身近に付き合いがあった人の言葉から


① 身近に付き合いがあった人の言葉から ― 糸井重里


  わたしはそういう世界の渦中にいないからよくはわからないけど、現代の職業としての表現者は、編集者の誘いや提案などによって新たな表現を引き出されている面があるようだ。糸井重里は編集者ではないけれど、吉本さんの良い引き出し手になっていたように感じている。吉本さんの身近にいて、しかも吉本さんの語る世界に即応できるような柔軟な生活感性と表現感性を持っていて、良い対話の相手になっている。そうして、吉本さんの普段着の中にある核のようなものをわたしたち読者に垣間見せるのに貢献してくれている。
 また糸井重里は、わたしたち吉本さんの読者や未知の読者のために、「吉本隆明プロジェクト(吉本隆明の183講演)」として、無料で聴ける、読める(「講演のテキスト」)吉本さんのたくさんの講演を公開してくれている。

 糸井重里は、『ほぼ日刊イトイ新聞』上で吉本さんとのいくつもの対話(註.1)を行い、また吉本さんに触れた文章(註.2)を書いている。ここでは、『ほぼ日刊イトイ新聞』上にほぼ毎日書き続けられててきた「糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの『今日のダーリン』」の中から、吉本さんに触れた部分をいくつか取り出してみる。吉本さん自身が触れていて、ああもうそのことは知っているということも多くあるかもしれない。しかしそこでは、糸井重里の視線を通して吉本さんの言葉が語られ受けとめられている。(2024.3.28)


(註.1)

吉本隆明・まかないめし。
居間でしゃべった
まんまのインタビュー。

第1回は<目の手術のことなどなど> 1998-12-25
第2回は<からだを治すということなど>
第3回は<科学的っていうこと>
第4回は<気効治療のことなど>
第5回は<1歳未満のときの苦労>
第6回は<無意識の荒れ>
第7回は<アメリカのことを話している>
第8回は<アメリカのことを話している・2>
第9回は<アメリカのことを話している・3>
第10回は<これからの経済的幸福像って?>
第11回は<ぽっくりと逝っちゃう時って>
第12回は<親鸞の影響と親の背中>
第13回は<じぶんへの修正>
第14回は<ロシア文学は退屈である>
第15回は<さんまと広告とインターネット>
第16回は<そして、タモリ> 1999-07-04


吉本隆明・まかないめし
二膳目。
こんどは日本近代文学の話が中心です。

第1回 こりゃ、あぶねえんじゃねえか。 2001-07-31
第2回 「商売」と「おもしろさ」は矛盾するか。
第3回 若い人の質は、あがってきてるんじゃねえか。
第4回 その緻密さは、無駄なんじゃねえか。
第5回 曲芸ができたって、問題にならねえんだ。
第6回 十年間、毎日、ずうっとやってて、
 それでモノにならなかったらクビやるよ。
第7回 イチローの練習量は、たくさんじゃねえか。
第8回 なぜ俺はモテねえのか。
第9回 よせばいいのに、評論家に寄っちゃう。
第10回 自己評価より下のことは、何だってしてもいい。
第11回 二度と行きたくねぇところ。
第12回 逸らさないってのは、すげえもんです。
第13回 何だったら、俺に、金、かさねえか?
第14回 転向じゃねえんだ、転入なんだ。 2001-09-19


吉本隆明・まかないめし
番外。
老いのこととか、人類の言語の獲得とか。

第1回 佃島っていうところは。 2003-06-18
第2回 転べば、とまる。
第3回 精神を知るための行動って。
第4回 中のことを、中でもってわかること。
第5回 猫だって人語を解する。
第6回 おあつらえむきに、いくもんか。 2003-06-24



「ほぼ日」の吉本さん、読みもののコンテンツ。

1.吉本隆明「ほんとうの考え」(2009年-2010年))
2.テレビと落とし穴と未来と。(2008年)
3.吉本隆明のふたつの目。(2008年)
4.日本の子ども(2008年)
5.2008年吉本隆明(2008年)
6.親鸞(2007年)

・吉本隆明プロジェクト(吉本隆明の183講演)


