Part 6 |
定本 言語にとって美とはなにか U (角川選書 199)角川書店 1990/08/07発行 |
項目ID | 項目 | 論名 |
58 | 芸術の内容と形式 | 第Y章 内容と形式 |
59 | 芸術の内容と形式 | 第Y章 内容と形式 |
60 | 作品の読み方 | 第Y章 内容と形式 |
61 | 文学の内容と形式 | 第Y章 内容と形式 |
62 | なぜ文学作品が書かれるか | 第Y章 内容と形式 |
63 | 音韻・韻律 | 第Y章 内容と形式 |
64 | 文学の内容と形式 | 第Y章 内容と形式 |
項目ID | 項目 | よみがな | 論名 |
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58 | 芸術の内容と形式 | ないようとけいしき | 第Y章 内容と形式 |
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項目抜粋 1 |
【1 芸術の内容と形式】 @いままでに作品を具体的にあつかうために、理論として飛躍しなくても不自由を感じないですむところまでたどりついた。・・・・またべつの課題が横わっている。それは文学の理論が歴史的につみかさねてきた因襲のようなものだ。 (P214)
Aここで芸術の内容と形式にふれるのは、これからつくられようとする作品の過程を、ひとつの<架橋>の作業とかんがえ、幻想の表出としての作品と、原因としての作者と、根源としての現実とが、ある角度からはまったく無関係のようにみえ、ある角度からは関係があるかのようにみえるという構造にすこしでもちかづきたいためだ。 (P215)
B●ところでわたしはまったくべつのことを主張する。芸術の内容も形式も、表現せられた芸術(作品)そのもののなかにしか存在しないし設定されない。そして、これを表現したものは、じっさいの人間だ。それは、さまざまの生活と、内的形成をもって、ひとつの時代のひとつの社会の土台のなかにいる。その意味では、もちろんこのあいだに、橋を架けることができる。この橋こそは不可視の<かささぎのわたせる橋>(自己表出)であり、芸術の起源につながっている特質だというべきだ。 (P223) ●かれらは、<かささぎのわたせる橋>(自己表出)が、芸術の特質であり、この構造を無視して芸術が語りえないことも、芸術の内容と形式という概念が、この<架橋>の構造に視えない根拠をおき、表現せられた芸術そのもののなかにしか成立しないこともしろうとはしない。 (P224) ●そして、芸術の内容とか形式とかが、直接土台を反映するのではなくて、この<かささぎのわたせる橋>(自己表出)を介してしか、現実を反映したり、とりこんだりしないということは、ルカーチの理解のそとにおかれるのだ。 (P226) |
項目抜粋 2 |
Cわたしのいわゆる<架橋>(自己表出)をはずしては、芸術の本質が語りえないこと、この<架橋>の連続性は、いやおうなしに時代的と個性的との刻印をうける現存性の構造をもっていること、などは、芸術の表現と表現者と現実とのあいだの、さまざまな属性を削りとったあとに、わたしたちの方法がのこす最終の項だ。 こんなふうにわたしたちは、ひとつの定義にたどりつく。芸術の形式は、<架橋>(自己表出)の連続性からみられた表現それじたいの拡がりであり、芸術の内容は<架橋>(自己表出)の時代的、個性的な刻印からみられた表現それじだいの拡がりである、というように。 (P226-P227) |
備考 |
註1 「<かささぎのわたせる橋>(自己表出)」の出典? 註2 「芸術の形式は、<架橋>(自己表出)の連続性からみられた表現それじたいの拡がりであり、芸術の内容 は<架橋>(自己表出)の時代的、個性的な刻印からみられた表現それじだいの拡がりである」 |
項目ID | 項目 | よみがな | 論名 |
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59 | 芸術の内容と形式 | ないようとけいしき | 第Y章 内容と形式 |
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言語の自己表出の展開(ひろがり)としてみたとき | 言語の自己表出の指示的展開としてみるとき |
項目抜粋 1 |
【2 文学の内容と形式】 D第一に、芸術の内容と形式は、表現せられた芸術(作品)以前にも、以外にももとめることはできない。それ以前または以外に内容と形式の論議をつなぐことは、たとえ<現実>の土台とつなぐばあいでも観念的なスコラ主義にしかすぎない。 第二に、芸術の特質は、表現する者と、表現せられた芸術のあいだの<架橋>(自己表出)の、芸術発生の起源からの連続したうつりゆきのなかにある。この<架橋>の特質が、自然物に手を加え、これを変え、なにかをつくりだし、これから逆に人間の存在がおしつぶされたりする物質性と、精神のそれとを区別するものだ。芸術が<労働>や<労働時間>に等価還元できない特質はこの構造のなかにしかありえない。 第三に、この<架橋>は、自動的ではなく表現する者の社会性、土台とのかかわりによって、時代的な、個性的な刻印をうける。 何故に?それは表現するものが、じぶんの意志とはべつに、ある時代に生きて存在してしまったところからくるし、個性的な刻印は、じぶんの意志とはべつに、ある社会の、ある生活共同体のなかに存在してしまい、自己形成されたという点に由来している。 もしも、現実の人間が、じぶんの意志どおりに(近く)生誕し、じぶんの意志どおりじぶんを実現できるばあいを仮定すれば、時代的、個性的な刻印を無視してもしなくても、いっこうにさしつかえないはずだ。 