Part 1
共同幻想論

  河出書房新社 1968/12/05発行



項目ID 項目 論名
禁制 1 禁制論
禁制 1 禁制論
禁制 1 禁制論
禁制 1 禁制論
入眠幻覚 2 憑依論
入眠幻覚 2 憑依論
<憑く>という概念 2 憑依論












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禁制 きんせい 1 禁制論
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フロイトの禁制 対なる幻想
項目抜粋
1

@●禁制(Tabu)というもともと未開の心性に起源をもった概念にまともな解析をくわえた最初の人物はフロイトであった。フロイトに類推の手がかりをあたえたのは神経症患者の臨床像である。神経症患者がなぜそうするのか理由もわからず、また論理的な糸もたぐれないのに、ある事象にたいして心を迂回させて触れたがらないとすれば、この事象はかならずといっていいほど患者にとって願望の対象でありながら、恐れの対象でもあるという両価性をもっている。フロイトはながいあいだの観察の経験からそれを知っていた。そしておおくのばあい恐れの対象であるという側面は、患者の心の前景におしだされるが、恐れの対象そのものが同時につよい執着や願望の対象でもあるという側面は心の奥のほうにしまいこまれていることをフロイトは見出していたのである。 (P31)

●フロイトは未開の種族が神経症患者とおなじにはあつかえないにしても、共通の心性をとりだすことができるとかんがえた。フロイトの体系からはとうぜんかんがえられることである。かれは人間の心的な世界を乳幼児期からレンガのようにつみかさねられた世界とみなしている。もちろん、人間の心的な世界は幻想だからレンガのようにつみかさねられるはずがない。現在の心的な世界は、ただ現在ある世界であって、どんな意味でも過去からつみあげられたままの世界ではない。しかし、フロイトのこういう図式的なかんがえ方は、個々の人間の<生涯>を人類全体の<歴史>と対応させるにはきわめて有利である。そこで個々の人間の乳幼児期は人類の歴史の未開期になぞらえられる。もし神経症がなんらかの意味で心的な世界の退化としてかんがえられるとすれば、未開種族の心性が神経症の症候と類比できるとかんがえるのはとうぜんであった。そしてフロイトは神経症にたいするかれの基本的なかんがえを未開種族の禁制にたいしてあてはめたのである。

 フロイトのタブー論のうち、わたしの関心をひくのは近親相姦にたいする<性>的な禁制と、王や族長にたいする<制度>的な禁制とである。なぜならばこのふたつは前者が<対なる幻想>に関しており、後者が<共同なる幻想>に関しているからである。 (P32)

項目抜粋
2

●フロイトは人間の<性>的な劇をまったく個人の心的なあるいは生理的な世界のものとみなした。このかんがえには疑問がある。ごくひかえめに見積っても、この<性>的な劇を<制度>のような共同世界にまでむすびつけようとするときには疑問がある。そこで人間の<性>的な劇の世界は個人と他の個人とが出遇う世界に属するもので、たんに個体に固有な世界とはみなすべきでないとかんがえるべきである。そしてこのフロイトの心的な世界を<対なる幻想>の世界とよぶことができる。

 フロイトは神経症患者の心的な世界を無造作にひろげすぎた。かれの思想は一貫して<性>としての人間を本質的な人間とみなしており、その世界のそとに触手をのばすときには、それなりに必要な手続きをおこたっている。     (P34)

備考




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禁制 きんせい 1 禁制論
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前提 黙契と禁制
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1

A●そこで、わたしたちは禁制にもまた<自己なる幻想>と<対なる幻想>と<共同なる幻想>を対象とするまったく異なった次元の世界があることを前提にしなければならない。そして、この三つの世界も、未開のはじめにはきわめて錯合してあらわれるかもしれないし、けっしてフロイトのように敵なるもの、王なるもの、死なるものというようにはっきりととりだすことはできない。このばあい、わたしたちは資料として民俗譚をもっているだけだが、民俗譚は古くしかも新しいという矛盾した性格をもっており、この矛盾を正確にとりあつかえれば、未開の幻想の諸形態を考察するための唯一の資料でありうる。

