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ID | 項目 | よみがな | ID | 項目 | よみがな | |
4 | 表象 | ひょうしょう | ||||
5 | 表出 | ひょうしゅつ | ||||
9 | 表現 | ひょうげん | ||||
12 | 文学の価値 | ぶんがくのかち | ||||
20 | 不関的 | ふかんてき | ||||
33 | < > | パーレン | ||||
41 | 反作用 | はんさよう | ||||
61 | 不関 | ふかん | ||||
64 | 表象 | ひょうしょう | ||||
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4 | 表象 | ひょうしょう |
項目抜粋 | @『定本 言語にとって美とはなにかU』(角川選書200) P280−281 ・「価値という表象の次元は、論理からいってじっさいの精神倫理とはじかにむすびつかないはずなのだ。」 ・「芸術は、それだけでそとに対象化する過程をふくむからじかには(「じかには」に傍点)どんな表象ともむすびつかないはずなのだ。」 ・「表現という表象は、…・精神状態を精神状態の方へ、また行動の意識を行動の意識のほうへ、創造の意識を創造の意識の方へ押しかえすことで、じぶんじしんは精神状態のそとにあらわれるのだ。」 A『カール・マルクス』 ・ここでことわっておかなければならないが、わたしは、本稿の当初からしばしば、<表象>という言葉をつかっている。ところで、芸術論(たとえば「言語にとって美とはなにか」)では、おなじことを<表出>という言葉でのべている。…・わたしの<表象>あるいは<表出>という言葉は、<疎外>すなわち<疎外>の止揚の欲求を意味している。ただし、現実的なカテゴリーでの<疎外>(疎外された労働)という誤謬の<疎外>をまったく意味していない。 まず、人間と自然との相互規定としての<疎外>が、マルクスの自然哲学の根源としてあり、それが現実の市民社会に<表象>されるとき、<疎外された労働>から派生する現実的な<疎外>の種種相があらわれる。 市民社会の<自己意識>(いいかえれば共同意識)は、あたかも、共同性の意識の<表象>として現実的国家を<疎外>する。ところで、市民社会の<自己意識>は、あたかも宗教として神という至上物を<疎外>するように、市民社会の至上の<自己意識>として政治的国家制度、政治的国家、法を<疎外>するのである。 これを宗教、法、国家という歴史的な現存性への接近としてかんがえるとき、政治(哲)学のもんだいがあらわれる。<表象>あるいは<表出>あるいは<疎外>は、すなわち<表象>あるいは<表出>あるいは<疎外>を打消す反作用である。 (P142-P143「Y」) |
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備考 | 語義・@象徴におなじ。 A普通には、知覚にもとづいて意識に現われる外界対象の像。表象は感覚的・具体的な点で概念や理念と区別される。観念も表象と同意味に用いられる場合がある。 (広辞苑 第二版補訂版) |
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5 | 表出 | ひょうしゅつ |
項目抜粋 | @『定本 言語にとって美とはなにかU』(角川選書200) P304−305 ・「わたしたちは像を言語の構造にくっつけてかんがえてきた。それは、まず像を表出の概念として意識にむすびつけることによって、つぎに表出を還元から生成へと逆立ちさせることでできるとしてきた。」 A |
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備考 | 語義・@精神活動の動きが外部に表われること。 A表現に同じ。 (広辞苑 第二版補訂版) |
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9 | 表現 | ひょうげん |
項目抜粋 | @『定本 言語にとって美とはなにかU』(角川選書200) P304 ・「わたしどもの表現という概念は、この人間の歴史的な現在の構造にかかわりながら、この構造を人間の現実的な存在の方へおしかえすことによって、みずからは言語表現そのものの構造に転位したものをさしている。」 |
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備考 |
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12 | 文学の価値 | ぶんがくのかち |
項目抜粋 | @『定本 言語にとって美とはなにかU』(角川選書200) P282 ・「自己表出からみられた言語表現の全体の構造の展開を文学の価値とよぶ。」 |
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備考 |
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20 | 不関的 | ふかんてき | 不関 |
項目抜粋 | @『言葉からの触手』(16指導 従属 不関【ルビ イナートネス】) ・いまでもわたしたちは、どこかにあり、どんなひとがそこにいて、どんなメカニズムでうごいているのかわからない架空の装置から命令され、指導され、その声のまにまによかれあしかれ従属している部分と、そんな声など聞こえもしないし、またまったく不関的【ルビ イナート】だという部分とに分割されている。この分割はひととひととを別れさせ、対立させ、隔絶させてることもあれば、ひとりのこころの内部で、自己矛盾や混乱や病的な振舞いをひきおこしてることもある。そしてどちらかの部分に歩みよってゆくか、どちらの部分にも行けないで、困惑したまま佇ちつくしているか、そのいずれかしかないようにみえる。 A『共同幻想論』(河出書房新社 P246) ・わたしのかんがえでは、魏志の邪馬台国家群はかなり高度な新しい<国家>の段階にあるとみるべきであって、すこしもその権力の構成は<原始>的ではない。しかしそれにもかかわらずその<共同幻想>の構成は上層構造部分で強く氏族的(あるいは前氏族的)な遺制を保存している。そしてその保存の仕方は、邪馬台についてみればきわめて呪術的で政治権力にたいして不関的であるとさえいえる。いいかえれば世襲的な王位の継承はおそらくは宗教的あるいはシャーマン的な呪力の継承という意味が強大であって、かれら自身によっても政治権力の掌握とは一応別個のものとかんがえられていた公算がおおきい。