Part 4
共同幻想論

  河出書房新社 1968/12/05発行



項目ID 項目 論名
21 <母系>制 7 母制論
22 <母系>制 7 母制論
23 家族 8 対幻想論
24 家族 8 対幻想論
25 共同幻想と<対>幻想との同致 8 対幻想論
26 共同幻想と<対>幻想との同致 8 対幻想論














項目ID 項目 よみがな 論名
21 <母系>制 ぼけいせい 7 母制論
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項目抜粋
1

@人類の集団がある段階で<母系>制の社会をへたということはおおくの古代史の学者によってほぼはっきりと認められている。そしてあるばあいこの<母系>制はたんに<家族>の体系だけにとどまらず<母権>制として共同社会的に存在したということも疑いないとされている。

 けれどもこの<母系>制あるいは<母権>制の本質はなんであり、なぜ人類はその時期を通過したのかについては、おおくの論議はわかれている。たしかなことは、諸民族において農耕社会を歴史的な国家の起源とするという意図で<神話>が記録されているかぎりでは、その<神話>は、ひとしく<母系>制あるいは<母権>制社会の存在を暗示しようとしているということである。   (P147)

Aこの問題はエンゲルスのいうようなものとはならない。人間が動物とおなじような<性>的な自然行為を<対なる幻想>として心的に疎外し自立させたときはじめて動物とはちがった共同性(家族)を獲得したのである。人間にとって<性>の問題が幻想の領域に滲入したとき、男・女のあいだの<性>的な自然行為とたとえ矛盾しようと、桎梏や制約になろうと必然的に男女の<対なる幻想>が現実にとりうるあらゆる態様があらわれるようになったのである。そこでは男・女がたがいに<嫉妬>しようが<許容>しようがある意味では個々の男・女の<自由>にゆだねられるようになったのである。…・問題は原始的なある時期に人間が集団婚をむすんだか一夫一婦婚をとったかにあるのではない。婚姻制の自然な基礎のうえにはつねに<対なる幻想>の領域が存在するということを明確に認めるかどうかにあるのだ。    (P149-P150)

B<母系>制の社会とは家族の<対なる幻想>が部落の<共同幻想>と同致している社会を意味するというのが唯一の確定的な定義であるようにおもえる。

 いうまでもなく、家族の<対なる幻想>が部落の<共同幻想>に同致するためには、<対なる幻想>の意識が<空間>的に拡大しなければならない。このばあい<空間>的な拡大にたえるのは、けっして<夫婦>ではないだろう。夫婦としての一対の男・女はかならず<空間>的には縮小する志向性をもっている。それはできるならばまったく外界の共同性から窺いしれないところに分離しようとする傾向をもっている。    (P152)

項目抜粋
2
Cヘーゲルが鋭く洞察したように家族の<対なる幻想>のうち<空間>的な拡大に耐えうるのは兄弟と姉妹との関係だけである。兄と妹、姉と弟の関係だけは<空間>的にどれほど隔たってもほとんど無傷で<対なる幻想>としての本質を保存することができる。それは<兄弟>と<姉妹>が自然的な<性>行為をともなわずに男性または女性としての人間でありうるからである。いいかえれば<性>としての人間の関係が、そのまま人間としての人間の関係でありうるからである。それだから<母系>制社会の真の基礎は集団婚にあったのではなく、兄弟と姉妹の<対なる幻想>が部落の<共同幻想>と同致するまでに<空間>的に拡大したことのなかにあったとかんがえることができる。  (P153)

備考 註1.「原始的なほどうわさ(コミュニケーション)は千里を走ることはたしかだからである。もし子供をうんだ女性がその父が誰かを知っているならば、(どんな多数の男性との性関係を想定したとしても、ひとりの女性はじぶんの生み落とした子供の父親が誰であるかを確実にしっているはずだ)、おそらく種族内の誰もがそれを知っているはずである。」…・このカッコ内の判断について?。




