Part 3
マス・イメージ論

  福武書店 1984/07/10発行



項目ID 項目 論名
15 世界の転倒 縮合論
16 ポップ文学 縮合論
17 ポップ文学 縮合論
18 方法 『全集撰』第7巻のためのあとがき
19 システム的な価値 解体論
20 システム的な価値 解体論

18は、吉本隆明全集撰 7 イメージ論(大和書房)より。













項目ID 項目 よみがな 論名
15 世界の転倒 せかいのてんとう 縮合論
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重心の移動によるこの世界の転倒
項目抜粋
1

@ふつう観念の作用とかんがえているもの、その表現は<わたし>にたいする<わたし>の疎外、猶予、<わたし>の崩壊にたいする<わたし>の阻止、あるいは抵抗、も掻き、つまり名づけようはさまざまであっても、延命の方途であることは疑いない。だが<わたし>はそれを延命としてではなく、構成しているとみなして表出している。概念を濃密にし、集中し、そして縮合すると感じている。ほんとはただ疎外され、猶予をもとめ、抵抗し、足掻いているだけかもしれないのに。こんな状態がおこるのは、この世界が強固な構築物でなければ存在させない特質をもっているからではない。この世界のさまざまな層には、構成してはじめて猶予され、阻止される層を含んでいて、わたしたちはただそこにぶつかっているのだ。いわば無意識がおこなう縮合は防禦であり、また延命なのだ。また縮合は同一性の世界から表出される差異、あるいは差異を表出することによって重層された同一性の世界をさしている。

 現在、無意識の縮合面のうえに、わたしたちは世界の画像を選んでいる。感銘にいたる道すじで選んでいるときもあれば、離脱しようする道すじで選んでいるときもある。また嫌厭したいモチーフで選んでいるときもある。いずれのばあいでも選んでいるとき、いい澱んでいるような、こだわりを感じているような、またしこりに触れているときのような触覚を差異として表出することで、現在を同一性の世界として確定しようとしているのだ。  (P125−P126)

A・・・・・・いまここでとりあげているのは、それとはまったくちがうことだ。主観や主体の側にではなく、世界の側に指標の転倒の意義があらわれているようにみえる。

 高度なもの、価値あるものといういい方とおなじように、低俗なもの、価値のないものといういい方もまた、防禦や猶予に属している。どんな外側の力が加わったにしても、重心が半ばを過ぎて上方に移動すればその世界は転倒してしまう。

 表現が差異であり、土台が同一性であるような縮合の世界は、現在すこしずつその機運に出あいつつあるようにみえる。これは価値の転倒ではなく、重心の移動によるこの世界の転倒なのだ。

 そこで伝統的な表現と、まったくそれと出所がちがい、猶予も防禦もない表現とが並列して、わたしたちが露わにしたいとかんがえる差異線は、その下に覆われている。   (P127)


項目抜粋
2

B・・・・・・ここで優れているという概念は、ポップアートやエンターテインメントの高度化や質的な転換によって、言語がはじめて当面したもののようにおもえる。ではポップアートやエンターテインメントの言語とはいったい何なのだろうか。残念なことに伝統的な表現様式からは徹頭徹尾これに関与も寄与もできそうもない。たかだか気ままな視聴者とか観客とかいう立場から、これらの言葉が世界の重心を確実に上げてゆく徴候を傍受しているだけだ。

 話し言葉が硬質さを求めて書き言葉の方へ移っていったのではない。話し言葉が硬質さを求めて書かれる話し言葉(話体)に移ってゆくのでもない。話し言葉は硬質さを求めて、話し言葉の奥の方へ移動する。話し言葉の奥にはまた、話し言葉があるのだが、もはやそこでは挨拶はいらない。孤独な乾いたじぶんの喋言る言葉を、じぶんから区別するためにだけ発する話し言葉の世界がひらかれる。この話し言葉では対話の空間がきりひらかれるわけでもなければ、親和や対立がひき起こされるわけでもない。新しい日常的な空間が、あたかも独り言だけしかないような中性の領域にきりひらかれる。この話し言葉の世界は新しい出現であるとおもえる。それは縮合の帯域にまったく独在的な言語空間をつくって同一性の世界を構成しているようにみえる。

