ヤ行

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13 人間の欲望
112
123 喩としての聖書
124 喩としての聖書
231 往く表現と還る表現
292 読む側
295 ユーモア
336 病む
348 ユダヤ教ないしキリスト教の神
349 ヨブと現在の課題


項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
13 人間の欲望 よくぼう 都市から文明の未来をさぐる クレア(文藝春秋)1994年4月号 わが「転向」 文藝春秋 1995/02/20 わが「転向」


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都市
項目抜粋
1
@●都市が人の欲望を刺激し,吸引する。その同じ欲望を、農村はまったく味方につけることができないでいます。人間の「欲望」の姿というのは、ここにはっきりと闡明されました。
●つまり人間の欲望や願望は我儘で、ときどき天然自然の中でゆったり休息したいということなら、だれでもありますし、またやっています。しかしそれは天然自然の中で生活したいという欲望や願望とは違います。何が楽しくて、何が快いかということは、どうしたって変わりようがない。欲望が少なくなったり、多くなったり、あるいは多様になることはありますよ。しかし、今までと全く異なるほど欲望が退化し始める、とは決して思えない。文明は、欲望が通りやすい通路を選んで発達してきました。都市も欲望を充足させやすい形で拡大していきます。この発達のスタイルは普遍的です。都市としての東京は、農村と対立する意味での歴史的な都市から、現実の形而上化、つまり像空間としての都市(超都市)の方向に変貌することはいうまでもないことです。
 人間のこの抜き差しならぬ欲望の形を見間違えたら、どんな理想でも成り立たないと思います。(P95-P97)
●欲望が多様で、実現しやすいことが、都市の根拠なんです。(P97) 
項目抜粋
2





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
112 ゆめ フロイトおよびユングの人間把握の問題点について 講演 山王教育研究所主催1975.10.11 知の岸辺へ 弓立社 1976/09/30 知の岸辺へ 吉本隆明講演集


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夢を三つの基軸から三重に解析すること
項目抜粋
1
 @なぜならば、人間の<集合的無意識>というのは、その領域でかんがえるかぎりは、普通の状態とはちがったもので、まったくちがう法則と意味つけとに支配された世界、つまり非個人的な世界というものが<集合的無意識>の世界なんで、そこでしか通用しない法則があって、その世界をかんがえれば、夢が予期する、予知するということはありうるんだというふうにユングはかんがえていったとおもいます。その考え方の危なさというものは、ユングが<集合的無意識>に力点をおいて、個人の精神の世界というものをかんがえたために起っている危なさというようなものだとおもいます。フロイトのほうからいえば、夢というものはそんな簡単なものではないので、あるなんらかの心的願望の表現だとかんがえるわけです。表現だけども、そのばあい、検閲を通過して無意識の願望の世界は表現されるために、必ずしも願望がその通りに表現されるとはかぎらない。歪んで表現されるばあいもあれば、まったく逆に表現されるばあいもある。つまり夢と夢みる者とのあいだ、あるいは夢とその原因とのあいだには、ひとつの表現という媒介があって、しかも表現という媒介は現実の表現とちがって、例えばぼくが白墨が欲しいから白墨を取ったというような表現とはちがって、うまくそのとおり表れるとはかぎらない。そういう考え方がフロイトの基本的な考え方ですから、ユングのように、夢そのものが、そのまま未来を語っているばあいがあるという考え方は、フロイトの夢の考え方からすれば単調な考え方であって、その単調な考え方が、いわばユングを次第に神秘主義者にしていったとみていたとおもいます。 (P110-P111)

Aはじめに、ぼくが三つの基軸があるというふうにいいましたことで、もう少し今のことを位置つけてみますと、フロイトがしばしば決定的なものとしてあげている夢というものを、やはり先ほどいいましたように、自己が自己に対する関係の世界に位置つけられねばならない夢と、自己と他のひとりの自己との関係の世界、つまりフロイトのリビドーの世界、そういう性の世界に関係つけられなければならない夢と、それから共同性の中で、共同の観念が流布されている中でのひとりの個人の心の世界として位置つけられねばならない夢とは、別の次元にあるというふうにかんがえなければいけないのではないかとおもいます。 (P113-P114)