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22 <母系>制 ぼけいせい 7 母制論
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<対幻想>と<共同幻想>とのあいだの<同致> 氏族制への転化の契機
項目抜粋
1

D●アマテラスとスサノオの間にかわされた行為は、自然的な<性>行為、いいかえれば姉弟相姦の象徴的な行為を意味していない。姉妹と兄弟のあいだの<対なる幻想>の幻想的な<性>行為が、そのまま共同的な<約定>の祭儀的な行為であることを象徴している。べつのいい方をすれば、姉妹と兄弟とのあいだの性的な<対幻想>が部族の<共同幻想>に同致されることを象徴している。

 そしてこの<対幻想>と<共同幻想>とのあいだの<同致>を媒介するものは宗教的な規範行為である。…・ただ原始的<母系>制社会の本質が集団婚にあるのではなく兄弟と姉妹のあいだの<対なる幻想>が種族の<共同幻想>に同致するところにあり、この同致を媒介するものは共同的な規範を意味する祭儀行為であることを問題にしているにすぎない。そして<母系>制の社会はこの種の共同的な規範を意味する祭儀行為を種族の現実的な基盤として、いいかえれば<法>としてみとめたとき<母権>制の社会に転化するということができる。

 ●そこで、未開の段階のある時期に、女性が種族の宗教的な規範をつかさどり、その兄弟が現実的な規範によって種族を支配したことがあったと想定することができる。また<母権>制社会を想定すれば種族の女性の始祖が宗権と政権を一身に集中した場合を想定することもできるはずである。 (P155-P156)

【<イザイホウ>祭儀について】

Eもちろん<イザイホウ>の神事の形式は、鳥越憲三郎が採取しているそこで和唱される神歌から判断してもかなり新しい時代に再編成されたものであることは明瞭だが、この神事の原型にむかって時代的に遡行するとき、わが列島における<母系>制社会のありかたの原像をかなりな程度に象徴しているとかんがえることができる。すくなくとも神事自体の性格から、水田稲作が定着する以前の時代の<共同幻想>と<対幻想>との同致する<母系>制社会の遺制を想定することはできる。この<母系>制は、ある地域では<母権>制として結晶したかもしれない。なぜならば、<イザイホウ>の女性だけがかならず通過する儀式は、いわば共同祭儀であり、その資格は共同規範としての性格をもっているから、もし儀式を通過した巫女たちの<兄弟>が、部族において現世的な支配権をもつ条件を準備していると仮定すれば、巫女たちの共同規範はすぐに現実的な政治権力へと転化することができるからだ。    (P159)

項目抜粋
2

F●しかし、たとえ性交がなくとも<姉妹>と<兄弟>のあいだには<性>的な関係の意識は、いいかえれば<対なる幻想>は存在している。そしてこの<兄弟>と<姉妹>のあいだの<対なる幻想>は自然的な<性>行為に基づいていないためにゆるくはあるが、また逆にいえばそのためにかえって永続する性質をもった<対幻想>であるといえる。そしてこの永続するという意味を空間的に疎外するとき<共同幻想>との同致を想定することができ、これはとりもなおさず、<母系>制社会の存在を意味しているといえるのだ。

 しかしこのばあいでも同母の<兄弟>同志は、<母>または遠縁の<母>たちが死滅したとき<対幻想>としては、まったく解体するほかはない。     (P162-P163)

●このようにして同母の<姉妹>と<兄弟>とは、<母>を同一の崇拝の対象としながらも、空間的には四散し、またそれぞれ独立した集団を形成することになる。<姉妹>の系列は世代をつなぐ媒体としては尊重されながら、現世的には四散した<兄弟>たちによって守護され、また<兄弟>たちは<母系>の系列からは傍系でありながら、現世的には<母系>制の外にたつ自由な存在となる。ただ同母に対する崇拝の意識としては、いいかえれば制度としてはこの<母系>の周辺に存在するだろう。ここに氏族制への転化の契機がはらまれている。【次に、古事記のなかの挿話あり】   (P163-P164)

