Part 6
共同幻想論

  河出書房新社 1968/12/05発行



項目ID 項目 論名
38 国家 11 起源論
39 国家 11 起源論
40 国家 11 起源論
41 <共同幻想>の構造 11 起源論
42 遡行性 11 起源論
43 初期権力の二重構造 11 起源論
44 国家の規模 11 起源論















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38 国家 こっか 11 起源論
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項目抜粋
1

@●はじめに共同体はどういう段階にたっしたとき、<国家>とよばれるかを起源にそくしてはっきりさせておかなければならない。はじめに<国家>とよびうるプリミティヴな形態は、村落社会の<共同幻想>がどんな意味でも血縁的な共同性から独立にあらわれたものをさしている。この条件がみたされるとき村落社会の<共同幻想>ははじめて家族あるいは親族体系の共同性から分離してあらわれる。そのとき<共同幻想>は家族形態と親族体系の地平を離脱してそれ自体で独自な水準を確定するようになる。

●この最初の<国家>が出現するのはどのような種族や民族をとってきても、かんがえうるかぎりの遠い史前にさかのぼっている。しかしこの時期を確定できる資料はいずれのばあいものこされていない。考古資料や古墳や金石文が保存されているのは、たかだか二、三千年をでることはないし、しかも時代がさかのぼるほどおもに生活資料を中心にしかのこされておらず、<国家>のプリミティヴな形態については直接証拠ははのこされない。

 しかし生活資料たとえば土器や装飾品や武器や狩猟、漁撈具などしかのこされていないとしても、その時代に<国家>が存在しなかったという根拠にはならない。なぜならば<国家>の本質は<共同幻想>であり、どんな物的な構成体でもないからである。論理的にかんがえられるかぎりでは、同母の<兄弟>と<姉妹>のあいだの婚姻が最初に禁制になった村落社会では、<国家>は存在する可能性をもったということができる。もちろんそういう禁制が存在しなくてもプリミティヴな<国家>が存在することを地域的に想定してもさしつかえないが、このばあい論理が語りうるのはただ一般性についてだけである。   (P231-P232)

項目抜粋
2
備考






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39 国家 こっか 11 起源論 
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1

A●よくしられているように、わが国の<国家>の存在についてさいしょに記載しているのは『魏志倭人伝』である。魏志によればわが列島はもと百余国にわかれており、そのうち大陸と外交的に交渉をもったためにはっきりわかっていたものは三十国となっている。そしてこの三十国についてはその国名をあげているところから、大陸と交渉しやすい地理条件にあったことが知られる。

 もし魏志の記載する百余国が、大陸と交渉のあった三十国とおなじ段階にあったものと想定すれば、これらの<国家>は<国家>の起源から発して時代のくだったきわめて新しいものとかんがえるほかはない。その理由は、この三十国のうち大陸沿岸にちかい<国家>について、魏志はそれぞれ統治する官名を記載しており、それによってこれらの<国家>はすでにさくそうする官制をもっていたことが推測できるからである。  (P232)

●魏志には、このうち伊都国に代々<国王>がおり邪馬台国に属していると記載されている。邪馬台国はそのころ女王が支配していた。

 またここに挙げられた官名は、総称的な意味をもっていて人名あるいは地域名とあまりよく分離することができないとかんがえられる。たとえば「卑狗」はおそらく『古事記』などの<毘古>、<日子>などと同義の表音であり、「卑奴母離」は<夷守【ルビ ヒナモリ】>と同義の表音ともかんがえられる。あるいは逆に、このような魏志の記載にのっとって、たとえばカムヤマトイハレヒコ【ヒコに傍線】ノミコト(神倭伊波礼毘古命)という神武の和名がつくりあげられたというべきかもしれない。…・おなじく「弥馬獲支」はたとえばミマキ【註 ミマキに傍線】イリヒコイニエノミコト(御真木入日子印恵命)という崇神天皇の和名と無矛盾である。

