Part 7
定本 言語にとって美とはなにか U

  (角川選書 199)角川書店 1990/08/07発行



項目ID 項目 論名
65 立場 第X章 立場 第T部 言語的展開(T)
66 立場 第X章 立場 第T部 言語的展開(T)
67 芸術の表現というもの 第X章 立場 第T部 言語的展開(T)
68 立場 第X章 立場 第T部 言語的展開(T)
69 立場 第X章 立場 第T部 言語的展開(T)
70 前提 第X章 立場 第U部 言語的展開(U)
71 立場 第X章 立場 第U部 言語的展開(U)
72 立場 第X章 立場 第U部 言語的展開(U)
73 立場 第X章 立場 第U部 言語的展開(U)













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65 立場 たちば 第X章 立場 第T部 言語的展開(T)
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項目抜粋
1

【1 言語の現代性】

@あるひとつの言語観は、そのうしろにひとつの思想を背おっている。これは、言語がもともと思想を招待する性質をもっているかどうかとはあまりかかわりがないはずだ。言語はただ概念を対象的に指示し、感じたことを表出する完結性があればたりる。

 しかし、言語そのものを対象として言語について論ずることは、たとえ言語をつかってやられても論者を言語のそとにおく。この間の事情をはっきりさせようとするとかなり複雑で難解なことになる。言語を対象としてじぶんのそとにおき、じぶんを言語のそとにおくという表出にまつわる事情を立場として想定してみる。

 わたしは言語学者や言語哲学者がやったとおなじように、言語とはなにかという問いからはじめた。この問いは、立場の発生であって、言語とはなにかを、問おうが問うまいが、言語はたれによっても書かれ、話されている当体だという<事実>へのある位相をもっている。わたしたちは、本稿で言語学者たちが言語について、気づいていないひとつの現代的兆候に気づいていた。

 現代では、人間がある言語を話そうとおもったり、または書こうとおもったばあい、そのじっさいの条件やじっさいの必要性と、それだから人間が言葉を発し、あるいは書くのだという行為とは、はっきりと水準を区別しなければならない。・・・・

 しかし、わたしのかんがえでは、人間がある現実の場面で他人と交通する必要がうまれたことと、かれが、たとえば<わたしに食物をください>とか<きみのいうことは間違っている>と喋言ることとは、まったく別のことだ。それは因果関係でもなければ、欲求が内面から言葉へ連続しておしだされたことでもない。ふたつの水準には乖離がある。そして言語はこの乖離を構造としてあつかわなければならない。

 わたしは、それを言語の自己表出の機軸としてかんがえてきた。 (P254-P255)

Aわたしがこの本でとってきた言語観に立場が象徴されているとすれば、そのいちばんおおきいのは、言語の内部に自己表出を想定することで、言語をひとつの内的構造とみなしたという点に帰せられる。これを言語学者は、言語の情動的な表現法とみなし、人間の心的な状態にのみ帰着させているが、わたしのかんがえではけっして正当とはいえない。 (P256)

項目抜粋
2

B言語の芸術性は、その自己表出性が指示表象と交錯するところにもとがあるのだし、言語は「知的」なものではなく、普遍性を獲得しているという、その度合におうじて抽象的なだけだといえる。わたしのかんがえでは、言語が情緒を表現しているようにみえるばあい、その理由を、こころの態度のなかの情緒におわせるのは誤解だとおもえる。おなじように言語の指示性におわせることもできない。ただ言語の自己表出性におわせられるだけだ。自己表出性といえば、ひとつの架橋だから、言語とこころの態度の両端にまたがり、そのどちらにも足をかけているようにみえる。でもひとたび表現芸術である作品をかんがえるばあいは、こころの態度と表出された言語とのあいだのかけ橋とかんがえるより、表現された言語のもつ構造とみたほうがいいのだ。