備考




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23 家族 かぞく 8 対幻想論
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個人の心(自己幻想)の問題がおおきく登場する 家族は、人間の<対なる幻想>にもとづく関係である
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1

【モルガンーエンゲルス、フロイトに触れ】

@わたしたちは、また別のことを言うべきである。

 <対なる幻想>を<共同なる幻想>に同致しうる人物を血縁から疎外したとき<家族>は発生した。そしてこの疎外された人物は宗教的な権力を集団全体にふるうものであることも、集団のある場面でふるうものであることもできた。それゆえ<家族>の本質はただそれが<対なる幻想>であるということだけである。そこで父権が優位であるか母権が優位であるかはどちらでもいいことである。また、<対なる幻想>はそれ自体の構造をもっており、ひとたびその構造の内部に踏みこんでゆけば、集団の共同的な体制と独立であるということもできる。

 フロイトは集団の心(共同幻想)と男・女のあいだの心(対幻想)の関係を集団と個人の関係とみなした。しかし男・女のあいだの心は、個人の心ではなく、対となった心である。そして集団の心と対なる心が、いいかえれば共同体とそのなかの<家族>とが、まったくちがった水準に分離したとき、はじめて対なる心(対幻想)のなかに個人の心(自己幻想)の問題がおおきく登場するようになったのである。もちろん、それは近代以後に属している<家族>の問題である。  (P166-P167)

【漱石の「道草」、鴎外の「半日」に触れ、ヘーゲルの『精神現象学』へ】

A●漱石が『道草』をかき、鴎外が「半日」をかいたとき、かれらが当面した問題は、大学教師や作家や軍人としての自分と<家族>のなかの自分とが、それぞれちがった貌の双面をさらしているという意識であった。かれらは大学教師や作家や軍人という社会的な貌としてはひとりの個人である。しかし<家族>の一員としてはひとりの個人でありえない。その中心にはじぶんと細君の関係があり親があり子供があり親族がとりまいている。そして細君はひとりの個人であるという場面をもたないから、ときとして<家族>の一員としてひとりの個人であるというような矛盾をやってのける。そしてそのとき、じぶんもまた細君に対応してひとりの個人という矛盾を夫婦関係のなかで強行する。もしそういうことが悲劇ならば、悲劇は<家族>と<社会>との関係の本質のなかにあったのである。

 いったい<夫婦>とは、<親子>や<兄弟姉妹>とは、一般に<家族>とは本質的に何であるのか? (P171)

項目抜粋
2

●ヘーゲルの考察は<性>としての人間が <家族>の内部で分化してゆく関係をするどくいい当てているとおもえる。

 <性>としての人間はすべて男であるか女であるかのいずれかである。しかしこの分化の起源は、おおくの学者がかんがえるようにけっして動物生の時期にあるのではない。あらゆる<性>的な現実の行為が<対なる幻想>をうみだしたとき、はじめて人間は<性>としての人間という範疇をもつようになったのであるといえる。<対なる幻想>がうみだされたことは、人間の<性>を社会の共同性と個人性のはざまに投げだす作用をおよぼすことになった。そのために、人間は<性>としては男か女であるにもかかわらず、夫婦とか、親子とか、兄弟姉妹とか親族とかよばれる系列のなかにおかれることになった。いいかえれば<家族>がうみだされたのである。だから<家族>は時代によってどんな形態上の変化をこうむり、地域や種族によってどんな異なった現実関係におかれたとしても、人間の<対なる幻想>にもとづく関係であるという点では共通性をかんがえることができる。そしてまたこれだけがとりだすことのできる唯一の共通性でもある。わたしたちはさしあたって<対なる幻想>という概念を、社会の共同幻想とも個人のもつ幻想ともちがって、つねに異性の意識をともなってしか存在しえない幻想性の領域をさすものとかんがえておこう。   (P173-P174)

