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外挿 がいそう
階段 かいだん
18 擬定 ぎてい
22 蓋然性 がいぜんせい
25 悟性 ごせい
26 構造的位相 こうぞうてきいそう
30 外延 がいえん
34 記憶 きおく
35 記憶 きおく
44 現実 げんじつ
47 言語表現の時間性、空間性 げんごひょうげんのじかんせい、くうかんせい
49 関係意識 かんけいいしき
53 権力 けんりょく
54 格率 かくりつ
56 機序 きじょ
68 個体  こたい         



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6 外挿 がいそう


項目抜粋 @『定本 言語にとって美とはなにかU』(角川選書200) P16
 
・「「太古」の詩の発生をかんがえるばあいは、記紀歌謡のうしろに民謡の流れをかんがえ、それを「太古」のほうへ発展段階として外挿する考え方は拒否したほうがいい。詩の発生のもとのかたちは、記紀歌謡とはまったくほかに、独立してあつかうべきだ。それは、まったく理論として想像的な土壌のもんだいになる。そして、土壌ということがまた想像的な理論であることが、そのうえでもんだいにされるべきだ。」

A
備考 語義・@





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7 階段 かいだん


項目抜粋 @『定本 言語にとって美とはなにかU』(角川選書200) P35
 
・「祭式行為のなかでは、人間の自然にたいする畏怖の意識と、人間のじぶんじしんにたいする対立の意識を象徴する物神としての人物と族長としての人物(原始的な階段では、おそらく同一人物である)のシンボルは、現実の行為のばあいとおなじように存在していた。」
備考 註 「階段」は「段階」の誤り?






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18 擬定 ぎてい


項目抜粋 @『共同幻想論』(河出書房新社 P215)

・問題は『古事記』の神話におけるスサノオがなぜ後代に<天つ罪>とよばれるようになった<罪>を負荷されているのか、そして<天つ罪>とはなにを意味するか?ということにかかっている。
 スサノオは『古事記』のなかでアマテラスの<兄弟>として擬定されるとともに、農耕部民の始祖として出雲系に接続されている。そしてなぜ稲作農耕が行われた以後の時期における統一的な政治権力によって、種族の始祖に擬定されている女神アマテラスの<兄弟>に<天つ罪>を負荷させたのかという問題におきかえることができる。
備考 註1.国語辞典3種類くらいあたったが、記載なし。新漢和辞典(大修館)にあり。「はかり定める。案を定める。」






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22 蓋然性 がいぜんせい


項目抜粋 @『心的現象論序説』(北洋社)(S46.9.30 )P72
 
・心的現象の<異常>と<病的>とを区別しうるか?こういう課題にたいしてフロイドのような徹底的な体系でさえ<リビドー>への還元と、区別の不確定さを余儀なくされているのは、それが蓋然性の体系をつくりあげる以外に治療可能性をもちえなかったという臨床的な体験に根ざしている。
備考 語義・@(probability)ある事が実際に起こるか否かの確実さの度合。A確率
        (広辞苑 第二版補訂版)






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25 悟性 ごせい


項目抜粋 @『心的現象論序説』(北洋社)(S46.9.30 )P106
 
・このようにして、心的現象としての灰皿は、視覚による知覚作用のはんい内で、純粋視覚ともいうべきものにまで結晶しうることがわかる。この<純粋視覚>は、対象とする灰皿と、対象的な視覚なしには不可能であるが、視覚のはんい内で対象と対象への加工のベクトルが必然的にうみだす構造であり、その意味では、わたしにとっての灰皿と、灰皿にとってのわたしとがきりはなすことができないところでだけ成立する視覚を意味している。
 この<純粋>化作用は、けっして客観的物体にたいする感官の作用、いいかえれば対象的知覚作用のはんい内でだけかんがえられるのではない。古典哲学が理性とか悟性とかよんでいるものの内部でもおこりうるものということができる。
備考 語義・@論理的に考える能力。特に理性と区別し、経験に対する志向の働きをいう。
 国語辞典・福武書店






