Part 1
マス・イメージ論

  福武書店 1984/07/10発行



項目ID 項目 論名
方法 あとがき
世界の変成感 変成論
酷似 変成論
停滞 停滞論
停滞 停滞論
<推理>の本質 推理論
<推理>の現在 推理論












項目ID 項目 よみがな 論名
方法 ほうほう あとがき
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「現在」という巨きな作者
項目抜粋
1

@カルチャーとサブカルチャーの領域のさまざまな制作品を、それぞれの個性ある作者の想像力の表出としてより、「現在」という巨きな作者のマス・イメージが産みだしたものとみたら、「現在」という作者ははたして何者なのか、その産みだした制作品は何を語っているのか。これが論じてみたかったことがらと、論ずるさいの着眼であった。でも思わずのめり込んでしまうと、しばしば一制作は一作者の所産にほかならないという視線にからめとられた。それを感じるたびに、何だべつにいままでやってきた批評とかわりないではないかという、内心の落胆をおおいかくせなかった。

 こういう問題は、本質的にだけいえばつぎのようになる。制作品という言葉を全体的な概念として使おうとすれば、個々の制作品は、個々の作者と矛盾する表出とみなされる。また逆に、制作品という言葉を、個々の作者のそれぞれの制作品の集まりとかんがえれば、制作品は個々の作者の内面の表出そのものなのだ。

Aそこでこの論稿では、カルチャーまたはサブカルチャーの制作品を、全体的な概念としてかんがえ、そのために個々の制作者とは矛盾するものとして、取扱おうと試みた。するとたしかに制作品は、個々の制作者と矛盾する表出の側面を露出してくる。だがこれの作者を「現在」という全体的な輪郭にまで形成することはたいへん難しいことであった。なぜかというと「現在」もまた「現在」に矛盾する自己表出(自己差異)を内蔵しているからである。この内蔵されたものの内部では、個々の制作者も、それをとりあげている論者も、いわば渦中の人であるほかない。そして渦中の人はいつも解明しているよりも、行動している存在であり、その分だけは解明から、いわば絶対的に遠ざけられている。わたしはしばしば、じぶんの思考のあまりの射程のなさに、あきれるほかなかった。把みかけたとおもうと、眼のまえには膨大な覆いがかけられ、焦点は拡散していってしまう。そういうことの繰りかえしであった。

 ただ最小限はっきりしていたことは、生のままの現実をみよ、そこには把みとるべき「現在」が煮えかえっているという考えにだけは、動かされなかったことだ。生のままの「現在」を、じかに言葉で取扱えば、はじめから「現在」の解明を放棄するにひとしい。そのことだけは自明であった。そこで制作品を介して「現在」にいたるという迂回路だけは、前提として固執しつづけた。


項目抜粋
2
Bこの本はほんとは深刻で難しく、暗い本だが、明るい軽い本として、読まれなければ本としては、その分だけ未熟で駄目なのだとおもう。別のいい方ですれば、取扱われている主題が、それにふさわしい文体や様式を、まだ発見していないことを意味しているからだ。


備考 註.「取扱われている主題が、それにふさわしい文体や様式を、まだ発見していない」




項目ID 項目 よみがな 論名
世界の変成感 せかいのへんせいかん 変成論
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現在のイメージの一般性 変成のイメージの分裂病的な特性
項目抜粋
1

@カフカの『変身』で、いちばん要は、妹のグレーテが突然心がわりするところだ。 (P7)

A虫に変身したグレゴールの意味は、この世界がどう変成されているかという意味とおなじだ。人間の心や判断や思考をもつのに、虫の身体としてしか行為を表出できないひとつの状態が表象されているのだ。

 虫という種は身体として制約し、人間という種は精神を制約する。・・・・・・グレゴールのなかで精神としてひろがってゆく人間の身体が、身体としてひろがる虫の精神と出遭っているのだ。そしてこのばあい虫の精神は虫の身体の振舞いとしてしか表出されない。でもあくまでも虫の精神なのだ。・・・・・・わたしたちは毒虫グレゴールの振舞いに痛ましさや、もどかしさを感じる。だがこの感じは、いつかじぶんが体験したことがあったとか、これからいつかきっと体験するにちがいない如実感をともなっている。これが世界の変成感なのだ。  (P7−P8)