項目抜粋
2
B一般に夢の世界と云っているものは、大きく分けますと、民族、種族にかかわらず共通に通用する夢と、リビドーの問題としてならば人間共通に通用する夢みたいなものと、それから、まったくそれとちがって個々の人間にとってしか重要でもないし意味も通らないし分析もできない、ほかの人にとってはなんのことかわからない、ちっとも意味のあるものとはおもわれない、そういう夢と、その三つの夢は分けなければならないし、またその三つの夢は、質のちがうものとして理解しなければいけないと、ぼくにはおもわれます。ユングの<集合的無意識>というのは、あくまで共同性の中での個人の世界を大きいものとしてみていますし、またフロイトの夢の世界というものは、明らかに人間と他のひとりの人間とのあいだの世界、つまりリビドーの世界を本質として、そこに還元できるものとして夢の世界をかんがえているというふうに理解しています。 (P116)





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
123 喩としての聖書 ゆとしてのせいしょ 喩としての聖書 講演 1977.08.30 言葉という思想 弓立社 1981/01/30 言葉という思想


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思想として読むってこと <言葉>にたいするまったき信仰
項目抜粋
1
@ぼくは思想として読むってことは、それが信仰にまつわることであれ、つまり宗教にまつわることであれ、あるいは自然科学にまつわることであれ、また人文科学にまつわることであれ、そのものの領域の内部にあらかじめじぶんを置かないで、つまり、いつでも、宗教と宗教でないもの、信仰と信仰でないもの、信ずることと信じないこと、そういうことの境界を踏まえていることだとおもいます。それが思想にとってはいちばん重要な態度だとおもうのです。(P38-P39)

A聖書のなかでなにか信じられていることはないのでしょうか。マルコ伝をみてゆくとします。マルコ伝の中でも、どうしても信じられてるなとおもえることがあるとすれば、それは<言葉>なのではないでしょうか。・・・・マルコ伝は<言葉>は授けられたものだ、そして<言葉>を云わせるのは聖霊だから、あらかじめ何を云おうとおもい患ったりするなと述べているのです。そこの個処が<言葉>が信じられていることを象徴しています。(P53-P54)

B奇蹟というのは、言葉の面からはどう理解できるか、かんがえてみましょう。・・・・新約書の主人公が聖書の中で演ずるさまざまな奇蹟は何かといえば、それは暗喩(メタファー)なんです。・・・・
 ところで、本来ならあまりに意味やイメージが隔たっていて、あるいはあまりに相反していて、どんな結びつけ方をしても「言葉」として決して結びつかない<言葉>を、強力に結びつけているのが奇蹟です。つまり「言葉」からみた奇蹟とは何かといえば、本来ならば結びつくはずがないふたつの対象を、結びつけているのが奇蹟です。それが言葉としてみた奇蹟ということです。この意味がとどくでしょうか。これは重要なことを云っているつもりです。うまくいえないですけど、重要なことをいっているという気持があります。
 なぜなら、本来ならば喩として成り立たない、つまり直喩としても意味が通じない、それから、暗喩としてかんがえても意味が通じない。荒れ狂った海にたいして静まれといったら海は静まったというふうにいわれても、本来的にそれは虚偽でしょう。虚偽というのは、絶対信じられないということです。けれど、信じられないことが連結されたから奇蹟なのです。聖書はそういうふうに<言葉>を使っています。(P56-P58)

項目抜粋
2
Cこの奇蹟は、フィクションだと理解するか、さもなければ、これは史実に反すると理解するか、あるいは<言葉>としてそう作っただけだとして理解するか、あるいは、そうでなくもう少しちがうことを云おうとしてると理解するか、この何れかしかないとおもいます。
この問題をもう少しちがうことを云おうとしているというように、すこし追いつめてみます。荒れた海に、<静まれ>といったら、静まったなどということは、たれがやってもだめでしょう。つまり、自然はそのように理解すべきものです。そして人間も自然の一部でしょう。
<言葉>にたいするまったき信仰があるとすれば、聖書はそれを、神にたいするまったき信仰と同義のようにみなしています。それが奇蹟譚の意味です。まったくつながりそうもないふたつの対象を、「黙せ、鎮れ」とイエスがいった<言葉>が媒介するならば、暗喩(メタファー)になりうるわけです。(P59)





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
124 喩としての聖書 ゆとしてのせいしょ 喩としての聖書 講演 1977.08.30 言葉という思想 弓立社 1981/01/30 言葉という思想