(註.2)
「ダーリンコラム1998~2011」 より

「糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。」


2008-07-07 吉本隆明リナックス化計画(前編)
2008-07-14 吉本隆明リナックス化計画(後編)
2008-12-01 吉本隆明さんの語った 「10年、毎日続けたらいっちょまえになる」の話 (前編)
2008-12-08 吉本隆明さんの語った 「10年、毎日続けたらいっちょまえになる」の話 (後編)
2008-12-29 沈黙の発見。
2010-01-18 『喩としての聖書』のこと。
2010-06-14 深いということ。
2010-08-23 老いの当事者として。

 ※ (註.1)、(註.2)に挙げた文章は、、『ほぼ日刊イトイ新聞』に掲載されていて、検索すれば
   見つけ出すことができます。



 糸井重里、吉本隆明への追悼の思いを語る


 今年3月16日、思想家・詩人の吉本隆明が肺炎で亡くなった。
生前親交が深く『ほぼ日刊イトイ新聞』でも対談を重ねてきた糸井重里が、『ダ・ヴィンチ』7月号で追悼の思いを語った。


「どう考えたらいいかわからなくなった時に問いかけることができる人でしたね。神様って声を出してはくれないけど、吉本さんは隣のおじさんみたいな場所にいてくれたから」

98年に『ほぼ日』を開設してからは吉本さんとの対談は人気コンテンツのひとつになった。講演の肉声を収録したDVD付きの本『吉本隆明が語る親鸞』の巻頭にも昨年7月29日に行われた対談が掲載されている。

「僕が初めて本当の意味で読んだ吉本さんの本は『最後の親鸞』なんですよ。記憶の中では18~19歳の夏休みなんだけど、実際にあの本が出たのはもっと後らしい。夏で田舎に帰ってたんだから、とにかくいろんなことがうまくいってなかった時期ですよ。人って、生き方がわからなくなると故郷に帰ったりするじゃないですか。そういう夏のある日に所在なく本屋に行って、ふと手にとったその本を立ち読みしたら、もう飛び上がるくらいに面白かった。『吉本隆明が語る親鸞』も、これから吉本隆明と出会う人にとってそういう本になるかもしれないって思ってるんです。あの時の僕みたいに途方に暮れてる人に、今悩んでることの答えは全部ここにあるよって言いたい。そうして吉本さんの肉声に触れてみてほしい。
肉声って凄いもんですよ。あの声聞くと、ほっとするんだよね。あのしゃべり方を聞けば、吉本隆明って人が本当は不器用で口ベタな人だってことがすぐにわかるんじゃないか」

対談する時は角に座って斜めにしゃべるのが常だった。
「僕も吉本さんも向き合うのが苦手だったから(苦笑)。質問すると、直接の答えじゃなくて、必ず少し遠回りの答えが返ってきた。それは“なぜその質問をしたのか”に対する本質的な答えだったからで、そういう答えって、そのパターンのあらゆる物事に対する答えになってる。吉本さんの考えって、だから自分の問題に代入できる、道具みたいに使えるんですよ。v
戦争の時は軍国少年だった吉本さんは、戦後あれは何だったんだって思いをして、そこから先はそれを考えることに一生を費やした人だった。生き方が、もう時代を投影しているんです。だから吉本隆明が生きてるってことがひとつの支えだったって人がいっぱいいるんですよ」

取材・文=瀧 晴巳
(『ダ・ヴィンチ』7月号「2012上半期 BOOK OF THE YEAR」より)




 糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの「今日のダーリン」の中から、
 吉本さんに触れた部分


    註.最近はよく読んでいるけど、毎回全部読んできたわけではないので、その中で出くわしたものになります。



ずっと前に吉本隆明さんが、「大昔の中国で、
 昼も夜も川は流れているけど、人間もそういうものだって。
 そういうことを発見したりしてるんですよね」
 と言ってたことがあるけど、あれは孔子だったか、とか
 (これです〈子、川の上に在りて曰わく、
 逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎めず〉)。
 ね、とても「当たり前」みたいでしょう? 
 だけどその「当たり前」は、「いいこと発見」してるのだ。
 〈己の欲せざる所は人に施す勿れ〉にしたって、
 「当たり前」だと、ぼくもそう思うよ。
 でも、その「当たり前」がこわれている世界もある。
 またまた、いまさらなにを言ってるのかと思われそうだが、
 もうちょっと『論語』をかじってみようかと思ってる。

