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ID | 項目 | よみがな | ID | 項目 | よみがな | |
2 | 錯合 | さくごう | ||||
3 | 措定 | そてい | ||||
8 | 像 | ぞう | ||||
14 | ・・・・にすぎない | すぎない | ||||
15 | 即自的 | そくじてき | ||||
21 | 錯合 | さくごう | ||||
23 | 錯合構造 | さくごうこうぞう | ||||
27 | 錯合 | さくごう | ||||
36 | 錯合 | さくごう | ||||
39 | 時間意識の根源 | じかんいしきのこんげん | ||||
40 | 自己抽象づけの意識 | じこちゅうしょうづけのいしき | ||||
42 | 相互規定性 | そうごきていせい | ||||
43 | 疎外 | そがい | ||||
45 | 自己抽象づけの意識 | じこちゅうしょうづけのいしき | ||||
52 | 死 | し | ||||
58 | 世界視線 | せかいしせん | ||||
60 | 逆立 | さかだち | ||||
ID | 項目 | よみがな | 項目関連 |
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2 | 錯合 | さくごう |
項目抜粋 | @『共同幻想論』(河出書房新社)P37 ・「そして、この三つの世界も、未開のはじまりにはきわめて錯合してあらわれるかもしれないし、」 A『心的現象論序説』(北洋社)(S46.9.30 )P18 P51 P57 ・ここでわたしたちは、原生的疎外の心的な領域という概念の有効性を検証しえているわけではない。また、実体性をもっていることを無造作に主張しようとしているのでもない。ただ、この概念によって人間の心的世界が、自己の<身体>の生理的な過程からおしだされた位相と現実的な環界からおしだされた位相との錯合としてあらわれること、そして、このふたつの位相は分離できないとしてもなお、混同すべきでない異質さをもっていることを明確にしめしうるものだとかんがえていることだけは確かである。(P51) ・心的な領域の時間性の度合は、身体の成熟の完了する時期まで高まり、それ以後はゆるやかに減衰してゆくとかんがえられる。しかし、心的領域の空間性は、現実的な環界にはたらきかけることによってどこまでも抽出の度合を高め、かつひろげ、その結果、人間の<年齢>は心的な世界に錯合をくわえてゆくはずである。…・心的な領域としてみられた老化は、ゆるやかに減衰してゆく時間性と、どこまでも抽出度と錯合をましてゆく空間性との矛盾である。死は、それゆえ心的時間性の無機的自然の時間性への同化であり、同時に心的空間性の突然の切断であると解される。(第3図) (P56-P57) B『母型論』(学研)P23 ・わたしたちの区分では、幼児期が意識の領域にむかって拡がるのといっしょに無意識の中間層がつくられる。この中間層は言語的な発現と言語にならない前言語(ソシュール的にいえばシニフィアン)的な発現との葛藤を通じて形成されるものだとみなされよう。無意識がかかわっている行為は、正常心であっても異常であってもこの層のスクリーンで、はじめて写しだされる。ほんとうは無意識の核がかかわっているばあいも、無意識の表面層がかかわっているばあいもあるのに、中間層に葛藤や錯合があるかのように集約されるといってよい。 (P23) |
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備考 | 語義・なし (広辞苑 第二版補訂版) 註1.化学辞典を調べてみること。 |
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3 | 措定 | そてい |
項目抜粋 | @『共同幻想論』(河出書房新社)P37 ・「ある対象が、事物であっても思想であっても人格であっても禁制の対象であるためには、対象を措定する意識が個体のなかになければならない。」 A『心的現象論序説』(北洋社)(S46.9.30 )P135 145 146 148 153 156 158 ・ようするに、聴覚や視覚において、対象をはっきりと措定しているのに、茫んやりする瞬間をもつことができるが、この<茫んやり>は、聴覚と視覚それ自体で時間を感じている徴候だとかんがえているにすぎない。あるいは、ここで嗅覚や味覚や触覚でも、茫んやりする瞬間がありうるはずだという反論がおこるかもしれない。しかし、このばあい<茫んやり>はなにかを連想しているか、<茫んやり>一般かのどちらかであって、嗅覚や味覚や触覚に固有なかかわりはないものである。 ・<感情>はどんな遠隔の対象をも措定するが、この措定には、対象の空間性にくわえて、時間性の変容した空間性がサンドウイッチされるはずである。(P153) |
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備考 | 語義・@或るものを対象としてまたは存在するものとして立てること。或る内容をはっきりと取りだして固定すること。A或る命題を自明なものとして、または仮定して肯定的に主張すること。定立。 (広辞苑 第二版補訂版) |