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項目抜粋
1
 Dところで、アジアやオリエントの古代においては、古代における共同体で、信仰を司る者と共同体を政治的にあるいは行政的に司る者とはしばしばおなじであるということがあります。また、別なばあいにはたとえば、信仰を司る人が、神の言葉を受けとって、そして、受けとった神の言葉によって、共同体を司る人たちが実際的に村を治めるという形になります。両者が別々であっても同一人物であっても、強力にそういう形態があったとかんがえられます。そういうばあいに、そういう場所、そういう時代には、ある諺、ある比喩、つまり謎謎、喩を解くということ、あるいは、それがわかるということは、信仰が強固だということを意味したのです。同時に、その共同体を治める能力があり、適格だという人だけが謎謎や諺、喩といったものを解けたということです。諺や謎謎や喩がすぐにわかることは、信仰が篤いこと、つまり、神のご託宣や神の心がよくわかることを意味しました。そのことは同時に、ある共同体を実際に政治的に治める能力があることを意味していたのです。(P61-P62)

Eイエスは、ああ、この母親はわかっている。いいかえれば<言葉>というものがわかっている、<言葉>がわかることは喩がわかることだ、喩がわかることはいい信仰をもってることだとおもったので、それじゃ治ったも同然だよ、治ったよ、といったとおもいます。
 これは先ほどもいいましたけれど、奇蹟を<言葉>からみたばあいに、あるいはもっと普遍的に<言語>という思想から、新約書がどう読めるかというばあいに、重要な理解の仕方だとおもわれます。
(P63)
F人間が<言葉>の修辞法としてあみだしたすべてのことは、いまも使われています。その意味では<言葉>に時間性とか歴史性はないし、喩に歴史性はありません。けれど、喩を時間性から理解することは不可能ではありません。発生史的にも、現在という立場からも、<言葉>に時間の累積性を入れていく考え方もとることができます。(P66)

項目抜粋
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Gその考え方をとりますと、まず最初に、喩として<虚喩>という云い方がありました。これは勝手にそう名づけたのです。そのつぎの時間に発生したのが<暗喩>です。そのあとに発生したのが<直喩>なんです。そしてもっとも後にでてきたのが、喩を使わないストレートな云い方なんです。・・・・わたしたちが現在、暗喩(メタファー)だとかんがえているものは、暗喩(メタファー)が発生して、使われはじめた時代の人にとっては、暗喩(メタファー)でなくて、あたりまえな云い方だったということです。いまストレートに「おまえの眼は細い」というのとおなじことを表現するのに、暗喩(メタファー)が発生した時代の人は、「おまえの眼は象の眼だ」という云い方しかできなかったのです。それが喩の時間性の意味です。だからストレートな云い方は時間としては、いちばん後にでてきたものです。そんなばかなことはない、喩のほうが言葉の飾りではないかという考え方は、現代に固定した考え方なのです。そうでなくて喩以外には、<言葉>の表現法ができなかった時代があったのです。それで、ある重要なことを表現しようとすると、譬みたいな云い方しかできなかったのです。それが、それぞれの喩の形が発生した時代です。
(P66-P67)





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231 往く表現と還る表現 ゆくひょうげんとかえるひょうげん 資料 表現者にとっての現代 インタビュー 1979.5『写真試論1号』 大衆としての現在 北宋社 1984/11/05 大衆としての現在

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自分の表現として一番重いもの 資本主義社会は、無意識としては歴史の最高の段階
項目抜粋
1
@現代社会のメカニズムとかそれに伴なうさまざまな制約がね、半分だけは表現を援けるだろう、とおもうのです。
半道というのをね、『最後の親鸞』の親鸞のような言い方をすると、<往相>ということなんだけど、つまり表現には往き還りということがあって、往く表現と還る表現というのがあって、往く道だけはさっきの社会的なメカニズムや制約が援けるだろうとおもいます。だからそういう、自己制約というか、社会的条件のなかに自分が不可避的に這入り込んだら、そういう状態を肯定しろっていうのです。往く道では肯定しちゃえ、絶対否定するなってかんがえるのです。多分、すべての反体制的な表現者とぼくが違うのはそこだとおもうのです。往く道ではね、資本主義であろうと、絶対援けるだろうっておもうのです。だからそこで否定して、これを否定的媒介にして、などということは絶対にかんがえるな、ってぼくはおもいます。現代社会の機構とかそれに伴なう制約とか、あるいは現代社会が奨励する風俗化とか通俗化の方向性を肯定することはね、表現者にとって往く道だけは援けられるからなんです。ただ往きっぱなしになるっていうこともある。本来は還る道に来るところを、往きっぱなしになるとこれは風俗化するとおもう。だからね、還る道にさしかかるときに、表現の全体的な課題が現れることになるだろうってことなんです。社会のメカニズムや制約や、奨励されている方向性というのは、還る道ではマイナスに作用するだろうって、ぼくはおもいますね。還る道ではだから、表現の全体的な課題を相当深く掘っていかなきゃならんだろうって、おもいますね。 (P178-P179)