備考 註1.「<対なる幻想>がうみだされたことは、人間の<性>を社会の共同性と個人性のはざまに投げだす作用をおよぼすことになった。そのために、人間は<性>としては男か女であるにもかかわらず、夫婦とか、親子とか、兄弟姉妹とか親族とかよばれる系列のなかにおかれることになった。いいかえれば<家族>がうみだされたのである。」




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24 家族 かぞく 8 対幻想論
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1

B●<家族>のなかで<対>幻想の根幹をなすのは、ヘーゲルがただしくいいあてているように一対の男女としての夫婦である。そしてこの関係にもっとも如実に<対>幻想の本質があらわれるものとすれば、ヘーゲルのいうように自然的な<性>関係にもとづきながら、けっして「自己還帰」しえないで、「一方の意識が他方の意識のうちに、自分を直接認める」幻想関係であるといえる。もちろん親子の関係も根幹的な<対>幻想につつみこまれる。ただこの場合は、<親>は自己の死滅によってはじめて<対>幻想の対象になってゆくものを<子>にみているし、<子>は<親>のなかに自己の生成と逆比例して死滅してゆく<対>幻想の対象をみているというちがいをもっている。いわば<時間>が導入された<対>幻想をさして親子と呼ぶべきである。そして、兄弟や姉妹は<親>が死滅したとき同時に死滅する<対>幻想を意味している。最後にヘーゲルがするどく指摘しているように兄弟と姉妹との関係は、はじめから仮構の異性という基盤にたちながら、かえって(あるいはそのために)永続する<対>幻想の関係をもっているということができる。

●人間を<性>としてみるかぎり、<家族>は夫婦ばかりでなく、親子や兄弟や姉妹の関係でも大なり小なり<性>的ある。この意味でおそらくフロイトの学説には錯誤はなかった。ただかれはこういう関係が<対>幻想の領域でだけ成り立つもので、けっしてそのまま社会の共同性や個人のもつ幻想性には拡張できないものであることをその考察から除外したのである。  (P174-P175)

C現在ではほとんど否定しつくされているが、エンゲルスはよくしられているようにモルガンの『古代社会』の見解を理論化しながら、『家族、私有財産及び国家の起源』のなかで原始的な乱交(集団婚)の時期を想定している。エンゲルスの理論的な根拠は、あらゆるばあい、いいかえれば言語や国家の考察についても露呈されるように、人間が猿のような高等動物から進化したものだという考えに根ざしている。つまり動物生としての人間をその考察の起源においている。…・しかし、わたしたちは意識性を切除された人間を、ただ動物としての<人間>と呼ぶだけで人間としての<人間>とは呼ばないのだ。人間は猿から進化したのでもなければ、人間生の本質は動物生から進化したものではない。いいうべくんば、猿のようなもっとも高等な動物と比較してさえ、人間は異質の系列として存在しているし、そのことによって人間とよばれる本質をもっている。     (P175)

項目抜粋
2

D<性>としての人間、いいかえれば男または女としての人間という範疇は、人間としての人間、いいかえれば<自由>な個人としての人間という範疇とも、共同社会の成員としての人間という範疇とも矛盾するものであることは申すまでもない。この矛盾は人間の共同幻想と個人幻想のはざまに<対>幻想というかんがえを導くことなしには救抜されないのである。   (P178)

備考 註1.「人間は猿から進化したのでもなければ、人間生の本質は動物生から進化したものではない。いいうべくんば、猿のようなもっとも高等な動物と比較してさえ、人間は異質の系列として存在しているし、そのことによって人間とよばれる本質をもっている。」




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25 共同幻想と<対>幻想との同致 どうち 8 対幻想論
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農耕神話に特有な共同幻想と<対>幻想との同致という現象 人間の全領域とその中での各位相
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1

【『古事記』のイザナギとイザナミの国生みの場面を引用して】

E●この個処は典型的に共同幻想(国生み)が<対>幻想の行為と同致することを象徴している。この共同幻想と対幻想との同致は、人類のどの社会でも農耕社会のはじめの時期に発生した思考であるとかんがえてまちがいない。ここでは<対>幻想はその特異な位相をうしなって共同幻想のなかに解消しているかのようにみえる。