●ある対象が、事物であっても思想であっても人格であっても禁制の対象であるためには、対象を措定する意識が個体のなかになければならない。そして対象はかれの意識からはっきりと分離されているはずである。かれにとって対象は怖れであっても崇拝であっても、そのふたつであってもいいが、かれの意識によって対象は過小にか過大にか歪んでしまっている。さしあたって、じぶんにとってじぶんが禁制の対象であったとすれば、対象であるじぶんは酵母のように歪んでいるはずである。そしてこの状態がたえず是正をせまるものがあるとすればかれの身体組織である生理的な自然そのものである。またじぶんにとって<他者>が禁制の対象であったとすれば、この最初の<他者>は<性>的な対象としての異性である。そしてじぶんにとって禁制の対象が<共同性>であるとすれば、この<共同性>にたいするじぶんは、自己幻想であるか<性>的な対幻想であるかいずれかである。

●じぶんにとってじぶんが禁制の対象である状態は、強迫神経症とよばれているもののなかにもっとも鮮やかにあらわれる。そしてこの状態はあらゆる心的な現象とおなじように、例外なく共同の禁制と逆立してあらわれるはずである。しかし、<正常>な個体は大なり小なり共同の禁制にたいして合意させられている。そしてこの合意は黙契とよばれるのである。黙契においても対象となるものはかならずある。そしてその対象はある共同性の内部にある。<かれ>の意識にとって対象が怖れであっても崇拝であってもいいことは、禁制のばあいとおなじだが、ただ<かれ>の意識は共同性によって、いわば赦されて狃れあっているという意識をふくんでいる。禁制ではかれの意識はどのように共同性の内部にあるようにみえても、じつは共同性からまったく赦されていない。いわば神聖さを強制されながらなお対象をしりぞけないでいる状態だといえる。     (P37-P38)

項目抜粋
2

Bここで問題があるとすれば、禁制もまた共同性をよそおっている黙契とおなじみかけであらわれてくることがありうるということである。このときには、わたしたちはなんによって共同の禁制と黙契とをくべつできるだろうか?共同の禁制は、制度から転移したもので、そのなかの個人は幻想の伝染病にかかるのだが、黙契はすでに伝染病にかかっているものの共同的な合意としてあらわれてくる。わたしたちの思想の土壌のもとでは、共同の禁制と黙契とはほとんど区別できないような形であらわれる。禁制はすくなくとも個人からはじまって共同的な幻想にまで伝染してゆくのだが、個人がいだいている禁制の起源がじつはじぶん自身にたいして明瞭になっていない意識からやってくるのである。知識人も大衆もいちばんおそれるのは共同的な禁制からの自立であるが、このおそれは黙契の体系である生活共同体からの自立のおそれとじぶんの意識のなかで区別できていないのだ。いいかえれば<黙契>は習俗をつくるが、<禁制>は幻想の権力をつくるものだということがつきつめられないままでつながっている。

 未開の<禁制>をうかがうのにいちばん好都合な資料は、神話と民俗譚である。けれど<禁制>と<黙契>とがからまったままつながっている状態を知るには民俗譚が資料としてはただひとつのものである。神話はその意味では高度につくられすぎていてむしろ宗教・権威・権力のつながり方をよく示しているが、習俗と生活威力とのからまった幻想の位相をしるにはあまり適していない。

 ただ、民俗譚は現在に伝えられているかぎりすべてあたらしいもので、未開の状態をうかがおうとしてもかなり変形されている。そしてこの変形は神話のように権力にむすびついているための変形ではなく、習俗的なあるいは生活威力的な変形というべきものである。
     (P39-P40)

