Part 5
共同幻想論

  河出書房新社 1968/12/05発行



項目ID 項目 論名
27 神話 9 罪責論
28 倫理 9 罪責論
29 倫理 9 罪責論
30 倫理 9 罪責論
31 規範 10 規範論
32 天つ罪 10 規範論
33 国つ罪 10 規範論
34 <法>の発生について 10 規範論
35 清祓行為 10 規範論
36 清祓行為 10 規範論
37 清祓行為 10 規範論











項目ID 項目 よみがな 論名
27 神話 しんわ 9 罪責論
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項目抜粋
1

@それぞれの種族には<歴史>がと絶える時間がある。どうかんがえてもそれ以前の共同社会の構成についてしることができない時間である。わが種族では現在のところ千数百年をでることができず、これは歴史的な時間としては、あまりに真新しすぎるといっていい。<歴史>がと絶える時間というのは、生活史が不明な時間ということと即座にはむすびつかない。その理由は、ひとつには生活史の断片は、発掘された器物や遺跡の断片から部分的には復元することができるからである。もうひとつは生活史の上層にあるはずの観念の共同性の構成は考古学的な資料の発見によっては、単純に復元されないからである。そしてこの部分において<歴史>は時間的にと絶えてしまうのである。これを復元する可能性は<神話>にもとめられる。もしわたしたちが、原理的に正当に<神話>をあつかう方法をもっていれば、である。<神話>の時間性は、つねに<歴史>がと絶えてしまう時間よりもはるかに遠隔を志向しているといっていい。    (P188)

A●ここであらためて<神話>はどのように取り扱われるべきものか、という問いをとりあげてみるべき段階にきているようにおもわれる。   (P189)

●つまり<神話>にむかっては現在に居座ることをゆるされてもいなければ、無造作に遡行することもゆるされていない。また、古墳、什器、装飾品などの出土物を、神話と直接的に結びつけてもいけない。わたしたちは絶妙な位相を神話にたいして必要としている。そしてあらゆる種族がのこしている<神話>のうち普遍的な共通性をとりだしうるとすれば、おそらくただひとつのことである。

 それをいま、<神話>はその種族の<共同幻想>の構成を語るとかんがえておこう。そして<共同幻想>の構成を語っているという点をのぞけば、どんなことも神話のなかで恣意的であるといえる。

●<神話>を解釈する場合のもっともおちいりやすい誤解は、それがある<事実>や<事件>の象徴であるとかんがえることである。そして空間的な場所や時間的な年代を現実にさがいもとめ、<神話>との対応をみつけだそうとする。しかし<神話>に登場する空間や時間は、ただ<共同幻想>の構成に関するかぎりにおいてしか現実にたいする象徴性をもたないということができよう。   (P191-P192)

項目抜粋
2
備考





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28 倫理 りんり 9 罪責論
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項目抜粋
1

Bスサノオは『古事記』の神話のなかで国つ神の始祖とかんがえられている。いいかえれば農耕土民の祖形である。「高天が原」を統治するアマテラスというのは神の託宣の世界を支配する<姉>という象徴であり、スサノオは農耕社会を現実的に支配する<弟>という象徴である。そしてこの形態は、おそらく神権の優位のもとで<姉妹>と<兄弟>が宗教的な権力と政治的な権力とを分治するという氏族(または前氏族)的な段階における<共同幻想>の政治的な形態を語っている。そしてもうひとつ重要なことは、<姉妹>と<兄弟>とによる<共同幻想>の天上的および現世的な分割支配という形をかりて、大和朝廷勢力をわが列島における農耕的社会とむすびつけていることである。大和朝廷勢力が何者であったか、(いいかえればわが列島の一部の土民から発祥したものか、あるいはわが列島の土民を席捲した異族であるのか)よくわからないとしても、その天上的な祖形と現世的な祖形の政治形態としての結びつき方はほぼあきらかであり、また、農耕的な段階の社会における土民との結合や契約や和解によって部族社会の政治的支配を確立したことだけはたしかである。  (P193-P194)

C●しかしここで農耕土民の祖形であるとともにアマテラスの<弟>に擬定されているスサノオの背負わされた<原罪>なるものは、<共同幻想>の問題としてみれば、ニーチェのいうほど不可解なものではない。この<原罪>が農耕土民の集落的な社会の<共同幻想>と、大和朝廷勢力によって統一されてしまったのちの部族的な社会の<共同幻想>とのあいだにうみだした矛盾やあつれきに発祥していることはたしかである。それはもとをただせば、大和朝廷勢力が背負うべき<原罪>であったにもかかわらず、農耕土民が背負わされたものか、あるいは農耕土民が大和朝廷勢力に従属させられたときにじぶんたちが

