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ID 項目 ID 項目
427 段階
458 天皇制 @
462 第二の敗戦期      
464 短歌・俳句・詩・物語の通路      
478 超人間      
483 大衆の原像を繰り込む      
486 神話への入り方      
496 天才領域      
512 天皇と武家の二重権力      
516 東洋流の国家の考え方      
550 特攻隊のイメージ  
574 中国の捉え方      
585 他者に映る吉本隆明像より @      
587 他者に映る吉本隆明像より A      
614 読書ということ      
615 大衆闘争ということ      
623 第二の敗戦期 A      
686 手で考える @      
687 手で考える A      
705 大衆の原像 @      
706 大衆の原像 A      
716 天皇制 A      
730 小さい墓ということ      
737 男女の無意識のなかに含まれている歴史的な経緯      
740 例えば吉本さんの〈夢〉の捉え方 @      
741 例えば吉本さんの〈夢〉の捉え方 A
(追記.2023.6.18)
     
743 伝統ということ      
     
     





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
427 段階 日本人の宗教観―宗教を問い直す 対談 『中外日報』2006年 吉本隆明資料集165 猫々堂 2017.5.25

対談者 笠原 芳光

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段階
項目
1
@
吉本 宗教的に言うことは僕の力ではないですけれども、要するに西欧の文化から一般的な日本人の考え方、思想や傾向をどういうふうに見るかというと、より情緒的、より情感的というふうに見えるんじゃないかと思います。

笠原 そうでしょうね。

吉本 西欧ではもっときっぱりと合理的に割り切れるはずのものが割り切れないというようなことは、日本人の情操過多というか、情緒過多、あるいは感情過多、そういうことからくるんじゃないでしょうか。日本人の倫理というのもそういうところからくるのではないかと思います。日本人は何かというと感情的、情緒的になって、論理が通らなくても通すとか、そういうふうに西欧からは見えるという要素がありますが、僕は日本人のそういうところというのは悪いことではないと思っています。
            (P80)
項目
2
A
吉本 西欧では、旧約聖書の「ヨブ記」などは典型的にそうだけど、神様とヨブとが問答するところで、神様がヨブに対して、お前は山をこちらからこちらへ移すことができるか、できないだろう、俺はできると。自分は自然さえも支配できるということを言うでしょう。それでお前にはできないだろうというのが非常に大きな要素になっている。要するに神は万物を創造したと。
 だからもちろん、自然をあっちからこっちへ動かすことは大丈夫なんだという考え方というのがヨブ記の中にはあると思います。
 
けれども、僕の造語した「アフリカ的段階」では、やはり人間は自然を動かせるものだと。一番典型的なのは雨ごいのようなものですね。乾期になれば、雨ごいをして雨を降らし、旱魃を解消する。それは最も古い信仰の形態としてあるという考え方です。これはその次の段階にくると、日本の場合でいえば、神様というのは物質的な自然そのものの中にどこにでもあるんだというふうになって、それはちょっと多神教的になる。


笠原 アジア的段階ですね。

吉本 一方、キリスト教の一神教というのは、そこのところをあまり大修正せずにずっとキリスト教の信仰を保ってきたというのが特色ですね。
 僕は一神教かそうじゃないかという分け方をあまりしないで、要するに段階が違うんだよと。
 段階によっていろいろな宗教が生まれてくるのであって、それは社会的な習慣、あるいは宗教性の中にも残っていて、やはり日本にも雨ごいをやった形跡がありますし、さればといって一神教かといえばそうではなくて、自然そのものの中に神が宿っているというような感じが普遍化して多神教的になっている。きっと仏教の一如とか、主観・客観区別できないというような問題は、どちらかの段階の名残が残っていることの証拠であると。

 それは、段階という言い方だとすこぶる言いやすい。その段階のたどり方が西欧と日本、東洋とはだいぶ違っているんですね。
            (P80−P81)

備考





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
458 天皇制 @ 「まだ考え中」 インタビュー 2007.4 吉本隆明資料集169  猫々堂 2017.10.15 

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民族国家
項目
1

―― 先ほどからおっしゃっている自己問答と国家、社会の問題はどうつながっていくのでしょう。

吉本 社会は良くなった方がいいし、国家は豊富になった方がいい。でも国家はだいたいこれで終わりになると思ってます。
日本国のことだけを言えば、日本国というのは国家形態がきちんとできたのは平地で農業や漁業をやるようになってからですからね。それから考えたら、平地での農業が終わった時に今の国家形態は終わる。これで天皇制が続いたらおかしいですよ。いや、おかしかないか(笑い)、あった方がいいと思っている人が多ければ続くわけですけど、農業が終わったら終わり。あとの人はやることがないんだから、好きなことやって遊んでた方がいい。
 
民族国家が終わるときには、レーニンの言いぐさじゃないけど、世界のどこでも国家が終わる。西欧なんかはもう相当その段階に食い込んでいる。通貨が統一されるということは国家としてはもう終わり始めているということでしょう。
 (インタビュー「まだ考え中」P15-P16『論座』2007年4月号、『吉本隆明資料集169』)











[備考]

民族国家の行く末については、今のところよくわからないからわたしの註は保留する。


 最近「内田樹の研究室」で自分の天皇観について述べたり、また『街場の天皇論』という本をまとめ上げて出したりしている内田樹が、天皇について述べた文章に出会った。


けれども、長く生きてきてわかったのは、天皇制は(三島が言うように)体制転覆の政治的エネルギーを蔵していると同時に、(戦後日本社会が実証して見せたように)社会的安定性を担保してもいるということである。天皇制は革命的エネルギーの備給源であり、かつステイタスクオの盤石の保証人であるという両義的な政治装置だ。私たち日本人はこの複雑な政治装置の操作を委ねられている。この「難問」を私たちは国民的な課題として背負わされている。その課題を日本国民は真っすぐに受け入れるべきだというのが私の考えである。
 
ある種の難問を抱え込むことで人間は知性的・感性的・霊性的に成熟する。天皇制は日本人にとってそのようなタイプの難問である。
 (「日本人にとって『天皇制』は何を意味するのか―「ポピュリズム」に対抗する政治的エネルギー」内田 樹 2017年10月06日 http://toyokeizai.net/articles/-/189766 )
 


 わたしは内田樹をすぐれた批評家として内心で一定の評価を持ってきたが、もちろん疑問やそうじゃないだろうという思いもある。内田樹の批評の言葉の射程は主要には近代以降のものと見える。また、生活世界の普通の人々の感覚をどこか忌避しているような印象を持つ。ここでの内田樹が天皇を「政治装置」として捉える見方は先の敗戦でもはや終わっていると思う。だから、何をいっているのだとしか思えない。

 近代に特異な位置に祭り上げられた天皇、天皇制であるが、明治維新の天皇の政治利用は、年季の入った天皇を名誉会長的な位置に据えることで自らの維新勢力の正当化を図り、自らの勢力の安全保証とした。これは官僚の振る舞いや政治でだれかに責任を預けることで責任の所在をあいまい化するという現在的な問題でもあるが、鎌倉時代の二重権力(武家と天皇)にも見られるなど、この列島の伝統的な政治手法でもあった。結果として、明治維新の争いで互いの血を流すということは少なくなったのかもしれない。

 天皇制(象徴天皇制)が今なお持続している背景には、こういう風に内田樹のような思想家に限らず、それを支えるさらに強力な大衆レベルの受容と支持があるからである。この受容と支持は、もう少し一般化すれば、遙か太古より続く聖なるもの強力なものに対する人間の畏怖と尊崇に根ざしている。それは、始まりは慈愛と猛威を併せ持つ〈大いなる自然〉に対するものだったろう。それが、人間世界に持ち込まれて、今度は〈貴人〉に対する人々の畏怖と尊崇に変貌してきたのだろう。平地農業とともに始まった天皇制は、農業の終わり、つまり未来性を持つハイテク農業ではなく旧来の一次的な農業が担い手としても形態としても生き延びることができないようになると、その出発の動機の喪失によって、天皇制も終わるのだろう。ちょうど、動画などのネット配信が普及すれば、それまでの地域にあるビデオショップが消えていくように。

 しかし、現在の俳優や歌手やスポーツ選手などの〈貴人〉に対する人々の受容と支持が続いているように、依然として天皇への支持は生き延びていくように思われる。天皇制(象徴天皇制)が終わりを告げても、その余韻のように天皇の存在も一般化すれば天皇的なるものとして現在的な〈貴人〉と同じようなレベルでもっとながく生き延びるのかもしれない。それは、人間の始まりと共にあるような〈聖なるもの〉の意識や感情に根ざしている根深いものだからである。

 ともかく、天皇制や天皇に関するわたしの考えは簡単ではっきりしている。わたしたちがこの社会でほんとうに平等を実現しようとするならば、その重要なきっかけとして天皇という特別存在(特異点)は矛盾だから、わたしたちと同列の普通の人になった方がいいという考えである。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
462 第二の敗戦期 「日本の家族を蝕む"第二の敗戦"」 対談 『中央公論』2007年9月号 『吉本隆明資料集169』 猫々堂 2017.10.15

※ 内田樹との対談

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退行現象 乱世 「世界で通用している概念が敵」という敗戦 理想の勘所
項目
1

@
吉本
子どもが母親に薬を飲ませて徐々に弱らせるだとか、子どもが母親を殺した後、その母親の首を持って自首するだとか、そういう話を聞くと
僕はすぐ歴史的に考えてしまいます。戦国時代に、合戦に参加して敵の首をとって自軍に持っていくと褒賞をもらえたという話や、斎藤道三の娘の濃姫が、織田信長のお嫁さんになって、隙あれば信長を殺そうとしていて油断ならなかったという話を思い起こします。
 
一種の退行現象とも思います。平和に見えるけど本当は、今急激に乱世になったと言えるのではないでしょうか。
 そして、その現在の社会的な移り行きの急速さを、僕ら軍国少年の感覚で言うと、"第二の敗戦"と言えますね。敗戦と言っても、敵国を想定できない。強いて言えば、
「世界で通用している概念が敵」という敗戦です。
 僕からすれば、イラク戦争はアメリカが起こしたテロというより仕方がない。アメリカはグローバル・スタンダードと言うけれど、英語は地域語にすぎないし、アメリカの思想も地域の思想にすぎない。それをスタンダードで通しているのは、文化でも、言葉でもなくて、軍事力や財政力です。その他に何もない。今は、そういう全体の概念を敵とする第二の敗戦期なんです。


A
吉本
 一つ一つの事象について細かく分析していくのも悪くはないと思いますが、ときどきは、「概念が敵」というくらいバッサリと大きく物事を切り取って考えるのも必要だと思います。
 年寄りの問題も細かく考えていても何も解決しません。今の日本には国営のものから私営のものまでさまざまな老人ホームがあります。老人をその老人ホームに入れて介護士たちが面倒を見ているわけです。だけど実感をまじえて言うと、そんなのはナチスがユダヤ人をガス室に入れて殺したのと同じだよと。ナチスは十分に自覚的に殺しているけど、お前らの場合はいいことしているつもりでしているからなおさら悪いんだぞと言いたいですね。
 今の日本に
理想的な老人ホームなんてないんですよ。要するに、いいことを言って、金を儲けたいだけ。今の老人ホームとか、老人相手の医者のふるまい方を見ればすぐにわかります。
 一方で、直接僕が見たわけではなくて、間接的に聞いただけなのですが、北欧で行われている老人に対する社会のふるまい方は、それが本当に行われているとすると、
僕ら老人の実感として、ほとんど理想的だと思いますね。
 確かにその国では、若い人はたくさん税金をとられていますし、主たる財源として、武器を輸出することで補いをつけているという問題はあります。しかし、相対的にどこが一番、
人間性を尊重しながら生涯をまっとうせしめることを主眼にしている進んだ社会なのかと考えると、それは北欧でしょう。
 日本は勘所が違うんですよ。老人の問題も、社会主義についても、
理想の勘所が違う。だからよくならない。

 ※@とAとは、連続した文章です。
 (「日本の家族を蝕む"第二の敗戦"」内田樹との対談 P119-P120『吉本隆明資料集169』猫々堂)





この吉本さんの「第二の敗戦期」という状況把握の根幹には、当然ながらこの列島の生活者大衆の自立という思想的な主流がある。

日本の老人ホームについて、「だけど実感をまじえて言うと、そんなのはナチスがユダヤ人をガス室に入れて殺したのと同じだよと。」という吉本さんの言葉は過激な比喩に見える。わたしは老人ホームの現状についてよく知らないから何とも言いようがないが、学校教育での子どもの処遇などを見てきた体験や実感から類推すれば、この国の、この社会の「人間性を尊重」の度合がまだまだ迷妄に彩られているということはよくわかる。
「勘所」は、例えばここでは「人間性を尊重」という本質的なところなのに、細分化された事象にばかりしか思考や実行の触手は届かない。もちろん、細分化された事象への思考や実行にも当事者たちの本質的なところへの思考が潜在している。

※ この「第二の敗戦期」に関しては、吉本さんへのインタビュー(2008年5月から6月)を構成した『第二の敗戦期―これからの日本をどうよむか』(2012年10月)という本が出ている。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
464 短歌・俳句・詩・物語の通路 「討議近代詩 日本語の詩とはなにか」2007年5月 鼎談 『現代詩手帖』2007年7月号 『吉本隆明資料集169』 猫々堂 2017.10.15

出席者 野村喜和夫・城戸朱理・吉本隆明

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そのままのかたちではちょっと無理 俳句は主観的な表現と客観的な表現の問答歌 短歌形式のまま詩として通用する道 物語性の起伏は面
項目
1

@
   散文と詩を繋ぐもの(引用者註.小見出し)

吉本
いまのたとえば
短歌の作者や俳句の作者も、そのまま直接にいまの詩に近づけようとしているところがあって、それにいちばん直接立ち会っているのは岡井隆さんだと思います。俳句のひとにはあまりいないように思います。角川春樹さんが俳句は「魂の一行詩」と言って、俳句も内面性の詩には違いないということを言おうとしているんだと思いますが、そのままのかたちではちょっと無理ですよと言いたい。岡井さんみたいに考える以外ないんですよ。岡井さんは道をつけていると思うけど、俳句のひと、中村草田男以降の俳句はちょっとそうはいかないなあ。なのに「魂の一行詩」なんて言う。それは錯覚だと思います。もとから辿っていくと、いまの俳句のひとは考えていないだろうけど、芭蕉は意識してやっていることで、俳句は主観的な表現と客観的な表現の問答歌で、それをひとりの作家がやるってことなんですよ。芭蕉の俳句でいい俳句はちゃんと受け身のかたちで客観性を持たせている。それで主観性の五と客観性の五が違うとか、主観性の七と客観性の七が違うとかということを一所懸命やっています。それはいい俳句ほどやっていますね。いまの現代の俳人はのっぺらぼうにしちゃって五七五で現代の詩と同じものを作り上げようとする。季節さえ失いそうになりつつある。それはやっぱりちょっと違う。芭蕉はじつに見事にさりげなく、主観的な言葉と客観的な言葉を交互に出して、問答歌にしている。それは見事です。その二つが俳諧のほんとの姿なんです。これは詩としての俳句がどうであるかということよりも意味のあることで、そこに俳句の特徴があるのにいまの俳人は一行の詩とか一行の精神のこもった短詩であるとかしちゃう。それはちょっと違うんじゃないかな。このひとたちが現代詩と同じ道を見つけるのはまだ相当難しいんじゃないかと感じますよ。短歌については岡井さんはしょっちゅう七を三と四に分けたりとかそういう音数の試みをしたり、音数をなくしてみたり、それから内容的に短歌をそのまま詩と同じようにするために凝縮度を究めて、五七五七七で違うようにしたり。若いときからそうでしたけれども現在にいたるまでそれをやってきたのを見て、このひとはよくやるなと思った。最近のものを読んで、これはほとんど完成に近いと思いました。すぐに短歌形式のまま詩として通用する道をこのひとはちゃんとつけている。
 (「討議近代詩 日本語の詩とはなにか」2007年5月 P91-P93『吉本隆明資料集169』猫々堂)


A
吉本
 それがいま詩を書いているひとの詩とどうつながるのかはぼくにはわかりません。
ぼくらの発想はいまの俳句のひとと同じで、ここから言語の力を、あるいは文体を凝縮していけば詩と散文を繋げることができると、散文詩みたいなものを中間において考えてきた。散文と小説と詩との違いはいま言っているようなことで取っ払えるに違いないと思ってきましたが、たぶんこれはある一面にしか過ぎないのでぼくらが考え損なっているといまは思っていて、これだけでは散文と詩を直通路で繋げるのは無理じゃないかと。ぼくらも前から考えてきたのはいまの俳人と同じで、どこかで繋げられるんじゃないかと思って、苦心をしてきましたけれども、それはあんまり有効じゃない。もうひとつ何か足りないものがある。それが何かはわからないんだけど、物語性の起伏みたいなものをグラフで言えば線の山と谷のように考えていたんだけど、ほんとは線じゃなくて、物語性の起伏は面なんですよね。それを面として考えることができれば、散文の物語性と詩を接続することができると思うんです。そう考えてこなかったのがぼくの現在の反省点なんです。でも、いつかはそこを通るに違いないとは思っています。そこの問題をうまく考えられたらどういう形式になるかはわからないですけど、物語と詩が文体的にも内容的にも直通できると思います。
 (「同上」P93-P94) 


吉本
詩の場合も散文と繋げようとしてもだめだし、西欧における詩と繋げようとしてもいまのところどうしても片手落ちになる。これはほんとは工夫して乗り越えないとどうしようもない。いろんな分野でそういうことがつっかえてるという感じで、そのつっかえをどこから取っても、だれが取ってもいいわけですから、取ってくれるひとが出てこないかなと思っているんです。いちばんつっかえが著しい和歌からは岡井さんなんかがやってるじゃないのと。・・・中略・・・詩の場合、足りない要素というのはさっきも言いましたけど、物語の起伏を線として考えないで、それを含む面として考えないとだめなんじゃないかということなんだけど、どうすればそうなるのかはぼくにはわかりませんそれはもうお願いしますと言うしかない。
ぼくがいちばんつっかかっている問題はそこのところのような気がします。
 (「同上」P96-P97) 


B
 この日本の詩歌の三種、近代詩、短歌、俳句の発想の異質さは、何によるのだろうか。第一は、発生史的な相違による。古代社会に古代人の意識の産物として生れた短歌と、封建社会に町人ブルジョワジイの意識の産物として生れた俳句と、近代社会に近代的インテリゲンチャの意識の産物として生れた近代詩の、意識(主として感性と漠然と呼ばれている要素が関係する)と下部構造との関係の相違によるのである。第二に、第一の問題から派生する定型と非定型が文学的内容と関わる、かかわりかたがちがうのである。
 この二つの日本詩型の発想上の異質さは、ヨーロッパ近代詩における、自由詩と押韻詩との相違と同日に論ぜられない、断層があるのである。この断層を、本質的に規定しているのは、わたしの理論では、下部構造によって規定され、下部構造を規定し返すところの詩型に含まれる感性の構造の断層である。もし詩に関することでなければ、もちろん「感性」というコトバの代わりに「意識」というコトバを用いるべきである。
 わたしが、この理論をもとにするかぎり、
日本の現代詩歌の課題は、この近代詩と短歌と俳句との間にある発想上の断層を、解消する条件を見出すことにかかってくる。この条件が見つかれば、詩と短歌と俳句とは、たんに非定型長詩と定型短詞(引用者註.ママ)との相違にすぎなくなるのである。
 (「番犬の尻尾―再び岡井隆に応える」『吉本隆明全集4』P438-P439 初出 1957年8月)


 
わたしが、日本の詩歌の現状を基にするかぎり、このような段階における日本の詩歌の発想を統一する原型は、文学的内容、いいかえれば、詩歌におけるコトバの文学性に求めざるをえないのだ。そして、この文学性は、散文(小説)的発想からする文学性とまったく同一なものを指している。実例をもっていいかえれば、短歌の将来は岡井の作品を口語自由律に直した、

  どの論理も〈戦後〉を生きてきて
  肉が厚いから
  しずかな党をあなどっている

  (引用者註.岡井隆の元の作品は、
  どの論理も〈戦後〉を生きて肉厚き故しずかなる党をあなどる)

 このもの自体が優れた文学的内容をもち、コトバの芸術性をあわせもつ、そういう方向に行くべきなのだ。わたしの理論が、必然的に指向する日本詩歌の未来の統一図のイメージのなかでは、岡井が固執する意味での定型短歌は滅亡してしまう。
しかし、短歌的発想ではなく、散文(小説)的発想からする定型詩は滅亡しない。また能、カブキ式短歌は遺物として残る。
 わたしは、岡井の作文から、意味のありそうなところを取りあげながら、
詩、短歌、俳句の発想上の断層を、散文(小説)的発想をもとにする意味の文学性によって統一的に考察すべき必要を概説してきた。


 
日本の近代詩が、日本文学全体への影響を失って分裂したのは、わたしの実証的な考察によれば、有明、泣菫らの象徴詩運動以後である。すくなくとも、新体詩から藤村までは、日本の文学において詩の問題はいつも文学全般の問題にさきがけて提起され、さきがけて新たな課題を解決してきたのだ。では、何故に、有明、泣菫らを主導者とする象徴詩において、近代詩は日本の文学における主導性を失ったのだろうか。それは、象徴詩が、詩の思想性というものをコトバの格闘によって表現しようとし、形式上の格闘と文学的内容上の格闘を分裂せしめたからであった。詩における文学的内容上の格闘は、いうまでもなく、詩人の内部世界と現実との格闘によってしか生れない。ところが、象徴詩人たちは、漢語の視覚と音響効果および七・五調の複雑化によって詩の思想性の複雑化を企てようとした。象徴詩は、第一に形式と内容との分裂によって、第二に文学的内容を軽視してコトバの格闘におもむくことによって、日本文学全般の主導的な位置を転落したのである。・・・中略・・・
 象徴詩の転落した時期は、おそらく、
子規、左千夫、節、赤彦らに荷われたアララギ派の古典的レアリズムが、おおきな意味をもった唯一の時期であった。彼らは、岡井のように新しがらずに、古代社会に発生した短歌形式と発想をそのまま守ることによって、つまり自然物を相手にして生活した時代の古代人が、当然、自然と面し、そこに内部の世界をかかわらせることによって作りあげた方法を、そのまま延長するという逆手によって短歌的発想の効果を最大限に発揮したのである。即ち、かれらは、短歌的感性を変革しようとする企図によってではなく、短歌的発想を逆用することによって、短歌形式を復活せしめたのである。
 (「同上」441-P442 初出 1957年8月)






(備考)
Aの吉本さんの「現在の反省点」に関わる若い頃の考えは、Bに引用している。「物語性の起伏は面」ということは、よくわからないし、短歌、俳句、近代詩、物語と細分化された文学表現の間にどのような通路がつけられるのかはわたしは目下のところよくわからない。

まず、超太古の人間の無言語の段階から言葉が生まれかたち成す段階のことを想像するのと同様に、遙か超未来の現在の言葉を超えた超言語というものを想像してみる。柳田国男が「火の昔」で人間社会にとっての火の変遷を記しているが、主に江戸期までの焚き火のような灯りの状態から明治期の電灯という新しい「火」を想像することは不可能に近い。それと同様に、超太古の無言語や言葉のような状態や、遙か超未来の超言語の状態を想像することも不可能に近い。したがって、いまのところ超未来の超言語を想像してもほら話に過ぎないような無意味さに包まれる。ただ、人類が生存していたとして超未来では、現在の細分化されている芸術表現は、統合されてあらゆる感覚が総合された人工的なホログラフィー表現のようになっているのかもしれない。しかし、そんなことを想像しても現在のところ無意味に近いから、わたしたちは現在からの視野で細分化された現状の行く末をわたしたちの生涯に対応する短い時間尺度で考えることになる。

