Part 2
マス・イメージ論

  福武書店 1984/07/10発行



項目ID 項目 論名
世界という概念 世界論
世界という概念 世界論
10 方法 世界論
11 差異線 差異論
12 差異線 差異論
13 人為的 差異論
14 究極の文学 差異論












項目ID 項目 よみがな 論名
世界という概念 せかいというがいねん 世界論
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世界の壁 理念と現実とが逆立ちしてしまう境界
項目抜粋
1

@世界(という概念)についてかんがえ、それについて語ろうとおもうのは、たくさんの恣意的な意味がくっつけられたこの言葉から、語をめぐる環境を整序したい願望がどこかにあるからだとおもえる。

 まず世界はその内部にあるすべての存在と事象と、それを容れる輪郭のことを指している。つぎに世界の内側にあるすべての存在を、分野として類別したばあいの所属の概念をあらわしている。それは言語の世界であったり、画像の世界であったり、事実や環境としての世界であったり、男の世界や女の世界であったりする。また現在たくさんの文学者たちがやっているように、もっと制度的な概念を緊急化していえば、世界(という概念)は、諸国家の領土的な画定による区分の全体的な集まりを指すこともできる。このばあいには世界(という概念)についてかんがえることは、それ自体で、国家(という概念)を超えているのである。なぜならばこのばあいに国家はどんな生々しい否定や肯定や障害の対象、つまり倫理であっても、ある時期に発生しまたある時期に消滅するもの(概念)として、世界の部分にすぎないからだ。また国家は縮尺もきかないし拡大もできないものとして、それ以上具象的であることもまたそれ以上抽象的であることもできない。世界について語ることは、どんなばあいにも国家をのり超えているか、のり捨てているのだ。これは国家主義の宗派がいうように、傲慢だということにもならないし、謙虚だということともかかわりがない。また世界(という概念)は水平的な概念であり、国家という大なり小なり深層にまでとどいた概念は、いわば投影図表としてしか世界概念に登場してこられない。また逆に国家は実体的とみなされる領域では、深層にわたる構造であり、そこでは世界(という概念)は、ほとんど図式的にしか登場できない。  (P76−P77)


項目抜粋
2

A・・・・・・もちろんかれらは原爆文学とかベトナム文学とか部落文学とかいう文学が存在すると錯誤することで、ほんとうはそういう現実倫理の存在可能性をいいたかったのだといえよう。・・・・・そういう現実倫理の主張はたくさん存在したのである。

 作品の生まなましい存在感だと信じられたものが、じつは事実の生まなましさだという錯覚が表出の内部で成り立てば成り立つほど、現実倫理の主張は強力に感じられる。そういう逆説すら成り立つようになる。わたしたちはこのとき世界の壁につきあたっている。その壁こそが重大な倫理の壁なのだ。この壁がつき崩されれば人間性についてのあらゆる神話と神学と迷信と嘘は崩壊してしまう。この壁は理念と現実とが逆立ちしてしまう境界であり、世界(という概念)を把握するばあいに不可避的にみえてくる差異線である。わたしたちはどんなにかこの壁をつき崩し、つき抜けて向う側の世界へでようとしただろう。だがそれに触れ、説きつくすことの煩わしさをたえる忍耐力をもたずに、そこから空しくひき返すということをいままで繰返してきた。  (P78−P79)


備考




項目ID 項目 よみがな 論名
世界という概念 せかいというがいねん 世界論
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項目抜粋
1

@わたしたちの古典近代期の世界把握の像のなかで、いちばん長寿をたもち、また普遍的な意味をもちつづけてきた暗喩は、世界がひとつの完結された書物だということだ。そこでは緒言をみつけられればすべては脈絡をつけることができる。その世界はいくつかの系列から成立っていて、それぞれの系が混淆し、鎖状や網状にからみあっているだけだとおもわれるのに、解きほぐすのはきわめて困難なのだ。いったん緒言として存在する糸口をひっぱりだすと、すべてが強固な反撥力の連鎖となって結語までつながっている。わたしたちはこの世界の系列の混淆と連鎖が、はじめの糸口からおわりの結語まで数珠玉のようにつながっている構造を倫理とよんでいる。けれどこの倫理はもとからあった系列からとりだされたときに解体するか、または変容するほかないものである。

