Part 4
マス・イメージ論

  福武書店 1984/07/10発行



項目ID 項目 論名
21 全体的な喩 喩法論
22 全体的な喩 喩法論
23 全体的な喩 喩法論
24 全体的な喩 喩法論
25 全体的な喩 喩法論
26 空虚への固執 詩語論
27 空虚への固執 詩語論
28 空虚への固執 詩語論
29 空虚への固執 詩語論













項目ID 項目 よみがな 論名
21 全体的な喩 ぜんたいてきなゆ 喩法論
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方法
項目抜粋
1

@現在ということを俎にのせると、言葉がどうしても透らないで、はねかえされとしまう領域があらわになってくる。それ以上無理に言葉をひっぱると、きっとそこで折れまがってしまう。もちろん渦中にあれば、その全体を把握できないのは当りまえなことだ。未知の部分をいつもひきづっていることが、現在という意味なのだから。そういいたいのだが、すこしちがっている。むしろ到達するイメージが、あらがめ頭を打たれている実感にちかいとおもえる。そこではすべての現在のこと柄はたてに垂直に停滞を受けとめながら、横に超えてゆくほかない。これをイメージの様式としてうまくたどれなければ、現在を透徹した言葉で覆いつくすことはできない。仕方なしにその領域は暗喩によって把握するほかすべがない。そのうえ暗喩でしかとらえられない部分をとらえるには、言葉に表現されたものを、また言葉を媒介にとらえる迂回路が必要なのだ。この遠まわりな手続きは、現在が全貌をあらわすためやむをえない道すじのようにおもえる。

 わたしたちはここで、全体的な喩【「全体的な喩」はゴチック体】の定義を、言葉が現在を超えるとき必然的にはいり込んでゆく領域、とひとまずきめておくとしよう。喩は現在からみられた未知の領域、その来たるべき予感にたいして、言葉がとる必然的な態度のことだ。臆病に身を鎧っているときも、苦しげに渋滞しているときも、空虚に恰好をつけているときも、喩は全体として言葉が現在を超えるとき必然的にとる陰影なのだ。そこでは無意識でさえ言葉は色合いや匂いや形を変成してしまう。未知の領域に入ったぞという信号みたいに、言葉は喩という形をとってゆくのだ。言葉はそのときに、意味するものと価値するものの二重に分裂した像に出あっている。 (P167−P168)

Aわたしたちは、まずこの分裂のいちばん激しい徴候を若い詩人によってたどってゆく。そこでは過激な傾向がみられる。全体的な喩は主題の全体性と決裂し、語りは物語化や虚構化といちばんはげしく対立している。しかも互いにいちばん親しい表情を浮べている。またそれとはべつに喩が言葉の囲いを走りぬけて、全体的な現実の暗喩にまで滲出してゆく徴候がみつけられる。言葉に囲われた喩と、言葉の囲いの外に走り出してしまった喩とのあいだに葛藤が惹き起される。また現在にたいして全体的な暗喩をつくろうとするものと、物語や虚構の舞台をしつらえて現在に融和しようとする傾向のあいだに、どんな時代にもなかった、接近した様式が生みだされている。もしかするとわたしたちは、超現実主義以後はじめて、新しい言葉の徴候に遭遇しているのだが、それを把握できる確かな方法を抽出できないでいる。 (P168)


項目抜粋
2

B若い現代詩を代表する優れた女流の、同質の詩を接合してみたものである。同質というのは、まず、かつて男性が占めていたと無意識に想定されていたエロスの視線の位置を、女性として自然に占めることができている、という意味である。そしてある場面では、女性の本質的願望である<男殺し>の夢が見事に表現されている。  (P172)

C・・・・・するとこのむき出しの自己表白のようにみえる詩片の接合から、全体的にひとつの暗喩をうけとることになる。そうしなければこれらの詩を読んだことにならない。あるいはべつのいい方をしてもいい。このむきだしの自己主張の羅列のようにみえる言葉を、全体的な暗喩としてうけとる視角の範囲に、現在というものの謎がかくされている。・・・・・現在というものの全体的な暗喩の場所で、言葉が押しだされているからなのだ。