 この立場は、ひろくいえば幻想性と現実性のあいだのくいちがいや、質のちがいをはっきりあつかうべきだというかんがえに根ざしている。

 なぜ、わたしたちの時代は、そういうことをしいるのだろうか? (P257)

 わたしたちは、言語が、機能化と能率化の度合をますますふかめてゆく事態にであっている。生産力は高度になり、生産関係はますます複雑になってゆくにつれて、言語の指示機能もまた高度になり能率化されてくる。そのためにはまた明晰だということをもとめられる。
  (P258)


備考

註 「しかし、わたしのかんがえでは、人間がある現実の場面で他人と交通する必要がうまれたことと、かれが、たとえば<わたしに食物をください>とか<きみのいうことは間違っている>と喋言ることとは、まったく別のことだ。それは因果関係でもなければ、欲求が内面から言葉へ連続しておしだされたことでもない。ふたつの水準には乖離がある。そして言語はこの乖離を構造としてあつかわなければならない。

 わたしは、それを言語の自己表出の機軸としてかんがえてきた。」・・・・こういう個所でつまづかないように。表現されたものは、内面やこころに還元できないということ。




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66 立場 たちば 第X章 立場 第T部 言語的展開(T)
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言語の現代での分裂のすがた 自己表出の機軸の導入
項目抜粋
1

C産業語・事務語・論理の言葉、そして日常生活語のある部分で、言語が機能化してゆけばゆくほど、わたしたちのこころの内で、じぶんがこころの奥底にもっている思いは、とうてい言葉ではいいあらわせないという感じはつよくなってゆく。言葉が機能から遠ざかり、沈黙しようとするのだ。こういう言語の現代的な分裂が、生産力が高度になったり、生活が簡便化したといったような、それ自体が誰にもおしとどめえない方位によって救抜されるとはかんがえられない。それは幻想の共同性すべてにわたる根源からの隔たりと遠ざかりを問題にするほかはない。

 こういう言語の現代での分裂のすがたを、言語そのものの内でとらえるために、いままで言及しないですんできた自己表出の機軸をみちびきいれるほかはない。なぜならば、自己表出の極限で言語は、沈黙とおなじように表現することがじぶんの意識にだけ反響するじぶんの外へのおしだしであり、指示表出の極限で言語はたんなる記号だと想定することができる。そして人間の言葉はどんな場面でつかわれても、このふたつの極限のすがたがかさなって存在している。 (P259)

D現在のような時代に、ある表現の幻想部がその現実部と乖離し、分裂したがるのは、個人の表出意識のうちで、それが引き裂かれていることの表象ではありうる。自己表出力は、表出の関係としてある表現を統覚しようとする無意識をかきみだし、それは言語の表出のうちにある歪みをひきおこすといっていい。

 言語を対象までつくられた意識としてみるのではなく、つくられた表現としてみるには言語をうちなる自己表出で、そとなる指示表出だというようにみなすのが有利だ。そしてこの言語のうちの本質は、言語表現の歴史のうちでは連続してうつりかわるといっていい。けれどそとなる本質は、各時代を通じて断続する激変をうける。それは個人を介してだけ時代の現実にむかっているとみていいからだ。

 言語を表出しようとする意識に歪みがあるということは、表現のうちでは、言語の構造が乖離してくることだ。こういう乖離の状態では、自己表出は自己表出の固有性にそってあつかわなければならないし、指示表出は指示表出の固有性にそって、べつべつにあつかわねばならない。

 そこでいえば指示表出は、時代の高度な能率化や機能化の影響をうけとりながら、自己表出としては太古から連続している表現のつみかさなりを背おっているといったことが、おなじ言語のうちでおこりうるといってよい。たとえてみれば、高度な文明社会のなかで古代遺制をとてもおおきく背おった政治権力が実在できるようなものだ。 (P265)

