Part 4
定本 言語にとって美とはなにか T

  (角川選書 199)角川書店 1990/08/07発行



項目ID 項目 論名
17 表出史の概念 第W章 表現転移論 第T部 近代表出史論(T)
18 表出史の概念 第W章 表現転移論 第T部 近代表出史論(T)
19 表出史 第W章 表現転移論 第T部 近代表出史論(T)
20 表出史 第W章 表現転移論 第T部 近代表出史論(T)
21 表出史 第W章 表現転移論 第U部 近代表出史論(U)
22 表出史 第W章 表現転移論 第U部 近代表出史論(U)
23 表出史 第W章 表現転移論 第V部 現代表出史論
24 表出史 第W章 表現転移論 第V部 現代表出史論
25 表出史 第W章 表現転移論 第V部 現代表出史論
26 表出史 第W章 表現転移論 第V部 現代表出史論
27 表出史 第W章 表現転移論 第W部 戦後表出史論
28 表出史 第W章 表現転移論 第W部 戦後表出史論
29 表出史 第W章 表現転移論 第W部 戦後表出史論
30 表出史 第W章 表現転移論 第W部 戦後表出史論
31 表出史 第W章 表現転移論 第W部 戦後表出史論













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17 表出史の概念 ひょうしゅつしのがいねん 第W章 表現転移論 第T部 近代表出史論(T)
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項目抜粋
1

@こんなふうに、ある時代、ある社会、ある支配形態の下では、ひとつの作品はたんに異った時代のちがった社会の他の作品にたいしてばかりでなく、同じ時代、同じ社会、おなじ支配の下での他の作品にたいしてはっきりと異質な中心をもっている。そればかりでなく、おなじひとりの作家にとってさえ、あるひとつの作品は、べつのひとつの作品とまったくちがっているのだ。言語の指示表出の中心がこれに対応している。言語の指示意識は外皮では対他的な関係にありながら中心では孤立しているといっていい。

 しかし、これにたいしては、おなじ論拠からまったくはんたいの結論をくだすこともできる。つまり、あるひとつの作品は、たんにおなじ時代のおなじ社会のおなじ個性がうんだ作品にたいしてばかりではなく、ちがった時代のちがった社会のちがった個性にたいしても、まったくの類似性や共通性の中心をもっているというように。この類似性や共通性の中心は、言語の自己表出の歴史として時間的に連続しているとかんがえられる。言語の自己表出性は、外皮では対他的関係を拒絶しながらその中心で連帯しているのだ。  (P169)


Aつまり、人間は現実にはばらばらにきりはなされた存在だと認識したとき、ほんとうは連環と共通性を手にいれ、また不幸にしてこの現実で連環のなかの存在だとみとめたとき孤立しているのだ。すぐれた創造者はひとつの文学作品が現実社会のなかで作者のどこからかやってきてつくられ、それが存在してしまうまでの経路を、疑いようもなく知りつくしているともおもえる。作品を原稿用紙や書物にかかれた具象物としてみるかぎり、ひとつの作品でさえそれを知りつくすために、作品から作家の性格へ、作家の性格から生活や環境へ、生活や環境から時代や社会へとのびてゆくすべての連環を解きほぐさなければならない。それには根もとをほりおこし、土壌をしらべ吸いあげられた養分を分析するといったおおきな労力のつみかさねがいる。文学の批評家たちがやっている仕事は、このおおきな連環の一部を拡大し、そこにじぶんの好みや関心が集中する中心を投げこんでいるわけだが、じっさいはそれ以外にはほとんど術がないといっていい。ただ批評家は、じぶんの批評方法こそが正当だなどと主張しさえしなければいいのだ。いいかえれば、文学の理論を具象物としての文学作品をもとにしてでっちあげようとさえしなければ。 (P170-P171)

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2

B作品の歴史を、ルカーチのように時代の現実や社会との連環のうえに論じようとするときには、たんに作家のイデオロギーや思想的傾向をもって短絡させるのではなく、個的な環境や生活や個性の陰影や、その他の現実的な要素のひだをすべてこの連環のなかに繰りいれることは必須の条件だといえる。 (P172-P173)


Cある芸術・文学の<作品>は、上部構造一般ではなく、個性的な具象的な表現なのだ。この表現は、たとえば文字または音声によって対象として定着させることで表出の一般性から突出したものとなる。ここでは<作品>は、作者の意識、あるいは精神あるいは観念生活にそのまま還元することはできなくなる。ここでは意識の表出が、産出されてそこにある表出に転化しているのだ。芸術・文学の作品が、意識性への還元も、また逆に土台としての現実社会への還元をもゆるされない性格を獲得するのは、ここにおいてだ。 (P174)

備考

註1 Cに関連する箇所、P79 P97 P106-107 P174  (文字の成立による表出の、意識の表出と表現への分離。)

註2 「ここでは<作品>は、作者の意識、あるいは精神あるいは観念生活にそのまま還元することはできなくなる。ここでは意識の表出が、産出されてそこにある表出に転化しているのだ。芸術・文学の作品が、意識性への還元も、また逆に土台としての現実社会への還元をもゆるされない性格を獲得するのは、ここにおいてだ。」




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18 表出史の概念 ひょうしゅつしのがいねん 第W章 表現転移論 第T部 近代表出史論(T)
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自己表出としての言語の表現史 文学体と話体
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1

【1 表出史の概念】

D文学作品の歴史を本質をうしなわずにあつかえる方法は極端にいえばふたつに帰する。そのひとつは中心が社会そのものにくるような抽出であり、このばあいには個的な環境や生活史がその環のなかにはいってくることが必須の条件になる。もうひとつはその中心が作品そのものに来るような抽出であり、そのばあいには環境や人格や社会は想像力の根源として表出自体のなかに凝縮される。いまここでわたしがやろうとしているのは、ふつう文学史論があつかっている仕方とまったく逆向きのことだ。

 ひとつの作品から、作家の個性をとりのけ、環境や性格や生活をとりのけ、作品がうみ出された時代や社会をとりのけたうえで、作品の歴史を、その転移をかんがえることができるかということだ。いままで言語について考えてきたところでは、この一見すると不可能なようにみえる課題は、ただ文学作品を自己表出としての言語という面でとりあげるときだけ可能なことをおしえている。いわば、自己表出からみられた言語表現の全体を、自己表出としての言語から時間的にあつかうのだ。・・・・わたしたちのいままでの考え方では、自己表出としての言語の表現史というところまで抽出することで、必然史は成り立つはずだ。なぜならば、言語の表出史の歴史は、自己表出として連続的に転化しながら、指示表出としては時代や環境や個性や社会によっておびただしい変化をこうむるものだからだ。 (P175-P176)


