Part 3
定本 言語にとって美とはなにか T

  (角川選書 199)角川書店 1990/08/07発行



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13 言語の表現の内側の共通の基盤 第V章 韻律・撰択・転換・喩 1短歌的表現
14 第V章 韻律・撰択・転換・喩 2詩的表現
15 音数律 第V章 韻律・撰択・転換・喩 3短歌的喩
16 喩と場面の転換 第V章 韻律・撰択・転換・喩 4散文的表現












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13 言語の表現の内側の共通の基盤 ひょうげんのうちがわ 第V章 韻律・撰択・転換・喩 1短歌的表現
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表現のうちがわにいくつかの共通の基盤が抽出できる 指示性の根源としての韻律
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@言語の表現を、ややつきつめてみてゆくと、表現のうちがわにいくつかの共通の基盤が抽出できることにすぐに気づく。この共通性は言語の表現のながい歴史が体験としてつみかさねたものだ。結果としていえば歴代の個々の表現者がそれぞれ自由に表現したものが偶然につみかさねられて、全体としてはあたかも必然なあるいは不可避なものとしてつくりあげた共通性だといえる。この共通性は、いったん共通性として意識されると、こんどは個々の表現者によって自覚的に使われたりする。こういう過程は、人間が対象にたいして行なうどんなことにもいつもつきまとうもので、言語の表現にだけ特有なものではない。  (P114)


Aこの言語表現のうちで抽出される共通の基盤は、表現としての韻律・撰択・転換・喩に分類すれば現在までの言語の表現のすべての段階をつくすことができる。

 わたしたちはいままでに、意識の表出としての言語を、言語の表現にまでひろげることで、文学の表現をあつかう前提をとりあげている。書くという行為で文字に固定すると、表出の概念は表出と表現とに分裂する。具体的には語りのような、音声による文学の表現と文字に書かれた文学とが分裂するようになる。ここまでひろげることで、文学の表現論はすべての文学理論とちがった道に一歩ふみこんだことになる。・・・・げんみつにいえば芸術としての言語表現の半歩くらい手前のところで、表現としてもんだいになることをとりあつかおうとしているわけだ。この半歩くらい手前というのは言語を文学の表現とみなしながら、芸術としてではなく言語表出としてあつかうということだ。なぜこんな態度がいるのかといえば、言語表現を文学芸術とみなすにはまだ構成ということを、取扱っていないからだ。構成を扱わなければ反復、高揚、低下、表現のはじめとおわりが意味するものをしることができない。   (P114-P115)


B感動詞のように意識の自己表出がそのまま、指示性として意識に反作用をおよぼし、文字に固定されないかぎり対他的な関係をよびおこさない言語を例にとるとする。たとえば感動詞<うわあ>を、<ウ><ワア>とわけて発音すると、何かを視たり、きいたりして感嘆している意味になるが、<ウワア>とひと息に発音すれば、うなり声や叫びごえそのものを反射していることになる。<ウ><ワア>と<ウワア>が、もしちがった意味をあらわすとすれば、ふたつの韻律のちがいにその理由がなければならない。すでに、韻律がふくんでいるこの指示性の根源を、指示表出以前の指示表出の本質とみなしてきた。   (P115)


項目抜粋
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Cふたりの言語学者は、等時的な拍音が日本語の特質であることをみとめている。短歌や俳句のような定型詩は、この特質が日本語の指示性の根源と密着しているために、どうしても七・五律になったものだといえる。日本語の散文や自由詩は、言語の表現が、指示性の根源としての韻律と、表出の特性として分離したものにほかならない。  (P118)

Dここではまず、短歌的な表現をつかって韻律・撰択・転換・喩をかんがえることにする。これはたんに例としてみるだけで、音数律をもったすべての詩型に共通したところから、短歌固有のあらわれ方をみてゆきたい。たとえば、近代定型詩や俳句について考察しても、共通さと、それぞれの詩形に固有なもんだいがあらわれるはずだ。  (P118)

備考

註1「すでに、韻律がふくんでいるこの指示性の根源を、指示表出以前の指示表出の本質とみなしてきた。」

註2 「指示性の根源としての韻律」




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14 第V章 韻律・撰択・転換・喩 2詩的表現
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喩は言語をつかっておこなう意識の探索
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@しかし、わたしたちは、ただ像的な喩と意味的な喩の両端があり、価値としての言語の喩はこの両端をふまえた球面のうえに大なり小なりそのいずれかにアクセントをおいて二重性をもってあらわれてくるといえば充分だとおもう。これが喩の本質で、この本質をふまえたうえは、修辞学的な迷路にさまようひつようはまったくない。・・・・喩は言語をつかっておこなう意識の探索であり、たまたま遠方にあるようにみえる言語が闇のなかからうかんできたり、たまたま近くにあるとおもわれた言語が遠方に訪問したりしながら、言語と言語を意識のなかで連合させる根拠である現実の世界と、人間の幻想が生きている仕方が、いちばんぴったりと適合したとき、探索は目的に命中し、喩として成り立つようになる。              (P135-P136)