 ここで無矛盾であるというのはこれらの初期天皇が、じっさいにその<国家>群の官にあったとか、逆にその魏志の官名から名前をでっちあげられた架空の天皇だとかいうように単純化できることを意味するのではない。ただ現在でもたとえば<鍛冶>とか<鹿地>とかいう姓の人物がいるとすれば、鍛冶屋を職業とするとか、鍛冶という土地柄を姓としたとか速断できないとしても、<鍛冶>とか<鹿地>とかいう姓をえらんでつけたからには、鍛冶にかくべつな意識的あるいは無意識的な執着をもっていたか、現実上のなにかの関係がもとめられるはずだというのとおなじ意味をもっている。  (P234-P235)


項目抜粋
2

B隋書倭国伝によれば、推古期には行政的に八十戸ごとにひとつの稲置【ルビ イナキ】があり、十稲置

ごとにひとつの国造【ルビ クニノミヤツコ】をおき、国造は一百二十人あった。『古事記』の記すところでは、国造、和気【ルビ ワケ】、稲置、県主がわが列島の地域を統御する官名であった。隋書の記載では<和気>と<県主>の閉める官制的な位置についてはすこしも明瞭ではない。しかし魏志の記載した<官>と<副>とはこれらの四つの官制となんらかの意味で関連があったとかんがえてもあやまらないだろう。そしてここで関連という意味は、この<官>と<副>は邪馬台国から派遣あるいは任命されたものであるかもしれず、戸とか稲置とか国造とか県主とかいうものの初期形態は土着的なあるいは自然発生的な村落の共同規範にもとづいて擁立されたのかもしれないことをふくんでいる。

 これらの官制はその初期においてアジア的な呪術宗教的に閉じられた王権のもとにあったとみることができる。魏志にあらわれた倭の三十国では、すくなくとも邪馬台国に強大な支配権力があり、そのうち邪馬台よりも以北の大陸に近い諸国はその行政的な従属下にあったとかんがえられる。

 魏志によれば、邪馬台従属下の諸国の王権は卑弥呼とよぶ女王の統御のもとにあった。そしてその支配構成は、卑弥呼にシャーマン的な神権があり、その兄弟(男弟)が政治的な権力を掌握するというプリミティヴなけ遺体を保存していた。そしてこの支配形態は阿毎【ルビ アマ】姓を名のる支配部族にとってかなり以前から固有のものであったとみることができる。  (P236)


備考




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40 国家 こっか 11 起源論 
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1

C応神くらいまでの初期天皇の和名をみると典型的に<ヒコ>と<ミミ>と<ワケ>という三種の呼び名が中核をなしていることがわかる。そして<ヒコ>には<ネコヒコ>と<イリヒコ>と<タラシヒコ>とただの<ヒコ>があり、<ミミ>を名のっているのは綏靖の<カムヌナカハミミノミコト>だけである。<ワケ>は応神の<ホムタワケ>あるいは<オホトモワケ>だけだが、応神以後にはよくあらわれている。<ヒコ>と<ミミ>はいずれも魏志の倭三十国の官名として記載され、<ワケ>も『古事記』に官名として記されている。そして景行のように<ヒコ>と<ワケ>を兼用してあるものもある。(オホタラシヒコオシロワケノミコト)。

 これらの擬定された初期天皇がそれぞれ邪馬台的な段階の<国家>の<ヒコ>、<ミミ>、<ワケ>などの官職を襲った豪族の出身であったということはできないが、かれらの呼び名をこの三種からとっていることは、すくなくとも官制としての<ヒコ>や<ミミ>や<ワケ>が『古事記』の編者たちにとってかれらの祖先たちにあたえうる最高の権力にひとしいものであったとかんがえることはできる。  (P237)

【『古事記』の応神記にオホヤマモリとオホササギの挿話がある。】

D…・応神は「オホササギよ、おまえのいうことは、わたしの意にかなったこたえだ」といって<オホヤマモリノミコトは山海の政治をせよ、オホササギノミコトは国を治める政治を行え、ウヂノワキイラツコは天皇の位を継承せよ>と命ずる個所がある。このことは初期<国家>の支配構成をかんがえるうえで重要なことを暗示している。なぜならば、山部や海部の部民を行政的に掌握することと、中央で国家の行政にたずさわることと、天皇の位を継承することとは、それぞれ別のことを意味したことをはっきり示しているようにおもわれるからである。とりわけ関心をそそるのは、国を治めることと天皇位を相続することが区別されている点である。この挿話によれば初期王権において王位を継承することは、かならずしも<国家>の政治権力をじかに掌握することとはちがっていた。そうだとすれば初期王権の本質は呪術宗教的な絶対権の世襲に権威があったとしかかんがえられないのである。そして応神から王位の相続者に擬