 おそらく『古事記』のこの場面は、男性器を象徴する自然石や石棒のまわりをまわって行う男女の性的な祭儀に現実的な基盤をもっているだろうが、すでに現実的な基盤をはなれて<対>幻想そのものが共同幻想と同一視されるまでに転化してしまっている。

 おおくの民族学者や民俗学者は、男女の性行為によって女性が妊娠し子を産むことが、穀物を栽培し、実りを生みだすことと類似するために、古代人が<性>的な行為の模擬によって穀物の実りが促進されるという観念に支配されていたものとみなしている。いわば穀母神の信仰として普遍的なものとかんがえている。しかし、古代人がそんな観念をもっていたかどうかは疑わしい。なぜならば、こういう観念が生みだされるためには、まず<類推>というかなり高度な知的判断を必要とするからである。神話はそれを創り出したものと、神話に対応する現実的な習俗を実践したものとのあいだに区別をもうけることなしに理解することはできない。だからわたしたちはまったくべつの理解の仕方が必要なのだ。

 ●この『古事記』の神話が象徴するようにある種族の神話は、農耕部族の世襲権力によって創られたため、世界の生成、あるいは国生みを<対>幻想の結果とむすびつけることからはじまっている。そして『古事記』がそうであるように、最初の男神あるいは女神がうみだされる以前の神は独身の神で、その神はいわば先験的に存在したものとみなされている。それならば男・女神による国生みは、あきらかに農耕社会の段階にはいった時期に特有の発想なければならないはずである。

 わたしたちは、農耕神話に特有な共同幻想と<対>幻想との同致という現象を解きえないならば、<対>幻想という概念を設定すること自身が無意味であるという問題に遭遇するのである。  (P179-180)


項目抜粋
2
Fわたしたちは人間としての人間という概念のなかでは、どんな差別を個々の人間のあいだに想定することもできない。つぎに、<性>としての人間という概念、いいかえれば男・女としての人間という概念のなかでは、エンゲルスのいわゆる<性>的分業ということ以外には、現実の部族社会の経済的な分業と人間の存在とを直接むすびつけるどんな根拠も想定することはできないのだ。それゆえ、ライツェンシュタインのいう、狩猟や戦闘は男性の分担であり農耕は女性の分担であったというような問題は、いつも反対の例を未開種族にみつけだすことができるような恣意的な理解にしかすぎない。たかだか数の問題としてそういいうるだけである。これにたいして共同性としての人間、いいかえれば集団生活をいとなみ、社会組織をつくって存在している人間という概念のなかでは、人間はつねに架空の存在、いいかえれば共同幻想としての人間であり、どんな社会的な現実とも直接むすびつかない幻想性としての人間でしかありえない。  (P182-P183)

備考 註1.「神話はそれを創り出したものと、神話に対応する現実的な習俗を実践したものとのあいだに区別をもうけることなしに理解することはできない。だからわたしたちはまったくべつの理解の仕方が必要なのだ。」




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26 共同幻想と<対>幻想との同致 どうち 8 対幻想論
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1

【『古事記』の天地初発の事跡について】

Gここで別格あつかいの「独神」というのは、いわば無<性>の神ということであり、男神または女神であったのに<対>になる相手がいなかったという意味ではない。わたしのかんがえではこの「独神」の概念は原始農耕社会以前における幻想性を語るものである。かれらが海岸や海上での漁獲や山野における鳥獣や自生植物の果実の収集によって生活していたにしろ、穀物を栽培し、手がけ、その実りを収穫して生活する以前の社会に流通していた観念にもとづいている。そこでは鳥獣や魚や自生植物は自然そのものが生成させたもので、その採取は自然の偶然に依存していた。このような自然は先験的に存在するものでなければならなかった。それは人間にとってすでに与えられて眼の前にあったのである。あたかも幼児が過去の出来事をすべて<昨日>【ルビ きのう】の出来事と呼び、未来の出来事を<明日>【ルビ あした】の出来事と呼びそれ以外の時称をもたない時期があるように、現に眼の前に存在する自然が、そのとおりに存在するためにだけ<昨日>と<明日>があったにすぎないのである。

