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ID 項目 ID 項目
411 社会と国家の三類型
413 自由な意志力
415 宗教
418 宗教とは何か
419 存在倫理
421 思想
422 思想家の条件
423 世界性
426 絶対
430 自己としての自己と社会としての自己










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411 社会と国家の三類型 さんるいけい 第三章
 国家と社会の寓話
論文 中学生のための社会科 市井文学
2005.3.1

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基本の類型はなぜ単純なものになるのだろうか 理由と条件
項目
1
@ 「国家」と「社会」の関わり方は、世界の地域民族まで触れると世界中のあらゆる「国家」や風土、政治制度などによって全部違っている。けれどここでは三つの類型に触れれば、おおよそ世界中のどこでもその三つの類型のどれかに入れることができ、細部をつけ加えればどんな「国家」と「社会」の関係にも当てはめることができるとおもう。

     第一類型

 住民は無意識のうちに「国家」というものは「社会」やそこで日常生活を送っている人々をすっぽりと覆いつくしているものとみなしている。日本「国家」を例にとれば、日本「国家」というのは日本人を中心に集まっている日本「社会」やそのなかに住んでいる日本人も、耕している土地も日常生活を営んでいる地面もすべてそこに含まれている施設も含んでいるものと考えている。

 だから「国家」という概念を二種類に使い分けるような「国家」観は、日本「国家」が近代になってはじめて生み出されることになった。


     第二類型

 この類型は西欧の先進国が典型であるといってよいが、「国家」といえば「政府」およびその実務機関である諸官省庁だけを指し、「社会」はその下にあって人々が日常の生活を営んでいる場所で、はっきりと「国家」とは別のものであると考えられている。
 言い換えれば「社会」は「国家」の下に「国家」とは別に人々が日常の生活を具体的に営んでいる場所だとみなされている。よほど特殊な場合でないと、「国家」が「社会」もそこに生活している人々も諸施設も住んでいる土地もすべて包括しているものを指すとは考えられていない。別言すれば、第二類型では「国家」イコール「政府」、その実務を司る諸官省庁のことであり、第一類型のように「国家」イコール「社会」、そのなかの人々、諸施設、地面もすべて含むものとはみなされていない。


 この第一類型の「国家」観と第二類型の「国家」観は、非常のとき(例えば戦争のような)の「国家」行動では恐ろしいほどの相違となって表れる。
 第一類型の「国家」では「国家」のために「滅私」の奉公をすることは最高の美徳とされる。そして「滅私」でないものは恥辱として排されるという考え方は、日本では太平洋戦争まで実行されていた。これに背く考え方は、「国家」の機関である軍隊でも村落の共同体でも「村八分」の扱いを受けた。
 第二類型の「国家」では単に社会人が個人として勇壮かそうでないかの口実にされたかもしれないが、「国家」や「社会」が個々の社会人の行為の如何を排斥や美徳の問題に置き換えることは、まず少なかった。なぜなら「国家」とは政治支配権や決定権をもつ場合でも、「社会」とは切り離されたものとみなされているからである。


     第三類型

 ここで「社会」と「国家」との関係について第三の類型ともいうべきものに少しだけ言及しておく。それは「国家」と呼びながら「国家」としての明確な輪郭をもたず、「社会」と呼ばれていても「社会」としての明確な輪郭をもたない関係だというのが共通点だといっていい。近代の民族国家が成立する以前の時代には、どこでも大なり小なりそうだった。
 例えば原始時代の「社会」を例にとれば説明しやすい。そこではまだ「国家」と「社会」とはそれぞれ明確な輪郭をもっていない。また明確に分離もしていない。「国家」と「社会」がはっきりした境界をもたないで、総体として一つの共同体になっているイメージを思い浮かべると理解しやすい。