 (糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
 今日のダーリン 2024.3.25 『ほぼ日刊イトイ新聞 』)


 なんどか例に出しているのだけれど、
 「人が集まっているときには、もっとも低い者でいなさい」
 という、吉本隆明さんから娘さんへの教えも、
 めぐりめぐってぼくのところにも伝わり、
 これをまたぼくがこうして書いたりもしているので、
 それを読んでいいなと思った人たちにも伝わっている。
 そして、その人たちが謙虚をかっこいいと思っていたら、
 それはまた周囲に伝わり、みんながのびのびできる。
 そうすると、そこに関わった人たちの活躍の場が増える。
 というような連鎖ができてないこともなかろう。
 そして、日頃は謙虚な人が真剣になにかをやろうとすると、
 その仲間たちはきっと「いまがそのとき」と感じるだろう。
 謙虚は、そう、「謙虚は力なり」とも言えそうだ。

 (糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
 今日のダーリン 2024.2.15 『ほぼ日刊イトイ新聞 』


 ぼく自身が、いまの時代の20歳だったとしたら、
 どうしているんだろうと想像もするのだが、
 これはほんとうにわからない。
 それでも、いまのじぶんが、20歳のじぶんに
 伝えてやれることがあるとしたら、
 どういうことがあるのだろうと考える。
 これもなかなか難問だ。
 いつの時代でも必要なこと、というのがあるはずだし、
 いつの時代にも通用する考えというのもあるだろう。
 そういうことを伝えるのかなぁ。
 「じぶんのことばっかり考えるのはかっこわるいよ」とか、
 吉本隆明さんに教わった「いいことしてるときは、
 わるいことしてるくらいのつもりでちょうどいい」とか、
 「やさしく、つよく、おもしろく」とかね。
 だけど、そういうことって凡庸に感じられて、
 若い人には魅力がないように思えちゃうだろうなぁ。
 思えば、若いときのぼくも、いまより生意気だったから、
 「そんなこと言われても」と、笑っちゃうかもしれない。
 若いときから、そんなに大人びてもしょうがないから、
 笑っちゃうのも生意気なのもいいのかもしれない。

 でもなぁ、どんなに役に立ちそうなことよりも、
 「いちばんふつうのことが、ちゃんとできる」ってほうが、
 必要とされるし通用することなんだけどねー。
 これは若くなくなっても、なお、なんだよ。

 (糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
 今日のダーリン 2023.8.27 『ほぼ日刊イトイ新聞 』)


・1980年に「ミノルタX7」というカメラが発売された。
 それは露出やシャッター速度だけでなく、
 ピント調整まで自動でやってくれるというカメラだった。
 ・・・中略・・・、
 この話には続きがあった。

 吉本隆明さんが、このカメラのことを例に出して、
 「これはもう、いま流行のことばで言えば、
 『究極の』カメラですよ、これ以上なにがあるっていう」
 というような発言をしていたのだった。
 資本主義社会のあちこちで「究極の」が見えてきていると。
 論旨を無視してあげあしをとるなら
 「オートフォーカス」のカメラが登場した後にも
 次々と新製品は出ていると言えるが、それは部分部分が
 「高級化した」とか「改良された」とかいうようなことだ。
 カメラの「進化」の歴史ということを考えたら、
 あの時代の「露出、シャッター、ピント」を
 ぜんぶ自動化したカメラは、たしかに究極と言えただろう。
 カメラの例をひとつ出したけれど、
 社会のさまざまなモノゴトやしくみが、
 「究極」と言えるようなところまできているのではないか。
 そういうことを1980年代に言っていたのだ。
 それを「究極がどんどん実現してるのか、すげぇなぁ」
 とだけ思っているわけにもいかない。
 「究極」とは言い方をかえれば「行き詰まり」であり、
 「頭打ち」ということを意味している。
 もう無制限に進化していくような未来はない、
 という意味だし、そこからどうするという設問でもある。
 あの発言から、さらに半世紀近くが過ぎて、
 ほんとはとっくに「究極」だったことが目立ってきた。
 無限に細分化したり組み替えたりしてはいるが、
 ぼくらは「究極」の跡地で未来に向かっていく必要がある。
 そういう時代に見る「希望」とは、どういうものだろうか。