E文学のような書き言葉は自己表出につかえるようにすすみ、話し言葉は指示表出につかえるようにすすむ。文学作品を表出の歴史としてあつかおうとするときつきあたる難しさは、作品が、ひとつには表出史の尖端の流れを無意識のうちにふんでいながら、同時に話体としても作品が成り立つために、また、話体の歴史として独特な流れをもつところからやってくる。たとえば江戸期でいえば前者は漢詩体や雅文であり、後者は戯作文学の流れである。ある時代のある作品は、表出史としてみようとするとき、いつも二重の構造をもっている。ひとつは文学体で、ひとつは話体だ。どちらか一方が潜在的であっても、ひとつの表出の体は、もうひとつの体を想定して成り立っている。ここでいう文学体というのは純文学で話体というのは大衆文学であるという意味ではない。そう簡単に文学作品の具他的な態様にすすまないのである。かりに、文学体と話体といっても、ここでは自己表出としての言語という抽象されたところで表出を史的にあつかいうる中心を指している。したがって、文学体と話体とからすぐに書きもの【「もの」に傍点】の歴史と語りもの【「もの」に傍点】の歴史を想定しようとすれば、表出史というわたしたちの観点をほとんど理解することができないし、また、きわめて奇異な抽象とかんがえるほかはない。
  (P176-P177)


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2

【2 明治初期】

F直面している課題は、文学作品の流れのなかから自己表出としての言語の必然的な環をさがしだすこと、このきわめて抽象的な作業、そしてその必然性がどんな構造をもつかをあたることだ。

 わたしはここで、素材として明治以後の近代文学の作品を対象にする。それは、現在からもっとも近い起源をふくみ、現在の問題に理論と順序をもってちかづきやすいというほかに、どんな理由もない。もちろん近代文学をあつかうことによって近代文学特有のもんだいが表現史のなかにあらわれるが、それは、どの時代の文学をあつかってもあらわれる<現在性>のもんだいの近代的なあらわれにほかならない。これとまったくおなじように、どの時代の文学も、またどこから輪切りにしても<歴史的な累積>のもんだいとしては連続的な性格をもっている。ここで<現在性>あるいは<歴史的な累積>というとき、本質のところでいっているので、うみだされた作品の作者が<現在>から眼をつぶって書いたかどうかにかかわらない。また作者が過去をたちきろうとおもって書いたかどうかともかかわらない。表現の中心に必然としてあらわれる<現在性>と<歴史性>をさしている。現在の文学批評や文学理論は、こんなことをいちいちことわらなくてすむ常識線にないため、いろんなところでいらざる労力をつかうことになる。近代表出史で、はじめにどうしてもさけることができないのは、たとえば坪内逍遙の「当世書生気質」(明治18年)あたりを頂点として、それ以前の開化期文学としてかんがえられている話体の文学と、それに対応するような文学体をさがしだすことだ。 (P177-P178)


備考

註1 「いわば、自己表出からみられた言語表現の全体を、自己表出としての言語から時間的にあつかうのだ。」

註2「マスイメージ論」の方法との関わりについて。

註3抽象のレベル 「かりに、文学体と話体といっても、ここでは自己表出としての言語という抽象されたところで   表出を史的にあつかいうる中心を指している。」

註4「話体」「文学体」の概念が明示されていないようにみえる。




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19 表出史 ひょうしゅつし 第W章 表現転移論 第T部 近代表出史論(T)
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話体と文学体とはなにか
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1

【3 「舞姫」・「風流微塵蔵」】

G表現のうつりゆきは時代によってそのあり方がちがうが、基本的に想定できるのは、文学体から話体への<書く>という手つづきによる下降と、話体から文学体への<書く>という手つづきによる上昇だといえる。この原理をしめせばつぎのようになる。

 文学体から話体のほうへ下降してゆく抽出過程は、たとえていえば、ある固定した観念の水準からしだいに現実の場へおりてゆくことににている。まず、一歩おりてゆくと、ひとつの実体につきあたり固定観念はゆさぶられ、そのまわりに年輪をまとう。また、一歩おりるほうへふみだすとおなじような場面にぶつかり、そのたびごとに固定的な観念はかわってゆき年輪をこしらえる。しまいに対象とした現実の場へたどりつく。言語の表出もまたおなじような場面につきあたる。言語は自己表出の中心にある核をしだいにかえて、まわりに年輪をふやしながら話体的表出にたどりつく。そして言語の自己表出の中心にある核が、指示性の根源の意識と区別されなくなるようになれば、この過程はすくなくとも、あるひとつの自己表出の水準では完了することになる。そしてまたすぐにあたらしい表出の動きがはじまる。

 このような文学体から話体への下降は、表現の内部では作者に意識された過程だといえる。表現者がじぶんでそう意図しないかぎり、こういった下降はおこりえない。

 これと逆に、話体から文学体への上昇過程は、表現の内部では作者にとって自然の過程だといえる。欲求があるなしにかかわらず表現の内部で体験が深まってゆけばゆくほど文学体への上昇、あるいは文学体の上昇は自然にすすんでゆかざるをえない。 (P191-P192)


Hあるいは、つぎのようにいうべきだ。美文調を、前代的な伝統の文体をじぶんにゆるしている鴎外の意識を象徴するものとし、そこから表現の話体へちかづこうとする「舞姫」の意図は、さきどりされた文体の意識にたいして自己否定を象徴しているというように。話体は、根源的意識として生活であり、文学体は幻想のとりうるある水準だ。「書生気質」や「浮雲」では話体の美的中心がどこまで文学体のほうへ抽出せられたかがもんだいとなるが、露伴の「風流仏」や鴎外の「舞姫」では美文調からどこまでじぶんの意識を下降させ、突出させたかがもんだいになる。自己表出としての言語が前代までつみかさねられた尖端にある美文体を、難なくうけいれることで、「舞姫」はいわば伝統のたすけをかりて「浮雲」にある要素のすべてを、それよりも完璧なかたちで具えることができた。話体を表出の底辺としてえらぶことで、根源的な意識を現実の外におこうとした二葉亭は鴎外にくらべれば困難をえらんで、その分だけ損をしたといえようか。 (P195)

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2

【4 「照葉狂言」・「今戸心中】

Iわたしが、ここでおもいえがいているのは、話体から上昇して文学体にむかおうとする傾向を一つの極におき、文学体から下降して話体にはいろうとする傾向を他の極として、このあいだに、文学体からさらに上昇して未知な文学体へと自己表出を高めようとする傾向と、話体からさらに話体を拡散しようとして通俗小説に入ってしまうものと、話体として持続的に芸術性をたもとうとするものとを、おりまぜて、ある時代的な言語表現の空間をつくっている総体の像だ。この空間は、文学が模倣の博物館であるという意味では、表現史の連続した表出力がつくりあげる文学表現史の帯だが、文学の表現が対他的なひろがりだという意味では、時代の現実のさまざまな条件がつくりあげるものということができる。それだから文学史という概念は、表出史のもとのところに身をかくしてくっついているのだが、表出史そのものとはちがう。そしてわたしたちは、ここで表出史という領域を文学芸術に固有なもので、この領域のうちがわでは、文学・芸術をそのまま現実の動きに還元したり、対応させたりできないものとかんがえるのだ。   (P201-P202)