 「国家」的部分はやがて政治、軍事的な「国家」に、「社会」的部分はやがて日常生活を主体とする「社会」に分離してゆく。機能としても政治や軍事を司る長老会議から政府へと発展する部分と、成員が日常生活を営む「社会」的な部分とに分離してゆく。村落の共同体があって上層に村の長老たちの集まりがあって、それが村の運営や方針を決定すると、村人たちはそれに従って行動したり、義務をもたされたり、規則や懲罰や禁止事項を守らされたりしている。
 この状態が発達してゆくと長老会議が政府の役割をもつようになり、村人たちはそれに従属する一般社会人というまとまりや共通性をもつようになる。もっと発達すると単に年齢の多い者が長老として威力をもつ年齢階程的ななものが壊れて、富をもつ者や能力とか強制力とかを巧みに行使したり人をまとめて従属させることが得意な者とかが、長老たちに取って代わるようになる。また暴力の強い者が威力を増して長老に代わる。
 これが極まれば宗教的な威力も加わって王様と直属の配下が村落共同体やその連合を支配し、村人たちは服従するようになる。つまり王権とその直属の配下が支配する集団として、一般の村落民やその連合した社会を支配下に治めるようになる。
 ここまでくれば王権と直属の配下が「国家」(政府)を作り、村落社会やその連合体がその下に「社会」を作り、先述の第二類型の民族「国家」に成長してゆく。「国家」の部分が輪郭をはっきりもっても、裾野のように「社会」を包み込むような共同体の性格を拡げて存在していると第一類型の民族「国家」に成長する。「国家」と「社会」とが明確な輪郭をもたず、まだ分離していない部分をたくさん残したところでは全体が一つの共同体で、その上層が支配する部分、その下層が従属する部分で、共同体が「国家」の役割をしたり「社会」の機能をもったりというあいまいな部分を多く残したまま民族「国家」にまで成長する。そうすると第一類型の「国家」になるといえよう。
 このことからいえるように、現在でも民族「国家」にまで成長していない未開、原始の地域では「国家」、「社会」などと
呼ぶよりも「共同体」と呼ぶ方がふさわしいような第三類型も地球上には存在している。
 
けれどわたしがいちばん誤解して欲しくないことは、第一、第二、第三の類型に分けた方が考えやすいところがあったとしても、これらは価値の上下や善悪の区分けとは一切関係がないということだ
                         (P109−P122)

項目
2

A 「国家」「社会」の関わり方は、二、三の類型に分けられるような形で現在の民族「国家」まで展開してきた。もちろん細部にわたれば、それぞれの「国家」と「社会」の関わり方は千差万別で、これらの類型は基本線を語っているだけだ。この単純な基本の類型はなぜ単純なものになるのだろうか。たくさん理由と条件が数えられるが、ここで大切なものを少しだけ挙げてみる。

@人間はもともと「社会」的な生き物だから集団を作りそれを発展させてきた。

A人間はほかの生き物(例えば猿の集団)のように単数または少数の強大な首長の下に家族も単独のものも集団としてまと  まってゆく生き物である。

B人間は個別的に生きることを好む生き物だが、仕方なしに(不可避的に)集団を作りそれを発展させることになってしまっ   た。


 わたしたちは動物の種としての本質を現在まではっきりと解明し得ていないから、この三つのうちどれが「国家」や「社会」を現在の類型にまで展開させたのか、確かにいうことはできない。さしあたっては、この三つの要因の全部が部分的に当てはまりそれぞれの要因が混じり合い、その要因の大小によってさまざまな「国家」や「社会」を少数の類型に帰することができると考えおくのが穏当だとしよう。
 人間は「社会」的な動物として、言い換えれば「社会」で日常生活をしている限りは、人種や「社会」の発達の度合いが違っていてもすぐに仲よくなれる存在だが、「国家」が介入してくるとなかなか親和力をもち得ないで、対立したり戦争をしたり、争いを繰り返して、未だそこから脱出できないでいる。これが歴史の実状で、心ある人々が現在でもどうすれば「国家」と他の「国家」のあいだに戦争とか争いとかが起こらないようにし得るかを探求しているのである。

                         (P123−P126)


備考 註 Aについて、データベース項目関連 57,58
   他に、DBNo364など(『マルクス―読みかえの方法』)西荻南教会・講演





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413 自由な意志力 じゆうないしりょく 第三章
 国家と社会の寓話
論文 中学生のための社会科 市井文学
2005.3.1

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個人の「自由な意志力」の集まりだけを「社会」の公共性というべき
項目
1
@ 資本主義、社会主義いずれにおいてもそうだが、優等者は劣等者よりも上位だという共通した二十世紀の精神秩序が作り上げられてしまった。また「国家」や「社会」の公共性が私的な権限や事情と矛盾するとき、集団的な公共性の方が優先するという大小の権益順序がひとりでにでき上がってしまった。ファシズム、ロシア=マルクス主義、資本優先主義が、まるで競い合うようにこんな秩序を仕上げていったといえる。「国家」や「社会」や「産業」の利益は個人の私的な利益に優るという概念はまるで普遍性でもあるかのように流布されていった。また「国家」や「社会」の営業と私的(民間的)な企業経営とが矛盾するときは、国営、公営の方が優先するという理念を作り上げていった。
 順序の論理からすればこの順序は逆だというべきだ。
公共性、集団性、大秩序は個人の私的な「自由な意志力」(この「自由な意志力」の意味することは後ほど説明する)の総和の意味をもつときだけ成り立つ。個人の「自由な意志力」が減殺される場合には、公共性、集団性、大秩序は成立しないとみるべきものだ。二十世紀の歴史が問題性、教訓性、倫理性について未来へ残るとすれば、それが最大の点だ。
 戦争、革命、産業が西欧キリスト教の倫理と合致する限りにおいて、「国家」、「社会」、「産業」は個人を超えて拡大してゆく場面ばかりに遭遇したのが二十世紀最大の特色であり、人間の精神もまたそのように順序づけられた。キリスト教的な倫理もやむなくそれを是認して、真の倫理は精神の内部の誰にもその存在の姿が伝わらないような内奥に生きる場所を見つけるほかないところに追い込まれた。「国家」、「社会」、「企業集団」は外部からこれを助長した。