この問題は、短歌、俳句、近代詩と細分化された文学表現の現状であるが、といってもそれは、上のBで「発生史的」に述べられているように各々の時代性によって生みだされた文学的な形式が、変貌しつつ依然として現在にまで生き残って併存しているという問題でもある。そして、わが国の日本舞踊やバレーや舞踏やダンスと呼ばれるものの併存している現状と同じく、短歌、俳句、近代詩、物語と細分化された文学表現の併存が、すぐにひとつに統合されるということではないだろう。細分化は、その始まりが無自覚的な自然な表現ではじまったとしても、従来の形式へのなんらかの異和があったはずである。そうして、細分化を上り詰めることでそれぞれがさらに異質な世界を築いてしまっている。いつかは、細分化されたものを統合するような表現の形式が生みだされるのかもしれないが、ここで問題にされていることは細分化されたもの同士の間に閉鎖性を取り払って自由に行き来できる〈通路〉を作り出すということだと思われる。

短歌、俳句、近代詩、物語と細分化された文学表現は、現状ではそれぞれが直通で行き来できない閉鎖域を持っている。しかし、上空から眺めれば、それぞれ形式は違って互いに閉鎖的であるとしても、人間的な精神活動の点滅であるという点では同一である。この視線を直ちに行使しても無意味だけれど、つまり、現実の具体的な表現活動をしている人々にはなんら説得性を与え得ないけれども、人々の表現活動の芯にはそのことが内在すべきであると思う。

最後に付け加えると、この細分化された文学表現の間に通路をつけるという問題は、他の芸術表現についても同様だし、さらには人間社会の組織や思考においても該当するような、普遍性を持っているように思われる。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
478 超人間 「老人は死を前提とした絶対的な寂しさを持つ」 インタビュー 『ロング・ターム・ケア』第55号2007年7月 『吉本隆明資料集171』 猫々堂 2017.11.30

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その実感 通説的、常識的な考え方 人間をわかることの骨幹にあること
項目
1

@
 私が言った「超人間」という言葉は、できるだけお医者さんや看護師さんなどの医療の領域に入らないようにしたいということです。患者ではないのですが、年寄りなので
その実感が出てきました。
 老人に対していろいろな考え方があるのでしょうが、自分自身の原形も含めて老人たちが元気になられるよう、人間は青年期、壮年期を過ぎたら衰えていく一方なのだという
通説的、常識的な考え方をどこかで破るような言葉はないだろうかと考えまして、超人間としたのです。本当のところ、老人がどのような生活をして、何を考えていくのかについて、日本ではあまり触れたものがありません。人間をわかることの骨幹にあることを何となく言いたかったのです。

 (「老人は死を前提とした絶対的な寂しさを持つ」P54 『吉本隆明資料集171』猫々堂)





 (備 考)

「私が言った『超人間』という言葉は、できるだけお医者さんや看護師さんなどの医療の領域に入らないようにしたいということです」というのは、医療の領域という舞台に載せられ、医療の領域の現在的な視線から見られる老人という負のイメージを伴った心身の存在ではなく、自分の老人としての実感を踏まえて老人、すなわち人間というものをその「骨幹」から総体性として捉え直したいということだろう。

このことは、老人に限らず、もっと普遍的な問題を喚起する。例えば、子どもでも青年でも、発達心理学者などが捉える枠や概念に収まりきらないものを持っているはずである。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
483 大衆の原像を繰り込む 「サブ・カルチャーと文学」 鼎談 『文藝』1985年3月号 『吉本隆明資料集171』 猫々堂 2017.11.30

※ 笠井潔・川村湊・吉本隆明

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知という観点 大衆の原像を繰り込めない知 僕の理念的な反省の仕方
項目
1

@

吉本 笠井さんのいまの話を聞いていて、『テロルの現象学』を読んだときもそうですが、埴谷(引用者註.埴谷雄高)さんと同じで、笠井さんの観点は、
知という観点のような気がしてしょうがないないんですね。と僕はそういう言い方を、たびたび繰り返してきたんですが、大衆の原像を繰り込めない知は結局は、党派として無限に閉じられていくことを避けることは出来ないのではないでしょうか。
 大衆の原像を繰り込めていない理念的な閉じ方は、あるいは知識の閉じ方は、駄目なんじゃないかというのは、それに対する僕の理念的な反省の仕方です。
 
すると自分自身も、知のところに入っていきますと、どうしても信条が党派的になってしまいます。集団を考えなくても、僕対世界とか、自分一人対その他大勢とかいう観点の党派にどうしてもなっていっちゃうんです。自分が知のなかに入っているときはそうなんです。
 これの防ぎ方は、まずないので知というのは、知でないものを繰り込めない限りは、どうしても党派性を避けがたい。それが、前から繰り返してきた処方箋なんです。
 そこからいくと笠井さんがはじめから持っている場所とか、埴谷さんがはじめから持っている場所は、僕にはどうしても不満となっちゃう気がするんです。
 つまり笠井さんの観点、あるいは埴谷さんの観点を、それじゃ無限に詰めていったらどうなるんだ。埴谷さんの場合には、要するに反政治的な存在として、とにかく現実的に生きるとか、生活するという感じになって、文学に対する政治性、文学の政治学とか、あるいは真理に対する政治学とかいうものは、作品自体のなかで実現していくことになります。現実の自分が無限に反政治的存在、あるいは非政治的存在というふうに、どうしても収斂していくわけですね。
 
その収斂の仕方がどこかでちょっとまずってしまえば、埴谷さんの今度の反核へのコミットみたいになっていく気がするんです。埴谷さんの曖昧さ、まあどうってことないルーズさでそこへ入っていちゃった(ママ)ということで、埴谷さんが厳密に自分を詰めていけば、政治的な存在に対して、反政治的な存在とか、政治的に無意味な存在というところに収斂すると思うのです。
(「サブ・カルチャーと文学」P131-P132『文藝』1985年3月号 『吉本隆明資料集171』猫々堂)
 ※ 笠井潔・川村湊・吉本隆明の鼎談 


A

吉本 
僕は自分の観点を収斂したら、谷川雁さんなんかが以前批判してましたけど、庶民ですね。そこへ僕は収斂していきますよ。つまり脱理念であるし、脱知識であるし、なんていうことはねえやというところに僕は収斂していくと思います。
 この収斂の仕方がいいとか悪いとかじゃなくて、僕の理念を詰めていけばそうなりますね。それ以外に党派性という問題に対して、防ぎようがないんじゃないかというのが、僕なんかのやってきた考え方なんです。

 僕はいまでもそれを修正する必要はないので、ただ僕は
大衆の原像と言ったときには、それはぜんぜん知的な場面とか、活字とか、そういうところに登場してこない大衆というものを想定したわけだけれども、現在みたいな高度な情報社会になって、実体としてそういう大衆を想定することは出来ないですね。全部もう活字のなかに入り込んできています。また言説のなかに入り込んできている。
 
そうするとその意味では、もう変わっているけれども、ただ大衆の原像というものを、どうしても繰り込む以外にないんだということは、修正する必要はないだろうと思っているわけです。
 そこのところが、ほんとうは僕にとって詰めていくべきことなんだけど、いまの自分はただそこのところが
分裂しているだけで、実生活では大衆、庶民そのもので、なにもないというふうに生活していて、それは書くことのなかでは、けっこうおまえも知的な収斂の仕方しかしないようなことをやっているじゃないかということになってきます。そこが分裂なんで、ほんとうはそこは詰めて曖昧にしないできちっとしていこうみたいなことがあるんです。方向はそうなんです。
 そうすると埴谷さんにも不満だし、笠井さんにも不満だし、柄谷君とか蓮實君とか、ああいう人にも不満なんです。それは信じてないよ、どうしてもあれは党派に行くよと言いましょうか。知の党派であったり、政治の党派であったり、いろいろあるでしょうが、しかし、党派に必ず行くんじゃないかな、そこがどうしても違うなという感じがするんです。
 (「同上」133- P134 )
 ※@とAは、ひとつながりの文章です。







 (備 考)

「大衆の原像」について、二人の証言

川村(湊) ・・・・じゃあ僕のほうにそういう大衆の原像みたいなものを持っているかとかいうと、そういうのがあまりないわけですね。
 (「同上」 P134 )

笠井(潔)・・・・つまり吉本さんが、大衆の原像というふうにおっしゃって、僕も吉本さんの本はたくさん読みましたから、ずいぶんそういうことを考えたわけだけれども、よくよく考えると、やっぱり分からないんですね。
 というのは、吉本さんのお父さんというのは、僕のおじいさんの世代にあたるわけですけれども、おじいさんというのは、僕の思想の根底を作る生活の実体験としては、お正月にお年玉をくれる人だったという程度のものですね。
 (「同上」 P139-P140 )


2018年現在、ともに60歳代の終盤に属する笠井潔と川村湊が、どういう生活環境で育ってきたのかはわからない。しかし、「大衆の原像」ということがよくわからないと述べている二人とも、おそらく中流の会社員などの家庭に育ったのかもしれない。つまり、彼らにとっては、生活地域に個々にバラバラの家族があり、ひとつの地域の中での人々の生活するイメージというよりも、個々のバラバラな生活イメージが断片的にとしてしまい込まれているだけなのかもしれない。彼らより少し若いわたしの場合は、まだ農業が多く占めるような地域の兼業農家に育った。そして、ひとつの地域の中での人々の生活するイメージというものがあった。どうも知的なふんい気の家庭に育ったとかの階層的なものによって、あるいは育ち方によって、「大衆の原像」ということが、わかりやすい、わかりにくいということが、どうしようもなくあるような気がする。

しかし、この「大衆の原像」というのは、どんな出身階層であるかに関わらず、生活世界に日々生きるわたしたちの有り様が抽出されたイメージである。ある抽象度を持った本質イメージとして把握されたものである。

おそらく上のような二人の発言踏まえて、吉本さんは次のように説明している。
吉本 大衆の原像というのを、こう言ったらわかってくれるかな。高度なところを頂点として、知識の秩序とか系列とかが全部を覆っているイメージを想定するとします。僕にはどうしてもどこかに知識の空隙、あるいは亀裂みたいな空間を生んじゃって、そこだけは知識の系が覆いきれない個所が存在すると思うのです、空隙を残さなければ、知識はいくら発達しても世界を覆ってしまうというふうには、ならないんだと考えると、その空隙が、大衆の原像というようなものに該当する気がするんです。そこでは、知識でないものが息をついている。その空隙は不可欠だという気がするんです。
 自分のこととしても頭のてっぺんから足の爪先まで知識を充填するイメージを自分で想定できないです。どこかでぼやっとしちゃっているとか、休んじゃってているとか、ダラッとしているということなしに、知識が自分の身体のなかに存立しうると、どうしても思えない。感覚的にいえば、ダラッとしている部分が、たぶん僕のなかにある大衆の原像に該当するんです。個のなかでも、社会のなかでもそれはありうるのではないのか、そこから見ていく見方が、知が収斂するしていくことに対する、歯止めになっている。
 (「同上」 P143 )


吉本さんのこの「大衆の原像」は、わたしたちの日常世界においてどのような場や様相として現象しているかとして比喩的に説明されている。いくつかの捉え方があり得るように思う。わたしの捉え返しとしては、次のようになる。人間の初源においてちいさな集落の日々の生活が知識や知識世界を生み出してきたのだから、知識や知識世界は、集落での生活世界を出身母体としている。つまり、それと切っても切れないつながりを持っている。別の言い方をすれば、人間を起源的に見ても知識や知識世界の肉体として生活世界があるということになる。したがって、知識や知識世界にとっては、その身体性を時には意識したり内省したりすることが大切になる。

知識や知識世界は、もはや太古の単純さではなく、知識独自の世界を築き上げてきたから、人が自らの赤ちゃん時代を忘れ去るように、自らの出身母胎とのつながりを忘れることはあり得る。そこで、上の吉本さんみたいに現在的な人の有り様からわたしも別の比喩として語ってみる。例えば、大人の会議でも言えることだけど、学校のクラスで子どもたちが話し合いをしているとする。そこでは、ある問題についての対応策として対立的なあるいは類似的な二つくらいの意見に集約されていくはずである。しかし、クラスの中のひとりひとりはそれらの二つの意見に対して、最終的には賛成か反対か保留かに絞られていくとしても、内心にはさまざまな絞り込むことのできない思いが渦巻いているはずである。ここで、「二つに絞り込まれた意見」を「知識」と見れば、「内心に渦巻くさまざまな絞り込むことのできない思い」が知識の肉体に当たる「大衆の原像」と見なすことができると思う。二つの意見から絞り込まれ一つに決定されたもの(知識世界の動向)に終わり、「内心に渦巻くさまざまな絞り込むことのできない思い」を繰り込むことができないならば、問題がより緊迫した重大な問題の場合は特に、その後の両者の関係は大きく乖離していく可能性もあり得ることになる。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
486 神話への入り方 赤坂憲雄『王と天皇』 多木浩二『天皇の肖像』 論文 (『言葉の沃野へ―書評集成・上 日本編』 中央公論社 1996.4.18

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天皇(制)の本体 天皇(制)神話や出自説話 歴史の事象の記述
項目
1
@
天皇(制)の本体に分け入ろうとするとき山口昌男の方法や、山口昌男の方法を拡張し、整えることでこの本でやっている著者(引用者註.『王と天皇』の赤坂憲雄)の王権論では、それこそ一般論的な解明しかできない。その理由は著者の考えているのとまるで違う。
『古事記』や『日本書紀』に記述された天皇(制)神話や出自説話は〈潜在的にアフリカ的な階段(ママ 「段階」か)を含むアジア的な段階〉の神話や伝承に属していることだ。まだ不確定な要素がおおいが、ここでは一応日本神話や民俗のアフリカ的な段階を縄文期に、アジア的な段階を弥生期に当てておくことにしよう。すると『記』や『紀』の天皇(制)神話は、アフリカ的な段階を潜在的に古層に含むアジア的な段階の神話、出自伝承の一種だということになる。山口昌男やそれを拡張し整備したこの著者の王権論が、日本の天皇(制)神話にも適応できないわけではない理由もそこにあるのだし、また山口昌男やこの著者や、わが国のすべての共同体(国家)と「外部」論者が駄目な理由もそこにあるといってよい。かれらが間違っているわけでもない限界は、円も楕円も、ヒョウタン形もトポロジカルにいえば同型だというのと同じかぎりにおいてであり、またそこまでが限界なのだ。かれらにとって残念かもしれないが、歴史の事象の記述は、一足とびにすべてをトポロジカルな同一性には還元できない。ウンター・クラッセン(註.1)としてのアフリカ的とかアジア的とか西欧的とかいう普遍性に類別してしか同一化されえないのだ。


A
 駄目な証拠にこの本の著者は、山口昌男の王権論では一般論しか展開できないと批判しながら、すぐに『記』『紀』の天皇(制)神話のなかから虫メガネで拡大しなければ顕在化しない
王殺しや貴種流離や外来王の記述を、無理にとりだし、輪郭をつけ〈ほら日本の天皇(制)神話のなかにも普遍的な「王」の問題があるじゃないか〉といっている西郷信綱や山口昌男から上野千鶴子にいたる外部主義者の手続きを追認しはじめている。わたしたちが地域社会から世界普遍性を虫メガネでとりだすこういう方法に飽きあきして不毛だと考えているのは、べつに「外部」をわきまえないからではない。そんな次元がすでに何の意味もないことを熟知し、まったくかれらと異った次元に立っているからだ。西郷信綱はスサノヲノミコトが高天原から追放される神話に、「王」の追放と流浪の普遍性を見つけようとし、大林太良は新嘗祭や大嘗祭に「王」(天皇)の霊が死(殺)されまた再生する普遍性をとりだし、アマテラスの岩戸隠れと扉開きの説話などに殺され王とその復活の姿の普遍性を見ようとする。何のことはない。これらの人たちが「王」の普遍性だとおもっているものは、ただ日本の天皇(制)神話もまたアフリカ的な段階を潜在的に含んでいるという問題にしかすぎない。地域の固有神話や個別の歴史や民俗の記述や事象のなかに普遍性を探るというやり方が、どんなに不毛かということに気づかなかったり、気づいても無智な内部の人間には、まだごまかしや啓蒙がきくと考えているとしたら、かれらの空振りなど取り上げて批判するにも値しないのだ。
 (『言葉の沃野へ―書評集成・上 日本編』P35-P36 吉本隆明 中公文庫)
 ※@とAはひとつながりの文章です。


 (註.1) ウンター・クラッセン
unter klassen(ドイツ語)か。サブクラス(下位クラス)





 (備 考)

わたしたちは、戦前の世代とは違ってもはや記紀の神話には疎い世代である。自覚的に関心を持ってそれらの神話を読む者は数少ないのではないかと思う。また、関心を持っても、神話の記述を事実と受け取ったり、現実の具体的な人物や出来事に当てはめようとしたり、神話を扱う方法が自覚的ではない。

神話や説話を読む場合、確かなものとして読むことができるのは、神話や説話をそれを生み出した当時の人々の無意識的な表現として読むことである。例えば吉本さんが、古事記の国生みの神話の表現からこの神話を生み出したのは海人系の人々ではないかと判断したように。それ以上に深く神話や説話を読み込みたい衝動はわかるけれども、現在の所の方法では、現在的な了解の視線を無意識的に携えてそれらを恣意的に解釈することに陥りがちだと思われる。

この項目は、吉本さんが縄文期や弥生期をどのような歴史段階として捉えていたかの備忘として設けたものでもある。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
496 天才領域 吉本隆明・まかないめし二膳目。 対談 ほぼ日刊イトイ新聞 2001.8

※ 「ほぼ日刊イトイ新聞」での「吉本隆明・まかないめし二膳目。」という対談。その第6回と7回より。

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個人ではなくて、ある領域に関して
項目
1

@
糸井 教えないだろうなあ。メシのタネの競争相手が増えるわけだから。・・・今の日本だと、その秘伝の逆で、何でもかんでも、やりかたまでもあらわしていきますよね。「ほんとうは誰でもできる」というところまでノウハウを出して、それでもなおかつ、 「そいつでなければいけない理由を探している時代」という感じがありますけど。・・・えーっと。非常に青臭い質問なんですけども、そういう時って、ひとりの人間の価値って、何が左右するんでしょうか?

吉本 ぼくはそういうことを考えたことがありますので、少しは、おこたえできると思います。ぼくの行き着いたところは、要するに、平均値といいましょうか。「あるひとつのことに関して、こうやれば食えるようになる」ということの、平均値が、おそらく10年なんです。
「あること」を10年間していたら、食えるようには、なる。それはぼくが、保証します。

糸井 (笑)「保証する」って。

吉本 そういうことに関しては靴屋さんであろうが小説家であろうが「おんなじ」だから、「十年間毎日ずうっとやって、もしそれでモノにならなかったら、俺の首やるよ」というか、それ以外には何にも関係ないよ、って、ぼくの判断としては、ぜんぶ、そういうことにしちゃっています。そうじゃないかもしれないんですけれども、ぼくは、そうだって、決めているんです。そうすると、村上春樹が
小説で書いているように、「おなじ成分のおなじシェーカーでカクテルを作っても、うまいものを作る奴とまずい奴には、必ず違いが出てしまう」
(註.1)という風なことは、ぼくは、認めないですね。そういうことを言う人も認めない、とぼくは、思っています。「・・・そんなことがあるか」っていう。おなじ器でもって、おなじ成分の割合で おなじように振ったら、おなじものができるのは、当たり前だ、とぼくは思っています。もしかしたら、違うかもしれないけど、「そう思ってうたがわないんだよ」と、ぼくは決めちゃっていますね。それ以外のことは、何もないよ、って。もちろん、才能みたいなものがあるとすれば、その人の器とか特徴とか性格までが発揮されていくでしょうけれど、 「そこまでのひとは、あんまりいない」というか。
 (<第6回  十年間、毎日、ずうっとやってて、それでモノにならなかったらクビやるよ。>2001-08-17 「吉本隆明・まかないめし二膳目。」ほぼ日刊イトイ新聞より )


A
吉本 例えば日本近代文学で飛び抜けたと言えば、明治以降なら、鴎外とか漱石とか、近ごろで言えば大宰治とか、その程度しか、いないのではないでしょうか。その、「ごく、まれ」な人たちには、これはちょっと普通の人以上だよ、と感じます。
つまり、「10年何かをやった、という以上のもの」を感じさせられます。それは何かを本人として作った、各人なりの工夫をした、と考えます。それでも決して、「才能として大きいから、こういう作品を作ることができた」とかそういう風には、思いません。思わないというか、そういう考えを、ぼくは、認めていない、と言いますか。

糸井 ぼくも、もともと、似たようなことを思ってたんですよ。「作品がとてもよく見えたりする」ということって、ありますよね。でもそれは、普遍的にすごいというよりは、作り手の「からだのかたち」だとか、「かおのかたち」の好みに近いようなものだと思うんです。好かれるとか嫌われるというのは、作り手と受け手という動物どうしが、においをかぎあうようなものから、生まれるように考えています。「あの人の、えも言われぬ世界」と言われるようなものは、ほとんど、ある時代の美意識の反映に近いと思います。そういう、どうしようもない力が働いてしまうのが、作品なのでしょうね。それを言わないで、普遍的にすごい作品だとか言っていろいろな時代の、いろいろな人間の感じ方を、ぜんぶがまるで対等にはかることのできるかのように扱うと、ものを見る時に、困ってしまうのではないかなあ。

吉本 そうだと思います。ぼくは、「10年以上やればなんだっておなじだよ」ということだけは、言っても間違ったことにはならないと思いますが、逆に「あの人は天才だ」ということは、なかなか言うことができないんです。
天才は、ない・・・。ただ、要するに、「天才領域」というものは、あるぜ、というように思うんです。ある時代には、才能を発揮できる分野があって、そこに入った人の中には、かなり、天才的なことをやれる人がいると思うんです。

糸井 吉本さん、最近、さかんに、「天才領域」について、おっしゃいますよね。

吉本 そうですね。
個人ではなくて、ある領域に関して、「これはすごいなあ」と思う時はありますね。糸井さんにも、ぼくはそう思うところがあって、「この人、ちょっと天才的だねぇ」と感じるところがあるのです。それは、「ある領域があって、その領域に入って何かを専門にする」みたいなことをやった人が、天才的になりうる、ということだと思うんです。文学なんていうものは、もう、どうしようもないもので、つまり、もう、そういう領域なんて、文学の中にはないんだよと、ぼくは、そう思います。「資質も何もなくても、十年間やれば何とか商売にはなる」と考えています。そこから超えて何かをしたという奴は、いないことはないのでしょうが・・・。せいぜい、「百年にひとりかふたり」くらいの数だよ、と思います。なかなかそういうところには行けないし、やろうと思ってできるものではないけれども、そういう人は、いないことはないんだと。

糸井 そういう百年にひとりかふたち(ママ 「ち」は「り」の間違いか)の人と、十年間やった人との差は、もう、背の高さとかに近いものだっていう?