 これらの縮合された話し言葉の空間が、そんなに高度で新しいものかどうか、疑念はありうる。そこでかれらが伝統的な言語様式でわかり易く語っている創作のモチーフや、理念の言葉を、ふたたび縮合させてみる。  (P134)


備考 註.「話し言葉が硬質さを求めて書かれる話し言葉(話体)に移ってゆくのでもない。」・・・・・(話体)




項目ID 項目 よみがな 論名
16 ポップ文学 ぽっぷぷんがく 縮合論
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項目抜粋
1

@・・・かれら【註.ポップアートやエンターテインメントの旗手たち】の存在感と理念のありかはどこか。思いつくままに、個条書きにしてみよう。

 (1)に<やつし>の自然さと自在さが際立ってみえる。もともと自然体で存在するところが、その場所であったといってもよい。  (P137)

Aこれらのポップ文学の旗手たちのいる場所は、おなじ読者の量のスペクトラムのところにあるばあいでも、質的にまったくちがっている。言葉は瞬時にやってきて瞬時に移りかわる映像や、瞬時に流れさる音とおなじように、いきなり存在の中心におかれて、いきなり通りすぎてゆくように使われている。肌をあたためあうか、冷たい言葉を投げつけるかは第二義的なことだ。まずじぶんをじぶんの言葉から区別するために、話し言葉が発祥する場所である。

 この質的なちがいは何をもたらすのだろうか。また何を意味しているというべきだろうか。かれらの肉声が荷っているものは何だろうかと問いなおしてもよい。

Bこの質的な新しさ、差異は、かれらが変化することのなかに、無意識の必然【「無意識の必然」はゴチック体】がが体現されているということに尽きるようにおもわれる。つまり世界の秩序や制度が、無智な大衆を啓蒙してやれとか、大衆向けにやさしく通俗化してやれというモチーフから生みだしたマス・イメージの世界ではなくて、ある未知のシステムを感受しているために産出される無意識の、必然的な孤独からやさしさも、言葉の産出も、モチーフも、すべてやってきた世界のようにおもえる。
   (P138−P139)

C(2)には、かれらの理念が象徴しているものは、脱制度化された思考と、情念の海に浮んだ孤島みたいな貌をもっている。これはもっと別な言葉でいった方が肉薄感をもつかもしれぬ。かれらの世界は、第一次的な皮膜におおわれた世界だ。板子一枚したをめくると、どろどろした情念や怨恨やエロスの抑圧や、社会的な抑圧の渦潮が奔騰している。それらにたいする第一次的な反応を昇華することのなかに、現在のポップ文学やエンターテインメントの世界が存在感を獲得してゆく過程がある。


項目抜粋
2

抑圧と錯合とその表現的な解放の同在ということを抜きにしては、その質的な意味を問うことはできない。第一次的なという意味は、生煮えのということも、生生しいということも、ふたつながら含んでいる。また単純で素朴なということと、根源的なということとが同在している。
    (P139−P140)

Dここまできて、現在のポップ文学やエンターテインメントの世界が、その量的なスペクトラムのそれぞれの層の様式を縮合させることで達成している質の高度さが、決して偶然ではないとおもわれてくる。ただそこでは言葉が概念の伝統的な様式、おもに書き言葉を集積することで得られた様式とまったく別様に使われている。その置きなおしや等価交換が難しいために、その高度さの意味を了解するのがきわめて難しい。易しいのは表層だけで、無意識の深層をどう理解するかが難しいのだ。文体的にいえばそこで使われている話体は、無意識の層の表出にあたる話体で、日常のコミュニケ−ションの必要からでた話体ではない。そこで話体が生みだす対立、了解、葛藤は無意識層にあるものの表象であって、日常の次元にあるのではない。   (P141)


備考





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17 ポップ文学 ぽっぷぷんがく 縮合論
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ひとつの世界通路 世界の言語的な秩序や制度
項目抜粋
1

E現在の世界の構造にかかわることでいえば、いままで存在できないとかんがえられていた導通路の構造に直面している。ふつうマス・イメージがおおきくふくらんでゆくのは、きめられた<知>の秩序や制度が普及してひろく大衆レベルにゆきわたることだと理解されている。そこでは無意識に通俗化してゆくことや、意識的に下降してゆくことはできるのだが、無意識に高度になったり、意識的に上昇することはできないとみなされてきた。