項目抜粋
2
註 「こういう言語の現代での分裂のすがたを、言語そのものの内でとらえるために、いままで言及しないですんできた自己表出の機軸をみちびきいれるほかはない。なぜならば、自己表出の極限で言語は、沈黙とおなじように表現することがじぶんの意識にだけ反響するじぶんの外へのおしだしであり、指示表出の極限で言語はたんなる記号だと想定することができる。そして人間の言葉はどんな場面でつかわれても、このふたつの極限のすがたがかさなって存在している。」
備考




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67 芸術の表現というもの げいじゅつのひょうげん 第X章 立場 第T部 言語的展開(T)
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1

【ルナチャールスキイ、トロツキイを引用して】

@こういった論議の主題では、たいせつなところは社会のじっさいのすがたにたいしてどんな表現の位相をとっているか、また人間が観念でつくりだす芸術は共通な時代のすがたにたいしてどんな表現の位相をとるかということだけだ。現代ではおなじ個人のこころの内でも、また時代の共通したすがたの内でも分裂し、乖離することがある。これがどこからくるのかについて、ヘーゲルの『美学』の嫡流たちがいうほど、たしかなきまりがみつかるわけではない。おおざっぱにいえば、芸術の表現というものは、時代の社会のじっさいの構成にも、また、時代の幻想の共通なすがたにも関係したいと願いながら、しかもこのどちらにも身をよせようとはしない矛盾した領域だけを、いつの時代でも択びたがる性格をもっていることだけがたいせつなのだ。 (P264)

項目抜粋
2
備考





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68 立場 たちば 第X章 立場 第T部 言語的展開(T)
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1

【2 自己表出の構造】

E(一) 対象指示性の歪み

 自己表出が言語に作用する仕方は、話体では、意識の強弱がそとにあらわれたアクセントということができよう。このアクセントという意味は有声音か無声音かにかかわらない意識の強弱のリズムをさしている。ただ、書き言葉としての話体か、話し言葉としての話体かが、有声と無声を区別するだけだ。

 「静かにしてください」という話体の表現は、指示性としては<静かにしてください>という意味しかもたない。しかし総体的な表出としては、さまざまにちがった意味をもつ。たとえば<静かにして>に強調がくわわり<ください>に弱調がくわわれば、この指示性は、たしなめや懇請のアクセントをもった総体的な意味になる。

 逆に<静かにして>に弱調がくわわり<ください>に強調がくわわれば、叱責、非難のアクセントをはらんだ総体的意味になる。こういった微細な変化は、それぞれのそれぞれの形容詞・動詞・助詞のアクセントをかえていくことで微妙にかわることがわかる。ここには自己表出のひとつの構造があらわれる。

  (P266)

Fなぜ、たとえば<静かにしてください>という叱責、非難のアクセントをはらんだ表現が<静かにしろ>という不定強命令形にうつらず、それとはべつに独立して存在できるのだろうか?

 このちょっとかんがえるとささいな問いのなかに、自己表出という軸をみちびき入れることではじめてわかってくる言語の問題をみることができる。・・・・

 言語にはこういう対象指示のうごきと、その時代の共同の幻想が表出されるうごきとによってはさまれている。だから言語を決定しているもうひとつのうごきは、歴史的につみかさねられてきた共同の意識の現在のすがただといえる。これは自己表出の現在のすがただといってもよい。言語は指示する対象にかこまれていると同時に表出された現在の幻想にもかこまれている。じつは、これが<静かにしてください>と<静かにしろ>とのあいだに無数の総体的な意味の移行がかんがえられるもとになっているのだ。

 このことは、文学体の言語では、喩のうつりゆきとしてあらわれている。 (P267-P268)