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26 構造的位相 こうぞうてきいそう


項目抜粋 @『心的現象論序説』(北洋社)(S46.9.30 )P106-P107
 
・ここで、純粋疎外の心的領域が、けっして原生的疎外の心的領域の内部に存在するとかんがえているのではない。それとともにその外部に存在するとかんがえているのでもない。構造的位相として想定しているのである。いいかえれば内部か外部かという問いを発すること自体が無意味であるように存在すると想定している心的な領域である。 (註-存在するというのは実在するという意味ではない。)
備考






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30 外延 がいえん


項目抜粋 @『心的現象論序説』(北洋社)(S46.9.30 )P139

・これにたいし、嗅覚や味覚や触覚が、ある種の動物で、ある対象にたいしてのみ異常に遠隔化されうるとすれば、この動物が、そのばあい高度化された空間概念を所有しているからではない。むしろこのばあい動物は対象を<近隔化>して、じぶんの<身体>の外延に転化しているのだ。猫や犬がある摂取すべき対象にたいして、異常に鋭敏な、遠くからの嗅覚をもっているとすれば、その遠くにある対象は猫や犬にとって<身体>のとどく延長にほかならないといえる。そして、猫や犬の嗅覚は、べつの対象に対しては異常に鈍感でありうるのだ。ここでは感覚の空間化度は低く、等質性をもちえない。極端にいえば、対象ごとに異質な空間性をもっているだけである。  (P139)
備考 語義・@その概念が適用される事物の全範囲。たとえば、芸術という概念の外延は、文学・音楽・絵画・彫刻・演劇など。 (対 内包…・内部につつみもっていること。一つの概念の範囲に含まれるものすべてがもつ共通の属性) 
 国語辞典・福武書店






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34 記憶 きおく


項目抜粋 @『心的現象論序説』(北洋社)(S46.9.30 )P194 232-233 238 267
・ここで、まず、ひとつの問題がおこる。
 <入院ですか>という場合、<です>というとき前の<入院>という言葉の概念を<記憶>しているのだろうか?また<か>と発語するとき、その前に発語した<入院です>という語の概念は<記憶>されているのだろうか?
 ベルグソンのようにいえば意識の持続の変化する線に沿って<記憶>が現在化されることは承知するだろう。しかし<記憶>という概念はわたしたちの考察にはそぐわない。   (P194)

・ところで、フロイドは〈幼時記憶〉というように、〈記憶〉という言葉を便宜的に無造作につかっている。しかし、〈記憶〉というものは、幼年のときにじっさいあったことを、何十年もあとで覚えているといった意味ではもともと存在しない。一般に〈記憶〉とよばれているものは、心的なパターンということにほかならない。そしてわたしたちが心的なパターンをもっているのは、それが世界にたいする関係の結節を意味しているからである。つまり、わたしたちはなんらかの意味で世界に対する関係づけのキイ・ポイントとしてしか〈記憶〉を保存しないし、逆の云い方をすれば〈記憶〉されるものは、それが夢であれ、言葉であれ、出来事であれ、すべて世界にたいする人間の関係づけの結節だけである。   (P232-P233)

・もちろん、フロイドならば〈幼児記憶〉の〈無意識〉による保存として〈幼児体験〉に意味があるのと、おなじように意味があるとなるはずである。しかし、〈記憶〉とか〈無意識〉とかいう概念をもちいないとすれば、フロイドの解釈ははじめから拒絶される。わたしたちはこの心的に保存されたパターンを心的な固有了解と固有関係とかんがえたいのである。  (P238)