 その暗喩の共通項は<女性という深淵をまたいで、現在の真向いに立つ姿勢>のようにうけとれる。女性という深淵をまたいでということをぬきにすれば、それぞれの時代の優れた女流は単独でいつも「現在の真向いに立つ姿勢」を、言葉の表出にしめしたといえる。べつのいい方をすれば<男性に伍した>ということだ。だがこれらの女流の詩が暗喩するものは、それとはちがっている。またまったく新しいといえるものだ。ひと口に、それは<男性の位置にとって代って>という暗喩をもっているからだ。  (P173−P174)


備考 註.「言葉に囲われた喩と、言葉の囲いの外に走り出してしまった喩」




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22 全体的な喩 ぜんたいてきなゆ 喩法論
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1

D現代詩(ということは詩歌の歴史ということだが)はこれらの女流詩人たちの作品ではじめて、その女性の場所にたどりついている。心の深層におし込めてきたエロスの欲求や、男性への殺意をわるびれることなく詩の言葉に表出している。そういう言葉の外装によってこれらの女流たちは、あるしっくりした、たしかな眼ざしで、どんな劣勢感もそれを裏返した優越感も、世襲財産としての美や教養も売物にせずに、まったく手ぶらで自然な姿態でこの現在に立っているものの暗喩を実現している。

 もちろんここに暗喩を読みとらずに、むき出しの生々しい言葉が、つぎつぎ無遠慮に繰りだされているだけだとみることはありうるだろう。だがそうでない所以は、この詩の形式と内容がもつ新しさ、はじめてさによって裏づけられる。現代詩の世界は、小数の個性がひとりでに実現した場合をのぞいては、これらの女流詩人たちが使っているような言葉をもたなかった。それは伝統的な現代詩がもっている<閉じられた言語系>にたいして<開かれた言語系>によって、はじめて表現されている。やさしくいえば、はじめて<裾をひらいた>言葉によって詩がかかれている。・・・・・・開かれた言葉は、じかに対象や事象にぶつけることができる言葉を意味している。装飾することが高度だという価値観を拒んだ言葉だといえる。整った格調をもまた高度だとしていない。その意味で風化しないままどんな現実の襞に下りてゆくことも可能になっている。これらの詩の言葉が情緒の装飾や、湿った手のあいだの妥協などなしに、ラジカルなまま現実にとびかっている生々しい言葉にどこまでも接近できるのは疑えない。  (P174−P175)

E・・・・・・これらの女流たちは、現在という地層から湧いてでたので、詩の言葉の伝統から生まれでたものではない。そこで言葉を地層の奥のほうへ潜めていけばいくほど、暗喩の意味をなくしてむきだしの現在に近づいてゆくようにみえる。だが<言葉>は現在そのものではなく、人間の表出の全歴史が消化し切れなかった異物として<言葉>なのだ。そこではじめて詩の言葉の自己劇化、物語化、あるいは舞台の仮構という必然があらわれる。  (P176)


項目抜粋
2

Fだが是非云っておくべきことは、物語化や劇化をうけた詩の舞台裏では、全体的な暗喩はほんとは崩壊しているのではない。詩の言葉がじかに現実にとびかっている言葉に、かぎりなく接近する姿勢をしめしはじめると、逆に物語や劇の情緒がつくりだされる。   (P180)


備考 註.「だが<言葉>は現在そのものではなく、人間の表出の全歴史が消化し切れなかった異物として<言葉>なのだ。」




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23 全体的な喩 ぜんたいてきなゆ 喩法論
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1

G現代詩は言葉で虚構の舞台をつくったり、聴き手たちと合作したりしなくても、もともと話体の詩を存在させてきた。話体に発祥する詩は、舞台を仮構したり、物語をつくることを必要な条件にしたわけではない。ただ話体で語るかぎり詩は<共同体>の意識の水準が、どこかで想定されているということだけだ。現在ではたぶん<共同体>じたいの崩壊のため、共同の意識の水準を、詩の背後に想定するわけにいかない。それでも話体の詩が書きつがれているとすれば、どんなかくされた象徴があるのか。そこでは舞台を仮設して瞬時に成立つ共同性が問題なのではなく、潜在的に想定される意識の共同性を、背後に沈めたまま、詩の言葉がどう振舞うか、そしてそれが何を意味するのかが問われるのだ。  (P181)