A往く道の限度までゆくとね、現代社会のメカニズムは表現者を風俗化させ駄目にするという働きしかないんです。だからこそ、還れなければいけない。還る、ということが現代の表現の、大事な問題なんです。 (P181)

Bでもやる限りはいつでも還れるというかね、自分の表現として一番重いものを持ってなきゃいけないです。それは一般的に言って、同人雑誌とか、無償の行為というか、そうでなきゃ成り立たないですよね。だから一般的に言うと還れる場所はどこか、往きっぱなしになるところはどこか、そこから還れないってことはどういうことか、その辺はすごくはっきりしてるように、ぼくはおもいますけどね。(P183)

項目抜粋
2
Cですから、その場所が往く道だけは援けるんですが、段々馴れてゆくと駄目になってしまうということがあるんですね。芸術を駄目にするところがありますね。どうして駄目にするのか、って言うと、現代の資本主義社会というのは、無意識としてはね、人類の最高の段階だとおもうんですよね。そういう意味ではいいんだけど、もっと違う段階のことをかんがえると、本当はもっと自由でなけりゃいけないのですね。表現がもっと自由でなけりゃいけないのです。資本主義はそこではつまり還る道では制約になってくるのです。だがそれ以前の段階では、資本主義は、いずれにしろ人間の知恵が長い歴史をかけて結論として出してきたひとつの社会機構には違いないんで、それだけの良さってのはあるわけで、往く道として芸術の表現を援ける要素はあるんですね。だけど自由度は足りないようにおもうんです。もっと自由であるべきはずなのに、やはり妨げてしまうという面もある。それが問題で、それに馴れていくと自ら自由度を減少させてしまうし、自ら風俗化してしまうということがあるとおもいます。ふつうは、自由自在にやってるから、あいつら風俗化している、というふうに言いますが、本当はそうじやなくて、自由度が一般的に足りないのだとおもいます。その自由度は、かんがえ出さなきゃならないはずなのに、かんがえるのを止めちゃってるから、風俗化していくとおもうのです。・・・・本当に反体制的な表現というのは、現在許されている自由度より、もっと自由な表現であっていいはずなんですね。表現、ということで言うと、それ以上のイデオロギーはないのね。全き自由というか、現在自然に出てくる自由よりもっと自由であるはずなんです。芸術の理念ということで言えばそれしかないんですね。 (P184-P185)





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
292 読む側 よむがわ 悪人正機 人生相談 週間プレイボーイ1999.5-2000.1 悪人正機 朝日出版社 2001/06/05 悪人正機

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「信じること」と「科学的に明瞭なこと」をつなげたい あやふやなところの極限に近いところ
項目抜粋
1

@ 僕自身が書いたもののなかに、どうやって、どのくらい、そういう危なっかしいものをいれているかということですけけど、僕の関心は、要するに「信ずること」と「科学的に明瞭なこと」をつなげたいってことなんですよ。その反するふたつのことが、矛盾なしにつながることはあるんじゃないかって思っているんで、それをつなげたいっていうことには一所懸命なんです。
 だから、何とかしてつなげようっていうふうに考えると、
あやふやなところの極限に近いところまで、どうしてもいっちゃうんですね。例えば、臨死体験みたいなものがあるかないかって言ったら、僕はあると思っているんだけど、それが科学的確信だって言い切ることはできないんですよ。信ずることで言えば、かなり本気で本当だろうと思っているけど、科学的にそうかって言われると、ちょっと危なっかしいってなっちゃいますね。でも、つなげようつなげようとしているんですね。
 それで、養老(孟司/解剖学者)さんみたいな人に会った時に、聞くわけですよ。そうすると、臨死体験みたいなことはあり得ると思いますって言うんです。「耳が聞こえれば、人間は目が見える」っていうふうに考えていい。つまり、死ぬ間際まで、意識がもうろうとしていく間際まで、目は見えるっていうふうに考えていいから、臨死体験みたいなことはあり得ると思いますよ、とか言うんだけどね。
 でも、僕のどこかにやっぱり、そう言い切っちゃったらいけないかな、と思ってるところがあるんですね。だけど、
僕の書いたものを読む側の人は、もうそれは言い切っちゃってるって思うわけです。