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8 | 像 | ぞう |
項目抜粋 | @『定本 言語にとって美とはなにかU』(角川選書200) P304−305 ・「わたしたちは像を言語の構造にくっつけてかんがえてきた。それは、まず像を表出の概念として意識にむすびつけることによって、つぎに表出を還元から生成へと逆立ちさせることでできるとしてきた。」 ・「表出された言語の自己表出力の対象指示性との交点が、言語の現在の帯域のそとにあるとき、その表現は像をよび、そのうちにあるときは概念の外指性しかもたないというように。」(P273) A |
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備考 |
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14 | …・にすぎない | すぎない |
項目抜粋 | @『共同幻想論』(河出書房新社 P113) ・たとえば、未開社会では人間の生理的な<死>は、自己幻想(または対幻想)が共同幻想にまったくとってかわられるような<侵蝕>を意味するために、個体の<死>は共同幻想の<彼岸>へ投げだされる疎外を意味するにすぎない。近代社会では、<死>は大なり小なり自己幻想(または対幻想)自体の消滅を意味するために、共同幻想の<侵蝕>は皆無にちかいから、大なり小なり死ねば死にきりという概念が流通するようになる。 A『共同幻想論』(河出書房新社 P124-P125) ・だから埋め墓は空間的な<他界>の表象であり、詣で墓は時間的な<他界>の表象であるというにすぎない。 |
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備考 | 註1. この言葉には、感情を排した、論理のある抽象レベルで根源的な場へ連れ出そうとする強力な意志が感じられる。 註2. 『言語美』にも、この言葉は、たくさん出てたと思う。 |
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ID | 項目 | よみがな | 項目関連 |
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15 | 即自的 | そくじてき |
項目抜粋 | @『共同幻想論』(河出書房新社 P116) ・わたしのかんがえでは、べつに<融即>の原理で死ぬのではなく、土人の自己幻想が共同幻想(呪力)に<侵蝕>されることによっていわば心的に<死>ぬのである。そして、かすり傷くらいで<死>にうるのは、未開人では自己幻想と共同幻想とは未分化であるため、この<侵蝕>が即自的ににおこりうるからである。 |
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備考 |
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ID | 項目 | よみがな | 項目関連 |
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21 | 錯合 | さくごう | ID2錯合 |
項目抜粋 | @『心的現象論序説』(北洋社)(S46.9.30 )P64 P73 ・心的な世界の<異常>あるいは<病的>というのは、身体からの疎外として心的領域をみる位相からは、時間化の度合の<異常>あるいは<病的>ということを意味する。たとえば、<衝動>とか<本能>とかが、それに固有な時間性であらわれずに、<感情>とか<理性>とかいうように高次の抽象度をもった時間性で出現したとき、あるいはこの逆に、感情>とか<理性>とかが<衝動>の時間化の度合で出現したとき、それは異常または病的とよばれる。 おなじように、現実的環界からの疎外として心的領域をみたとき、たとえば<視覚>に固有な空間性が他の感覚、たとえば、<聴覚>に固有な空間性として出現したばあい、あるいはその逆であるようなばあいに<異常>または<病的>とよばれる。そして、じっさいの<異常>または<病的>な現象はこの両者の錯合としてあらわれる。 もちろん時間化と空間化の障害は混合してあらわれるから、これの基軸で明確にとらえられるわけではない。しかし、漠然と個体の心的世界の働きは、外からはうかがいしれぬ部分をもつものだと称して安堵するよりも、はるかに根拠をもっているといえる。 (P63-P64) ・心的現象の異常とは、心的な空間化度と時間化度の錯合した構造が、有機的自然体としての人間の時間性(生理的時間性)と現実的環界の空間性との一次的対応が喪われない心的異変としてかんがえられるものをさしている。 心的現象の病的という概念は、すでに有機的自然体としての人間の時間性と現実的環界の空間性との双方からの心的対応性が喪われた心的異変として規定される。 (P73) |
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備考 |
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ID | 項目 | よみがな | 項目関連 |
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23 | 錯合構造 | さくごうこうぞう | 錯合 |