せられたウヂノワキイラツコは、その和名が暗示するように官名としては<ワケ>がつかわれており、もちろん強大な統一王権の継承者という規模でかんがえられていない。ここでつかわれている<国>はせいぜい魏志に記載された倭三十国の一国あるいは数国の規模しか物語ってはいないのである。      (P238)


項目抜粋
2
Eしかし<アマテラス>と<スサノオ>の関係を、<姉妹>と<兄弟>によって宗教的な権力と政治的な権力が分担されるプリミティヴな<国家>における統治形態のパターンを語るものとすれば、神后(オキナガタラシヒメ)をはじめとする女帝を初期天皇群からみつけだすことができる。この統治形態が定着農耕がおこなわれてきた時期において宗教的な呪術的な権威の継承という面で男帝に代られたとすれば、天皇位を継承することの意味はあきらかになるとかんがえられる。おそらくそれは政治的権力の即自的な掌握ではなく、宗教的な権威の継承によって政治的権力を神話によって統御することを意味したのである。この天皇位の継承によるシャーマン的な権威の相続という側面は、さまざまな意味でわが国家権力の構成を重層化したとかんがえることができる。  (P239)


備考





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41 <共同幻想>の構造 きょうどうげんそうのこうぞう 11 起源論 
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1

F●隋書の記載を信ずるならば、天皇位のもっているシャーマン的な呪術性が変質をうけたのは、七世紀の初頭であった。

●ここで未明に政務を聴聞する<兄>と、日が出ると交代で政務を行う<弟>が、じっさいの<兄弟>であるかどうかは問題ではない。ただ<姉妹>と<兄弟>の関係が、<兄>と<弟>の関係におきかえられ、いぜんとして<倭王>(天皇)の本質が呪術的であることが問題なのだ。隋書を信ずれば、この呪術的な関係は合理的でないとして漢帝の勧告によって改められた。しかしいずれにせよ政治的な権力は<弟>によってしょうあくされていたのは確からしくおもわれる。

 さらに倭王の妻は<雞弥>(キミ)と号したという記載は暗示的である。なぜならばわが南島において氏族集団の長である<アジ>にたいして<アジ>の血縁の女からえらばれた祭祀をつかさどる巫女の長を<キミ>とよんだように、倭王の妻の号した<雞弥>という呼び名は、いわば宗教的な意味を暗示しており、それは母権的な支配形態の崩壊したあとの、その遺制をとどめているとみられるからである。

    (P239-P240)

G●わたしたちはここで『古事記』の神代および初期天皇群についての記載と魏志倭人伝の記載とをいかに関係づけ、いかに接続しうるかという問題に当面する。

 魏志の記載につけばわたしたちは邪馬台国家群をモデルにしてつぎのような<共同幻想>の構造を想定することができる。

 いくつかの既知の国家群があるとそのなかに中心的な国家があり、そこでは宗教的な権力と権威と強制力とを具現した女王がいて、この女王の<兄弟>が政治的な実権を掌握している。その王権のもとに官制があり主要な大官とそれを補佐する官人がある。この上層官僚は<ヒコ>とか<ミミ>とか<ワケ>とかよばれて国政を担当している。下層の官としては各戸を掌握する<イナキ>があり、<イナキ>の上位は国政にむすびつくか、<アガタ>にむすびついている。

 中心的な国家は連合している国家群におそらくは補佐的な副大官を派遣して各国家群の大官あるいは国王にたいし補佐と監視をかねている。

 初期の段階ではいかなる官によって司られていたかは不明であるが、刑事と民事についての司法官が存在し、殺人、盗み、農耕についての争い、婚姻にまつわる破戒などについての訴訟が決済されている。    (P244-P245)


項目抜粋
2

●各村落は海辺では漁獲と農耕に従事する戸人がおり、河川に沿った平野や上流の盆地では農耕がおもに営まれ、山間では鳥獣の捕獲、農耕用具の製造などに従事する移動部族がいる。村落の戸人にとっておそらく<イナキ>あるいは<イナキ>に結びついたものが首長である。そしてその由来は確立できないが村落の戸人たちの下層には奴婢群がいる。おそらくは村落間の争いにおける戦敗や犯罪行為などによって戸人を没収された同族または先住あるいは後住の異族である。