備考

註1 「話体と文学体」について、P177,P192,P195,P201,P206,P211,P284,P302-P304,P324,P341,P353

註2 「話体は、根源的意識として生活であり、文学体は幻想のとりうるある水準だ。」




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20 表出史 ひょうしゅつし 第W章 表現転移論 第T部 近代表出史論(T)
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表出の主体の形成
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1

Jその理由は、表現の刈りこみができるようなある段階が、文学の表現史としてこの時期にあったことに帰せられる。たとえてみれば、ひとがあまりおとずれない風物をひかえた往還路がある。しだいに往き来がはげしくなると、もはや路ばかりでなく、風物もまた当然のものにおもわれてくる。そのとき往還路は捨てられ、つぎの人の通らぬ路がたずねられる。「照葉狂言」や「今戸心中」の表出が象徴するのは、文学体から話体へ、話体から文学体への通路が飽和にたっしたある段階だ。そうなれば、いままで熱心にながめ入ったあたりの風物も眼にとめなくなり、ただ印象の極点の風物だけ眺めの対象になる。それとおなじように表出の対象はつよい選択をうけてひとつの連環をつくるようになった。     (P205-P206)


K二葉亭の「浮雲」や露伴の「風流微塵蔵」のように、なみはずれた作品が、その時期の言語の表出の水準をこえてこんなふうな融和をなしとげてしまった、ということはあった。だが、ある時代的な契機として文学体と話体との融和が成し遂げられたとかんがえられるのは、この時期が初めてであった。わたしたちには文学の言語の対自と対他がある調和を遂げたものとみえる。作家たちがある表出の位置を占めたとき、生活と観念の水準とをうまく和解させることができたためだ、ということができる。現実との相剋の意識が現実からの疎外とつりあったといってもいいし、現実との和解の意識が現実の安定と見あっていたといってもいい。言語の表出史からみるとき、ほとんど悲惨小説とか観念小説とかいう文学史的な名称は信じられないのだ。それはただ素材または主題のもんだいにすぎないので、作家の表出意識はこの時期ある安定に見舞われたとわたしにはおもえる。風葉の「恋慕ながし」(明治31年)や蘆花の「不如帰」(明治31年)や幽芳の「己が罪」のような話体が、文学体への抽出されてゆく過程からはずれて話体のまま横すべりに安定してしまう小説の通俗化の傾向が、近代小説史のなかで、この時期はじめてたくさんあらわれたのはこれとかかわりがあるとおもえる。(P206-P207)


項目抜粋
2

【5 「武蔵野」・「地獄の花」・「水彩画家」】

L鏡花が「照葉狂言」や「湯島詣」や「高野聖」によって、また、柳浪が、「今戸心中」によって手にいれた文学体と話体とのある段階での調和ははじめて独歩によって破られた。そして表出をつぎの段階にうつしたのは、若い独歩の「武蔵野」(明治34年)や「牛肉と馬鈴薯」(明治34年)だった。調和していた文学体はさらに下降するように抽出された。一方で話体の意識はさらに上昇する方向に抽出されてゆき、その矛盾が独歩の文体をそびえたたせた。これはまったくあたらしかったのだ。・・・・景物はえがかれた像ではなく、かんがえられた像をなしている。観念と現実のあいだをはげしくゆききしうる独歩の表現の意識をよくあらわしている。

 天外の「はやり唄」(明治35年)や、独歩の「牛肉と馬鈴薯」から影響をうけたとおもわれる花袋の「重右衛門の最後」は、これと表出としておなじ位相にあって、表出の位置をはっきりさせ、つぎに表出主体を形成しようとする過程にあったといえる。ここでいう表出の主体の形成というのは作家の個我意識の形成ということとはちがう。それは前代からの表出史の流れにたいして、それと連続しながらそれを破りうる表出の位置をはっきりとつかんだことを意味している。この過程は、前代の表出からの位置を分離させたうえではじめて達成できるものだった。 (P207-P209)


M現在からみて、どんなにぎこちない描写にみえても、景物と人物のこころの内の動きを、ある密度で連環させられるようになったのは、文学史のうえで自然主義の前期とみなされたこれらの作品がはじめてだった。これは表出の主体が立体感をもつようになったため、主体の対象への移入が、そのはんいだけ自在さをひろげたことを意味している。近代表出史で自然主義への入口の時期が劃期的だとすれば、前代の文学体と話体との分裂が、あとをもとどめないほど煮つめられた点にあった。           (P210)

備考




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21 表出史 ひょうしゅつし 第W章 表現転移論 第U部 近代表出史論(U)
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1

【1 自然主義と浪漫主義の意味】

N文学史のうえで自然主義へふみこんだとかんがえられている明治三十年代の末期から、表出史としてふくみとひろがりのおおい時期にはいった。文学の表現の歴史を、自己表出としての言語が、時代をふんでつぎの未知へと励起されててゆくものだとかんがえるかぎり、この時期からあとはけっして進展のおおいときとはいえない。

 文学史の常識とはちがって、藤村の「破戒」があらわれた明治三十九年から数年のあいだに、自己表出としての言語は、べつにあたらしいきざしをみせなかった。そして、自己表出としての跳躍をはばまれた言語は、むしろ指示表出としてかつてない多様さとひろがりとをみせた。おそらく日露戦争後の社会のひろがりとかわり方がこの時期の表現に特徴をあたえている。文学者たちは、さまざまにひろがった現実の社会の構成のあちこちにばらまかれ、いろいろな感受性をしいられた。そのために、言語と対象となる現実とのかかわりにいく重にもちがった側面があらわれた。文学者たちは自分の表出に思念をこらすまえに、外界の変貌にこころを奪われめまぐるしくそれを追ったにちがいない。・・・・かれらは、ちがった現実に、いいかえればちがった言語の指示意識にむきあった、それぞれ無関連の個性にほかならなかった。文学者たちはおそらく、はじめて現実の社会のなかのじぶんの位置におどろき、社会のひろがりのすさまじさに目覚めたのだ。かりにかれらがこの現実の社会のかわりかたに無意識だったとしてみれば、明治の現実の社会ははじめてかれらの表出意識に多様さをしいたともいいなおせるにちがいない。 (P211-P212)


O作家の表出空間を固有な一定のものと仮定したばあい、表出の対自意識と対他意識とは逆立【ルビ さかだち】するとみてよい。この要因を根ぶかいところでつかさどるのは社会そのもので、これをつきくずすには、表出の水準がふたたび社会を呑みこむほど根をひろげるほかないのだといえる。(P216)