項目抜粋 | @『心的現象論序説』(北洋社)(S46.9.30 )P103 ・それゆえ、心的領域を原生的疎外の領域とみなすわたしたちのかんがえからは、ただ時間化度と空間化度のちがいとしてしか<感性>とか<理性>とかいう語が意味するものは区別されない。わたしたちはこのことを是認する。しかし、これで終ったわけではなくはじまったばかりである。なぜならば、心的現象の質的な差異、たとえば精神医学でいう分裂病や躁うつ病やてんかん病はただ時間化度、空間化度の量的な差異とその錯合構造にしか還元されないことは、いままでみてきたとおりだからである。ここで<質>的な差異を感じさせるものがあるとすれば、ただ時間化度と空間化度の錯合構造という概念だけだが、この概念がなぜ<質>的な差異を意味しうるかについて、わたしたちはまだどんな根拠をも与えていない。 (P103) |
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備考 |
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ID | 項目 | よみがな | 項目関連 |
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27 | 錯合 | さくごう | ID2,21錯合 |
項目抜粋 | @『心的現象論序説』(北洋社)(S46.9.30 )P108 P109 ・わたしたちは、原生的疎外の心的な領域では、眼前に灰皿を視たということからはじまって、恋人の家でみた灰皿を連想することもできれば、その連想をどこまでも転換させて、眼のまえに灰皿を視たというはじめの出発点を忘れ去って遠くへゆくことができる。このばあい視覚はたんにあらゆる心的現象の契機をなすにすぎない。しかし、純粋疎外の心的領域では、眼のまえに灰皿を視たということから対象としての灰皿を離れることもできなければ、また対象的知覚をたんに視覚的反映の段階で手離して他の連合にとびうつることもできない。灰皿と対象的知覚とは離れることなく錯合される。この領域では、わたしたちの意識は現実的環界と自然体としての<身体>に依存するとかんがえない。同時に依存しないともかんがえない。依存することと依存しないこととは共時である。いいかえればひとつの錯合である。このような心的な領域は、あらゆる個体の心的な現象が、自然体としての<身体>と現実的環界とが実在することを不可欠の前提としているにもかかわらず、その前提を繰込んでいるため、あたかもその前提なしに存在しうるかのように想定できる心的な領域である。原生的疎外を心的現象が可能性をもちうる心的領域だとすれば、純粋疎外の心的な領域は、心的現象がそれ自体として存在するかのような領域であるということができる。 (P108) ・しかし、ごらんのとおり、わたしたちの純粋疎外は(原生的疎外はもちろん)現実的環界の対象も、自然体としての<身体>もけっして排除しない。ただ、純粋疎外の心的領域では、これらは、ひとつの錯合という異質化をうけた構造となる。わたしたちの純粋疎外の概念は原生的疎外の心的領域からの切断でもなければ、たんなる夾雑物の排除でもなく、いわばベクトル変容として想定されるということができる。 (P109) |
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備考 |
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ID | 項目 | よみがな | 項目関連 |
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36 | 錯合 | さくごう | ID2,21,27錯合 |
項目抜粋 | 『定本 言語にとって美とはなにかU』(角川選書200) ・【サルトル『想像力の問題』の、記号と像の考察を引用して】 すでに、わたしたちの考察がこれと逆になることはあきらかだ。わたしたちのかんがえでは、<事務室>という文字がかかれていれば、書き手の自己表出と指示表出の錯合なのだ。 そして<事務室>とかかれている文字をよむものは、その文字を構造としてよむので、この文字によって喚起される事務室の像は、甲と乙と丙とではちがった無数の多様さでありうる。この多様さをみちびきだすのは、体験的な記憶であるとよんでもおおざっぱにいえばいいとしても、けっして<習慣>の力などではない。 <事務室>という文字をまえにして、甲と乙と丙とが、それぞれ無数の事務室の像をおもいうかべられるものとすれば、甲と乙と丙との体験的な記憶の強さによるとかんがえられそうだが、げんみつにいえば、甲と乙と丙とが現在まできた自己史のちがいによっている。 (P300) |
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備考 |
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ID | 項目 | よみがな | 項目関連 |
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39 | 時間意識の根源 | じかんいしきのこんげん | 言語表現の<時間>性、<空間>性 |