項目抜粋
2

G(二) なぜある表現は像をよびおこし、ある表現は概念をよびおこすか

●創造のばあい、これはつぎのように体験される。

 たとえば、ある情景が像として鮮明にあり、その情景にまつわるじっさいの体験があって、これにもとづいて一編の詩をかこうとする。このばあい、情景の像がこころの状態として鮮明であればあるほど、言語で表現されたものは像をよびおこす可能性がおおいという保証がないことに気づく。そしてこころにはっきりと像の状態があれば、表現のうえで像をよびおこせるものかどうかは、表現する過程で、言語に収斂されるこころの像が、とても持続して言語に定着される時間まで存在できたかどうかに、あるかかわりをもつようにかんがえられる。こころの像は、表現されるとすぐこころの状態に還元されて消失する。と同時に言語は像としての構造をもつようになる。

 だからなぜ、あるばあいに言語はつよい像をよびおこし、あるばあいによりよわい像がよびおこされるか、といいなおすべきかもしれない。 (P270)

●わたしの理論的な想定では、この問題はつぎのようになる。

 表出された言語の自己表出力の対象指示性との交点が、言語の現在の帯域のそとにあるとき、その表現は像をよび、そのうちにあるときは概念の外指性しかもたないというように。

●わたしたちは、幻想の共同性がつみかさねられてきた現在と、社会のじっさいのすがたが発展してきた現在とが乖離しているという意識を、じぶんの意識がそとにあらわれたものとして、言語の表出のばあいにねじあわせようとしているといえる。このねじあわせがじぶんの意識のなかで可能だとおもえたとき、そこでの捩れの緊迫性が、言語に現在的な像をよびおこすとみられる。 (P273-P274)


備考




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69 立場 たちば 第X章 立場 第T部 言語的展開(T)
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1

【3 文学の価値(T)】

H●ここでリチャーズのかんがえから、ただ表現という思想がないことだけを問題にすえれば充分だとおもう。リチャーズの論議では、芸術は倫理にむすびつき、精神状態や活動とじかにかかわりをもつことになる。芸術は、それだけでそとに対象化する過程をふくむからじかにはどんな表象ともむすびつかないはずなのだ。

 表現という表象は、リチャーズのように芸術を精神状態の秩序化 (体制化)とかんがえても、そうでなくても、精神状態を精神状態の方へ、また行動の意識を行動の意識のほうへ、創造の意識を創造の意識の方へ押しかえすことで、じぶんじしんは精神状態のそとにあらわれるのだ。だから、倫理や活動の精神状態とそのままの糸で、芸術の表現とむすびつけることはできない。

●さきに、わたしたちは言語の価値についてかんがえてきた。

 言語の価値という概念は、そのまま文学の価値 (芸術の価値)というかんがえにひろげられるだろうか?

 もちろん、できるはずだ。しかし、言語の価値という概念は、意識を意識の方へかえすことによってはじめて言語のうちがわで成り立つ概念で、その意味では言語は意識に還元される。しかし、言語の芸術的な表現である文学の価値は、意識に還元されない。意識のそとへ、そして表現の内部構造へとつきすすむ。そこでは、言語の指示表出は、文学の構成にまで入りくんだ波をつくり、言語の自己表出は、この構成の波形をおしあげたり、おしさげたりして、これにつきまとうインテグレーションをつくっている。だから言語の価値を還元という概念から、表出という概念の方へ転倒させることで、文学の価値はただ言葉のうえからは、とても簡単に定義することができる。自己表出からみられた言語表現の全体の構造の展開を文学の価値とよぶ。  (P281-P282)

●文学の価値は、それぞれの鑑賞者にとっては、いつも個別的なものだ。だがこの個別性は読みこんでゆくかぎり文学表現の価値に収斂するほかに収斂の方向はかんがえられない。  (P282)

項目抜粋
2

「ここでことわっておかなければならないが、わたしは、本稿の当初からしばしば、<表象>という言葉をつかっている。ところで、芸術論(たとえば「言語にとって美とはなにか」)では、おなじことを<表出>という言葉でのべている。・・・・わたしの<表象>あるいは<表出>という言葉は、<疎外>すなわち<疎外>の止揚の欲求を意味している。ただし、現実的なカテゴリーでの<疎外>(疎外された労働)という誤謬の<疎外>をまったく意味していない。