Hこういう現在の語りの詩は、いったい何をしようとしているのか。願望の奥底をさぐってみれば、刻々に産みだされすぐにおおきな速度で消えてゆく現在の説話とか神話を、むかしの説教節や祭文みたいに語りたいのだ。だがすでに現在には構成的な説話などはありえない。とくに変貌する都市の生活のなかでは、そんなものは瞬時も存続できない。語りの詩語はただ解体する説話の破片を、迅速にたどってみせるほか仕方がない。意味の持続はそれほどできない。むしろ意味の切断や飛躍の切り口を、言葉にしてみせるほかない。 (P184)

Iこういった語りの現代詩がもつ全体的な喩の意味は、統御、構成化、物語化といった一切の制度が<でき上ってしまうこと>への言葉自体によるラジカルな拒絶の暗喩だとおもわれる。意味も。諷刺も、恋愛も、夫婦も、嫌悪も、詩一篇の構成も<でき上ってしまうこと>は困ることなのだ。<でき上り>そうになったら、その個所で破壊音を導入しなければならぬ。とにかく作られてはならぬ。こういう飽くことのない渇望が言葉による襞あるいは皺を複雑につくりあげてゆく。それが語りの現代詩の特質なのだ。この言葉による襞あるいは皺をつくる作業を、語りの現代詩が、現在にたいしてもっている全体的な暗喩とみなすことができよう。   (P185)


項目抜粋
2

Jでは、詩の言葉を産みだすことが、それ自体で全体的な暗喩だとすればどんなことなのか?またそこでは<暗喩されるもの>と<暗喩するもの>とはどうなっているか?これが現在、詩の審級にとって最後の問いにあたっている。いままでこだわってきたところに答はふくまれているかどうか。というのは、若い現代詩の喩法の特質を、もっぱらポップ詩や歌謡詩と地続きなところで扱ってきたが、げんみつにいえば、それが若い現代詩のすべてへの緒口だかどうか、これだけではきめられないからだ。ただ誰でも出口と入口さえあれば、全体を暗喩できるような「言葉」を探しもとめているところでは、詩が現在はじめて獲得しはじめた外部への言葉の滲出力を特徴として信ずるほかにない。   (P189)


備考




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24 全体的な喩 ぜんたいてきなゆ 喩法論
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言葉の囲い込みの外側
項目抜粋
1

   まなざし青くひくく

   江戸は改代町への

   みどりをすぎる


   はるの見附

   個々のみどりよ

   朝だから

   深くは追わぬ

   ただ

   草は高くでゆれている

   妹は

   濠ばたの

   きよらなしげみにはしりこみ

   白いうちももをかくす

   葉さきのかぜのひとゆれがすむと

   こらえていたちいさなしぶきの

   すっかりかわいさのました音が

   さわぐ葉蔭をしばし

   打つ


   かけもどってくると

   わたしのすがたがみえないのだ

   なぜかもう

   暗くなって

   濠の波よせもきえ

   女に向う肌の押しが

    さやかに効いた草の道だけは

   うすくついている


   夢をみればまた隠れあうこともできるが妹よ

   江戸はさきごろおわったのだ

   あれからのわたしは

   遠く

   ずいぶんと来た


   いまわたしは、埼玉銀行新宿支店の白金のひかりをついてあるいている。ビルの破音。消えや

   すその飛沫。口語の時代はさむい。葉蔭のあのぬくもりを尾けてひとたび、打ちいでてみようか

   見附に。

                     (荒川洋治「見附のみどりに」)