吉本 生まれつき体が大きかったとか、太っていた、というものに似ているもので、つまり、理由を言いようがないし、そのことを言ったり聞いたりしたところで、そうなれるというものでは、ないんでしょう。10年以上の何かを感じさせる人は、確かに、その人の内側から見れば自分なりの工夫を何かしたのだろうけれども。

糸井 (笑)秘伝を。

吉本 だけれども、それは経験の問題では、ないよと。言えないし、誰かが真似できるものではない。

糸井 うん。

吉本 経験だったら、間違いなく「10年やったら・・・」ということだと、ぼくは思えます。
 (<第7回 イチローの練習量は、たくさんじゃねえか。>2001-08-20 同上 )

※引用文は、原文は1行の文字数が少ないですが、普通に均しています。
※項目293 「十年やる」は、この項目の関連事項です。







 (備 考)

「言葉の吉本隆明@」の項目293と390「十年で一人前」の関連として、この項目を立てている。

以下は、「カール・マルクス」の中にある有名な言葉だと思うが、言葉の吉本隆明@の項目27「人間の価値」として挙げている。吉本さんの論理は若い頃から一貫しているところがある。論理の思いつきレベルの右往左往でなく、はじめ論理の核をつかみ、よりわかりやすく彫琢していくようなところがある。これについてもそう思う。以下の人間認識が「十年で一人前」には現れている。また、天才というものを認めないのもそこから来ているし、じゃあ世間で「天才」と呼ばれるものをどう判断するかと言えば、「幻想の領域」ととらえていて、これはこの項目の「天才領域」とつながっていると思われる。

「ここでとりあげる人物は、きっと、千年に一度しかこの世界にあらわれないといった巨匠なのだが、その生涯を再現する難しさは、市井の片隅に生き死にした人物の生涯とべつにかわりはない。市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世界にあらわれない人物の価値とまったくおなじである。」

「ある<時代>性が、ひとりの人物を、その時代と、それにつづく時代から屹立させるには、かならずかれが幻想の領域の価値に参与しなければならない。幻想の領域で巨匠でなければ、歴史はかれを<時代>性から保存しはしないのである。たとえかれがその時代では巨大な富を擁してもてはやされた富豪であっても、市井の片隅でその日ぐらしのまま生き死にしようとも、歴史は<時代>性の消滅といっしょにかれを圧殺してしまう。これは重大なことなのだ。」

 (言葉の吉本隆明@の項目27「人間の価値」)


(註.1)
吉本さんは、村上春樹の作品中の言葉を「おなじ器でもって、おなじ成分の割合で おなじように振ったら」と捉え、「おなじものができる」と判断している。わたしはその村上春樹の言葉を知らないけど、もしかしたら振り方などが違うのかもしれない。たぶん作者の経験が作品に持ち込まれていると思えるからだ。この件に関して、わたしにも経験がある。大根下ろしが面倒だなと思って少し小さくしてミキサーにかけたことがある。まずくて食べられたものではなかった。同じようにすった形になっていても、よくわからないけど大根の繊維などの様子が違っているのかもしれない。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社
512 天皇と武家の二重権力 『吉本隆明 戦後五〇年を語る』165 インタビュー 週刊 読書人1999年6月11日号 読書人

※聞き手 山本哲士・内田隆三・高橋順一

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一種のタブーの問題 奇妙なやり方
項目
1
@
吉本 
鎌倉時代が一番はっきりしていますが、武家階級が出てきて、国中の権力も軍事力も全部、武家階級が掌握してしまった。つまり幕府が掌握したのですが、それだったら、中央に出て天皇に代わってしまうのは当然だと僕には思えるけれど、そういう発想はないのですね。右大臣とか左大臣とか正何位のような位階勲等を授けたり、宗教的な一種のお祭りをやる宗家といいますか、そうした大本としての天皇家の役割に対しては、武家階級もそれに取って代わろうとはしなかった。それは藤原氏でも何でも同じです。実質上、藤原氏の方が権力もあるし、自分の娘を若い時から皇太子になりそうな人物に目合わせて、外戚としての地位も確保しているのですが、自分が取って代わるようなことは考えもしなかったわけです。
 僕にはよくわからないのですが、それは一種の宗教的タブーの問題ではないかと思うんです。宗教的タブーといいますか、カースト的タブーも含めて、
一種のタブーの問題であり、それがあったためにどうしても、表側から天皇制を見ていくと、取って代わるのはタブーを侵すという感じ方が出てきてやりにくい。実質的に権力を全部無化しておいて、しかし宗教的な権威、ないしは婚姻制度的という意味での権威は天皇家に残しておく。表から見た天皇制のところでは、そうしたタブーにまだ引っかかっていたと思います。裏から見た場合には、実質上、あらゆる権力は藤原氏が全部握っています。天皇家は院政という形でわずかにそれに抵抗する様子を見せたけれども、それ以上のことは何もなくて、武家階級の時代になったら明瞭に分離されてしまいます。武家階級はどうしたかというと、完全な二重権力で、たとえば地方官か何かの勲等の授与があるとすると、そこには必ずと言っていいほど幕府派遣の守護・地頭がくっついている。要するに権力は武家の守護・地頭の方にあるわけです。天皇家が任命した地方官の方には実質的な権力はない。そうした形を明瞭にとって二重権力を作っているのですが、それを一重にすることはしません。そういう奇妙なやり方をずっとしてきました。


A
吉本 それは徳川家が終わる時も同じで、おそらく伊藤博文が一所懸命頭をしぼったのだと思います。ヨーロッパの王室制度も実際に行って調べてますしいろいろと考えたのでしょうが、結局は「天皇は神聖にして侵すべからず」という条項を設けるわけです。
伊藤博文の『憲法義解』を読むと、それに注釈が付けてあって、天皇の肉体を傷つけたり侵したりすることはまかりならんと書いてあります。肉体に対するタブーはきちんと守らなければいけない。
 天皇の肉体に対して、治療の意味であれ何であれ手を触れたことが公然となったのは、昭和天皇が危篤になって手術が公表された時が初めてだと思います。


B
吉本 
牧野伸顕の日記に書いてありますが、昭和天皇が摂政になったときに、摂政になる条件として、女官はみんな家へ帰して家から通うようにしてもらいたい、それと生まれた子供は自分たちで育てたいという二点をあげたそうです。天皇家はそこから初めて近代化されたわけです。それ以前は、皇后に子供が生まれなかった場合、女官との間で子供を生んで相続を守っていくという制度があり、初期の天皇の頃からずっと同じやり方をしてきたのですが、そこで初めて廃止することになりました。
・・・中略・・・
 それからもう一つ、子供が生まれたら、これは昔からの乳人制度なのでしょうが、関東の多摩地方の豪農の家に預けて、そこでおっぱいを飲ませて育ててもらうという制度がありました。そういうのはもうやめて、自分たちで子供を育てたいと言った。つまり家族というものと、制度的王としての天皇の違いをはっきりさせたわけです。
 (『吉本隆明 戦後五〇年を語る』165 週刊 読書人 1999年6月11日号)
 ※聞き手 山本哲士・内田隆三・高橋順一
 ※@とAは、連続した文章です。












 (備 考)

たぶん、天皇勢力もあるとき横合いから社会(部族社会など)の上に乗っかってきたもので、そこから「奇妙なやり方」をもたらす天皇制を築いていったのだろう、つまりある起源を持つものだろう。しかし、その起源がまだまだはっきりとは見えてこない。


吉本さんは、「奇妙なやり方」と語っている。このとき吉本さんはしばしば親鸞などについて語るように対象の〈信〉の世界に対して醒めて〈信〉の外にいる。わたしはと言えば、そのような〈信〉は確かにこの社会にも土壌としてあるような気がするとしか言えない。


現在は、世界政治について力関係や実体的な軍備や軍事力などで考えるのが相変わらず主流であるが、政治はこのようによく見えない観念や精神性に突き動かされているということがある。


Aについて
明治維新の時の、維新派ともいうべき勢力の戦い方について少し考えたことがある。天皇という神輿を担ぐことによってある優位性を獲得し、それをもって徳川幕府勢力に対抗した。天皇の政治利用と言えるだろうが、これも上の「奇妙なやり方」と同質のものだと思われる。そのことによって、戦いの犠牲の死者が少なく抑えられたと云うことはるかもしれない。

 





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社
516 東洋流の国家の考え方 フーコーについて 講演 吉本隆明の183講演 ほぼ日

講演日:1995年7月9日 吉本隆明の183講演の「講演テキスト」より引用
関連項目517

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太平洋戦争中まで 戦後のさまざまな変革 国家は政府
項目
1

@

3 アジア的な国家の考え方(引用者註.「講演テキスト」の小見出し)

たとえば、いまニュース番組になっているオウム真理教が考える国家っていうのは、そういうふうに考えていないと思います。つまり、100%市民社会を規制しているっていうんじゃなくて、生活している社会も全部すっぽりとはまってしまうと、含んでしまうし、また、それをもっといえば、そのなかに住んでいる人たちの心の中まで、すっぽり包んじゃっているものを、国家だっていうふうに考えていると思います。
それは、いってみると、東洋流のっていいますか、アジア的な国家の考え方っていうのは、大なり小なりそうだと思います。日本でもっていいますか、われわれ
、ぼくらでも、青年時代から第二次大戦、あるいは、太平洋戦争中までは、国家っていうのは、そういうものだって考えて、そういうイメージをもっていました。
つまり、社会生活をしている、そういう人たちとか、そういう生活の場面とか、職場の場面とか、あるいは、農業でいえば土地とか、そういうのも全部ひっくるめて、漠然と、日本国家っていうと、それを全部ひっくるめたものを、だいたいイメージしていたっていうふうに思います。それは、東洋流の国家の考え方だと思います。

ですから、その頃、ぼくらはそうでもないけど、ぼくらの父親とか、父親の父親くらいの代までの人だったら、土地は国家のものとか、国家って言わなきゃ天皇です。神個(ママ)一人のものだとか、土地っていうのは、誰それのものじゃなくて、神個一人のものだっていうふうな言い方で、全部そこで、国家に包括されてしまって、自分では私有している土地の証書とか、そういうものは持ってるんだけど、ほんとうは、心の中では、自分のものだって思っていないわけです。国家から与えられたものだぐらいに考えているっていうのが、それまでの一般的な考え、いまでもそういう考え方だって思います。
それから、もっと極端な人は、国民っていいますか、社会に住んでいる、日本国だったら日本人ですけど、日本人っていうのも、それは天皇陛下の子どもでとか、国家の子どもでとか、そういう人間までぜんぶ含めて、それは、国家のものとか、あるいは、国家を支配する人のものっていうふうに、そういうふうに考えていたっていうのが、そういうふうに感じていたっていうのが、一般的だったわけです。


A

それが、戦後のさまざまな変革のなかで、日本における国家の考え方っていうのも変わってきて、現代では、ヘーゲル・マルクス流の国家っていうのと、市民社会とは違うんだよっていう、国家は法律みたいのを介して、市民社会に干渉している、そういう存在なんだよ、だから、国家っていうのは、政府っていうのに、ほぼ等しい意味合いで、ぼくらはそういうふうに使っていると思います。
つまり、それは、いちばんわかりやすいのは、たとえば、公害裁判みたいなのがあって、それで、国家を相手取って、公害病の生涯の補償を認める為に、国家を相手取って、裁判を提起するとか、訴訟を起こすっていうような言い方の場合も、その国家っていうのと、ほぼ等しい意味合いで、国家っていう言葉を使っているっていうのが、いまのぼくらの使い方だと思います。
でも、心情まで含めていうと、そこまでなかなか東洋の人は、なかなかそこまで徹底できないで、理屈ではそうなんだけど、やることは、なんとなく市民社会に生活している、生活のやりかたそのものも、国家の中に包括して、漠然と考えているっていうなのが、そこまで心情的な心のところまでいえば、そういうことになっていると思います。


B

それは、また、いま現在の、ニュース番組になっているオウム真理教みたいな事件が起こると、テレビとか報道機関なんかに出てくる、自分ではインテリだって、知識人だって思っている、そういう連中が記事を書いたりなんかしても、ようするに、全部、ぼくらが見てると、国家の機関のひとつである警察がそうですけど、警察がめちゃくちゃな捜査方法をしても、それはいいんだ、いいんだって、それは前提として発言してるっていう発言しか、皆目存在しないっていうふうになっています。
それは、なぜかっていうと、国家っていうのを、国民をぜんぶ包括している存在のように、解釈しているからだと思います。そういう解釈を心情的には、心の問題としては、逃れられていないからだと思います。それはやっぱり、現在の日本人の実情だと思います。
でも、頭では、そうじゃなくて、国家っていうのは、上のほうにあって、われわれの生活を、社会を、規制しているけど、それは、生活社会、つまり、市民社会と国家とは違うんだよっていう、まったく違うものなんだよっていうような、理屈では、そういうことはわかっているし、言っているような人でも、それから、自分を国際人だと思っているようなインテリでも、やっぱり、それはそうじゃないです。そういうことになってくると、全部、国家の機関がやることは、前提的に、なんでもいいことなんだっていいますか、許すっていうか、それでいいんだっていうふうになっていって、それで、ものごとの判断が起こるっていうのが、現状だと思います。
これは、ぼくらは、非常にびっくりしたことです。たとえば、オウム真理教事件みたいな、サリン事件みたいな、きわどい事件が起こると、そういうことがみんな出てきちゃうわけです。ほんとうは、理屈をこねると、国家っていうのは、社会とは違うさっていうふうに思っているし、言ってる人たちは、そういうきわどい事件が起こると、すぐに心情的に、ぜんぶ国家っていうのは、自分たちのおこないとか、感じ方まで全部、国家っていうのを前提として、肯定して成り立っているんだっていうふうに、思ってしまうってことになってくるわけです。
それは、ほんとうの意味では、東洋的な国家観っていうのを、われわれはまだそんなに逃れられていないってことを意味していると思います。それが、現状だと思います。
 (『 A172フーコーについて』吉本隆明の183講演 講演日:1995年7月9日)

 ※@、A、Bは、連続する文章です。














 (備 考)

社会、国家を起源の方に返して、起源的に考えるならば、社会(集落)にずっと遅れて国家は始まっている。あるいは、アイヌのように社会(集落)以外に国家を生み出さなかった人々もいる。すべてを国(国家)に包括させてしまうアジア的な感性や考え方は、当然古代国家形成の辺りからのアジア的な社会構成が長らく続いたものがもたらしたものであろう。すなわち、それ以前の縄文的、アフリカ的な段階の社会の感性や考え方とは一線を画すものであろう。しかし、それ以前の縄文的、アフリカ的な段階の社会で、恵みとともに災いをもたらす大いなる自然を全能の神のように見なしてきた人々の心性は、人間社会に写像されて、国家や天皇などを「全能の神」と見なす「東洋流の国家の考え方」の温床となったはずである。


現在から、つまり、一度打ち砕かれた「東洋流の国家の考え方」の残骸と主に敗戦後の欧米の社会、国家観の滲透という中で育ってきたわたしたちの視線からは、人類の社会・国家の始まりは、そこに含まれる幾分かの動物生の名残から来る邪悪さや支配欲などをふるい落とせば、社会(集落)の必要や生き残りから国家のような組織を生み出していったものと考えられる。したがって、国家−社会というように社会に国家が強力にそびえ立つ長いアジア的な段階を通り過ぎて、そこから育まれた自然な視線では、国家が人や社会や土地などをまるごと包括しているように見えるかもしれない。しかし、遙か起源の方から照らし出せば、ヨーロッパ的なヘーゲル・マルクスの国家の考え方の方が、実情にかなっているように思われる。


この「東洋流の国家の考え方」の現在的な問題としては、インター・ネット世界のSNSの助けによって、自己世界の拡張(感)が自然なものと感じられていることがある。これは自己と国家などを同一化する「ネトウヨ」現象のことを念頭に述べているが、誰もがそういう可能性を与えられている。自己世界の拡張(感)と書いたのは、それがバーチャルなものだからである。しかし、バーチャルであろうと人はそれに接続をくり返す中で自然なものとしていく。ここで、付記しなくてはならないのは、近代以降現在まで「東洋流の国家の考え方」が残存していいて、その個における意識の接続法とも言うべきものは同一でも、その社会的基礎は変貌してきている。この「東洋流の国家の考え方」は、近代以降戦前までは天皇(制)に、言いかえると農業社会に、その自然的、感性的基礎を置いていた。現在の「ネトウヨ」現象はいわゆるオタク文化的なバーチャルなもの自体に、言いかえるとこの消費資本主義社会に、その自然的、感性的基礎を置いている。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
550 特攻隊のイメージ 第一章小林よしのり『戦争論』を批判する インタビュー 『私の「戦争論」』 ぶんか社 1999年9月30日

※聞き手 田近伸和

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特攻隊がうらやましくてしょうがなかった 普通の民衆の戦死や死
項目
1

@

 (ウソから出発した共産党をはじめとする戦後左翼)(引用者註.これは本文の小見出し)

――小林よしのりは『戦争論』で特攻隊の青年たちのことも描いています。『戦争論』では、「特攻隊をひたすら美化するつもりはない」、「恐怖でふるえていた」者も特攻隊の中にはいたかもしれないとは書いているものの、読後感としては特攻隊を雄々しく描いているという印象は否めません。「公のためにあえて個を捨てた」とか、「覚悟を決めた男たちの顔はスッキリしていたという」とか。

吉本 特攻隊にはそういう覚悟を持ったように見えた青年たちもいたでしょうが、そうじゃなく、本当に嫌々死んでいった青年たちもいたんです。戦後、僕の知り合いだった橋川文三とか左翼系の人たちが編纂した
『きけわだつみのこえ』は、そういう戦没学生たちの手記を集めたものです。当時、僕は文学青年でしたから特攻隊がうらやましくてしょうがなかった。小学校を出て、すぐ軍の少年航空兵になり、潔くて敵艦に突っ込んでいく。軍での訓練の仕方とかをニュース映画で観たりもしていましたから、そういう単純率直、竹を割ったような生き方がうらやましくてしょうがなかったということがありました。

――俗っぽく言えば、男っぽい生き方≠ノ憧れたということですか?

吉本 そうなんです。文学青年というのは、屈折があるから文学青年になるわけで、どこかグチュグチュしているわけですよ。戦争は肯定しているんだけど、心の片隅では「面白くねえ」みたいに思ったりもしている。だから、特攻隊として飛び立っていく連中を見ると、「うらやましい」「こりゃ、かなわねえよ」と思って、劣等感を持っちゃうんです。

――当時、もし特攻隊を命じられていたら?

吉本 軍国青年でしたから、もちろん、飛び立っていきましたよ。そのくらいには、軍国青年としてできていましたからね。でも、やはり、いろんな疑問を抱きながら飛び立っていったとは思います。


A

――戦後左翼は、先の戦争で死んだ一般の兵隊や特攻隊などを「戦争の犠牲者だ」「無駄死にだった」といって、紋切り型に片づけています。その死を、軍国主義批判の単なる道具にしているわけです。小林よしのりは、『戦争論』の中で、もし自分が特攻隊として戦死したとして、それを「無駄死にの犠牲者」だというふうに片づけられたら、「たまったものではない」といって、怒っています。その怒りは当然で、共感できます。

吉本 僕もまったく同感です。
僕が一貫して共産党をはじめとする戦後左翼、そして、その同伴者だった戦後民主主義に賛成できない一番のところは、そこなんです。日本の兵隊というのは、普通の民衆ですよ。その民衆が、兵隊として100万人単位で死んでいる。(※注 戦没者総数310万人。その内訳は軍人・軍属関係230万人、非戦闘員の一般人80万人)それを、「無駄死にだった」とか「侵略戦争の犠牲者にすぎない」とかいって、共産党をはじめとする戦後左翼はあっさり片づけたわけです。「これは絶対に許せないぞ」というのが当時の僕の思いでしたし、それは今も同じです。
 (『私の「戦争論」』P36−P38 吉本隆明 ぶんか社 1999年9月)











 (備 考)

本人も公言しているが、戦争中の吉本さんは、「いろんな疑問を抱きながら」も戦争を肯定する当時では「普通」の軍国少年であった。

現実の渦中の肌感覚は、人それぞれという面もあるが、あるいは現実のどのような層を占めていたかなどによって違ってくる面もあるが、大多数の普通の人々の戦争下の肌感覚に連なるものが敗戦後の吉本さんの思想のモチーフであった。しかも、自分や大多数の普通の人々の戦争下の肌感覚に対する批評性を持ったものとしての思想のモチーフであった。敗戦後の「平和」や「自由」の謳歌組もほんとはそこから出立すべきだった。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
574 中国の捉え方 再見・竹内好―生誕一〇〇年 語り 『吉本隆明資料集179』 猫々堂 2018.10.15

※ 「再見・竹内好―生誕一〇〇年」は、『毎日新聞』2010年10月19日に掲載。
  聞き手 大井浩一

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中国は、民族もきわめて多様 中国の複雑さ
項目
1

@

 中国は国土が広いだけでなく、民族もきわめて多様です。先史時代の南北アメリカや、中近東とも交渉してきました。
そうした多民族性を考えれば、中国がアジア的かどうか簡単には言えません。毛沢東の失敗は、一つには彼があまりに漢民族的で、大きな視野で世界を考えることができなかったことにあります。まして日本人には、なかなか理解できないところでした。
 そういう
中国の複雑さを日本人でよく把握できたのが、竹内さんと武田(引用者註.武田泰淳)さんでした。竹内さん自身はヨーロッパの文学や思想の影響を受けていますし、日本対中国、日本人対中国人といった比較に関しては突出した思想家です。ただ、難しいのは、毛沢東を支持していても、竹内さんの目には中国の多様性が映っていたわけですから、どこに向かって本当のことを言ったらいいかが自分でも決まらなかったのではないでしょうか。竹内さんの思想に東洋的な狭さを感じたのは、そういう点です。
 (「再見・竹内好―生誕一〇〇年」P91『吉本隆明資料集179』猫々堂 )






 (備 考)

吉本さんの「そうした多民族性を考えれば、中国がアジア的かどうか簡単には言えません。」というような言葉は、吉本さんが晩年になって初めて聞いたような気がする。


このことは、少し前に別のところでも吉本さんの言葉に出会って、あれっ?と思ったことがある。中国はむしろヨーロッパに近いと語られていたような気がする。残念ながら、どこに載っていたか忘れてしまった。(『私の「戦争論」』かなと思ったが、見つからない。『吉本隆明資料集』だったかな?)