A これは人間が利己心を捨て得ない存在で、「聖書」のいうように「神」だけにしか私的利害の問題を放棄できないからだろうか。これが二千年前も、二千年後の現在も「社会」が孕んでいる疑問である。
わたしが現在いえることは、個人の「自由な意志力」の集まりだけを「社会」の公共性というべきで、そのほかが「国家」とか「社会」とか「公共機関」と偽証することを許すべきでないということだけだ。
                         (P155−P159)

項目
2
  (註 島尾敏雄の体験、自分の勤労動員の体験の紹介の後 )

B 統率力のある指導者というのはファシズムであっても、ロシア=マルクス主義であってもダメな人物であるといっていい。そしてわたしたちが学生どうしでこの暗黙の相互理解に達したとき、軍国主義の命令に従いながら、確かにファシズムとロシア=マルクス主義を超えたということを信じて疑わない。「自由な意志力」以外のもので人間を従わせることができると妄想するすべての思想理念はダメだ。これはかなりの年月、本当は利己心に過ぎない「国家」「社会」「公共のため」の名目のもとに強制された経験と実感の果てに、わたしなどの世代が獲得した結論だといっていい。わたしはこれ以上の倫理的な判断に出会ったことがない。
                         (P163−P164)
備考




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415 宗教 しゅうきょう まえがき 還りのことば 雲母書房゙ 2006.5.1

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宗教というのは人間(人類)の精神的活動の始源になったものだ
宗教というのは人間(人類)の精神的活動の始源になったものだ。これは様々な形をとって現在(二〇〇六年)まで至っているが、大別すればその変遷は二つにわかれるといえよう。ひとつは外形を著しく変化させて倫理道徳になったり、さらに法律になったり、民族国家やその下の日常的な生活社会になったりして現在に至っている。もうひとつの精神活動は外形は宗教の形をとりながら、キリスト教、仏教、イスラム教、ヒンズー教、儒教や神道など、地域種族のちがいによって、さまざまな宗教を生み出している。また宗教の内部でもさまざまな宗派の別を生み出している。また宗教と政治の中間で区別しにくいことになっていたり、宗教と国家や法律が区別しにくい地域も種族もある。けれど古代・原始・未開の時代までさかのぼれば、その始まりは人間(人類)の精神的活動の営みだった。科学者や唯物論者にも宗教的な奥底がのこっていたり、宗教家でも迷信を信じていない面もある。ここから多様な問題が噴出するが、わたしがここで云いたいことはひとつだ。それは人間(人類)の精神的活動の始源としての宗教の意味を、政治権力や社会権力をもって禁圧するのは誤りであり、また不可能であり、自分で自分の首をしめているのとおなじことだ。ただ相互批判が自由だというだけだ。また何が信じられようと、権力によって人間の精神活動の始源性を断ち切るのでなければ自由だと言える。これは世界の多くの政治権力が宗教に対して失敗していることだ。
                         (P2−P3)

A わたしは信仰がないから形態的僧俗にことさら関心をもっていない。けれど人間の精神活動の始源としての宗教という意味への考察は持続している。それにもかかわらず、宗教家自体は衰弱を加えるばかりのように思える。現在の状況では、宗教家が宗教を解体できる言葉で考え、現在にこだわる思想が精神活動の人類的な始源に対する考察を深めてゆくことで、接点を明確にするよりほかに方法がないと思える。一言「まえがき」をはっきりさせておきたい。
                         (P4−P5)
項目
2
備考 註 十万年、数百万年への遡行する言葉から、繰り出されていると思われる。猿から人間へつなげてみたいという。




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418 宗教とは何か しゅうきょうとはなにか @ 還相の視座から インタヴュー 還りのことば 雲母書房゙ 2006.5.1