A きっと本当に科学的、唯物的な科学的な人からすれば、あいつ、ちょっと危なっかしいぜって思うでしょうし、自分でもそういう気はしますけども、
僕の第一のモチーフは、信ずることと信じないこと、あるいはどちらともとれることをつなげたいんだってことなんですね。
 それをつなげちゃえば、だいたい、宗教とか科学とかって区別をしなくていいっていうことになるんじゃないかなっていうモチーフはあるんですね。信じる信じないの信仰の問題と、科学的な知的な問題っていうのが、どっかでつながるはずだとね。それができないのは、今のところ、まだ発達段階がそこまでいってないから途切れたものに見えてしまって、なにか怪しげだってところに行っちゃうんでしょうね。
   (P113−P115)

項目抜粋
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項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
295 ユーモア ゆーもあ 悪人正機 人生相談 週間プレイボーイ1999.5-2000.1 悪人正機 朝日出版社 2001/06/05 悪人正機


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項目抜粋
1
@ 僕は鶴見俊輔さんに「吉本さんはユーモアがないというのが欠点だなあ」と言われたことがあって、それは当たっているな、と割合自認していますけどね。
 そうすると、なぜユーモアがないのかってことになりますけど、外側から見てどう思われているのかってのは、非常に簡単でね。生活にっていうよりも、思考方法にゆとりと遊びがないんだよってことです。・・・・・・・つまり僕は、思考っていうか、考える経路のとり方に遊びがない、と思うわけですね。
 それで、人にユーモアが必要か、どうしたら人がユーモアを持てるようになるかってことについては、少なくとも自分の思考方法の中で僕自身にとっては「必要ない」と思っています。だけれども、客観的に他の人を見ていると「この人はなかなか鋭いし、頭の働きも人間の遇し方もいい。ただユーモアがないよなあ。」っていうふうに見えることは、やはりあるんですね。じゃあ、どうしたら持てるようになるんだっていうと・・・・・全然わからねえなあってなっちゃうんですよね。  (P206)


A ただ、そうだからといって、何とかユーモアを会得して、それで延命しようじゃないかっていうふうに思うかっていうと、積極的にそこへ向かうっていうことは億劫だなっていうか、やっぱりできないんですけどね。  (P209−P210)

B きっと、笑いやユーモアってのも、同じようなところ、つまり、小さい頃からの修練がちがうんだっていうようなことがあるんでしょうね。 (P211−P212)

項目抜粋
2





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
336 病む
やむ <社会>問題としての病理現象  対談 時代の病理 春秋社 1993.5.30 時代の病理

対談者 田原克拓

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項目抜粋
1
@ だから、心の働き方というものに関与しているかぎり、胎児の時から一歳未満の時の母親との関係でつくられる精神の「核」の問題が、やっぱり老齢化した後でそれを<痴呆>状態とよぶのかわかりませんが、歴然と出てくる。出てくるというのはただ向きがちがうだけで、くりかえされて出てくるといってもいいんです。最後にはその問題が出てきます。女性は、生涯の初めと終りに病むという言い方をすれば、男性は、満遍なく病んでいるということができます。ただ病んでいるという状態の向きがちがうんだという気がします。たとえば、胎児の時から一歳未満の時にできあがった「核」と、ある一定以上の老齢化に達した後で出てくる精神の動かし方とは向きがちがうということです。この男の満遍なく病んでいるということは、他の生物にくらべて人間の固有性のような気がします。女性のばあい病んでいるという意味は、固有性ではなくて、生殖が関与する部分について、固定的でないというふうになっていくのかなとかんがえます。
 この男性の満遍なく病んでいるという状態は、これから後に、人間の平均寿命がどんどん増えていって、医学がそれにちゃんと対応していけるというふうになったとしても、このことは変わらないようにおもえます。女性の生涯の初めに病み生涯の終わりに病んでいるんじゃないかということは、いくらでも状態によって、あるいはこれからのあり方によって変わっていけるんじゃないかという感じをもちます。もしぼくが老人問題とか脳死の問題をふくめて、そういう問題をほんとにかんがえるとすれば、いまの専門家がかんがえているような問題の出し方や接近のしかたとはぜんぜんちがうようなことをやるような気がします。もっとちがうことを根本的にやらないとだめなんじゃないかなという感じがします。だから
さしあたって出てくる問題はどうするんだということに、あまり寄与しないんじゃないかということになりそうです。
                (P132−P133)


