Part 2
共同幻想論

  河出書房新社 1968/12/05発行



項目ID 項目 論名
離魂譚 3 巫覡論
いずな使い 3 巫覡論
10 いずな使い 3 巫覡論
11 <巫女>とはなにか? 4 巫女論
12 女性とはなにか 4 巫女論
13 巫女とシャーマン 4 巫女論












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離魂譚 りこんたん 3 巫覡論
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芥川龍之介の『歯車』
項目抜粋
1

@●わたしがここで『歯車』の主人公の離魂症的な体験の描写をとりあげたのは、べつにこの現象が異常だとかんがえたからでもなければ、物珍しい心的な現象だとかんがえたからでもない。この種の個人と個人との心的な相互規定性では、一方の個人がじぶんにとってじぶんを<他者>におしやることによって他方の個人と関係づけられる点に本質があることを指摘したかったからにほかならない。一般にわたしたちが個人として、他の個人を<知っている>というとき、わたしたちはまず自身を<他者>とすることによって、はじめて他の個人に<知られる>という水準を獲得する。だからこそ他の個人は、『歯車』の主人公にたいする「K君の夫人」や「隻脚の翻訳家」のように、まったく恣意的に「第二の僕」を錯覚することができるのだし、また、逆に主人公の方では、じっさいに「帝劇の廊下」や「銀座の或煙草屋」に行ったかもしれないのに、恣意的にじぶんの記憶からじぶんの行為を消し去ることができるのである。一方の個人が他方の個人にとってよそよそしい<他者>ではなく、勝手に消し去ることができない綜合的存在としてあらわれる心的な相互規定性は、一対の男女の<性>的関係にもとづいてあらわれる対幻想においてだけである。

●『歯車』の主人公は、「第二の僕」をみたという知人たちの話をきいて、それをじぶんの<死>の予兆のようにうけとっている。じっさいは、この因果関係は逆である。はじめに主人公に死の想念がたえずあるため、「第二の僕」をみたという知人の話が死の想念に関係づけられたのである。  (P76-P77)

A●『遠野物語拾遺』のこの<離魂譚>には、げんみつな意味で<他者>の概念は存在しない。入営した若者や病人が、自己幻覚のなかで実在の自己を離れて遊行するということにだけ本質的な意味がもとめられる。しかし『歯車』の主人公のばあいには<僕>の自己幻覚の過程はすこしも明瞭ではないかわりに、知人の錯覚という要素が登場しうる余地を残している。いいかえれば、このばあい<僕>と<他者>との心的な相互規定性をかんがえることなしには、Doppelgangerの問題は解きえない。わたしが、はじめに芥川龍之介の『歯車』から主人公の離魂体験の描写を引用した理由ははっきりしている。離魂体験が、いずれにせよ<第二の僕>の登場を、いいかえれば<他者>の登場を不可欠のものとしているにもかかわらず、この<他者>は、自己や自己とおなじ水平線に存在するか、あるいは一見するとまったく<他者>が登場しないかのような形でも存在しうるということが比較によって理解される。

項目抜粋
2

●『遠野物語拾遺』の<離魂譚>は、芥川龍之介の『歯車』の主人公の離魂描写とちがって、<他者>を対象として措定しえないようにみえる。しかし、自己以外の対象を措定しない離魂現象は存在しえないし、無意味であることも確かである。そうだとすればこの種の<離魂譚>が措定する対象は何であろうか?

 わたしのかんがえでは、村落共同体の共同幻想そのものである。入営した村の若者の自己幻覚が遊行してゆく対象は、<故郷>であり、<妻>や<嫂>や<母>や故郷の<小川>や<家>の炉端である。高熱にかかった村の病人の自己幻覚がたどるのは<亡母>であり、<橋>のむこうにいて手招きする亡母とそれをわたりかねている病人に象徴される伝承概念としての<他界>と<現世>である。<橋>はこのばあい子供のときからきかされていた土着仏教の<三途の川>の橋であっても、仏教以前の古伝承としての霊のあつまる高所と人のあつまる村落とをへだてる川の<橋>であってもよい。これらはいずれも遠野の村落の共同幻想の歴史的現存性の象徴を意味しているからである。<離魂譚>の村の若者や病人が嗜眠状態で自己幻覚をたどらせる対象は、彼らに親しい個人である<他者>ではなく、母胎のような村落の共同幻想の象徴である。『歯車』の主人公にはそういう母胎のような共同幻想は存在しない。