文学が芸術であるかぎり、この一般的な刻印をまぬかれない。わたしたちは、文学の内容と形式とを、この一般性としての特質のなかで想定できるだけだ。 (P228-P229) E文学の内容と形式は、それ自体としてきわめて単純に規定される。文学(作品)を言語の自己表出の展開(ひろがり)としてみたときそれを形式といい、言語の自己表出の指示的展開としてみるときそれを内容という。もとより、内容と形式とが別ものでありうるはずがない。あえて文学の内容と形式という区別をもちいるのは、スコラ的な習慣にしたがっているだけだ。しかし企図がないわけではない。文学の形式という概念の本質をしることは、じつに文学表現を文学発生の起源から連続してきたうつりゆきとしてみようとする特別な関心につながる。また、文学の内容という概念には、文学を時代的な激変のなかに、いいかえれば時代の社会相とのかかわりあいのうえにみようとする特別な関心につながっている。 (P233) |
項目抜粋 2 |
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備考 |
項目ID | 項目 | よみがな | 論名 |
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60 | 作品の読み方 | さくひんのよみかた | 第Y章 内容と形式 |
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項目抜粋 1 |
F●◎ 灰と化したばかりの紙片は、本物の灰よりはいくらか黒みがかって、ち切れた黒蝶の羽のやうに舞ひ上つた。コスモスの葉と茎は、焼けた紙片をしなやかにうけとめた。老人臭い楓の枝は、骨ばった掌に黒い断片を附着させられては、気むずかしくそれを払い落した。ひそやかに湿地帯にたむろしてゐた風は、焚火に吸ひ寄せられたやうに、庭の片隅から起ちはじめた。(武田泰淳「風媒花」) たとえば、この一節を内容としてみるということは、燃やして灰になった紙片が舞あがって、コスモスや楓にくっつき、また落ちかかって焚火でおこされた風が、庭隅から吹きあがるという言語の指示性が展開してゆくさまを、そこにふくまれている像といっしょにみることを意味している。これはヘーゲルの『美学』がいう二、三の言葉または命題にまとめて提示されるものとはちがって、言語の表現をひとつの自己表出の<架橋>からみるという前提をふくむために、当然、自己表出性と指示表出性の交点にむすばれる像を、わたしのいう内容の概念はふくまざるをえない。 また、この一節を形式としてみることは(この一節の形式とは)、灰になった紙片が黒蝶の羽のように舞いあがり、つぎにコスモスの葉と茎が、その紙片をしなりながらうけとめ、・・・・・・というように作者がそのとおり文字がつくりだす順序と像にしたがって展開されている言語の自己表出の拡がりとしてみることを意味している。このいいかたが難解だとすれば、単純化していいなおすことができる。 ●あるひとりの人間が<海>と表現したとする。このとき<海>という表現の内容とは<海>という言語の指示性に、それがふくむ<海>の像をくわえた総体のことであり、この表現の形式とは、<海>という言語をその人間の自発的な契機による自己表出としてかんがえたものに<海>の像をくわえた総体を意味する。このようにして内容と形式とは、いつもおなじ総体をゆびさすことになる。つまり表現の総体へむかってゆくのだ。 この人間は<海>という表現の即自としての海の概念から、対自的な<海>という表現に<架橋>し、これを対他的な存在までもってゆく。この過程のなかに<海>という表現の内容があらわれる。そして、この人間が、なぜ<山>という概念ではなく<海>という概念を意識したか、というもんだいからはじまり、これを<山>と表現せずに、<海>と表現するばあい、意識がどれだけのうちからでたつよさと撰びとりで<海>と表現したか、いいかえれば意識の自己表出としての面から<海>という表現をかんがえるとき、形式としてみているのだ。 もちろんわたしたちは、この場合<海>という表現を、内容と形式のわかたれない全体性としてみる。そしてこの全体は、ベクトルに分解してみれば、言語の自己表出と指示表出とにわかれる。 |
項目抜粋 2 |
●これをはっきりさせるため、もう一歩だけ複雑にしてみる。 ・a 海だ。 ・b 海である。
・aでは、海という対象の指示性にあるひとつの強調がくわわっている。これがaの内容であり、この海という対象にむかってつよい意識の自己表出性がくわえられたものが、aの形式である。 ・bのばあい、内容は、海という対象の指示性が、助詞「で」によってある客観性を帯び、そのあとにある「ある」という助動詞によって海の指示性が完了するものをさしている。・bの形式とは、自己表出としての「海」という言語が「で」という助詞に接続されて持続し「ある」という助動詞によってひとつの完結感となっておわる言語の自己表出の展開をさしている。 ・aとbとを、たんに文章の意味としてかんがえるのではなく、表現としてかんがえるばあいaの「海だ」は、あるとっさのするどくよびおこされた<海>を想起させ、bではあるゆとりの像をあたえる、というようにちがっている。 (P233-P236) |
備考 |
註1 「もちろんわたしたちは、この場合<海>という表現を、内容と形式のわかたれない全体性としてみる。そし てこの全体は、ベクトルに分解してみれば、言語の自己表出と指示表出とにわかれる。」 註 ・aは、aが文頭にくると大文字になってしまうから。 |
項目ID | 項目 | よみがな | 論名 |