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『アフリカ的段階について』を書いたときのモチーフのひとつ 宗教の段階と地域特殊性 <段階>というのはどうやって区別するのか
項目
1
@ アメリカがテロでやられた。この出来事をめぐって、キリスト教徒イスラム教では宗教的なかんがえ方が違うからだという人がいます。しかしぼくはそうではないとおもいます。これは「宗教とは何なんだ」という問題なんです。
 確かにキリスト教徒イスラム教、あるいはキリスト教徒仏教でいくらでももいいわけですが、ふたつは全然違うんだということができる。なるほど半分は地域も違うし、信仰している種族も違う。国家の現状も違う。違うということをいいたいなら、違う面を拾上げることができる。
 だけどそれはヨーロッパ人の観点です。われわれから見れば、全然違うというかんがえ方と、引きずっている段階が少しだけ違っているだけだというかんがえ方と両面がありますね。つまりアメリカも、いまのイスラム教が主張している特徴を一部は通過して現在に至っているところがあるわけです。段階の名残りが違うだけなのです。半分はそういうふうにいい返すことができるし、いい返したほうがいいのではないか。
 こういうかんがえ方をとると、宗教というのはかたちが変わる部分と、かたちは変わらないけど段階が変わる部分とがあることになります。宗教一般、信仰一般というのはかたちが変わるとどうなっていくのかというと、宗教のある部分を法律的なものが代表するようになってくるんです。さらにそれをもう少しつめると、法律のある部分は民族国家や国民国家が代表するようになります。

A マルクスのように経済的な構図だけをいえば、国民国家とはアメリカのいうグローバリズムみたいなもので、みんな同じようなものなんですね。資本主義化していって、同じようなものじゃないかというふうになるわけです。ぼくは世界性というのはこれを追いかけるようにして実現していくとかんがえていました。つまりみな同じようなものなら国民国家、近代国家が解体して世界性へ向かうだろうとかんがえていました。ところがそうならない。国民国家、近代国家というのは、なかなか強固なもんだねという感じですね。
 ではどうして強固七日としきりにかんがえたことがあります。やはり宗教のかたちが変わったものとして国民国家、近代国家はわりと最終的な形態じゃないかとおもいます。
 経済的な世界性が普遍的に影響して、そのあとを追いかけて、「世界はひとつ」というふうなことがいえるはずなのです。しかし一国の国家というのは経済的にグローバリズムでは解体しない。マルクスは「国家、民族というのは経済制度さえ変えれば徐々に、急激に変わるんだ」というけど、そうわいかないよと実感的におもうわけです。「なかなかよくならないですよ」ということになる。これが前は不思議でしょうがなかったんです。
 やはり宗教がかたちが変えながら最終段階のところに到達しているということでしょうか。宗教は人間の精神の深くに食い込んでいて強固だから、経済のように歩みは早くないんです。
 

B 宗教のかたちがどこから変わるかというと、強固なところからだろうとおもいます。戒律的な部分が変わって、法律なら法律というかたちになるとか、法律よりももっと強固で根本的なかたちというのは、民族国家として残っていまに至っています。これは宗教が地域性と不可分であったこととかかわりがあるのでしょう。
 これに対してマルクス流にいえば、経済だけが普遍性かつ唯物的にできるんだということになりますが、それはちょっと違うのではないか。政治としての国家ではなく宗教としての国家というのは、そう簡単に経済制度が変われば変わっていくというようになものではないとおもいます。
                         (P38−P41)

項目
2
C ヘーゲルがいうように、文明というか道具の発達変化で人類の歴史を段階づけてしまっては、あまりに進歩史観的すぎて無惨ではないか。このことに対してマルクスは原始と古代社会との中間に<アジア的社会>というのを入れるべきではないかと主張し、歴史的に修正しようとしたわけです。しかし入れたからといって修正したということにはならないんですね。地域的にどう変化するかということが抜けているのが、マルクスの根本的な欠陥ではないかとおもっています。
 単に<アジア的段階>のようなものを原始と古代の間にかんがえるというのは、ヨーロッパから見ればいかにもごもっともだとおもいますけど、そのごもっとも性はここ一、二年になってだめだということが相当はっきりしてきました。やはり一種の進歩史観ですからね。
 ブッシュの見方もそうです。キリスト教徒イスラム教が違うのだったら、ほんとうは地域が宗教にどういう影響を与えるかについてかんがえなければいけないんです。「地域的特殊性がまるで違うんだ」ということ。でもマルクスは本気でかんがえずに、とりあえずアジア的と入れとけというくらいでかんがえを止めています。これは少し違うのではないかという感じをぼくは持っています。
 ぼくが『アフリカ的段階について』(春秋社)という本のなかでかんがえたのはこういうことだったのです。要するに宗教は宗教としてというふうに<段階>を歴史的にかんがえると、イスラム教徒がもっているものとキリスト教徒がもっているものとが、地域として引きずっているものとして残っている。だけどこの地域特殊性が宗教にもたらしている違いを明らかにしてしまえば、宗教自体としては見かけほど違うものではないということがいえるとおもいます。これをちゃんとかんがえないとだめだというのが、ぼくが
『アフリカ的段階について』を書いたときのモチーフのひとつでした。