土俗神信仰にたいしていだいた負い目に発祥したかいずれかひとつであるにすぎない。しかしここに作為的にかあるいは無作為にか混融がおこり、農耕土民たちの<共同幻想>は大和朝廷勢力の支配下における統一的な部族社会の<共同幻想>であるかのように装われてしまったとかんがえることができる。    (P195)

項目抜粋
2

●その結果この挿話からわたしたちが<共同幻想>の構成【ルビ ゲシュタルト】をとりだそうとすれば天上界を支配する<姉>(アマテラス)と現実の農耕社会を支配する<弟>(スサノオ)という統治形態である。

 そしてこの挿話ではスサノオは父イザナギから農耕社会を統治せよとは命じられずに、海辺(漁撈)を統治するよう命ぜられるために、それを肯んぜず青山を泣き枯らすほどに哭きわめいて<妣の国>へゆきたいと願望して追放されるのである。スサノオが願望している<妣の国>あるいは<夜見の国>は、共同性として理解するかぎり母のいる他界というよりも母系制の根幹としての農耕社会であることは、いわゆる出雲系土民の神話と古典学者たちがかんがえている大国主の神話に接続されることからも推測することができる。そこでわたしたちはこの挿話から神権を支配する<姉>(あるいは妹)と現世的な政治権力を支配する<弟>(あるいは兄)という氏族制以前の政治形態の原型をおもいえがくのである。     (P196)

備考





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29 倫理 りんり 9 罪責論
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項目抜粋
1

D●この挿話で個体としてのスサノオは原始父制的な世界(河海)の相続を否定して母系制的な世界(農耕社会)の相続を願望して哭きやまないために追放される。スサノオの個体としての<罪>の観念はただそれだけのために発生するのである。そしてスサノオの<倫理>は青山を泣き枯らし、河海を泣きほすという行為のなかに象徴的にあらわれている。これをもしわが神話的な世界における個体の<倫理>の発生のプリミティヴな形態とかんがえるならば、その根源はただ農耕社会の<共同幻想>を肯定するか否定するかという点にだけあらわれている。いいかえればスサノオが父系制的な世界の構造を否定して母系制的な農耕世界を肯定したとき、<倫理>の問題がはじめてあらわれるのである。もしも人間の個体の<倫理>が社会的欠如意識の軋みからうまれるものとするならば、スサノオの欠如意識は父系制そのものの欠如に発祥している。『古事記』神話を統合したものが、水田耕作民の支配者となった大和朝廷勢力によるものとすれば、かれらは雑穀の半自然的な栽培と漁撈とわずかの狩猟によって生活していた前農耕的段階の社会を否定し変革し席捲したとき、はじめてかれらの<倫理>意識を獲得したのである。いいかえれば良心の疚しさに当面したのである。そこでかれらはさまざまの農耕祭儀をうみだしてこの<倫理>意識を補償せざるをえなかった。   (P196-P197)

●スサノオはのちにアマテラスと契約を結んで和解し、いわば神の託宣によって農耕社会を支配する出雲系の始祖という典型に転化するが、このことは巫女組織の頂点に位する同母の<姉>と農耕社会の政治的な頂点に位する同母の<弟>によって、現世的な前氏族制の<共同幻想>の構成が成立したことを象徴しているとおもえる。

 アマテラスとスサノオの挿話にあらわれるのは<倫理>の原型、いいかえれば<神権>が<政権>よりも優位なものとかんがえられていた段階における<共同幻想>にたいする軋みが、個体の問題および共同性の問題としてあらわれている。スサノオがイザナギの宣命にそむいてまでゆきたいと願望する<妣の国>を空間的に農耕社会とかんがえずに時間的に他界(<夜見の国>)とかんがえれば個体としての現世からの逃亡を、いいかえれば自死の願望を語っていることになる。個体としてのスサノオは神権優位の<共同幻想>を意識し、これに抗命したときはじめて<倫理>を獲得したということもできる。<内なる道徳律>というカント的な概念はここには存在しないが、<共同幻想>にそむくかいなかが個体の<倫理>を決定するという問題はあらわれている。     (P197-P198)

項目抜粋
2
備考


註1.「<内なる道徳律>というカント的な概念はここには存在しないが、<共同幻想>にそむくかいなかが個体の<倫理>を決定するという問題はあらわれている。」




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30 倫理 りんり 9 罪責論
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項目抜粋
1