 いまわたしたちのあいだで古典近代型の世界像の認識は、破滅の恐怖感に震撼されてゆらいでいる。そのゆらめきの摂動の作用をうけて、つぎのようないくつかの系列に分解していることがわかる。


 系列(1) ひとはいかに世界の破滅の予感と恐怖にたえたらいいのか。

 系列(2) 世界の破滅の恐怖をとり除きたいという願望はどんなふうに表出できるのか。

 系列(3) 世界を破滅させる手段をもつものは、世界自体ではなく、世界の<内>の特定の系列だ。

 系列(4) 世界の破滅の恐怖感と、それをとり除きたい願望の表出は、それ自体としては世界の< 内>に含まれる。                だが世界を破滅させる手段をもった特定の系列からみて<外>にあるかぎり、その系列から手のとどかな
       いほど遠く隔てられる。


 こういう四つの系列を含んだ世界像の内部で、倫理が生みだされるのは(2)の系列と(3)の系列とを架橋しようとする意志や情念の働きとしてである。そして(2)の系列と(3)の系列を架橋する働きは、系列としては存在しないから、ただ、二つの附加的な存在点が、この世界に含まれていなくてはならない。いいかえればこの世界像のなかで倫理が生みだされるためには、どうしてもつぎの二つのもの存在がかならずなくてはならない。

 附(a) 世界が破滅するという恐怖感の共同性は、世界の全体なのだという認知。(世界心情)

 附(b) 系列(2)と(3)とを架橋するための語り手【ルビ ナレーター】の存在。(世界理念)

 いま目の前にうごめいているこの種の世界像をひとつの世界模型として象徴させてみる。

       (P79−P80)


項目抜粋
2

Aわたしたちの優れた作家たちは、もちろん作品そのものを世界として、古典近代的な世界から逸脱を強いられ、現在という空間とは時間に、どうやってべつのせ界を構成できるかという課題を強いられている。それは不可避の逸脱であるし、またその逸脱を修復したり、とり込んだり、脱構築したりせずには作品を生みだすことができなくなっているのだともいえる。

 中上健次の『千年の愉楽』は、誰もが古典近代的な世界からはみだし、逸脱せざるをえない現在の必然をまともに受けとめて、いわば<逸脱>からせ界の<再産出>にまで転化させようとしている。この作品が表出している世界は、いくつかの条件を組みあげることで完備された世界になっている。強いて名づけるとすれば、現在の世界像に深くかかわるために必然的に仮構された古代的あるいはアジア的な世界なのだ。現在わたしたちを急速に囲みはじめたシステム化された高度な世界像のなかでは、物語らしい物語が構築されるはずがない。いわば物語の解体だけがラジカルな課題でありうる。ここでもまだ物語を構築しようとすれば、世界像の領土を<死者>の領域まで拡張させるほかない。『千年の愉楽』の古代的あるいはアジア的な世界の仮構はそういった必然なのだといえよう。  (P84−P85)


備考




項目ID 項目 よみがな 論名
10 方法 ほうほう 世界論
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項目抜粋
1
@わたしたちの世界が、現在解体と脱構築にむかいつつあるというモチーフはどこからくるのか。すぐれた感受力をもった作家たちは作品世界の輪郭を補完したり、また逆に崩壊をなぞったりするのを余儀なくされているのはまことか。また登場人物たちは生のモチーフの喪失を何とかしなければ存在感を保てなくなっているのか。これについてのわかり易い目じるしはなにもない。というよりも個人的な資質や配慮についての仕方の個別性に、もうすこしで帰着させられそうなところで、どうしても踏みとどまらなければ、とりだすことはできない。そうかといって世界の輪郭、あるいは容れものとしての世界というところにとどまることができない。そういう微妙なはざま【「はざま」に傍点】のところに徴候がみつけられるはずなのだ。優れた作品とか優れた作家とかいう曖昧な言葉でわたしたちが呼んでいるものは、このはざまの劈開面を、作品や作家が晒している個所で、わたしたちがみているものである。そこでならば辛うじて、作品や作家の個別的な質を問いながら、共通の成り立ちを問うことができる。  (P98)