 だから『古事記』の「独神」は<現在>を構成するためにだけ必要な<時間>概念の象徴にほかならないといえる。   (P184)

H●もちろんこの時期でも、かれらは<性>的な行為を行っていた男・女であった。けれどそれは<昨日>性的な行為をしたように今日もし、明日もまた性行為をするという意味しかもたなかったのである。…・ただ<対>幻想がどんな意味でも時間的に遠隔化されることがない発生期にあったというにすぎない。

 男・女神が想定されるようになったとき、<性>的な幻想のなかにはじめて<時間>性が導入され、<対>幻想もまた時間の流れによって生成するものであることが意識されはじめたことを意味している。そしてこの意識がきざしたのは、かれらが意図して穀物を栽培し、意図して食用の鳥獣や魚を育てることを知ってからである。かれらは実りの果てに枯れ死する植物が残してくれる身を、また地中に埋めることによってふたたびおなじ植物が生成することに習熟したとき、自然のなかに生成して流れる時間の意味を意識した。いままで女性が子を産み、人間が老死し、子が育つということに格別の注意をはらわなかったのに、人間もまた自然とおなじように時間の生成にしたがうことを知ったのである。まず、この<時間>の観念のうち、かれらにとって女性だけが子を生む存在だということが重要であった。いいかえれば<対>幻想のなかに時間の生成する流れを意識したとき、そのような意識のもとにある<対幻想>とは、なによりもまず子を生むことができる女性そのものに<時間>の根源があるとかんがえられたのである。     (P184-P185)

項目抜粋
2

●それゆえ<時間>の観念は、自然においては穀物が育ち、実り、枯死し、種を播かれて芽生える四季としてかんがえられたように、人間にあっては子を生むことのできる女性に根源がもとめられ穀母神的な観念が育ったのである。この時期では、自然時間の観念を媒介にして部族の共同幻想と<対>幻想とは同一視された。

●けれどこの時期はやがて別の観念の発生にとって代られる。…・このように穀物の栽培と収穫の時間性と、女性が子を妊娠し、分娩し、男性の分担も加えて育て、成人させるという時間性がちがうことを意識したとき、人間は部族の共同幻想と男女の<対>幻想とのちがいを意識し、また獲得していったのである。すでにこの段階では<対>幻想の時間性は子を生むことができる女性に根源があるとかんがえられず、男・女の<対幻想>そのものの上に根源が分布するものとかんがえられるようになった。つまり<性>そのものが時間性の根源となった。

 もちろん、この段階でも穀物の栽培と収穫を、男・女の<性的>な行為とむすびつける観念は消失したはずがない。しかし、すでに両者のあいだには時間性の相違が自覚されているために共同幻想と<対>幻想とを同一視する観念は矛盾にさらされ、それを人間は農耕祭儀として疎外するほかに矛盾を解消する方途はなくなったのである。農耕祭儀がかならず<性>的な行為の象徴をそのなかに含みながらも、ついに祭儀として人間の現実的な<対>幻想から疎遠になっていったのはそのためである。…・

 人間の<対>幻想に固有な時間性が自覚されるようになったとき、すくなくともかれらは<世代>という概念を手に入れた。親と子の相姦がタブー化されたのはそれからである。   (P185-P186)

備考 註1.「もちろん、この段階でも穀物の栽培と収穫を、男・女の<性的>な行為とむすびつける観念は消失したはずがない。しかし、すでに両者のあいだには時間性の相違が自覚されているために共同幻想と<対>幻想とを同一視する観念は矛盾にさらされ、それを人間は農耕祭儀として疎外するほかに矛盾を解消する方途はなくなったのである。」




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