項目抜粋
2
備考 註.1 「男の満遍なく病んでいるということ」・・・・・うーん、よくわかんないなあ。
註.2 P98−99参照。





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
348 ユダヤ教ないしキリスト教の神 ゆだやきょうのかみ ヨブの主張
自然・信仰・倫理の対決
講演 1996.1.13 ほんとうの考え・うその考え
賢治・ヴェイユ・ヨブをめぐって
春秋社 1997.1.20


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ユダヤ教ないしキリスト教の神と自然
項目抜粋
1
@ そこがぼくらには不可思議なところです。つまり、どうして悪い行いをしている人が栄えたり、罰も下らないのに、ヨブのように典型的に善い行いをし、善い信心をもち、貧しい人にたいしても親切な申し分のない慈悲の人に、悪い結果ばかりがおこるんだろうか、とても不思議なわけです。また聖書はなぜこういう書を設けたのか不可解なところがあります。・・・・・・(中略)・・・・・・・・読んでいますと、神が言っていることよりもヨブの言っていることのほうがずっと奥が深いと感じます。・・・・・・(中略)・・・・・・・・このふたつが「ヨブ記」についての疑問で、誰もが感ずるにちがいない不可思議なところです。
            (P126−P128)


項目抜粋
2
A ユダヤ教ないしキリスト教の神は、この「ヨブ記」においてとくに顕著ですが、ぼくらが「自然」とよんでいるものとおなじなんじゃないかとおもえます。人間が倫理的に善い行いをしようが悪い行いをしようが、嵐がくれば平等に襲ってきますし、地震がくれば善い人だけは残して悪い人だけ被害を与えるなんてことはない。そんなことはお構いなしに自然は偶然的にといいますか、全部おなじように災害をもたらします。それと「ヨブ記」の神、つまり自然を造った神、唯一神ですが、ほとんどおなじなんじゃないかと解釈すると、たいへんよくわかる気がします。たとえばカトリックの神学がとても自然学に似ているのも、それによるだろうとおもいます。それは信仰者であろうと信仰者でなかろうと、普通の人が読めば誰でもそういう感じをもつだろうとおもいます。
 ぼくなりに「ヨブ記」を歴史的に解釈しますと、「オリエント的」自然観と、日本のばあいのように「アジア的」と「オセアニア的」とが両方混合しているところの自然観とは、段階としてはおなじですが、すこしつかまえ方がちがうんじゃないかと理解します。


B 「ヨブ記」のなかで神がじぶんの超能力のことを言うわけですが、その超能力が自然とおなじじゃないのかとおもえるところは、そういう自然観がオリエントの自然観として古代にあったということを意味しているんではないでしょうか。それは一見すると極東、あるいはオセアニアの自然観とちがうようにみえますが、それは個々の自然物に神が宿るという考え方をとるか、自然物はみな一人の神の意志によってすべての自然現象をおこすという考え方をとるか、考え方のタイプのちがいで、
段階という考え方をするとおなじなんだとおもいます。
            (P128−P130)


備考 註.Aについて・・・・・うーん、なるほど。





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
349 ヨブと現在の課題 よぶとげんざいのかだい ヨブの主張
自然・信仰・倫理の対決
講演 1996.1.13 ほんとうの考え・うその考え
賢治・ヴェイユ・ヨブをめぐって
春秋社 1997.1.20