関連で、NHKのBS番組、世界ふれあい街歩き「海のシルクロードの面影 泉州〜中国〜」(2018年11月6日)を観ていたら、「潯埔村」の人で祖先がアラブから移り住んだという人が出た。そういうのが中国の各地であったのだろう。

日本も、少なくとも縄文系の旧日本人と大陸系の新日本人とが混じり合っている。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
585 他者に映る吉本隆明像より @ (「親鸞ファン宣言! 西本願寺「日曜講演」のトークから トーク ほぼ日刊イトイ新聞 2019.4.3 ほぼ日刊イトイ新聞 2019.4.3

 (「親鸞ファン宣言! 西本願寺「日曜講演」のトークから 釈徹宗・糸井重里」2019.2.24 、ほぼ日刊イトイ新聞 2019.4.3 第一回より、全四回)

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吉本さんという人
項目
1

@

糸井 そのようにして、さまざまなかたちで
お話を聞かせていただいていると、
吉本さんが思想家としての親鸞という人に
非常に強く影響を受けていることが
感じられるんですね。いくつか柱があると思うんですが、
特に思うのは「ゆるす」姿勢といいますか。
「自分はこうダメなんだ」ということを
まるごと抱えながら翌日を迎えるような発想。

釈 「善悪をきっぱり分けて悪を徹底的に叩く」
ではなく、
「善も悪も抱えながら生きていく」
といった感じでしょうか。

糸井 さらにいえば
(註.1)
「その人のせいでなく善であり、悪である」
というような感覚ですね。
善行も悪行も、それぞれの人のせいではなく、
縁があったからそうなったものだという。


釈 えぇ、わかります。

糸井 「戦争で何千人と殺すのは英雄になる」
という言い方がありますよね。
だけど人ってそもそも、機縁がなければ
人ひとり殺せないわけです。
先生が弟子に「やってこい」と言ったところで
できるものじゃない。
また逆に、縁があった場合には、
めぐり合わせで何千人と殺してしまうことすらある。

釈 そうですね。

糸井 そういうことってぼく自身、
若いときにはよくわからなかったんです。
「人は自分の意思じゃなく
やってしまうことがあるものだ」
と言われても、
「いや、やらないことはやらないでしょう」
と思っていましたから。だけど中年にさしかかるにつれ、
だんだんと
「一人ずつそれぞれのきた道を考えれば、
そういうこともやってしまうのが人間なんだ」
と考えるようになりました。ですから吉本さんのお話を聞きながら
「このことはもっと前から
知れていたらよかったな」
と思いましたし、
さらに、吉本さんの話の先にいる、
法然・親鸞の存在にも興味がでてきて
「こういった人々の教えを知ることは、
ずいぶんみんなを
生きやすくしてくれるんじゃないか」
と考えるようになりました。


A

釈 いまのお話は、親鸞の教えが書かれた
『歎異抄』第十三条からのお話ですね。
「いま自分が大きな罪を犯していないのは、
自分が善人だからではないんだ。
たまたまそういうめぐり合わせに
なかったからなんだ」という。

糸井 そうなんです。

釈 そういった、善と悪とを単純に
分けてしまうことのウソっぽさといいますか、
もっと拡大して言えば
「この世界全体が不確かなものだ」
といった感覚。
吉本さんが親鸞に惹かれたのは
そのあたりの部分しょう。
著作を読んで、そう感じました。


B

糸井 吉本さんという人は本当に穏やかな人で、
なめらかに言葉が出る人ではないんですけど、
いつも一所懸命、ひとつずつ考えながら
喋ってくれているのが伝わってくるんですね。
そして、そういう言い方で、
自分が若いときにどういう間違い方をしたとか、
親にこう諭されたとか、こんな失敗をしたとかを
語ってくださるんです。そしてそういった話の根本にいつも
「やさしい」だけでは言い切れない
「自分で決められないことというのはあって、
しょうがないことだらけなんだ」
という考えがあるように感じるんですね。

釈 しょうがないことだらけなんだ、ですか。

糸井 ですからたとえば、
今日ここにお集まりの方々はおそらく、
好奇心や行動力のある方が多いと思うんです。
そしてそのこと自体は
すばらしいことだと思うんです。でも、だからといって、
こういう場所に来ない人について
「ああいう話を聞かなければダメだよ」
とか言いはじめたら、
それは違うと思うんです。
来ない人にはその人が歩いてきた
道すじがありますし、来ているかたも、
そういう運があったというだけですから。だから、たとえ良いことであっても、
やらない人のことを責めるとか、
自分がいいところにいるときに
悪いところにいる人を蔑むとか、
そういう態度をするべきではない。そのあたりの平等性というか
「みんな平等で、だれでも全部救う」
というのが親鸞さんの教えの根本にあって、
ぼくは吉本さんを通じて、
そのあたりのことを教えてもらったと
感じています。


 (「親鸞ファン宣言! 西本願寺「日曜講演」のトークから 釈徹宗・糸井重里」2019.2.24 、ほぼ日刊イトイ新聞 2019.4.3 第一回より、全四回)
 ※@とAとBは、連続した文章です。















 (備 考)

(註.1)
これについて、わたしなりの註を付けてみる。
この問題は、この現実の地平でのひとりの生存、そしてその振る舞いは、独り立ちすると、現在ではすべて自己責任のようになってしまうが、ほんとうにそれで済むのだろうかという問題になる。個の生存とその振る舞いの過半は家族や社会のせいと言えるのではないかと思う。たとえば、自分はなぜこうなってしまったのか、というような部分を誰もが持っているはずである。その部分は家族の関与(母の物語など)の存在を示唆している。このような問題も自己責任で閉じることなく開かれて行かなくてはならないものに属している。


わたしは、西欧化した社会の中の考え方や判断や生活思想において、糸井重里を高く評価している。ただ、東日本大震災後の「ほぼ日」としての東北の被災地への関わりはいいとして、放射能問題に対する関わりは、糸井重里個人というわけでもなく「ほぼ日刊イトイ新聞」という組織による関わりとなっていた。そのあるかなきかの集団性やそこにくっついてくる淡い取り巻きたちの存在に、わたしはある危うさを感じてきた。福島の当該地域の住民を中心として、その周囲の反原発派と反・反原発派の対立に無縁では済まされないからである。そうしたことをいくらか考慮した上での関わりであるとは、初期の頃糸井重里は語っていたように思う。
いずれにしても、ここでは吉本さんに共鳴し、自ら学んだ糸井重里のいい面が滲みでていると思う。

Bの最初の糸井の言葉は、糸井重里という存在のフィルターを通した吉本さんの像であるが、吉本さんの全像とまでは言えないが大きな部分を正しく捉えているように思われる。

芹沢俊介が、吉本さんの晩年に「芹沢くんとか、あるいは米沢君といった人たちが、最近はホスピス運動家みたいになってしまったことです。」(『生涯現役』P107 吉本隆明 2006年11月)と批判されて、実はそうじゃないのにと思っているが、誤解を解こうとして吉本さんと話すとおそらくけんか腰になるから、吉本さんから遠ざかっていたと述べているのを読んだことがある。

ちなみに、吉本さんはどこかで、ホスピスを、『往生要集』を著した源信の、阿弥陀如来の手と自分の手とを五色の紐で結んで浄土を願いながら往生するという即物的な臨終の技法と関連付けて語られてもいた。

晶文社の『吉本隆明全集37』[書簡T]の川上春雄宛全書簡を読むと、わたしたちは、吉本さんと川上春雄氏が思想的な前提を了解した上での深い付き合いだったことを知る。その交流の初期の頃は、原則を巡ってずいぶん火花を散らし合っている。芹沢俊介は、「試行」から表現者として飛び立ったはずだし、また吉本さんともいくつかの大事な対談集も出している。おそらく、吉本隆明−川上春雄と吉本隆明−芹沢俊介の関係の質は似たようなものだったと思われる。

つまり、糸井重里という存在のフィルターを通した吉本さんの像以外にも、このような思想的前提(自立思想)をともにしてきびしい付き合いをするのもまた吉本さんの像の一つであった。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
587 他者に映る吉本隆明像より A 「今日のダーリン」2019.4.12 ほぼ日刊イトイ新聞 2019.4.12 ほぼ日刊イトイ新聞 2019.4.12

※ 「糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの 今日のダーリン」ほぼ全文。『ほぼ日刊イトイ新聞 』2019.4.12

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吉本さんの、弱点というか盲点 「いい男」への「嫌悪」 あんなふうに中学生みたいな好き嫌いを言うこと


1

@

「あいつは、いい男でさ、女の人にモテるんですよ」
と悪口のように言うのは吉本隆明さんだった。
吉本さんの、弱点というか盲点というか、
「それはまちがってんじゃないの」という部分は、
それなりにいくつかあったとは思うけれど、
ひとつは「オーラルケア(口腔の手入れ)」についてで、
「あんな糸みたいなのとか、歯医者の言うなりにやって、
まったく意味なんかないですよ」と言い切っていた。
これは、まちがっているとぼくは思っていた。

もうひとつが、
「いい男」への「嫌悪」だった。
堀田善衛はけしからんらしいのだけれど、
「いい男でさ、嫌いなんですよ」と真顔で言っていた。
そのわりには対談をしたり、認めてもいた。
あ、島尾敏雄さんがモテちゃうことも、怒っていた。
聞いていると「島尾さんと上野に行ったときさ」とか、
なかよく付き合っていたようでもあった。
その人の人格とか作品への評価と無関係に、
「いい男だからけしからん」とはよく言っていた。


吉本さんほどの人が、
あんなふうに中学生みたいな
好き嫌いを言うこと
については、
「そういうもんなのかぁ」と、ちょっとおもしろかった。
どんなことについても考え抜いたような思想家も、
「中の人」の次元では、そういうところもある。
そして、堀田さんだの、島尾さんだのを、
認めて付き合いをしていたのも「中の人」だった。
さらに、それなのに、どうしても「嫌いだ」と言う。
たぶん、根本的には「いい男」が嫌いだという前に、
女の人たちについての考えが、
まとまってなかったのではなかったろうか。

そんな気もして笑っていたのだけれど、どうだったのか、
もうちょっと訊いてみたかったなぁ。

「人は、なりたい人になっていく」ものだから、
不断の努力を重ねて「ありたい姿になっていく」。
じぶんのことを考えても、いつでもその途中だと思う。
だから、あれこれ「後回し」になっていることもあって、
そこらへんは、笑われちゃうくらい弱いんだよねー。
ま、だからおもしろいとも言えるんだけど。

 (「糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの 今日のダーリン」ほぼ全文
 『ほぼ日刊イトイ新聞 』2019.4.12)












 (備 考)

吉本さんの身近にいた者で、割と冷静で公正な判断ができるものとして糸井重里の評を選択している。

しかしこれは、吉本さんと身近な付き合いをしていていろんな具体的なことを見聞きしていた、あくまでも糸井重里という存在の目や耳や肌感覚を通過してきた言葉ということは注意されなくてはならない。つまり、吉本さんにも言い分があるかもしれない。

吉本さんの「いい男」への「嫌悪」、初めて耳にするが、「いい男」への「嫌悪」に関しては、プライベートな付き合いの場での話であり、別にささいな問題だと思う。ただし、どんなささいなところにもその人の心の核や心の有り様からの表出があるということでは、吉本さんの心の核や心の有り様とは無縁ではないとは言えるだろう。それを単なる嫉妬と見なさないなら、たぶん、核としては、例えばなぜ彼がシャーマンなのか、シャーマンという存在を許せないというような、平等感性が吉本さんにはあってそこから来ているのではないかとわたしには思われる。簡単に「いい男」が、シャーマンに移行できるわけではないが、「いい男」にシャーマンの萌芽をを見ているのかもしれない。


吉本さんの奥さんによる吉本さん評が、吉本さんによって書き留められたものがある。(註.1)身近な奥さんの評の言葉であっても、穿(うが)った見方と評価しつつも、それでもいや違うという吉本さんの内心の声を書かれていた。こういうことは、わたしたち誰もが家族内などで経験することであり、実感としてわかるだろうと思われる。

(註.1)
 過日、兵庫県に住む未知の人から、わたし(吉本)宛に、息子の自殺と、息子の遺言により、わたし宛に最後の遺文を送付して、参考に供する旨の書簡があった。・・・中略・・・わたしは、過去に、この種の未知の、読者の正常でない死に方や生き方に、幾度も立ち会ってきた。このような場合、どこまで、どのように介入すべきかを、わたしは知らない。わたしが、自身に漠然と下している判断では、わたしの書くもののどこかに、本来ならばわたし自身が自殺や狂気にいたるべき要素が潜在していることの投射ではないのかということである。わたしの信頼している詩人の意見では〈そうではない、きみの書くものに救済を求めたものが、途中ではぐらかされた感じをもつために自殺や狂気や反撥に終るのだ〉ということである。わたしのからめ手からの辛らつな批判者によれば<あなたは、どんなに優しくしてくれたって、家事やすい事をやってくれたって、まったく手のかからない男だったって、ほんとうは、たいていのことは、どうでもいいとおもっているのよ。悪魔が羽ばたいているっていう重い感じよ。わたしだって自殺したいところだけど、他人がみれば、どうしたって、わたしが悪いということになるのがしゃくだからねえ>ということである。これらの批判は、相当な部分で当っているような気がする。しかし、わたしの心の底のほうで〈いや、ちがう〉という声にしても仕方がない抗弁と寂寥とがある。それは、だれに語るとも理解されないような沈黙の声であるほかはない。また、わたしは、どうしてよいかわからない、この種の経験をつみ重ねているうちに、わたしが把んでいるわたしの像と、他者が把んでいるわたしの像に、かなりのギャップがあるらしいことに、この頃、気がついてきた。これは、うかつといえばうかつな話だが、べつにカマトトぶって言っているわけではない。


これも、わたしのからめ手からの辛らつな批判者にいわせれば<あなたは他人に寛大でゆるしているようにみえながら、あるところまでくると、他人には唐突としか思えないような撥ねつけ方をするよ。決してその都度、わたしは、そういうことは好きでないとか、いやだからよしてくれとは言わずに、ぎりぎりの限度まで黙っていて、限度へきてから、一ぺんに復元しないような撥ねつけ方をするよ>ということになる。私には、この批判は、かなりうがっているようにおもえる。しかし、依然として〈いや、ちがう〉という無声の声を挙げるほかない。しかし、その声は、どこにも、だれにもとどかない、ことを、どうすることもできない。
(『試行』の1973年9月 の「情況への発言」、『「情況への発言」全集成1』(1962〜1975) P275-P277 洋泉社)



「わたしが把んでいるわたしの像と、他者が把んでいるわたしの像に、かなりのギャップがあるらしいこと」は、誰にも当てはまる普遍性を持っていると思われる。

それは、なぜだろうか。まず、大まかな入口は、前者は自分の内部像ということであり、後者が外部からの像ということである。もちろん、自分自身の思い込みや無意識も加担するから前者が自身の正確な像とは言えないし、また後者は自らの内部からの自己像体験などをもとに外から捉えるものであるが、上の例のように深く捉え得る場合もある。

もうひとつありそうに思える。前者は、自らの現実的な有り様が後者によって像として切り取られた現実の姿そのものと同じに見えても、自らの現実的な有り様には自らの現実の姿と同時にそれに抗ったり内省したりする姿も二重化しているはずである。あるいは別の言い方をすれば、自らの現実の振る舞いや姿は自分の歴史の根源からの長い旅の照り返しを浴びているはずである。そうして、その照り返しは、自分自身でもよくわからないような無意識的なものを含むものであり、他者にはなおさら不可視のものである。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
614 読書ということ 「過去についての自註」 論文 『背景の記憶』 平凡社 1999.11.15

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いま、それらのうち知識としては、何も残っていないといって過言ではない。 このような考え方、このような認識方法が、世の中にはあったのか、という驚きを除いては。
項目
1

@

 戦後、わたしは、どんな解放感もあたえられたことはない。聖書があり、資本論があり、文学青年のごたぶんにもれず、ランボオとかマラルメとかいう小林秀雄からうけた知識の範囲内での薄手な傾斜があり、仏典と日本古典の影響があった。戦争直後のこれらの彷徨の過程で、わたしのひそかな自己批判があったとすれば、じぶんは世界認識の方法についての学に、戦争中、とりついたことがなかったという点にあった。おれは世界史の視野を獲るような、どんな方法も学んでこなかったということであった。ひそかに経済学や哲学の雑読をはじめたのはそれからであり、わたしは、スミスからマルクスにいたる古典経済学の主著は、戦後、数年のうちに当たっている。
いま、それらのうち知識としては、何も残っていないといって過言ではない。このような考え方、このような認識方法が、世の中にはあったのか、という驚きを除いては。これは、すべて自己自身に向けられたときの驚きであり、自己批判であって、すくなくともわたしは戦争期の自己について、他に向かって自己卑下や弁解をすべき負い目を何も持っていない。そんな負い目をどのような思想家、実践家にも感じたことはない。また、ことさら不幸な時代に生きたとも考えていない。
 (「過去についての自註」P31『背景の記憶』)












 (備 考)


「いま、それらのうち知識としては、何も残っていないといって過言ではない。」と吉本さんは述べている。わたしたちは誰でも読書に関して思い当たることだと思う。そのことを専門分野として研究していて、くり返し同様の言葉や概念に出会っている学者などは別にして、普通のわたしたちは、そのような読書をしている。

読書の最中には、いろいろと理解しながら読み進んでいくはずであるが、つまり、精神の消費活動の現場のただ中にいるわけだが、読書を終わって時が経つに連れて書かれていた中味のことは忘れていく。ただし、読書時にその本から受けた強い印象は後々まで残るような気がする。吉本さんもそのことを述べている。

わたしが若い頃ヘーゲルの『精神現象学』やハイデガーの『存在と時間』を買って読もうとしたことがある。いずれも一部しか読めなかった。しかし、ヘーゲルについてはわけわからんような概念を積み重ねていく文章に驚いたし、ハイデガーついてはこんなに奥深いことをしつこく追究することがあるのかと驚いた印象は残っている。

読書においてわたしたちは何をしているのか。もちろん、他のあらゆる人間的なものと同じく人間的諸活動の現在の中にいるのだ。精神の消費や生産の活動のただ中にいる。そうして、その読書を含めて諸活動の現在性は、後々まで大まかな印象として喚起されるから、その後の人の精神のどこかに保存されている、あるいはその人の血や肉となっていることになる。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
615 大衆闘争ということ 「過去についての自註」 論文 『背景の記憶』 平凡社 1999.11.15

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体験と情況判断 敗北のすさまじさ 指導ということ
項目
1

@

 わたしは、どのような小さな闘争であれ、また、大きな闘争であれ、発端の盛り上がりから、敗北後の孤立裏における後処理(現在では闘争は徹底的にやれば敗北にきまっている)にいたる全過程を、体験したものを信じている。どんな小さな大衆闘争の指導をも、やらしてみればできない口先の政治運動家などを全く信じていない。とくに、敗北の過程の体験こそ重要である。そこには、闘争とは何であるか、労働者の「実存」が何であるのか、知的労働者とは何であるのか、権力に敗北するということは何であるのか、を語るすべての問題が秘されている。
わたしが、安保闘争敗北後に来たるべき情況を可成り正確に判断し、そのなかで組織的壊滅をかけてたたかった者たちの心事を、わたしなりの仕方で断乎として擁護してきたのは、おおく、この時期(引用者註.組合運動時代)の体験に依存している。敗北のすさまじさを労働者と大衆の「実存」の本質に照らして体験しないものには、指導ということの意味を理解することは不可能である。


A

 また、
現在の情況の下では、徹底的に闘わずしては、敗北することすら、誰にも許されていない。かれは、おおくの進歩派がやっているように、闘わずして、つねに勝利するだろう、架空の勝利を。しかし、重要なことは、積み重ねによって着々と勝利したふりをすることではなく、敗北につぐ敗北を底までおし通して、そこから何ものかを体得することである。わたしたちの時代は、まだまだどのような意味でも、勝利について語る時代に這入っていない。それについて語っているものは、架空の存在か、よほどの馬鹿である。
 (「過去についての自註」P35−P36『背景の記憶』)
 ※@とAは、連続した文章です。










 (備 考)

社会に出てからのわたしが関わったことのないこの大衆闘争の原型を、誰にもわかりやすいイメージで挙げてみると、ほんとうに模擬的なものにすぎないと思われるが、学校での学級委員などのクラスの上に立って代表する仕事を思いつく。そこでは、何かを話し合って決めていくという時、委員は、学校組織も関わってくる上の委員会での意向もあり、クラスの子どもたちの恣意的で自由な様々な考えもあり、という状況の中で、クラスの子どもたちとは違ったものやある困難などをいろいろ体験するはずだ。


安保闘争という政治運動、大衆闘争に関連して、

吉本 とにかく僕に言わせると、今みたいに共産党が何も言えなくなってる状態に追い詰められていく、一番最初のきっかけが60年安保だと思っていて、だから僕は要するに、反体制っていうことを何か人々の気持ちが集まってきて、何かデモでもやるとかっていうのはこれが最後だよって、僕はそういう判断してるわけ。大体全学連の幹部連中の判断も同じもんで、日本資本主義はこれからずっと栄えてくっていうふうに判断して、これは日本の資本主義がこれから興隆していく。で、これに対してどうすることもできないっていうふうにだんだんなっていく。その最初の兆候だよって。だから運動として何か行動をするならこれが最後だよって。その代わりこれはやり過ぎだとかそういうことは考えないで、学生さんの方針には従って一兵卒みたいにやると。そういう情勢判断をしてこっちはやってたわけですよ。だけどあの人たちは全然そうじゃないんだから。ここからだんだん自分たちが追い詰められてくとは思ってなかったわけですよ。だから全然、陽気だったというか。要するにいつものメーデーの日にやるデモで、お祭りだと思ってたわけです。で、ほんとに真面目に運動をやってたのは、全学連の主流派だけですよね。
 (『吉本隆明が最後に遺した三十万字 上巻 「吉本隆明、自著を語る」』P86 ロツキング・オン 2012年12月)

 ※この発言は、SIGHT第25号 2005年10月号に掲載されたもの。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
623 第二番目の敗戦期 A 第十一章『悲劇の解読』 インタビュー 『吉本隆明が最後に遺した三十万字 上巻 「吉本隆明、自著を語る」』 ロッキング・オン 2012.12.24

関連項目462 第二の敗戦期
第十一章『悲劇の解読』は、「SIGHT」第四十一号 2007年10月号に掲載。
インタビュアー 渋谷陽一

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二重性 たとえば終戦から自分が死にものぐるいで追求してきたことは、意味があるんだっていう感じ方の反面、「いや、どうもたいした答を出せていないな」っていうマイナス評価が出てくるんです。
項目
1

@

吉本 ええ、これはいろんな意味で、他のこととも繋がってくだろうと思っています。それで今は、自分にとって第二の敗戦期だなあと感じているんですよ。戦争末期と、敗戦直後の頃の自分が当面していた、これからどういうふうに生きていけるんだとか、何を信ずればいいんだとか、それから、食べるものもないとかいう状況。自分で、もう一回そこんところへ持っていって、同じぐらい、そういうことを切実に考えれば、何とかなるんじゃないかなあ、みたいな。

― 当時、戦後すぐに吉本さんが感じられた一種の敗北感、それから喪失感というのは、天皇制とか、あるいは吉本さん自身を突き動かしていたナショナリスティックなものが全部壊れ、根拠を失ってしまったわけですね。社会的な秩序そのものも全部崩壊してしまったと。
で、自分の中からすべてが失われてしまって、一から立ち上げないと何にもないぞっていう。それと同じようなものを今、感じてらっしゃるんですか?

吉本 そうです。そうだと思います。

― 今まで吉本さんが構築してきた思想的な在り様―自分なりに戦後のいろいろな世界的な思想を自分の中に取り込んで、その世界をどう理解して、そこに対して思想家、文芸評論家としてどう向き合うかっていう、それをもう何十年もやってらっしゃったわけじゃないですか。今、「どうもそれは通用しないぞ」っていう感じなんですか?

吉本 
通用しないっていうよりも、いつまでも、二重性の中に入り込んじゃって。

― その二重性っていうのは、何と何なんですか?

吉本 
つまり、自分がやってきたことへの自信、確信についてなんですが。たとえば終戦から自分が死にものぐるいで追求してきたことは、意味があるんだっていう感じ方の反面、「いや、どうもたいした答を出せていないな」っていうマイナス評価が出てくるんです。つまりロシアで言えばドストエフスキーとか、トルストイ、ツルゲーネフといった、どう考えたってその時代の、世界で超一級だっていう文学者はみんな死滅しちゃったじゃないかと。あとを継いで、「やっぱり超一流だよ」なんていう文学者なんかいやしないでしょ。フランスだってそうだと思います。正直に言えば、ヴァレリーとかジイドとかが最後でしょうね。かろうじてこの人は相当徹底的にやったなって思うのは、フーコー。サルトルが、フーコーというのは資本主義が送り込んだ最後のチャンピオンだって、そういう評価をしてましたけど。

― (笑)なるほど。


A

吉本 フーコーは徹底的なことを言い尽くしてたし。マルクスは西欧文化文明の中にぽつっと嵌めこまれてしまっているっていうのが、フーコーの究極的な評価ですね。この人は、サルトルが言うほどチャチな人じゃないと僕は思っていますけど(笑)。フーコーはとことんまで言っちゃってますよね。「フランス文化はもうのっぺらぼうで、人間なんか、どこにもいやぁしないですよ」っていうことも。絶望的になってる西欧社会を言いきってますね。

― 今吉本さんの持っている自分にとっての第二の敗戦期ではなかろうかという意識も、フーコーとも共有できるものなんですね。

吉本 そういうところはそうですね。

― だけど、世界観念という大きな概念、読み解かなければいけないものを設定して、自分の中で第二の敗戦期という位置づけをするっていうのは、やっぱりすごいですよね。それでまた、長い仕事をしなくてはならないわけで。

吉本 いや、理屈から言うと、まだまだなんですが。
でも自分なりに結論を得られるところまでは持ってこうと思っていますよ。

― わかりました。読者として楽しみに待っておりますので。

吉本 いや、こういうことは早く気がついていればよかったなあと(笑)。そこが面白いところですよね、人間の。小出しにしか考えられないもんです。
 (『吉本隆明が最後に遺した三十万字 上巻 「吉本隆明、自著を語る」』P197−P200 ロツキング・オン 2012年12月)
 ※@とAとは、一つながりの文章です。






 (備 考)

晩年にしばしば口にされた「第二の敗戦期」という言葉の内面が語られている。


@で、吉本さんが自分が成してきたことについての自信といや大したことできてないのじゃないかという疑念との二重性が語られている。その後「つまり」からは、すぐれた思想の継承ということがうまくいっていないということに話が移っている。したがって、吉本さん個人の中の二重性についてはわかるように思うが、その後「つまり」以降の話の接続がよくわからない。


すぐれた思想の継承ということに関して言えば、吉本さんは『カール・マルクス』で「市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったくおなじである。」(「マルクス伝」)と述べていて、格段に優れた人物はめったに現れるものではない考えていることになる。ここで、「千年に一度しかこの世にあらわれない人物」とはマルクスのことを指している。このように、人類史的に見てすぐれた者が次々に現れてその思想を継承していくというのではなく、現実は跛行的な継承なのかもしれないと思う。


関連項目462では、吉本さんは、現在の社会は「今急激に乱世になった」と語り、「第二の敗戦期」を「強いて言えば、『世界で通用している概念が敵』という敗戦」と捉えている。関連項目462「第二の敗戦期」と今回の新規項目623「第二番目の敗戦期 A」を比べると、前者が外に向かって放たれた場合の言葉で、今回のは吉本さんの内に放たれた場合の言葉と言えよう。二つの文章の発表はほぼ同時期だから、同年・同時期の考えだと思う。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
686 手で考える @ 「手を動かし続けること」「文章修行の方法論」・他 インタビュー 『吉本隆明 「食」を語る』 朝日新聞社 2005.3.30

聞き手 宇田川 悟

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物書きは手を動かさないと作品が書けない。 もし文学者になりたければ、10年間、手を動かすことだと思います。10年間やれば、一人前になりますね。 手を動かせばだいたい考えが出てくるっていうふうに、手と感覚がつながるようになります。 手を動かすこと、足を動かすこと、頭を動かすこと、心を動かすことはすべて繋がっているんです。
項目
1

@

 ――物書きになったのは?