 だが現在ポップ的な文学やエンターテインメントが、質的に高度になってゆく様子は、まったくちがっている。また作品があまりに多重に氾濫していることが、質的な重味として感受されるものも、かつてとちがっているとおもえる。そこでみている変換は、裾野からはじまって量的なスペクトラムのそれぞれの層が縮合されて、強固な同一性の階梯をつくっている姿だ。そこをたどってゆけば、無意識に高度な質にたどりつくことも、意識された上昇もできるひとつの世界通路が成立しているのだ。

 この意味は現在充分に把握できているとはおもえない。だがだれもがひそかに触知している。この世界のどこかに起こっている構造的な変貌を、わたしたちはまたひとつの縮合によって例示してみる。    (P141−P142)

Fポップ的な文学はどんな階梯をたどって、世界を現在【「現在」はゴチック体】にもたらしたり、または世界の現在【「現在」はゴチック体】を超えたりできるのか。またそんなことができるどんな条件を、この世界はもちはじめたといえるのか。わたしたちはまだうまくつかめていない。ただかつてはその世界では下降だけしか可能ではなく、また上昇できるにしても、その境界は世界の言語的な秩序や制度から、いわば慈悲にすがって与えられた下限までしか届かなかった。現在では世界の言語的な秩序とは無関係に無意識が上昇してゆく通路が想定できるようになった。そしてそこをたどってゆくポップ的な線分はどこかで、世界の制度がこしらえた言語的な秩序の下降線と擦れちがうにちがいない。その帯域で言葉は、暗喩や幻想の表現をうけとり、矢印を交換する。そしてほんとうはもう一度下降してゆかなくてはならない。 (P145)



項目抜粋
2
備考





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18 方法 ほうほう 『全集撰』第7巻のためのあとがき
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分離していたものを綜合的に扱いたかった 普遍像(学)論の試み
項目抜粋
1

@わたしたちはこの巻で、肯定的にしろ否定的にしろ、はじめて現在に到達する。わたしの胸算用では、マス・イメージ論を現在版の『共同幻想論』に、ハイ・イメージ論を現在版の『言語にとって美とはなにか』になぞらえたいというモチーフがあった。わたしのなかで変化した要素があるとすれば

 (1)言語という概念を像【ルビ イメージ】という概念に変換することで、かつて『共同幻想論』、『心的現   象論』、『言語にとって美とはなにか』に分離していたものを綜合的に扱いたかった。

 (2)もうひとつのモチーフは、像【ルビ イメージ】の概念で綜合することで、普遍領域についての批評と   いう概念を目指したかったことだ。

 ここでいちばん問題になったのは、言語と、わたしがかんがえた像【ルビ イメージ】という概念が、どこで結びつき、どこで分離して遠ざかるかを、はっきりさせることだった。これが関連づけられなければ、文学という領域は、この論議のなかで欠落してしまうことになる。わたしはしばしば文学作品の批評は可能かという本来的な場所と、文学作品を像【ルビ イメージ】として批評することが可能かという現在のモチーフの場所とを二重化する場面につき当ったとおもう。うまくその場面を設定し、処理できたかどうかは別として、さまざまな形でその模索のあとはばらまかれている。

 もうひとつの問題は、わたしがここでいう像【ルビ イメージ】という概念に固有な理論、その根拠をつくりあげることである。これは『ハイ・イメージ論』の冒頭からの課題であった。・・・・・わたしはこの実現されている高次な像【ルビ イメージ】と、像【ルビ イメージ】を見るものの場所との連関を、要素に分解し論理づけるところからはじめた。これは結果的にいえば、上方から垂直におりてくる視線が通常の視覚作用に同時に加わったことと等価であることがわかる。

 ひとは通常の視覚作用と同時に上方からの垂直な視線が同時に作用するばあいの像【ルビ イメージ】を体験したり想像したりすることができるか。これは修練と経験の問題に帰せられてしまう。ただそんな体験をしたという記述は、瀕死から回復した人たちの体験記録のなかと、宗教的な他界遊回の体験の記述のなかに登場する。この体験は自己身体の残留の感じとともに保存されていて、最小限に見積もっても心的な体験としてありうることがわかる。


 

