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651 別れ路
694 わかりやすい表現
       







項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
651 別れ路 「国語の教科書」 論文 1986.10 『読書の方法』 光文社 2001.11.25

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言葉にもかたちにもなかなかこの「別れ路」はいいあらわせない。 国語教科書の宿命
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 ところで、わたしはここで何をいいたいのだろうと、かんがえてみる。なつかしくないことはない国語教科書の記憶を反芻しているのか。あるいは自分は国語教科書からこんな恩恵を受けたから、すくなくとも国語教科書の内容はかくあるべきだといいたいのか。
 そんな旧懐の情念や、教科書への思い入れが、まったく無いといったら嘘のような気がするが、どうもわたしのなかにはもっと醒めた気持ちの動きがあるようだ。
 わたしはたまたま十七、八歳の多感な時期に、国語教科書をそんな風に読み、そんな風に関心をうごかし、ある意味ではそこから深入りして、詩や批評文を書くようになった。だが、国語教科書などにあまり関心をしめさず、文学などに深入りもせず、まったく別の工業技術の世界にはいっていった生徒が、クラスのほとんどすべてであった。
 わたしの国語教科書への思い入れや、恩恵の記憶などに、何ら普遍性がないことは、わたし自身がいちばんよく心得ている。こんな醒めたいい方ができるのは、この文章の主題が依頼されたもので、その主題にできるだけそいながら、依頼のせめを果たそうとするモチーフが濃厚だからだともいえる。
 だが、とかんがえをすこし集中させてみる。するとこの文章にもかすかだが、モチーフらしいものが潜在している気がしてくる。なにかといえば「別れ路」をわたしが語りたがっていることだ。
 すくなくともわたしの旧制中学(工業学校)時代には、国語の教科書は、古典詩歌、物語と近代(大正期までの)詩歌、小説とから温和な抄録をつくって、それを内容としていた。これは語句の解釈や、漢字の書きとり用に読み、練習することもできたが、情感や意味をひらくための素材として鑑賞し、そこから感覚や情念の野をひろげて、教科書以外の本の世界を漁ってゆく手だてにすることもできた。現在でもたぶんおなじことで、その方法ははるかに高度になっているかもしれない。
 ただ国語の教科書を教科書として読むことと、教科書の外の世界にもすぐにむすびついている文学作品の抄録として読むことのあいだには、かすかな「別れ路」があるとおもえる。
 言葉にもかたちにもなかなかこの「別れ路」はいいあらわせない。だがこの「別れ路」の道祖神に具えられた供物に盛ってある「有益な毒」みたいなものを、誰が飢えて盗み食いして去っていったのか、誰が食べずに通りすぎていったのか、あるいは「別れ路」があることさえ気づかすに、あかるく教科書を征服して、愉快に歩いていったのか、またおよそ国語の教科書などまともに開いたことがなくても、何不自由なく自在に話し言葉をあやつって、実生活を開拓する道をいったのか、そのときのクラスの餓鬼どもの風貌のひとつひとつと照らしあわせて、たどってみられたらどんなに興味深いか、そんな空想をしてみたくなる。そしてこの空想のなかには、国語教科書の宿命もまた含まれている気がする。
 (「国語の教科書」P109−P111『読書の方法』 光文社)











 (備 考)

シームレスに見えるわたしたちの現在も、思えば、いろんな「別れ路」をたどってきている。幼年から学童へ、学童から少年へ、少年から青年へ、学校内の小社会人から社会人へ、・・・いくつも「別れ路」があった。その「別れ路」に直面した時の波風や複雑な思いはもう沈められてしまって、思い出すのもぼんやりしたものになってしまっている。後から論理の言葉で言うことはやさしいようで、特に遙か少年の頃の「別れ路」には「言葉にもかたちにもなかなかこの『別れ路』はいいあらわせない。」とあるように、自分でもよくわからない思いやイメージを伴っていたからかもしれない。


これは依頼された文章のようだ。吉本さんの依頼に沿いつつなんとか自分独自の考えを打ち出そうとする様子がうかがえる。そうやって誰にも関わりのある「別れ路」というモチーフが浮かび上がってきた。






項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
694 わかりやすい表現 『共同幻想論』「角川文庫版のための序」 論文 『吉本隆明全集10』 晶文社 2015.9.25

※本文の末尾に、昭和五十六年十月二十五日(引用者註.1981年)   著者、とある。

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著者の理解がふかければふかいほど、わかりやすい表現でどんな高度な内容も語れるはずである。 この内容をもっと易しいいいまわしであらわせないのは、じぶんの理解にあいまいな個所があるからだという内省
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 こんど文庫版になったこの本を、いままで眼にふれたり、名前を聞いたり、読んだりしたことが、まったくない人が手にとるかもしれないと想像してみた。そこでわたしにできる精いっぱいのことは、できるかぎり言葉のいいまわしを易しく訂正することだった。限度までやったとはいえないが、ある程度読み易くなったのではないかとおもう。
 もともとひとつの本は、内容で読むひとを限ってしまうところがある。これはどんなにいいまわしを易しくしてもつきまとってくる。
また一方で、著者の理解がふかければふかいほど、わかりやすい表現でどんな高度な内容も語れるはずである。これには限度があるとはおもえない。そこで著者には、この内容に固執するかぎり、どうやってもこれ以上易しいいいまわしは無理だという諦めと、この内容をもっと易しいいいまわしであらわせないのは、じぶんの理解にあいまいな個所があるからだという内省が一緒にやってくる。この矛盾した気持のまま、いまこの本を読者のまえにさらしている。
 (『共同幻想論』「角川文庫版のための序」、『吉本隆明全集10』晶文社)






 (備 考)

例えば、指示表出と自己表出という基軸としての概念を生み出さざるをえなかった時、最初からその概念のもたらす問題のすべてに渡って吉本さんがわかっていた、見えていたわけではない。科学者の発想と同じく、この二つの基軸の設定によって言葉というものの構造を総体として捉えることができるはずだという思いはあっても、まだまだ詳細の詰めるところがあったはずである。そういう思考の継続の足跡が、『言語にとって美とはなにか』について書かれたいくつかの序文やあとがきに残されている。

わかりやすい表現とは何か、それをめざすのは自分の理解のあいまいな個所を解きほぐしていくことだと。たぶん、誰もが思っているけど口にすることが少ないことを、吉本さんが明確に言葉にしているなと思う。


一方、上の文章より後に書かれた『ハイ・イメージ論』には、難しい数式なども用いられた難解に見える文章もある。それは、数式を用いた方が便利ですっきり表現できるはずだという思いがあったからだろう。いずれにしても、より深く対象を理解するというその本質性からして、上の「わかりやすい表現」ということは、吉本さんにずっと底流していたと思われる。






項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト

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