 大陸に対してはこれと接渉する官を適所に派遣してこれにあたらせている。

 そして初期においてこのような国家連合は、大陸から照明されたかぎりでは三十国であるが、わが列島の全体にわたっては百余国である。

 このように想定される国家群はべつに古代史の学者がいうように古代専制国家でもなければ、原始的民主制の共同体でもない。そもそも、古代や原始について専制と民主制しか形態をかんがえられないモルガンーエンゲルス的な類形づけは意味をなさないのだ。
      (P245-P246)


備考




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42 遡行性 そこうせい 11 起源論
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内包されている時間性
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1

Hわたしのかんがえでは、魏志の邪馬台国家群はかなり高度な新しい<国家>の段階にあるとみるべきであって、すこしもその権力の構成【ルビ ゲシュタルト】は<原始>的ではない。しかしそれにもかかわらずその<共同幻想>の構成【ルビ ゲシュタルト】は上層構造部分で強く氏族的(あるいは前氏族的)な遺制を保存している。そしてその保存の仕方は、邪馬台についてみればきわめて呪術的で政治権力にたいして不関的であるとさえいえる。いいかえれば世襲的な王位の継承はおそらくは宗教的あるいはシャーマン的な呪力の継承という意味が強大であって、かれら自身によっても政治権力の掌握とは一応別個のものとかんがえられていた公算がおおきい。そして邪馬台が女王権を保持したという記録は、この世襲的な呪術的王位の継承に関するかぎりは氏族的(前氏族的)な<兄弟>と<姉妹>が神権と政権を分担する構成を保存していたとみることができる。   (P246-P247)

Iこの世襲的な宗教的王権に関するかぎり、魏志の邪馬台的な<国家>は起源的な<家族>および<国家>本質からつぎのような段階をへて転化したものと想定することができる。

 一 <家族>(戸)における<兄弟>⇔<姉妹>婚の禁制。<父母>⇔<息娘>婚の罪制。

 二 漁撈権と農耕権の占有と土地の私有の発生。

 三 村落における血縁共同制の崩壊。<戸>の成立。<奴婢>層と<大人(首長)>層の成立。

 四 部族的な共同体の成立。いいかえれば<クニ>の成立。

 これらの前邪馬台的な段階の期間は、おそらくは邪馬台から現代にいたる期間よりもはるかに多くの年数を想定しなければならないだろう。

 ところで邪馬台的な段階の<国家>は、世襲的な王権以外の政治的な構成については、かなり高度に発達したものとかんがえるべきで、そこには行政、司法、外交、軍事にわたる諸分権が確定されている。   (P246-P247)

Jこのように魏志の記載から想定される邪馬台的な段階の<国家>は、『古事記』に記載されている神代や初期天皇期とどのように関係づけられ、どのように接触するだろうか?

 これを解くための手がかりは、すくなくとも三つかんがえられる。第一は邪馬台的な段階の<国家>でも遺制として保存されている呪術宗教的な王権の世襲形態を考察することである。第二はプリミティヴな刑罰法にはじまる<法>的な概念の層の新旧を追及することである。第三に初期天皇群に想定される王権の及ぶ規模を推定することである。   (P247)


