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351 | わたしの原則 | |||
項目ID | 項目 | よみがな | 論名 | 形式 | 初出 | 所収 | 出版社 | 発行日 | 抜粋したテキスト |
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351 | わたしの原則 | わたしのげんそく | あとがき | 「サンサーラ」1993.4〜1995.9月号 | 超資本主義 | 徳間書店 | 1995.10.31 |
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永遠の課題 | 固執されていること | 大衆の(原像の)利害を基準にすべてをする |
項目抜粋 1 |
@ わたしがこの本の情勢論の文章で原則的に心がけたことはいくつかある。 第一に大衆がすぐに手に入れられる新聞、雑誌、テレビなどの情報のほかに、いわゆる各分野の消息通がルートをだどって手に入れるような情報はいっさい使っていない。誰でもが手に入るような情報をもとに、どれだけの判断ができるか、またこれくらいの判断を国民大衆の誰もがもっているのだから、用心召されい、いい気になるな、と何者かにいいたいとおもっていた。もともと「情況」というのは誰もの足元をさらい、誰もが判断でき、誰もに関わるところでしか取り上げて論ずるに値しないというのは、わたしの原則だからだ。 第二に、わたしはほんのちょっぴりずつ、この時事的な文章のなかに、わたしが「永遠」の課題だとおもう課題と、それにたいするわたし自身の解答のイメージを潜ませておいたつもりでいる。もしそういう読み方をしてもらうゆとりがあったら、隠し絵のような「永遠」のイメージに気づいて読んでいただけるとおもう。そうなったら望外の幸せだとかんがえている。 第三に、この時評文をつづけながらひとりでにたくさんのことを勉強することになった。これは現実体験でもないし、理念の眼鏡でもなく、刻々と動いたり、跳ねたりしている現実の社会や、政治や、生活の判断を見てゆく方法につながっている。これははじめての文章上の体験であった。 第四に、もしこの時評めいた粗雑な文章で、固執されていることがあるとすれば、大衆の(原像の)利害を基準にすべてをするということで、こればかりははっきりしていた。いつも政治、社会、経済の現象について何を基準に利害や善悪を判断するのかが問われたとき、わたしの基準はそこに還元されている。これはわたしの理念だから固執されなければ意味がないことだとおもった。これは誤解のないようにはっきりさせておきたいが、大衆の(原像)を基準にというとき、大衆のもっている大衆主義(市民主義)でもなければ、大衆主義(政党)の知識人のもっている理念でもない。また自称の大衆政党の利害に同調することでもない。大衆が大衆として理想的に振舞ったとき想定されるイメージのことを指している。 (P332−P333) |
項目抜粋 2 |
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備考 |