【『古事記』のサホ彦の叛乱の挿話について】

E●この問題は時代をくだって『古事記』のサホ彦の叛乱の挿話では、<共同幻想>の構成【ルビ ゲシュタルト】はおなじようにプリミティヴでありながら現世的な問題、いいかえれば政治権力が宗教的権力よりも優位になった段階における<倫理>の問題に転化している。    (P198)

●ここでサホ姫をおとずれる<倫理>は<夫>よりも<兄>に殉ずることによって発生する。共同性として、いいかえれば大和朝廷勢力の<共同幻想>にたいして前代的な遺制である兄弟と姉妹とが政権と宗権を掌握するという神話的な<共同幻想>の構成【ルビ ゲシュタルト】をまもるところにうまれる。『古事記』のかたる原始的な遺制によれば、サホ姫にとって<夫>である天皇は同族外の存在であるが、兄サホ彦は同母の血縁であるかぎり、氏族的な(前氏族的)共同体における強い<対幻想>の対象である。そしてサホ姫は氏族的な<対幻想>の共同性が、部族的な<共同幻想>にとって代られようとする過渡期に、その断層にはさまれていわば<倫理>的に死ぬのである。   (P199-P200)

●サホ姫の<倫理>的な死が象徴するものは、すでに<対幻想>ののもっともゆるくそして永続的な関係である<兄弟>と<姉妹>とが、政治権力と宗教権力とを分担するという氏族的(あるいは血縁的)な<共同幻想>の構成が大和朝廷の支配する統一部族的な<共同幻想>にとって断層となっているという一事である。この段階では、血縁集団の<共同幻想>は、部族的な統一社会の<共同幻想>と位相的に乖離し、いわば蹴落とされる。そして<家族>体系のあいだを支配する習俗的な慣行律のようなものに転化するよりほかない。そしていったん血縁集団の<共同幻想>を分離し、払いおとした統一部族社会の<共同幻想>はますます強固になり拡大されてゆくのである。   (P200)

F●もっと時代がくだって『古事記』のヤマトタケルの挿話では、すでにいかなる意味でも神権優位の名残りはなく、現世的な政治権力の支配のもとでの<父>と<子>の葛藤に<倫理>の問題があらわれるのである。  (P200-P201)


項目抜粋
2

Gいままであげてきた挿話は『古事記』のなかで<倫理>の発祥を語る数少ない挿話だが、わたしたちはそこにひとつの典型的な構成【ルビ ゲシュタルト】をかんがえることができる。

 前氏族的な段階では、姉妹が宗教的な権力の頂点として神からの託宣をうけ、その兄弟が集落共同体の政治的な現世的権力を掌握するというかたちが、<共同幻想>の原型であった。そこでの<倫理>は、いわば神からの託宣を素直にうけるかうけないかというところにあらわれた。スサノオはあきらかにこの<倫理>を背負わされた象徴的人物であり、しかも農耕社会の支配者の始祖という役割を『古事記』の編者たちの勢力から負わされている。いいかえれば農耕社会の支配者たち、したがってそのもとにある大衆は母系の宗権による神からの託宣にたいして無限責任を負わされ、この無限責任の重圧が耐えがたいとき<倫理>の問題が発生するのである。

 これにたいして、サホ彦、サホ姫という兄弟と姉妹の挿話がかたるものは、氏族制が部族社会の統一国家に転化する過渡期にあらわれる<倫理>の問題である。ここには神からの託宣という問題はあらわにはでてこない。兄弟と姉妹という血縁集団が現世的な権力をもっている氏族的な体制が、部族的な体制に移行しようとするとき<母権>体制がこうむらなければならない背反が<倫理>の問題としてあらわれる。<夫>と<兄>との反目のあいだにはさまれて苦慮するサホ姫は、その<倫理>を象徴している。サホ姫は<兄>に殉じながら、じぶんの生んだ子供を<夫>にゆだねる。母系的、氏族的、農耕的な<共同幻想>はここで部族的な統一社会の<共同幻想>に飛躍する。その断層のあいだに軋みを発する過渡性が<倫理>の問題としてあらわれるのである。

 しかし、ヤマトタケルの挿話においては、<倫理>の問題はまだ個人倫理の問題ではないが統一部族社会の<共同幻想>のもとにおける<父>と<子>のあいだの<対幻想>の軋みとしてあらわれる。いわば<家族>の問題として。 (P203-P204)


備考

註1.倫理の発生の起源について…・P205




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31 規範 きはん 10 規範論
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項目抜粋
1