D もうひとつは、ヘーゲルのいう未開野蛮の時代と現代とでは何が違うのかとかんがえていった場合、<死>ということに引っかかってくるわけです。
 
<段階>というのはどうやって区別するのかといったとき、生死の<死>をどうやってできるだけ普遍的にかんがえるのか。段階の違いを入れてかんがえるべきではないかとおもう。ぼくらが知っている段階でいえば、原始未開野蛮の時代には自由主義みたいなものがあって、天然自然は精神的威力をもってすれば変わってしまうのだというぐらいにかんがえていた。それが日本にも残っていて、たとえば奈良地方の雨乞いというのがそうです。あれは人間が祈ると天然自然は変わるよというかんがえを根本に引きずっている。これは宗教としたら現代とは段階が違う。
 ヘーゲルが未開、野蛮というところは、呪術師がいて王様に絶対的な権力があってという段階です。そこからいまみたいに文明、デモクラシーを標榜する社会になったと、つまりそれを進歩としてアメリカやヨーロッパではかんがえています。実際にそうなっているかどうかは別ですが。
 そうじゃないんです。未開、野蛮といわれるアフリカ的段階と近代西欧とでは全然違うかんがえ方をしています。<死>についても違うかんがえ方をしているんです。アフリカ的段階の前にも歴史がある。つまり人間と猿たちが別になったというのは百万年単位で、百万年前から繰り返し繰り返し段階があったわけです。われわれはヘーゲルがいう未開野蛮の段階から、いまの近代文明の時代までのことは知っている。だけど<死>をどうかんがえるかによって段階が区切られるわけですから、それ以前にも違う段階があったし、それ以後にも違う段階がくるとかんがえた方がいいんじゃないかとおもいます。
                         (P41−P44)


D 言葉が民族語になったのは、大雑把にいえば十万年単位の前です。しかし人間と猿では違うよということになったのは、百万年単位の前です。その間はどうしたのということをはっきりさせたい。そういうことをモチーフに込められたらとおもっているんです。
 テロ事件以後かんがえたことがあります。<生>はこういうもので、<死>はこういうものというふうにいまはかんがえています。
しかし<現在>という世界が段階としてどこで終わるかということは、まだ全然わからないのです。先の段階になると、かなり違うかんがえ方をするのではないかということです。実際、その徴候が少しずつ表れてきていますね。
 たとえばいまは偶然に道で出会った人を刺し殺しちゃうというようなことがさかんにありますね。こういうすさまじい事件が起こると、すぐに法律家や医者が出てきて発言する。法律の言葉で裁くか、そうでなければ経験的な道徳性のようなもので解釈する。それができなければ医者が出てきて病気だというふうにしてしまう。ほんとうをいうと、ちょっと違うんではないか。むしろ国民国家とか法が基本的に危なっかしくなっているといえるのではないでしょうか。
                         (P44−P45)


備考 註 Dについて ハイイメージ論のころ(?)「現在の死」「社会の死」とかいわれていた言葉のイメージが、大分はっきりしてきた。





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419 存在倫理 そんざいりんり @ 還相の視座から インタヴュー 還りのことば 雲母書房゙ 2006.5.1

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項目
1
@ ぼくは最近、この問題について<存在倫理>というようなものを設定するしかないのではないかとかんがえているんです。社会倫理でも、個人倫理でも、国家的な倫理でも、民族的な倫理でもなく、人間が存在すること自体が倫理を喚起するものなんだという、まったく別な倫理がある。つまりそこに<いる>ということ自体が<いる>ということに対して倫理性を喚起していく。この存在倫理を設定してみると、テロの巻き添えを食って死んだ人と、乗客を降ろさなかったこととは、同じに見えてもまったく違うことなんですね。

