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対称 たいしょう
11 立場 たちば
16 対称 たいしょう
17 中間的な状態 ちゅうかんてきなじょうたい
24 定立 ていりつ
32 対自性 たいじせい
37 立場 たちば
46 道徳の発生 どうとくのはっせい
57 同定 どうてい
62 対称 たいしょう
63 対照的 たいしょうてき
65 対称 たいしょう




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1 対称 たいしょう 遠隔対称性


項目抜粋 @「情況とはなにか」(1966)(吉本隆明全著作集13政治思想評論集)P395−396

 ・幻想性としての<遠隔対称性>というのは、かんたんにいえば、人間の幻想性はかならずその
対称性を第二の自然(慣行性)に転化し、その転化した度合におうじてより遠隔へ対称性を移すということであり、人間の存在がもっている幻想性としての本質にねざしている。このような遠隔対称性は、<幻想対>の対称をしだいに血縁以外のものに択ばせるようにした。いいかえれば、媒介として家族の<幻想対>に介入してくるものを対称から排除していったのである。そしてこの幻想対としての人間の存在がしだいに遠隔対称に移行することは、とりもなおさず逆に経済社会の構成的な空間を、同一の水準と位相にまねきよせたのである。


A『共同幻想論』(河出書房新社 P66,P101)

 ・ただ<未視>や<遠視>が可能であるかのように存在するとすれば、人間の心的世界の時間性の総体である生誕と死にはさまれた時間と、心的判断力の対称となりうる空間とに限られた領域内で存在するかのような仮象を呈するといいうるだけである。
 ・ここでは巫女の口から、巫女が共同幻想を<性>的な対称とみていることが語られている。


B『心的現象論序説』(北洋社)(S46.9.30 )P271

・さきにのべた〈固有夢〉の状態を、覚醒時の心的世界を軸にして、〈中性〉としてかんがえれば、〈幻覚〉は他者からの作為や強制に支配されてあらわれ、〈心像〉は意志的に思念するするときにのみあらわれるという意味で〈幻覚〉と対称的にならべてかんがえることができる。


C『マス・イメージ論』(福武書店)(1984.7.14 )「変成論」P18

・父親や母親にとっては一匹の虫になぜか化身してしまった息子とみえるのに、兄妹相姦的な愛の願望をもつ妹からは、虫の身体表出を介してすべての行為がじぶんにたいする愛であるような対称をみなくてはならない。この変成のイメージは世界のシゾフレニー化である。
備考 語義・@つりあうこと。かなうこと。A代名詞の第二人称。B(数学的概念)                   
(広辞苑 第二版補訂版)

註1. @Aの「対称」は「対象」ではないのか?
註2. Bは普通の使われ方






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11 立場 たちば


項目抜粋 @『定本 言語にとって美とはなにかU』(角川選書200) P297−298

・「わたしたちが立場というとき、それは世界をかえようという意志からはじまって世界についてさまざまな概念をかえようとするまでの総体をふくんでいる。文学(芸術)についてのさまざまな概念をかえるためにも、立場はなければならないし、またどうしてもあることになってしまう。」 
備考








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16 対称 たいしょう


項目抜粋 @『共同幻想論』(河出書房新社 P171)
 
・漱石にとっては<親>は優しい存在でなかった。漱石には<親>の優しさに執着するあまり、<夫婦>が齟齬をきたしたということはない。むしろ現実上の<夫婦>の背後に過剰なメタフィジックを幻想したために、かえって傷ついたというべきかもしれない。これは「半日」のなかで、鴎外が、母親は女手一つでしぶんを養育し一人前にした長い歴史をもっているので、昨日今日結婚したばかりの細君の嫌悪くらいで母親にたいする感情をかえてたまるものかといったような場所にあるのと対称的であるといえる。ただこのいずれのばあいも、自由な男女の性愛による結合とはいえない<家族>が、習俗をはるかに抜いたところで当事者の一個人によってとらえられたことの悲劇であるという点ではかわりなかった。

A参考 『海・呼吸・古代形象』三木成夫 うぶすな書院 P72-P73

・ここで動物の体制を振り返ってみよう。それは植物の体制とはまことに対称的に終始一貫して、ものを"溜め込む"形にそれは出来ている。…・植物のからだは、こうして、その大自然と間断なく交流する、ひとつの開放型に擬せられることとなるが、ここから寸刻の渋滞も許されない、いいかえれば本来の姿としては、溜め込みを行なわない、そうした植物体制のもつ意味が明らかとなり、さらに、これとは対称的な、動物体制の形が、自然と浮彫りにされてくるのではなかろうか。
備考






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17 中間的な状態 ちゅうかんてきなじょうたい


項目抜粋 @『共同幻想論』(河出書房新社 P210)

・なかば<宗教>でありなかば<法>であるような中間的な状態にあるものを、いまの<規範>というようによぶとすれば、この<規範>にはさまざまな位相をかんがえることができる。
備考