@●なかば<宗教>でありなかば<法>であるような中間的な状態にあるものを、いまの<規範>というようによぶとすれば、この<規範>にはさまざまな位相をかんがえることができる。なんとなく守られながら、けっしてはっきりと規定されていない不文律や習俗のようなものから、ほんらいは<宗教>的な儀式と共同体のとりきめとにわかれるはずのものが重複しているようなものまで、<規範>のなかに含めてかんがえることができる。しかし<宗教>からはじまって<法>や<国家>にまで貫かれてゆく<規範>には特定の位相がある。ひとつは、はじめの<宗教>が共同性をもっているだけではなく、その内部で系列化がおこなわれていることであり、もうひとつはその<宗教>自体が共同体の現実的な利害を志向するような方向性をもっていることである。そしてこのばあい<宗教>が個人を救済するかどうか、あるいは家族を救済するかどうかは、まったくかかわりがないといえる。このような<宗教>はほとんど習慣にちかくなったところで平衡状態に達する点を想定することができる。もちろん宗教的な儀式と共同体の利害とが平衡するのである。この状態で<宗教>は<宗教>と<法>とに分裂する。おなじようにして<法>は<法>と<国家>(政治的)に分裂する。

●このような転化の過程は、べつの視角からすれば、人間はなぜかれ自身をもふくめて<自然>を崇拝することからはじまって、<自然>を束縛することをしるようになり、ついにその束縛を個々の生活の場面から一般化して統一的な共同規範とするようになるか、ということとおなじことを意味している。

 その根拠はすくなくともふたつの方向からかんがえることができる。ひとつはここでいう意味の束縛というのは人間をふくめた<自然>そのものを疎外してゆくということである。もうひとつは、<束縛>そのものが必然であるために<束縛>自体が人間の根拠律、いわば存在する権利ともいうべきものを内包しているということである。   (P210-P211)

A●そこでわたしたちは、たんに<宗教>が<法>に、<法>が<国家>になぜ転化するかだけではなく、どんな<宗教>がどんな<法>に転化し、どんな<法>がどんな<国家>に転化するかを考察しなければならないのだ。

項目抜粋
2

●はじめに確かにいえることは、<法>的な共同規範は、共同体の<共同幻想>が血縁的な社会集団の水準をいささかでも離脱しようとしたときに成立したということだけである。

 未開な社会ではどんなところでもこの問題はそれほど簡単にあらわれることもなければ明確に把握できる形ももたない。そこでの<法>はまだ犯罪をおかしたとみなされる人を罰するのか、犯罪とみなされる行為を罰することによって<人>そのものを救済しようとするのかは明瞭ではない。そのためにおそらく<清祓>(はらいきよめ)の儀式と罰則の行為とが未開の段階での<法>的な共同規範として並列して成立するのである。<清祓>の儀式では行為そのものが<法>的な対象であり、ハライキヨメによって犯罪とみなされる行為にたいする罰は代行され、<人>そのものは罰を負わないのである。だが罰則では<法>的な対象は<人>そのものであり、かれは追放されたり代償を支払わされたり体罰をこうむったりするのである。

 しかし未開的な社会における<法>的な共同規範では、個々の<人(格)>はまだそれほど問題にはなっていない。また、行為そのものもあまり問題とならないはずである。ただ部族の<共同幻想>にとってなにが<異変>をもたらすかが問われるだけである。<神話>のなかにあらわれる共同的な規範が法的な形をとるときは、そこに登場する<人(格)>はつねにある<共同幻想>の象徴であるということができる。   (P212-P213)

備考

註1.「はじめに確かにいえることは、<法>的な共同規範は、共同体の<共同幻想>が血縁的な社会集団の水準をいささかでも離脱しようとしたときに成立したということだけである。」




項目ID 項目 よみがな 論名
32 天つ罪 あまつつみ 10 規範論
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『古事記』の編者たちの視野 <天つ罪>とはなにを意味するか?
項目抜粋
1

B●『古事記』のなかで最初に<罪>と<罰>の問題が<法>的にあらわれるのは、いわゆる<天の岩戸>の挿話のなかである。そして犯罪をおかし罰をうけるのは農耕民の始祖であり、同時に種族の<姉>神アマテラスの<弟>スサノオである。

●そこで部神たちが合議して天の岩戸のまえで共同祭儀をいとなんで常態にもどしてから、スサノオは合議のうえ物件を弁償として負荷され鬚と手足の爪とをきって<清祓>させられ、追放されるのである。    (P213-P214)

●問題は『古事記』の神話におけるスサノオがなぜ後代に<天つ罪>とよばれるようになった<罪>を負荷されているのか、そして<天つ罪>とはなにを意味するか?ということにかかっている。