…・わたしたちが現実の桎梏からの解放を願うならば、いずれにせよ共同幻想からの解放なしには不可能である。芥川龍之介に悲劇があるとすれば都市の近代的知識人としての孤独にあるのではない。都市下層庶民の共同幻想への回帰の願望を、自死によって拒絶し、拒絶することによって一切の幻想からの解放をもとめた点にあるのだ。 (P79-P81)

備考




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いずな使い いずなつかい 3 巫覡論
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自己幻覚をうるための媒介
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1

Bこの種の<いずな使い>の民譚が、さきの<離魂譚>よりも高度だとかんがえられる根拠は、すでにここでは自己幻覚をうるための媒介がはっきりと<狐>として分離されており、けっして嗜眠状態でもうろうとした意識がたどる直接的な離魂状態ではないからである。ここでは村落の共同幻想の伝承的な本質は、はっきりと<狐>として措定される。そして狐使いは、作為的であると否とにかかわりなく、<狐>という共同幻想の象徴に自己幻覚を集中させれば、他の村民たちの心的な伝承の痕跡をもここに集中同化させることができることが信じられている。これは、犬や猫や蛇であっても、折口信夫が指摘している箱におさめられた<偶人>(人形)であっても、村落の共同幻想の象徴である点で、まったくおなじことを意味している。

 さらにこの種の<いずな使い>が、さきの<離魂譚>よりも高度だとかんがえうる理由は、はっきりと自己幻覚を獲得し、これを村落の共同幻想に集中同化させる能力が、職業として分化し、したがって村落の地上的利害の問題と密着してあらわれていることである。<いずな使い>はもちろん個体としてみれば類てんかん的な入眠状態の幻覚を、媒体さえあれば獲得できる異常者である。   (P82)

C●もしも個体が、この共同幻想の時間性に同致しうる心的な時間性をもつとすれば、かれの個体の心性が共同幻想の構成そのものであるか、あるいは何らかの方法によってかれの心的時間性を同調させるほかはありえない。『遠野物語拾遺』の<いずな使い>は、自然にかあるいは作為的にか、かれの心的了解の時間性を共同幻想の時間性に同調させているのである。

 一般的にいって個体が心的な了解作用の時間性を変化させるためには、何らかの意味で心的な<異常>状態になければならない。そしてこの<異常>状態の本質は、対象物(外的自然または人間)の受容とその了解作用のあいだにずれを生みだすことにあるとかんがえることができよう。かれは入眠状態あるいは嗜眠状態という生理的変態を支払うことによってこのずれを獲得する。<いずな使い>は、おそらく一時的な心的な集中と対象への拡散によって対象物の受容と了解とのあいだにずれを生みだすのである。しかし、このようなずれが共同幻想の時間性に同調するためには、おそらくべつの条件が必要である。この条件は<いずな使い>の側にあるのではない。村落の共同幻想がうみだされる根拠である村民の共同的な利害がかれら自身に意識されているということである。

項目抜粋
2
●<いずな使い>が能力を発揮するためには、すくなくとも村民の側にふたつの条件がいる。ひとつは<狐>が霊性のある動物であるという伝承が流布されていることである。もうひとつは、かれらの利害の願望の対象がじぶんたちの意志や努力によってはどうすることもできない彼岸にあると信じられていることである。  (P85-P86)
備考




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10 いずな使い いずなつかい 3 巫覡論
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1

Dわたしのかんがえでは民俗譚を経済社会的に還元したり、神経生理に還元したりすることは誤解でなければならない。その本質は共同幻想の伝承的性格のなかにしか存在しないからである。

 この問題の本質は、おそらくつぎのような問いによってもとめられる。

 もしも<狐>が人間を化かすとか人間に憑くとかいう民譚が、村落の伝承的な共同幻想を象徴するものだとすれば、このような共同幻想の象徴は、村落における男女の対幻想の共同性(家族)とどのような位相で結びつくだろうか、というふうに。