P文学を現実の社会の基礎のうえにそびえる幻想の構造という見かたでみようとするなら、「破戒」と「千鳥」というふたつの異質な表出のあいだに、また「蒲団」と「婦系図」という異質な極のあいだに、さまざまにひろがる指示表出のはば全体を、上部構造としてみるべきであって、特定の論者が傾向や好みでえらんだ文学運動を中心にして社会の土台のうつりゆきと照応させるのは、まったくの誤解でなければならない。 (P218)

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2

【2 「それから」・「イタ・セクスアリス】

【3 「網走まで」・「刺青」・「道草」】

Q(26)汽車は今、間々田の停車場を出た。近くの森から蜩の声が追ひかけるやうに聞こえる。日は入    つた。西側の窓際に居た人々は日除け窓を開けた。涼しい風が入る。今しがた、母に抱かれたま   ま眠入つた赤児の一寸計りに延びた生毛が風にをののいて居る。赤児の軽く開いた口のあたり    に蠅が二三疋うるさく飛びまわる。母はぢつと何か考えて居たが、時々手のハンケチで蠅をはら    つた。少時して女の人は荷を片寄せ、其処へ赤児を寝かすと、信玄袋から端書を二三枚と鉛筆を   出して書き始めた。けれども筆は却々進まなかつた。(「網走まで」)


 おなじ汽車の箱に乗っている<自分>が眼のまえに腰かけている母子をみているという位置でかかれている。ちょっとかんがえると作者の肉眼が、母子を客観的に緻密に観察してかかれているようにみえるが、じつはそれとちがっている。たんなる観察ではこの後半の風にふかれてゆれる赤児の生毛や、赤児にとまっている蠅をおいはらう母親のハンケチや、赤児を座席にねかして、端書をとりだしてかきはじめる母親の手つきを、これだけの鮮やかな像で表出することはできない。この無造作な描写は、観察の位置にすわった作中の<自分>を、作者がじぶんの位置からはるかに高みにじぶんの意識の表出をうちあげているのだ。作者の<私>と、作中の<自分>との距りが、作者志賀直哉の観念の水準を語っているのだが、この水準は、同時代の文学体をこえるエトワ゛スをもつものといってよい。

 <自分>が、眼のまえに腰かけた母子をみながら、その父親を想像する場面があるが、この場面は、作者の主体と作中の<自分>の水準の距りをよくしめしている。     (P235)

備考 註 Qの、作品の読み込み方。




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22 表出史 ひょうしゅつし 第W章 表現転移論 第U部 近代表出史論(U)
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1

R表出史としてみれば、谷崎の初期作品は、ほとんど文学としての概念を放棄したとおもわれるほどに話体らむかって表出意識を下降させたという点に特徴があった。だから、むしろ、まれな才能をもった語り師が出現したといいかえてもそれほど誇張ではない。白痴的といっても小児性といってもかわりがないが、空白の意識がひとつの時代的な意味をもって登場したのだ。・・・・谷崎の話体は本質からの、それ以外に何もない話体として成り立っている。・・・・

 谷崎の文体が表出史のうえにもたらしたあたらしさは、どんな意味でも作者じしんを意識的に表出へ投入することなど、まったく拒否した文体によってはじめて成り立った。かれの指示的な対他意識は、対象の<意味>におかれずに、対象と自己のあいだにおこる<情動>そのものにおかれた。<情動>そのものが<意味>であり、言語はその指示表出を架空の情動性においたのだ。この徹底性において、谷崎は前代のどの作家とも似ていない。 (P237-P239)

S表出史としてみるとき、漱石の「吾輩は猫である」から「明暗」にいたる道すじは、一路緊張と上昇の連続だった。そして、すくなくとも「それから」以後の漱石は、いつも同時代の表出の頂きをはしりつづけたといっていい。このことは、日本の知識人のもんだいの内的なまた外的な要因のすべてを、すくなくとも「それから」以後の漱石はごまかさずにじぶんの意識のもんだいとしてうけとめ、悪戦をやめなかったことを意味している。漱石はおおきな本質的な課題をかかえこんで、死にいたるまで緊張をとかなかった。その精神的な膂力は近代以後に比肩するものがないほどである。鴎外はこれにくらべて初期「舞姫」や「うたかたの記」の知識人問題をひとたびはすてて、「イタ・セクスアリス」以後、教養人の文学的な話体の表出にうつった。 (P241)


【4 「明暗」・「カインの末裔」・「田園の憂鬱」】

(21)この時期に芥川竜之介は「羅生門」(大正4年)や「鼻」(大正5年)などの歴史小説によって登場する。これらの作物はあきらかに鴎外の史伝小説にじかに影響されていた。鴎外の史伝小説の独特な話体がなかったら、芥川の歴史小説はかんがえにくい。・・・・しかし、芥川の歴史小説にとって素材は<事実>の次元では必要ではなくなっている。奔放で自由な解釈をつくりあげるためのワク組みとして以上の意味をこれらはもっていない。いわば芥川の歴史小説によって鴎外の史伝小説の話体は文学体へ上昇する過程へはいる。 (P250)


項目抜粋
2

(22)「明暗」で漱石にやってきたこの人間認識の相対性は、表現としてみれば話体との融合をみちびき入れた。「明暗」は「道草」の文学体をさらに高みにひっぱりながら話体を融和させた作品であった。漱石にとって絶筆となったというだけではなくて、おそらく明治以後の表出史のある集大成がここにあらわれたのだ。 (P251)

(23)わたしのみたところでは、近代小説のなかで、ある必然をもって散文に喩法をみちびいたのは、漱石の「それから」が最初である。 (P252)

(24)ここには資質はちがうが、自己表出を、現実の基盤とはまったくべつのところで仮構しようとする試みがある。表現史としてみれば、この有島武郎と佐藤春夫から昭和の新感覚はまでは地続きだったといっていい。有島が乱用している喩法にはっきりあらわれたように、欧文脈がここに果敢にみちびきいれられ、作者の指示意識とまじりあう。武郎のつかっている喩がすべてはっきりした像的喩であることは、この作家の指示意識の特質をかたっている。そして「投槍のやうに」とか「魔女の髪のやうに」という直喩の性質は、その教養の質がどこにあったかをしめす。     (P254)


備考




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23 表出史 ひょうしゅつし 第W章 表現転移論 第V部 現代表出史論
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1

【1 新感覚の意味】

(25)個人の存在の根拠があやふやになり、外界とどんな関係にむすばれているかの自覚があいまいで不安定なものに感じられるようになると、いままで指示意識の多様さとしてあったひとつの時代の言語の帯は、多様さの根拠をなくしてただよってゆく。<私>の意識は現実のどんな事件にぶつかってもどんな状態にはまりこんでも、外界のある斜面に、つまり社会の構成のどこかにはっきり位置しているという存在感をもちえなくなる。