 (糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
 今日のダーリン 2023.7.6 『ほぼ日刊イトイ新聞 』)

 註.『吉本隆明の183講演』の「A085 文芸雑感」(講演のテキストあり)の中で、そのカメラや究極ということに触れられている。


・じぶん以外の人が、どれだけ共感してくれるかは、
 もうまったくわかりませんけれどね、
 ぼくとしては「最大のいい考え」が昨日生まれまして。
 ものすごく機嫌がいいのです。
 かつて、あんまり本人から「いい、いい」と言うのは
 「あやしい(笑)」と、吉本隆明さんには諭されましたが、
 思えば、それも『MOTHER2』ができたときだったので、
 結果的には「ほんとだったじゃないですか(笑)」と。
 自己肯定感の薄いぼくですけれど、
 たまーに、こういうこともあるんですよ。

 (糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
 今日のダーリン 2023.2.16 『ほぼ日刊イトイ新聞 』)


・・・前略・・・
どこらへんがちがうのだろうと考えていて、
 突然に思い出したことがあった。

 吉本隆明さんが、あるときに言ったことばだった。
 「死は、じぶんに属してないんですよ」。
 もう死んでやろうか、と思うこともあったけれど、
 よく考えたら、それは「じぶんで決めることじゃない」
 と、あるとき理解したのだという。
 死は、家族やら環境との関係で決まるもので、
 じぶんが決定できるものではない、と気がついたと。
 じぶんだけの所有でじぶんで決めていいもの、じゃない。
 すごいこと言ってるなぁと、そのときぼくは思ったが、
 やがてだんだんとそのことがわかるようになってきた。

 死だけでなく、ほんとうはなにからなにまで、
 ほとんどすべてが「じぶんに属してない」とも思う。
 その意味では、「誕生日」などというものは、
 「じぶんに属してない」ものの筆頭なのではないだろうか。
 それは、幼い子の誕生日のことを想像してもわかる。
 「じぶんのもの」でもあるけれど、人のものなのだ。
 ぼく自身の誕生日などは、いつごろからか見事に
 「社長の誕生日」という名の「おたのしみ会」になった。
 その一員として、ぼくもたのしく参加している。

 (糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
 今日のダーリン 2022.9.16? 『ほぼ日刊イトイ新聞 』)


・戦争関連のニュース、じぶんだけが知ってる情報はない。
 いや、海の外の戦争ばかりでなく
 「みんなの知らない、おれたちだけが知ってる真実」
 なんてものは、なかなかあるものじゃない。
 吉本隆明さんが言ってたことを思い出す。
 どこから情報を仕入れているんですかという質問に、
 「ふつうの新聞に書いてあることばかりです」と答えた。
 「だれでもが手に入れられる情報だけです。
 分析したい問題を『水』だとして、
 『酸素と水素』にあたる情報が何なのかを
 うまく見つけることができるかどうかだけです」
 と、その話はずっと憶えている
(『悪人正機』新潮文庫)。
 コロナも、ウクライナも、そういえばなのだが、
 「おれたちだけが知っている真実」は、危うい。

 (糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
 今日のダーリン 2022.2.27 『ほぼ日刊イトイ新聞 』)


 吉本隆明さんは、1996年の夏に海で溺れたあと、
 すっかり健康を損ねてしまって、
 健康のことや、老いについて考えることが多くなっていた。
 年齢を調べてみたら、溺れたのは71歳のときだった。
 それでも『老いの流儀』というタイトルの本では、
 老いそのものというよりは、身体、死、世界、思想、と、
 問われるままに、広くすべてについて語っている。
 これは2002年、77歳のときに出版された本だった。
 そして82歳になって『老いの超え方』が出る。
 本の帯には「吉本老体論の決定版」の文字が見えるし、
 「ご老人は超人間である」との惹句もある。
 語る吉本さんの肉体は、より切実に老いているわけだから、
 5年前の「流儀」というタイトルの内容とは、またちがう。
 それまで以上にご本人の肉体を主体にした、
 「ほんとのこと」ばかりを語っているように思えるのだ。