 スサノオは『古事記』のなかでアマテラスの<兄弟>として擬定されるとともに、農耕部民の始祖として出雲系に接続されている。そしてなぜ稲作農耕が行われた以後の時期における統一的な政治権力によって、種族の始祖に擬定されている女神アマテラスの<兄弟>に<天つ罪>を負荷させたのかという問題におきかえることができる。

 ここにはふたつの問題が複合しているようにおもわれる。ひとつは、この挿話が、氏族的あるいは前氏族的な段階(その時間は少なくとも統一国家成立の数千年前を想定すべきである)で<姉妹>が神権を支配しその<兄弟>が現世的な政治権力を支配するという体制があったことを暗示していることである。そして<天つ罪>はこの共同体制を乱す原因となるものを例挙したもので、スサノオが負わされたそれに対する罰則は、この氏族的あるいは前氏族的な共同体における<法>的な刑罰を意味していたということである。   (P215-P216)

C●しかし、大和朝廷勢力がもともとわが列島に土着していたものか、あるいは渡来したものであるかは『古事記』の編者たちにとっても明瞭ではなかったとかんがえられる。なぜならばその由来をきわめるために数千年をさかのぼらなければならないし、交通形態の未発達な古代社会において、孤立的に散在している村落は、すでにききしっている村落周辺よりはなれた地域からの襲来勢力を<天>よりきたとでもかんがえるほかないことは、信仰的にいっても当然のことだからである。

項目抜粋
2

●しかも、大和朝廷勢力以外にも、すでに出雲系のような未体制的な土着の勢力がいくつもわが列島に存在することはかれらにも知られていた。それゆえ、大和朝廷勢力はかれらの<共同幻想>の担い手の一端を、すでに知られている出雲系のような有力な既存勢力とむすびつける必要があり、それがスサノオの<天つ罪>の侵犯とその受刑の挿話となってあらわれたのである。

 追放されたスサノオは、当然、出雲の国へゆくことになる。そして八岐の大蛇に象徴されるような未開の慣習法しかもたない勢力間の争いを平定して、その勢力の首人である足名推、手名推の娘、櫛名田比売と婚姻するのである。  (P216)

備考





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33

国つ罪

くにつつみ 10 規範論 
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<天つ罪>の概念と<国つ罪>の概念との接合点

項目抜粋
1

【『古事記』の説話にはめこまれた歌の二様の解釈…・「やくもたつ…・」の歌】

Dこの説話にはめこまれた歌の解釈は大和朝廷系の『古事記』の編者たちと、土着系の伝承とではまったくちがっている。『古事記』では、<雲の幾重にも立ちのぼる出雲の宮の幾重もの垣よ。そこに妻をむかえていま垣をいくつもめぐらした宮をつくって共に住むのだ。>といったような解釈になる。

 しかし出雲系、あるいは強いていえば土着の未開体制にあった人々の伝承ではまったくちがっている。

 三角寛は『サンカの社会』で、つぎのようなサンカの解釈の伝承を記している。…・そのばあいには三角寛のいうサンカの伝承のほうが確からしくおもわれてくる。これにもとづいて歌を解釈すれば、<乱脈な婚姻を断つのに 出雲族の掟を 乱婚にたいして作った その掟を>ということになる。

 なぜこういう解釈に吸引力があるかといえば、スサノオが追放されるにさいして負わされた<天つ罪>のひとつは、農耕的な共同性にたいする侵犯に関しており、この解釈からでてくる婚姻についての罪は、いわゆる<国つ罪>に包括されて土着性の濃いものだからである。『古事記』のスサノオが二重に象徴している<高天が原>と<出雲>における<法>的な概念は、この解釈にしたがえば大和朝廷勢力と土着の未開な部族との接合点を意味しており、それは同時に<天つ罪>の概念と<国つ罪>の概念との接合点を意味していることになる。  (P217-P219)

項目抜粋
2

Eのちになって『祝詞』の「六月の晦の大祓」に分類された<国つ罪>は、生膚断ち、死膚断ち、白人、こくみ、おのが母犯せる罪、おのが子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪、畜【ケモノ】犯せる罪、昆【ハ】ふ虫の災、高つ神の災、高つ鳥の災、畜仆し、蠱物する罪、等々とされる。この<国つ罪>の概念に共通する点を抽きだすとすれば<自然カテゴリーに属する罪>ということができよう。<性>行為についての禁制も、ただ<性>的な自然行為のカテゴリーでとらえられている。