Bところでグレゴールにたいする妹の突然の愛の変貌で何がいったい重要なのだろう?・・・・・・

  1.一匹の毒虫はグレゴールとして人間だ。  【註.「人間」はゴチック体】

  2.一匹の毒虫はグレゴールの化身として虫だ。  【註.「虫」はゴチック体】

 妹グレーテの愛が憎悪へ突然変貌するのに、これだけの識知の差異でたくさんである。 (P13)

C虫に変身したじぶんの褐色の腹を、人間のままの眼でみているグレゴールの変成の位置は、類推できる実際の場所として、分裂病者の体感異常の場所しかもっていない。  (P15)

D変成のイメージの分裂病的な特性。これはいったい何なのだろう。これをカフカの文学の理念に還元するのではなくて、ここでは現在のイメージの一般性の方に転換させてしまいたいのだ。徐々に一般化しようとする手つきをつかえば、どこまでいっても人間の心や判断や感情をもちながら、虫の身体としてしか行動できない状態。しかもその状態は体感と想像力の位置そのものであり、・・・・・・まさに如実にその状態なのだ。  (P16)


項目抜粋
2

E他者のイマジネエションや視線のなかでは一匹の虫として存在しており、じぶんのイマジネエションのなかでは思うがままに振舞い、感ずるままに感応している人間。これが変成のイメージを語る第一の条件だ。だがそれだけではない。つぎにこの状態にはもっと微妙な構造がある。思うがままに振舞い、感ずるがままに感応しているこの人間は、実際は虫の身体表出としてしか行動していないのだ。ここでもまた人間の心をもった虫という寓喩の世界があるのではないし、また虫が人間の心をもって振舞っている動物童話の世界があるわけでもない。虫に変身したグレゴール・ザムザが、閉じこもっていた部屋をでて、父親や母親や妹や間借人たちの視線がとどく世界に入ってゆくと、そこでは分裂病的な体感異常の世界が出現する。・・・・・・父親や母親にとっては一匹の虫になぜか化身してしまった息子とみえるのに、兄妹相姦的な愛の願望をもつ妹からは、虫の身体表出を介してすべての行為がじぶんにたいする愛であるような対称をみなくてはならない。この変成のイメージは世界のシゾフレニー化である。この世界に接触したものは誰でも、近親相姦的な関係のなかにあるものと、その外にあるものに振りわけられてしまう。またこれは世界の未分娩化であるとともに世界の被害妄想化なのだ。わたしたちは胎児として母親の胎内にあったじぶんまでは想像しても、それ以前は想定する必要がないはずなのに、この世界に接触すると視線に怯えがやってきて、未生以前の虫や猿のような動物にまで遡行しなくてはならなくなる。

 この変成のイメージは現在が人間という概念のうえに附加した、交換不可能な交換価値なのだ。わたしたちは身体図式を人間以前にまで拡張される。障壁をつくるべき閾値がどこにも存在しないからだ。  (P17−P18)


備考




項目ID 項目 よみがな 論名
酷似 こくじ 変成論
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分娩の前後のときに母親の像との同性愛に失敗 <意味>の比重
項目抜粋
1

@カフカよりもっと現在的な筒井康隆の『脱走と追跡のサンバ』の世界では、主人公の「おれ」はどの世界に突きでていっても、またテレビ・カメラのような眼にそのつぎのせ界から監視され、けっして監視から解かれない人として存在している。これは被害妄想や追跡妄想の世界に酷似しているのだが、この無限虚構のような世界で、わたしたちが病者になることを踏みこたえているとすれば、監視する眼のついたスタジオ的な世界では、演技者や出演者はじぶんたちが頭のてっぺんから足のさきまでどっぷりと虚構につかっているのだと見做して、監視の眼の向う側の世界を無化しているからだし、また監視の眼のこちら側の受像装置の世界では、スタジオ的な世界の人々は完全な虚構の人間で、スイッチやチャンネルを切りかえれば、いつでも部屋から消えてくれたり、別のスタジオ的な世界に転化したりできると見做しているからである。そしてこの監視する眼からどこまでいっても監視されている世界の特性は、分娩の前後のときに母親の像との同性愛(なぜならその時期の母親は胎児や乳児にたいしていつも<男性>として振舞い、胎児や乳児は、男でも女でもひたすら受け身で、授乳や排便の世話などで保護されるばかりの<女性>だから)に失敗したものの情緒の世界に酷似している。(受け身で、スイッチやチャンネル転換によっていつでも消されてしまう世界)   (P22−P23)