項目抜粋
2

A・・・・・・ここでは上方から垂直におりてくる視線が同時に行使されるばあいと類似の例を、外在的な体験として普遍化しようとした。これは都市論として『ハイ・イメージ論』のなかで、大きな部分を占めることになった。わたしたちは大都市の過密のビルディング街で、外在的に通常の視線と上方からの垂直な視線とが、同時に行使されたときと等価な視野像に出遭うことがある。それは重要な体験的な意味をもっていて、わたしたちの内在とこの外在的な都市の視野像とが呼応して、外在物の像【ルビ イメージ】化が起こるのは、この視野像においてであるといえる。これはさまざまな文明史的な意味賦与ができて、この部分はいわば現在の大都市に象徴される未知な文明の領域へ、わたしたちが移行しつつあることに対応するものとみなすことができる。

 わたしたちはおおげさにいえば、この全集撰のイメージ論の巻で普遍的な像(学)論をめざした。わたしたちの試みのいちばんの困難は、理念論の領域と経済論の領域だとおもわれるが、その部分については、いまもなお像【ルビ イメージ】を組み立てたり、捏したりする内的な作業はつづいていて、充分に表現にまでもってゆくことができていない気がする。

 何よりもわたし自身のなかでは、原理的な部分では展開がおわっている普遍像(学)論の試みとして、全集撰のこの巻が読まれることが望みである。
   (P509−P512)


備考





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19 システム的な価値 しすてむてきなかち 解体論
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無意識が対応しているのは、システム価値的なもの
項目抜粋
1

@わたしたちが意識的に対応できるものが制度、秩序、体系的なものだとすれば、その陰の領域にあって無意識が対応しているのは、システム価値的なものだ。構造が明晰で稠密でしかも眼に視えなければ、視えないほどシステム価値は高いとみなすことができる。このシステム価値的なものは、いたるところでわたしたちの無意識を、完備された冷たい触感に変貌させつつある。いいかえればわたしたちの情念における自己差異を消失しつつあるのだ。

 システム化された文化の世界は高度な資本のシステムがないところで存在しえない。その意味を前の方におしだせば、生みだされた画像や言葉が新鮮な衝撃をあたえても、また破壊的なほどの否定性をもっていても、あるいは革命的な外装をおびても、いつも既存の【「既存の」はゴチック体】枠組みのなかだということにかわりない。だが疑念はそのさきへゆく。システム的な、不可視の価値体の起源をかんがえなくてはならなくなったということは、既存と未存とを同一化し、既存の枠組みには内部があっても、その外部はないことを意味するのではないか。  (P146)

A物の系列にマス・イメージをつけ加える要請はシステムからきている。そして虚構の価格上昇力のひとつとして機能している。つまりは物の系列は、実質にはない装飾をつけ加えられることで、自己に差異をつける。そうやってしか存在できなくなったとすれば、それはシステムの意志によっている。高価格、奢侈性、あるばあいには政治経済制度の頽廃性だとする危惧は、さまざまな形でアカデミズムと左翼からの倫理的な反動をよびおこしている。・・・・・・

 かれらの危惧は、政治経済の制度や、物の系列や、秩序はみえるが、システムの存在がみえないところからきている。また商品の使用価値や交換価値はみえても、システムがつけ加える構造的な価値を評定できないところからきている。・・・・・・だがどの部分がシステムからくる価値かをあとづけるのは、そうた易くない。ただすでにシステムから産出された価値は、あとに戻ることはありえないといえるだけだ。物の系列の魅惑や美は、もともと原則のうえに開花するものではなく、原則と原則のはざまに存立するという厄介な性格をもっている。この種のシステムからくる文化の内部に漂っているイメージの産出の成果には、否定できない魅惑がある。またこの魅惑に則していえばマス・イメージを経済社会的な根拠に還元しようとする思考法は、すでに効力を失いつつあるようにおもえる。     (P147−P148)


項目抜粋
2

Bわたしたちが当面していることの核心には、つぎのことがらが横たわっているとおもえる。

 (1)システム的な、眼に視えない価値が高度な未知の論理につらぬかれているというとき、この高 度なという意味は、まだ不確定にしか分析と論理がゆき届いていない経済の拡がりから背後をた すけられている。それと一緒にこのシステム的な価値は、社会制度や国家秩序の差異によって左 右されない世界普遍性をもった様式の意味で使わるべきである。この概念は、高度のベクトルでし か制御されない無意識を必然的にすべて包括する概念である。

