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427 段階





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
427 段階 だんかい 日本人の宗教観
―宗教を問い直す
対談 『中外日報』2006年 吉本隆明資料集165 猫々堂 2017.5.25

対談者 笠原 芳光

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吉本 宗教的に言うことは僕の力ではないですけれども、要するに西欧の文化から一般的な日本人の考え方、思想や傾向をどういうふうに見るかというと、より情緒的、より情感的というふうに見えるんじゃないかと思います。

笠原 そうでしょうね。

吉本 西欧ではもっときっぱりと合理的に割り切れるはずのものが割り切れないというようなことは、日本人の情操過多というか、情緒過多、あるいは感情過多、そういうことからくるんじゃないでしょうか。日本人の倫理というのもそういうところからくるのではないかと思います。日本人は何かというと感情的、情緒的になって、論理が通らなくても通すとか、そういうふうに西欧からは見えるという要素がありますが、僕は日本人のそういうところというのは悪いことではないと思っています。
            (P80)
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吉本 西欧では、旧約聖書の「ヨブ記」などは典型的にそうだけど、神様とヨブとが問答するところで、神様がヨブに対して、お前は山をこちらからこちらへ移すことができるか、できないだろう、俺はできると。自分は自然さえも支配できるということを言うでしょう。それでお前にはできないだろうというのが非常に大きな要素になっている。要するに神は万物を創造したと。
 だからもちろん、自然をあっちからこっちへ動かすことは大丈夫なんだという考え方というのがヨブ記の中にはあると思います。
 
けれども、僕の造語した「アフリカ的段階」では、やはり人間は自然を動かせるものだと。一番典型的なのは雨ごいのようなものですね。乾期になれば、雨ごいをして雨を降らし、旱魃を解消する。それは最も古い信仰の形態としてあるという考え方です。これはその次の段階にくると、日本の場合でいえば、神様というのは物質的な自然そのものの中にどこにでもあるんだというふうになって、それはちょっと多神教的になる。


笠原 アジア的段階ですね。

吉本 一方、キリスト教の一神教というのは、そこのところをあまり大修正せずにずっとキリスト教の信仰を保ってきたというのが特色ですね。
 僕は一神教かそうじゃないかという分け方をあまりしないで、要するに段階が違うんだよと。
 段階によっていろいろな宗教が生まれてくるのであって、それは社会的な習慣、あるいは宗教性の中にも残っていて、やはり日本にも雨ごいをやった形跡がありますし、さればといって一神教かといえばそうではなくて、自然そのものの中に神が宿っているというような感じが普遍化して多神教的になっている。きっと仏教の一如とか、主観・客観区別できないというような問題は、どちらかの段階の名残が残っていることの証拠であると。

 それは、段階という言い方だとすこぶる言いやすい。その段階のたどり方が西欧と日本、東洋とはだいぶ違っているんですね。
            (P80−P81)

備考






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