Aスイッチとチャンネルによって一瞬に中心に到達できる映像の世界、また一瞬のうちにべつの系列の映像に転換し、また恣意的にスイッチを切って消滅させることができる世界、<出現><転換><消滅>がす早くおこなわれるというイメージ様式は<意味>の比重を極端に軽くすることではじめて衝撃に耐えられる世界である。このイメージ様式を言葉の世界に移す方法が、現在の若い作家たちによって捕捉されることは、いわば必至だといっていい。ただどうしても言葉を軽くしなければ、このイメージ様式と等価な世界は成り立ちそうにない。これは、『夢で会いましょう』のような作品が、内容的な重さの限界ではないかという制約感をあたえずにはおかない。つまりわたしたちは、映像は映像自身を検閲するのではないかという思いにかられるのだ。資本や検閲ばかりが規制する以前に、イメージの様式がイメージを制御するにちがいない。言葉はどんなに軽くても映像を重たくするからだ。


項目抜粋
2

Bその意味で高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』の出現は鮮明であった。ここで現在のイメージ様式そのものが高度で、かなり重い比重の<意味>に耐えることがはじめて示された。この作品の構成はテレビ的である。・・・・・・そしてこの三つのチャンネル形式をつらぬいている作品のモチーフは<空虚>で<荒唐無稽>な物語を語ることを、そのまま真剣な倫理にしてしまうことのようにみえる。   (P24−P25)

CP33


備考




項目ID 項目 よみがな 論名
停滞 ていたい 停滞論
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倫理の言葉 倫理の仮象
項目抜粋
1

@わたしたちのあいだで、言葉がいま倫理的に振舞っているのをみたら、現在の停滞のいちばん露骨な形式に、身をおいたじぶんを肯定しているか、政治的な言葉を退化させて、倫理の言葉で代償しているかどちらかだ。その倫理の言葉は民衆的にみえようと、反民衆的にみえようとおなじことだ。たしかにあたりには政治に自信をなくしたソフト・スターリン主義の言葉と、現在の華やかな空虚の意味に耐えられなくなった文学の言葉とが、折合いをつけて陥込んだ場所がみえる。この場所はまた別の言葉でもいえる。もう半世紀もまえにあらわれた思想的な光景の記憶、スターリン主義がリベラリズムを味方に誑しこんで、じぶんの双生児である社会ファシズムを曲がりなりにも打ち倒した懐かしい想い出の場所だ。そしていくらか悔恨をまじえて、古い懐かしい日々を回顧したい文学者たちがいま寄り集まっている地平なのだ。あたかも幼児期の原風景を覗きこんだときみたいに、一瞬のうちに半世紀もまえの記憶にまで退化していってしまう。かれらはいったい五十年ものあいだ何を紡いで、作品に積みあげてきたのだろう。わたしたちは禍々しい影が冬眠から醒めて、あっという間に文学の停滞を組織してしまうのを眼前にしている。

 だが世界はたえず展開しているのだ。現在のソフト・スターリン主義は、西独からはじまるリベラリストたちの、文学の停滞と同伴の記憶を組織しながら、その隙に、現在、世界のもっとも進んだ社会主義構想のポーランドを、手段を選ばぬ残酷さで、あっという間に叩きつぶしてしまったのだ。  (P34−P35)