そして邪馬台が女王権を保持したという記録は、この世襲的な呪術的王位の継承に関するかぎりは氏族的(前氏族的)な<兄弟>と<姉妹>が神権と政権を分担する構成を保存していたとみることができる。 B『柳田国男論集成』(JICC出版局 P93) ・『重右衛門の最後』にはもうひとつ柳田の関心をひくことがあった。また花袋はそれをよく知っていたとおもえる。それは重右衛門がぐれるのも、放蕩するのも、火つけや脅迫の犯罪的な行為も、その死の悲劇でさえも、自然の風光の真っ只中に、ぽつんと孤独におかれた人間という位相でおこった出来事だということだ。これはすくなくとも柳田の無意識の方法にかなうものだった。斜め上方から俯瞰される自然の風光ので、実物大よりもややちいさく視える重右衛門が、荒れ狂い、村人を憎悪し、生まれながら腸が睾丸に垂れさがっているわが肉体を呪い、火をつけ、酒を喰らっている姿が、像【ルビ イメージ】として鮮やかにうかんでくる。いわば風光のなか(風光の無関心【ルビ イナートネス】のなか)で、もっとも人間臭い、もっとも悲劇的な行為が、重右衛門を不可避に〈死〉へつれてゆく有様がみえてくいる。これこそが柳田が『重右衛門の最後』にみていたものの本質であった。花袋はそれをよく心得ていたとおもえる。 (P93) |
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備考 | ・辞書にないようだ。 ・新英和中辞典(研究社)…・「inert」(形)「ラテン語「技術のない」意から、1理・(物質が)自動力がない 2化・活性のない化学作用を起こさない:〜gases不活性気体 3(人・心など)鈍い、緩慢な、不活発な、のろい(inactive).〜ly副 〜ness名」 |
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33 | < > | パーレン |
項目抜粋 | @『心的現象論序説』(北洋社)(S46.9.30 )P186-P187 ・<概念>作用の空間化度は、知覚作用の空間化度とは質的にまったくちがっているとみなされる。もし<概念>の構成にとって、ある空間化度を想定することが必要だとすれば人間の心的領域の対自的な抽象(作用)を、対象として措定した空間化度の一系列ということになる。いいかえれば自己の自己抽象にたいする空間化度が<概念>の空間性である。 おなじように<概念>の時間化度は、抽象(作用)にたいする了解の時間化度である。いいかえれば自己の自己抽象にたいする了解の時間性である。そこで、心的現象としての<概念>を、つぎのように定義することができる。 心的現象としての概念とは自己抽象にたいする自己対象的な空間化度と時間化度の錯合した構造である。 (P186-P187) |
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備考 |
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41 | 反作用 | はんさよう |
項目抜粋 | @『カール・マルクス』 ・全自然を、じぶんの<非有機的肉体>(自然の人間化)となしうるという人間だけがもつようになった特性は、逆に、全人間を、自然の<有機的自然>たらしめるという反作用なしには不可能であり、この全自然と全人間の相互のからみ合いを、マルクスは<自然>哲学のカテゴリーで、<疎外>または<自己疎外>とかんがえたのである。これを、市民社会の経済的なカテゴリーに表象させて労働するものとその生産物のあいだ、生産行為と労働(働きかけること)とのあいだ、人間と人間の自己自身の存在のあいだ、について拡張したり、微分化していても、その根源には、かれの<自然>哲学がひそんでおり、現実社会での<疎外>概念がこの<自然>哲学から発生していることはうたがうべくもない。(P108「U」) ・単純な具体的な労働は、加工された自然物(生産物)を、労働者の外に、また労働するという対象化行為を、労働そのものの外に、また総体的に労働する者を、自然の外に置き、そのことによって労働者を自己自身の外に、人間の存在を、その普遍性の外におくという反作用をもたらすのである。 ところで、単純な具体的な労働をする<かれ>が、労働によって全体的に対象的世界と<疎外>関係にはいるとき、かれは、必然的に<他の人間>との関係において、それを表象するほかない。この<他の人間>は、資本家として結果的に表象されるのである。 (P146「Z」) ・疎外という概念は、マルクスによって、ある場合には、非幻想的なものから幻想性が抽出され、そのことによって非幻想的なものが反作用をうけるという意味で、またあるばあいには、人間の自然規定としてぬきさしならぬ不変の概念であり、したがって人間の自己自身にたいするまた他の人間にたいする不変の概念として、またあるばあいには、<労働>により対象物と<労働者>とのあいだに、したがってその対象物を私有するものとのあいだに、具体的におこる私的な階級の概念としてつかわれているが、もちろんかれの思想にとって重要なのは、それがどのようにつかわれていても、累積と連環によって他の概念におおわれているという点にあった。そこにマルクス思想の総体性が存在している。(P149-P150「Z」) |
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備考 |
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61 | 不関 | ふかん | 不関的 |
項目抜粋 | @『母型論』学研 ・母の形式は子どもの運命を決めてしまう。この概念は存在するときは不在というもの、たぶん死にとても似たものだ。母の形式は種族、民族、文明の形式にまでひろげることができる。また子どもの運命は、生と死、生活の様式、地位、性格にまでひろげられ、また形式的な偶然、運命的な偶然の連関とも不関とみなせる。この決めにくい主題が成り立つ場所があるとすれば、ただひとつ、出生に前後する時期の母親と胎乳児とのかかわる場だとみなされる。 (P10) |
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64 | 表象 | ひょうしょう |
項目抜粋 | @『戦後詩史論』大和書房 1978.9.15 ・<古典的>という概念が伝統のなかでとりあげられるばあい、すぐに優雅で、古尚で、艶で、物哀れで、繊細でといった表象があげられる。この表象の強力なパターンは大規模な風俗の感受性によってこしらえられたものである。 (P244) |
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