Part 2
定本 言語にとって美とはなにか T

  (角川選書 199)角川書店 1990/08/07発行



項目ID 項目 論名
意味 第U章 言語の属性 1意味
意味 第U章 言語の属性 1意味
価値 第U章 言語の属性 2価値
10 文字・像 第U章 言語の属性 3 文字・像
11 文字・像 第U章 言語の属性 3 文字・像
12 言語の表出 第U章 言語の属性 4 言語表現における像












項目ID 項目 よみがな 論名
意味 いみ 第U章 言語の属性 1意味
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死語
項目抜粋
1

@わたしたちは空気を呼吸して生きている。そしてあるばあいは空気を呼吸していることをまったく意識さえしていない。おなじようにわたしたちは言葉をしゃべり、書き、聴き、読んで生きている。しかし、あるばあいには言葉をまったく意識さえしていないのだ。これはとても健康な状態だというべきだ。言葉を言葉としてとりだして考察するという一種の不毛な病は、言葉をかくという作業がとめどもなくすすみ、袋小路にはいってしまった文化の段階を示唆するもので、ふたたび古代人とはべつな意味で、言葉が物神にまでおしあげられたことの証左なのだ。だから、わたしたちは、やむをえず、という意味と、必然的にという意味のふたつを背負って、言葉を言葉そのものとしてとりあげるのである。

A診断の武器は、いままでにかんがえてきた言語の理解だけであり、また、おそらくはそれだけで充分だ。言語の意味がわからないというとき、どんなことがふくまれているか。という逆のもんだいから意味に接近してみる。  (P64-P65)

B(1)天飛む 軽嬢子

    いた泣かば 人知りぬべし

    波佐の山の 鳩の

    下泣きに泣く (「古事記」)

・・・・この古典詩で<軽嬢子よ、あまりひどく泣くと人にしられてしまうだろう、それだから波佐山の鳩のようにしのび泣きで泣いているな>の意味がわからないとすれば、現在まったくつかわれていない死んだ語法や、死語があるためだ。いままでかんがえてきたところでは、死語というのは自己表出としてある過去の時代的な帯のなかにあり、指示表出として現存性が死んでしまった言語をさしている。この古典詩の意味がわからないのは指示表出として現在死んでいて、言葉の流れがたどれないからだといえる。それでもこの詩の情感が、いまも何かをあたえるのは、自己表出面から現在に連続する流れが感じられるからだといえる。  (P64-P65)


項目抜粋
2

C(2)私は胃の底に核のようなものが頑強に密着しているのを右手に感じた。それでそれを一所懸命    に引っぱった。すると何とした事だ。その核を頂点にして、私の肉体がずるずると引上げられて来   たのだ。私はもう、やけくそで引っぱり続けた。そしてその揚句に私は足袋を裏返しにするように、   私自身の身体が裏返しになってしまったことを感じた。頭のかゆさも腹痛もなくなっていた。ただ私   の外観はいかのようにのっぺり、透き徹って見えた。(島尾敏雄「夢の中での日常」)

・・・・危い目にあった人間がとっさに<畜生!>と叫んでも、<助けて!>とわめいても、<畜生>や<助けて>というコトバに意味があるのではなく、ただその状態で発せられた叫びとして意味があるように、これを自己表出の励起にともなう指示表出の変形とかんがえ、いわば、言語が、自己表出を極度につらぬこうとするために、指示表出を擬事実の象徴に転化させたものとしてみるのがいいのだ。

D(3)朝

    きみの肉体の線のなかの透明な空間

    世界への逆襲にかんする

    最も遠い

    微風とのたたかい (清岡卓行 「氷った焔」)【焔の字はちがってる】

 これがいまのところいみがわからない最後のもんだいだといえる。・・・・言語はここでは、指示表出語でさえ自己表出の機能でつかわれ、指示性をいわば無意識にまかせきっている。言語はただ自己表出としての緊迫性をもっているだけだ。  (P68-P69)