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61 | 文学の内容と形式 | ないようとけいしき | 第Y章 内容と形式 |
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還元にたいして、創出 |
項目抜粋 1 |
Gはじめにおおざっぱないい方をすれば、形式は人間の意識体験が自己表出として拡がり持続されてゆく、その仕方に、ある間接的な基盤をもっており、内容は人間の意識体験が社会にたいしてもつ対他的な関係に根拠をもつとおもう。 だからヘーゲルののべている意味では、人間の意識は、ある時代のある社会的なさまざまな関係と、意識発生のはじめからつみかさねられた厚みによって、それぞれきまってくるものだといっていい。・・・・けれどわたしどもがかんがえるには、芸術としての言語の表出は、ヘーゲルのいうように意識内容の歴史性に還元することができない。還元にたいして、創出が芸術としての言語の表出の性格に対応している。これを<架橋>するものが、わたしたちのいう自己表出にほかならないのだ。 (P236-P237) |
項目抜粋 2 |
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備考 |
項目ID | 項目 | よみがな | 論名 |
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62 | なぜ文学作品が書かれるか | なぜかかれるか | 第Y章 内容と形式 |
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この契機 |
項目抜粋 1 |
@なぜ、文学作品が書かれるか、という問いにたいして唯一のほんとうの答えは、気がついたときすでに言語の表現が、眼のまえに歴史的につみかさねられて存在していたから、ということだ。なぜ、あるものは文学作品を書き、あるものはそれを生涯書かないのか、という問いにたいする唯一のほんとうの答えは、言語の自己表出への欲求が、指示表出への欲求とまじわる契機を創出として展開する理由を、たまたまあるものはもつことになり、あるものはもたなかった、ということだ。この契機はたくさんのじっさいの偶然と必然にあざなわれてたしかに存在している。そこであるものが文学の表現者で、あるものが文学の非表現者だという区別がうまれる。 わたしたちは、文学者であることも、非文学者であることもできる。しかし、かれが芸術としての文学の表現者であるかぎり、意識するかどうかとかかわりなく、また欲求するかどうかにかかわらず、この契機に参加して言語芸術が発生していらいの拡がりと、じぶんのそとにある時代の現在に参加しているのだ。 (P237-P238) |
項目抜粋 2 |
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備考 |
項目ID | 項目 | よみがな | 論名 |
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63 | 音韻・韻律 | おんいんいんりつ | 第Y章 内容と形式 |
検索キー2 | 検索キー3 | 検索キー4 |
項目抜粋 1 |
@言語の音韻は抽出された自己表出であり、韻律は抽出された指示表出であり、等時拍音を特徴とする日本語は、これを音数律にしてリズムのぬきさしならないかたちをつくる。だから五・七・五・七・七や五・七・五は、日本語の表現の歴史のつづまりとしてみれば、それじたいがじゅうぶんに眼にみえない内容と形式の根源になっている。短歌や俳句の音数律は、リードのいうような抽象的形式でなく、それ自体が不可視の文学(芸術)として可視的な文字の表現をつよめる地下水があふれるところだ。
(P239) |
項目抜粋 2 |
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備考 |
項目ID | 項目 | よみがな | 論名 |
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64 | 文学の内容と形式 | ないようとけいしき | 第Y章 内容と形式 |
検索キー2 | 検索キー3 | 検索キー4 |
項目抜粋 1 |
【4 形式主義論争】 Hそれらの論議はどれも文学(芸術)の内容と形式が、表現するものと表現せられた文学(芸術)作品のあいだの<架橋>(自己表出)に根拠をもつもので、表現する人間のじっさいの存在と社会の土台には、この<架橋>(自己表出)を介して濾過されることによってしか、文学の内容と形式に滲入することはないことを勘定にいれられなかった。ここにはひとつの歴史的な制約ともいうべきものがあった。 もともとただの規定だけなら一、二行で片がつく文学(芸術)の内容と形式について論争がおこったのは、形式のあとに内容があるか、内容があって形式がくるかをきめることに、論者たちが思想の命運を左右するような倫理観をかけたからだった。かれらはこういう論議を決着することにじっさいの倫理がはいりこんでくると信じたのだ。でもどうかんがえても文学(芸術)の内容と形式をどう規定するかは理論のもんだいではあっても、倫理のもんだいにはならない。文学についての考察を、ひとつの普遍理論としてさしだすモチーフのないところでは、内容と形式を定義することがそれだけで、スコラ的な無意味なものにすぎない。 (P251) |
項目抜粋 2 |
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備考 |