・友人Aが〈わたし〉との関係で印象深い場面における〈心像〉であらわれるとすれば、この場面の友人Aは、記憶の連鎖によって〈わたし〉の〈心像〉をよびおこすのではないか、といった心理学的な理解の仕方ができそうな気がしてくる。けれどじっさいはそんなことはない。〈心像〉にあらわれるこの印象深い場面は、ただ、〈わたし〉と友人Aの関係の結節点として、現在のわたしの〈心像〉にやってくるので、過去の記憶像が現在に再生するわけではない。ただ〈心像〉が、記憶とむすびつけられやすいのは、知覚(視覚)の形像として〈心像〉を截断しようとすると、〈心像〉は、たんに不鮮明な知覚(視覚)像の別名としてみなされやすいからである。そのため、この不鮮明さが、過去の記憶の不鮮明さと対応するかのように錯覚されてくる。それは遠くへだたった視覚の対象は、小さく不鮮明にみえるという経験的な事実から、〈心像〉を不鮮明な視覚像として類推しやすいという理由によっている。    (P267)
備考 註1.「しかし<記憶>という概念はわたしたちの考察にはそぐわない。」






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35 記憶 きおく


項目抜粋 『定本 言語にとって美とはなにかU』(角川選書200)

・【サルトル『想像力の問題』の、記号と像の考察を引用して】
 すでに、わたしたちの考察がこれと逆になることはあきらかだ。わたしたちのかんがえでは、<事務室>という文字がかかれていれば、書き手の自己表出と指示表出の錯合なのだ。
 そして<事務室>とかかれている文字をよむものは、その文字を構造としてよむので、この文字によって喚起される事務室の像は、甲と乙と丙とではちがった無数の多様さでありうる。この多様さをみちびきだすのは、体験的な記憶であるとよんでもおおざっぱにいえばいいとしても、けっして<習慣>の力などではない。
 <事務室>という文字をまえにして、甲と乙と丙とが、それぞれ無数の事務室の像をおもいうかべられるものとすれば、甲と乙と丙との体験的な記憶の強さによるとかんがえられそうだが、げんみつにいえば、甲と乙と丙とが現在まできた自己史のちがいによっている。 (P300)
備考 註1.
「一歳未満までの問題は、音と共に生ずる映像というもので、言葉とおなじ作用を受けとってくる段階だとおもいます。胎児でいえば、母親の胎内でいちばんの音は心臓の心音でしょう。もちろん、母親から伝わってくる胎内でのいろんな音もちゃんとわかっている。母親の言葉もすくなくとも胎児のある段階以上はわかって、それで聞こえちゃったものをどのように保存するかというと、
聴覚の映像音から生じる映像でもってわかって、溜め込んでいる状態だとおもうんです。母親とか父親のほうは言葉として聞かせているんでしょうが、胎内の子どもはそれを言葉として受けとるのではなく、聴覚の映像として憶えているとおもいます。一歳未満までいってもう言葉を覚える段階になったら、それがわかっちゃうみたいなことになるとおもいます。いまに母親ならだれでも、たとえば胎児に外国語を覚えさせようとかやりだすでしょう。要するに聴覚映像というのはもっとも先に、言葉を覚える前の言葉としてやってくるようにおもいます。それはもうどうしても人間の精神の「核」にできあがっちゃっている。そうすると一歳から三歳まで、それから三歳から五、六歳までという段階で言葉に直していくやり方はちゃんとできあがってつくられちゃうんじゃないかとおもいます。
 だから、もとからくる映像ということからできてくるものは、いま田原さんがいわれた身体像といいますか「身体図式」のかたちを決めるだろうとおもいます。それは、決まるまでの決め方が正常でしたら、無意識のなかにだんだん押し込められていくというかたちになって、あまり田原さんのところにカウンセリングにこなくて間に合っちゃうわけでしょう。そこがうまく無意識のなかに押し込められなかったら、やっぱり田原さんのところへくるということになる。でも、だいたい一歳未満の「核」につくられた「身体図式」といいますか、あるいは聴覚イメージに問題があるひとは、まず田原さんのところにはこないようにおもいます。田原さんのところへくるのは、たぶん三歳以降から十歳未満のところで「身体図式」の、あるいは聴覚映像のつくり方に失敗というか、おかしいところがあって、無意識といいますか、下意識のほうに押し込められなかったというひとなんじゃないかとおもえます。一歳未満の「核」のところでこりぁいかんといったかたちであったばあいには、ほんとをいえば、いかんともなしがたいとおもいます。しかし唯一、なしうることがあれば、言葉をどんどん言葉以前の言葉、一歳未満の母親がつくった「身体図式」までもどせることになったら大丈夫なような気がします。それ以外はちょっとだめなんじゃないか、どうすることもできないんじゃないかとおもえます。」
     『時代の病理 』 (P144−P145)