 <狐>が<女>に化けてまたもとの<狐>の姿を現わしたという『遠野物語拾遺』の民譚は、村落の共同幻想が村民の男女の対幻想となってあらわれ、ふたたび村落の共同幻想に転化するという過程の構造を象徴しているとおもえる。そして、もっとも暗示的なのは、<女>に象徴される男女の対幻想の共同性は、消滅することによって(民譚では女が鉈で殺されることによって)しか、共同幻想に転化しないということである。ここで狐が化けた<女>は、けっして柳田国男がかんがえるようにたんに女性を意味するものではない。むしろ<性>そのものを、いいかえれば男女の<性>関係を基盤とする対幻想の共同性を象徴しているのだ。

 ここで、言葉を改めなければならぬ。

 村落の男女の対幻想は、あるばあい村落の共同幻想の象徴でありうるが、それにもかかわらず対幻想は消滅することによってしか共同幻想に転化しない。そこに村落の共同幻想にたいして村民の男女の対幻想の共同性がもっている特異の位相が存在する、と。いうまでもなく、このことは村落の共同体における<家族>の本質的な在り方を象徴している。

 …・しかし、注意しなければならないのは、この場合、<女>は、男女の対幻想の共同性の象徴であり、<狐>や<蛇>やその他の動物や<神>は、共同体の共同幻想の象徴だということである。そして、心あるならば、ひとびとは、男女の対幻想の共同性を本質とする<家>の地上的利害は、共同幻想を本質とする村落共同体の地上的利害といかに、いかなる位相でむすびついたり、矛盾したり、対立したりするか、という問題をこの種の伝承的動物が女に化ける民譚から読みとるべきである。
    (P89-P91)

項目抜粋
2
備考 註 「民俗譚を経済社会的に還元したり、神経生理に還元したりすることは誤解でなければならない。その本質は共同幻想の伝承的性格のなかにしか存在しないからである。」




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11 <巫女>とはなにか? みことはなにか 4 巫女論
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@ある共同的な幻想が成り立つには、かならず社会的な共同利害が画定されていなければならない。

 <巫>がすくなくとも共同の幻想にかかわるとすれば、<巫>的人間が成立するには、かならず共同利害が想定されるはずである。だから<巫>的人間が男性であったか女性であったかということは、たんに<巫>を成立させる共同利害の社会的基盤が男性を主体にする局面であるか、女性を主体にする局面であるかのちがいにすぎないのである。このような意味で<巫女>をかんがえれば、ただ男巫にたいして女巫であるというにすぎない。<巫女>が<巫女>であるべき本質はすこしもとらえられないというべきである。

 <巫女>とはなにか?…・

 わたしのかんがえでは<巫女>は共同幻想を自己の対なる幻想の対象となしうるものを意味している。いいかえれば村落の共同幻想が巫女にとっては<性>的な対象なのだ。巫女における<性>行為の対象は、共同幻想の凝集された象徴物である。<神>であっても<ひと>であっても、<狐>とか<犬>のようなどうぶつであっても、また<仏像>であっても、ただ共同幻想の象徴という位相をもつかぎりは、巫女にとって<性>的な対象でありうるのだ。   (P92-P93)

項目抜粋
2
註 「わたしのかんがえでは<巫女>は共同幻想を自己の対なる幻想の対象となしうるものを意味している。いいかえれば村落の共同幻想が巫女にとっては<性>的な対象なのだ。巫女における<性>行為の対象は、共同幻想の凝集された象徴物である。」

備考




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12 女性とはなにか じょせいとはなにか 4 巫女論
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1

Aフロイトは晩年の円熟した時期の講話(『続精神分析入門』)のなかで<女性>を簡潔な言葉で規定してみせた。かれによれば<女性>というのは、乳幼児期ににおける最初の<性>的な拘束が<同性>(母親)であったものをさしている。そのほかの特質は男性にたいしてすべて相対的なものにすぎない。身体的にはもちろん、心性としても男女の差別は相対的だが、ただ生誕の最初の拘束対象が<同性>であったことだけが<女性>にとって本質的な意味をもつ、というのがフロイトの見解であった。この見解は興味ぶかく、また暗示的である。フロイトにならっていえば、最初の<性>的な拘束が同性であった心性が、その拘束から逃れようとするとき、ゆきつくのは異性としての男性か、男性でも女性でもない架空の対象だからだ。男性にとって女性への志向はすくなくとも<性>的な拘束からの逃亡ではありえない。母性にたいする回帰という心性はありうるとしても、男性はけっしてじぶんの<男性>を逃れるために女性に向かうことはありえないだろう。

 <女性>が最初の<性>的な拘束から逃れようとするとき、もしもし男性以外ののものを対象として措定するとすれば、その志向対象はどのような水準と位相になければならないだろうか?