 ぼく自身は、この冬で73歳になるらしい。
 成熟が遅いのか、どうもまだ「その感覚」がつかめてない。

 (糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
 今日のダーリン 2021.8.29 『ほぼ日刊イトイ新聞 』)


 昔、吉本隆明さんが、
 「読んであたまがスッキリするのは、マルクスだけれど。
 読んでて、いいなぁと思うのはエックハルトっていう
 宗教家の説教集だったりすんですよ」と言ってました。
 ま、エックハルトさんをイワシの頭といっしょにするの、
 とても申しわけないんですけどね。
 つまりその、こころってものには、
 合理的に割り切れないなにやらの海がたっぷりあって、
 その海の部分を抱えたまま、人は生きているのよね、
 と言いたいのですお許しくだせぇ。

 (糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
 今日のダーリン 2020.10.中旬頃 『ほぼ日刊イトイ新聞 』)

 ※関連
 吉本隆明さんが、昔、こんなことを言ってた。
 「頭がすっきりするのはマルクスなんだけど、
 気持ちがいいなぁと思うのはエックハルトですねぇ」と。
 それを聞いた日に、さっそく、
 なんだか知らないままに『エックハルト説教集』という
 文庫本を買ったのだけれど、そのままになっていた。
 いまごろだけど、読んでみようかなと思う。
 (今日のダーリン 2018.4.6)


 吉本隆明さんが2002年に出した
 『ひきこもれ』という名著があるのですが、
 これはだれにでも読めるし、だれにでもわかるはずの、
 ただの常識とちがう、ほんとうのことが書かれた本です。

 「ひきこもり」という現象が、困ったこととして
 世間で語られているとき、『ひきこもれ』が出ました。
 2020年になったいま、この本が、あらためて
 「コロナ後の世界を生き抜く必読書」というコンセプトで
 新装版?として新たな出版社から刊行されました。
 目の前にこの本があったので、ついつい
 「これ、よかったんだよなぁ」と思って読みだしたら、
 かつて読んだときよりも、ずっと心に響くのです。
 ことばそのものは、知っているはずなんです。
 前にも読んでいるし、同じ内容のことを、
 直接に、吉本さんの口から出たことばとして
 聞いたこともあるからです。
 でも、時代がやっとここまで追いついたのか、
 書かれたことばがお酒のように熟成されたのか、
 ぼくの理解が多少なりとも、ましになったのか、
 ほんとうによく響いてくるのです。

 「ひとりの時間」を持つということ、
 こまぎれに分断されずに集中して考えられる時間が、
 人にとって、とても大事なことだということが、
 本のメインの内容だとは言えます。
 でもその他に、たくさんの「世間の常識」と離れている、
 それでいてとても得心のいくことが書かれています。
 しゃべったことを編集者の方がまとめた本ですから、
 整然と理を述べていくような体裁ではありません。
 でも、すごいのです、よく読めばわかります。

 (糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
 今日のダーリン 2020.9.18 『ほぼ日刊イトイ新聞 』)


・作用と反作用という法則。

 吉本隆明さんが、何度も何度も言っていたことのなかに、
 「作用があると反作用があるわけでさ…」があります。
 人間が自然にはたらきかけたら、自然も変化するけれど、
 それと同じように人間も変化するということ。
 いろんな話のなかで、何度もでてきた「法則」です。

 この法則が元になって、
 「同じことを10年毎日続けたら一丁前になれます」
 ということばもあるのだと思います。
 つまり、10年間毎日なにかの「作用」を続けていたら、
 そのことからの「反作用」が必ずあるわけです。
 仕事によって、なにか(対象)を変化させている分だけ、
 させたことへの反作用で、
 それをやってきた人のほうも変化しているわけです。
 その変化が、10年分もしっかり貯まるわけだから、
 もう「ふつうじゃない」状態になっています。
 その「ふつうじゃない」状態が、一丁前になったと、
 つまり「プロ」になってしまったということです。