註2.
「くりかえしになりますが、ぼくはやっぱり、形成される言葉以前の言葉、つまり「聴覚映像」の問題に帰する問題は、言葉を習得する一歳以降の段階になったら、だんだんと無意識の方にうまい対応のしかたで、けっこう解放感もあり、あるところでは抑制もきくという、わりあい自由なかたちで押し込められていくところにいけば問題はないだろうとおもいます。そういうふうにふつうはいくんじゃないかとおもいます。」
         『時代の病理 』 (P147−P148)







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44 現実 げんじつ


項目抜粋 @吉本隆明全著作集13 「情況とはなにか」

・わたしたちが「現実」とよんでいるものは、「幻想」を媒介にして認識された事実であるか、行為によって生まれた「幻想」であるか、のいずれかである。それ自体が
観念の水準と位相を想定される言葉である。(P351)


A『世界認識の方法』 表現概念としての〈疎外〉


・【現象学的な理念が出現してから以後気づかれたこと】

Iマルクスが意識しないですんだことで、じつはほんとうは意識しなければ
誤差を生ずるという問題が生みだされてしまったことだとおもいます。それは現代では、人間が現実から膜のように隔てられてしまったという自意識の繰込みに関係があることです。
 それは、理念として描かれる現実世界のなかで、行為や実践と具体的な実践の現実そのもののあいだには亀裂があるという意識の問題であり、また人間が、現実に働きかけるということと働きかけた具体性とはちがうということです。
 つまりフッサールのようにいえば、事実と人間がそれを感覚的に受容することの間には誤差が成り立ちうるということです。どういう誤差かといえば、外界の事物は、これに働きかける場合、ある視点からの<射影>をつうじてしか働きかけられないのだけれども、事物そのものは一つの永続性をもって自体で存在している、そういう存在性があるということです。
 ところが意識・観念あるいは幻想性を対象としていえば、「幻想性を対象とすること」と「対象の幻想性」というものは、おなじではないということだとおもうのです。メルロ=ポンティはこれを<物>としての存在と<意識>としての存在との間にはジレンマがあるというように説明しています。
 この問題に<気づき>ますと、
マルクスの<自然>哲学の<自然>理念と、具体的な自然とは次元のズレ【ズレ、に傍点あり】を生じることになってしまいます。つまり、人間の思惟のなかに登場する現実性・具体性というものと、具体性そのものとは、おなじとみなされて済んできましたが、実はちがうということを繰込まなければならないことになるのです。
 そうかんがえますと、さきほど申しあげたマルクスの確実に認めうる<歴史>観−経済カテゴリーだけは<自然史>的に扱えるということと、すべて人間の現実的具体的活動がそこに意志的に集約するなら<歴史>は意志的に変わりうる−は、そのままでは通用しなくなります。つまりある対象的なことがらを<自然史>として扱うということは、対象が<自然>そのままであるということと、人間がそれに働きかけて対象とすることによってそれを<歴史>とするという考え方の両方が含まれていますが、そのことと<自然>は人間が働きかけなくてもそれ自体で展開していくものだということとは、別の意味だということがしだいにわかってきたのです。
 
<対象>自体と人間が対象としたときのその<対象>とは、まるでちがうものだということを現象学は発見したのです。それ以後、思想は大なり小なりそれを考慮にいれなくては、マルクスを受けいれることができなのなってしまいました。  (P137-P139)
備考 アナロジー:物理学でいう「不確定性原理」






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47 言語表現の<時間>性、<空間>性 げんごひょうげんのじかんせい、くうかんせい 時間性の根源