吉本 僕はもともと文学の出身ではなくて、工科系の学校を出て、技術者として勤めていたんです。そのあと、特許の事務所に1日おきに勤め、そのかたわらで、エッセイなどを書く仕事を引き受けていました。ところが、だんだん、書くことの収入と特許のアルバイト収入が半々ぐらいになってきた。それで、物書きになろうか、特許事務所で働こうか迷った。本当は現場で働きたかったんだけど、特許の事務所ってのは書類を整理したり、事務的なことが多くて、技術者としての現場ではない。どうせ現場で働けないのなら、書くことで食おうと思いました。その時期が40歳前後のころだったと思います。だから、僕はいろんな社会現象に発言しているけど、ぜんぶ素人なんですよ。素人として、社会的な現象に対して、これをどう見たらいちばんいいのか、と考え、発言してきたのだけど、それでいいんだと思いますね。

――専門家でないと物を書けないように思われがちですが?

 学問者や研究者と、僕みたいな物書きとどうちがうかというと、前者は頭と文献や書物があれば研究ができる。物書きは手を動かさないと作品が書けない。僕も手で考えてきた。頭だけで書いたらつまらないものしか出ない。考えたことでも、感じたことでも手を動かして書いていると、自分でもアッと思うことが出てくる。それは手でもって書いてないと出てこない。年食ってくると、いちいち、しんねりしんねりしながら手を動かすのが、おっくうになる。それは研究者も同じ。本を読んで、いちいち必要なところだけメモを取るなんて辛気くさいことやってるより、どっかの会長になるほうが楽だよね。しかし、手で考えるってことをやめたら、物書きは一巻の終わりですね。これはあらゆる芸術でも言えることだよね。手を動かすっていう本筋は変わらない。
 だから、もし文学者になりたければ、10年間、手を動かすことだと思います。10年間やれば、一人前になりますね。秘訣も何もない。才能があるとか、ないとか言うのは、そのあとの話ですよ。文学の場合、「気が向いたときに書いて、気が向かないときには書かない」というのがいいことみたいに言われるけど、それはウソだよ。気が向こうが向くまいが、何はともあれ書く、手を動かす。そうしたら、一人前になりますね。
 (「吉本隆明さんに聞く【完全版】」より『不登校新聞』2014年3月28日)
 https://futoko.publishers.fm/article/3882/
 ※これは、『吉本隆明資料集 154』に「どう考えたって僕も閉じこもりです」という題名で収められている。それは、ここに引用したものと 「です」「ます」等が一部違っている。インタビュー 初出『不登校新聞』2001年7月1日

 ※この内容と似たことは、遠藤ミチロウとの対談「持続あるのみ。やめたら、おしまい」2003年4月21日 ※初出「遠藤ミチロウ『我自由丸―ガジュマル』2003年5月号、『吉本隆明資料集 160』所収)でも語られている。


A

要するに、文芸っていうのはなんなんだっていうと、手で考えるんだよって思います。学問だったら、系統的に文献を調べながら考えていって、ここまで結論が出たっていえばそれは学問になるんだけど、文芸はそうじゃなくて、手を動かさないかぎりは出てこないよ、手を動かして出てくるもんっていうのは重要な要素になって入ってくるから、べつに学問的にこれがどうであろうと、そういうこととは関係ないんだよって、極端に言うとそういうことになりますね。まあ今の時代ですから両方とも境界が曖昧なところもありますけど、それはもう初めから方法がまるで違う。
 (『吉本隆明無〈食〉を語る』P135 聞き手 宇田川 悟 2005年3月)


逆に言うと、才能もあって場所もよくて、たとえば大学の先生みたいに、自分の時間と自分の研究室があって、これほどいい環境はないのに、これで三年から五年間なにも手を動かさなかったら、ご老人が足腰が鈍ってくるのと同じで、すぐだめになりますよ。初めは才能がありあまるほど、はじけるほどあるように見えたって、三年経ったらだめってことになりますね。
 だから、手を動かして、手で考えるっていうことに慣れるためには、極端に言えば毎日、書く場所には毎日向かっているということにすると、手を動かせばだいたい考えが出てくるっていうふうに、手と感覚がつながるようになります。それ以外の方法はない。頭がいいとか、書く環境をよく作るとか、そんなのは全然問題にならない。どんな環境でどういう状況でも机の前に座るっていうのを十年間はやったら、少なくとも文学だったら二十歳から始めようが五十歳から始めようが同じ、大丈夫です。
 これがだめなのは、サイエンスで言えば数学、芸術で言えば音楽だけですね。子どものころからバイオリンとかピアノ弾いていないと本格的にならんよ、世界的な演奏家にはなれんよって言えるのは、そういう人だけじゃないでしょうか。
 (『同上』P141 )


B

      手を動かすことはすべてを動かすこと(引用者註.これは本文の小見出しです。)

 僕は八年ほど前、海水浴場に溺れて意識不明の重体になったんですね。それまでは人間というのはなだらかに衰えて、ひとりでに手足が動かなくなるものだと思っていました。でも、違うですね。カゼをひいて寝込んだり、ケガをするごとに段落式に衰えていく。僕も溺れてから病院通いが多くなりましたね。
 それで今いちばんエネルギーを使っているのは、自然との戦いに挑むということです。つまり、身体は自然の一部であり、放っておけば衰えていくのはお定まりのこと。僕なんか足先が動かないことがあって、そのままにしておいたら本当に動かなくなるわけです。でも、それでは自然に対して初めから降参しているようで卑怯な感じがする。だから、リハビリの真似事をして動くところまでもっていくんですが、いつかは負けるとわかっているのになぜそこまでして戦うのか、自問自答しても意味は見つけられません。ただ、最後まで精いっぱい自然に逆らった方が、なんとなく格好がいいというか、積極的な感じがするんですよ(笑)。
 自然と戦うひとつの方法ですが、今から行っておくといいことがあります。それは、両手にボールのような丸いものを持ってぎゅっぎゅっと握る運動をすること。「なんだ、そんなことか」って馬鹿にしたものじゃありませんよ(笑)。年を取ってわかりましたけど、手を動かすこと、足を動かすこと、頭を動かすこと、心を動かすことはすべて繋がっているんです。だからこの運動は身体の衰えを防ぐだけでなく、精神的、心理的な面にも計り知れないほど有効なんです。
 年を取るごとに心も身体も弱くなって、自然に負けたって感じになってくる。そこで、「もう、いやになっちゃったな」って、ゴロリと横になってるだけじゃダメなんです。寝ながらでも、この運動を毎日一分でもいいから続けること。一年もすればその効果がわかります。普通なら気分が沈む場面でも、気持ちの持ち方が変わってくる。それほど身体と心は密着していて、肉体の方から治すか、精神の方から治すかっていうのは、どちらからいってもいいんですね。だとしたら、定年後は前向きに生きなければなんて自分に言い聞かせるより、手を動かす方がよほど簡単で効き目があると思うんですよ。
 (「負けるとわかっていても、"老い"という自然との戦いに挑むべきですね。」『吉本隆明資料集 159』)
 ※初出 『一個人』2003年5月号 (取材・文 後藤かおる)






 (備 考)

吉本さんがこの「手を動かすこと」や「手で考えること」をいつ頃から語り出したかはよく覚えていないが、晩年近くであることは確かだろうと思う。わたしは、この「手を動かすこと」に初めて出会った時、比喩かな、そうでもなさそうだな、とよくわからないなあという印象を持ったことを覚えている。今では大体わかるようになった。要は、「手を動かすこと、足を動かすこと、頭を動かすこと、心を動かすことはすべて繋がっているんです。」というところだろうか。これは、いろんな職人の世界とも通じることだろう。


@の「考えたことでも、感じたことでも手を動かして書いていると、自分でもアッと思うことが出てくる。それは手でもって書いてないと出てこない。」ということは、文章や詩を書いていると実感としてわかる。また、「頭だけで書いた」ものは、思想でも詩でも例えば「自由は大切だ」みたいに概念的なものが勝っているようなものであろう。

そうしてまた、Bの「手を動かすこと、足を動かすこと、頭を動かすこと、心を動かすことはすべて繋がっているんです。だからこの運動は身体の衰えを防ぐだけでなく、精神的、心理的な面にも計り知れないほど有効なんです。」ということも、実感としてわかるような気がする。



Bの吉本さんが「自然と戦う」ということ、一般に人が生きつづけようとすることは、以下のようなこの世界内での人間というものの本質的有り様と関わっているように思われる。


ぼくでも死ぬまではやりたいですね。死ぬまでは、じぶんの考えを深めていきたいですし、深めたいですね。それは説きたいとか、教育したいとかというのとはちょっとちがうんですよ。しかし死ぬまでは、できるならばちょっとでも先へ行きたいよ、先へ行ったからってどうするのと云われたって、どうするって何もないですよ。死ねば死に切りですよ。死ねば終わりということで、終わりというと怒られちゃうけれど、ぼくは終わりだ、死ねば死に切り、何にもないよ、ということになるわけです。それじゃ何のために、人間はそうしなくちゃならんのと云われたら、人間とは、そういうものなんだよ、そういういわば逆説的な存在なんだよ。つまり役に立たんことを、あるいは本当の意味で誰が聞いてくれるわけでもないし、誰がそれを信じてくれるわけでもないし、どこに同志がいるわけでもないし、だけど死ぬまでは一歩でも先へすすんでという、・・・・・・ものすごく人間は悲しいねえーという感じがぼくはしますね。人間とは、そういう存在じゃないんでしょうか。
DBA 558 吉本さんのこと A 「『最後の親鸞』以後 」
 ※ 本講演後の「質疑応答」部分より


これを他者との関わりで見れば、

 ひとりの思想家が、いずれにしろ、生涯においてなしることは大したことはありません。しかし、何がためにひとりの思想家は、ある時代に存在し続けるかとかんがえてみますと、いわば、じぶんが一刻もそのことを頭から去らないほど労苦してかんがえにかんがえぬいてやっと掴まえたものが、後の世代の人たちにとって、何となく独りでに、自然に身につけてる、その地点に出遭うためです。それが、ひとりの思想家が生涯にわたって存在し続けることの意味だとおもいます。
 竹内好さんの思想は、そういう徒労に値するものとして、今後、本格的に検討されることを信じて疑いません。
 (@の講演部分に対応する部分、「竹内好の生涯」P175−P176、『超西欧的まで』弓立社)
DBA 項目568「吉本さんのこと F」 思想家の意味 講演A042「竹内好の生涯」






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
687 手で考える A 「顔の文学」の「講演のテキスト」 講演 『吉本隆明の183講演』 ほぼ日刊イトイ新聞 1994.11.24


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顔や口などの作りは人類普遍 母子の密な接触体験 手と顔のものすごい大きな役割 人間の五感というのは非常に発生の初めの頃、つまり母音だけしかなくて民族語に分かれていない、そういう言葉時代の時までさかのぼってしまうと、全部連結していると考えられる
項目
1

@
 
4 言葉の発生と顔・手の役割(引用者註.これは「講演のテキスト」の小見出しです。)

 それではどうするかというと、喉仏から上で作られるわけなのですから、そこが非常に重要なわけです。この違いには共通である母音の共通さと違いというのとがあるわけですけれど、共通さというところから考えますと、どこでその共通さが出てくるのかというと、顔で出てくるわけです。つまり、喉仏から上でもって出てくるわけです。顔とか口の中とか、そういうのから出てくるわけです。それは人類である限り、民族は違ってもそれほど違っていないところから共通の音が出てくるわけです。
 その大本は何かということになる。大本は要するに一歳未満の赤ん坊の時に、母親のおっぱいを飲みながら、顔の顔面といいますか、顔の表情を母親のお乳のところにくっ付けて、時には手を母親の乳に当てたりしておっぱいを飲んだりしている。そうすると、その時の母親と赤ん坊との間のコミュニケーションというのは異国語と全く同じようなもので、赤ん坊のほうは言葉がしゃべれない。そうすると、母親のほうは「あわわわ」とか「ううう」とか言って何となく通じさせてしまうということがあるわけです。そうすると、赤ん坊のほうも「あああ」とか「ううう」とかいう言葉でもって何となく通じてしまっているということがあるわけです。つまり、それは、ちょうど我々が異国語の人とたまたま偶然出会って何も通じないというのと同じ状態なのです。それを通じさせるというところから言葉が発生していくわけです。
 これはどこの国でも同じで、その大本になっているのは何かというと、一歳未満の時に母親のおっぱいを飲みながら、手でおっぱいを触ったり、唇で触ったりして、顔面をお乳にくっつけて、その触覚でわかったりということで、その全部を交えて、目は一歳未満の時に見えるようになりますけれども、目で見て母親を識別しているだけではなくて、そういう手で触ったとか、顔をくっつけた触覚で母親を識別しているとか、「あわわ」言葉でコミュニケーションをしているとかということが始めになってくるわけです。それが言葉の発生の時の始めであり、それから言葉の民族語に分かれない、つまり母音というものが共通性であるゆえんがどこにあるかと言ったら、そこらへんのところにあるということが言えます。
 それに対し、顔というのは相当、顔は手ではないですけれど、顔の触覚は魚で言えばえらの触覚と同じなのです。えらの感覚と同じなのです。えらによる識別なのです。それと手で触る。その顔と手というのはものすごく大きな役割がある。言葉の発生と母親とのコミュニケーション、つまり言葉が初めにどうやって通じていくかということとか、どうやって民族語に分かれるかと言う場合に際して、手と顔というのはものすごい大きな役割をしているということがいえると思います。それで、このあたりでもって、人間の言葉と、それから民族語で言えば母音というのが大体識別できるようになってくる。それから母親とのコミュニケーションも、赤ん坊は実際には普通の言葉にはならないのですけれど、「あああ」という言葉でもって、例えば赤ん坊が笑ったと。そして赤ん坊のほうは笑いたくなって、楽しくなろうとすると「あああ」という言葉を母親に強制すると言いましょうか、母親が「あああ」というとまた笑う。こういうふうにして、コミュニケーションがだんだん発達して通じていくことになっていくわけです。
 
 
A
 
6 原始的な感覚の世界と臨死体験・超能力(引用者註.これは「講演のテキスト」の小見出しです。)

 それから、もう一つは目で見て人を識別するとか、自然を識別するということは目だけが働いていると考えないほうがよい。一番初めに手で触ったとか、母親と言葉にならない言葉でコミュニケーションを成り立たせていたとかという、手の触覚とか、音とか、「あわわ」言葉の音とか、そういうことも含めて、目で見る識別の仕方の中に全部総合的に含まれているのだというふうに考えたほうがよいという考え方になります。つまり、もっと言いますと、大脳皮質の奥のほうに、原始的な哺乳類の時代からあった脳の一番奥のほうにある部分を取ってくれば、そこでは目の感覚とそれから耳の感覚とか、におい、鼻の感覚とか、味わいの、口の感覚とかは全部どこかでつながっていた時代というのがあって、それが総合的につながっていて分化していない時代があった、そういう時期があったということが言えることになります。
 例えば、よく立花さんの本が出ていますけれども、臨死体験みたいのがあるでしょう。そうすると、臨死体験は何かと言ったら、要するに死に損なってと言いますか、死にそうになって意識が薄れてきてしまって、それでほかの内臓器官もあまり働かなくなって死にそうだと、そういうふうになっていくと自分の目の意識が体外に離れてしまって、ちょっと天井のほうに上がって、死にそうになっている自分とその周りの自分を手当てしているお医者さんとか、看護婦さんとか、泣いている近親の人とかというのを、自分が上のほうからちゃんと見えるというふうな体験があるわけです。それは臨死体験の一つなのです。なぜそういうのが可能かということがあるわけです。宗によって違うけれど宗教家は来世、つまり死後の世界があるみたいだというふうに結論付けますし、またお医者さんはいろいろなことを言うわけです。もうろうとした時に例えば精神病的、病理学的に言えば、二重人格と言いましょうか、ドッペルゲンゲル、二重人格というのがあって、その極端な例は自分が何かしているのを部屋の中で何か人で、机の周りに座って何かやっているというのを自分がそれを見ているという現象のことを、精神医学ではドッペルゲンゲルと言うわけです。それから、もっと多重人格というのもあるわけで、何人もの人格に変化をしてしまうというようなことは人間にはあるわけで、そういうのは病的なものだと精神病理学者は規定の仕方をしている。目の意識だけが死に損なうと体から抜け出て、全員の中で自分を見ているとか、自分と自分の周辺を見ているということは、何も正常なことではなくて、病的な現象だとお医者さんのほうは言うかもしれないわけです。
 だけど、いずれにせよそういう臨死体験が難しいところは何かというと、どうして目はつぶってしまっているのに、もう死ぬ間際ですから、人間というのは目をつぶってしまったら見えるわけがないし、意識が薄れるばかりなのに、どうしてそういうふうに死にそうになっている自分を上のほうから自分が見ることができるのだということが不思議ではないか、おかしいではないかということが、いずれにせよ帰着するのはそこであるわけで、それを結論付けるのはなかなか難しいわけです。だから、宗教家は宗教家で、それはあの世にいく始まりなのであるというふうにちゃんと言ってしまって、あの世というのはそれからずっと飛んでいったあの世へ行くんだよと言って、それで行くのだけれど、普通はどこか死の向こうに人が立っていて、「おまえ、ここからもう来るな」と言われて、戻ってきたら意識が覚めたというふうなそういう話になるわけです。つまり、そういうことというのが一番難しいところは、死に損なって衰えた意識しかないのに、どうしてそれが上の天井のほうから自分で自分が見えるのか、あるいは自分の周辺が見えるのかということが不思議だということになるわけです。それはなぜかと言うと、人の考え方が、専門家で分かれてしまうのはそこのところだと思います。そういうことはないのだと、それは錯覚で後からくっ付けてそういうことを言っているだけなんだというふうに言いたいところですけど。
 僕も多少は臨死体験の報告集みたいなものを集めたり、読んだりしたことがありますけれど、自分の体を自分の上から見ていて、周囲の人が動いているのを見ていて、何を言ったか見えていると、どうしてもそう思わないとならないなと思える体験報告は多いのです。それを疑うことはできますけれども、それはないはずだと根拠もまたないのです。そうすると、僕が思うには、その一番よい説明の仕方は今申しましたとおり、目の感覚とか、耳の感覚とか、人間の五感というのは非常に発生の初めの頃、つまり母音だけしかなくて民族語に分かれていない、そういう言葉時代の時までさかのぼってしまうと、全部連結していると考えられるということができます。そうしますと、死にそうになっても一番後まで残っているのは耳です。耳の感覚です。声が一番残りますから、耳の感覚で声が聞こえるという体験ができる限りは、目も見えてしまうということが可能なのだというふうに考えるのが、僕の考え方では今のところ一番よろしいのではないかなと思っています。
 でも、そうなんだとあまり断定したくはないのです。世の中でも不明なことは断定したくはないわけです。断定はしませんけれど、考え方としては一番よいのではないかなと思う。宗教家みたいに「いや、来世というのがあるんだよ」と言ってしまうことも、なんとなくちょっとあれだし、「いや、そういうのは大でたらめだし、病気の一種で幻覚を見ているだけだよ」と言うのも何となくそうではないよと思えるところもあるわけです。だから、それもあまり言えないから、結局非常に意識が薄れていって、あらゆる内臓もそうだし、五感も死にそうになって衰えてきた。ある時点になると、あらゆる人間の感覚は全部連結してということが言えて、そうすると耳だけ聞こえさえすれば、必ず見えてしまうということはありえるのだよ、そういうふうな理解の仕方をするのがよいのではないかなと、今のところ僕は思います。つまり、断定はしませんから「そうではない」と言われても困ってしまうわけですけれど、そうだと思う。
 ( 講演A165「顔の文学」の「講演のテキスト」 ほぼ日刊イトイ新聞)






 (備 考)

ここでは、胎外に生まれ出た後のことから語られているが、当然に胎内にあったときの子と母とのコミュニケーションの経験の蓄積も背景にあることになる。

日常の実感としても単に人体の器官としての手というものを超えた〈手〉の感じ、職人世界にかぎらず手で覚えるなどはわかる。その背景として、人間の身体は精神や心と密接に結びついている。さらに、ここではその起源的な有り様が語られていることになる。「目の感覚とか、耳の感覚とか、人間の五感というのは非常に発生の初めの頃、つまり母音だけしかなくて民族語に分かれていない、そういう言葉時代の時までさかのぼってしまうと、全部連結していると考えられるということができます。」これはありそうなことに思える。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
705 大衆の原像 @ 第二日・胎児期二 〈母〉との物語 インタビュー 『ハイ・エディプス論』 言叢社 1990.10.25

本文P89の小見出し 〈大衆の原像〉と〈社会の死〉

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具象的なイメージが、かなりはっきりみえるような感じ たぶん社会的な条件がすすんできたということ もう一度大衆に課題があるとすれば・・・せりあがってきてしまった無意識的な大衆は、・・・意識的大衆であるべく存在した理念を謝絶するところからはじまる 労働しているときの自分より消費しているときの自分、あるいは一般大衆の利害を第一義にする場所につくということ
項目
1

@

吉本 僕は〈大衆の原像〉ということに、自分なりのイメージの具体的な変化がすこし与えられるようになった気がします。〈大衆の原像〉といいはじめたときと、いま〈大衆の原像〉というばあいと、どこが変化し、どこがちがっているのか考えますと、唯一のことは具象的なイメージが、かなりはっきりみえるような感じがちがいます。見える感じは、こっちの考えや洞察力がすすんだというよりも、たぶん社会的な条件がすすんできたということです。具体的には何をとってきてもいいんです。ひとつは大衆のイメージを思い浮かべると、大衆の無意識と意識とが逆転した気がするんです。つまり、逆転するようにわかってきたということです。大衆の理念的意識と、理念的無意識がイメージとしてあるとします。それまでは理念的無意識の方が意識化されるべき大衆の課題として存在したと考えると、それが逆転してきた。大衆の存在自体が露出してきたために、大衆の無意識の方が、かつて意識としてみえていたその場所に置かれてね、それから意識された大衆あるいは大衆の意識と考えられていたものが、かつて無意識があった場所に置かれて、逆さまになってきたなということです。つまり、そんなふうに社会は変わってきました。かつては大衆に無意識があって大衆は大衆という胎内で産まれたからだと考えられました。歴史と一緒にその無意識の部分が意識化されたり、あるいは意識的に大衆という無意識の理念をつくりあげたりした。現在は逆に大衆の無意識が大衆のつくりあげた意識があった場所と同等のところにあがってきた。あがってきたための当然の課題として、意識的に築き上げてきた大衆の意識が、大衆の無意識があったところとおなじところに逆転して、意識された大衆のおかれた場所よりも、大衆の無意識つまり胎内からうまれたときのその無意識の存在の方が先へきちゃった。これは僕のなかでは相当確実な実感のイメージです。だから、もう一度大衆に課題があるとすれば、いままで意識的な大衆だと自己存在を規定してきたその大衆は、無意識の大衆よりも自分が下位にあると解することが課題だろうとおもえます。意識的な大衆があったところまでせりあがってきてしまった無意識的な大衆は、どういう課題があるかといえば、意識的大衆であるべく存在した理念を謝絶するところからはじまるでしょうね。