 まず、人間と自然との相互規定としての<疎外>が、マルクスの自然哲学の根源としてあり、それが現実の市民社会に<表象>されるとき、<疎外された労働>から派生する現実的な<疎外>の種種相があらわれる。

 市民社会の<自己意識>(いいかえれば共同意識)は、あたかも、共同性の意識の<表象>として現実的国家を<疎外>する。ところで、市民社会の<自己意識>は、あたかも宗教として神という至上物を<疎外>するように、市民社会の至上の<自己意識>として政治的国家制度、政治的国家、法を<疎外>するのである。

 これを宗教、法、国家という歴史的な現存性への接近としてかんがえるとき、政治(哲)学のもんだいがあらわれる。<表象>あるいは<表出>あるいは<疎外>は、すなわち<表象>あるいは<表出>あるいは<疎外>を打消す反作用である。」 (『カール・マルクス』)  (P142-P143「Y」)

備考

註1 「表象」という言葉の位相、概念について、まだよくつかめていない。疎外・表象(『カール・マルクス』?)で  

      いわれたこととおなじかどうか?

註2 吉岡実の詩「牧歌」に触れたP259-P261と、清岡卓行の自作の技術的な註釈に触れたP283-P288での、    吉本の読みの深さ、構造について。

註3 「自己表出からみられた言語表現の全体の構造の展開を文学の価値とよぶ。」




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70 前提 ぜんてい 第X章 立場 第U部 言語的展開(U)
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前提は、文学(芸術)についての問題の提出の仕方
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1

【1 文学の価値(U)】

@●文学 (一般には芸術)作品の価値は、はっきりと自己表現と指示表現がまじわる表現の意識の相乗空間が、時間の流れにそって変化してゆくインテグレーションによって確定される。それはたれにも疑うことができない性格をもっている。

●でもこの種の問題について文学(芸術)の理論がとってきた見解の範囲は、わたしたちにはどんな未知数もふくんでいない。問題をだす仕方をかえないかぎり、いままでに文学(芸術)の理論が、文学(芸術)にあたえた価値や、狙いは、ある幅のなかに包括させることができる。それだからほんとうにこの課題にせまる前提は、文学(芸術)についての問題の提出の仕方であり、この仕方だけが、理論にとってはいつも未知数のものとしてあるといってよい。もしもわたしたちの企てに、他とちがう特徴があるとすれば、すでに既知の幅のなかにある問題の提出の仕方をとらなかったという前提だけだといっていい。  (P291)

項目抜粋
2
備考




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71 立場 たちば 第X章 立場 第T部 言語的展開(T)
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1

2 理論の空間】

Iわたしたちが立場というとき、それは世界をかえようという意志からはじまって世界についてさまざまな概念をかえようとするまでの総体をふくんでいる。文学(芸術)についてのさまざまな概念をかえるためにも、立場はなければならないし、またどうしてもあることになってしまう。  (P297-P298)

項目抜粋
2
備考




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72 立場 たちば 第X章 立場 第T部 言語的展開(T)
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像意識
項目抜粋
1

【3 記号と像】

Jわたしは言語を記号としてみずに、構造とみなしてきた。記号性はただたんに言語の構造に包まれて存在しうるだけである。しかし混乱は言語と像についてたくさんの不明晰なものをのこしている。まだ、この領域では、それぞれが任意の出発点からちがった終点にむかって走っているだけの段階にしかいない。確定したものは、なにひとつない。

 わたしたちは、言語を表現の対象とみなしてきた。また言語の像を、自己表出と指示表出のまじわる場面として表現の像のなかにかんがえてきた。この考えの方法はわたしたちに固有のものであることが、さまざまな理由から想定できる。 (P298-P299)