備考




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意味 げんごのほんしつ 第U章 言語の属性 1意味
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言語の意味
項目抜粋
1

Eこれらの意味がわからない例がおしえるものは、逆に意味という概念がじつにたくさんのものをつつみこんでいなければならないということだ。なぜならば、意味がわからないということが、異種類のたくさんのわからなさをふくんでいるからだ。言語の意味という概念を、こういったすべてをふくんでいるように示せれば、はじめて意味はわたしたちのものになる。

 (1)の例は言語の自己表出の歴史としては了解できながら、指示表出として死滅していることを、(2)の例は自己表出の励起にともなう指示表出の擬事実への変形を、(3)は自己表出のひろがりによって指示表出がつつまれていることを示す。意味がわからない理由はすべて、この中にかくされている。

 ここからみちびきだせる共通性は、指示表出が、何らかのかたちで死滅したり、歪められたり、また覆われたりしていることが、意味がわからないこととかかわりがあることだ。

 また逆に、言語の意味の本質について暗示がうけとれるとすれば、たれにもあきらかなように、意味が言語の指示表出とふかくつながっていることだ。 (P69-P70)

F言語の本質は、どのようなものであれ、自己表出と指示表出とをふくむものとかんがえればこれらの矛盾をなくすことができる。言語の意味とはなにか、をかんがえるばあい、頼りになるのは言語の本質だけだ。そして、わたしたちはつぎのように言語の意味を定義する。言語の意味とは意識の指示表出からみられた言語の全体の関係だ。

 ・・・・だから言語の意味をかんがえることは、指示性としての言語の客観的な関係をたどることにちがいないのだが、このように指示表出の関係をたどりながら、必然的に自己表出をもふくめた言語全体の関係をたどっていることになる。 (P78-P79)

G言語の指示表出性は、人間の意識が視覚的反映をつとに反射音声として指示したときから、他と交通し、合図し、指示するものとしてきまった。言語の意味は、意識のこういう特性のなかに発生の根拠がある。言語を媒介として世界をかんがえるかぎり、わたしたちは意味によって現実とかかわり、たたかい、他者との関係にはいり、たえずこの側面で、変化し、時代の情況のなかにいる、といってよい。 (P81)

項目抜粋
2



備考 註 「言語の意味とは意識の指示表出からみられた言語の全体の関係だ。」「・・・・だから言語の意味をかんがえることは、指示性としての言語の客観的な関係をたどることにちがいないのだが、このように指示表出の関係をたどりながら、必然的に自己表出をもふくめた言語全体の関係をたどっていることになる。」




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価値 かち 第U章 言語の属性 2価値
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言語の価値
項目抜粋
1

@指示表出と自己表出を構造とする言語の全体を、自己表出によって意識からしぼり出されたものとしてみるところに、言語の価値はよこたわっている。あたかも、言語を指示表出によって意識が外界に関係をもとめたものとしてみるとき言語の意味につきあたるように。

 ここでいくらか注意すべきは、・・・・ただ、人間の意識がこちらがわにあるのに、言語の価値は、あちらがわに、いいかえれば表現された言語にじっさいくっついて成り立つということだけだ。(P89)

A<海>という言葉を、意識の自己表出によってうちあげられた頂で、海の象徴的な像をしめすものとしてみるとき、価値として<海>という言葉をみている。逆に<海>という言葉を、他にたいする訴え、対象の指示として、いいかえれば意識の指示表出のはてに、海の像をしめすものとしてみるとき、<海>という言葉を意味としてみている。(P89)

B言語の価値とはなにか、と問われたら、ただつぎのようにこたえればよい。意識の自己表出からみられた言語の全体の関係を価値とよぶ。 (P89)

Cわたしのかんがえからは、言語の意味と価値との関係はつぎのようになる。つまり、言語の意味は第5図のaの径路で言語をかんがえることであり、言語の価値はbの径路で言語をかんがえることだ。