項目抜粋 『知の岸辺へ』講演対談集 「言葉の根源について」

・すべての<存在するもの>が、それに固有な<時間>と<空間>の様式をもつものとすれば、言葉の表現もまた、表現に固有な<時間>性と<空間>性を獲て成り立っているとみることができます。
・言語表現の<時間>性というのは、内的意識の<時間>とも、自然<時間>ともまたちがうものです。
・まったく同じような意味あいで、言語表現の<空間>性を考えることができましょう。言語表現の<空間>性とはなにかと云いますと、一つは、自己あるいは個人が表現した言葉の意味のひろがり、いわば先ほどの内的意識の時間性と同じような意味あいで、主観的な、あるいは内的なひろがりとかんがえることができます。…・では、そのばあいの言語表現のひろがりとは一体なにかといいますと、ある人間にとっての<受け入れの仕方のひろがり>だと云えるでしょう。

・次に問題になるのは、言語表現の<時間>性、<空間>性は、なにを根源にして出てくるのかということです。これが考え方の分かれるところですが、
言語表現の<時間>性、<空間>性の根源は、<身体>の受容性、了解の仕方ということにあるとぼくはかんがえます。<身体>の器官のうちで、眼を例にしますと、例えばここに灰皿があります。そうするとまずその形は眼という感覚器官を通して受け入れられます。その受け入れ方の中に、<空間>性というものの根源があるのです。その受け入れの仕方について現代人でも原始人でも、そんなにちがいはないだろうとおもわれます。ところで、あらゆる感覚器官による受け入れというものは、すべてこれを<空間>性とかんがえることができるのです。だから、眼という感覚器官による対象の受け入れの<空間>性と、耳による音の受け入れの<空間>性とは、<空間>性としては同じです。ただちがうところはその受け入れの度合、あるいは尺度です。つまり度合とは聴覚的、視覚的、嗅覚的、あるいは味覚的受け入れのことです。そしてその度合が、おそらく<空間>性なのです。そしてこの身体器官の受け入れの仕方の<空間>性が、言葉における<空間>性の根源にあるものなのです。さて、ここに灰皿があって、これを眼が受け入れたとします。この受け入れたものを、今度は<灰皿である>と了解して、灰皿に対する眼の知覚作用というものが、完了します。このばあい、眼の了解作用は完了しますが、この了解の仕方が、おそらく<時間>性というものの根源にあるものなのです。つまり、了解の仕方が<時間>性であるというふうに理解できるとおもいます。
  (P136-P137)
備考






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49 関係意識 かんけいいしき


項目抜粋 @『世界認識の方法』 表現概念としての〈疎外〉

・いま<原生的疎外>と<純粋疎外>の差異として<関係意識>をかんがえましたが、これを<時間性>と<空間性>の概念を用いて
構造化しますと、まず感覚的受容というものを限定するのは<空間性>の<度合>だとおもうのです。たとえば視覚だったら形態があり明暗があるというかたちで受けいれるでしょうし、聴覚の場合は、音がどこで反射したのか、その反射自体が<空間性>の延長です。だから対象との関係を決めるのは<空間性>の<度合>ということになります。
 一方、了解というのは<時間性>と関ってきます。このことは、物事を理解するばあい、意識はいかにして発生するかという問題になるのですが、それは基本的に個体に即していえば、人間の身体の生理過程の自己矛盾から発生したのだとここではかんがえられています。
 つまり、ここに茶碗があります。電灯の光が当って眼に反射して入ってきます。眼の裏に三原色を感ずる神経があって、その神経のなかの化学物質みたいなものが受けいれた光のエネルギーで化学変化をおこします。その変化の刺激がある速度で脳にゆき、そこではじめて、あ、茶碗だというように了解します。つまりここには時間のズレ【ズレ、に傍点】が起こる原因があるのですね。本来の生理過程だったら、すぐに身体反応を起こすはずです。たとえばさきほどのアメーバでしたら、何かと触れると、即座に反射的に−即座といっても無機物ではありませんから、ゼロではありませんが−身体反応を起こします。感覚反応即身体反応なわけです。
ところが人間の場合は、感覚反応と了解の間に時間のズレ【ズレ、に傍点】が生じます。これが意識の発生点だというように、単純化して説明すると判りやすいとおもいます。そのあとでおくれて身体行動がとられます。
 だから、身体の<時間性>というものの<自己疎外>が了解の作用なのです。 (P162-P163)