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歴史的な解釈 現在の課題 普遍倫理 欠如がなくても倫理が成り立つところ
項目抜粋
1
@ ほんとうはやりたくないですが、歴史的な解釈をしますと、「ヨブ記」のヨブは、自然であるところの神、あるいはユダヤの神にたいして、人間の善悪とか倫理、つまり人倫を象徴する人物をもってきて、それを教義とすることによってユダヤ教を変えようとするところの過渡期に出てきた人物だというふうに理解できます。このヨブとは、人間の倫理が自然に近い神(ユダヤの神)にたいしてどこまで関係をもてるか、あるいはユダヤ的神と人間の倫理から信仰へ到る過程の、どういう場所で出あえばいちばんいい信仰のあり方かを象徴する最初の人間のようにおもいます。
 
たぶん「ヨブ記」のヨブをもっと見つめていきますと、新約聖書の主人公のイエスになるとおもいます。つまり、むこうが自然神であるならば、こちらというのはおかしいですが、こちらは人間の罪とか悪とか、未来をも一人で全部背負っちゃうという人物を一人設定すれば対抗できる。対抗できるというのは不信心な言い方ですが、そういう「神にして人」のような人物がやってくればユダヤ教は変えられる、というふうになります。つまり人間の倫理のほうからユダヤの神にどういうふうに迫れるかとか、どういう仲介っていいますか媒介ができるかということの、ひとつの象徴としてかんがえれば、「ヨブ記」は解釈できるんじゃないかとおもいます。だけどこれは歴史的解釈で、この際あまりしたくはありません。
 ここでは<信>であるか<不信>であるか、あるいは<倫理>であるか<自然>であるかということの問題として、「ヨブ記」を理解していきたいとおもいます。
            (P141−P143)


A   手ずから造られたこのわたしを虐げ退けて
    あなたに背く者のたくらみには光りを当てられる。
    それでいいのでしょうか。 (10章)

    逆らおうものなら、わたしは災いを受け
    正しくても、頭を上げることはできず
    辱めに飽き、苦しみを見ています。 (10章)


 これはヨブの神にたいする抗議と、呪いの言葉です。ヨブの言うことは全部、そういうじぶんにたいする呪いと、神にたいする抗議とに満ちみちています。それをいろんな言葉で繰り返し言い返し、言いなおして述べ立てています。それも言葉が不幸のぎりぎりのところから出ているものですから、たいへん感銘ぶかいのです。深みのある言葉に満ちていて、「ヨブ記」のなかのヨブが吐いている言葉は、新約の福音書のなかのイエスが吐く言葉ととてもよく似ています。罪と罰、善と悪のような倫理の問題のぎりぎりのところから吐いているという意味でもとてもよく似ています。また感銘ぶかいわけです。
 それにたいして二回目の議論で三人の友人は、神にむかってそんな言葉を口にするとは何ごとだ、どうして人間は清くありえよう。まして人間は水を飲むように不正を飲む者、憎むべき汚れた者なのだ。おまえはどこか汚れているから、どこかに罪があるから、どこかで不正をしているから、こんなひどい目にあっているんだ。それを悟らずに神にたいして呪いの言葉を吐いている。それなら神と和解することはできないし、神がいつまでもおまえを罰するだけだ、と言うわけです。
こういうことが繰り返されていると、なんとなく、わたしたちが日常生活のなかで当面しているいろんな場面に似てきます。
 つまり、善いことばかり言ってじぶんは正しいとおもっているやつは、いまでも満ちみちているわけです。
だけど、ほんとうに善いことだとおもっているのかを問いなおしたら、そうじゃないことはたくさんあるとおもいます。それこそが重要なことなんです。その問いなおすことにおいて、じぶんはすこしも傷つかないで善いことばかり言っているやつにたいして、あくまでもおまえのはだめなんだと言うことが、現在の課題でもあるわけです。またみなさんは大震災の影響を受けておられます。これは無差別で天然自然ですから、もしユダヤ教やキリスト教のように、自然を背後にあって支配する唯一神を信仰している人でも、どうして関西地区だけに大震災はおきたんだということになりますし、また自然とかんがえても、なにもなくてもひどい目にあっているのに、なおさらそのうえにひどい目にあわせるのはどうしてなんだと抗議したいところは、いまでもたくさんあるとおもいます。こういうふうに見ていきますと、だんだん三人の友人とヨブとの問答が現実味をおびてくるのがわかります。だから完全に現代における倫理の問題として読むこともできます。
            (P146−P148)