 (糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
 今日のダーリン 2020.2.2 『ほぼ日刊イトイ新聞 』)


・「あいつは、いい男でさ、女の人にモテるんですよ」
 と悪口のように言うのは吉本隆明さんだった。
 吉本さんの、弱点というか盲点というか、
 「それはまちがってんじゃないの」という部分は、
 それなりにいくつかあったとは思うけれど、
 ひとつは「オーラルケア(口腔の手入れ)」についてで、
 「あんな糸みたいなのとか、歯医者の言うなりにやって、
 まったく意味なんかないですよ」と言い切っていた。
 これは、まちがっているとぼくは思っていた。

 もうひとつが、「いい男」への「嫌悪」だった。
 堀田善衛はけしからんらしいのだけれど、
 「いい男でさ、嫌いなんですよ」と真顔で言っていた。
 そのわりには対談をしたり、認めてもいた。
 あ、島尾敏雄さんがモテちゃうことも、怒っていた。
 聞いていると「島尾さんと上野に行ったときさ」とか、
 なかよく付き合っていたようでもあった。
 その人の人格とか作品への評価と無関係に、
 「いい男だからけしからん」とはよく言っていた。

 吉本さんほどの人が、あんなふうに中学生みたいな
 好き嫌いを言うことについては、
 「そういうもんなのかぁ」と、ちょっとおもしろかった。
 どんなことについても考え抜いたような思想家も、
 「中の人」の次元では、そういうところもある。
 そして、堀田さんだの、島尾さんだのを、
 認めて付き合いをしていたのも「中の人」だった。
 さらに、それなのに、どうしても「嫌いだ」と言う。
 たぶん、根本的には「いい男」が嫌いだという前に、
 女の人たちについての考えが、
 まとまってなかったのではなかったろうか。
 そんな気もして笑っていたのだけれど、どうだったのか、
 もうちょっと訊いてみたかったなぁ。

 (糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
 今日のダーリン 2019.4.12 『ほぼ日刊イトイ新聞 』)

註.上記の糸井重里の話は、言葉の吉本隆明② 項目587「他者に映る吉本隆明像より ②」で一度取り上げたことがある。


・吉本隆明さんが、無人島に持っていくなら
 どういう本を選びますかという問いに答えて、
 「古代からの日本の詩歌を集めたもの」
 というようなことを語っていたっけ。
 もともと「化学を学んだけれど詩人」であった方が、
 無人島で数々の詩歌を読み味わっているところは、
 他人事として想像できたので、なるほどなぁと思った。
 宗教書でもなく、物語でもなく、理論の書でもなく、
 詩と歌を持っていくという考えは、おそらく、
 何遍もじぶんに質問したことの答えだったのだろう。

 (糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
 今日のダーリン 2018.12.21 『ほぼ日刊イトイ新聞 』)


・ある時代の「社会の時間感覚」は、
 その時代の大きな産業の商品が、
 生産されて消費されるサイクルを基本にしている
 …これも、吉本隆明さんの受け売りですが、
 そのことを聞いた時代からさらに進んでしまったので、
 どうなっちゃうんだろうと思っているんですよね。

 ひとつの考えとして、しばらく前だったら、
 自動車がつくられて買われて運転されるまでに、
 どれくらいの時間がかかるかが、
 社会の支配的な時間感覚をつくっていたことになります。
 もっと昔だったら、米が種もみとして蒔かれて、
 稲が刈り入れられ米になって人の食卓にのぼるまでの、
 長い時間を基準にして、忙しいだの暇だのについて
 感じていたということになるでしょう。
 ところが、いまはデジタルの時代であり、
 すばやいサービスの競争が主要産業になっています。
 ソフト開発にかかっている時間は別にするとしても、
 アマゾンの倉庫に商品が入って、ネットで注文され、
 お客さまに届くまでというサイクルを考えると、
 稲作時代の200倍くらいの速度になっているでしょう。

 (糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
 今日のダーリン 2018.11.27 『ほぼ日刊イトイ新聞 』)


