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447 論理の中の統一イメージ1
479 老人は寂しいのです
495 歴史認識の方法      
     







項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
447 論理の中の統一イメージ1 ろんりのなかのとういついめーじ 「共同幻想論」の序 論文 吉本隆明全集10 晶文社 2015.9.25

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統一する視点 全幻想領域の問題 前提 論理の抽象度
項目
1

@
 だんだんこういうことがわかってきたということがあると思うんです。それは、いままで、文学理論は文学理論だ、政治思想は政治思想だ、経済学は経済学だ、そういうように、自分の中で一つの違った範疇の問題として見えてきた問題があるでしょう。特に表現の問題でいえば、政治的な表現もあり、思想的な表現もあり、芸術的な表現もあるというふうに、個々ばらばらに見えていた問題が、大体統一的に見えるようになったということがあると思うんです。
 その
統一する視点はなにかといいますと、すべて基本的には幻想領域であるということだと思うんです。
 (『吉本隆明全集10』「共同幻想論」の序 P273 晶文社)


 つまり
そういう軸の内部構造と、表現された構造と、三つの軸(引用者註.自己幻想、対幻想、共同幻想のこと)の相互関係がどうなっているか、そういうことを解明していけば、全幻想領域の問題というものは解きうるわけだ、つまり解明できるはずだというふうになると思うんです。そういうふうに統一的にといいますか、ずっと全体の関連が見えるようになって、その一つとして、たとえば、自分がいままでやってきた文学理論の問題というのは、自己幻想の内的構造と表現の問題だったなというふうに、あらためて見られるところがあるわけです。そして、たとえば世の人々が家族論とか男女のセックスの問題とか、そういうふうにいっていた問題というのは、これは対幻想のもんだいなんだというふうにあらためて把握できる。それから一般に、政治とか国家とか、法律とか、あるいは宗教でもいいんですけれども、そういうふうにいわれてきた問題というものは、これは共同幻想の問題なんだなというふうに包括的につかめるところができてきた。だから、それらは相互関係と内部構造とをはっきりさせていけばいいわけなんだ、そういうことが問題なんだ、こんどは問題意識がそういうふうになってきます。
 そうすると、お前の考えは非常にヘーゲル的ではないかという批判があると思います。しかし僕には前提がある。そういう幻想領域を扱うときには、幻想領域を幻想領域の内部構造として扱う場合には、下部構造、経済的な諸範疇というものは大体しりぞけることができるんだ、そういう前提があるんです。しりぞけるということは、無視するということではないんです。ある程度までしりぞけることができる。
しりぞけますと、ある一つの反映とか模写じゃなくて、ある構造を介して幻想の問題に関係してくるというところまでしりぞけることができるという前提があるんです。
 (同上 P274-P275)


A
 それではなぜそういう欠陥が出てきたかといいますと、そういう人たちはおそらく論理性あるいは法則性というものの抽象性のレベルというものに対する理解がないんだと思うんです。つまり、現実の生産社会、技術の発展というものがあるでしょう、それを一つの論理的な法則、あるいは一つの論理の筋道がたどれるものとして理解する場合には、すでにある段階の抽象度が入りこんでいると思うんです。経済学でもそうだと思うんです。経済学でも、あるがままの現実の生産の学ではないのです。それは論理のある抽象度をもっているわけです。その位相というものがある。つまり水準というものがあるわけで、それがどういう水準にあるかということをよくつかまえることができないで、あるがままの現実の動き、あるいは技術の発展とか、また言語のばあいでもいいですよ、そういうものがなにか
論理の抽象度というものとしばしば混同されてごっちゃになって考えが展開されるから、そこのところでひどい混乱が生まれてきてしまうということがあると思うんですよ。やっぱり全論理性というものの中でも、その抽象度というもの、あるいは抽象の水準というものをはっきりとつかまえて論理を展開していかないと、非常に簡単な未来像が描かれてしまったり、技術の発展に伴って非常に楽天的な社会ができてしまうんだというような考え方になっていってしまうけれども、それはおそらく論理の抽象度のある混同というものがあると思うんです。あるいはそれの把握しそこないがあると思います。
 (同上 P279)