項目抜粋
2
備考




項目ID 項目 よみがな 論名
11 差異線 さいせん 差異論
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根本的ナ差異線ヲサガセ
項目抜粋
1

@世界(という概念)の解体が、すでに世界のもっとも敏感な個所では、ひとつの地平線を形づくりはじめているとわたしたちはかんがえてきた。世界は生成をつづけ、凝集する力を発現して、無限に産出のイメージを与えつつあるとは、誰も考えはしないだろう。生成がすでに死を呼び込んでいるのがみえる。また死がみえるとその向う側に、また未知の生成がなければならないようにみえる。死がみえないときは、死は終末のようにおもわれる。死がみえるようになってからは、その向う側にある未知の生成が姿を現わすかもしれない。わたしたちはかつて引かれたことのない差異線をもって、できるならこの世界の本質とみなすものを引きなおそうとしている。

A革命的であること(という概念)は、政治制度の世界でも文学の世界でもなくなってしまった。いまではそれは抑圧している屋根というほどの意味しかないからだ。たえず革命的になり【「なり」はゴチック体】つづけるということだけが存在できるようにおもえる。そこで革命的である【「である」はゴチック体】(という概念)がつくりだした錯誤の内部には、革命的になり【「なり」はゴチック体】つづけることとはまったくちがった真の怖ろしさ、困難さが専制をふるっている。ディスポットは歴史という時間の累積体であり、成員たちはその専制に支配されているのだ。・・・・・・わたしたちはこんなとき根本的ナ差異線ヲサガセという指示につきあたるのだ。もともと革命的である【「である」はゴチック体】(という概念)が存在しえなくなったのに、存在しうるとたかをくくっているところに、すべての要因があるというのは手易い。だがわたしたちはその地点を通過してもっと別のところ、この世界がすこしでもそういう認識より明瞭な姿を現わしてくれるところに出てゆきたいのだ。わたしたちには願望だけが与えられているのに、その場所へゆくための地図を与えられていない。わたしたちは測量し、地形を調査し、じぶんで書きこまなくてはならない。根本的ナ差異線ヲサガセ。世界ヲ世界カラ、アナタヲアナタカラ差別セヨ。 (P99−P100)


項目抜粋
2
B・・・・・・だがどんな思想でも、いったんこの地形に入りこむと、かくも幼児的な心情まで退化してしまう。地形は母型なのだ。そこを離脱して世界線の見えるところまでやってきたつもりだ。だが線の引かれ方に惑わされひき戻されて、地形のなかに陥ちこんでしまう。世界がある水準の抽象であるように、世界を世界から差別し、じぶんをじぶんから差別できる地勢は、まず作られなくてはならない。また母型からは切り離された抽象的な地型【ママ】でなくてはならないはずである。みだりに差異線や等高線を引くことができないかわりに、みだりに地表の輪郭をなぞることなど許されない。その地勢は作られる。その設計図のことになるが恣意的なものではなくあるシステムに規定されている。このシステムへの解答が現在【「現在」はゴチック体】なのだ。たくさんの解答をもっているようにみえる。だが解答自体にはほんとの解答はないという解答だけは手にしていない。解答の仕方、解答の手続きが世界構図のどこを通るか、どの等高線を結びつけるかが、ほんとうに探し求めている道筋である。わたしたちはじぶん自身がこういう地形のなかに滑りこむときも、こういう地形のなかに滑りこんだ光景を目撃するときも、ただひとつの差異線をすぐに思い浮かべる。わたしたちが退化した心情で罵りあい対立しあうそのこと、あるいは罵りあい対立するときどんな思想でも退化した心情に囚われるそのことが、現代の世界の科学的神学が消滅する過程に立ちあっていることを意味している。そこの周辺に差異線が探索される。・・・・・・<科学的>ということと<信>とは同時に二重に否認されなくてはならない。そこでだけ差異線が引かれるからだ。  (P101−P102)