 あとでもっとくわしく触れられるが、言語表現を『経哲草稿』のマルクスのように「人間の本質力の対象化された富」といってみれば、この対象化された表現をbの径路でかんがえるとき言語表現の価値を問うているのであり、aの径路でかんがえるときその意味を問うているのだ。そして、そのうえでさまざまの効果のさくそうした状態を具体的にもんだいにすべきだということになる。

 マルクスならば、わたしがここで径路として図示した言語の価値を、あたかも商品の価値についてのべたとおなじように、指示表出価値と自己表出価値との二重性をあらわすと云うところかもしれない。

 じじつ、指示表出からみられた言語の関係は、それがどれだけ云わんとする対象を鮮明に指示しえているかというところの有用性ではかることができるが、自己表出からみられた言語の関係は、自己表出力という抽象的な、しかし、意識発生いらい連続につみかさねられた性質をもって現在にいたったひとつの力能を想定するほかない。しかし、それにもかかわらず、わたしたちは、意味としての言語も、価値としての言語も、こういう規定から比較してあやまることはありえない。   (P90-P91)


項目抜粋
2

Dさきに、それぞれの時代はある言語水準をもっており、それは、各時代とともに、またそのなかの個々の人間とともにうまれ、変化し、亡びる側面と、意識発生いらいの意識体験のつみかさなりという面をふたつながらもつとかんがえた。  (P93)

E各時代といっしょに連続して転化する自己表出のなかから、おびただしく変化し、断続し、ゆれうごく現在的な社会と言語の指示性とのたたかいをみているとき、価値をみているのである。そして、言語にとっての美であるぶんがくが、マルクスのいうように「人間の本質力が対象的に展開された富」のひとつとして、かんがえられるものとすれば、言語の表現はわたしたちの本質力が現在の社会とたたかいながら創りあげている成果、または、たたかわれたあとにのこされたものなのだ。
     (P94)

備考 註 「意識の自己表出からみられた言語の全体の関係を価値とよぶ。」




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10 文字・像 もじとぞう 第U章 言語の属性 3 文字・像
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文字の成立がなにを意味したのか 言語と像
項目抜粋
1

@たんなる遊吟であり、謡であり、語りつたえであり、また対話であった言語が、文字としてかきとめられめようになったとき、言語の音声が共通に抽出された音韻の意識にまで高められたことを意味した。同時に、その意味伝達の意識がはっきりと高度になったことを意味している。おそらく文字は、たんに歌い、会話し、悲しみをのべていた古代人が、言語についてとても高度な抽出力を手に入れたとき、はじめて表記された。語り言葉、歌い言葉との分離と対立と滲透との最初のわかれは、文字の出現からはじまったといっていいほどだった。

 ここで、もうすこし文字の成立がなにを意味したのかはっきりさせておきたいとおもう。

 文字の成立によってほんとうの意味で、表出は意識の表出と表現とに分離する。あるいは表出過程が、表出と表現との二重の過程をもつようになったといってもよい。言語は意識の表出であるが、言語表現が意識に還元できない要素は、文字によってはじめてほんとうの意味でうまれたのだ。文字にかかれることで言語の表出は、対象になった自己像が、じぶんの内ばかりではなく外にじぶんと対話をはじめる二重のことができるようになる。

 書き言葉は、福田恆存のいうように語につかえるのではなく、言語の自己表出につかえるほうにすすみ、語り言葉は指示表出につかえるほうにすすむ。かなづかいの歴史的な変遷は、文学を頂点にする書き言葉の進化と、生活語を頂点にする語り言葉との対立と滲透の複雑な過程がひとりでにきめる。  (P97)

A文字には、時枝、福田のいうように表音文字と表意文字の区別があるのではない。こういう区別は<さらさら>というのは水の流れる擬音からうまれた表音文字であり<死>というのは、生きものが死ぬことを意味する表意文字であるというような、つまらぬ区別からうまれたものにすぎない。