B
 わたしがここで提出したかったのは、人間のうみだす共同幻想のさまざまな態様が、どのようにして綜合的な視野のうちに包括されるかについてのあらたな方法であるそしてこの意味ではわたしの試みはたれをも失望させないはずである。なぜならわたしのまえにわたし以外の人物によってこのような試みがなされたことはなかったからである。ただこのような試みにどんな切実な現代的な意義があるのかについてはひとびとのいうのにまかせたいとおもう。
 (同上 P284)


備考
 (備 考)

これが最初の論理の中の統一イメージだと思われる。次に、晩年近くの『ハイ・イメージ論辺りで、『言語にとって美とはなにか』、『共同幻想論』、『心的現象論(序説)』を統一的に捉える視座やイメージが視線論や像論として語られていたとわたしは記憶している。

関連事項として、項目20〜26。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
479 老人は寂しいのです 「老人は死を前提とした絶対的な寂しさを持つ」 インタビュー 『ロング・ターム・ケア』第55号2007年7月 『吉本隆明資料集171』 猫々堂 2017.11.30


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絶対的な寂しさ 死に対する寂しさ 親鸞の死の考え方
項目
1

@
 老人は寂しいのです。老人は特に何も言いませんが、寂しさが一番応えます。うちの近くの巣鴨に行けば老人がたくさんいますので、老人同士の交流もできます。また、孫との交流ですね。それで寂しさが紛らわせます。
その寂しさは絶対的な寂しさです。それは、死に対する寂しさだと思います。後どのくらい生きられるかということが頭に浮かぶと、それが寂しさにつながります。ですから、それを防ぐためには考えないことが一番よいのです。そういうことができた宗教家は日本で歴史上一人しかいないと思っています。それは浄土真宗の開祖である親鸞(一一七三〜一二六三)です。
 親鸞は老人の心情をよく理解しています。死は個人のものではないと言っています。なぜならば、いつ、どんな病気でどこで誰が死ぬかということはまったくわかりません。これは、いくら医学が発達しようがわかりません。
わからないことをいくら考えてもしょうがないことです。死は自分のものでもない、お医者さんのものでもありません。
 (「老人は死を前提とした絶対的な寂しさを持つ」P57-P58『ロング・ターム・ケア』第55号2007年7月 『吉本隆明資料集171』猫々堂)

備考
 (備 考)

そう言われれば、なるほどそうかと思う。この吉本さんの老人の内側からの言葉は、ほんとうは実感としては自分も老人の仲間入りをしないとわからないのかもしれない。内在的な体験ではなく理屈としてわかることと体験して実感としてわかることとはずいぶん違うからである。

自分がこの世にいることのふしぎや自分がこの世からいなくなることの不安や恐れは、一般に家族から精神的に独り立ちし始める思春期にも一度訪れてくる。そうすると老年期のそれは二度目であるが、しかももう逃げ場のない絶対的なものとして訪れてくるのだろうという気がする。

この問題を一般性として捉えると、他者理解の難しさということになる。他人が今どんな事情を抱えているかは、親しい知り合いでもよくわからないところがある。その抱えている事情の深みまではそのこと自体を相手から相談されない限りはよくわからないし、よくつかむことはできないように思われる。人は互いに手を差し出し合うということがありつつも、中心ではひとりという孤独の中を生きる存在なのだろう。

一般性としてのもうひとつは、どんなに考えても仕方がないことですと言われても、かつ、その他人の言に納得したとしても、人はどうしてもそのことに心や意識がとらわれ、思い悩んでしまうということがある。ここには人の性格的なものも関わっている。このようなことの最上級が「死」に関することだろうと思われる。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
495 歴史認識の方法 『母型論』の「序」ほか1995年11月 論文 『母型論』 学研 1995.11