A現在わたしたちが「ヨーロッパ」というとき重層的な意味をもっている。ひとつは、さまざまな意味で<マルクス主義>が無化(無効化)されたあと、中心を喪って、活力をアメリカにもとめざるをえなくなって、深く混迷と模索の過程をつみ重ねつつある地域としての「ヨーロッパ」である。だが「ヨーロッパ」はもうひとつの意味をもっている。世界史のいちばん高度な段階から必然的に国家を超えられて、欧州共同体として振舞わざるを得なくなった、いわば普遍的な「ヨーロッパ」とである。この後者の普遍的な「ヨーロッパ」は、現在でもまだ世界史の鏡である。そこから眺望されるソ連官僚制国家圏の姿は、かつて人類が視たことのない普遍的な意味をもっている。その意味は半世紀まえに、スターリン主義がリベラリズムを味方につけて社会ファシズムと死闘を演じた時期の理念の構図の意味を、はるかに超えてしまっている。


項目抜粋
2

現在「ヨーロッパ」の思想が核心のところで視ているソ連や東欧圏の姿は、とうてい中野孝次らの「署名についてのお願い」の情勢認識などが、把握しているとはおもえないのだ。中野孝次らが「いかなる党派、組織、団体からも独立した文学者個人」でありえている可能性はすくない。そうだとしても名刺に刷られる肩書きとしてだけであり、思想の本質としてではない。スターリン翼賛会→大政翼賛会→自称の反核・平和勢力翼賛会。半世紀もたっているのに、何かの党派や組織を翼賛するために、じぶんたちがおためごかしの党派や組織と化することだけはやめたことがない。そのカテゴリイを離脱しているとはおもえないのだ。

Bどうしてかれらは(いなわたしたちは)非難の余地がない場所で語られる正義や倫理が、欠陥と傷害の表出であり、皮膚のすぐ裏側のところで亀裂している退廃と停滞への加担だという文学の本質的な感受性から逃れていってしまうのだろう?かれらを(わたしたちを)古き懐かしき日々【ルビ グッド・オールド・デイズ】への回想でしかない思想の図式的な光景へゆかせる退化した衝動が、現在、倫理の仮象をもってあらわれるのはどうしてなのだろう?  (P38−P39)


備考 註1.「地域としての「ヨーロッパ」と普遍的な「ヨーロッパ」」




項目ID 項目 よみがな 論名
停滞 ていたい 停滞論
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農耕的な共同体の意識形態に
まつわるもの
現在の諸産出の物質的な形式に
附与されるイメージに関するもの
項目抜粋
1

@「人間性」という概念も「人間」という概念もそう簡単に消滅するとはおもわれない。だがその実体は普遍なものではないにちがいない。高度に技術化された社会に加速されたところでは「人間性」や「人間」の概念は「型」そのものに近づいてゆくようにおもえる。そして現在わたしたちが佇っている入口がそこにあるような気がする。「人間性」や「人間」を不変の概念だとみなせば、わたしたちは過去の「人間」や「人間性」の風景への郷愁に左右されて停滞するのではないだろうか?だがわたしたちは<停滞>の意味を情緒的に曖昧にしないではっきりさせておかなくてはいけない。わたしたちが<停滞>というとき、起源的な概念でたつの意味をあたえている。ひとつは農耕的な共同体の意識形態にまつわるものなのだ。もうひとつは現在の諸産出の物質的な形式に附与されるイメージに関するものなのだ。わたしたちの現在は<停滞>している。そうだ。その停滞は共同的な意識としてか、あるいは物質的な形式のイメージとしてか、何れかを指しているのだ。中野孝次らの「声明」が停滞しているのは、田園的な理念の共同性を、現在の社会に対置させようとしているからである。
  (P40−P41)

A【『窓際のトットちゃん』という作品について】・・・・・・作者は幼児に退化して、理想的な自由の雰囲気をもった親たちと師のあいだにマユのように籠ってみせている。そのイメージの場所は、現在では経済的な基礎だけでいえば、すべての親や教師や子供たちの手にとどくところにあるといえる。だがじっさいには流動的で不安な現在の市民層には、まったく不可能な雰囲気にしかすぎない。そこで現在の停滞が膨大な読者に振り返させる理念の郷愁として、この作品は存在するといえよう。

