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ID | 項目 | よみがな | ID | 項目 | よみがな | |
10 | わたしたち | わたしたち | ||||
66 | 話体 | わたい | ||||
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10 | わたしたち | わたしたち | わたし |
項目抜粋 | @『心的現象論序説』(北洋社)(S46.9.30 )P164 P176 ・わたしのかんがえでは、この種の(個体と個体との)<接触>において、もっとも重要なのは<好く>あるいは<好かぬ>という<感情>ではなく、介在する過程としての<中性>の<感情>である。 (P164) ・こういうことはわたしを危惧させる。人間の生理的な<宿命>を、たとえ部分的であれみとめることは、決定論への服従を意味しているのだ。わたしの心を過ぎるのはこのような<宿命>の是認にたいする抗議である。 (P176) ・だがしかし、わたしのかんがえでは、〈心像〉において決定的なことは、その対象が非現実的であるということではない。非現実的な対象が、間接的な多重な関係づけによってあらわれるはずの対象物を直接的な一重の関係づけの世界(感性的あるいは知覚的世界)にひき入れようとする思念によって、はじめて不鮮明な形像的な対象としてあらわれるということが決定的なのだ。いいかえれば〈心像〉において、わたしは概念的な実体そのものに肉体をあたえようとしている。このばあい概念的な対象物が、なんであるかということは、〈心像〉の意識にとっては、その都度撰択され、思念される恣意性にすぎないが、対象物が〈心像〉にあらわれるあらわれ方は、その対象の種類や質にかかわらず、いつもおなじ仕方でしかあらわれないということが重要なのである。なぜならば対象がなんであれ、〈心像〉においては、ただ概念の実体がさまざまな鏡によってさまざまな貌をしてあらわれるだけで、いつもおなじ実体に対面しているだけである。 (P283-P284) A『柳田国男論集成』(JICC出版局)(1990.11.1 ) ・柳田国男が日本の村里の婚姻の風習にふれながら、その風習がどんな動機で移りかわっていったか説きあかそうとする。その言葉は理路をぬきにして事実を忠実にしるすのでもなく、理路をさきだてるあまり事実を無視して抽象にはしるのでもない。また村里ごとの婚姻風習の資料を、たんねんにあつめて実証的に分類し、そのうえで論理的な結論を与えるのでもない。ある固有の熱い思いいれを結び目において、織物を織りひろげてゆくようなものだ。たて糸は事実の糸であり、よこ糸は理路の糸であるとしても、固有の熱い思いいれの結び目にあわないぎり、事実も理路も使われぬまま捨てられてゆく。それをたどりながら、しだいに柳だの固有の思いいれに結びついたわが村里の婚姻の風習にひきこまれ、しだいに深層に潜行してゆくような、内部からの感覚をおぼえる。そのときだ、既視現象のような、あるひとつの像【ルビ イメージ】がいつもやってくるのは。柳田国男がここでわたし(たち)をひきこんでゆくわが村里の婚姻風習の世界は、いわば内視鏡に映している世界だ。書きしるしていく柳田国男の文体も、それを読んでひきこまれてゆくわたし(たち)の方も、ほら、あらたまって言わんでもわかるだろうといった内証ごとの世界にはいった感じで、〈読むもの〉と〈読まれるもの〉の関係にはいっている。いわばかれの方法も文体も読者の無意識が、村里の内側にいる感じをもつことをあてにし、それを前提に成り立っている。その魅力(魔力)にひきこまれてゆくかぎり、読む者はまちがいなく、日本の村里の習俗の内側にいるという無意識をかきたてられる。それがわたし(たち)に既視現象みたいな感じをあたえる理由だとおもえる。 (P10-P11) |
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備考 | 註1. たとえば、『言語美』のなかで、「わたしたち」と、ときに出てくる「わたし」のもんだい。表現、表出の位相について。 註2.『心的現象論序説』で、「わたしたち」と「わたし」ともにでてくる。表出の意識の差? 「わたしたち」は、普遍的に論理をかたるときに登場するみたい? |
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ID | 項目 | よみがな | 項目関連 |
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66 | 話体 | わたい |
項目抜粋 | @『マス・イメージ論』福武書店 1984.7.10 ・・・・・・ここで優れているという概念は、ポップアートやエンターテインメントの高度化や質的な転換によって、言語がはじめて当面したもののようにおもえる。ではポップアートやエンターテインメントの言語とはいったい何なのだろうか。残念なことに伝統的な表現様式からは徹頭徹尾これに関与も寄与もできそうもない。たかだか気ままな視聴者とか観客とかいう立場から、これらの言葉が世界の重心を確実に上げてゆく徴候を傍受しているだけだ。 話し言葉が硬質さを求めて書き言葉の方へ移っていったのではない。話し言葉が硬質さを求めて書かれる話し言葉(話体)に移ってゆくのでもない。話し言葉は硬質さを求めて、話し言葉の奥の方へ移動する。話し言葉の奥にはまた、話し言葉があるのだが、もはやそこでは挨拶はいらない。孤独な乾いたじぶんの喋言る言葉を、じぶんから区別するためにだけ発する話し言葉の世界がひらかれる。この話し言葉では対話の空間がきりひらかれるわけでもなければ、親和や対立がひき起こされるわけでもない。新しい日常的な空間が、あたかも独り言だけしかないような中性の領域にきりひらかれる。この話し言葉の世界は新しい出現であるとおもえる。それは縮合の帯域にまったく独在的な言語空間をつくって同一性の世界を構成しているようにみえる。 これらの縮合された話し言葉の空間が、そんなに高度で新しいものかどうか、疑念はありうる。そこでかれらが伝統的な言語様式でわかり易く語っている創作のモチーフや、理念の言葉を、ふたたび縮合させてみる。 (P134)(「縮合論」) ・ここまできて、現在のポップ文学やエンターテインメントの世界が、その量的なスペクトラムのそれぞれの層の様式を縮合させることで達成している質の高度さが、決して偶然ではないとおもわれてくる。ただそこでは言葉が概念の伝統的な様式、おもに書き言葉を集積することで得られた様式とまったく別様に使われている。その置きなおしや等価交換が難しいために、その高度さの意味を了解するのがきわめて難しい。易しいのは表層だけで、無意識の深層をどう理解するかが難しいのだ。文体的にいえばそこで使われている話体は、無意識の層の表出にあたる話体で、日常のコミュニケ−ションの必要からでた話体ではない。そこで話体が生みだす対立、了解、葛藤は無意識層にあるものの表象であって、日常の次元にあるのではない。 (P141) |
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