B ぼくらがもし「ヨブ記」を、ヨブを中心にして読むとすれば、この神の言葉はとてもつまらなくみえます。なにも答えていないじゃないか。じぶんは天然自然を全部動かせる全能者だぞという自慢をしているだけで、ヨブの苦悩にたいしてすこしも答えていないじゃないかとおもえるわけです。これにたいしてヨブは、人間的倫理としてはもう極度の苦悩と惨めさのなかに陥れられ、そこからぎりぎりの言葉を神にたいして吐いています。それは呪いになったり抗議になったりしていますが、その呪いとか抗議のもっている深い倫理性は、たいへん優れたものだと受けとれます。ヨブを中心にして読めばそうなります。
 
しかし、ちがう読み方をすれば、これは天然自然を統一的なところにもっていったところで出てくる神の概念であって、天然自然とほとんどおなじことを意味しているんじゃないかということになります。これは天然自然ですから、なんら人間の倫理に従うわけでもなんでもないわけで、また答えるわけでもない。そういう神を信じていたユダヤ教の終末期において、自然がこうしたとか、神がこうしたんだというようなことに、人間的倫理のほうが優位なんだということをどこまで主張できるのか。そういう意味の信仰のあり方が、たぶんユダヤの歴史のなかで出てきたのだとおもいます。ヨブはそれを象徴する人物の一人だというふうにかんがえれば、たいへんかんがえやすいとおもいます。それが新約聖書の主人公のところへもっと凝縮したかたちで出てくるんだと解釈すれば、解釈できるんじゃないでしょうか。


C どうしてヨブが、こんなつまらないことを言われて、あっさり兜をぬいじゃったんだろうというのがよくわからないところです。いままで苦悩のありったけを打ち出して、ありったけの呪いの言葉と抗議の言葉を神にたいして吐いていた人間が、神はこんなふうに偉いんだぞ、おまえなんかできないだろうと言われて、はいわかりました、と言うのはおかしいじゃないかとおもうんです。
たぶん唯一神があらゆるものを造ったという考え方が、オリエント、西欧にとってどのくらいの重さをもっているのか、ぼくらには頭のなかで想像はできてもよくわからないところです。その考えが人工的でないとすれば、とてもわかりにくいのです。とにかくそこで和解します。
            (P156−P159)


項目抜粋
2
D わたしが書きなおすとすれば、<自然>と<倫理>の問答をもうすこしつづけるようにします。そして神とヨブの和解が成り立っても成り立たなくてもどらでもいいんですが、神の言葉は、天然自然の表層現象を言っているだけじゃなくて、だんだん<深さ>をもつようなところまで内向していき、ヨブの言葉は、死と苦悩と、一時的な不幸からしか出てこない言葉ですが、その普遍性のある言葉をどこまでも拡大することができるか、その方向にむかっていく。そういうところを継ぎ足したいわけです。
 
それは同時にじぶんにとっていまとても主要な問題なんです。<普遍宗教>あるいは<普遍倫理>が出てくる段階が現在の段階だとぼくにはおもえるからです。<普遍宗教>の考え方がどういうふうに成り立つかがいまのいちばんの関心事で、そこへもっていくようになおすとおもいます。それには天然自然が科学的な自然観の方に行って終わってしまうところを、天然自然観に<深さ>という概念は与えられないかという問題と、苦しみとか、虐待されたとか、貧しかったとか、物質的に不如意だったとかいうところから生まれてきた<欠如>を基にした倫理を、もうすこし欠如がなくても倫理が成り立つところへもっていきたいわけです。神の言葉でいえば<深さ>という概念、ヨブの言葉でいえば<広さ>という概念といったらおかしいですが、<普遍性>といったらいいでしょうか、狭い倫理から広い普遍性のある倫理の言葉にもっていくのがさしあたってつけ加えたいところだとおもいます。

   みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまといふだらう、けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれ   るだらう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉    強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学とおなじやうになる。

 宮沢賢治のこの言葉は、そういうことだとおもいます。<普遍宗教>とか<普遍倫理>というところで両者を統一的に理解できる場所へもっていけるんじゃないかとおもっています。 (「質疑応答」より)
            (P176−P178)



備考











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