 このことは<国つ罪>の概念が前農耕的な共同体の段階をかなり遥かな未開の段階まで遡行できることを意味している。そして<兄弟>と<姉妹>とのあいだの<性交>の禁制がふくまれていないこと、そして呪術的な概念をも<罪>のカテゴリーにくわえていることは、ただ穴居や小屋がけしていたプリミティヴな氏族(前氏族)共同体以前の掟にまでさかのぼってもかくべつな不都合は生じないほどプリミティヴな<法>概念である。大和朝廷が編集した『古事記』のなかで宗権と政権の支配的な始祖に擬定されているアマテラスとスサノオに象徴される<共同幻想>のかたちよりも以前に<国つ罪>の概念の発生を想定してもけっして不当ではない。   (P220)

備考

註1.「このことは<国つ罪>の概念が前農耕的な共同体の段階をかなり遥かな未開の段階まで遡行できることを意味している。」




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34 <法>の発生について ほうのはっせい 10 規範論
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項目抜粋
1

E●ここで<法>の発生についてひとつの問題があらわれる。わが列島における原住族は、はたして<共同幻想>として<国つ罪>の自然的カテゴリーに属する<法>的な概念しかもっていなかったのだろうか?

そして<天つ罪>の概念をわが列島にもたらした農耕社会の支配勢力は天下り的に<国つ罪>概念の上層に<天つ罪>概念をもたらしたのだろうか?

 ここにはいくつかの問題がかくされている。ひとつは一般に<法>は征服勢力が支配圏を確立する過程にともなって持参するものであるかということであり、もうひとつは具体的に<天つ罪>と<国つ罪>の概念の発生は、歴史的な時間の差異としてかんがえられるかということであり、さらに<天つ罪>と<国つ罪>を支配王権の<法>と族長の<法>に対応させてかんがえることができるか、ということである。

 山野に自生する動物や植物を採って食べ、河海の魚を獲えて食べていた原住氏族が大部分を占めている前農耕的な段階の社会でも、小部分に農耕にしたがっている原住氏族が存在したとかんがえることは、きわめて自然である。このような社会で想定される血族集団の<共同幻想>は<国つ罪>のカテゴリー、いいかえれば自然的カテゴリーに属する共同規範を土台にしていくばくかの農耕法的な要素を混合するものであったとかんがえることができる。大和朝廷勢力がこのような前農耕的な段階の社会の胎内から農耕技術を拡張し高度化することによって発生し、しだいに列島を席捲したものであるか、あるいはまったく別のところから農耕技術をたずさえて到来したものであるかは断定できないし、また断定する必要もないが、氏族(前氏族)制の内部から部族的な共同性が形成されてゆくにつれて、しだいに<天つ罪>のカテゴリーに属する農耕社会法を<共同幻想>として抽出するにいたったということは容易に推定することができる。

 このような段階では<法>はいかなる意味でも垂直性(法権力)をもたず、ただ<国つ罪>に属するものに、いくらかの農耕法的な要素を混入させた習慣法あるいは禁制として村落の共同性を堅持するものにすぎなかった。『祝詞』のなかの「六月晦大祓」に記された<天つ罪>と<国つ罪>の区別よりも以前に『古事記』の「仲哀天皇」の項にこの二つの罪のカテゴリーを混合した<罪>の記述がでてくる。    (P220-P222)


項目抜粋
2

●ここでいう「国」を筑紫一国とかんがえて、ここでの統治形態は宗権をになう母系と政権をになうその<兄弟>という氏族的あるいは前氏族的な遺制の名残りを暗示している。だから巫女の<夫>である仲哀はあまり重んじられずに御託宣にそむくものとして憑き神にころされることになっている。

 このばあい「国」中からもとめられた<罪>は統一的な部族社会が成立する過渡期における<共同幻想>の<法>的な表現としてかんがえることができる。いわば<天つ罪>と<国つ罪>のカテゴリーを分離する以前の刑法的な古形を語るとすることができる。そして、大和朝廷の制覇が完成されてゆくにつれて農耕法的な要素を<共同幻想>の<法>として垂直的(権力的)に抽きだし、のこされた近親姦、獣姦のような<国つ罪>を、他の清祓対象とともに私法的な位置に落としたと推定することができる。      (P222-P223)

●このような氏族(前氏族)的な共同体から部族的な共同体へ移行してゆく過程で、変化してゆく<共同幻想>の<法>的な表現について、わたしたちが保存しなければならないのはただつぎのようなことだけである。

 経済社会的な構成が、前農耕的な段階から農耕的な段階へ次第に移行していったとき、<共同幻想>としての<法>的な規範は、ただ前段階にある<共同幻想>を、個々の家族的あるいは家族集団的な<掟>、<伝習>、<習俗>、<家内信仰>的なものに蹴落とし、封じこめることによって、はじめて農耕法的な<共同規範>を生みだしたのであること。したがって<共同幻想>の移行は一般的にたんなる<移行>ではなく、同時に不連続的な<飛躍>をともなう<共同幻想>それ自体の疎外を意味することなどである。    (P223)