 現在ではすでに作品の主人公「トットちゃん」が体験したような、節度ある教養のようなリベラリズムの教育理念も、家族の躾けの紐帯もほとんど不可能になっている。その根本的な理由は、現在まったきリベラリズムの基盤である市民社会が、あえぐように重くのしかかっている国家の管理と調整機構のもとに絶えずさらされてしか成立しなくなっているからだ。資本主義=自由な競争といったマス・イメージの画像とは似てもにつかないところで、すくなくとも生産社会経済機構としての市民社会は、眼に視えない人為的な管理と操作を国家からうけとっている。またそれなしには市民社会は成立しなくなっているともいえる。主観的な(主体的な)どんな安定意識も、主観や主体とはかかわりをもた

ない管理と調整の噴流に絶えずふきさらされている。するとわたしたちは現に存在するマス・イメージの世界との関わりを、いわばエディプス心理的に加減しながら息をつくほかなくなっている。もちろん『窓際のトットちゃん』は、いまは過ぎ去って二度と戻ってはこないような、まったきリベラリズムの教育や、躾けの理念を懐かしむ追憶によって現在のイメージの停滞に拮抗しようとしているのだ。  (P47−P48)


項目抜粋
2

B作者の卓越した理解に依拠するとすれば、『窓際のトットちゃん』に惹かれた膨大な読者たちは、いますぐにでも『アブラハムの幕舎』に駆け込みたいような、崩壊した病める家族のメンバーを抱え込んでいるはずだということになる。・・・・・・・いったい現在はどういうことになっているのだ?わたしたちは現在の停滞を、過去の光景に収斂することを許されずに、ただ未来にむけて放つことだけを許されているとおもえる。    (P52−P53)


備考 註.「わたしたちは現在の停滞を、過去の光景に収斂することを許されずに、ただ未来にむけて放つことだけを許されているとおもえる。」




項目ID 項目 よみがな 論名
<推理>の本質 すいりのほんしつ 推理論
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遭遇の仕方 言語の本質がもつ先験的な理念性
項目抜粋
1

@批評が推理力を行使できるとかんがえる根拠は、言語による認識のどんな側面にも、推理による<連鎖><累積><分岐>の系がふくまれるところからきている。事実の像にたいしても、ほとんどおなじ根拠が与えられる。あるひとつの事実は、たくさんの事実の<連鎖>の環のひとつとみなせるか、あるいはたくさんの異種の<分岐>があつまってできた結節とみなせるとかんがえている。けれども批評の言語は、推理が適中し、すくなくとも推理的な理念(形式主義的な理念)が完結したという快楽に到達することはない。

 作品の言語が推理力を行使していても、これを対象にえらんだ批評は推理の理念を完結できないことはおなじなのだ。どうしてかというと推理作品と呼べるものがあるとすれば、その中心のところには推理的な理念の完結された像があるのではなく、まったく別な核心があるとおもえるからだ。論理的なものは、現実的なものであるというのは、わたしたちの「知」の根拠にある無意識の欲望のようなものだ。だが推理作品のなかでは論理的なものは想像的なものだという原則だけが流通できる。現在推理作品をつくろうとする動機はさまざまでありうるだろうが、本質的にだけ問えばそこで流通できるのはやはりこの原則だけだとおもえる。    (P54−P55)

A【ポオ「メエルシュトレエムに呑まれて」からの引用】

 ちょっと見にはただ、エルシュトレエムの巨大な渦にまきこまれた船に乗った老人が、その船からみた渦巻の内側の体験を語っているとみえてそうではない。渦巻の内側を、鳥瞰する位置から視たり、渦の泡粒まで視えるほど接近した位置から視ている、もうひとつの自在な眼がなければ、この描写は不可能である。このもうひとつの不可視の視線を、作品の全体を既に結論まで知りつくした作者の眼を象徴するとすれば、ここでもポオの作品の特質である未知を体験しつつある語り手と、すでに体験を既知とする作者とが交叉する個所で、じっさいには不可能なはずのイメージを実現していることに気づく。現に渦のなかに巻き込まれている「わし」(語り手の老人)を、もうひとりの「わし」が鳥瞰しているというイメージである。作中の「わし」が視ているから渦巻の内側が視えるのではなく、渦巻の内側の光景の全体からこの「わし」は視させられているのだ。これは時間体験の逆行である。あるいはふつう了解とよばれている原因と結果の逆立ちである。了解の結果があるから逆に了解がはじま