備考

註1「共同の禁制は、制度から転移したもので、そのなかの個人は幻想の伝染病にかかるのだが、黙契はすでに伝染病にかかっているものの共同的な合意としてあらわれてくる。わたしたちの思想の土壌のもとでは、共同の禁制と黙契とはほとんど区別できないような形であらわれる。」

註2 「いいかえれば<黙契>は習俗をつくるが、<禁制>は幻想の権力をつくるものだということがつきつめられないままでつながっている。」




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禁制 きんせい 1 禁制論
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項目抜粋
1

B●『遠野物語』の山人譚が、わたしたちにリアリティをあたえるのは民俗学的な興味を刺戟されるからではなく、心的な体験にひっかかってくるものがあるからである。この心的な体験のリアリティという観点から、山人譚の<恐怖の共同性>を抽出してみればつぎのふたつに帰する。

(1)はいわゆる<入眠幻覚>の恐怖である。

●しかし、民俗譚をかんがえるばあい重要なことは、それを幻想の共同性として了解することであり、説話や伝承の共同性として了解することではない。『遠野物語』のなかの山人譚を入眠幻覚の一種としてうけとったとき、この山人譚とわたしたちの現代的な<既視>体験とどこがちがうのだろうか?

 『遠野物語』の山人譚は、猟師が繰返している日常の世界からやってくる<正常>な共同の幻想である。しかし、わたしたちが体験する<既視>は、日常の世界とはちがった場面で出遇いそして感ずる個人の<異常>な幻想として意味をもっている。このちがいは日常生活に幻想の世界をよせる大衆の共同的幻想と非日常的なところに幻想の世界をみる個人幻想との逆立を象徴しているようにおもわれる。
   
 (P44-P46)

Cわたしのかんがえでは、もちろんこの主人公の解釈はまちがっている。疲労によって判断力の時間性が変容したために、感覚的な受容とその了解とが共時的に結びつかないで、いったん、受容した光景を内的にもう一度視るということにしか<既視>の本質はないからだ。

 しかし、それはいまの場合ちいさなことである。ここでとりあげたいのは覚醒時の入眠幻覚ににたような心的体験が、人間にとって共同性と個人性という二様の形であらわれうるということである。

 『野火』の主人公のである<私>にとって、<既視>体験は、いわば個人の心に現われる幻想という意味をもっている。個体はこのとき、すでに過去に視たことのあるものが再現されるすがたを、まったくはじめての心的な体験のようなものとしてうけとる。もし、繰返したくさん体験したことを人間はよりおおく心の経験として保存するということが真実だとしたら『野火』の主人公が体験したような<既視>は、たくさん繰返されたであろう多数の人間の共同的な幻想を個人幻想として体験するという心的な矛盾の別名にほかならない。だからこそ、精神病理学は、<既視>という共通の術語で個体をおとずれる心的異常の意味をとらえるのである。   (P48)

項目抜粋
2
Dだが、『遠野物語』の猟師が感ずる入眠幻覚の性質は、『野火』の主人公のばあいとちがっている。・・・・という山人譚には、猟師仲間の日常生活の繰返しのなかからうまれた共同的な幻想が共同的に語り伝えられるという本質しかない。たしかに、そういう体験をしたと村の猟師が語ったとしても、かれが個人として<異常>な心のもちぬしだとはいえない。ただ<正常>な個人の虚譚でありうるだけである。ここでは、<異常>な心の体験は、<異常>とならずに<嘘>としてあらわれる。この理由はおそらく単純である。山村の猟師という日常生活の共通性にもとづいて、共通な山奥の猟場の心の体験が、長い年月をかけて練られたのち、この種の山人譚がうみだされる。個々の猟師の幻想体験が真実であったとしても、その幻想は共通の日常生活の体験によって練りあげられて共同性となったとき、<異常>とならずに<嘘>に転化するのだ。    (P49)

備考




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禁制 きんせい 1 禁制論
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1