備考

註1.「氏族(前氏族)制の内部から部族的な共同性が形成されてゆくにつれて、しだいに<天つ罪>のカテゴリーに属する農耕社会法を<共同幻想>として抽出するにいたったということは容易に推定することができる。」

註2.「経済社会的な構成が、前農耕的な段階から農耕的な段階へ次第に移行していったとき、<共同幻想>としての<法>的な規範は、ただ前段階にある<共同幻想>を、個々の家族的あるいは家族集団的な<掟>、<伝習>、<習俗>、<家内信仰>的なものに蹴落とし、封じこめることによって、はじめて農耕法的な<共同規範>を生みだしたのであること。したがって<共同幻想>の移行は一般的にたんなる<移行>ではなく、同時に不連続的な<飛躍>をともなう<共同幻想>それ自体の疎外を意味することなどである。」




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35 清祓行為 はらいきよめ 10 規範論
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項目抜粋
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F●『古事記』の神話のなかで<法>的な共同規範としてもうひとつ問題となりうるのは、清祓行為の意味である。なぜならば清祓行為は<共同幻想>が宗教から法へと転化する過渡にあるものとみなされるからである。【引用、イザナギが黄泉の国から帰って、禊する】

●清祓行為はこのばあい、いくつかの意味をもっていることがわかる。まず第一に、スサノオの追放譚とおなじように清祓行為の対象である<醜悪な穢れ>が時間的な概念としては<他界>(黄泉の国)に、空間的な概念としては<農耕社会>(出雲の国)にむすびつけられていることである。そしてこの両義性は清祓行為そのものが<共同幻想>の<法>的な規範としての性格をもつものであることを物語っている。なぜならば清祓行為が共同宗教としての意味と、共同規範として現実にむかう要素の二重性を獲得しているからである。

 もちろん清祓行為が<法>的な意味をもつためには、それ自身に<制裁>的な要素がなければならない。

 清祓行為はつぎのようないくつかの要素からできていることがわかる。

 @<醜悪な穢れ>に感染(接触)したものを身体から脱ぎすてる。

 A水浴などで身体から<醜悪な穢れ>そのものを洗い落とす。

 B<醜悪な穢れ>の禍いを祓う。

 C身体を水に滌いで清める。とくに目と鼻を洗う。

そして『古事記』の神話ではこれらの要素のすべてからそれぞれ<神>が生れることになっている。このばあい清祓行為のなかに<法>的な規範の要素をもとめるとすれば、<醜悪な穢れ>に感染したもの、または<醜悪な穢れ>そのものを身体から除去するという@およびAの部分に<刑罰>的な意味が存在している。いいかえれば物件を科料として提出させられるかわりに、ここでは<醜悪な穢れ>という幻想を科料として剥ぎとられるとかんがえることができる。また清祓行為を<宗教>的な規範としてかんがえれば、Bの<祓い>の行為に主要な宗教的な意味が存在している。  (P223-P225)

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備考 註1.「清祓行為は<共同幻想>が宗教から法へと転化する過渡にあるもの」




項目ID 項目 よみがな 論名
36 清祓行為 はらいきよめ 10 規範論
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法と宗教の根源は<醜悪な穢れ> <自然>から離れたことの畏怖
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G●ところでイザナギは『古事記』神話のなかで最初の種族的な<父>神とされている。なぜ神話のなかでイザナギはじぶんの<性>的な対象である<母>神イザナミを黄泉の国へ追ってゆき逃げかえってから清祓行為をおこなうのだろうか?そして黄泉の国と高天が原との接続点を出雲の国の伊賦夜坂に擬定しているのだろうか?

●イザナギの清祓行為の理由をなしている<醜悪な穢れ>はこのばあい二様に理解されるほかない。

 ひとつは、イザナギがイザナミを追って<他界>(黄泉の国)へ出入したことは<死>の穢れを身につけたものであるからそれは清祓行為に価するということである。もっとうがってゆけば<死姦>の穢れである。

 もうひとつは、イザナギが出雲の国と接触をもったことが穢れであり清祓行為に価するというかんがえである。

 そしてこのふたつは時間的な<他界>と空間的な<他界>との二重性として接合されている。もしも最初の<父>神が行う清祓が人間のあらゆる対他的な関係にたいするプリミティヴな清祓であるとすれば、この挿話が表現しているものは未開人が<法>と<宗教>の根源は<醜悪な穢れ>そのものであるとかんがえたということである。いいかえれば、あらゆる対他的な関係がはじまるやいなや、人間は<醜悪な穢れ>を<法>または<宗教>として疎外するものであり、これはただ清祓によってのみ解消されるとかんがえられていたことを意味している。そしてこの<醜悪な穢れ>の意味が、生活のくりかえしにともなう文字通りの身体の汚れという意味で河洗いによる清浄化に転化したとき、一方で身洗的な清祓行為が<宗教>としての意味をもつにいたったとかんがえることができる。