備考 註1.「わたしたちはかつて引かれたことのない差異線をもって、できるならこの世界の本質とみなすものを引きなおそうとしている。」




項目ID 項目 よみがな 論名
12 差異線 さいせん 差異論
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項目抜粋
1

Cこれがほんとうに世界の差異線になりうるのだろうか?まだ一抹の不安がのこされている。異教的なものがこの構図のなかに偶然入ってきたら、真っ先にこの差異線にまたがって嘲笑を加えるだろう。歴史が固定した語彙に囲まれて罵りあっている差異線を、根こそぎ否認することは疑いないようにおもえる。

 異教的なところではこういう差異線ははじめから意味をもたない。そこではただ、奴ガ(個人マタハ国家ガ)ソコニ在ルノハ、ドンナ否認スベキ欠陥デアッテモ、生マレツキノ身体マタハ歴史ノ無意識ノ所産ダカラ仕方ナイという認知が支配している。そこで罵りあい対立しあうものがあれば、自己嫌悪や自己否定と、野放図な自己肯定のあいだに差異線が引かれるだけである。

 ここでいまさがしている差異線はこのいずれでもない。これらの差異をコスメティクな美容術と整形外科的な美容術の差異に比喩できるとすれば、わたしたちの関心をもつ差異線はただ美容術の存在、つまりは人為的【「人為的」はゴチック体】という点に描かれるはずだ。美容術は美容術をもたないものと対立する。人為的【「人為的」はゴチック体】な世界は世界と対立するようにみえる。わたしたちは最終的な世界の差異線からまだほど遠く、ほんとはここまできても瞞されているかもしれぬ。ただとりあえずまたそこに差異線が引かれるだけだ。  (P102−P103)



項目抜粋
2
備考




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13 人為的 じんいてき 差異論
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最良の解答・限界値 現在に入る
項目抜粋
1

@わたしたちは世界【「世界」はゴチック体】という作品、あるいは作品【「作品」はゴチック体】という世界をなぜ人為的【「人為的」はゴチック体】に作ろうとするのか?この問いは現代における科学的な、あるいは文学的な神学の起源を洗いなおす問いであった。わたしたちは誰でも、ある時期になぜ書くのかという問いを自身に仕かけたし、また他者からも仕かけられてきた。また人為的【「人為的」はゴチック体】ということにとても苛酷に、生涯をおしつぶした詩人たちをイメージのなかに引用したりした。この問いは世界理念にとってもおなじことであった。なぜ世界を人為的【「人為的」はゴチック体】に作ろうとするのか、すでに世界はしつらえられて存在するのではないか?この問いにたいしてもちえた最良の解答は、いずれも資質あるいは無意識に帰せられるものであった。世界についても作品についても、資質や無意識からの成果を人為は決して超えられないものだと見做した。これが科学的であっても文学的であっても、神学であるかぎりつき纏ってくる限界値であった。わたしたちは現在でも、たぶんこの限界を完全には超えることができない。だがこの限界を超えたいという願望によって、はじめて現在【「現在」はゴチック体】に入ることができるのだ、ということも確かなのだ。  (P103)