 言語には、自己表出にアクセントをおいてあらわれる自己表出語と、指示表出にアクセントをおいてあらわれる指示表出語があるように、言語本質の表記である文字にも自己表出文字と指示表出文字の区別があるだけで、これが本質なのだ。 (P98)


項目抜粋
2

Bこれをかりに品詞区分をかりていいなおせば、名詞から副詞のほうへ、いいかえれば、指示表出からしだいに自己表出へアクセントをうつしておらわれる言語ほど、この像の表象力や喚起力は弱まってゆくことが手やすく了解される。助詞とか助動詞とか、感嘆詞のような自己表出語は、それ自体で像を表現したり喚びおこしたりする力をもたない。 (P100)

C言語における像が、言語の指示表出の強さに対応するらしいことは、わたしがいままで無造作にのべてきたところからも、推定できるはずだ。

 しかし言語の像が<意味>とちがうことは、あたかも事物の<概念>と、事物の<象徴>とがちがうのとおなじようなものだ。

 言語は発生したはじめに、視覚が反映したものにたいして反射的に発した音声という性格をはやくからすててしまった。わたしたちの考えてきたところでは、音声が自己表出を手にいれたためだ。これによって言語は、指示表出と自己表出とのないまぜられた網目になったといいうる。

 もしも言語が像を喚びおこしたり、像を表象したりできるものとすれば、意識の指示表出と自己表出とのふしぎな縫目に、その根拠をもとめるほかはない。 (P101)


備考 註1「もしも言語が像を喚びおこしたり、像を表象したりできるものとすれば、意識の指示表出と自己表出とのふしぎな縫目に、その根拠をもとめるほかはない。」




項目ID 項目 よみがな 論名
11 文字・像 も゛じとぞう 第U章 言語の属性 3 文字・像
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項目抜粋
1

Dここで、ふたたび言語進化のところでかんがえたものを、あたらしい眼でたどってみなければならぬ。

 音声は、現実の世界を視覚が反映したときの反射的な音声であった。そのときにはあきらかに知覚的な次元にあり、指示表出は現実世界を直【ルビ じ】かに指示していた。しかし、音声が意識の自己表出として発せられるようになると、指示は現実の世界にたいするたんなる反射ではなく、対象とするものにたいする指示にかわった。いわば自己表出の意識は起重機のように有節音声を吊りあげた。

 こうして言語は、知覚的な次元から離れた。像は、人間が現実の対象を知覚しているときにはありえない意識だ。これはたとえばサルトルが『想像力の問題』のなかで、指摘したとおりだ。言語に像をあらわしたり喚び起こしたりする力があるとすれば、言語が意識の自己表出をもつようになったところに起動力をもとめるほかない。

 しかしそれとは逆に言語の像をつくる力は、指示表出のつよい言語ほどたしかだといえる。この意味で言語の像は、言語の指示表出と対応している。いいかえればつよい自己表出を起動力とするよわい指示表出か、あるいは逆によわい自己表出を起動力にしたつよい指示表出に起因するなにかだというべきだろうか。

 ・・・・あたかも、意識の指示表出というレンズと自己表出というレンズが、ちょうどよくかさなったところに像がうまれるというように。 (P101-P102)

E対象としてつくられた像意識とはなにかについて、ここは深入りする場所ではない。・・・・言語の表現が、この対象的な像意識と合致するためには、ある領域が限られなければならない。それだけがここではもんだいだ。そしてある領域内では表出れた言語は、あたかもそれ自体が<実在>であるかのように像意識の対象でありうるのだ。それは、もともとげんごにとってべつに得手な領域でないため、指示表出の強弱と自己表出の強弱とが、縫目で冪乗【ルビ べきじょう】されるときにだけありうるといっておくべきだとおもう。それは言語がたんになにか物象を対象に指示したことによっても、いわねばならぬ必然で思わずいってしまったことだけでもうみだせない。じぶんに対象的になったじぶんの意識が、<観念>の現実にたいして、なお対象的になっているといった特質のなかで、言語として表出されるときに、はじめて像的な領域をもつといえる。   (P103)