項目抜粋
2

Kこの詩人はたぶん若い現代詩の暗喩の意味をかえた最初の、最大の詩人である。

 まずはじめに、暗喩は言葉の囲い込みの外側へ滲み出てしまったとわたしにはおもえる。わたしもひとびととおなじように、暗喩が言葉の外へ滲み出してしまったあとの光景に、不服をもたないことはない。ただあくまで滲みだしたあとの光景であり、この詩人には責任はない。時代の光景が日常性いがいのものを非本質として卻けてしまった責任なのだ。この詩人以後わたしたちは、暗喩を言葉の技術の次元から解放するひとつの様式を獲得したことになる。言葉は詩の囲いを走りでてじかに、街にとびかっている会話や騒音や歌う声のなかにまぎれ込もうとする。そういう確かな素振りをみせるようになった。すると言葉は素朴なリアルな表出にかわってゆくとかんがえるのは現在にたいする錯誤である。・・・・・・詩の言葉が詩の囲いを走りでて、街のなかにとびかう言葉に交わりはじめようとするとき、言葉は超現実的な様相を呈しはじめる。それが現在ということが、詩にあたえている全体的な暗喩の意味だとおもえる。  (P191−P192)


備考




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25 全体的な喩 ぜんたいてきなゆ 喩法論
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項目抜粋
1

L逆行する記憶にのって江戸の濠ばた見附道を歩いている。「妹」が繁みに走り込んで、しゃがんだままさわやかな音を草の葉にたてて放尿して、駆けもどってくる。「わたし」はそこにはみえないので「妹」は佇ちまよう。わたしは草が押したおされてつけられた路をとおって、エロスの情念に沿って立ち去っている。記憶からさめるとじぶんは現在、新宿の盛り場で、寂しく寒い現在の言葉と騒音がとびかう街中におかれている。易しい口語で走り出ようとする言葉。そうすればするほど表出の様式が超現実に近づいてゆく。ひと通りの意味では、この詩はそんなふうに読める。

 そこで詩の言葉が記憶の逆行によって現在を超えるその部分で、全体的な暗喩を構成しているとみなすことができる。そしてこの詩のばあいでは<葉かげにしゃがんで放尿する妹>、<かけもどってくるとわたしの姿がない>という場面のイメージが、暗喩の全体性の核に当っていることがわかる。<葉かげで放尿する妹>というイメージが、一般的に現在を暗喩するのではない。またこの詩人の個性にひき寄せられたために、このイメージが現在を暗喩することになるのでもない。詩の暗喩という概念が、詩という囲いを走り出で、外側に滲出してしまう勢いの全体性のなかで、はじめてこの<葉かげで放尿する妹>というイメージが、現在という時代の暗喩になっているのだ。わたしにはかなり鮮やかな達成のようにおもえる。言葉の言葉の高度な喩法が、言葉の囲いを走り出てそのままの姿で、街路にとびかう騒音や歌声や風俗に混じろうとする姿勢を、この詩に象徴される作品がはじめてやってみせている。それからどうするのだなどと問うても意味をなさない。

 何となくとうとうやりはじめたなという解放感をおぼえるだけだ。

 こういう全体的な暗喩が、詩が現在を超えようとするときの徴候であることは、言葉が街路にありながら、暗喩が詩の言葉の囲いのなかに閉じこめられた状態を想定してみればよい。そのような同種の詩はあるのだ。すぐれた詩は数すくないとしても、いわば普遍的な徴候としては無数に潜在して、現在を形づくっている。

    あぶな坂を越えたところに         口をそろえて

    あたしは住んでいる             なじるけど

    坂を越えてくる人たちは           遠いふるさとで

    みんな けがをしてくる           傷ついた言いわけに

    橋をこわした                 坂を落ちてくるのが

    おまえのせいと                ここからはみえる


項目抜粋
2

 いうまでもなくこの詩では「遠いふるさと」というのが、全体的な喩にあたっている。だがこの全体的という概念はこの一篇の詩の全体を覆うという意味をあまり出ない。もっともこの評価はメロディやリズムや音声の参加をカッコに入れてのことで、それらが参加して、言葉を詩の外へ、現代という時代の現在のなかへ連れ出しているのだ。言葉だけでは、たぶん言葉の囲いを出られない暗喩である。それが「遠いふるさと」という表現が、やや奇異で甘いと感じられる理由ともいえる。さきの<葉かげで放尿する妹>というイメージも、詩人にとって「遠いふるさと」である江戸時代になぞらえられたイメージである。だがこのイメージは、詩の言葉の囲いを超えて、現在【「現在」はゴチック体】というこの暗喩の全体性に参画している。     (P192−P194)