・われわれがある対象−人間でも無機物でもいいのですが−にたいしたときの
<関係意識>とは、ここでいわれている<原生的疎外>領域と<純粋疎外>領域の差異だというようにかんがえられるわけです。
 だから<心的現象>のなかにフロイトがいうような神経症とか精神病といったことが起こっているとすれば、それはいずれにせよ、大なり小なり、<原生的疎外>領域と<純粋疎外>領域の差異に
異変があるということなのだ−ここでいっている基本はそういうことに尽きます。  (P161)
備考






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53 権力 けんりょく


項目抜粋 @『超西欧的まで』

 X「権力」の現在

【T権力の解体】
「権力」という概念をぼくらはどこから得てきたかといいますと、大ざっぱにいって西欧の近代から得てきたとおもいます。(P41)

・現在、近代国家が作ってきた「権力」の概念が技術的に危くなってくるぶんだけ、云いかえれば国家連合体として振るまわざるをえなくなっている必然性の度合に比例するように、
「権力」という概念も微細な濃淡の異なる「権力」の分布図を丁寧に作ってわかってゆかないと、うまくかんがえ尽すことができないことに当面しているとおもいます。(P43)

【U 「裂け目」と「権力」】
・日常の隅々まで「権力」の問題をかんがえなければ無意味だというところまで、現在、「権力」の問題がきているとすれば、逆に「権力」の問題はかんがえなくてもいいとも云えそうな気がするんです。今日じぶんがここにいて明日はどこそこに行かねばならないということが、誰がどうしたからそうなったんだろうか、というようなところまで「権力」の問題をかんがえざるをえないとすれば、その問題はもはやとりたてていうのも晴れがましい日常の茶飯の領域の問題だともいえます。左翼用語が判りやすい人のためにいえば、そこには一見小さな問題にみえながら、じつは
永続革命の問題だということだけしかないということです。(P44)
備考






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54 格率 かくりつ


項目抜粋 @『柳田国男論集成』(JICC出版局 ) P93 102 104 157

・この重右衛門の欠如、劣勢は実定的な次元ではどうやっても、絶対的に解消できない核をふくんでいる。その意味で重右衛門がやけになり、ぐれて盗みや火つけをやる事も、放蕩して酒色のため、家や財産をつかいはたすにいたる経緯も、いわば行為の格率を自然の基礎のうえにおいた不可避のものだといえた。重右衛門の犯罪は実定法的には罰せられずにはおかないが、それにもかかわらず犯罪行為の自然権的な根拠までを、刑罰でおおいつくすことはできない。  (P93)

・死の四年前(昭和三十三年・一九五八年)に書かれた回想録『故郷七十年』は、柳田の生涯の動機をさぐろうとするものには、いわば動機の集積のような不思議な文章だ。むしろこれは逆さにいうべきかもしれない。柳田があまりにじぶんの生涯を、動機の集積のようにみなしているのを読んで、動機とはなにかかんがえさせられてしまう不思議な文章だというように。柳田の「法」解釈の根柢にあるのは、動機に自然権として必然といえる格率をもつ行為の連鎖は、それが殺人にいたるばあいも、自死にいたるばあいも、犯罪行為にいたるばあいも「法」を超越するか、または「法」制度の枠外に逸脱する自然の無意識が露出されたものだという観点だった。もしかするとこれは観点というものではなく、柳田の無意識の理念というべきかもしれなかった。
      (P102)

・動機に内在的な動機と外在的な動機があるとすれば、柳田は、動機の自然法的な根拠をじぶんの無意識の資質においていた。柳田はじぶんが法制局の官吏として調べた犯罪者の予審記録のなかで、実定法的な拘束をこえた自然法的な格率が、犯行の不可避さになだれこんでゆく勢いに感銘したように、人間の動機が資質の無意識に根ざしているかぎり、すべておなじとみて、肯定さるべきだという理念をひそかに育てていた。あるいは無意識の理念といい直すべきかも知れない。柳田はじぶんが文学を断念して農政学徒として官吏になることも、おしもおされもしない法科の秀才として嘱望される身でありながら、わざわざ柳田家に養嗣子として入婿することも、官僚社会と確執して退陣し、在野の民俗学者に転身することも、そこにじぶんの資質の無意識が加担しているかぎり、実定的な規範をこえた、肯定すべき自己同一性とみなした。 (P104) 