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察知される 歴史という概念
項目
1

@
 想像力が未来を志向する能力は、過去に遡行しうる能力と正確に比例するという仮定は、わたしにはもっとも魅力ある仮定のひとつである。これは一般に歴史が現在の立場と情況に到達する仕方を、もっともよく象徴しているからだ。
 (「〈初期〉ということ〈歌謡〉ということ」P439『吉本隆明全集14』)
「〈初期〉ということ〈歌謡〉ということ」初出は、「週刊読書人」1977年8月1日


A
 おまえは何をしようとして、どこで行きどまっているかと問われたら、ひとつだけ言葉にできる
ほど了解していることがある。わたしがじぶんの認識の段階を、現在よりももっと開いていこうとしている文化と文明のさまざまな姿は、段階からの上方への離脱が同時に下方への離脱と同一になっている方法でなくてはならないということだ。
 わたしがいまじぶんの認識の段階をアジア的な帯域に設定したと仮定する。するとわたしが西欧的な認識を得ようとすることは、同時にアフリカ的な認識を得ようとする方法と同一になっていなければならない。またわたしがじぶんの認識の段階を西欧的な帯域に設定しているとすれば、超現代的な世界認識へ向かう方法は、同時にアジア的な認識を獲得することと同じことを意味する方法でなくてはならない。
どうしてその方法が獲得されうるのかは、じぶんの認識の段階からの離脱と解体の普遍性の感覚によって察知されるといっておくより仕方がない。
 (「序」『母型論』1995年11月)


B
 マルクスのように資本主義を分析して、それを主体に未来を考えるんじゃなくて、また、構造人類学のように、人類の歴史は原始の頃から始まるのだから、そこを厳密に明らかにして加味しない限りマルクスの考え方は駄目だと考えるんじゃなくて、原始未開の時代を考えることのウエイトと、現在から未来を考えることのウエイトは同じなんだという方法が欲しいわけです。そういう方法があるとしたら、それが重要だと思うんです。たとえばレヴィ・ストロースのように、マルクスの方法を補って修正するというやり方でいいのかと言えば、僕はそうじゃないと思います。両方が同じウエイトだという方法が見つからなければ、本当の意味での修正にはあまり役に立たないんじゃないか、と僕は原則的には思っています。
 違う言い方をすれば、現存する日本の社会は、西欧的な社会であるとか、あるいはアジア的な社会に西欧的な社会の問題が混淆しているとか、西欧的な社会という構造のなかに原始未開の社会、アフリカ的な社会の構造を引きずっているとか、いろいろ言えると思いますが、現存する日本が、国家的にも、社会的・制度的・人種的にも、アフリカ的世界を含んでいるとしたら、それを徹底的に追求していくことが、日本のこれから先の問題を導いていくことと同じでなければ駄目だということです。
 
過去や歴史的現在を考える考察と、現在的歴史と言いましょうか、現在から先の歴史を考える考え方が違う方法であったら意味がない。それだったら従来通りに対立する考えで終始するしかないと思いますから、歴史をさかのぼって追求することと、歴史を現在から未来への問題として追求する方法が同じでなければ、歴史はという概念自体が成り立たないと僕らは原則的に考えているわけです。僕らがいたずらに「日本語以前の日本語」と言っているのは、それをはっきりさせる方法がないと、これから後の問題は本当はよくわからないんじゃないかという感じ方が実感的にあるからなんですね。
 (『吉本隆明 戦後五〇年を語る』99 週刊 読書人 1998年1月9日号)
 ※聞き手 山本哲士・高橋順一・内田隆三











 (備 考)

この項目は、わたしが十分にわかったと言えないで、ときおり反芻している項目である。何となくはわかるような気はしている。引用文の年代から、これも吉本さんがずっと考え続けてきた課題だということがわかる。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日

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項目
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備考






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日

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備考























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