備考 註.う−ん、まだよくこの評価がわからんな−




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26 空虚への固執 くうきょへのこしつ 詩語論
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言葉の世界 事実の世界
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1

@じしんの詩的な体験から云ってみれば<現在>が現在にはいるにつれ、いつの間にかいままでの詩法にひっかかる現実がどこにも見あたらない。そういう思いにたどりついた。それでもじぶんの詩法に固執すると、どうも虚偽、自己欺瞞の意識がつきまとう。じぶんの詩法でひっ掻ける世界が、実際どこにもなくなったのに、無理にひっ掻く所作の姿勢をつくることに、空虚さをおぼえてくる。これはしぶんの詩そのものが、現実から浮かされてしまったことなのだ。わたしは卻いて詩を固有の内的な窪地の営為にきりかえるか、あらたな詩の姿勢を模索するほかない。これはかなりかた苦しい考え方である。わたしはわたしを抜け出すこともできるし、べつの通路に出現することもできるはずだ。おまけにこの詩的な行き詰まりは、ぜんぶ現実のせいにするわけにいかない。わたし自身が詩的な理念とモチーフを持ちこたえられなくなったにすぎないのかもしれぬ。ほんとはここのところで詩的な営為は中止さるべきなのだ。詩的な体験、詩語の現在との背離ということは、それ自体大切なテーマでありうる。その折にどう振舞うかも重要なテーマになりうる。言葉が世界からやってきて、それをどう受けとめ、どう振舞うかには、いわば不可避の契機ともいうべきものが加担しているはずなのだ。個々の存在がどうなるのかとおなじように、言葉はいったいどうなるのか。それを定めるものが主体にかかわらない側面が、確実にあるとおもえる。じぶんの体験だけをいえば、こういうとき、姿勢をつくることの空虚さというモチーフは、しつこく固執されたほうがいいのだ。いままでの姿勢を固執するのではなく、その姿勢の空虚さに固執するということだ。

Aこの詩的な体験の空虚さはどこからくるのか?じぶん自身からか、それとも世界からか?それとも詩の言葉にやってくる世界を、じしんが誤解しているところからか?もうひとつある。詩語自体が空しい振舞い方をするからか?内省的には最後の二つの問いがひとまず不毛さの回避につながる。そうといえないまでも空虚や不毛に詩的に固執するへの根拠をしめしてくれるようにおもえる。


項目抜粋
2

Bわたしたちが言葉の世界【「言葉の世界」はゴチック体】というとき、この世界という概念にはひとつの全体性といっしょに完備性、それだけで閉じた存在の概念が含まれている。言葉の世界などという世界はありうるのか。そのなかに領土もあれば国境や工場も商店を含む街路もあるというように存在しうるか。そしてその世界は、事実の世界【「事実の世界」はゴチック体】とはまったく別個にあり、事実の世界との対応や類推やコピイを使わずに、独立した輪郭や意味概念を産出できるのか。それができれば事実の世界を喪った詩的な体験は、まったく別次元の言葉の世界へ転入することができるはずだ。またじしんの体験にそっていえば、ひとつの時期、このありえないかもしれないテーマは、わたしにとっては大まじめに重要なものになった。

C言葉の世界が完備された世界として存在するかという問いは、それだけでは無意味にちかい。ただ言葉が完璧な世界として存在できる必須な条件は、すぐに指定できそうにおもえる。言葉を、それが指示しそうな実在物や事実から、たえず遠ざかるように行使すること。またおなじことだが言葉の秩序が事実の世界の意味の流れをつくりそうになったら、たえずその流れに逆らいつづけることである。・・・・・・何のためにそんなことをしなくてはいけないのか?詩的な体験が事実の世界をひっ掻けなくなったから、言葉の世界へ逃亡してきたのだ。そして逃亡してきた場所だから、できるだけ完璧な世界だということが望ましいだけだ。そういえばいちおうの答にはなる。そしてこの答えにはひとつの現実的な条件が加担しているようにおもえる。  (P195−P197)