●人間のあらゆる共同性が、家族の<性>的な共同性からはじまって社会の共同性にいたるまで<醜悪な穢れ>であるとかんがえられたとすれば、未開の種族にとってそれは<自然>から離れたことの畏怖に発祥している。人間は<自然>の部分であるにもかかわらず対他的な関係に入りこむことによってしか生活の形態が保持できないことを識ったとき、かれらはまず<醜悪な穢れ>をプリミティヴな<共同幻想>として天上にあずけた。かれらはそれを生活の具体的な諸相からきり離し、さいしょの<法>的な共同規範としてかれらの幻想を束縛することで、いわば逆に<自由>な現実的行為の保証をえようとしたのである。  (P226-P227)


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H●このような清祓行為はどのような経路をたどって現世的なものをきり離すのだろうか?

 【崇神朝の項の三輪山説話、垂仁朝の出雲説話の引用】

 すなわちここでは清祓行為の対象である<醜悪な穢れ>は、人民における疫病の流行や天皇の子の失語というような現世的な異変としてあらわれ、それにたいする清祓行為は神社の建立という現実的な行為に転化されている。わたしたちは天上的な清祓行為が宗教的な側面では現世的な<神社>の建立に結晶してゆく経路をおもいえがくことができる。この経路はもちろん<共同幻想>が宗権優位から現世的な政治権力の優位へと転化してゆく経路に対応している。この経路で清祓行為のもつ<法>的な側面は<共同幻想>の権力的な構成そのもののなかに解消してゆくものであった。

●さらに時代がくだって高度になると、ほんらい清祓行為によって解消さるべき<罪>が<法>的な刑罰となってあらわれてくる。そのひとつは「木梨の軽の太子」の挿話である。天皇允恭が死んだあと「木梨の軽の太子」は帝位を継ぐことになっていたが、まだ即位式をあげないうちに、同母妹である「軽の太郎女」と兄妹相姦をおかした。この罪はもともと<国つ罪>のカテゴリーにはいるべき自然的な禁制に属している。それゆえ本質的には清祓行為の対象であるべきものだが、すでに大和朝廷権力の<法>的な構成にくみいれられているため「軽の太子」は<伊奈の湯>に流刑される。「軽の太郎女」は恋しさにたえかねてあとを追い心中する。ここではすでに清祓の対象となるべきものが、権力構成とわかちがたくむすびつくのである。

 また<天つ罪>のカテゴリーに属するものも、すでに権力にたいする個々の犯罪にくわえられる刑罰という意味に転化される。
          (P227-P229)


備考 註1.「もしも最初の<父>神が行う清祓が人間のあらゆる対他的な関係にたいするプリミティヴな清祓であるとすれば、この挿話が表現しているものは未開人が<法>と<宗教>の根源は<醜悪な穢れ>そのものであるとかんがえたということである。いいかえれば、あらゆる対他的な関係がはじまるやいなや、人間は<醜悪な穢れ>を<法>または<宗教>として疎外するものであり、これはただ清祓によってのみ解消されるとかんがえられていたことを意味している。」




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37 清祓行為 はらいきよめ 10 規範論
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Iニーチェ【「道徳の系譜」】のいうように共同体の権力の増大とともに、<法>(刑法)はその厳しさを和らげるだろうか?そしてその逆もまた真であろうか?

 わたしたちはただ公権力の<法>的な肥大を現実的な社会的な諸関係の複雑化や高度化のためにおこる不可避的な肥大としてだけみるのではなく、最初の共同体の最初の<法>的な表現である<醜悪な穢れ>が肥大するにつれて<共同幻想>が、そのもとにおかれた<個人幻想>にたいして逆立してゆく契機の肥大してゆくかたちとしてもみるのである。ニーチェのいう「支払無能力者」にとって公権力が「寛仁」であるようにみえるとすれば、それは公権力もまた一定の社会的な機能を福祉として行わざるをえないからではなく、あまりに対極的なものは現象的には無縁のようにみえるいう理由によっている。<福祉>には<物質的生活>が対応するが<共同幻想>としての<法>に対応するのはいぜんとしてそのもとにある人間の<幻想>の諸形態である。   (P230)

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備考




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