 このばあい<他者>はまず対象から排除される。<他者>というのは<性>的な対象としては男性である他の個体か、女性である他の個体のほかにありえない。するとこのような排除のあとでなお残される対象は、自己幻想であるか共同幻想であるほかはないはずである。ここまできてわたしなりに<女性>を定義すればつぎのようになる。あらゆる排除をほどこしたあとで<性>的対象を自己幻想にえらぶか、共同幻想にえらぶものをさして<女性>の本質とよぶ、と。そしてほんとうは<性>的対象として自己幻想をえらぶ特質と共同幻想をえらぶ特質とは別のことを意味してはいない。なぜならば、このふたつは女性にとってじぶんの<生誕>そのものをえらぶか<生誕>の根拠としての母なるじぶん(母胎)をえらぶことにほかならないからである。

 たんに男<巫>にたいして女<巫>というとき、この巫女には共同性の権威は存在していない。しかし自己幻想と共同幻想がべつののものになっていない本質的な巫女は共同性にとって宗教的な権威をもっている。そして人間(史)のある段階ではその権威が普遍的な時代があったとかんがえることができる。   (P93-P95)

項目抜粋
2
備考 註 「ここまできてわたしなりに<女性>を定義すればつぎのようになる。あらゆる排除をほどこしたあとで<性>的対象を自己幻想にえらぶか、共同幻想にえらぶものをさして<女性>の本質とよぶ、と。」




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13 巫女とシャーマン みことしゃーまん 4 巫女論
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1

Bこの「わか」に象徴される日本の口寄せ巫女がシャーマン一般とちがうところは、おそらく巫女が所有する能力が共同幻想をしぶんの<性>的な対幻想の対象となしうる能力であるのにたいして、シャーマンの能力は自己幻想を共同幻想と同化させる力だという点にある。巫女はしばしば修行中にも<性>的な恍惚を感じうるだろうが、シャーマンでは心的に禁圧された苦痛がしばしば重要な意味をもつだろう。なぜならば本来的には超えがたい自己幻想と共同幻想との逆立した構造をとびこえる能力を意味するからである。 (P103)

C●シャーマンではあきらかにシャーマン的人間【註 人間に傍点あり】が問題となる。いいかえればシャーマンが男であれ女であれ、<性>が問題なのではなく、<異常>な言動をなしうる人間が問題なのだ。だからそこでは個人幻想の<異常>な徴候が、共同幻想に憑くために自覚的な伝授と修練がおこなわれるのである。

 ●しかし<祈禱性精神病>と精神病理学者によばれているシャーマン的な症候のうち、重要なのは<異常>な心性そのものにはない。かれの自己幻想が、他の人間であっても、神であっても、狐や犬神であっても、ようするに共同幻想の象徴に同化することによって部落共同体の共同利害を心的に構成しうる能力にあるのだ。 (P104-P105)

D●「わか」に象徴される日本の口寄せ巫女はこれとちがっている。

 だいいちに、巫女は自己幻想として<異常>であるかどうかということはまったくどうでもいいことである。

 ●さらに口寄せ巫女がシャーマン一般とちがうところは、自己幻想よりも<性>を基盤にした対幻想を本質とするという点である。  (P106)

 ●しかし、「わか」に象徴される口寄せ巫女のばあい、シャーマン一般の修業におけるような心的な苦患は存在しないはずである。それは<性>的な対幻想の対象として村落の共同幻想を措定することだから、<性>的な幻想の対象として共同幻想をおもい描くという<自然>に根ざした幻覚の問題があるだけであり、地上的にいえば村落共同体の共同利害と、<家>の利害の関係だけが巫女にとって現世的な矛盾にすぎないからである。  (P108)

項目抜粋
2
●巫女にとって<性>的な対幻想の基盤である<家>は、神社にいつこうが諸国を流浪しようが、つねに共同幻想の象徴と営む<幻想>の<家>であった。巫女はこのとき現実的には<家>から疎外されたすべての存在を象徴しながら共同幻想の普遍性へと霧散していったのである。  (P108)


備考




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