 (2)政治制度から強制や統制をうける社会では、内部で画像を作ったり、あるいは言葉によって物 の系列にマス・イメージをつけ加えることは、かならずしも必要とされない。そこでは物の使用価値 は清潔に使用価値であり、交換価値は虚構のイメージが加わることのない、実質だけの交換価値である。・・・・・・ひとたび政治制度からの強制力や統制力が解除されたり、弱まったりすると、世  界の内部に既存するという理由で、マス・イメージが物の系列につけ加えられるような世界をひと  びとはかならず択ぶことになる。

  (3)物の系列につけ加えられたマス・イメージの価値構成力が、システム的な価値概念のところから、全価値の半ばを超えているとみなされるところでは、制度・秩序・体系的なものに象徴される物の系列自体は解体が俎上にのせられることになる。たぶんその徴候をさまざまな場で、わたしたちは体験しつつあるといえる。

     (P148−P149)


備考





項目ID 項目 よみがな 論名
20 システム的な価値 しすてむてきなかち 解体論
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既存の内部
項目抜粋
1

Cこういった理由、とくに(2)(3)に要約される理由は、現在広告、デザイン、サブカルチャーあるいはやや自由な文学の形式上の反抗をふくんだポップ・アートの世界が、既存の内部にありながら、いわば眼に視えないシステムからの自由な逃走と、システムのうえにのった未知な力を与える根拠になっているとおもえる。たぶんわたしたちは、いつどこでも物の系列を、そこにつけ加えられたイメージによって魅惑的だと感じている。またシステム的な価値概念からすれば、物の系列につけ加えられたマス・イメージは、無意識を露出されているために、浮動や解体を象徴するものになっている。

 わたしたちがシステム的な文化をとりあげることは否定的であるか肯定的であるかにかかわりなく、ある眼に視えない高度なシステムに対応して露出された無意識の在り方をみていることになっている。    (P149−P150)

Dもともと、物の系列や秩序に対応する実体ある表象のなかで、実体ある価値観を形成されるよりも、現在のシステムからの自由な逃走を目論んだり、逆に、システム的な構造の価値観のうえに未知性におおわれて存在している。そこでは非実体的な価値観の海に漂って、無数のこまかな細部に幻惑されながら、同時にどこまで行っても実体ある場所にゆけないと感じている。いわば枢要なものから遠ざかるたぐいの解体感性に当面している。

 わたしたちが白けはてた空虚にぶつかる度合は、実体から遠く隔てられ、判断の表象を喪っている度合に対応している。だがこのことは退化した倫理的な反動に云いたてられるような価値の解体ではなくて、価値概念のシステム化に対応している。実体的なものから遠く隔てられているが、システム的な価値への移行を象徴しているのだ。  (P150)


項目抜粋
2

Eわたしには椎名誠は、すくなくとも優れた作品における椎名誠は、けっして破滅しない<太宰治>のようにみえる。その文体の解体の仕方も、話体のなかに<知>を接収してゆく仕方も、主題を私小説的にとってゆく仕方も、その才能の開花の仕方も、太宰治に酷似している。・・・・・・ただわたしたちは無限に下降的に解体して、破滅にむかう感性で、太宰治の話体表出を追いつづけたのに、椎名誠の読者たちは、無限に上向的に解体して、破滅を禁じられた感性で作品を追いつづけている。そう余儀なくされているのではないかとおもえる。・・・・・未知のシステムから繰り出されてくる無意識の整序が、時代を隔てた二人の作家で異質になっていると見做したいのだ。  (P154)

Fわたしたちのシステム的な文化の作品は、ある瞬間をもぎとってかんがえれば、作品の表出と現在のシステムの無意識とのあいだに、微妙な均衡と安定を成立させている。椎名誠の作品はそういう意味からは、この均衡と安定を永続的に固定化したものという意味をもっている。だがこのシステム的な無意識と作品の表出力のあいだの均衡や安定性は、たえず呼吸みたいに縮合と解体のあいだを往還しているはずだ。またそれは希望と絶望のあいだであり、既知の教典と未知の神話とのあいだでもある。
     (P157−P158)


備考

註.「眼に視えない高度なシステムに対応して露出された無意識の在り方」




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