それは明治以降の日本の近代の歩みをすべて無効にするような要求でした。
 なぜならば、満州国というのは日本にとっての防衛の第一ラインだったからです。当時、帝政末期のロシアが極東地区で領土をどんどん拡大していたのですが、中国には帝政ロシアに反撃する気持ちも力もなく、中国は帝政ロシアのいいなりになっていました。それで、日本としては、防衛の拠点を満州につくる必要があったわけです。日本は、満州国を防衛の第一ラインとし、中国との境を防衛の第二ラインとしました。
 その防衛ラインをすべて突破されたら、あとは日本海や日本本土での決戦しかないというふうに、当時の日本の首脳たちは考えていたんです。だから、アメリカの要求は、絶対に呑めない要求だったわけです。アメリカだって、自分たちの要求を日本は受け入れないということは知っていたと思います。つまり、自分たちがそういう要求を突きつければ、日本は必ず戦争をはじめるということがわかっていたと思います。
 日本の首脳たちにしても、アメリカと戦争をやれば負けるということはわかっていたと思いますが、アメリカの要求を呑むことは絶対にムリである、もう我慢ができないって、戦争をはじめちゃったわけです。
 でも、戦争をはじめたのは日本が武器をたくさんもっていたからであって、武器をもっていなければ、戦争はそもそもはじまらなかったということもいえるわけです。だから、そうした点からいっても、「戦争をしないですむための最高の用心は、周到きわまる戦争準備である」という福田和也の論理はおかしい、倒錯した論理である、ということになると思います。
                 ( P255−P256 )


C 福田和也だって、そうした経験をすれば、考え方が変わると思いますが、経験がないから、わからないわけです。福田和也にしろ、小林よしのりにしろ、「私」よりも「公」のほうが大事だというわけですが、そこには迷妄とウソがあるってことがわからないんですね。
 「公」のためだったら自分の生命を犠牲にしてもいいというのは、アフリカ的段階やアジア的専制制度の段階といった、歴史的に見れば、古い段階によく見られた考え方です。もっとも、今でも、アフリカとか、近代国家以前にとどまっているような地域では、そういう考え方が見られます。
 そういう段階や地域で、「公」のためだったら自分の生命を犠牲にしてもいいという考え方が見られるのは、ちっとも不思議じゃないわけですが、問題は、なぜ日本みたいな高度資本主義の段階に入った国家の中で、そういう考え方が、いまだに見られるのかということですね。
 結論からいえば、現在の日本にも、アフリカ的段階やアジア的専制制度の段階の名残があるからだ、ということになります。いまだに、伝統的にそういうものを引きづっているんですよ。戦後五〇年以上経っても、日本では、そういう伝統が息切れせずに続いているということです。福田和也や小林よしのりのような人たちは、そういう名残、伝統的な感覚に引きずられて、戦後五〇年以上経ったにもかかわらず、逆に、なんとなく元に戻ったみたいな気分になっているんじゃないかと思います。
                 ( P258−P259 )


項目抜粋
2




備考 註.





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
395 人間の理想形 X 老年を迎え、今、思うこと インタヴュー 吉本隆明「食」を語る 朝日新聞社 2005.3.30

聞き手 宇田川 悟

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項目抜粋
1
@ でも、同時に人間というのはなんなんだという理想形を言えば、これはもう、自分がそれをできているかどうかというのは置いておいて、お釈迦様の臨終のときに、猿とか四足の動物から昆虫にいたるまで、すべての生き物が集まってきて、悲しんで泣いたというのが伝説になっていますけれど、それが理想だと思うんです。僕は、動物がそんなことするわけねえじゃないか、伝説にすぎないよというふうに見ているわけではなくて、人間、そういうふうなものであったら大変な、いいもんだねと思っているわけです。俺が死ぬときは誰も来ねえだろうな、もしかしたら肉親も来ないだろうな、そういうものが死だというふうに自分では思っているわけです。ひとり生まれて、ひとり死ぬというのは、ほんとうだろうなと思う。でも理想形はお釈迦様だ、本来的に人間というのはそこまで行けばいいなあ、そういう食物連鎖を破るような伝説にかなうようになったら、人間、理想的だなというふうには思ってます。一種、人間というものの生存とか生活というか、理想形を言うとね。それはあんまり捨てたくない。じゃあおまえできているのかと言われたら、冗談じゃない、猫にひっかかれただけで怒っているようなありさまですけど。(笑)
                               (P240−P241)


項目抜粋
2
備考





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
401 人間にとっての最後の課題 第二部 社会
第二章 社会
インタビュー 老いの超え方 朝日新聞社 2006.5.30

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人間にとって最後の課題 左翼
項目
1
 ー国家というのは、医療と教育をどのように扱えばいいのでしょうか。

@ 医療と教育に対して、
金を出したいなら黙って出せばいい。つまり、代償を求めるようなことは絶対しないで出しなさい。そこまでできたら、世界国家が形成されて、今まで民族国家でやってきたそれを超えられる、それは最後の問題で今の問題ではない。でも、最後に民族国家が解消して、世界国家になるときはそうですね。