備考 註.「またじしんの体験にそっていえば、ひとつの時期、このありえないかもしれないテーマは、わたしにとっては大まじめに重要なものになった。」




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27 空虚への固執 くうきょへのこしつ 詩語論
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世界の分離
項目抜粋
1

D現在わたしたが<世界>という言葉を発することで喚び起こされるイメージと、事実の世界をくまなく体験し歩いて認知した<世界>の姿とは、あたうかぎり同等なものに近づいてきている。その根底には言葉や映像の伝播の規模と速度が、ほとんど瞬時に世界の全体性をつなぐという日常的な体験が横たわっている。そこではもはや世界という言葉は、世界という事実と等価でありうるのではないか。わたしが詩的な体験の力で、事実の世界から言葉だけで閉じられた世界へ移っても、これだけの条件があれば同等なのだ。だがこれは、言葉の世界の完結性をたんに現在の時代的な構造に還元しただけの根拠だ。わたし自身のつまらぬ詩的な体験をたすけてはくれるかもしれぬが、一見するとたしからしくみえるだけだ。もっと悪いいい方をするとわたしの詩的な逃亡をたすけている消極的な理由づけにすぎないかもしれぬ。

Eこの世界は詩的な体験にやってくるかぎり、内在的でもなければ外在的でもない。また条件的ですらない。言葉が存在しうるときにだけ存在しうる人間とだけ共存する世界なのだ。わたしたちは以前にはこの世界の存在を、現在ほどに徹底的には認知できなかった。そこでは言葉は事実の世界から産みだされて事実の世界にかえるものとみなして大過なかった。いまでもそうにはちがいない。ただげんみつにいうと事実の世界に流れている<意味>に抗うときにだけ存在を垣間見せる世界があって、その世界はもしかすると言葉を不在という本質から統御しているかもしれない。そういう世界が、すっかり視えるようになってきたのだ。その世界はうれしそうな表情をつくる器官はもってないが、いったん捉えた詩人たちをた易く手ばなすとはおもえない。   (P197−P198)

   母を脱ぐ。
   わたくしのような虫たちの
   出逢う。
   ひらかれてここに、
   壁から沼へ
   わたくしの追っている
   骨の道程、くもる
   天啓の
   斜傾、飢餓は
   図のような間接項わたくしを
   散らして、かわく。
   (あるいはひとこと
   わたくしの飢餓は渇けといえば渇くその
   表記の、訓のこだわり)


                              (『稲川方人詩集』より「母を脱ぐ」)


項目抜粋
2

Fわたしたちは現在、こういった詩的な営為を、往古の呪詞や諺とおなじものみたいに読むことができる。往古では呪詞や諺をのべたり、また解読したりできるものが、言葉のとびかうこの世界を司るものだった。また言葉は神からでて人間にいたる直列した秩序をもっていたから、人びとは意味の流れをたどれなくとも、それをよく理解した。その理解の形式はいわば個を超えて溢れる部分での理解であった。言葉の秩序、そこにあたえられた詩的な組成がどうかを理解したというよりも、無意識を産みだしている言葉の部分が共有された。こういう詩にたいするわたしたちの理解の場所も、往古の人びとの場所とさして変らない。わたしたちは世界の分離が実現されるのを、こういう詩に読んでいる。  (P200)