るのだ。わたしがある事柄にぶつかったから事柄の体験があるというのではなく、事柄の体験がさきにあるからわたしは事柄にぶつかるのだ。<推理>をよび起こす優れた文学作品には、いつもこの時間体験の逆行のような不思議なイメージの錯綜が核心のところに存在している。  (P61−P62)


項目抜粋
2

Bけっきょくわたしたちが<推理>とかんがえているものの本質は、はじめに既知であるかのように存在する作者の世界把握にむかって、作品の語り手が未知を解き明かすかのように遭遇するときの遭遇の仕方、そして遭遇にさいして発生する<既視>体験に類似したイメージや、分析的な納得の構造をさしていることがわかる。

 わたしたちはこのやり方の核心のところにしばしば遭遇している。理念的にも経験的な事実としても。はじめに理念が把握した世界像は既知である。この既知の世界像から演繹された条件をたてて、現在を踏みだそうとすれば、あらゆるイデオロギストがやっているとおなじ、空虚な呪縛に到達することになる。そこで理念が把握した世界像は既知であるが、あたかも未知であるかのように、現在を踏みだすべきなのか。そうではなくて理念が把握した世界像は既知だというのは、虚像だとみなさなくてはならないのか。この問いのなかで、わたしたちは言語の本質がもつ先験的な理念性につきあたっている。この先験的な理念は、言語が言語という意義のなかではかならず経験的な事実とずれを生みだすということに帰せられる。理念が把握した世界像は、既知でもなければ未定でもなくて、ただ<既視>体験のようにしか、もともと存在しないのだ。

 ほんとはこの問題は文学上ポオの作品ではじめてみたいに提起され、そこで行きどまったといってよい。  (P62−P63)


備考 .「わたしたちは言語の本質がもつ先験的な理念性につきあたっている。この先験的な理念は、言語が言語という意義のなかではかならず経験的な事実とずれを生みだすということに帰せられる。理念が把握した世界像は、既知でもなければ未定でもなくて、ただ<既視>体験のようにしか、もともと存在しないのだ。」




項目ID 項目 よみがな 論名
<推理>の現在 すいりのげんざい 推理論
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<推理>の現在における解体の姿
項目抜粋
1

@わたしたちは「夢の棲む街」の空想に、ありきたりの推理小説よりも豊かな<推理>の現在における解体の姿をみている。もう現在の世界ではポオの作品が具現しているような、世界把握の既存性が、未知を手さぐりする語り手の冒険、いわば理性と想像力による弁証法的な冒険と遭遇するといった<推理>を描くことはできない。わたしたちは<世界>を把握しようとする。すると未知をもとめるわたしたちの現実理性と想像力はこの<世界>に到達するまえに、その距離のあまりの遠さに挫折するほかなくなっているのだ。すくなくとも挫折の予感にさいなまれずには<世界>をあらかじめ把握することはできない。これがわたしたちの本質的な<推理>の当面している運命だ。 (P66−P67)

A現在わたしたちが<推理>を意図的に主題にしている小説作品にみているものは、大なり小なり本質的な<推理>からの偏倚や逸脱でしかない。作者に既知とおもわせる世界把握があるのに、語り手はなにに出会うのか、どうするのかまったく未知数だといった、古典的な<推理>の世界から遥かに隔てられている。作者と語り手の矛盾が、作品のただ中で既往と未往をめぐって交叉するとき産みだされるイメージを、本質的な<推理>にとって必要でそして充分な条件だとすれば、現在いちばん通俗的な<推理>は、作者があらかじめもっている既知の設定を、語り手を介してさり気なくはぐらかすように記述するところに成り立っている。いうまでもないが<推理>を主題にすることは、すでに必要条件かあるいは充分条件かを喪失することなのだ。・・・・・・ (P71)



項目抜粋
2
備考




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