A

 もうすこし具体的に語れば、僕がいいたいことはばかばかしく簡単なことです。たとえば労働組合は現在組織率二〇パーセントのオーダーです。その課題は無意識な一般大衆、もっとちがういい方をすれば、労働しているときの自分より消費しているときの自分、どこか観劇にいったとか、家族旅行にいったとか、そういう消費の場面の自分、あるいは一般大衆の利害を第一義にする場所につくということです。つまんない政治的なものにコミットしたりすることは課題じゃない。そんなこといったら気狂い扱いされるかもしれないけど、ほんとうはそうおもってますよ。何もないんだよ、おまえらやってることは全部だめだよ、全部見当はずれですよということです。もう一般大衆の利害につくという以外に何もない。だから、組織としては、あらゆる対象を意識化すること、簡単なことで党派を例にいいましょうかね。政党のメンバーであるかぎり労働組合員たるべからずという労働組合をつくればいいんですよ。
 (『ハイ・エディプス論』P91−P92 吉本隆明)
 ※@とAは、ひとつながりの文章です。


B

 大衆の無意識にとってなにが課題になるかといったら、自分がこの社会の主人公だというふうにおもう以外なにも課題はないです。別の面からいえば、七〇パーセントから八〇パーセント近くの大衆が、自分は社会の中流にあるとおもっているわけです。つまり、実際に経済的に中流にあるかよりも、意識がそういっているわけですから、もうそれ以上課題はないわけです。つまり、半分以上中流だとおもっていることは、社会の半分ないし半分以上のところに自分たちの意識をおき、文化も享受し、もちろん経済状態もまあまあだとおもってることを意味します。七〇−八〇パーセントのひとがそうおもっているのになにもすることないわけですよ。あとはもう自分たちが社会の主人公だとおもって、そうふるまえればいいというこだけです。だから労働組合はまず第一にもう政治政党なんていっているものを抜けてこなきゃ労働組合でありえないという、クローズドショップにすればいいんです。そうしたら、もう意識化も充分な具体性に属しますし、そういうことができたら終わりというか、始まりということなんです。正直にいうといろんな既成の価値概念とか、なにが自覚でなにが大衆たる無意識か、意識かを全部ちゃんと正確にみたら、そうなる以外にないんですよ。世界が全部そうだというのではないですよ。少なくとも、もはや「死」が問題だという社会、「死」がみえてきたという課題に入っている社会のことです。たいへん精神的な社会だとおもいますが、そういう社会ではそれしかない。たださまざまないきさつから明瞭なんだけど、なかなか明瞭だとおもえないとか、おもわないとかいうだけのことです。ほんとうに全部率直、全部正直になにがほんとうでなにがうそであるかやってしまえば、もうそれしかないですよ。
 (『同上』P93−P94 吉本隆明)
 ※Bは、Aの後三行ほどあって続いています。






 (備 考)

@は、わたしには少しわかりにくい。1970年代に始まるという消費資本主義の社会がわたしたち大衆にもたらしたものとそれ以前の大衆の有り様や意識的大衆という課題などとの明確な分岐が吉本さんには「具象的なイメージ」としてクリアーに感じられているのだろう。

〈中流〉意識が瓦解している現在だが、一度わたしたちが体験した中流意識の体験と余韻はわたしたち大衆の胎内にしまい込まれているはずである。この社会内のくたびれたシステムや考え方や思想的なものなどに足りないのは、「一般大衆の利害につくということ」だという気がわたしはずっとしている。いつもそこから屈折してしまうのだ。しかも、そのことを〈死〉と受けとめるのではなく当人たちは何か新しいことをしている気になっているようなのだ。わたしたち大衆自体としては、「自分がこの社会の主人公だというふうにおもう」ことをこの社会内で日々貫き通していくことだろうと思う。その地点からしか、この社会内の様々な〈死〉を乗り越えていくことはできないように感じている。



〈大衆の原像〉についてのわたしの捉え方は下の関連項目483の「備考」に述べている。もう少し違った捉え方をしてみる。

1.
人間世界を超えたこの宇宙(大いなる自然)の中での人間存在の有り様は、絶対的受動性ということである。わかりやすく言えば、アリさんたちと同様に、わたしたちはこの世界(宇宙)によって生かされているということである。この点では、あらゆる生きもの(無生物以外の動植物)は同一である。

2.
1.のこの世界(宇宙)の方から見たら ― この見たらということは、当然にわたしたち人間が言葉によって「見る」ことができる存在になっていることを前提としている ― 人間の存在は絶対的受動性であるということは、人間世界内の人間存在の有り様と関係し合っていることは確かであるが、後者は相対的に独立しているとみることができる。そうした視点から、この人間世界におけるわたしたち人間の無意識的かつ自然な生存の有り様の原型を抽出すると〈大衆の原像〉というイメージが浮上する。この人間世界内におけるわたしたちの生存の有り様は、日々の生活を中心に考え生きるということが自然な身体性、あるいは重力の中心のようになっている。だからそういう有り様を一般性として原像と見なせる。一方、吉本さんが述べていたように、例えば専門的なスポーツの世界や知識の世界などに突き進むなど、わたしたちは何らかの原像から逸脱するものも持っている。この逸脱する部分や時代の有り様が、〈大衆の原像〉を変貌、変位させていくのかもしれない。



大衆の原像については、項目として何度か取り上げている。次に関連項目として時代順に挙げてみると、以下のようになる。

関連事項

言葉の吉本隆明@
番号 項目
78  大衆      「現代日本思想体系4ナショナリズム」1964.6
85  大衆の原像  「日本」1966.2-7
52  大衆の原像  文芸的な、余りに文芸的な 初出は「三田文学」1968.5
365 大衆の原像  止揚1」1970.12月
59  大衆の原像   思想の基準をめぐってーいくつかの本質的な問題 対談集『どこに思想の根拠をおくか』1972/05/25
230 知識と大衆   1979.5『写真試論1号』
370 中流意識の理念化  社会主義国家体制の崩壊と一般大衆の理念 インタヴュー「オルガン9」1990
318 大衆       私の文学―批評は現在をつらぬけるか インタヴュー 「三田文学」2002.夏季号

言葉の吉本隆明A
番号 項目
483 大衆の原像を繰り込む 『文藝』1985年3月号






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
706 大衆の原像 A 第二日・胎児期二 〈母〉との物語 インタビュー 『ハイ・エディプス論』 言叢社 1990.10.25

本文P89の小見出し 〈大衆の原像〉と〈社会の死〉

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つめていくとほんとうは「死」が問題なんだとというイメージがあったんでしょうか。
そうおもいます。だけれど客観的に証拠がない、見えていなかったとおもうんです。 少なくともいちばん精神的な課題はもう「死」の課題以外にない 親鸞のいう「死」の場所から見れば、すべてが見通せるみたいな
項目
1

@

島亨 それは吉本さんにとってやっぱり〈大衆の原像〉というイメージのなかに最初からあったものなのでしょうか。つめていくとほんとうは「死」が問題なんだとというイメージがあったんでしょうか。

吉本 そうおもいます。だけれど客観的に証拠がない、見えていなかったとおもうんです。でもいま具体的なデータをもってちゃんと集積すると、もう証拠はありますものね。後はもう〈社会の死〉といいましょうか、胎生の終わりといいましょうかね、「胎生」から「理想的な卵生」の時期をちゃんと具体的に捻出して思い浮かべてくることです。あるいは、具体的に〈社会の死〉をちゃんと描き出すこと、もうそれ以外にない。客観的な証拠は全部揃ってきたとおもえるんです。ただそんなものはちっとも普遍的な現在の世界の課題ではなくて、それこそまだエディプス複合の状態をよくやらなきゃいけないんだというところがあるわけだし、それにさまざまな段階が同時的に現在に並列してあるわけですから、少なくともいちばん精神的な課題はもう「死」の課題以外にないんだということです。あるいは新たな「卵生」の課題しかないんだといってもよい。大衆的な規模で自分ということを除外して一般原理としていえば、こうすればいいんだということはもう明瞭なことです。
 (『ハイ・エディプス論』P93−P94 吉本隆明)
 ※@は前回のBの文章の最後に続いています。


A

吉本 ニヒリズムといえばニヒリズムなのかもしれません。歴史的なことでいえば・・・・・・。

島亨 やっぱり中性的にあるものをおさえたいということがいちばんだったんだとおもうんですが。ですから、親鸞を描いた状態も、それが価値なんだということよりも、そうじゃなくて親鸞のいう「死」の場所から見れば、すべてが見通せるみたいな、ひとつの「場」であるとかあるいは「器」であるとか、そういうものをこの世界に対して提出しなければ、すべての党派的な価値を相対化することはできないんだということが、ずっとそれが最大にされていたことだったという。

吉本 はい、そうです。つまり中性的ななもの、あるいは党派でないもの、部分的でないものということのなかにしか課題がない。これは歴史的に区切って戦争前の体験と、戦争後の体験と、両方考えてみると、両方の体験を通して見通せるところはなにかといえば、少なくとも「これかあれか」という場面には、どうしてもそこを見通せるものはないわけです。だからニヒリズムといえばニヒリズムなんでしょう。どちらかというかたちではたぶんないです。

島亨 ニヒリズムでもない・・・・・・。

吉本 ないです。否定性を通していけば、ニヒリズムになりましょう。経験としていえばそんな体験をしてきましたから、どこにもいき場所がないニヒルな場所にたいして、客観が動くといいましょうか、社会の進展の度合がなんとなく向こうから見さしてくれるものがあります。そこでやはり〈社会の死〉だというイメージになり、どんなかたちでくるかとか、どんな条件でくるのかがだんだん具象的な姿で見えてきます。また、大衆的な課題は、自分のなかの大衆と共通の課題ということになります。それはなんだ、そしてどこに行くことなんだ、どんなふうに目醒めていくことなんだみたいな経緯はあるわけです。そうすると、向こうの方から客観的な社会条件がこちらが考えている〈大衆の原像〉という言葉の内容のなかで大衆の無意識というものをひっくりかえして考えられるそういう条件を客観的につくってくれちゃっている実感があるんです。これはやっぱり「死」だ、「死が見えるってことだよな」ということになるんです。原則的にはどんな経路をたどっておまえが考えているような死に、大衆的な規模で、あるいは社会的な規模でいくんだろうかということは具体的に体験して具体的に示していかないとわからないことです。でも原則的にいえば〈社会の死〉は見えるところにまあおよそのところはきたなという感じです。それはわりにはっきりした具象的なイメージのようにおもいますね。
 (『同上』P95−P96 )






 (備 考)

吹きさらしのような大自然の中の人間の生活から、大いなる自然の猛威からの防波堤のように人間が作り出し高度化させてきた社会、そこでの人間の本質的な生存の有り様として吉本さんの〈大衆の原像〉は措定されていると思われる。〈大衆の原像〉の本質的な有り様は、日常の自分たちの生活に意識の重力の中心があり、それ以外の政治や芸術や知識世界などにはあまり関心を向けない。もちろん、政治や芸術や知識世界などが日常の生活世界の圏外にあるとしても、それは人間が生み出したものである。そして、そういう領域に深く入り込む人々もいる。しかし、大多数の人々は、それらとは割りと無縁に日々の生活の具体性を生きている。また、それゆえにというべきか、大衆は上から下ってくるように見える権力にまるごと取り込まれてしまうこともあり得る。

この点で、政治や権力というものに批評性を持った自立的な生活者や知識人にとっては、その大衆の負性に見える自然性はじれったく苦々しいものと映るかもしれない。しかし、〈大衆の原像〉の内側には無意識的なレベルであるとしても内省が、集合性としての内省というものがあるような気がする。それは例えば、選挙においてどのような勝たせ方、負かし方、あるいは対立勢力間のバランスなどとして発揮されてきたように思う。大衆の意識の有り様の問題なのか選挙などの制度の問題なのか理由はよくわからないが、近年のやりたい放題の安倍政権からは結果としてそれがなかなか発動されなかったような気がする。

このような〈大衆の原像〉の内側にある無意識的なレベルの内省が、たとえ目下は国家とその有り様が大きく時代や社会に影響力や規制力を持っているとしても、わたしたちの歴史を真に深く駆動しているのだと思う。それは少子化の問題でもそうだろう。政府が小手先の政策を取ろうとなびかないのは、大衆(主に女性)の結婚や子育てに感じ取る社会的な抑圧感や自らの自由の保持や拡大の欲求にかすりもしないからである。大衆(主に女性)の不満や抑圧感を根本的に解きほぐすような社会的な施策を取るならば、少子化問題は少しずつ解(ほど)けていくだろうということは疑いない。

吉本さんのここで語られていることは、次のような言葉に集約される。そうして、それは旧来の社会変革のイメージや意識的大衆の自立のイメージなどからの転換、あるいは変位を意味しているように見える。
「どこにもいき場所がないニヒルな場所にたいして、客観が動くといいましょうか、社会の進展の度合がなんとなく向こうから見さしてくれるものがあります。そこでやはり〈社会の死〉だというイメージになり、どんなかたちでくるかとか、どんな条件でくるのかがだんだん具象的な姿で見えてきます。また、大衆的な課題は、自分のなかの大衆と共通の課題ということになります。それはなんだ、そしてどこに行くことなんだ、どんなふうに目醒めていくことなんだみたいな経緯はあるわけです。」

最後に、〈大衆の原像〉は上にわたしが捉え返したような本質性と同時に時代的に変貌していくものを持っていると思う。上の吉本さんの語りは、時代的に変貌の面から語られているように見える。

ふと思った思いつきに過ぎないが、〈大衆の原像〉も〈自己表出〉と〈指示表出〉との織り成す構造と見なすことが可能ではないか。初めに述べたような〈大衆の原像〉の本質性としての〈自己表出〉と社会や時代と関わる中で大きく変貌していく〈指示表出〉の二重性としてである。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
716 天皇制 A 「吉本隆明氏に米沢高等工業学校時代を聞く」 インタビュー 『米沢時代の吉本隆明』 新泉社 2004.6.20

「吉本隆明氏に米沢高等工業学校時代を聞く」というインタビューは、平成十一年(1999年)二月二十日に吉本さんの自宅で第一回目のインタビューが実施された。インタビューへの同席 郷右近厚 氏

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戦争中の自分の実感にはそぐわないなあというのがありました。それで一所懸命に考えてきました。 巫女さん−天皇から天皇−巫女さんへ つまりインドから東の島か山岳地域か沿海地区なんかにあった生き神様的な王権。要するに、天皇制というのはその一つで、だからどこからか来た、どっかから来たというのは確実だろうと思っているわけです。
項目
1

@

Q 吉本さんにとっての天皇制みたいな部分をもう少し詳しくお聞かせください。

 そういう自分の考え方から、結局戦後になってから天皇というのは一体何なんだ、天皇制でもいいけどその正体は一体何なんだということをずっと考えてきたんですよ。はじめはやっぱりあれは軍国主義で、天皇制ファシズムでというのが、敗戦直後にどっと共産党をはじめとして広がっていったんですね。戦後、僕らはよく読みましたけれど、ソ連共産党が出したテーゼがあって、その中の二七年、三二年のそれが日本の社会構造について一番詳しくて、それを読むと両方とも天皇制打倒を基本命題にしている。そこで、天皇制というのは何なんだということなんですけれども、ナポレオンと同じようなボナパルティズムだという考え方、それからまたあらためて、あれは絶対主義だというふうに規定して、それを打倒しなければいけないといっている。しかし、それでは、どうも僕が宗教的意味合いであれしたことは、ちっとも解明されていかないじゃないか、西欧の王権と同じように考えたボナパルティズムとか絶対主義などでは天皇制の本質は解けないじゃないか。これは実感にそぐわない。戦争中の自分の実感にはそぐわないなあというのがありました。それで一所懸命に考えてきました。
・・・中略・・・
それを当初はああそうかと思ってたんだけれど、よくよく考えるとどうしても納得がいかないんですね。もう少し僕は宗教的に考えていた。僕だけじゃなくて、一般の人も宮城の前に行って、それこそ土下座して拝んでいた。これは、どこか宗教的なものが入っている。ただの王権に対するものじゃないだろうと。


A

 自分も天皇となら命をとりかえられるみたいに考えたのは、結局は宗教的な要素が入っていたわけで、単に王権というのではどうも実感とあわない。これはやっぱり自分で考えていくしかしようがないなということで、自分で考えてきたわけです。それでまあ、ここ五、六年ですけれども、自分なりの考え方の結論が出てきて、これは多分もっとも正しいであろうというふうに思っているわけですけれども、それは何と言いますか、チベットとかネパールなんかもそうなんです。南中国に接した山岳地帯の辺境国家、小国家、そういうところは「生き神様」なのですよ。要するにチベットでいえばダライラマ、これ、生き神様で、里にも村にも生き神様というのがいるんですよ。それはこっちで言えば沖縄のユタと同じで、拝んで、こっちの方向に旅行したいんだけどいいかとお伺いをたてると、そっちの方向は悪いから行かないほうがいいとか、何日待って行ったほうがよいとか、そういうことを指示してくれる。これは今でもそうです。入院しろと言われてもお伺いをたてないと入院しないとか。
 そういうありかたから王さまの兄弟とか姉妹とかおばさんとか、そういうのが宗教的な拝み屋さん、巫女さんの一番上についているというのが、沖縄もそうだけど、大体、日本の天皇制もそれだろうと僕は結論づけているわけです。
つまり、十代目くらい、神武、綏靖、安寧・・・・・・と十代目くらいまでは天皇のほうが下のほうにいて、皇后のほうが上にいて、ご託宣を受けて、それにのっとって政治をやっていたというふうになっていた。その後、八、九世紀、『古事記』が出来るころは天皇の方が上になって、皇后は諸国から集めた豪族の娘と同じで巫女さん的だけど、後宮というか女官というか、そういう役割になって下になっちゃった。
 けれど十代目ぐらいまでは反対で、女の人の方が、皇后的なほうが主役で、神様のご託宣を受けて、天皇の方が兄弟として政治を行うということで、これでもって村里の拝み屋さんから制度的に上の方の王権級の存在までがずうっと制度としてつながっちゃったというのが強固な政治的な力を持った理由だと思います。そういうふうになっているのが天皇制だという結論なんです。
 ネパールなんかも上の方の王さまがいないんですけれども、下の方の村里では沖縄なんかと同じで、行事などがあったときどうしたらいいかというときに、お伺いをたてるという。今でもそうですけれども、それと同じだという結論に達しています。
 戦争直後に素人のお医者さんの安田徳太郎という人が日本語はレプチャ語に似ているといいました。また、言語学者の大野晋さんはスリランカあたりと似ているといっています。つまりインドから東の島か山岳地域か沿海地区なんかにあった生き神様的な王権。要するに、天皇制というのはその一つで、だからどこからか来た、どっかから来たというのは確実だろうと思っているわけです。


B

 結論はこうです。大体、東洋には特殊な生き神様的な王権というものがあって、それは、山岳地帯の辺境地区とか島とかインドネシアなんか、今でも王様が、大統領がいるんですけれども、王様が尊敬されています。それはやっぱり昔の名残で古くからあったであろうと思います。オーストラリアからこっちの島々にも全部あったろうと。ポリネシアとか、ミクロネシアといわれているところはみんなそうだぜといっていいと思いますね。
 日本の天皇制というのもその一種だろう。
日本は大陸に近い島で、比較的大きな島で、北から南までの広い範囲で、中国の冊封体制の辺境の国家だったわけですから、天皇制は、辺境地区で島と山岳地域と辺境国家のそういう生き神様的な王権というふうに考えるのが一番妥当であるというふうに結論づけたわけです。まだ誰も賛成していないですけれども、これから賛成してくれるだろう、自分の考えが一番進んでいると思っているわけです。
 (『米沢時代の吉本隆明』P167−P171 斎藤清一 編著 新泉社)
 ※@とAとBは、ひとつながりの文章です。


C

 僕に言わせりゃ、僕の考えの方がよいと思っているわけです。それはやっぱりこの『草莽』(註.1)を出したおかげだと言えばそうなんだけど、自分では天皇というのは神聖で、これとなら命を交換できると、とりかえっこできると考えた。それが自分で相当ひっかかっていて、天皇制というのは一体何なんだと、一番長く、一番よく考えたと思います。
 (『同上』P172)






 (備 考)

関連項目
言葉の吉本隆明A
項目458 天皇制
項目512 天皇と武家の二重権力

関連単行本
『信の構造 part 3 全天皇制・宗教論集成 』吉本 隆明 1989.1.30
『天皇制の基層』吉本隆明・赤坂 憲雄の「対論」1990.9.1


先の戦争を生きのびた吉本さんにとって、天皇や天皇制の真の姿を切開することは、同時に自らの戦争期の生存の姿を明らかにすることであった。そうしてそれは、戦後生まれのわたしたちにとっては、拠って立つこの列島の負性が明らかにされることであり、その負性への内省と自覚とを促すものとしてあったと思う。


(註.1)
吉本さんの最初の私家版詩集『草莽』(昭和十九年五月刊)については、本書のP164からP166で触れてある。

『草莽』は、吉本さんの語る戦争末期の自分の心構えや意識からすると、遺書のようなものとして編まれたのかもしれない。宮沢賢治の影響下に自らの孤独な心象と時代の様相への自分の考えが語られている。全二十篇中、天皇や天皇制にはっきりと接続・吸収された作品は、最後の「草ふかき祈り」「帰命」「序詞」の三作品である。ふたつ引用する。


   草ふかき祈り

祖国の山や側
  歴史のしづかなその悲しい石よ
いま決死のさかひにあつて
  しづかにしづかにひそんでゐる大きさよ
その土の上に生きてゐて
おおきみのおほけなき御光につつまれて
われらいまさらに語るべき言葉もなく
歴史のなかにひかりしづめ
われの生命に涙 おちる

行けよ 祖国の山や河よ
億劫の年を世は変るとも
 おほきみの御光のさかひに沿ふて
巨きなる天然のまにまに行けよ

われら瞬時の短き生きのままに
 ここの国土の丘の辺に立ち
アルタイの原野も
 アルプの山やその東西又南北の国も
おほらかな光もてつつまんとす

われら みづからの小さき影をうちすてて
神ながらのゆめ 行かんとす
まもらせよおほきみの千代のさかへ
 われら草莽のうちなるいのり
まもらせよ祖国の土や風の美しさ
 われらみおやの涙のあと



   帰命

祖国の土や吹きすさぶ風や
 人の心に修羅のかげあるも

 いまは
おほきみのみ光の下に
 いのちかへれ
あそこであんなに苦しんでゐる人
 どうかかなしい生命の光もて
 修羅の行路を泣いてかへれ     (未定稿)
 (詩集「草莽」、『初期ノート増補版』吉本隆明 試行出版部)







項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
730 小さい墓ということ 013お墓 対話 吉本隆明 「ほんとうの考え」 ほぼ日刊イトイ新聞 2010.3.14

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「ぼうず、お墓っていうのは
 小さいほどいいんだぞ」
お墓というのは、何ていうか、その人の生きざまみたいなもんでしょうね。 親鸞のお墓はみな小さい 小さい墓、そう、死の表現ですからね。
項目
1

@

吉本 ぼくんちのお墓は、
浄土真宗で、明大前にあるんですよ。
とても小さいお墓です。
親父が無理して、きっと郷里から
持ってきたんですね。


親戚の人とかが、ときどき
おまいりに来たりしますけど、そういうときは
明大前で電車を下りて
そこの墓地のいちばん小さいお墓を探すと
出てきます、と案内します。
だけどぼくらも、もう何年も行ってるのに、
お墓に着くまでに迷ってしまいます。

糸井 迷っちゃうんですか(笑)。

吉本 どこだったっけな、って。
それで、ぼくの兄貴なんですけど──
ぼくの兄貴はね、本職は電気工事で、
資格で言うと甲種というのを持ってました。

糸井 甲乙丙の甲ですね。

吉本 そうそう。
それで、のちに食料品の佃煮屋さんに
商売替えしたんですけど、
その兄貴には、息子がいました。
いまは大きくなってるけど、
その子が小さいときに
親父が亡くなったんですよ。

そのときみんなでいっしょに
ぞろぞろ、お墓に行ったわけです。
そして、その息子がお墓を見て、
「ちいせぇ墓だなぁ」と言ったんです。
「もっと大きいの、建てればいいじゃねぇか」
とか、言ったんですよ。

そしたら、兄貴の商売関係の、
商店街の会長さんみたいな人がそこにいて、
こう言ったんです。
「ぼうず、お墓っていうのは
 小さいほどいいんだぞ」


糸井 おおお。

吉本 それからぼくは、
そのおやじを尊敬するようになりました。

ぼくはそれが、ほんとうに忘れがたいんです。
こりゃあしかたがないよ、
兄貴が親愛を感じて、
商店街の佃煮屋さんの会みたいな
この人のところへ入ったはずだ、
と、解釈しました。

それはそれは立派なもんでね。
子どもは何も知らないから、
「もっとでけぇ墓がいいや」
と言ったんだろうけど、
その人は、
「それはちがうだろう」
って、すぐに言った。

糸井 見事だなぁ。
「小さいほうがいい」
そのひと言で、ひっくり返りますね。

吉本 そうなんですよ。
やっぱり、いい人というのは
どこかにいるもんですね。
どっか、隠れているもんなんだなぁ。

糸井 はい。


A

吉本 お墓というのは、何ていうか、
その人の生きざまみたいなもんでしょうね。

兄貴は意識的に
それを言うほどのことはなかったけど、
親父も兄貴も、貧乏だから
小さいお墓をかろうじて
その墓地に建てたんです。
かろうじて建てた、小さな、
半坪ほどのお墓です。
きたねぇ石で作ったお墓です。

糸井 それは、別の意味で誇りですよね。

吉本 誇りです。
現に、埃かぶってるでしょうけど。

糸井 埃かぶった誇りだ。

吉本 はははは。

糸井 ぼくは、観光で高野山に行ったとき、
親鸞のお墓を見ました。
親鸞のお墓って、
あちこちにあるんですよね。

吉本 そうそう、ええ。
そして、それは、全部ね‥‥

糸井 小さいんですよ。


吉本 そうなんですよ。

糸井 親鸞の高野山のお墓は
「これが‥‥」というくらい、
道祖神みたいに、小さかったです。

吉本 はいはい、それはそうでしょう。

糸井 さすがだなぁと思いました。

吉本 そうですね、
特別、さすがですね。
ぼくんちのお墓はそれより少し‥‥(笑)。

糸井 そうですか(笑)。

吉本 親鸞は、やっぱり立派なもんです。

糸井 それをさせた、という強さを感じます。

吉本 それは浄土真宗の本筋ですね。
まわりもたいしたもんだと言いたいところです。
俺はもう、
まわりとけんかばっかりしてるからダメだけど、
まぁ、糸井さんに言っておきますから。

糸井 ええ。

吉本 お墓なんかいらねぇ、骨は流しちゃえ、
というのも、ときどき聞きます。
真面目なやつが亡くなったときとか、
そういうこと、ありますね。

糸井 はい、散骨ですね。

吉本 家族の人たちが船を借りて
海に流しにいったりするらしいですね。

糸井 吉本さんは、それはどうですか?