 こういう情況で、言語の表現はどこにゆく手をみつけだすだろうか。

 たぶんこれが大正末年このかた近代の表出史がつきあたった表現のもんだいだった。これは高度に均質にはばをひろげていった資本制度の社会で、さまざまな個人の生活史がどれだけ均質な条件にさらされたかということにちがいなかったろう。表現としていえば、文学者たちの現実にむかう意識はローラーでおしならされたように、かわりばえもなく均質化された。そして、文学の表現は、どんな個性の色彩をもち、個別のモチーフを唱いあげたものであっても、この社会がしいたローラーならしにたいする反応や、抵抗や、代償としてはじめて成り立つほかなかった。

 これは、近代の表出史にあたえられた<現代>性の核心にあるもんだいであった。・・・・

近代の表出史は、この均質化された<私>の意識面で、現代表出史としてあらわれたといっていい。・・・・

 解体にひんし、均質化につきあたった<私>意識が、まずみつけだした通路は、文学の表現の対象になるものを主体のほうからすすんで平準化し、均質にならしてしまうことで、現実の社会のなかでの<私>の解体を、表現では補償しようとすることだった。 (P256-P257)


項目抜粋
2

(26)たとえば、<石ころ>と<人間>とは現実の世界ではまったくちがったものだ。そしてちがった認識の位相にひとりでに位置づけられている。また<猫>と<舟>とは現実の世界ではちがい<花>と<子供>とは現実の世界でちがった意味づけをあたえられている。人間と自然とは、その自然が建物や器械のように人工的なものであれ、草や樹木のような自然なものであれ、まったく異質だということは、わたしたちが現実の社会にあるとき暗黙のうちに前提にしている。こういう前提が現実の人間社会を成り立たせている根拠になっている。そこで生活しているときのわたしたちの関係には、そういう基本になる確かさがひそんでいるといっていい。だが表現の世界をどんなことでもあるしおこりうる想像の全球面とかんがえると、かならずしもこんな確かさは前提にはならない。それはけっして想像は自由だから(ほんとうは自由ではないのだが)ではなくて、現実の認識の序列があやういところでこそ表現の特有な秩序が成り立つものだとかんがえなければ、芸術的な表現は自由に存在できる根拠をたもちえないからだ。しかし、くりかえしていえば、芸術の表現が自由な秩序をもてるということは、すぐに想像がまったく自由だということを意味しない。すくなくとも、現実の社会でさまざまな個人が、じぶんの根拠や理由が不確かだとおもったとすれば、その部分に対応するある球面での想像が自由になるとかんがえることができよう。

 近代の表出史がこのもんだいに当面したのは大正末年だった。 (P257-P258)


備考




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24 表出史 ひょうしゅつし 第W章 表現転移論 第V部 現代表出史論
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1

【註 横光利一などの作品にふれつつ】

(27)おそらく、そういう表出の根源には解体してしまった<私>の意識からは対象は自然であれ人間であれすべて交換可能な相対性にすぎないという認識がひそんでいた。その意識からは<馬>や<日の光>や<寒駅>に表現のうえで自意識をあたえることが不自然ではないという文体革命のうえの事情がかくされていた。・・・・これは表出史としてみれば、現在までにかんがえられる最後の水準に言語空間が足をふみいれたことであった。

 平準化されて解体にひんした<私>意識が、文学の表現のうえでみつけだしたもうひとつの脱出路は、<私>意識の輪郭のぼんやりした不確かな内部を、表出の対象にすることで現実での<私>の解体を補償しようとする欲求だった。毒をもって毒を制するように、また不確かなじぶんの存在感を不確かなじぶんを対象にすることで確かめようとするかのように、形のないこころの内の世界を言語に定着させた。

  (P260-P261)


(27)大正末年代におこなわれた文体革命は、そのひろがりでもまた徹底さでも明治三十年代末の自然主義運動による文体の変改に匹敵するといってよい。そして自然主義の影響が、言語の指示意識の多様化という面できわまっていたように、この時期の<新感覚>の影響は、言語の自己表出意識の励起という面できわまっていた。そこからみればこのふたつの時期の文体の革命は対照的だといえる。わたしたちは、ここで<新感覚>という言葉から、横光利一を先達とする一群の文学者の作品の傾向という意味をとりさって、普遍的につかわなければならない。あたかも<自然主義>という言葉から、藤村の「破戒」や花袋の「蒲団」を先達とする一群の文学者の傾向という意味をとりさって、ひろげたように。<新感覚>は、どうしてもなくてはならない運命のように大正末年から近代の表出史にあらわれた言語の自己表出意識の飛躍と励起だった。 (P260-P261)

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2

(28)文学の変革は、どうしても文体の革命をふくみ、文体の革命は文学者のある根源にある現実の意識によっている。だから現実の根にある核の変化と対応している。しかしこの核の構造を発見するのは古典左翼がかんがえるほど簡単ではない。またそれが表出にあたえる影響という意味も、下部構造は上部構造を決定し、上部構造は相対的独立性をもち、逆に下部構造に影響をあたえるなどという簡単なものではない。

 わたしたちは、大正末年以後の文学に<新感覚>がしみとおっていったことを普遍的な根拠としてみる。この意味では徒党や派閥上の「プロレタリア文学」派も「新感覚」派も、私小説作家たちも、この<新感覚>の外にたつことはできなかったとかんがえる。 (P268)


備考




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25 表出史 ひょうしゅつし 第W章 表現転移論 第V部 現代表出史論
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1

【2 新感覚の安定(文学体)】

【3 新感覚の安定(話体)】

(29)いままでみてきたとおり、近代の表出史はその歴史のなかで、いくどかあたらしい文学体と話体との分離を体験してきた。この分離はふたたびあるところまでくると拡散して軌道がかさなりあい、つぎに融和して、その状態からふたたびあたらしい段階での文学体と話体との分離をおこす。そしてこの過程はいくども反復するとかんがえられる。これは、ひとりの作家の生涯になしとげられることもあれば、時代の傾向性としてそうなることもある。文学体は言語の自己表出をおしあげるようにうつってゆき、話体は指示表出をひろげ、さまざまに多様化してうつってゆく。その根拠になるのはまだ解明されてない経緯をへて作家の現実の意識の根源と対応している。だから社会というのは文学の表現にとって何ごとかなのだが、わたしたちはいまのところそれを確かな言葉でいうまでにいたっていない。このもんだいを解くことは、一般にかんがえられているよりもはるかに難しいことだ。 (P284)


(30)昭和期の話体言語をほとんど極限にまでおしすすめたのは、太宰治であった。この作家の出現と敗戦後に自壊した意味はとても重要だったとかんがえる。・・・・

太宰治が表現のうえでいちばん影響をうけたのはたぶん落語、講談本の話体だ。中期を代表する作品「富嶽百景」(昭和14年)、「満願」(昭和13年)、「駆込み訴へ」(昭和15年)、「女の決闘」(昭和15年)、「走れメロス」(昭和15年)、などで、それぞれの書き出しと終末の配慮は、古典的な<落ち>の方法に対応している。・・・・