 菅瀬 存在倫理を設定する、そこに親鸞の思想が関与してくるのではないかとおもえるのですが。

 そうだとおもいます。キリスト教(新約聖書)では父母兄弟をを自分より大切にする者はわれに相応しからずというふうにいっています。また親鸞も『歎異抄』のなかで、父母の供養のために念仏をしたことはないといういい方をしているわけです。「親鸞ハ、父母ノ孝養ノタメトテ、一返ニテモ念仏マフシタルコトイマダサフラハズ。ソノユエハ、一切ノ有情ハミナモテ世々生々ノ父母兄弟ナリ、イヅレモイヅレモ、コノ
順次生ニ仏ニナリテタスケサフラフベキナリ」(第五章)というところです。
 ふたつはどう違うのかということを関連づけながら、ほんとうはテロの旅客機の乗客を降ろさなかったことにいちばん引っかかっていたので、そこをどうにかわかりよくできないものかなとおもって書いたのです。
 また親鸞はここで順次生という言葉を使っています。それはたぶん還りの言葉なのだとおもいました。生まれてきたことだって偶然だし、生んだ側からいっても偶然なんです。だけど順次生や縁や機縁などという言葉を入れたりしていくことによって、偶然性が超えられようとしているのです。どんな生も必然性ということになれば存在倫理の基礎は成立するということになります。
 しかしこれはわりあい仏教的なかんがえだといっていいとおもいます。キリスト教のかんがえ方と非常に似たいい方をしているけど、違うんですね。そこのところを親鸞のかんがえで説明できないかなということだったのです。
            (P54−P55)

項目
2
備考





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
421 思想 しそう 第一章 思想とはなにか 対談 思想とはなにか 春秋社 2006.10.30

対談者 笠原 芳光

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理念と情念の中間
項目
1
@ 曖昧だけど複雑な領域が「情念、感覚」と「理念、イデオロギー」のあいだにあって、それを考えたいというときに特に「思想」という言葉を使っているようにおもいます。それでおおよそのところは尽くせるところがあって、それでいいんじゃないでしようか。
            (P7)
項目
2
備考





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422 思想家の条件 しそうかのじょうけん 第一章 思想とはなにか 対談 思想とはなにか 春秋社 2006.10.30

対談者 笠原 芳光

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手を動かす 表現の価値について
項目
1
@ 文学も人文科学に属するわけですけど、そういう学者というものと自分のちがいをどこで区別するかというと、結局、象徴的な言い方になってしまうかもしれないけれど、わかりやすくいうと、つまり手で考えるんだ、手を動かして文字を表現しない限りは、想像力によるものであろうと経験的なものであろうと浮かんでこないことがあるのです。とにかく手を動かして初めて浮かんでくるというのが、小説家でも評論家でも、そういうものが必ず入ってくる。
 もちろん学者が文献を調べ、ものごとを考えるとか、科学者が実験をするとか、そういうことも手を動かさないとだめなわけですけれど、手を動かすことでしか絶対といっていいほど出てこない問題とか、出てこない考えとか、出てこない想像力とか、そういうのは必ずあるわけで、それを本質的な仕事としているのが文芸家といいますか、文学の創造をやっているとか、小説を書いているとか詩を書いている人はそれで区別されるのです。学者というのは手を動かす場合は、メモをとるとかそういう意味あいでは動かしますけど、手を動かさなくても本を読んで考えれば、実験してその結果を考えればどんどん先に進むことも、深めることもできる。そこが区別のしどころです。
 もし思想家とか思想者という言葉が成り立つとすれば、そこがちがうのですよ。ただ考えて実行することは政治家でもやっていますし、社会的な指導者もやっているわけですし、また人間は一般的にそうやっているということがあるわけです。そうではなくてなにか手を動かさなければ、体を動かさなければどうしても浮かんでこないんだ、ヒントが得られない、先に進めない要素がどうしても入ってくる場合、自分はそこが一番区別しやすいところです。

            (P17−P18)
項目
2
A 「手を動かす」ことは文字で言葉を書くことが身体の運動といっしょになって表現ということになるわけでしょうけれど、ぼくが重要で一番基本だとおもっていることは、一種の「価値」の問題に関連するわけです。
 つまり言葉における価値とはなんなのかということになると、ぼくが一番ひっかかったことは、言語をやっている人、あるいは言語学者はどこから表現の価値を作ってきたのかと考えると、経済学から価値の概念を作ってきているとおもうのです。そうすると言葉の価値と経済的な価値がどこで分けられるかという点がひっかかるのです。「資本論」をよく読みますと、これはマルクスが余計なことを書いたなといえばいえるところがありまして、貨幣と言語の価値形成の仕方はよく似ているんだと書いているところがあるのです。
 ぼくは言語学者の考え方からそれを学びまして、これは古典経済学の考え方から編み出しているんじゃないかとおもって、自分で「資本論」の価値論をなぞらえながら言語(表現)の価値を考えればいいんじゃないかとおもいました。
 「資本論」のなかで「使用価値」といっているものは「指示表出」といって、「交換価値」は「自己表出」といっていいんじゃないかな、と考えていったわけです。片方は物で片方は言葉で、いろんな言い方でいえますけど、いまおっしゃったことでいいますと「表現」ですが、それらはどこでわかれるのかということが問題でした。
            (P22−P23)