E●つぎにかんがえられる<恐怖の共同性>としては、  

   (2) <出離>の心的な体験ともいうべきものである。

  『遠野物語』のなかのこの種の話は、いわば村落共同体から<出離>することの心的な体験という意味でリアリティをもっている。・・・・そしてこの種の山人譚で重要なことは、村落共同体から離れたものは、恐ろしい目にであい、きっと不幸になるという<恐怖の共同性>が象徴されていることである。村落共同体から<出離>することへの禁制(タブー)がこの種の山人譚の根にひそむ<恐怖の共同性>である。

 タイラーの『原始文化』やフレーザーの『金枝篇』をまつまでもなく、未明の時代や場所の住民にとって、共同の禁制でむすばれた共同体以外の土地や異族は、いわばなにかわからぬ未知の恐怖がつきまとう異空間であった。心の体験としてみればほとんど他界にひとしいものであった。それが『遠野物語』の山人のように巨人に象徴されても、小人や有尾人に象徴されても、住民の世界感覚にとって村落の共同性からへだてられた他郷は、異空間にもひとしかったであろう。それにもかかわらず、心の禁制をやぶって出奔するものも、そういう事情も現実にあったのだとこの種の山人譚は暗示しているようにおもわれる。 (P49-P51)

●ここまできて、わたしたちは『遠野物語』の山人譚が語りかける<恐怖の共同性>ともいうべきものが、時間恐怖と空間恐怖の拡がりによって本質的に規定されていることを了解する。又聞き話とそうだ話とが手をのばしうる時間的なひろがりは、ここでは百年そこそこである。また空間的なひろがりは遠野近在の村落共同体をでない。それ以前の時間もそれ以外の空間もさまざまに意味づけられる未知の恐怖にみちた世界である。その世界が共同の禁制が疎外した幻想の世界であり、既知の世界はこちらがわでさまざまの掟にしめつけられている山間の村落である。   (P51)


項目抜粋
2

Fしかし、すべての怪異譚がそうであるように『遠野物語』の山人譚も高所崇拝の畏怖や憧憬を語っている伝承とはおもわれない。そこに崇拝や畏怖があるとすればきわめて地上的なものであり、他界、いいかえれば異郷や異族にたいする崇拝や畏怖であったというべきである。そして、その根源には村落共同体の禁制が無言の圧力でひかえていたとおもえる。

 わたしたちの心的な風土で、禁制がうみだされるための条件はすくなくともふた色ある。ひとつは、個体がなんらかの理由で入眠状態にあることであり、もうひとつは閉じられた弱小な生活圏にあると無意識のうちにもかんがえているときである。この条件は、共同的な幻想についてもかわらない。共同的な幻想もまた入眠とおなじように現実と理念との区別がうしなわれた心の状態でたやすく共同的な禁制をうみだすことができる。そしてこの状態の真の産み手は、貧弱な共同社会そのものである。  (P54-P55)


備考





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入眠幻覚 にゅうみんげんかく 2 憑依論
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柳田国男 入眠幻覚の構造的な志向の概念
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1

@柳田の民俗学は「いざ今いち度かへらばや、うつくしかりし夢の世に、」という情念の流れのままに探索をひろげていったようである。夕べの<眠>から身を起して薄暗い民譚に論理的な解析をくわえるために立ちどまることはなかった。その学的な体系は、ちょうど夕ぐれの薄暗がりに覚醒とも睡眠ともつかぬ入眠幻覚がたどる流れににていた。そして、じじつ、柳田が最初に『遠野物語』によって強く執着したのは、村民のあいだを流れる薄暮の感性がつくりだした共同幻想であった。 (P57)