 こういう作品を<私小説>として読むことは、まったく危険だとかんがえられる。わたしは私小説の科そうもってかかれた<語り物>だとおもう。語り物を語っている語り師の位相−高座から落語家や講談師がやるような−が、おそらくは、太宰治の中期の話体小説の理想像だった。・・・・

わたしたちが、日常の会話でこんな省略を平気でやって意味を伝えられるのは音声のアクセントや身振りや表情などがそれに加わっているからだ。太宰治はおそらくその特徴をきょくたんにかくという表出にうつしかえた。そして、そのためにあみ出した方法は、表出の対象を感覚的印象(おもに視覚的)の核心のところだけでとらえることだった。こうすることで表現の場面の転換のセンテンスは、あたかも会話や語り師の身振りや眼ざしの動きとおなじ意味をもったのだ。 (P289-P292)

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2

(31)この時期の話体の作家のうち<私>意識の解体と劃一化という契機を崩壊とか風化ではなくて、積極的な意味で構成的な話体の意識としてとらえたのは、おそらく太宰治だけだった。太宰のばあいじぶんの<私>意識の解体が意識されればされるほど話体の表現は風化や横すべりに走らず、かえって構成的になるという逆説がはじめて成り立った。それだから戦後になってからの自壊は、かえって「人間失格」や「ヴィヨンの妻」のような文学体への上昇としてあらわれた。この事情は芥川竜之介の自壊ととてもよく似ている

 太宰治の話体の表出をひとつの極にして、やがて戦後文学の話体はつくられた。 (P292)

備考 註 「その根拠になるのはまだ解明されてない経緯をへて作家の現実の意識の根源と対応している。だから社会というのは文学の表現にとって何ごとかなのだが、わたしたちはいまのところそれを確かな言葉でいうまでにいたっていない。このもんだいを解くことは、一般にかんがえられているよりもはるかに難しいことだ。(P284)」




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26 表出史 ひょうしゅつし 第W章 表現転移論 第V部 現代表出史論
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1

【4 新感覚の尖端】

(32)【註 昭和十年代の文学体の表出】こういった分布の傾向が語っているのは、中核だけをいえば文学体の横すべりとか拡散とか風化といった消極的な位置づけとしていうことができる。そしてそのうしろにかくされていたのは、解体した<私>意識を対象にするすべを見うしなった文学者たちが、濁流が海にそそぐように話体へと氾濫していったことだった。・・・・わたしたちは文学体の小説が風化して話体へと下降してゆく過程で拡散されて、それなりに安定した作品をうみだしたといえるだけだ。もちろん、そのうしろには知識人の解体がふくまれていた。しかもどこへ解体するのかは本人たちにはまったくつかまれていないところに特徴があった。 (P293-P294)

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2


備考




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27 表出史 ひょうしゅつし 第W章 表現転移論 第W部 戦後表出史論
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表現意識の<時間>の喪失ともいうべき特殊な体験 意識の<時間>
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1

【1 表現的時間】

(33)戦後表出史とは太平洋戦争として体験した第二次大戦後の現代文学の表現史をさしている。<戦後>という言葉は、まだ戦争の体験や記憶がなまなましかった時期には、さまざまな位相で戦争をくぐりぬけた以後の体験をさしていた。しかし、現在、ここでことさらに<戦後>というとき、あたらしい意味がつけくわえられる。つまり<戦後>とは近代以降の歴史のなかで位置づけられるはずの時期になっていて、当然位置づけられるべきでありながら、いまもって対象として位置づけられない余韻をひきづった時期という意味になる。

 現在<戦後>は体験としてはだんだんとなくなりつつあるといっていい。それといっしょに対象としてあつかうにはあまりに未知なものがふくまれ、またじぶんの意識から分離できない状態にある。この<体験>としての喪失と<対象>としての未知にはさまれて、近代以後の表現史のなかに<戦後>の表現史はいまも宙づりになっている。

 戦後の表出史にたいしては、さまざまの方向からちかづくことができる。ここではまずせまい意味の<戦後>とひろい意味の<戦後>という二重のふくみでとらえてみたい。せまい<戦後>期に表現史ははじめの数年間ではあるが、表現意識の<時間>の喪失ともいうべき特殊な体験をもった。この体験は数年のあいだにきえてしまった。<戦後>を対象にするには未知のもんだいをふくんでいるように、この数年の特殊性が近代の表現史のなかでなにを意味するかは、まだうまくとらえられていない。ここでは表現意識の<時間>がうしなわれたという観点からちかづきたいとかんがえる。 
      (P299-P300)

(34) でも残念なことに意識にとっての<時間>や、意識の表出過程としての<時間>は、この生理的な<時間>と自然<時間>に外からはさみうちされ、両者の矛盾にさいなまれて、そのあげく虚空にとびだした動きをさしている。この<意識>の時間は、生理的な<時間>や自然の<時間>とちがって、生理現象や自然現象の速さに還元することができない。生理過程の恒温性や宇宙の空間の時空性の軸に対応づけられないからだ。それにもかかわらず意識の<時間>をある基礎の構造に還元しようとすれば、わたしたちが存在している<現実>と、外化されているわたしたちじしんの幻想とが、かかわりあっている領域に対応させるほかはない。(P302)

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2


備考 註 「意識にとっての<時間>や、意識の表出過程としての<時間>は、この生理的な<時間>と自然<時間>に外からはさみうちされ、両者の矛盾にさいなまれて、そのあげく虚空にとびだした動きをさしている。この<意識>の時間は、生理的な<時間>や自然の<時間>とちがって、生理現象や自然現象の速さに還元することができない。」




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28 表出史 ひょうしゅつし 第W章 表現転移論 第W部 戦後表出史論
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1

(35)ある文学作品が、主人公の一生を描いている手応えを読むものにあたえながら、それを体験するのに二時間の自然の<時間>しかかからず、また、ある文学作品が主人公の半日の行動をえがいているにもかかわらず、何年もの歳月を意識に体験させるようにおもわれるとしたら、ここには<意識>の時間と、自然の<時間>との差異がひそんでいる。そしてこの差異をひきおこすものは、何らかの意味で言語の表出と関連しているとおもえる。

 たとえば、こういった事情はつぎのようにかんがえられる。

◎ 高い崖を打つ波の音がまた江口の耳に近づいた。(川端康成「眠れる美女」 )

 この表現の<時間>は、文章の<意味>が流れている方向にそって流れる。崖に打ち寄せてくる波の音が、「江口」という人物の耳にきこえるという<意味>の方向に<時間>が流れているこの文章は、ある読者にとってたどるのに五秒かかり、また、ある読者には三秒しかかからないというちがいはおこりうる。読み手の体験した自然の<時間>が、ちがうのだ。しかし、この文章がひきおこす意識の<時間>は、Aなる人物がよんでも、Bなる人物がよんでも、ある特定の時間の体験、いいかえれば、作者の表出意識が体験した<時間>にどこまでもちかづくはずだ。この作者の表出の意識の<時間>性は言語の指示性と自己表出性との交錯をまがりくねったり、とまったりして流れる<時間>がきめている。いいかえれば、自己表出としてみられた言語の<意味>の流れによってきまる。これは表現の意識の<空間>性が、指示表出としてみられた言語の<価値>のひろがりによってきまるのと対応している。こういったいい方は、いままでかんがえてきた言語表出の概念からはあきらかに矛盾だと気づくはずだ。