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24 定立 ていりつ


項目抜粋 @『心的現象論序説』(北洋社)(S46.9.30 )P104
 
・<自然>としての人間の個体が存在しなければ、どのような心的現象も個体にともなって存在しえない、ということは実証のいらない自明の真理としては定立しえない。なぜならば、心的現象が存在するかいなか(あるいは心的現象が存在する)という命題は、心的現象が人間に存在するから命題を提起するのだという自同律的循環を前提として、はじめて定立されうるものである。ここでは、心的現象の内在的な領域は、あたかも幽霊が存在するかのように、それ自体で存在するかのような仮象を呈する。
備考 語義・@ある論理を展開するうえでの命題を定めること。また、その命題。テーゼ。
 国語辞典・福武書店






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32 対自性 たいじせい


項目抜粋 @『心的現象論序説』(北洋社)(S46.9.30 )P171

・心的にみられた自己表現としての言語、いいかえれば<概念>を構成する方向に志向する心的な構造は、対象に対する空間化度を知覚作用からかりることはありえないから、ただ対自性そのものを空間化度に転化するほかはない。したがって<概念>の空間化度はまったく恣意的でありうるとかんがえられる。  (P171)

・<概念>作用の空間化度は、知覚作用の空間化度とは質的にまったくちがっているとみなされる。もし<概念>の構成にとって、ある空間化度を想定することが必要だとすれば人間の心的領域の対自的な抽象(作用)を、対象として措定した空間化度の一系列ということになる。いいかえれば自己の自己抽象にたいする空間化度が<概念>の空間性である。
 おなじように<概念>の時間化度は、抽象(作用)にたいする了解の時間化度である。いいかえれば自己の自己抽象にたいする了解の時間性である。そこで、心的現象としての<概念>を、つぎのように定義することができる。
 心的現象としての概念とは自己抽象にたいする自己対象的な空間化度と時間化度の錯合した構造である。   (P186-P187)
備考






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37 立場 たちば 左翼性について


項目抜粋 『定本 言語にとって美とはなにかU』(角川選書200)

・【2 理論の空間】
わたしたちが立場というとき、それは世界をかえようという意志からはじまって世界についてさまざまな概念をかえようとするまでの総体をふくんでいる。文学(芸術)についてのさまざまな概念をかえるためにも、立場はなければならないし、またどうしてもあることになってしまう。  (P297-P298)
備考




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46 道徳の発生 どうとくのはっせい 倫理


項目抜粋 @吉本隆明全著作集14  「解層-その打破と主体性」

・まずみなさんが倫理とか道徳とかいう場合には、これは漠然として個人個人がいわば個人の内部で自己規制する道徳律であったりあるいは社会がなんとなく強制するといいますか個人を規制する道徳であったりというふうに道徳がかんがえられておるわけですけれども、また、そういうふうにかんがえざるをえないわけですけども、最初の国家の発生段階における倫理あるいは道徳というものはもともと個人道徳あるいは社会的な道徳、あるいはカントのいう内なる道徳律ってものはそういうような道徳律としては発生しなかったわけです。最初の道徳律はどういうふうに発生したかといいますと、氏族的または前氏族的な共同幻想がなんらかの形式で部族的な統一国家的な共同幻想性へ転化していく、つまり断絶しそして飛躍していく、氏族的な共同幻想性が習慣的な低地へ蹴落とされ、いわば
反作用みたいにして部族国家における共同幻想性が出現していく、そういう蹴落とされかつ飛躍するというそういう段階の裂け目に最初に倫理あるいは道徳というような問題が発生したわけなんです。だから、国家の発生段階における倫理あるいは道徳というものは、まさに現段階における共同幻想性とそれからそのあとに発展段階としてできた統一部族国家における共同幻想性との断層をそこで蹴落とされ反作用が起こるというような、そういう断層のよじれというようなもの、そういうもののなかに最初に道徳の発生の問題あるいは倫理の発生の問題という問題が、あらわれてくるわけです。
備考



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57 同定 どうてい 世界視線


項目抜粋 @『柳田国男論集成』(JICC出版局 ) P240-241

・そしてもうひとついえることは、石器時代からそうですが、縄文時代に村落があって、そのおなじ場所の上に弥生時代の村落があって、といった重層した遺跡がでてきます。また古墳時代の遺跡がおなじ地域で重なっている場所もあるわけです。それはどう想像することが妥当かといいますと、奈良盆地のなかに初期の国家をつくったところ、首都に近いところだったろうってことです。そう想定することが妥当な地質学的な同定の仕方になります。いってみれば、柳田国男の民俗学のイメージにあらわれてくる上からの視線には、歴史的な段階を込めることができます。原始時代から人間の地面に水平な眼の高さの視線はさしてかわりがありません。しかし、上から視線がいかに可能であったかは、
歴史の展開を暗示します。これを世界視線と呼べば、そこにはさまざまな歴史の段階の視線がつかまえられているといえます。
 そうすると、何が得られるかと申しますと、柳田国男の民俗学では弱点とされる
標高差のイメージが具体的にえられるのです。そこからは神話の地質学的な対応イメージをつくることができることになります。
        (P240-P241)
備考 語義・@動植物の分類・所属を決定すること。(福武国語辞典)