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2


備考 註 具体的作品の読み方について・・・・像的な喩や意味的な喩、表現世界での作者の移行・転換などの駆使のしかたなどについて




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15 音数律 おんすうりつ 第V章 韻律・撰択・転換・喩 3短歌的喩
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@わたしたちはここで、まだ韻律−音数律が喩にあたえる働きのむつかしさのなかにさまよっている。おそらく、短歌的なものの単純な中味が、どうして音数律のなかでひとつの自立した美をあたえるかという問いには、それが日本の文学(詩)発生いらいの自己表出のいただきに連続したつみかさねをもつからだというかんがえをもってこなければとけない。  (P154)


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2


備考




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16 喩と場面の転換 ゆとばめんのてんかん 第V章 韻律・撰択・転換・喩 4散文的表現
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1

@わたしたちは、喩と喩のなかでの韻律のはたらきと、言語の韻律のはたらきをながめることで、つぎのようなことをみてきた。ひとつは、ある作品のなかで場面の転換はそのまま過程として抽出せられたとき喩の概念にまで連続してつながっており、また、喩はその喩的な本質にまで抽出せられない以前では、たんなる場面の転換にまでつながっているということだ。喩の抽出がすでに慣用されてふつうになったものが、たとえば、ギローが『文体論』であげているような隠喩・諷喩・引用喩・反語法・・・・・・などといった修辞的な区別になる。そして、喩の概念が縮退した状態をかんがえれば、たんなる場面の転換というところにたっする。

 それならば、場面の転換が縮退したところ、あるいはより混沌とした未分化なところを想定すれば、なにがのこるのだろうか?・・・・なぜならば、たんに任意にとったフィルムをつなぎあわせたにすぎないようなその「南極探検」の映画も、場面を意識的にしろ無意識的にしろ撰択したところにすでに初原的な美のもんだいが成り立っているからだ。なぜ、「宗谷丸」の背景に氷山と空をえらび、前景にペンギンの群れを、しかじかの角度からえらんだかというところには、すでに撰択の美があらわれている。

 言語の表現も、自己表出の意識としてべつもんだいではない。言語の場面の転換の縮退したところには、場面そのものの撰択ということがのこるのだ。 (P159-P160)

A言語の表現の美は作家がある場面を対象としてえらびとったということからはじまっている。これは、たとえてみれば、作者が現実の世界のなかで<社会>とのひとつの関係をえらびとったこととおなじ意味性をもっている。そして、つぎに言語のあらわす場面の転換が、えらびとられた場面からより高度に抽出されたものとしてやってくる。この意味は作者が現実の世界のなかで<社会>との動的な関係のなかに意識的にまた無意識的にはいりこんだことにたとえることができる。

 そのあとさらに、場面の転換からより高度に抽出されたものとして喩がやってくる。そして喩のもんだいは作者が現実の世界で、現に<社会>と動的な関係にあるじぶん自身を、じぶんの外におかれたものとみなし、本来のじぶんを回復しようとする無意識のはたらきにかられていることににている。 (P165)

 


項目抜粋
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Bこうかんがえてくると、わたしたちは現在、韻律をいちばん根のところにおいて、場面の撰択をつぎにやってくる表現の段階とし、さらに、場面の転換をへて、いちばん高度な喩のもんだいにまで螺旋状にはせのぼり、また、はせくだる表現の段階をもっているといっていい。そして、文学の表現として、言語がつみかさねてきたこれらの過程は、現在の水準の表現にすべて潜在的には封じこめられている。そしてこれが、指示表出としての言語が<意味>としてひろがって交錯するところに、詩的空間・散文的空間の現在の水準がえがかれる。

 まだ、唱うべき対象をえらびとることができないままに表現された記紀歌謡のような古代人の詩の世界から、すでに高度な喩をつかって現実に撰択している<社会>との関係を超えようとする欲求をあらわしている現在の文学の世界にいたるまで、言語がつみかさねてきたながい過程は、現在の言語空間を構成している。 (P165-P166)


備考

註1 「喩は言語をつかっておこなう意識の探索」

註2 「そして喩のもんだいは作者が現実の世界で、現に<社会>と動的な関係にあるじぶん自身を、じぶんの外におかれたものとみなし、本来のじぶんを回復しようとする無意識のはたらきにかられていることににている。」




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