B そこになってくると物として表される価値というよりも自分自身の精神活動との関係で表される価値と考えないと芸術の価値論にならない、とおもったわけです。そうでないとおかしいわけです。マルクスだってギリシアの芸術がいいのはなぜなんだろうかと考えたのです。価値論でいえば、時代が進めばすすむほど価値が大きくなるのが一般的です。彼もそこで突き当たっているわけです。
 ぼくもそうおもうから自己表出というのが価値であって、指示表出が表現の価値に関与するところがあるとすれば、指示性の複雑さとか明瞭さを介するときだけれど、指示表出自体が芸術の価値に関与することはないんだと徹頭徹尾考えて、自己表出が芸術の価値なんだと。
 そうするとおっしゃるようにそこのところでは手を使うか使わないかは二義的な問題になってきているわけです。
            (P24)

備考





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
423 世界性 せかいせい 第一章 思想とはなにか 対談 思想とはなにか 春秋社 2006.10.30

対談者 笠原 芳光

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柳田国男と折口信夫 日本の固有性として世界性を持つ
項目
1
@ そうすると鴎外・漱石を日本の近代文学の代表者とすると、これはどんな立場の人でも認めるとおもうのですが、それと同じように折口信夫と柳田国男を日本近代における思想家だよ、というといまのところ認める人は少ないかもしれないけど、それに匹敵するだけのことはあるとぼくはおもいます。整理したり分類したりする論議は下手だけど、あのエッセイみたいに積もっているものを濃縮していくと、これは大きな、ちょっと無視しがたい思想家だといえるとおもいます。折口さんはそれに比べれば文学的な意味での思想家だといえるかもしれないけれど、やっぱり思想家だとおもいます。そういわないと、世界性をもてないのですね。
 つまりナショナルなことを一所懸命に考えて、それを一行くらいで書いたか、ひとつの論文として書いたかは別として、それがないと、つまり本当の意味のナショナルなものがないと、世界性をもつことができないとおもうのです。留学して向こうの哲学を研究してきた、近代以前だったら中国、近代だったらヨーロッパ、戦後だったらアメリカで研究してきました、これでは思想家とはいえないので、もしそれを思想というのだったら日本は永久に世界性を持ち得ないよ、という気がするのです。
 
ナショナルな根底というものがないとだめなのです。そうすると鴎外・漱石は文学的な意味での思想家だとおもいますけど、この人をもってきて、明治以降の人文系の科学を代表できるかというと、どうしてもそうじゃなくてもう少し掘り下げて、それを身につけて個性もつけてという人がいないと。どうも日本の思想が永久に普遍化というか、つまり世界性を持つようにはならんだろうとぼくはおもうのです。
 だからこの人達を入れないとこれは世界性にならないよ、よく読めば世界性のあることをいっています。折口さんもちゃんといっています。刑法の始まりみたいな「天津罪」「国津罪」という概念にたいしてつっこんでいったのは折口さんが最初なんです。・・・・・・略・・・・・・
 折口さんはウルトラ・ナショナリストで右翼的だというわけですけれど、大間違いです。ナショナリズムをあれだけ根底的に世界性のあるところまで到達していっている、規模の大小でいったり、論理性の大小でいったりすればまた別な評価がでるかもしれないけど、ちゃんと到達しているわけです。

A 要するに保守的な思想があって進歩的な思想があってとか、ぼくはそれをまずブチ壊さないといけないということがありますね。それをやらないと日本の固有性として世界性を持つことはありえないなとおもいます。・・・・・・略・・・・・・
 そこまで行くためには日本も柳田国男と折口信夫の仕事とやりかたを持ってこないと、漱石・鴎外ではやや不足というか、かれらだけでは日本の固有性を主張できないとおもいます。固有性を主張できないと世界性も主張できない。だから日本の世界性はいつまでたっても本当の世界性になっていかない。政治思想、社会思想、文学思想、芸術思想を含めて思想という場合には、柳田国男や折口信夫は無視できないような気がします。
            (P30−P33)
項目
2
備考





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
426 絶対 ぜったい 日本人の宗教観
―宗教を問い直す
対談 『中外日報』2006年 吉本隆明資料集165 猫々堂 2017.5.25

対談者 笠原 芳光

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絶対的なもの
項目
1
@
笠原 親鸞のいわゆる阿弥陀如来絶対信仰から自然法爾へというのは、ある意味では絶対から相対へのプロセスであるというような気がするのですが、吉本さんの場合は「関係の絶対性」という概念が最初にあったわけですね。
 あの「マチウ書試論」(一九五四年)でおっしゃった「関係の絶対性」というのは、やはり相対と絶対との関係を表していると思うんですけれども、関係というのは相対的なものですよね。それが絶対だというのは一種のパラドックスなんですけれども。親鸞の場合も、絶対から相対へという単純なプロセスではなくて、絶対であって相対であり、相対であって絶対であるという逆説のようなものが生まれていると思えるのですが。