吉本 いやぁ、いやです、いやですね。

糸井 うーん‥‥散骨というのは、
無神論を表現したいという気持ちが
あるんでしょうか。

吉本 無神論なら、骨はそこらへんに置いとけば
いいんじゃないでしょうか、
庭のそこらへんにでも。

糸井 (笑)そうですね‥‥ただ、法律的に
庭には、たぶん埋められません。

吉本 じゃあ、庭に、っていうことは
内緒にしとかないといけない(笑)。
だけどわざわざ船を雇ってまで
沖のほうに出て放ってくれというのは‥‥

糸井 かえって平凡な感じにも思えるし。

吉本 特にそういうふうに
目立ちたいんでしょう。

糸井 うん、そうかもしれませんね。
ぼくが青山墓地で見た限りでは、
でかいお墓は軍人さんに多いです。

吉本 戦争中は誰より
世間的に崇められた、
というのが軍人ですからね。

糸井 しかも、残された人たち──つまり、
その威光を伝える人にとっては、
墓がでかくないと、
自分たちの地位も下がるわけですよね。
もしかしたら墓というのは
すごく政治的なものかもしれません。

吉本 そうでしょうね。
位が下のやつが上のやつより
墓を大きくするということも、できないですね。
「俺の墓は、下のやつよりも
 もっと小さくしろ」
なんて言う人がいたら、
それはそうとう優秀だと思います。

糸井 墓を小さくするというのは、
強い意志が必要ですね。
人間のかっこつけ方や表現は、
ほんとうにきりがないし。

吉本 きりがないです。
でもまぁ、遠慮なく小さいお墓でいきましょう。
糸井さん、それはほんとうに
ぼくの遺言だと思ってください。

糸井 わかりました。

吉本 みんながかっこいいことしようとしたら
そんなんじゃだめだと言ってください。

糸井 うーん‥‥だけど、
「わざとらしくなく」ということで
全部やるというのは、
じつはなかなかホネですね。

吉本 どこかで見栄も入るし。

糸井 他者の意志も入る。

吉本 死んでから文句言えないですから。

糸井 うん。
だけど、それは、表現ですもんね。

吉本 そう、死の表現ですからね。
 (吉本隆明 「ほんとうの考え」、2010-03-14 ほぼ日刊イトイ新聞)
 ※@とAは、ひとつながりの文章です。





 (備 考)

現在の政治家自身の自分を特別視する根拠はどこに根ざしているのだろうか。政治家に限らず、自分を特別視する誘惑はどこにも転がっているようにも見える。たぶん、戦国期の武将の意識にも自己特別視があったような気がする。ここで取り上げた「小さな墓ということ」は、その自己特別視とは対極にあるものであり、自己特別視の自覚的な無化に当たっている。そうして、この自己特別視ということは、動物生の名残かどうかはわからないが、人類がその初期に生み出してしまった精神の自然過程によるものだったと思われる。

柳田国男が、沖縄での話であったか、巫女さんの墓は普通人とは少し違えていたという言葉をどこかで読んだ記憶がある。まあ、そんなことを言わずとも、古代以前から大王や天皇の陵などの馬鹿でかい墓は、普通の人々とは違っていた。こんな特別視がどこから湧いてきたのか。

上橋菜穂子の『香君』(上巻 西から来た少女、2022年3月)を読んでいたら、次のような言葉に出会った。


(奇跡の稲を求める心)
 ふと、香君宮の庭園で見た、一心に祈る人々の姿が目に浮かんだ。
 その瞬間、あることに思い至り、アイシャは愕然とした。
(その心が消えたら、オリエさまは・・・・・・)
「オアレ稲を弱めて、人々がオアレ稲に頼らずに生きられるようにしてしまったら、オリエさまは――香君さまは――どうなるのですか」
 オリエは、哀しげな笑みを浮かべた。
 しばらく言葉を探すように黙っていたが、やがて、オリエは穏やかな声で言った。
「私は飾りものの香君だけれど、それでも、民の暮らしを守るという大切な役割を背負って生きてきたの。人々を飢えから救える道があるのなら、私はその道を行くわ」
         *
 タクおじさんが苦労して作り上げた畑の上を、夕暮れの風がわたっていく。
 ひんやりとした風の中に様々な香りがした。この香りは、自分だけが嗅いでいるのだろうか。他の人たちは感じていないのだろうか。
(私は、何者なのだろう)
 マシュウとオリエが思っているように、本物の香君なのだろうか。
(・・・・・・違う)
 香りで万象を知り、衆生を救う――そんなことが出来るとは思えない。もちろん、活神ではないことは、自分が一番よく知っている。
 ふと、オリエの哀しげな笑みが目に浮かんだ。

――私は飾りものの香君だけれど、それでも、民の暮らしを守という大切な役割を背負っていきてきたの。

 そう言ったオリエは美しかった。眩いほどに、美しかった。
(香君に、偽物も、本物も、ない)
 マシュウが言っていたように、最初の香君すら神ではなかったのだとしたら、衆生を救う香君の姿は、きっと、人々の祈りが紡ぎ出した姿なのだ。

 (上橋菜穂子『香君』P331−P333)


ここで、「香君」とは普通の人々より鋭い匂いの感受性と洞察力とを持った巫女のような存在として描かれている。太古においては、こういう巫女的な存在は、集落の普通の人々に押し出されるようにして登場し、「人々の祈りが紡ぎ出した」存在だったろう。そこに、押し出された巫女的存在の自己特別視と普通の人々のその者に対する尊敬や崇拝の可能性が潜在していたと言うことができる。時間とともに不可避に両者の溝は深まり、巫女の属する世界を特別のものとして築きあげていくことになる。これは主に農村から出て来た武士、そして武家層の世界の構成についても同様のものだったろう。そういう初源の有り様が、遙か現在の政治家自身が自分を特別視する感覚を可能にしている。さらに、現在の全ての人々の中に潜在しているような気がする。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
737 男女の無意識のなかに含まれている歴史的な経緯 〈性〉になれるということ、なれないということ インタビュー 『対幻想 ― n個の性をめぐって』 春秋社 1985.1.25

聞き手 芹沢俊介
関連項目736「家族の現在」

検索キー2 検索キー3 検索キー4 検索キー5
男性と女性の歴史的な性的無意識のちがい 歴史の無意識ということ 男性優位の社会がもっている無意識
項目
1

@

吉本 〈性〉の自由にたいして男女は平等で差別はないことを前提としてかんがえると、男女が歴史的に経過してきた部分、男性と女性の性的無意識のなかに入ってきている部分について問題にすると、〈性〉の自由と平等ということは、深層あるいは無意識の層というものの問題をどうしても引きずってくることになります。
 意識的な部分、あるいは理念的な部分では、男女の性は自由で、平等で、無差別だという理念でいくことができるわけです。
 けれども、そのばあいでも、男女の無意識のなかに含まれている歴史的な経緯といいましょうか、人間の歴史的な経緯には、男性と女性とではまるで違ってくる要因があります。だからその部分は、すこしも自由と無差別と平等ではない部分として入ってくるとおもうんです。たとえば、男性にとっては、性的な異性(女性)が性になれるということと、なれないということと、どっちが理想的なんだといったばあい、いつでも性になれないほうが理想的なんだというふうに、経験的に蓄積すればするほどそうなっていく要因があるとおもうんです。その要因はなにからくるかということははっきりしているんで、それは、男性の無意識が背負っている歴史的な負荷が、そうおもわせているんです。


A

吉本 なぜ、レストランでアルバイトしちゃいけないのかいけないのかというばあいに、それは、レストランでアルバイトする、そのつぎは飲み屋さんでアルバイトする、そのつぎはキャバレーでアルバイトする、そのつぎはトルコでアルバイトする、ということのなかにはみな連続性があってどこかに限界があるとか境界があるとかいうことはありえないのではないでしょうか。どうしても、男性の側からいくと、無意識がものすごくそれにたいして反発するみたいな、否定するみたいなものがありますよね。女性のばあいには反対なんであって、たぶん、性的になれればなれるほどいいんだといわないまでも、それは男性の性の意識と対等であり平等であり、あるいは自由であるということに近づく要因なんだという考え方がどうしても女性にはあるとおもうんです。それはそうとう無意識を規定しているのであって、そこの男女の食い違いは、たいへん大きいようにおもえるんです。
 ぼくの理解のしかたでは、意識的な面とか社会的な面とか、あるいは家族的な形とかが、平等と自由という問題を解いても、ある期間は、無意識の問題として、あるいは歴史を背負ってきた負荷として、どうしてもそれを引きずっていくだろうという気がします。そうすると、他のあらゆる要因が解決されたとしても、最後に無意識の問題としてそれが残ってしまう。それは避けられないんじゃないかなという気がするんです。


B

吉本 芹沢さんは、〈性〉の自由化がだんだん若くなってきたというけれども、ほんとは女性が若くなってきたということが問題なんですね。男性はたぶん、年齢的にはいつだって若かったんだということがいえるとおもいます。
 女性がはじめて若年化といいましょうか、そのことに目が覚めてきたというのはおかしいですけれど、なれということはいいことなんだとという無意識の要請として、それが意識化されてどんどん出てきたということがいちばんの問題で、それだってべつに問題にならないじゃないかといえばいえるんだけれど、どうしても、無意識がそれを否定するみたいなことがあります。無意識が否定する限り、とても重要な問題として、たしかに後で出てくるだろう、つまり、それは離婚の増加とか、家庭の崩壊とかの問題としてずっと出てくるだろうといえちゃうようです。
 だから、ひと通りの意味でいえば、べつにそうなったっていいじゃないかということになるんですが、それは歴史の無意識を無視し、単純化してしまうことになってしまう。少なくとも大きな問題としてしばらくは残るとおもいます。いまみたいな加速的な崩壊期でいえば、いちばん大きな男女のあいだの矛盾として出てきているんだとおもいます。


C

芹沢 歴史の負荷として、性の習熟にたいするギャップが男と女のあいだにあるということは、女性がいわば加速度的に性の習熟の方向へなだれていくことにたいして、これまでそれを押し止める力であった、ということですね。では何が堰を切らしちゃったのか。・・・以下略・・・

吉本 一般的にいえば、〈性〉の自由の若年化の問題は、いわば二世代の問題で、根本的な原因はたぶん母親です。母親がそういうことに目覚めたというのはおかしいですが、いままでは家族的に、性とはこういうもんだというふうになんとなく思い込まされていたのが、それはおかしいことにだんだん目覚めはじめた。そういう母親の世代が、まず第一の要因じゃないんでしょうか。
 そうすると、その子の世代は、母親がそうだったら若年化以外に方法がないわけです。はじめから早く目覚めるというかたちで出てきますよ。だから少なくとも二世代の問題なんで、一世代はまだ潜在化してたんだけれども、二世代目になったら若年化がモロに現れてきた。根本的に母親の代からはじまっているんです。
 だから、女性の方からいえば、目覚めていった過程なんで、いいことなんだということになるとおもいます。それにたいして、男性優位の社会がもっている無意識がたいへんな反発を示す、あるいは否定的な要因としてはたらく。そこで社会問題化していくことになります。ある意味では、これから何世代かはどうも避けがたいんじゃないかなとおもえます。男性がそれをまた野放図に肯定できるというところまでいけるかどうか、とても時間がかかりそうな気がします。
 (吉本隆明『対幻想 ― n個の性をめぐって』P204-P207、春秋社)
 ※聞き手 芹沢俊介
 ※@とAとBとCは、ひとつながりの文章です。






 (備 考)

誰もが家族や対幻想の内側で、具体性として日々苦労したり憩ったりしながら体験している。その家族、対幻想の現在的な有り様は、どこにその流れを規制している動因があるのかということが語られている。そこに男性と女性の歴史的な性的無意識のちがいということがその動因として抽出されている。わたしたちの性格というものも、なかなか自己認識が難しく変更を加えることも難しい、乳胎児期に形成された無意識の核のようなものに規制されている。これが個のレベルの問題だとすれば、
男性と女性の歴史的な性的無意識のちがいということは、男性と女性の対幻想の歴史的な差異ということになるだろう。そうして、その差異を形成してきたのは、制度や慣習として生み出さざるを得なかった母系的な制度や慣習の段階、その次の父権的な制度や慣習の段階ということになるだろう。現代は、その両者の段階が解体していて公然とした規制力を及ぼすのではなくても、いわば慣習の遺制として残っており、男性と女性とが日常の生活場面や社会生活の場面で平等ということを意識する場合には、依然として困難に直面しつづけている状況にある。そうして、この問題の解決は、長い道のりになるだろうと予想されている。

わたしはほとんど触れたことはないが、現下の「セクシュアルマイノリティの総称として使用されている言葉」であるというLGBT問題の噴出や昔からあるがフェミニズムの存在は、それぞれの中身の検討は別として、それらの存在自体は、ここで述べられている「男性と女性の歴史的な性的無意識のちがい」を動因として湧き上がってきているものだと思われる。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
740 例えば吉本さんの〈夢〉の捉え方 @ W心的現象としての夢 論文 『心的現象論序説』 北洋社 1971.9.30


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夢は眠りに条件づけられてあらわれることは確かだとおもわれる。 心的にみられた眠りとは感覚的な受容を閉ざし、了解を変容させた状態を意味している
項目
1

@
        1 夢状態とはなにか

 夢が本質的になんであるかからはいらずに、夢がどんな条件であらわれるかという問題からはいってゆく。この問題もつきつめてゆけば実験医学の領域にはいりこむことになる。しかし、初期条件は見かけ上きわめて単純だから、さしあたって、初期条件だけを問題にする。類てんかん性の〈入眠〉、〈周期的傾眠〉のような病的なばあいをのぞけば、夢は眠りに条件づけられてあらわれることは確かだとおもわれる。・・・中略・・・
 この眠りの状態が、心的現象を制約する条件をまずさがすことになる。眠りは眼をひとりでに閉じてする就眠のばあいも、白昼の眼をひらいたままの〈入眠〉状態のばあいも、まず対象にたいする感覚的な受容を閉ざすことは確からしい。・・・中略・・・
 つぎに、正常な覚醒時にやってくる対象に対する心的な了解の構造は変容をこうむるとかんがえることができる。眠りの状態のときも、わたしたちは了解に似た作用をもつ時間があるかもしれない。しかし、その了解は覚醒時の了解と同一でない。眠りの状態で体験した了解作用が、そのままめざめてのちに蘇らなかったり、納得されなかったりするということだけからも、確かに了解の構造が変容している。
 つまり、心的にみられた眠りとは感覚的な受容を閉ざし、了解を変容させた状態を意味している
 夢はこの眠りの心的な状態を必ずおとずれるとはいえないまでも、この心的状態にかならず限定づけられてあらわれる。
 たとえば、正常な覚醒時に、樹木を視て、その樹木の形状を視覚的に受容し〈樹木だ〉と了解するとすれば、眠りの状態では、だいいちに樹木がそこにあっても視ていないし、かりに〈樹木だ〉という了解にににた状態が出現したとしても、その〈樹木〉は〈身体〉の外部に実在する対象ではないから、覚醒時の了解とはべつにかかわりないほどに変容されている。こうした感覚的な受容の遮断と了解の変容は、夢状態の充分条件とはいえないが、必要条件であることは確実である。
・・・中略・・・
 形像の強さや鮮明さからみた夢の上限と下限とは、なにを示唆するのか?
 眠りの状態が、まず対象の感覚的な受容を遮断するということからやってくるのは、夢が形像のかたちでやってきても(上限夢)、非形像のかたちでやってきても(下限夢)、あらわれる夢表現に対して、〈入眠〉時の心的な領域は一義的な【ルビ アインドイツテイツヒ】対応性をもたないということである。なぜならば、対象が〈身体〉の外部に実在しないことから、心的な受容の空間化度は、それぞれの感官に固有な水準と境界をもちえないで、無定形な空間化度の集積にすぎなくなるにちがいないからである。おなじように眠りの状態が了解の構造を変容させるということからやってくるのは、夢が、どんな形像あるいは非形像のかたちでやってきても、あらわれた夢にたいして〈入眠〉時の心的な領域は、所定の了解をなしえないということである。なぜならば、心的な了解の時間化度は、対象が概念を結ぶような構造と水準をもちえないだろうからである。
 それゆえ、たとえば、夢のなかで樹木が道の両側に林立している風景を遠視しているとすれば、この風景は〈入眠〉時の心的な領域のある意味をもった表現であるあるかもしれないが、しかじかの願望を一義的に表現したものでもなければ、その意味が、夢見た心的な領域自体にとって了解されているわけでもない。
 (吉本隆明『心的現象論序説』P206−P211 北洋社 1971年9月)


A

 この風景の夢のように、夢が形像のかたちであらわれることがあるのはなぜだろうか?おおくの夢についての考察がかんがえているように、ある時にある場面で実際に視た風景が、記憶された視覚像の断片として夢のなかで再現されるのだろうか?
 この問題についてなんの前提もせずに答えうる限りのことを云えば、夢の形像は、ある時にある場面で実際にみた形像とはまったく関係がないということである。また、もちろん記憶残像が再現されるのでもない。夢の形像は、眠りによって条件づけられた心的な受容の空間化度が消失し、心的な了解の時間化度が変容することから直接に必然的にやってきたものである。つまり、意識が対象を受容し了解するという構造をたもちえないところから、必然的に与えられたものが夢の形像であって、いかなる意味でも視覚像ではありえない。
 たとえ、夢のなかに、過去のある場面で、じっさいに遭遇した形像があらわれたとしても、この形像が過去の記憶の再生であるということには意味がないのであって、ただ本来的には心的な規範の空間性と心的な概念の時間性が、所定の水準を失ったために心的な言語の意味構成の水準を崩壊させた結果として、形像となってあらわれたという点に意味があるだけである。そしてさきにあげた非形像的にあらわれる下限の夢においては、形像的な夢ほどには心的な言語の意味構成の水準は変化をうけていないとかんがえることができる。
 このようにして形像的なあるいは非形像的な夢は、〈入眠〉時の心的な領域に条件づけられた必然ではあるが、この必然はそのままでは、かならずしも夢のもつ本来的な意味本質を指していない。このように必然としてかんがえられる夢は、ただ〈入眠〉時の心的な領域の構造的な崩壊とか弛緩とかいう受動的な意味をもっているにすぎない。
 (『同上』P211−P212)
 ※@とAは、ひとつながりの文章です。 


B
     2 夢における<受容>と<了解>の変化

 夢を眠りの状態に固有のものとするかぎり、まず外にある対象の感覚的な〈受容〉は、まったく遮断されるとかんがえてよい。それで本来的な〈受容〉が、夢においてどう変化するかが問題となる。

 まず、〈受容〉は、それぞれの空間化度の境界と水準を消失して一集合の堆積に変容するとかんがえられる。もっともありうべき変化の構図は、もしも夢が形像化してあらわれるならば、この形像化に関与した意識の空間化度を除いたほかの〈受容〉は、時間的な構造に転化するだろうということである。この意味は、たとえばつぎのようなことである。
 いま、〈わたし〉がビルディングの屋上から下の道路を鳥瞰する位置で、小さく往還する車や人人のすがたを夢にみたとする。〈わたし〉にとって心的にこの高所からの俯瞰は恐怖である。すると〈わたし〉の心的な恐怖と、〈わたし〉の夢にあらわれた下の方にみえる道路の往還する車や人人の形像の関係は、形像化されたその風景の空間化度以外の意味する空間性を時間性に、いいかえれば擬似的な了解に転化することによって与えられるということである。この擬似的な了解はいわば、自己了解に属するから、〈わたし〉の心的な状態との関係性の了解に還元されるとかんがえられる。いいかえれば、〈わたし〉がその風景の形像を夢にみながら、同時に夢のなかでその夢の形像の意味をなんとなく〈了解〉しているといった心的な体験をやっている。
 おなじことは心的な〈了解〉の変容についてもいえる。
 夢において〈了解〉作用は、夢の形像とつぎつぎにおこる形像の移動や結合や短絡といったような、形像の移動する場面の〈了解〉の時間化度をのぞいた時間性を、擬似的に空間性に転化するにちがいない。これがおそらくは、まったく思いもかけない形像と形像とが、夢において結びついたり、転換したりする理由である。
 (P213−P214)


 夢の形像や非形像の移動、転換、結合は、フロムのいうように空間と時間のカテゴリーを無視されてしまうと云うべきではなく、ただ〈入眠〉時の心的領域を支配する空間性と時間性の変容に左右され、限定されるというべきである。
 (P217)


C
     3 夢の意味

 夢は本来的にはなにごとか意味をもっているのだろうか?あるいはなんの意味もない恣意的な荒唐無稽なものであろうか?
 体験からいえば、ある夢では、なにか意味がありそうにおもえるし、ある夢では、かくべつの意味がなさそうにみえる。もうすこしたちいっていえば、非形像的な夢で意味がそのままたどれそうにおもわれるし、形像的な夢では、どうも意味がたどれそうにおもわれないのである。
 経験的な夢の判断を脱して、夢に本来的な意味をあたえたもっとも重要なかんがえは、フロイドによって提出されたものである。
 (P217)