註. 化学の実験で出てきたような気がする。



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62 対称 たいしょう


項目抜粋 @『戦後詩史論』大和書房 1978.9.15

・三好豊一郎や嵯峨信之は、土橋や会田などと
対称的な意味で過渡的なコトバの問題をあらわしている。これらの詩人のどの作品をとってみても、四季派やモダニズム派の詩にあったような世界にくらべれば、コトバははるかに理性的につかわれている。  (P42)、(P43にもあり)

・ほとんど谷川雁が戦後詩にみちびいた方法と逆立ちした極端に対称的な方法をもつ詩人を想定しようとするとき、清岡卓行をおもいうかべずにはおられない。戦後詩の方法的な境界は、谷川雁と清岡卓行という二人の詩人によって象徴させることができる。すべての詩人たちの方法はこの中間にあるという構図をかんがえてもあやまりではないとおもう。しかしこのような見解は、詩的な想像力が現実感にうらうちされているときはじめて独立した世界像をつくることができるという前提にたって、はじめて成立するはずである。想像力の世界は現実とまったく切れては独立することができないということを、まずみとめなければならない。  (P72)

・【谷川俊太郎の詩「知られぬ者」について】この詩で自動車と鉛筆と化学のあいだに、狸と星と神とのあいだに、意味的な連関や
対称性は、まったくなくて、概念の任意性からだけできている。さらに終りの二つの節をみても、なんか意味ありそうだが、ほんとうは思想的な意味はないのである。それにもかかわらずこの詩が意外によくのびた映像性をかんじさせるのは、この詩人の概念内容がまさにそのぎりぎりの大きさで、この詩を成立させているからである。この詩人の本質的な精神の器は、まったくこの詩の背丈だけの内容をもっている。それは知的遊びとしてはあまりに生真面目であり、思想的な意味性としてはあまりに伝統から切れ、他とのかかわりからも切れすぎている。     (P120)
備考




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63 対照的 たいしょうてき


項目抜粋 @『戦後詩史論』大和書房 1978.9.15

・戦争をくぐった体験というのなら現在ある年齢以上の人々をひとしく捉えている。それならば体験から何を中心として択ぶかが戦後に生きることの意味を与えるはずである。いま戦後詩人たちの体験の意味を、<強者>として振舞った論理が敗北しそれと対照的に、<弱者>のように強いられた論理が勝利したことを、とことんまで身体に刻みこんだ体験というところでとらえてみる。<強者>の論理というのはたとえば近代日本の軍隊の思想である。ある戦闘目的があるとすれば、その戦闘目的を成就するためには人間の生命【ルビ いのち】は軽いものだ、つまり命をすててしまってもその目的をとげなければならない。そして命をすてないのはいわば<弱者>であり、だからある目的のためには命をすてうることはいわば、<強者>なんだというかんがえ方とうけとってみる。戦後詩人たちの出発の体験はそういう<強者>の論理のるつぼの中にいちどは叩き込まれ、そこから出てきた体験だとかんがえたらわかりやすい。  (P142)
備考



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65 対称 たいしょう


項目抜粋 @『マス・イメージ論』福武書店 1984.7.10

・・・・・・父親や母親にとっては一匹の虫になぜか化身してしまった息子とみえるのに、兄妹相姦的な愛の願望をもつ妹からは、虫の身体表出を介してすべての行為がじぶんにたいする愛であるような
対称をみなくてはならない。この変成のイメージは世界のシゾフレニー化である。この世界に接触したものは誰でも、近親相姦的な関係のなかにあるものと、その外にあるものに振りわけられてしまう。またこれは世界の未分娩化であるとともに世界の被害妄想化なのだ。わたしたちは胎児として母親の胎内にあったじぶんまでは想像しても、それ以前は想定する必要がないはずなのに、この世界に接触すると視線に怯えがやってきて、未生以前の虫や猿のような動物にまで遡行しなくてはならなくなる。
 この変成のイメージは現在が人間という概念のうえに附加した、交換不可能な交換価値なのだ。わたしたちは身体図式を人間以前にまで拡張される。障壁をつくるべき閾値がどこにも存在しないからだ。
   (P17−P18)(「変成論」)


・つげ義春の作品の世界を、山岸涼子が意識的に分離している画像の精緻な語相と、
対称的な位置にあるものとみなしてみよう。そこでは語り手の言葉は、語相として画像空間から分離されず、むしろ画像の一部分として、画像とおなじ位相にはめこまれていることがわかる。登場人物のかわす会話の言葉は、これに反して、劇的な言語の位相におかれる。そして強引に作品の物語性を引っ張ってゆく。この語相の特徴にくわえて、つげ義春の画像は、ひとびとの常識的な皮膜をつき破るように、ラジカルに劇的事実をむき出しに正面から描ききっている。  (P267)(「語相論」)
備考




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