項目抜粋 | @『心的現象論序説』(北洋社)(S46.9.30 )P251-P252 ・わたしたちは、〈リビドー〉という概念を、人間が個体として共通性をもつ本質であるとかんがえてこなかった。もし〈リビドー〉という概念を、心的にか自然的にか想定すれば、それは個体と他の個体との二体概念であり、げんみつには個体の領域には属さないのである。 個体の心身相関の領域において共通性となりうる本質は、自己の〈身体〉にたいする自己抽象づけの意識と、自己の〈身体〉にたいする自己関係づけの意識である。わたしたちは、現にここにある自己の〈身体〉が、自然としては【註 自然としてはに傍点】意識に関係なく存在するとかんがえることができる。しかし、〈これはわたしの身体だ〉という意識にやってくる〈身体〉は、すでにある度合の抽象度をもっている。この自己の自己意識にたいする抽象性は、時間意識の根源であり、この抽象性は自己の自己意識にたいする関係としては空間意識の根源をなしている。 そこで、わたしたちは、一般夢の形像が、抽象された共通性として、夢みる個体にやってきたとすれば、この形像を還元しうる潜在的な内容は、この自己抽象づけと自己関係づけの時-空性にあるとかんがえるのである。 (P251-P252) |
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備考 |
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ID | 項目 | よみがな | 項目関連 |
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40 | 自己抽象づけの意識 | じこちゅうしょうづけ | 自己関係づけの意識 |
項目抜粋 | @『心的現象論序説』(北洋社)(S46.9.30 )P251-P252 ・わたしたちは、〈リビドー〉という概念を、人間が個体として共通性をもつ本質であるとかんがえてこなかった。もし〈リビドー〉という概念を、心的にか自然的にか想定すれば、それは個体と他の個体との二体概念であり、げんみつには個体の領域には属さないのである。 個体の心身相関の領域において共通性となりうる本質は、自己の〈身体〉にたいする自己抽象づけの意識と、自己の〈身体〉にたいする自己関係づけの意識である。わたしたちは、現にここにある自己の〈身体〉が、自然としては【註 自然としてはに傍点】意識に関係なく存在するとかんがえることができる。しかし、〈これはわたしの身体だ〉という意識にやってくる〈身体〉は、すでにある度合の抽象度をもっている。この自己の自己意識にたいする抽象性は、時間意識の根源であり、この抽象性は自己の自己意識にたいする関係としては空間意識の根源をなしている。 そこで、わたしたちは、一般夢の形像が、抽象された共通性として、夢みる個体にやってきたとすれば、この形像を還元しうる潜在的な内容は、この自己抽象づけと自己関係づけの時-空性にあるとかんがえるのである。 (P251-P252) A吉本隆明全著作集14 「個体・家族・共同性としての人間」 ・わたしどものかんがえでは、人間を人間たらしめている、あるいは個体を個体たらしめている基本的な問題は、人間というものは生理体としては自然の一部分である人間の個体が、意識の世界あるいは観念の世界というものをもっているというところにあるとかんがえます。そうしますと、ここに、生理体的な個体あるいは自然体としての個体というものと、それがいかなる理由からかもっているところの観念あるいは意識の世界との両端に、その媒介として境界領域というものがあります。つまり、心身の境界領域があります。こういうものをどう理解するかということが、まず個体としての人間というものにとって基本的な問題となってくるとおもいます。 (P215-P216) ・その場合に、わたしどもがどういうふうにかんがえるかといいますと、まず、人間を人間たらしめているものは、ひとつは自己抽象つけということだとおもいます。自己を自己として抽象できるということ、そういうことが基本的な問題であります。自己抽象つけというものは、ある一定の自己抽象つけの段階では、概念というものの実体を生みだすわけです。概念というものを生みだす基本的な要素は、ひとつは自己抽象つけ、つまり自己を自己で抽象つけることができるということにあるわけで、そういうことが、人間存在にとって基本的なひとつの問題であるということができます。 もうひとつの要素は、自己関係つけということです。つまり、自己にたいして、あるいは自己を自己がどういうふうに関係つけるか、その関係つけの意識をもっているということ、そういうことが人間の個体の存在にとって基本的な問題になってきます。つまり、自己抽象つけというものと自己関係つけというものが、人間の個体にとって基本的な問題だとおもいます。(P216) |
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備考 |
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ID | 項目 | よみがな | 項目関連 |
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42 | 相互規定性 | そうごきていせい |