項目抜粋
2
K魏志の記載によれば、邪馬台の宗教的な王権は卑弥呼という巫女の手に掌握されている。そしてその<弟王>が政治的な権力を行使している。この権力形態は、規模の大小を問わなければ、氏族的(前氏族的)な共同体から最初の部族的な共同体(始源国家)に移行した段階、あるいはこういう移行とは別個の理由で部族的な<国家>が何らかの理由で発生した当初の段階まで遡ることができるものである。『古事記』の神代篇は、<アマテラス>と<スサノオ>の関係になぞらえてこの形態を重要なものとして保存している。<アマテラス>は<アマ>氏の始祖の女性に擬定されており<スサノオ>は土着の水稲耕作部族の最大の始祖に擬定されており、そしてこの二人は<姉>と<弟>の関係にあるものと作為されている。…・ただこのような<共同幻想>の構成【ルビ ゲシュタルト】は、氏族的(前氏族的)な共同体から最初の部族的な共同体(いいかえれば最初の<国家>)が成立したときまでさかのぼることができる。この意味では『古事記』の神代篇の本質的なパターンは、魏志の邪馬台的な段階の<国家>よりはるか以前の太古までさかのぼりうる時間性をもっている。…・『古事記』の神話的な時間がプリミティヴな<国家>まで遡行する時間性をしめしていることが重要なのだ。そしてこのプリミティヴな<国家>の成立は魏志に記された邪馬台連合などから遥か以前に想定されるものである。ただ、魏志の邪馬台的な段階の<国家>はほかの点では新しいとみることができるが、すくなくとも呪術宗教的な王権の構造についてだけは、このプリミティヴな<国家>の遺制をのこして実在していたとみることができる。呪術宗教的な威力の継承という意味では、邪馬台的な段階の国家でも、さいしょの氏族制の崩壊の時期までさかのぼってかんがえることができるような時間性をもっている。ここには、天皇制の本質について重要な示唆がかくされている。  (P248-P249)


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43 初期権力の二重構造 しょきけんりょくのにじゅうこうぞう 11 起源論
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初期天皇期に記された<法>概念
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1

Lこうかんがえてくると、魏志や隋書に記された邪馬台的な段階や初期大和朝廷的な段階でつかまれている<法>概念は、『古事記』の神代や初期天皇期に記された<法>概念にくらべて、はるかに発達した段階にあるとみなすことができる。

 ここでわたしたちは、同じ田地の侵犯が世襲的な宗教的王権の内部でかんがえられる<法>概念と政治的な権力の核に想定される<法>概念とではそれぞれ相違していることになるという問題にであう。宗教的な王権の内部では田地の侵犯に類する行為は、<清祓>の対象であるが、政治的権力の次元ではじっさいの刑罰に価する行為である。この同じ<罪>が二重性となってあらわれるところに、おそらく邪馬台的なあるいは初期天皇群的な<国家>における<共同幻想>の構成の特異さがあらわれている。もちろんこのことは、王権の継承が呪術宗教的なもので、現世的な政治権力の掌握とすぐにおなじことを意味していないという初期権力の二重構造に根ざすものであった。  (P251)


項目抜粋
2
備考




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44 国家の規模 こっかのきぼ 11 起源論
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直接の先祖として擬定した<アマ>氏の勢力
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1

M…・これらの初期天皇群につけられた<ヒコ>、<ミミ>、<タマ>、<ワケ>などが、いずれも邪馬台的な段階と規模の<国家>群における諸国家の大官の呼称であるという事実はここでとりあげるに価する。…・もちろんこれらの初期天皇が魏志を粉本にして創作されたといおうとしているのでもなければ、これらのいずれかの国家の支配者として実在したといおうとしているのでもない。現在の段階ではこれらについて断定することはどんな意味でも不可能である。ただわたしたちは、これらの初期天皇の名称から、これらの世襲的な宗教的王権の規模が、たかだか邪馬台的な段階と規模の<国家>をしか想定していなかったということを問題にしたいのだ。

N『古事記』の編者たちの世襲勢力が、かれらの直接の先祖として擬定した<アマ>氏の勢力は、大陸の騎馬民族の渡来勢力であったかどうかはべつとしても、おそらく魏志の記載している漁撈と農業と狩猟と農耕用具などの製作をいとなんでいた部族に関係をもつものであったと想定することができる。それにもかかわらず太古における農耕法的な<法>概念は<アマ>氏の名を冠せられ(天つ罪)、もっとも層が旧いとかんがえられる婚姻法的な<法>概念は土着的な古勢力のものになぞらえられている(国つ罪)。この矛盾は太古のプリミティヴな<国家>の<共同幻想>の構成を理解するのに混乱と不明瞭さをあたえ、幾重にも重層化され混血されたとみられるわが民族の起源の解明を困難にしている。

 さもあれ、『古事記』の編者たちの勢力は、かれらの先祖たちを描きだすのにさいしてたかだか魏志に記された邪馬台的な段階の一国家あるいは数国家の支配王権の規模しか想定することができなかったことはたしかである。  (P254-P255)

項目抜粋
2
備考




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