A柳田は、子供のあいだには神隠しにあいやすい気質があるとおもっていると述べている。もしも覚醒時や半眠時の入眠幻覚に、<気質>という概念が入りこめるとすれば、入眠幻覚がとの方向へむかうか、という構造的に志向の差異という意味によってのみである。ここで柳田の入眠幻覚を性格づける構造的な志向がたしかめられるとすれば、もらい湯のかえりにさらわれそうになったとか、山へ茸狩にでかけて淋しい池のほとりで休んだのちに、家に帰ろうとして歩いていったら茫っとして元の淋しい池にかえっていたとか、また、絵本をあてがわれて寝ながら読んでいるちに、神戸の叔母さんがいるという考想にとりつかれ、いつの間にか実在しない神戸の叔母のところへゆくつもりで家をとびだしていたという挿話の共通な性格によってである。そして、こういう挿話から共通の構造的な志向をとりだすとすれば、柳田の入眠幻覚がいつも母体的なところ、始原的な心性に還るということである。そこにみられる恐怖もいわば母親から離れる恐怖と寂しさというものに媒介されている。<気質>という概念をみとめる精神病理学の立場からすれば、柳田国男の入眠幻覚の性格はナルコレプシーのような類てんかん的心性として位置づけられる。  (P59-P60)

項目抜粋
2

Bわたしはいくらか入眠幻覚という言葉を濫用してきたきらいがある。この概念をあいまいにしないために、入眠幻覚の構造的な志向の概念を拡張してみよう。入眠幻覚はその構造的な位相のちがいによって類型をとりだすことができる。柳田国男が少年時のもうろう状態の体験として描いた志向性を類てんかん的なものであり、ある始原的な欠損にむかうものとすれば、ほかに典型的に<他なるもの>へ向うという型と、<自同的なるもの>の繰返しの志向とを想定することができる。

 けれどあとのふたつは行動体験にあらわれない。なぜなら<他なるもの>へむかう幻覚の構造的な志向は、自己の心的な喪失を相互規定としてうけとるからであり、<自同的なるもの>への構造的な志向は、自己内の自己にむかうからである。そこでは入眠幻覚の性質は行動にあらわれた結果によって知られるのではなく、自己喪失と自己集中の度合によってきめられる。わたしのかんがえでは、<始原的なもの>へむかう志向と、<他なるもの>へむかう志向と、<自同的なるもの>へむかう志向とのあいだの入眠幻覚の位相のうつりかわりは、共同幻想が個体の幻想へと凝集し逆立してゆく転移の契機を象徴している。 (P60)

備考




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入眠幻覚 にゅうみんげんかく 2 憑依論
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個体の幻想性から共同幻想への特異な架橋の構造
項目抜粋
1

Cいま、これらの入眠幻覚の構造的な志向を<憑く>という位相でながめれば、柳田国男の描いている少年時の体験は、<自己行動>に憑くという状態であり、遠感能力者の手記が語るのは他の対象に憑くということであり、ジェイムズのあげている宗教者の手記は自己が拡大された自己に憑くという状態である。そして、これらの入眠幻覚の体験から異常体験という意味を排除してかんがえれば、それぞれは常民の共同幻想から、巫覡の自己幻想へ、巫覡の自己幻想から、宗教者の自己幻想へと移ってゆく位相を象徴している。   (P62-P63)

D柳田の描いている入眠幻覚の体験は、もうろう状態で自己の行動になってあらわれる幻覚を意味している。<予兆>譚は行動としての構造をうしなっても、心的な体験としては、はっきりと自己以外の他なる対象を措定している。ここでは関係意識がはじめて心的な体験の構造に参加するために登場する。 (P63)

E●ここで一様にあらわれるのは、狭くそして強い村落共同体の内部における関係意識の問題である。共同性の意識といいかえてもよい。村落の内部に起っている事情は、嫁と姑のいさかいから、他人の家のかまどの奥の問題まで村民にとっては自己を知るように知られている。そういうところでは、個々の村民の幻想は共同性としてしか疎外されない。個々の幻想は共同性の幻想に<憑く>のである。