 


項目抜粋
2
F言語の像は、もちろん言語の指示表出が自己表出力によって対象の構造までもさす強さを手にいれ、そのかわりに自己表出によって知覚の次元からはるかに、離脱してしまった状態で、はじめてあらわれる。あるいはまったく逆であるかもしれない。言語の指示表出が対象の世界をえらんで指定できる以前の弱さにあり、自己表出は対象の世界を知覚するより以前の弱さにあり、反射をわずかに離れた状態で、像ばかりの言語以前があったというように。言語の像がどうして可能になるか、を共同体的な要因へまで潜在的にくぐってゆけば、意識に自己表出をうながした社会的幻想の関係と、指示表出をうながした共同の関係とが矛盾をきたした、楽園喪失のさいしょまでかいくぐることができる。       (P105)


備考




項目ID 項目 よみがな 論名
12 言語の表出 げんごのひょうしゅつ 第U章 言語の属性 4 言語表現における像
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言語の表出は、表出と表現のふたつを分離してふくむ
項目抜粋
1

@いままで、あるばあいに表出せられた言語を、文学的な表現と、無造作に同一にあつかってきた。それは、言語の現実的な属性をあつかうばあいにも、書かれた表現(文字表現)を例にとらざるをえなかったという理由によっている。

 言語の意味、価値、像などの概念から言語の芸術にふみこもうとするいま、言語の表出を、表出と表現のふたつを分離してふくむとかんがえるのが適切だとおもう。もちろん、文学の表現もまた、意識の表出であるが、この表出はその内部で、<書く>という文字の表現が成り立つとともに、表出と表現とに分裂する。言語の美のもんだいは、あきらかに意識の表出という概念を、固有の表出意識と<書く>ことで文字に固定せられた表現意識との二重の過程にひろげられる。もちろんその本質的な意味はすこしもかわらないのだ。

 このことは、人間の意識を外にあらわしたものとしての言語の表出が、じぶんの意識に反作用をおよぼすようにもどってくる過程と、外にあらわされた意識が、対象として文字に固定されて、それが<実在>であるかのようにじぶんの意識の外に<作品>として生成され、生成されたものがじぶんの意識に反作用をおよぼすようにもどってくる過程の二重性が、無意識のうちに文学的表現(芸術としての言語表出)として前提されているという意味になる。それは文字が固定され<書く>という文学の表現が成り立ってからは、文学作品は<書かれるもの>としてかんがえられているからだ。もちろん、語られる言語の表現もまた文学、芸術でありうるし、現在もありつづけている。 (P106-P107)【P79参照】

Aけれど、おこりうる誤解をさけるためにいえば、現在まで流布されている文学理論が、いちように<文学>とか<芸術>とか以上に、その構造に入ろうとはせず、芸術と実生活とか、政治と文学とか、芸術と疎外とかいいならわせば、すんだつもりになるのは、表出という概念が固有の意識に還元される面と、生成を経て表現そのものにしか還元されない面とを考察しえなかったがためだ。 (P107)


項目抜粋
2


備考 註1 「このことは、人間の意識を外にあらわしたものとしての言語の表出が、じぶんの意識に反作用をおよぼすようにもどってくる過程と、外にあらわされた意識が、対象として文字に固定されて、それが<実在>であるかのようにじぶんの意識の外に<作品>として生成され、生成されたものがじぶんの意識に反作用をおよぼすようにもどってくる過程の二重性が、無意識のうちに文学的表現(芸術としての言語表出)として前提されているという意味になる。それは文字が固定され<書く>という文学の表現が成り立ってからは、文学作品は<書かれるもの>としてかんがえられているからだ。」




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