【サルトル『想像力の問題』の、記号と像の考察を引用して】

K●すでに、わたしたちの考察がこれと逆になることはあきらかだ。わたしたちのかんがえでは、<事務室>という文字がかかれていれば、書き手の自己表出と指示表出の錯合なのだ。

 そして<事務室>とかかれている文字をよむものは、その文字を構造としてよむので、この文字によって喚起される事務室の像は、甲と乙と丙とではちがった無数の多様さでありうる。この多様さをみちびきだすのは、体験的な記憶であるとよんでもおおざっぱにいえばいいとしても、けっして<習慣>の力などではない。

 <事務室>という文字をまえにして、甲と乙と丙とが、それぞれ無数の事務室の像をおもいうかべられるものとすれば、甲と乙と丙との体験的な記憶の強さによるとかんがえられそうだが、げんみつにいえば、甲と乙と丙とが現在まできた自己史のちがいによっている。 (P300)

項目抜粋
2
●サルトルは、もちろん<シャルル八世>とかかれた文字の記号性とかんがえたために、絵画<シャルル八世>を対象にえらんで像を考察したのだ。しかし、わたしたちは、そうはかんがえてこなかった。言語表現<シャルル八世>は、シャルル八世という歴史上の人物を指示するとともに、それぞれがもっているシャルル八世についての印象の総和をあたえるものとかんがえてきた。しかし、ここまではサルトルのいう記号のもつ習慣の力とか、印象の綜合とすいう概念で問題にすることができるものだ。だがわたしどものかんがえでは、言語表現<シャルル八世>は、それぞれの個人がもっている印象の像から離脱して、表現したものの<シャルル八世>についての像意識に収斂してゆくものだ。この像意識は、表現者の歴史的な現在の構造のうえにたっており、そこに言語の普遍的な問題があらわれる。サルトルのように像意識が、人間の自由にかかわるというならば、像は人間の自立の構造にかかわるのだ。   (P303)

備考 註1 「この像意識は、表現者の歴史的な現在の構造のうえにたっており、そこに言語の普遍的な問題があらわれる。サルトルのように像意識が、人間の自由にかかわるというならば、像は人間の自立の構造にかかわるのだ。」




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73 立場 たちば 第X章 立場 第T部 言語的展開(T)
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項目抜粋
1

Lわたしどもの表現という概念は、この人間の歴史的な現在の構造にかかわりながら、この構造を人間の現実的な存在の方へおしかえすことによって、みずからは言語表現そのものの構造に転位したものをそしている。

 いま、甲が<シャルル八世>と文字に表現した。おなじように乙も<シャルル八世>と文字に表現した。サルトルの記号概念からはこのふたつは、まったく等価でなければならない。この<シャルル八世>を白い紙にかかれた黒い線としてかんがえるかぎり、この記号はたんに論理学の法則にしたがうだけであり、それ以外の関係はもとめられないからである。わたしたちの考察してきたところでは、甲の表現した<シャルル八世>と、乙の表現した<シャルル八世>は、けっして等価ではない。なぜならば、それは自己表出と指示表出の根拠から逆方向に転位された、表現の構造だからである。

 どのようにして、なぜ、甲の<シャルル八世>と乙の<シャルル八世>とを区別し、価値としてちがった<シャルル八世>をみちびけるのか?

 この表現が音声であるばあいには、抑揚の多様性がそれを根拠づけるだろうし、文字であったばあいには、<シャルル八世>という表現が、それを中心にしてえがく前後の表現の拡がりが、言葉<シャルル八世>の価値にむかって集中するだろう。

 わたしたちは像を言語の構造にくっつけてかんがえてきた。それは、まず像を表出の概念として意識にむすびつけることによって、つぎに表出を還元から生成へと逆立ちさせることでできるとしてきた。わたしたちは、こころの構造とそのさまざまな現象について、たくさんの考察をのこしているが、表現の構造についておもな原理のうえの問題は提出してきた。 (P304-P305)


項目抜粋
2



備考




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