 一般的にいって、はっきりと確定された共同幻想(たとえば法)は、個々の幻想と逆立する。どこかに逆転する水準をかんがえなければ、個々人の幻想は共同性の幻想と接続しない。しかし『遠野物語』の<予兆>譚が語るものは個体の幻想性と共同の幻想性が逆立の契機をもたないままで接続しているという特異な位相である。これは、おそらく常民の生活の位相を象徴している。

 この種のふつうの村民の<予兆>譚を「芳公馬鹿」や「柏崎の孫太郎」のような異常者のばあいとおなじように、村民の個人的な入眠幻覚の心的な体験に還元しようとすれば、関係意識(対象意識)の軸は、どの位相から個々の<異常>または<病的>な体験を理解するために導入すべきかという問題にゆきあたる。

項目抜粋
2

●そして、わたしたちのいいうることのすべてのことは、個体の精神病理学は、ただ男女の関係のような<性>の関係を媒介するときだけ、他者の(二人称の)病理学に拡張されるということである。・・・・そして、個体の精神病理学を共同の、あるいは集合の病理学に拡張するためには、個体の幻想性と共同の幻想性とは逆立するものだという契機が導入されなければならない。

●『遠野物語』のふつうの村民の<予兆>譚を、もし精神病理現象としてかんがえようとすれば、個体の精神病理と共同的な精神病理とが逆立の契機なしに斜めに結びつくような特異な関係概念をみちびき入れることが必要である。柳田の学的体系は、この特異な関係概念を導くのに失敗している。・・・・しかし、民俗譚がもっている個体の幻想性から共同幻想への特異な架橋の構造を考察するについては、ほとんどなすすべをしらなかったということができる。 (P67-P69)

備考 註1.「個体の幻想性から共同幻想への特異な架橋の構造」




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<憑く>という概念 にゅうみんげんかく 2 憑依論
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1

F<憑く>という概念は不分明とはいえ個体と共同体の幻想性の分離の意識をふくむものである。そこでは巫覡的な人物が分離して個体と共同体の幻想を媒介する専門的な憑人となる。憑人は自身が精神病理学上の<異常>な個体であるとともに、自己の<異常>を自己統御することによって共同体の幻想へ架橋する。  (P69-P70)

Gただ、この種の憑人で重要なことは、個体をおとずれる幻想性が、不分明なままであっても、共同の幻想と分離していることが前提であるということである。そしてこの共同的な幻想は、地上的な利害とはっきり結びついてあらわれる。速水保孝は、まず憑き筋をつくる経済社会的な理由(よそ者であるのに富有であるというような)があって憑き筋の家系が捏造されるものだとかんがえている。しかし、おそらくこの考察はちがっている。まず村民たちに入眠幻覚のような幻想の共同的な体験伝承があって、この伝承は、そのかぎりではどんな個人の憑人をもひつようとしていない。酵母のようにふくらんで村落の共同幻想のうえにおおいかぶさっているだけである。そのつぎの段階でこの共同幻想は、村の異常な個人に象徴的に体現される。かれは<予兆>をうけとるものであり、またべつの位相からは精神異常者である。そのつぎの段階で個体の入眠幻覚が、共同幻想に憑くことをやめて共同体のなかのある家筋やべつの個人に憑くようになると、共同幻想は遊離されてくる。このような状態で村落共同体の経済社会的な利害の問題は、はじめて憑き筋として共同的な幻想を階級的に措定するのである。  (P70-P71)

H狐が他の個体や村落共同体の共同幻想のはんいに<憑く>ときにだけ<家>筋や村落の地上的な利害があらわれるのである。・・・・『遠野物語』もいくつかの<憑人>譚をかきとめている。しかしそれはいずれも個体の入眠幻覚が、伝承的な共同幻想に憑くという位相で語られており、したがって地上的な利害を象徴するものとなっていない。地上的貧困を象徴するとしても。  (P72-P73)

項目抜粋
2



備考




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