 たしかに表出の意識の<時間>性は、表出の意識の<空間>性とおなじように、それ自体が矛盾だといっていい。その<時間>は、生理的<時間>や自然的<時間>をまったくふりきったとき、ほんとの<時間>を手にいれる。表出の<空間>が、自然的<空間>や対象の<空間>性をまったくふりきったとき、完全な<空間>がかんがえられるとおなじように。

 もし表出の意識が<時間>の統覚をうしなえば、いままで<意味>の方向に流れていた時間は、<意味>をこえて表出空間のほうへ氾濫してゆくはずだ。 (P302-P303)

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2

(36)言語の表現の<時間>をかんがえることができるのは、言語の自己表出の連続性と、等質な抽象力を想定できるからにちがいない。それは言語の表現の<時間>の単位をつくっている。しかし、言語表現の<時間>が、たった一冊の本のなかに登場人物の一生涯を体験するというような幻想をよびおこすことができるのは、言語の自己表出が、その指示性によって、停ったり拡大したり、まがりくねったりというような結節をひきおこすことができるからだといっていい。この幻想によって言語の表現は、現実の時間とちがった時間を構成することができるし、それをこころのうちの体験としてよむこともできるのだ。

 戦後の表出史は、近代文学史のうえではじめて意識の<時間>の統覚をうしなう体験をもった。この体験のなかに<戦後>という言葉の意味がかくされているように、この体験が二、三年のうちに失われてしまったことのなかにもまた<戦後>の意味がかくされている。そのためにことさら戦後の表出史という思いいれにこだわらざるをえないのだ。この状態は作家たちが、根源の現実についての意識をうしなったことに対応している。そしてここでは<私>意識がこわれたあとの想像線は、現実のどこかの断面に対応づけられるよりも、こころの内の見えない断面にまで地盤を沈め、そこで表出を成り立たせるよりほかなかった。 (P304)


備考

註1 「作者の表出意識が体験した<時間>にどこまでもちかづくはずだ。この作者の表出の意識の<時間>性は言語の指示性と自己表出性との交錯をまがりくねったり、とまったりして流れる<時間>がきめている。いいかえれば、自己表出としてみられた言語の<意味>の流れによってきまる。」

註2  「たしかに表出の意識の<時間>性は、表出の意識の<空間>性とおなじように、それ自体が矛盾だといっていい。その<時間>は、生理的<時間>や自然的<時間>をまったくふりきったとき、ほんとの<時間>を手にいれる。表出の<空間>が、自然的<空間>や対象の<空間>性をまったくふりきったとき、完全な<空間>がかんがえられるとおなじように。」

註3 「根源の現実」




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29 表出史 ひょうしゅつし 第W章 表現転移論 第W部 戦後表出史論
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1

【2 断絶の表現】

(37)敗戦を第二の開国というような言葉でのべた思想家は丸山真男だった。しかしこれには、敗戦と戦後の意味はまだよくわかっていないというただしがきがつけられている。ただしがきがなぜいるのかは、誰の眼にもあきらかにおもえる。戦後という意味を太平洋戦争の敗戦にともなう天皇制権力の崩壊と、日本資本主義体制の破壊・修理・回復の一時期にあらわれた混乱・無権力、そこから体制が整備され、ひろがってゆく過程の意味につかえば、たれの眼にも疲弊した日本の資本制度は回復し<戦後>という規定であつかわれた特殊な真空のなかの混乱の情況がおわってしまったことははっきりしている。でもたれもまだこの<戦後>が、明治以後の近代社会のなかでどんな意味をもち、どんな性格をあらわしつつあるかを、つかまえていない。いいかえれば、生々しいそれぞれの戦争体験は対象像としてつきはなすにはまだふっきれておらず、そしてこの対象像をはっきりした形でとりだすだけの論理も、身につけてつかみだすことができていない。そしてこのおおきな意味の<戦後>をつかみ、そこではたされるべきことはなにかをはっきりできる時期にはいりつつあるといっていいとおもえる。 (P304)

(38)大正末年からあと<新感覚>はすべての表出にしみとおっていったが、表現の歴史としてみれば、ひとつは<私>意識がこわれてゆくのを表現がどこかで補償しなくてはならないもんだいであった。もうひとつは、<私>意識のうちの微細なこころの動きを拡大鏡にかけたような精密さで追うことで、こわれてゆく<私>意識の記憶を保存し、維持しようとするものだった。これはひと口にいえば表出意識による言語の<空間>の補償とみることができる。現実社会の高度になった構成面で、<私>意識が確かにあることを信じきれなくなったとき、作家たちは、表出<空間>をおしひろげて、対象とじぶんとの不確定な距離感を統覚しようとしたといっていい。これは表現としては、指示対象の主客性を交換可能なものとするか、あるいは生理的感覚としては、瞬間のうごきにすぎない微細な心象の姿を拡大鏡にかけたように<空間>的なひろがりと<時間>的な秩序のなかにえがきだすことだった。

 戦後の文学体がはじめにつきあたったのは、これとは対照的だったとおもえる。はじめからもう意識の内部をえがきだすのに必要な最小限の統覚さえなくなっていたといってもいい。意識のうちを拡大してえがくためには、すくなくとも作家の意識と、じぶんの意識を対象にする意識とが、はっきりとした輪郭で分離されていなければならないはずだ。そうでなければえがきだされた意識の動きが、動きとしての意味をもたないで、アモルフなひろがりだけになってしまう。   (P308)

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2

(39)しかし、戦後の文学体があざやかにしめしたのは、すでにじぶんの意識がじぶんの意識を対象にすることさえできないほど崩壊した<私>意識のすがただった。これは表出としては<時間>的な秩序をうしなっていることを意味した。これは言語表現の<時間>性のアモルフな拡散となってあらわれた。わたしたちが、野間宏、椎名麟三、武田泰淳などの戦後はじめの表出からうけとるものは、すぶすぶとのめりこんでしまう沼地にを歩いている印象ににている。 (P308-P309)

(40)これらは【註 「暗い絵」「深夜の祝宴」「蝮のすえ」の引用】、すでに意識内部の動きを精密に追求するために必要な即自意識と対自意識との距離感、区別、継続の感じをなくし、即自と対他の意識の対応性をうしなっているため、たんに表出<空間>だけではなく、表出<時間>も無限に拡散してしまっている。はっきりした手ごたえや輪郭のない沼地を、すぶすぶと踏みあるくような印象をあたえる。