項目抜粋 | @『カール・マルクス』 ・マルクスの<自然>哲学の本質である人間と自然とのあいだの<疎外>関係という概念は、かれが、それ以外の関係が人間と自然の相互規定性としてありえないとかんがえているがゆえに、マルクスにとって不変の概念である。(P112「U」) |
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備考 |
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ID | 項目 | よみがな | 項目関連 |
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43 | 疎外 | そがい | 表象 |
項目抜粋 | @『カール・マルクス』 ・ヘーゲルにおいて、<疎外>は、あるがままの自己と対象化された自己との対立、意識と自己意識の対立、客観と主観の対立である。いいかえれば抽象的思惟と現実的感性との思想そのものの内部での対立である。それは人間の本質が、みずからを非人間的に、非有機的な身体としての<自然>の内部で、じぶん自身との対立において対象化されるという意味ではない。(P192) A『世界認識の方法』 表現概念としての〈疎外〉 ・ぼくにとっては<疎外>という言葉は、広い意味の<表現> (表象)という概念とおなじだと理解してくださっていいとおもいます。そのほうがはっきりするとおもいます。つまりマルクスの<自然>哲学は、市民社会の核である経済社会構成にたいして<自己疎外>として関係しています。このことをマルクスの主体的な<自然>哲学の<表現>が、マルクスの経済カテゴリーの規定なのだといいかえてよいとおもいます。そして市民社会の<自然>的なカテゴリーである経済社会構成の<表現>として法、国家、宗教、文化などの観念的な領域がかんがえられたといえます。…・ マルクスの設定している経済社会カテゴリーというのは、市民社会の事実的な世界とおなじものではなく、その理念的な写像なのです。いいかえればマルクスの<自然>哲学からの<疎外態>なのであって、マルクスが<自然史>的に扱えるとかんがえた理念の像なのです。 (P126-P127) ・マルクスの主体的な<自然>哲学は『資本論』の<商品>や<労働>という概念のなかに生きているとぼくはおもいます。…・ぼくの解釈では、マルクスの<商品>という概念は、人間の対象的行為つまり、労働によって<自然>が変形・加工されてつくられたものですから<商品>は<商品>の自己表現であるという意味で、マルクスの<疎外>概念そのものであるとおもいます。 (P134-P135) ・【<疎外>は】そのとおりで<表現>なのです。主体の側からいえば<表現>といっていいので、だからここで<表現>というのは広義なものです。 さきほど<商品>は<商品>自体だけではなく、商品の<自己表現>と理解しなければならないといいましたが、<商品>に自己移入してみれば<商品>としてそこにあるということは、<商品>として<自己表現>しているということになるのです。 (P160-P161) |
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備考 |
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ID | 項目 | よみがな | 項目関連 |
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45 | 自己抽象づけの意識 | じこちゅうしょうづけ | 自己関係づけの意識 |
項目抜粋 | @吉本隆明全著作集14 「個体・家族・共同性としての人間」 ・そして、自己抽象つけというものを、個体の意識構造としてではなく、対象と個体とのあいだにおいて問題とするときには、それを心的概念というふうによびます。つまり、一般にわれわれが概念とかんがえているものを心的な現象としてかんがえれば、自己抽象つけが対象と個体とのあいだに想定されるとき、そうよぶことができます。 もし、事実あるいは事象というものについて、このかんがえ方を拡張していき、なにが対象と個体とのあいだに介在するかというと、それは言語というものです。言語というものを基本的に成りたたせているのは、規範および概念であります。このばあい、規範というのは、たとえば外的にかんがえれば、文法のことです。…・そこでは規範というものは外化されて、いわば言語における文法構造みたいなものになりますし、それから概念というものは、言語における実体というふうな問題となってでてくるわけです。 一般的に人間存在にとって、人間を人間たらしめている、あるいは個体を個体たらしめている基本的な要素は、自己抽象つけと自己関係つけとの錯合した構造であるということができます。 (P219-P220) ・つぎに、個体としての人間が他の個体、つまり他者と関係つけられるときに、どういう問題がおこるか、という問題にはいります。つまり、個体というものを、個体内部の問題、あるいは個体における存在の根本的な構造というような問題としてではなく、他者というものと関係つけるときに、どういう問題がおこるかということです。そのときにはじめて基本的にかつ根源的に性としての人間という概念があらわれます。…・つまり、男性または女性としての人間ということが、人間の個体が他者と関係するばあいの根源を支配している関係つけなんです。(P220) |