・「ほぼ日」が、やってきたいろいろのなかに、
 吉本隆明さんの生前の183の講演の音声を、
 すべて無料で聴けるようにしたということがあります。
 これは、もちろん吉本さんご自身の気持ちや、
 吉本さんの御遺族の意思があってのことですが、
 発表されてからも、たくさんの方のご協力がありました。

 183回の講演は、録音状態もよいものばかりとは言えず、
 おおよその内容紹介はしているものの、
 実際に聴くまではどんな内容なのかわかりません。
 それを、音源を聴きながら丹念に文字起こししてくれた
 ボランティアの方々が、何人もいてくださったのです。
 また、この企画の少なからぬ制作費や維持費は、
 音源を『吉本隆明 五十度の講演』そして、
 『吉本隆明の声と言葉。』という出版物として発売し、
 その収益でもまかないましたが、
 ご利用になった方からの「投げ銭」というかたちでも、
 協力をいただいています。
 これが、続いているということもうれしいことです。
 それだけプロジェクトが生きているということですから。

・この『吉本隆明の183講演』のことを思い出したのは、
 ぼくが、かつて聴いた吉本さんの
 ある講演で語られたことを確かめたかったからでした。

 最初に、ぼくはこの「今日のダーリン」の書き出しを、
 <年をとると、だんだんと変わったことを言わなくなる。
 ごくふつうのことを言いたくなる。>と書いたのでした。
 そして、あ、吉本さんがいつか、そんなふうなことを
 言ってたっけなと思い出しました。
 そして、「造悪論」をめぐっての親鸞の考えを語った
 講演のなかにあったかなと探しました。
 そして、『A040 最後の親鸞以後』というタイトルの
 講演のテキストを読み進めていたのですが、
 思っていたことばは発見できませんでした。
 が、過去にこの講演を聴いたときの何倍もの深度で、
 いまのじぶんのこころに届いてきたのでした。
 お恥ずかしいけれど、夜中に泣き出すくらい沁みました。
 で、今日は、これを「今日のダーリン」で書こうと、
 急に決めて、いまそれをしているところです。

 (糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
 今日のダーリン 2018.10.28 『ほぼ日刊イトイ新聞 』)


・「どうしても、人間って、
 そういうことをやっちまいがちだよなぁ」
 と思うことがたくさんある。
 人間ってとか、人生って、と大づかみなことばは、
 使うのがむつかしいのだけれど、やっぱり
 「人間という生きものがやっちまいがちな性質」のことを
 言うときには、そのままそう言うしかない。

 人の失敗や悪事は厳しく責め立てようとするし、
 じぶんのやりそうな失敗や悪事のことについては、
 うまく、無いことにしようとする。
 そういう性質は、どの人間のなかにもあると考える。
 湖のなかに墨汁一滴というくらいの微量でも、
 それは、あるものなんだと考えることが大事なのだ。

 そういう考え方を学んだのは、
 吉本隆明さんの講演の音源からだった。
 ひとりずつ、いろんなちがいのある人間だけれど、
 「人間というもの」がみんな持ってる性質がある。
 似ているけど、猿と人間のちがいは見ただけでもわかる。
 顔や身体つきについて、人間ならではの特徴がある。
 それと同じように、考えや行動についても、
 人間の特徴というものがある。
 「おれはちがう」とどれだけ言い張っても、
 「人間という生きものがやっちまいがちな性質」は、
 あるにはあるのだと認めたほうが、
 その先のやりようがあるし、
 ありがちな性質を抱えた上での生きようがあるだろう。

 損得のことばかりを考えている人と、
 損得のことを一切考えないという人がいるのではない。
 たくさん損得を考える人と、少し考える人ならいる。
 濃いか薄いかがちがっているだけなのだと思う。
 「この人、どうしてこういうこと言うんだろう」
 なんて驚くようなことも(ものすごく薄くだとしても)
 じぶんもそう言ってる可能性があるはずだ。
 大人になるとか悟りをひらくとかじゃなくて、
 「できるなら、こうなりたい」と、
 多少なりとも「まし」なことを繰り返すことが、
 ぼくらのできることなんだろうなと思う。

 (糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
 今日のダーリン 2018.8.24 『ほぼ日刊イトイ新聞 』)












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