Aわたしたちは問いを組みかえなくてはならない。なぜ世界【「世界」はゴチック体】という作品、あるいは作品【「作品」はゴチック体】という世界は、すでに人為的【「人為的」はゴチック体】に作られてしまったのか?【「しまった」に傍点】この組みかえによってわたしたちは人為的【「人為的」はゴチック体】ということの意味をもまた組みかえている。わたしたちの作品も世界もすべて普遍的な人為【「人為」はゴチック体】のなかにおかれる。そして人為的以前のものに遡行するのではなくて、資質や無意識を人為的【「人為的」はゴチック体】な作品や世界のうえに、逆に接ぎ木しようとするモチーフのまえに佇たされる。これが現在という地勢にはいることなのだ。それは絶望的に不可能の予感にさいなまれる場所である。けれども作品や世界が人為的【「人為的」はゴチック体】という土台からいつか跳躍して現在【「現在」はゴチック体】に入るということはそうすることなのだ。   (P103−P104)


項目抜粋
2
B我慢することによって遅延をはかることができる。その時間は表現の基層から表面にわたしたちがわたってゆくあいだの時間なのだ。そうするとわたしたちが見たいのはじかにこの世界なのに、作品の世界をみてしまうのではないか。たしかにそうにちがいないのだが、わたしたちが表現の厚みをくぐっているあいだ遅延することによって、うまく世界を世界から差別するちょうどその時間に出あうことができるのだ。わたしたちはそのように時間を多重に体験しているあいだに、ほんとうは見えないはずの現在の世界を、たてよこに自在に走る時間の織り目のようなものを体得している。それは織り具合として直覚されるもののようにおもえる。  (P104)


備考 註.「わたしたちは問いを組みかえなくてはならない。なぜ世界【「世界」はゴチック体】という作品、あるいは作品【「作品」はゴチック体】という世界は、すでに人為的【「人為的」はゴチック体】に作られてしまったのか?【「しまった」に傍点】この組みかえによってわたしたちは人為的【「人為的」はゴチック体】ということの意味をもまた組みかえている。わたしたちの作品も世界もすべて普遍的な人為【「人為」はゴチック体】のなかにおかれる。そして人為的以前のものに遡行するのではなくて、資質や無意識を人為的【「人為的」はゴチック体】な作品や世界のうえに、逆に接ぎ木しようとするモチーフのまえに佇たされる。これが現在という地勢にはいることなのだ。」





項目ID 項目 よみがな 論名
14 究極の文学 きゅうきょくのぶんがく 差異論
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項目抜粋
1

@善と悪、罪と罰、わたしたちはそういう概念の規模を、じぶんで創りだすよりほかに世界のどこからも与えられない。それは歴史によって抑圧された概念を解き放ったあとに、わたしたちがわずかに手のひらにのこす温もりに似ている。  (P120−P121)

Aわたしたちは誰も、無限に通俗的になることができる。だがわたしがどこまでもじぶんの通俗をたどっていっても、この作者の通俗とゆき逢うことはない。わたしは通俗を非知につなげるわけだし、この作者【註.安岡章太郎】は通俗を知につなげようとしている。   (P122)

Bわたしたちはすべての差異【「差異」はゴチック体】がそのまま表現であるような世界、そこでは事象も風景も点綴される人も、遠近法を必要としない鮮明な本質だけとしてあり、したがって何々についての物語が、何々という限定された主題やモチーフを無化してしまうような作品を究極の文学の世界としておもいえがく。 (P123)

C・・・・・・エンターティナーたちは、はじめから世界の差異を諦めた地点から出発した。そしてすこしずつ苦痛に耐えて、世界の本質的な差異を感受するところまでやってきた。これらの巨匠たちはそれと逆だ。

 それは世界理念の現在の達成がどこまで届き、苦痛にもまれてなにを開示するところまで、到達したかをみようともしないし、さればとて具体的な現実そのものにまで世界を解体しようともせずに、中間でうろうろしてただ半世紀まえの世界模型に覆いをかけている理念が、すでに真摯な現在の世界理念の担い手によって、はるかに超えられているのとおなじだ。停滞した文学と理念だけが、世界の差異を現在でも人為的な分類線で画定できると思いこんでいる。  (P124)


項目抜粋
2
備考




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