・                     (P157)
備考 語義・@古くは証明なしに認められる命題・公理などの意味にも用いたが、カントは個人の採用する行為の規則の意味に用い、普遍的道徳法則と区別した。今日では行為の規則や論理の原則などを簡単に言い表したものをさす。準則。      (広辞苑 第二版補訂版)






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56 機序 きじょ


項目抜粋 @『柳田国男論集成』(JICC出版局 ) P204-205

・ほんとうをいえば、習俗が固執されてひとつのかたちにまで高められる機作も、地域によって変形される機序も、わたしにはよくわからないままだ。ほんの偶然の言い違い、やり違い、あるいは長老や、憑かれた巫人の立言によって、途方もない変更にまで発展するものなのか、それとも習俗の固執や変更をつかさどるものは、ひとつの規範をもつものなのか。あるいは自然条件、季候、地勢や地形の変更が、それに適応しようとして習俗を変更させるものなのか。このことは柳田に困惑をしいたかもしれなかった。そしてあえていえば、もうひとつ柳田を最後まで悩ませたのは、地勢や地形名がそのまま地名になった地域にだけ遺跡を残し、そのほかは、列島の東北と西南の辺域に孤立した習俗と言葉を固守して、少数の村落をつくっているようにみえるアイヌを含めた縄文種族と山人との関わり、その異質と類似性とであった。
 柳田はもともと、東北辺の山村の祭りや祝ひ【ルビ ほがひ】と、西南辺の山村の祭りや祝ひ【ルビ ほがひ】の根を、おなじ起源とみなしたかったにちがいない。かれは断続する認識のなかで、列島の東北辺と西南辺とが等価であるという潜在的な結論に到達していた。山村の同一性は、とりもなおさず平地の農耕村落の同一性を意味しているとおもわれた。また、アイヌと山人(狩猟人、杣樵人)とを、習俗のあまりの類似から同一性とみなそうとしては、またためらいつづけた。
習俗の同一性はかならずしも種族や人種の同一性を意味しないからだ。ところで最終的な難関は言葉であった。      (P204-P206)
備考 註1.「機作」「機序」…広辞苑、福武国語辞典には記載なし。
註2.「機序」という言葉は、吉本隆明の別のところで出会った覚えあり。
   みちすじ、しくみ、ほどの意か。