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備考 |
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ID | 項目 | よみがな | 項目関連 |
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52 | 死 | し |
項目抜粋 | @J.ボードリヤール×吉本隆明『世紀末を語る』−あるいは消費社会の行方 ・つまり、ここには二つのことがあります。ひとつは、「死」というのを肉体の「死」というふうに考えなかったわけです。次に、ただそこの場所にいけば、その場所からは、肉体が死んだあとにどうなるか、宗教家ですから浄土にいくんだといってますけど、浄土がどうなっているのかも見えますし、そこから引き返してきますと、現在、現実の社会、「死」のまえの世界で起こっている出来事や事象を、こっちから「死」のほうに近づく過程で見るのとは違うように見えるし、違うように振る舞えると考えました。これが親鸞が考えた「死」の見方です。ぼくはいちばんこうした見方に影響を受けました。(P67) ・ぼくはあくまでも、社会の「死」の場所から引き返して現在の諸問題を見たいという感じです。要するに社会の「死」の向こうから現在の社会の瀕死状態を見る視線を行使したいという願望です。そこいらへんの瀕死体験を経た視線で、現在の消費過剰の社会のイマジネーションをつくりたいというかんがえかたです。(P82) A『こころから言葉へ』 ・もうひとつ、病とか、年をとることとか、そしてそのあとには死というものがありますね。死というのは自分の死ではなくて、他人の死としてしか考えられないものというようにすごく固定的に考えがちです。ヨーロッパの偉い人の死についての考察なんかをみても、やっぱり死については特異な位置を与えていて、他者の死でしか死をとらえていない。そのかわり日本の人よりももっと若い三十代四十代のときに、相当徹底的に考えています。 年をとって来て、違うふうに考えるようになって来ました。つまり、死とは他者の死とはかぎらない、自分の年をとること、老いるということを延長していってひとりでに向う側の死に到ることは可能になるはずだ、と思えるようになって来たんです。これはメッセージではなく、自分が年をとってきたことの実感です。もっといろいろなことがわかって来れば、ひとりでに幕の向こうに行けばそれが死だというところまで行ける、老齢というのはそういうことだと思うんです。 【註 メッセージについて…「若い世代にメッセージをとの編集部の注文ですが、」(P175)と最初にある。】 (P177-P178) |
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備考 |
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58 | 世界視線 | せかいしせん | 同定 |
項目抜粋 | @『柳田国男論集成』(JICC出版局 ) P240-241 ・そしてもうひとついえることは、石器時代からそうですが、縄文時代に村落があって、そのおなじ場所の上に弥生時代の村落があって、といった重層した遺跡がでてきます。また古墳時代の遺跡がおなじ地域で重なっている場所もあるわけです。それはどう想像することが妥当かといいますと、奈良盆地のなかに初期の国家をつくったところ、首都に近いところだったろうってことです。そう想定することが妥当な地質学的な同定の仕方になります。いってみれば、柳田国男の民俗学のイメージにあらわれてくる上からの視線には、歴史的な段階を込めることができます。原始時代から人間の地面に水平な眼の高さの視線はさしてかわりがありません。しかし、上から視線がいかに可能であったかは、歴史の展開を暗示します。これを世界視線と呼べば、そこにはさまざまな歴史の段階の視線がつかまえられているといえます。 そうすると、何が得られるかと申しますと、柳田国男の民俗学では弱点とされる標高差のイメージが具体的にえられるのです。そこからは神話の地質学的な対応イメージをつくることができることになります。 (P240-P241) |
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60 | 逆立 | さかだち |
項目抜粋 | @『言語にとって美とはなにかT』(P216) ・作家の表出空間を固有な一定のものと仮定したばあい、表出の対自意識と対他意識とは逆立【ルビ さかだち】するとみてよい。この要因を根ぶかいところでつかさどるのは社会そのもので、これをつきくずすには、表出の水準がふたたび社会を呑みこむほど根をひろげるほかないのだといえる。(P216) |
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ID | 項目 | よみがな | 項目関連 |
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項目抜粋 |
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ID | 項目 | よみがな | 項目関連 |
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