 わたしのおおつかみな想定では、〈入眠〉時の心的な領域でも、変容された不完全な自己概念と自己規範を因子として、入眠言語とよぶべきものが成立しうるとかんがえられる。そしてこの入眠言語が、抵抗なく流通しうるならば、夢は形成されずにすむものと仮定する。しかしなんらかの原因から、入眠言語が流通しえなくなったとき、夢は形像または非形像によって形成されるのではないかとかんがえられる。
 (P219)


眠りの心的な状態は、もちろん覚醒時の心的領域とはべつの構造をもった心的な世界とすべきで、そこには固有の法則がべつの動因で存在するとみなされる。
 (P220−P221)


 夢は、いうまでもなく〈特殊な〉心的な自己疎外である。そしてこの〈特殊な〉という意味を、もっとも範疇的に規定するものは、それが眠りの心的な世界でだけ可能だということである。
・・・中略・・・
 正常な覚醒時の心的な領域にとって〈身体〉は(身体の意識はではない)、いわば〈自然〉に属している。そしておなじように、夢にとっては、覚醒時の心的な領域が、こんどは第二次的な〈自然〉に属している、ということができる。そして、覚醒時の心的な領域を、どこまで第二次的な〈自然〉に転化しうるかという度合が、夢の形像の強さ、鮮明さの度合を左右するとかんがえられる。上限の形像的な夢は、覚醒時の心的な領域をよりよく〈自然〉化しえた場合であり、非形像的な夢は、この〈自然〉化があまり巧くゆかなかった場合にあたっている。それゆえ、形像の鮮明なそして運動性に富んだ夢ほど〈正常〉な夢にちがいない。それは覚醒時の心的な領域を、充分に強固に固定しえているから〈自然〉化がよりよく行われているのだといいうる。そして非形像的な夢は、反対に覚醒時の心的領域を強固に定着しえないために、覚醒時の心的な調音がそのまま〈入眠〉時に移行し、したがって形像化がうまくおこなわれないのである。
 (P222−P223)


 〈入眠〉時の心的な領域は、もしも〈夢〉がみられることがないとすれば、覚醒時の心的な領域を第二次的な〈自然〉と見做したときの第二次的な心的領域であるが、〈夢〉がみられるや否や逆立的な構造に転化する。
 ふつう〈夢をみる〉といういい方で夢形成を呼んでいる。しかし、もっと厳密にいえば、夢を〈しゃべる〉とか夢を〈書く〉とか呼ぶべき場合にも出合うことがわかる。綜体的にいえば夢を〈表現〉するのである。夢が表現されたものとかんがえられたとき、入眠言語と入眠形像との間の関係の問題に遭遇していることになる。じじつ、わたしたちは〈うわ言〉で夢を形成したり、〈書く〉ことで夢を形成したりすることもあるし、なんとも支離滅裂な文字を読みながら夢みていることもある。

 (P224)






 (備 考)

 大事と思われる個所を、ひとつの流れとして抜き書きしてみた。かんたんに言えば、夢というものが覚醒時の感覚や判断や了解とは別の位相にあり、固有の動因で動いているということ、また覚醒時の世界とのあるつながりも有していることが、驚くほどの透徹さで展開されている。『言語にとって美とはなにか』や『共同幻想論』を書き上げたことから来る、論理のある威力や自信が、ここでも発揮されているように感じる。

 吉本さんの対象への入り方や対象の取り上げ方は、大多数の人々がそうだねと思い当たることや人類史の歩みの普通さを踏まえている。例えば、『言語にとって美とはなにか』で、言語は表現された言葉であると見なし、自己表出と指示表出という論理軸で科学者のように対象をすくい上げようとする時も、言葉に対する、大多数の人々の実感や人類史の歩みの実感が踏まえられているのがわたしには強く感じられる。

そのことは、夢への入り方や取り上げ方にも貫かれている。また、Cの末尾に引用した個所の「入眠言語と入眠形像」から『言語にとって美とはなにか』との関わりも強く感じられる。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
741 例えば吉本さんの〈夢〉の捉え方 A W心的現象としての夢 論文 『心的現象論序説』 北洋社 1971.9.30

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〈入眠〉時の心的な表出が、覚醒時の心的な領域と接触している 心的な固有了解と固有関係 心的な原関係と原了解 空間化度と時間化度の質的な差異
項目
1

@

       6 夢を覚えているとはなにか

 以前にみた〈夢〉で、何十年も覚えているような〈夢〉は、なんらかの意味で現実体験によって裏打ちされた〈正夢〉である。このことは、夢で重要なのは、フロイドのいうように〈検閲〉や〈抵抗〉によってなにを忘却したかということでも、なにが歪曲され、迂廻されて、保存されたかでもなく、なにを覚えていたかであることを教えている。なぜならば、醒めて後に覚えている夢だけがこの世界にたいする人間の関係の相を語ってくれるからである。〈覚醒時にも覚えている夢〉というのは、夢にとっては現象的な矛盾であるが、夢が、いいかえれば〈入眠〉時の心的な表出が、覚醒時の心的な領域と接触していることを証拠づけている。
 フロイドは、いわゆる〈正夢〉の機構について、じぶんのみた夢を例にあげてつぎのようにのべている。

 ・・・フロイト『夢判断』からの引用、略・・・

 ・・・中略・・・
 フロイドのかんがえで重要なことは、最初の〈体験〉が覚醒時にまったく痕跡さえのこさぬほど忘却されているのに、なお〈無意識〉の奥深くに貯蔵されているとかんがえられている点である。
 けれど、わたしにとってほんとうに重要なのは〈正夢〉をつないでいる結節である。さきのフロイドの夢でいえば、「グロテスクな石像」のある「ビヤ・ホールの入口」が、忘却した〈実見〉とたびたびあらわれる〈夢〉と、そのあとで実際に行ってみて夢でみたとおなじ風景となってあらわれた〈追認〉のあいだを結んでいるという点である。つまり、重要なのは忘却しさった体験と夢と追認とを結びつけているものとしての「グロテスクな石像」のある「ビヤ・ホールの入口」の光景なのだ。なぜなら、この光景が〈夢〉を覚醒時体験につなぎとめている結節だからである。そしてそのかぎりでこの光景には意味がかくされている。
 (吉本隆明『心的現象論序説』P234−P237 北洋社 1971年9月)


A

 とうぜんつぎに問われるのは、わたしたちの心的な領域が、〈入眠〉時と覚醒時とを連結する位相で、ある事象をパターンとして現存させているとすれば、このパターンはなにを意味しているのかという問題である。
 もちろん、フロイドならば〈幼児記憶〉の〈無意識〉による保存として〈幼児体験〉に意味があるのと、おなじように意味があるとなるはずである。しかし、〈記憶〉とか〈無意識〉とかいう概念をもちいないとすれば、フロイドの解釈ははじめから拒絶される。わたしたちはこの心的に保存されたパターンを心的な固有了解と固有関係とかんがえたいのである。
 ・・・中略・・・
 さきにあげた〈わたし〉の少年時の夢でいえば、〈記憶〉は〈仲間たちがそうしようというときに、《わたし》はためらいをおぼえているが、《わたし》が決意して行ったときには、仲間たちは行わない、この異和には、《わたし》の人間にたいする理解を疑わせるなにかがある〉という概念のパターンとして、往時の夢が保存されている。そして概念のパターンであるため、〈夢〉の形像がどうであったかは重要な意味をもっていない。ただ重要なのは、この概念的なパターンが、〈わたし〉のこの世界にたいする固有了解と固有関係を象徴しており、だからこそ、〈わたし〉は後年になってたびたび現実上の体験として、これとおなじパターンに出遭ったようにおもい、したがって、いわば〈概念の正夢〉のように保存してきたのである。・・・中略・・・
 ここでふつういわれる〈正夢〉というものが、じつは個体の心的な固有了解の時間性と、心的な固有関係の空間性とによって決定された〈夢〉をさしているということができる。そしてこの〈固有性〉は、〈入眠〉時の心的な領域では、概念のパターンとしてあらわれることも、形像のパターンとしてあらわれることもありうるが、それが〈正夢〉としての本質をもつことはすこしもかわらない。
 いままで挙げてきた二つの長年月のあいだ保存された夢は、夢一般についても両極を象徴している。一方は〈夢〉が入眠言語ともいうべきものによってパターン化され、他方の〈夢〉は入眠形像ともいうべきものによってパターン化されている。・・・中略・・・しかし、どうやら〈夢〉はこの入眠言語と入眠形像との二重性によってあらわれるらしいのである。
 (『同上』P238−P240)


B

 もしも〈入眠〉時における〈夢〉が、覚醒時においても〈覚えられている〉とすれば、この〈覚えられている〉ことのなかには、すでに意味が存在しなければならない。〈覚えられている〉ということは、覚醒時の心的な作用であって、もちろん現実にある事件にぶつかった実体験ではない。しかし観念の体験という意味では、実際体験であるから、〈幻想の正夢〉ともいうべき正確をもっていることはたしかである。それゆえフロイドのように、幼児期の〈リビドー〉の分布に、パターンの原質をもとめることはできないとしても、心的な固有了解と固有関係にパターンをもとめることはできる。そしてここに〈正夢〉ではなくて〈一般夢〉の解釈可能性の問題がフロイドと異った方法で提起されるといえよう。それとともに、〈正夢〉よりもさらに原質的なところに、〈原夢〉ともいうべきものが想定される。
 (『同上』P241-P242)


C

       7 夢の時間化度と空間化度の質
  ・・・中略・・・
 しかし、〈既視〉の夢(あるいは白昼夢)において重要なことはそんな問題ではない。幼児にとって〈夢〉は観念の行為そのものである。その〈夢〉が心的な願望であっても心的な飽満であってもどうでもいい。観念の行為そのものであるため、幼児にとって現実的な行為の代同物であることだけが重要なのだ。いいかえれば、幼児にとって観念の行為と現実の行為との区別は未分化であらざるを得ないため、〈夢〉は行為そのものとなる。したがって極限に〈原幼児〉いいかえれば胎児を想定すれば、その観念の行為も現実の行為も、すべて〈いつか視たことがある〉あるいは〈いつか行ったことがある〉とならざるをえない。なぜならば、胎児にとっていかなる幻想上あるいは現実上の行為も、ただ〈胎内に、そこに在ること〉を意味しており、〈行為〉はただ〈そこに存在すること〉以外の意味をもちえないからである。そうであればいかなるものも〈すでに一度みた(あるいは体験した)もの〉であらざるをえないことは、〈存在すること〉が〈すでに一度みた(あるいは体験した)こと〉であるのと同様である。
 人間の個体にとって、〈そこに存在すること〉自体は、どんな関係の空間性も了解の時間性ももたないが、ひとたび〈そこに存在すること〉が対自化しうるようになれば(幼児)、そこには自己内の関係の空間性と了解の時間性をもたざるを得ない。これを心的な原関係と原了解と呼ぶことができ、この条件のもとでは〈夢〉は行為そのものを指している。
 〈既視〉の夢(または白昼夢)は、心身の疲労状態のもとでおこる〈ひとたび完結された対象の了解そのものを、ふたたび対象として了解する〉ことであるにすぎないが、この二度目の了解において、対象を心的な原関係と原了解にひきよせることを意味している。
 さきに〈正夢〉とは、夢みたことと現実上の体験とが、その個体にとって固有のパターン(結節)によって同致する現象であるとみなした。そしてこの固有のパターンが、形像であれ非形像的な概念のパターンであれ、夢みた個体自身にとっては重要な意味をもつものであるとかんがえてきた。まったくおなじように〈既視〉の夢(または白昼夢)は〈いつか一度みたこと(体験したこと)がある〉という普遍的なパターンによって、個体のみる夢でありながら、〈存在そのもの〉に還元されるとみなすことができる。いいかえれば、個体が〈そこに存在する〉ことの自己関係自体、自己了解自体の心的な表出とかんがえられるのである。
 (『同上』P242-P244)


D

 わたしたちは対象にたいする知覚作用では、それぞれの感覚(聴覚、視覚等々)によって特有の関係の空間化度と了解の時間化度が存在すると想定した。そしていまさらに、特定の感覚的な空間化度と時間化度の内部で、原関係と原了解、固有関係と固有了解、一般関係と一般了解というようにかんがえられる空間化度と時間化度の質的な差異が生ずると想定せざるをえないのである。そしてこの質的な差異は、人間が〈そこに存在する〉からはじまり〈じぶんの心的な領域のじぶんの身体にたいする心的関係と了解〉をへて〈じぶんと他者(他の事象)とのあいだの関係と了解〉にいたる過程の、質的な差異に対応するとみなされる。
 ここまできて、フロイドが〈胎児記憶〉や〈幼児記憶〉が無意識内で保存されるとみなしたものを、原関係と原了解、固有関係と固有了解の空間化度と時間化度の現存性という概念におきかえることができる。
 〈夢〉がもし心的な原関係と原了解のところでやってくるならば、その〈夢〉は〈いつかそんなことがあった〉とか〈いつかそんなことがあるはずだ〉というような〈既視〉あるいは〈未視〉のように体験される。そして心的な固有関係と固有了解のところでやってくるならば、それは心的なパターンとしてそれぞれの個体に固有性の意味をもつとかんがえられる。そしてもし〈夢〉が心的な一般関係と一般了解のところへやってくるならば、その〈夢〉がどんなに荒唐無稽にみえようとも、ある一般的な意味づけが可能な要素から成りたっているとみることができる。
 このような〈夢〉の質的な差異が、生理体にどういう条件のもとでやってくるかを確定することはできない。・・・中略・・・しかしこれらの〈夢〉が、個体の心的な構造のなにに対応するかは、すくなくともいままでみてきたとおり明確に示すことができるようにおもわれる。そのかぎり、わたしたちはどんな〈夢〉も、解釈可能性としてかんがえることができるのである。
 (『同上』P244-P246)
※B、C、Dは、ひとつながりの文章です。






 (備 考)

フロイトの考察をていねいにたどりながら、吉本さん独自の視点、入り方、考察がなされている。前回の続きとしてここまでは見ておきたいものとしてまとめたものである。その言葉の切開力や論理による構成力には驚くほかない。何度か触れたことがあるが、これはどこから来るのだろうか。

ランダムで法則性がないように見える人間の心的な振る舞いを、言葉の概念や論理の力ですくい取ろうとする試みである。こういう言葉の行為は、主要に欧米のものであった。主要にと言う意味は、アジアはアジアなりにそれに類するものがあったからである。ただ、現在に通じる言葉の概念や論理の力の圧倒性は、やはり欧米のものであったというほかない。

わが列島は、明治近代辺りから何度か欧米の大波をかぶってきた。わたしたちすべてがその大波の影響を受けている。わたしたちは、欧米の大波がもたらした言葉の概念や論理の力についても、この列島の従来的なものとのあいまいな折衷を生きている。そんな中、吉本さんの言葉は、この夢の解析や考察を見てもよくわかるように、欧米の大波がもたらした言葉の概念や論理の力の良質の部分を血肉化し、世界思想としても突き抜けたものを示している。わたしが、吉本さんにおける実験化学の習練や科学の発想の蓄積を重視するのは、それなくしては思想的批評の吉本隆明はありえなかったのではないかと思われるからである。



 (追記.2023.6.18)

 千葉雅也に〈夢〉についての記述がある。論の趣旨から軽く触れたという場面であるが、次のようになっている。

 精神分析の言うことをすべて真に受ける必要があるとは思いません。
 たとえば、精神分析では眠っているときの夢を重視し、無意識を間接的に表しているものとして解釈しますが、夢がそれほど深い意味を持つものなのかも疑問があります。たんに最近の出来事の断片がランダムに出てきているだけだろうという捉え方もありえます。夢が細部まですべて自分のコンプレックスに関わっているという読みは「意味化しすぎ」だと思います。だけれども他方で、全部ランダムだというのもおかしいと思うんですね。何か気になっていること、昔から引きずっていることが夢に象徴化されて出てきているというのは、経験的に言ってあると思います。なおかつ、大して意味がない部分も当然あると思う。それは両方混じっていると考えるのが、まあ穏当な考え方だろうと思います。
 (千葉雅也『現代思想入門』P146 講談社現代新書 2022年3月)

 
 しかし、軽く触れたといっても、これはこれで千葉雅也の〈夢〉のイメージの中心を指していると言えるだろう。そうして、自分を棚上げして言えば、フロイトなどを援用しながら語るか、あるいはこういう論理化以前の印象風の言葉で語るかが大半だと思われる。何をどんなふうに語ろうと自由ではあるが、吉本さんの成し遂げた夢の解析や考察の言葉から眺めると無惨というほかない。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
743 伝統ということ 「国際化」ってなんだ? 対話 『悪人正機』 朝日出版社 2001.6.5

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この先、どこの国も民族国家の枠組みを外していかざるを得ない状況なんですから。それに応じて経済とか社会的な関係も変化していくんだと思います。 伝統的なものとか地域的な特殊性というもの 伝統がなくなって、それで普遍的になるっていうことじゃなくて、伝統的なもの、固有なものっていうのは、今、見えてるよりももっとよく見えるようになるっていうか、 未来がだんだんはっきりしてくるっていうことと、過去がはっきりしてくることは同等じゃないかなと思うんです。
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 僕は、この六畳の部屋からほとんど外に出ないんで、あまり実感的なことは言えないんですけど、知り合いの女の人で、留学生としてフランスに行って、そのままフランス人と結婚した人がいるんですよ。その彼女が、今、フランスはすごくおもしろいことになっているんだって言うんですね。
 どういうことかっていうと、今のフランスは、元からのフランス人っていうか、いわゆる白人のフランス人と、季節労働者としてフランスにいる人たち、そしてフランスの旧植民地出身、第三世界からの人たちの割合が、もうすぐ、ちょうど三分の一ずつになりそうなんだそうです。そのことを向こうの保守的な人たちは非常に怖れていて、危機感さえ持っている。もちろん、進歩的な人たちは、別にいいじゃないかって言ってるらしいんですけど。
 このフランスの状態は、要するに日本で言う国際化なんかとは、まるでレベルが違うって言うんですね。何しろ保守的なフランス人は、もう追い詰められて、極限に近いところまでイッちゃってるんじゃないかっていうんですから。
 でも、まあ、今後は世界中がこの方向にいくんだと思いますね。
ただ、それには、きっと途中に何段階もあって、職を新しい住民に奪われちゃうからどうだとか、人種的な差別の問題とか、いろいろ出てくるとは思うんです。が、どうも今のところ、そのあたりのことはフランスがいちばん先を行ってるというか、スゴイとこまで行ってる。今まで近代国家というものは民族国家ということになっていたけど、もうそんなこと言ってられないよ、ってことなんですよね。


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 すでにスポーツの世界だったら、例えばサッカーなんか見ていると、ヨーロッパのチームに黒人の選手があたりまえのようにいるし、アラブ人でイギリスのボクシングの選手がいるとか。現実的に、体育関係にはいくらでもそういう状況が見かけられるように、いずれは文化関係でも、そうなっていくんでしょうね。
 アメリカは民族国家というカタチでまとまっているわけじゃありませんけど、それでもフランスのように、三つの種類の人たちの比率が均等になってきているというような「国際化」とは、ちょっと違うと思いますね。
 いずれにしても、第二次世界大戦後、フランスは急速にそういう状態になっていったわけですけど、僕の知り合いの女の人は、このおもしろさっていうのは類例がなくて、魅力的なんだって言うわけです。要するに、黒いとか白いとか黄色いとか、そんなことは全然問題にもならないっていうふうになっちゃっててね。そうすると交通というか、交際の仕方、関係の仕方も、かつてないような変わり方をしていく。それが魅力的だと。
 大きく捉えてみれば、日本もそうなっていくと考えたほうが妥当でしょうね。中華街みたいなものはあるし、韓国の人たちが集まる場所とか、フィリピンの人たちもたくさん来てるし、そういうアジア系以外の人たちもにぎやかになってきてる。
 何しろ日本では、千年も前から政治顧問している中国人とか韓国人が集合的な村落をつくっていたり、朝廷の高官として政治に関わっていたりしてたわけだから、今さらどうってことも感じないんだけど、これに西洋からも、第三世界からも来るっていうふうになっていくと、抵抗する人も出てくるでしょうね。


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 日本もフランスと同じようなことを体験していくことになるんでしょうけど、この先、どこの国も民族国家の枠組みを外していかざるを得ない状況なんですから。それに応じて経済とか社会的な関係も変化していくんだと思います。
 ヨーロッパは「共同体」ってカタチでやっていかなきゃいけないってことで、もちろん各国の利害はぶつかるでしょうが、そっちの方向に動いていますよね。これが進んでいくと、伝統的なものとか地域的な特殊性というものはどうなっていくんだって心配している人も大勢いるわけです。
 僕はそのことについて、理念的には「やれやれ!」っていうか、「どんどん、そうなっちゃえ!」って思っているわけですが、でも、心のどこかでは困ったもんだとか、そういう気持ちが残るんじゃないかな、とそういう気はしますね。風俗習慣から何から何まで、何もなくなっちゃってさ。でも、それはどうしようもないことなんだって言えばどうしようもないし、こんなにおもしろいことはないって言えば、それもそうだし。
 僕なんかの考え方だと、要するに伝統的なもの、地域的なもの、特殊性とかっていうのを、今の近代国家の範囲内で見える段階より、もっともっと掘り返しちゃってというか、さらに深めていくっていう方向にもいくんじゃないかと思います。つまりそれは、超近代っていう、近代国家を超えるっていう場合に過去も超えないといけない、みたいな感じですね。
 日本でいえば、奈良時代以降、平安時代になると、いかにも日本的な特色みたいなのが、いろんな意味で現れてくるわけです。だけどそれは「今、僕らが見えてる範囲」でそうなわけですよね。これがもっともっと進んでいくと、民族国家が壊れそうだってなると同時に、奈良・平安時代より、もっと昔はどうだったんだっていうことが大きな問題になってきます。だから、伝統的なものが今よりもっと視野の深いところまで掘られちゃう、っていうふうになると思ってるんです。
 伝統がなくなって、それで普遍的になるっていうことじゃなくて、伝統的なもの、固有なものっていうのは、今、見えてるよりももっとよく見えるようになるっていうか、過去がよく見えるようになるっていうことと、これから近代国家という形態が壊れていくっていうこととは、パラレルに同じことになっていくだろうなと思ってますけどね。未来がだんだんはっきりしてくるっていうことと、過去がはっきりしてくることは同等じゃないかなと思うんです。


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 まあ、それでも、僕自身にしたって、今まで生きてきたことの影響が生理的に染みついている部分は当然、あるわけでね。理念的には自然消滅するものは仕方がないんだ、なんて言っても ―そういうこと言って保護団体の人なんかに怒られたりしても― やつぱり「昔はよかった」みたいな気分っていうのはあることはあるんですね。毎年、夏に行く海水浴場が、あの頃は空いていて素朴でよかったなあとか、そういうレベルではね。
 (吉本隆明『悪人正機』P98−P104 聞き手 糸井重里 朝日出版社 2001.6.5)
 ※@ABCは、ひとつながりの文章です。






 (備 考)

「伝統」という言葉には、小林秀雄の言うような古いもの重々しいものというということが張り付いていて、高校生の頃反発心を持ったものだった。また、一方では、先進中国などの影響下のわが国の文化や文明もあたかもこの列島の固有性であるかのように「伝統」で括られることがあり、その薄っぺらな概念にうんざりしたものだった。また、その「伝統」には、大衆の生活世界からは乖離した、文化上層ということを含んでいるように感じられた。

ありのままの人々の姿や行動が、共同で生み出し積み上げてきた固有のものを、「伝統」と呼ぶとすれば、それを明らかにするには柳田国男や折口信夫などの言葉を潜り抜けなくてはならないと思っている。また、世界のどんな地域も他の地域との交通(侵略や戦争を含めて)の上に成り立ってきた。わが列島の場合も、先進中国や欧米の文物や思想の模倣そのものではなく、模倣しながらもどのように構成しているかという点が「伝統」に関わる領域だろうと思う。


項目739 「〈記憶〉の取り上げ方」で、〈記憶〉という一見わかりやすそうな概念を慎重に扱う吉本さんの姿勢を目にしたが、吉本さんは〈伝統〉という言葉も無造作には使っていない。






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 (備 考)


















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