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68 個体 こたい


項目抜粋 ※「言葉の吉本隆明@」項目ID「366」「論理・抽象と経験的イメージ」より

『マルクス―読みかえの方法』1995.2.20

@ ええっと、その最初の<個体>というのをどういうふうに使っているかということから申しあげます。ふつう個人とか集団とか、まあ、ごく通俗的にいえば、”私個人としては”とかいうようなことで、<個人>という言い方が第一人称の存在をさすばあいがあります。
<個人>という言い方のなかには、いろんな夾雑物が含まれている気がします。夾雑物というのは<個人>の感情を意味したり<個人>の社会的な位相を意味したり、またいろいろな利害関係を意味したりするわけです。そういうものをなにか漠然と含んで<個人>という言い方がされているので、いちおうそういう夾雑物を排除したいということから、<個体>という言葉を使っています。そのばあい<個人>という概念からいろんなものを排除してなにをのこしたいのかというと、それぞれの<個人>がひとつの<身体>をもっていて、<身体>というものは動物的なわけですが、その<身体>の座の上に<観念>あるいは<観念>の作用があるというところだけをのこしたいのです。そんなところでものをいってみたいということで、<個体>という言葉を使いました。そうするといまの質問にありましたように、それでは<個体>をそんなふうに使うとすれば、自己観念も、他者に対する観念も、いずれにせよみんな<個体の観念>にすぎないではないかということになるわけです。
 とてももっともですが、その疑問の出方は、いずれにせよ、ひとりの個体が他のひとりの個体に対する観念というばあいにも、他のひとりというのを、ひじょうに具体的にたとえばある色の洋服をきてこういう容貌をした女性であるとか男性であるとか、そういうことを無意識のうちにかんがえて、対幻想というふうな観念をかんがえているのではないかとぼくにはおもえます。
 ・・・・(中略)・・・・そういう混同を避けたいために、<対幻想>というものを個体の自己観念、自己幻想というものと区別してかんがえているわけです。だから、それはやはりひとりの個人のなかにあるにちがいないのだけれども、そういうふうにいってしまうと、みんな曖昧模糊となってます。そうすると、共同性のなかの個人というばあいも、その個人という概念のなかにまた夾雑物が含められて、そこでまた、これいったいどういうふうに使っているんだということがでてくるとおもうのです。だから、そういうふうにでてきますと、いずれにせよ個体の自己幻想でも個体の対幻想でも<個体の観念>にちがいないではないか。それなら、共同性のなかの一員としての自分というばあいでも、やはり<個体の観念>にちがいないではないかというふうになってしまうわけです。だから、そういう混同を避けたいために<個体>という言葉を使っているわけです。個体の自己観念あるいは自己幻想と、個体の対幻想(他の個体と関係をむすぶ幻想というもの)と、共同体に対してむすぶ共同幻想とは、それぞれ位相がちがうんだ、つまり次元がちがうことなのだということをいいたいわけです。それはいずれにしたって個人の観念にちがいないではないかという位相でいいますと全部曖昧になってしまうのです。ただそういうような言い方をしたいならば、個人というのはけっして抽象的【「抽象的」に傍点】な個人ではなくて、具体的にこれこれの顔をしてこれこれの洋服をきてこれこれの家に住んで、これこれの仕事をしてこれこれの社会に住んでいるというような、そういうものを全部含ませて、それで<個人>というふうに使わないと曖昧になってしまいますね。
つまり論理的にはそれを避けたいということから<個体>という観念ができているわけですし、それから、個体の自己幻想というものと、対なる幻想というものと、それから共同幻想というものとはそれぞれ位相がちがう【「位相がちがう」に傍点】ということをいいたいわけです。
                ( P49−P51)



A だから、むしろぼくの感じでは、
最初に<個体>という観念をどういうふうに設定したかというところさえ明瞭なら、あまり深読みはしないほうがいいようにおもえますね。要するに<やつはそう厳密に書いているわけじゃねえんだ>(笑)というふうにかんがえられたほうがよろしいのではないでしょうか。だけれども、<個体>という言葉を使ったとか、<個体の幻想>とか<自己幻想>とか、<対なる幻想>とか<共同幻想>とかいうばあいの基本的な押さえ方は、けっして曖昧ではない押さえ方をしているつもりなのです。だから、そのほかのことは、あまり深読みはしないで<ふふん、こういうことをいっているんだな>というふうに読まれたほうが、かえってよろしいのではないか(笑)とおもいますね。
                ( P52−P53 )


B いや、それでよろしいんじゃないでしょうか。というのは、それは、ぼくよりもずっとよくかんがえて(笑)いるようで、ぼくはそれほどかんがえなかったんです。ええと、こまっちゃうんですね。(笑)
 まあいいんですが、書物というのはそんなふうに読むべきものだとおもいますけれどね。
つまり、論理的な展開をするばあいになにが基礎にあるかといえば、いずれにせよ経験的な事実とか、それから直接自分が体験しないけれど、たとえば書物を媒介に体験したとか、それからかつて体験したとかあるいはかつて見聞したとか、つまりそういうことのイメージというか想像というものが、最大限にいつでもあるわけです。あるていど抽象のレベルをもった論理を展開をするばあいに、いつでもそういう経験的なイメージというものをもちながら論理展開していくもので、ひとによってちがうでしょうが、ぼくはそういうやり方をしています。だからぼくはとても簡単なことをいっているつもりです。
                ( P55−P56 )

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