 ー代償を求めるなという場合の代償というのは、例えばどういうものでしょう。

A それは法的な問題でもいいですよ。お金を出す代わりに、何月何日には必ず来ることとか、病気であっても代理人が出頭してお金を取りに来ることとか、そういうのは一例ですが、そういうことは法律的な規定による代償です。そんなことも一切やめろ、そんなことは要らない。ただ足りない人には保険で補ってくれるなら、それは黙ってしろということです。たいていいろいろなかたちで代償を求めてやります。ユートピアでも考えていない限りは、必ず法律的にか行政的にか代償を求めます。
                         (P149−P150)
項目
2
 ー先ほどの、お部屋の中を強制的にいじって、吉本さんにとって一番いいかたちではないことを画一的に押し付けられるということですね。(註 病院でのこと)

B そうです。それにいいことをしているという意識が加わったら、これは嫌ですよ。むしろ構わないでくれと言いたくなるほど負担になります。だから、僕は人間というのはぜいたくなものだと思うんです。悪いことをされても負担になるし(笑)。あまり善意でいいことをされても。


 ーそれは、人間にとって最後の課題というふうにお考えなのですね。吉本さんの見通しとしては実現されるとお考えでしょうか。

C 実現されると思っています。それを捨てたら、僕は左翼でなくなってしまう。自分では左翼だと思っていますから、そうでなければ、素直に現状を受け入れて生きていけ、自分で食べられるだけ稼いでそれでいいじゃないかという考え方になりますね。それだと、別に何も社会的な問題について考えたりする必要はありませんから。

                         (P152)

 ー吉本さんが最後まで捨てたくない、代償を求めるなというビジョン、それは可能意識と言い換えてもいいのでしょうけれども、可能意識をもつことが人間の価値を保証する最後の拠点だということでしょうか。

D 少なくとも社会的人間としては。それは非常に重要なことです。社会的人間と個人的人間というのは、同じ一人の人が二重に持っているわけです。それは初めは分離ができていない。分離ができていないというのは、思想問題だからいいけれども、生態的な問題だとすれば、動物と人間の違いぐらい違います。それが分離できていなければ動物です。身体性・運動性はいいでしょうけれども、ほかのことは動物と同じになってしまう。でも、分離しているから人間だ、自分の理念として分離しているとそれがよく分かるとか、幅が広がったとか、そういうことが分かります。そうすると、対応の仕方が違いますから。
                         (P155)

備考 D 人間の三つの幻想領域との関わりは?





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
405 入院中のメモ 内省記 溺死事故始末 新死の位相学 春秋社 1997.8.30

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無償ということの重要さ 超西欧的な視点
項目
1
      「入院中のメモ」
 八月十三日(火)(註・日医大病院入院は八月八日)

@好意の 他人の善意や大小や軽重を、不意の事故のときの反応で決めたりするのは、独りよがりで、そうしてくれた人にすまない下卑た心の動きの気がする。しかしじかに見舞の便りや行動で、心配の気持をあらわしてくれたことは、悪意の反応に出たものでないことだけは確かだ。こんな言い方に含まれた傲慢さを打ち消したくていうのだが、
わたし自身がある契機から、知人、友人の不幸の契機に立ち会うことを諦めたので、自己弁護したかっただけだというべきだろうか。・・・・・・の人々に幸いあれ。

漱石が修善寺の大患のことにふれて、じぶんはこの世間を全部敵のようにみなす嶮しい気持で生活してきたが、世間はじぶんがかんがえているほど嶮しくも、敵対的でもなく、善意な温いところかも知れないと思いなおしたといった意味のことを述べている。この偉大な文学者を連想に連れ出すのはおこがましいが、「伊豆」ということから修善寺がうかんだので、敢えて言わしてもらうと、わたしもこん度の溺死の体験で、肉親、近親から知人、未知の読者の反応の感じから、おなじことを言いたい気持がしないではない。しかしそう言ってしまえば、世間というのはひどいもんだと、身を固くして抗ってきた度々の、あまりひとには言えないじぶんの敵対感に済まない気がする。だから言わないことにする。だがこれを言わないとひどく心が痛むことも確かだ。(善意、悪意の表出された雰囲気には幾段階がある)
無償ということの重要さ。

                         (P5−P6)
項目
2
 九月四日(水)

A (カッコに入れる。イラクのクルト族内部対立への軍事介入。アメリカによるイラク軍事基地へのミサイル攻撃の報をテレビで)

(どんな後進国も超西欧的な視点にたって、西欧、東欧、アメリカはもちろん、自国を含めた後進地域の全体を俯瞰することができる視点をもたないかぎり、先進国に屈服するか先進国に追いつこうとするか以外に、生き延びる方法はない。これは近代日本の歩みが与える負の教訓だ。近代の日本国は西欧追従の道を必然的に択び、この世紀末にやっと欧米に経済の技術だけは追いついた。その近代の経路は日本国の知識人に超西欧的な想像の視点など考えてみたこともない素因を与えた。そうでないばあいは、単に後進国ナショナリズムのとりこにすぎない。)

                         (P18)
備考 註 @ 反核問題などによる?











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