吉本 僕はそう思っているわけですね。親鸞は何か絶対を信じたんだけど、だんだんいろいろなことに目覚めるにつれて人間の関係とか信仰とか真理とかいうのは相対的なものだというところまで行ったんだというふうには、僕は今まで理解しないできました。それから僕自身がやはり
絶対的なものに惹かれるというのも事実で、戦争中もそうでしたし、今でも絶対的なものというのはあるんじゃないかと思っています。

笠原 実体としてあるというよりも・・・・・・。

吉本 関係としてあり得るんじゃないかと。僕の書いた『言語にとって美とはなにか』(一九六五年)という言語論では、ある作品を一、二回読んだというと各人個性や好みもあって評価の仕方がちがうんだけど、いろんな人がそれぞれ百回読んだとすると、必ずあるところに一致する、それはたぶん作者の全意図といいますか、全モチーフを残りなくあらわしたところに収斂する、そこが終着点だという考え方がその中にあるんです。
 普通、文学作品というのは、どういうふうに何回読んでもいいというのが特色なんだけど、もし絶対的な評価を求めるというなら、すべての人に百回読んでみてくださいといえば必ず作者の意図したところに収斂すると思っています。

笠原 吉本さんの本は百回読まなければならんなあ(笑い)。

吉本 だから絶対というのは、僕にとっては割と捨てがたい概念なんです。
            (P76−P77)
項目
2
備考 この「絶対」という概念は、「普遍性」と言い換えてもいいように思われる。





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
430 自己としての自己と社会としての自己 夏目漱石を語る インタビュー 『森』第8号2005年7月 吉本隆明資料集165 猫々堂 2017.5.25

聞き手 笠原芳光・安達純

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項目
1

安達 吉本さんは、「文学の初源性」ということをおっしゃっていますね。文学とはもとを正せばこういうものなんだということで、漱石の作品では、『虞美人草』にそれを感じると。文学の初源性について、もう少し詳しくお話ください。

吉本 普遍性はないんだけれども、最終的に言えば、そういうふうにしか言いようがないないんだけれども、人間の存在感と言ったらいいのか、存在の倫理が、それだけが保存されていることが文学の初源性であり、たぶん最後の問題だなという感じを持っているんですよ。それをいろんな言葉で言っている。「自己慰安」という言葉で言ったり、フーコーは「自己への配慮」と言っていますね。個人としてどうであるかということから、個人が善悪に関係したり、社会に関係したり、人によっては政治に関係したりとかいうふうに全部を含めて、フーコーは配慮と言う言葉を使っている。全部を含める言葉としていい言葉だなと思う。僕としては、「
自己としての自己」という変な言い方で、意味にはならないのですけれども、まったく自由である、学者を志そうが、ライブドアのように大富豪になろうと、そんなことは自己としての自己という面で言えばまったく自由であって、いけないとかいいとかそういう論議とか理念が成り立たないと思っているわけです。社会としての自己という観点からは、ある場合にはよくないよということもあり、極端を言うと、人を殺したり、近頃いろんな事件があるけれど、そこまでいくと、社会的な自己として何か言われることがあるかも知れないということとか、法律にひっかかって、そこでは何か問われることがあるかも知れないなとは思うが、ただ自己としての自己として、自由に自分の思い通りのことを思って生きること自体には別に善悪の問題はひっかかってこない、関係してこないという意味合いで、自己慰安と言う言葉を使って、自己慰安は文学や芸術にとっては少なくとも、いちばん根源にある問題で、最後にそれだけが残る、あとは残らないというふうに僕は思っている。それが自分の文学観の基本になっていて、最終的には自己慰安しか残らない。それ以外のことは何か残ったとしてもおまけで、それを当てにすることはできないふうな程度のものと思っているんです。    (P22−P23)

備考 ※この引用文は、項目429「文学の初源性」の引用本文と同じ部分である。この項目が大切だと思われたから、独立させた。
「自己としての自己」≒私人、「社会としてのの自己」≒公人と見なせると思う。人は、現実的には様々な日々の場面で「私人」度と「公人」度のある度合いとして存在しているように思う。例えば、会社で仕事をしているときは、公人度90%、私人度10%というように。この場合、私人度は、後景に退いている。あるいは、心の深層に沈んでいる。例外的な存在として、天皇は公人度100%の存在であろう。











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