 もちろん、野間と椎名と武田との個性のちがいを、これらのわずかな表現からさえ択りわけることができるが、アモルフな沼地をあるいている印象は共通なものだ。この共通性は表現の<時間>の喪失という一般性でとらえることができる。文体は現実的な秩序をまったくなくしてしまうことで無辺際にまでひろがり、どろどろ流れだすような文学の歪んだ空間をつくっている。

 戦争の痕跡、戦後の混乱とは、これらのはじまりの時期の戦後文学の旗手たちには、完ぷないまでの<私>意識の解体としてあらわれた。表出意識の<時間>的な統覚がなくなるためには、たんに現実にたいする主体の<無>だけではだめだ。すすんでじぶんの意識にたいするじぶんの意識の<無>を獲得しなければならぬ。これこそが近代の表出史のうえに、かれら第一次戦後派が意味をもって登場した根拠だった。内的なまた現実的な<無>を代償にして、かれらは想像的な時空をアモルフにどこまでも拡大する方法を手に入れたのだといえる。かれらが、現実のじぶんの意識の<死>をたずさえて登場したとき、戦前マルクス主義はその<罪>をおのずから糾弾され、戦争権力は<罰>をおのずから無言のうちに訊問されたのだ。  (P312-P313)


備考





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30 表出史 ひょうしゅつし 第W章 表現転移論 第W部 戦後表出史論
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1

【3 断絶的表現の変化】

(41)戦後の文学体が、はじまりのもんだいをなくしたのは、ほぼ、昭和二十六−二十七年だ。

 戦後史は、ここで曲り角にであい、ある意味では落ちつくべきところに落ちつき、またある意味では類例のない拒絶の意味をうしなったのだといえよう。もしも、ひとりの巨大な(という意味はいわゆる大作家ということではないが)文学者を戦後派がもっていたら、かれは、この瞬時の花火にもにた戦後はじまりの閃光をうしなうことなく、それを土台に構成的なひろい世界をつくりだす膂力を発揮したことはいうまでもない。しかし、そんな作家はいなかった。かれらは構成力と技法をえたかわりに、うしなうべきものはうしなったのだ。かれらは戦後の社会の秩序を否定する秩序を肯定するか、社会的秩序を肯定するか、いずれかのところに根源的な現実意識をもっていってそこにすえつけたのだ。 (P332-P333)


(42)戦後の表出史から、野間、武田、椎名などがはじまりの時期に身をもってうちだした表出上のもんだいが、まったくすがたをけし、これと照応するように、梅崎、坂口、原などがひらいてみせた文学体の延長に、三島、大岡、佐多、田宮などの文学体があたらしい意味をもって登場してきた過程は、戦後の表出史が<時間>的な秩序を奪いかえす過程だった。自己表出としての言語が、持続と展開ができるような意識を回復したのだ。このことは、戦後の資本制社会の回復とひろがりの過程に照応していた。作家たちはこの社会の秩序を否定するか肯定するかにかかわりなく、この外の秩序とは独立に、こころの内の秩序をつくりだし、そこに文学の城砦をきずくことができる高度な表出の段階にはいったことを意味した。いっぽうで、ほぼこの過程とひびきあうように、戦後の話体の表出は文学体へ上昇してゆく過程にむかった。・・・・

 この話体から文学体へむかう動きは、戦後の文学体が現実の意識としての<死>をあがなってえた特徴をなくしてしまった昭和二十六−二十七年以後では、文学体と区別できないほど接近した印象をあたえる。一般的にいって話体言語から文学体言語へ上昇してゆく過程は、言語の指示意識からいえば現実の意味をうしなったことを意味している。もうひとつは表出の意識が感受した現実の不定感のあらわれだといえる。別のいい方をすれば、作家たちの表現しようとする意識が現実とのかかわりあいに意味をみつけられなくなり、そのありあまる不安を言語の自己表出をかけのぼることで補償しようとする欲求を意味している。  (P340-P342)

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2


備考

註 語註「アモルフ」・・・・




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31 表出史 ひょうしゅつし 第W章 表現転移論 第W部 戦後表出史論
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【4 断絶的表現の頂点】

(43)いままでやってきた近代文学史の表現を対象にした表現転移の考察は、いくつかの法則性をあきらかにしているはずだ。

 これをいくつかの言葉に要約してみれば、つぎのようになる。

 (1) ある時代の文学表現は、いつも話体と文学体とのふたつを基底としてかんがえることができるし  、かんがえるべきだ。これは<書く>ということによってうまれる表出の、表出と表現への分裂という意  味を誤解しなければ、文字の成立する以前にもさかのぼってかんがえることができる。

 (2) 話体の表出は、もしそれを無条件の必然としてかんがえれば、文学体の方へひとりでに上昇する  。話体表出を話体表出として持続するのは、意識的な思想によるほかはない。それ以外では、文学  体への上昇か、それとも話体としての風化、いいかえれば通俗小説化するほかはない。

 (3) 文学体は、無条件の必然としては、より高次の文学体へと上昇する。文学体が話体へむかって   下降するばあいは、作家の意識の転換であるほかはなく、この転換をうながすにたりる現実の要因  が、かれの個の時代的な基盤にあったときだといえる。

 (4) 現代では話体を風化もさせず、また文学体への自然な上昇もおこなわずに持続している作家は  、かならず現実放棄の思想をもっている。

 (5) ある時代からつぎの時代への表出体のうつりゆきは、話体と文学体との上昇や下降の複雑な交  錯によって想定される言語空間のひろがりと質をうつしかえることでおこなわれる。これは、文学体と  話体とが極端に張り出した幅とひろがりとしてあらわれるばあいも、話体と文学体との融和のように  、あるいは区別できないまでの接近としてあらわれるばあいもある。これと対応づけられるのは言語  の表現意識の水準と現実社会の総体的な要因とである。が、それがすべてではない。その他の対   応は、不完全であるばかりでなく、対応させることが困難である。

 (6) 表出史は現実史へ還元することができない。還元できるのは、意識の表出としての一般性であり  、<文字>により<書く>という形での表現は、現実への還元をゆるさない。ただ<書く>ということの一般  性へ還元されるだけだ。

 (7) ある時代の表現を、はじめにつぎの時代へうつさせるものは、かならず文学体の表現だ。これからもそうだ。


項目抜粋
2

 これらの法則性は、文学表現内部では、どのようなイデオロギーや強力をくわえても破ることはできない。

 戦後の表出史のこれからあとのうつりゆきの行方も、この法則性の範囲を逸脱することはできない。もしも、社会が現実の運動の根柢を激変せしめないかぎりは。そしてそれは文学自体のもんだいではなく、政治自体のもんだいである。文学表現内部では、いぜんとしてここで考察された法則性がこわれることはありえない。  (T巻了)   (P353-P355)


備考




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