Gふつうの心づもりでは、この詩から意味をうけとることもなければ、価値に高められる情念を感受するのでもない。むしろ口ごもり、吃音を発しおわってしばらく流れては、意外な言葉に堰きとめられてまた澱むという苦しそうな渋滞感を全体性として印象づけられる。そして印象のあいだから意味づけられない長短強弱の波長や韻がかすかな音楽のようによりそってくるのを感ずる。それがたぶんこれらの詩を読んだことだとおもわれてくる。ようするにわたしたちは、ふつうの言葉の意味の流れから遠ざけられる作用こそが、詩の作用のはじまりだという場所に連れてゆかれる。詩人によって詩のなかに註記された註解(略)は自己省察に属してして大切な意味をもつようにおもえる。<渇く>と云えばほんとうに<渇く>ということが実現するという、言葉の世界と事実の世界との等価が宣明されるその場所に、<訓のこだわり>があることが云われているからだ。  (P201−P202)


備考
註.「わたしたちは以前にはこの世界の存在を、現在ほどに徹底的には認知できなかった。そこでは言葉は事実の世界から産みだされて事実の世界にかえるものとみなして大過なかった。いまでもそうにはちがいない。ただげんみつにいうと事実の世界に流れている<意味>に抗うときにだけ存在を垣間見せる世界があって、その世界はもしかすると言葉を不在という本質から統御しているかもしれない。」





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28 空虚への固執 くうきょへのこしつ 詩語論
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世界視線のあたらしい獲得 横ざまに実現してしまっている
項目抜粋
1

H 7 固い殻に護られて、ただ眠りゆくばかりの戦い。それはあのいじらしい石果にとってだけでは     ない。高層ビルの避難階段を一列に螺旋を巻いて降りていく、果敢な蝸牛の軍団でさえ、ひ       たむきに、寝息を曳いて。

 36 残暑お見舞。やどり木と戦って暮した夏休みも、遅刻すれすれに逝ってしまった。窓辺ではど    うしても言葉の未来へ想像が過ぎるので、頬杖で、想像への嫉妬を叩いています。この街の     感情も言語のパルスに過ぎません。早い朽ち葉を送りました。では、きみのキ印の燔祭まで。

                           (平出隆『胡桃の戦意のために』)

 個々にある世界は、事実の世界の像を基層において、その表面から隔てられた言葉の世界が重ねあわされている。そしてふたつの世界のアマルガムが作りだされる。ここでは事実の世界の意味の流れを堰きとめる作業はいらなくなっている。なぜならその意味の流れを、まったくべつの完備された言葉だけからできた世界の軌道に移しかえて、そのままスムーズに流露させる方法がとられているからだ。・・・・・・この作業にはどんな意味があるのか?すくなくとも完備された言葉の世界の内部で、安息感も達成感もた易くえられない言語相互の蝸牛上の格闘、その苦渋からは自他ともに解放されることになっている。それが言葉による言葉の抵抗をつくる効果を失わずに遂行される。だがそれまで遠ざけられていた事実の世界の意味を、相対物として招き寄せることにはなっている。・・・・・・

 つぎに事実の世界から借りてこられたこれらの素子が、あるひとつの世界(言葉がそこから降りてくると信じられる世界)から鳥瞰されたり俯瞰されたりする。するとその事実の素子はおもいもかけない意味や形象を与えられることになる。<蝸牛>はとじこもって眠るばかりの寝息をひきずって移動する軍団になり、・・・・・残暑見舞の封書は言葉の世界の完結性を暗示する風景に転化される。そして全体的に得られた効果というべきものがあるとすれば、世界視線のあたらしい獲得にあたっている。   (P202−P204)


項目抜粋
2
Iこういう詩片からみられるものは、事実の世界の像は、それとまったく異次元に隔絶された言葉の世界の像によって重ねあわせることができるか、という命題の実現にあたっている。事実の世界のありふれた物象の動きに、まるで別の世界からやってきたような言葉の世界の像が被覆される。すると思いもかけないようなイメージの空間が、いわば戦略的に実現される。つまりは政治社会的な空間の占拠にひとしいのだが、それを横ざまに実現してしまっている。事実の世界の像に陣取っているのは、ひとつの制度的な旗幟なのだ。これと角逐するにはいつの間にか、それをまったく異質の世界の像で被覆してしまうより、戦いようがない。それはこれらの詩と詩人たちが、わたしたちに示唆した方法である。わたしたちはたぶん巧くやれないだろうが、たくさんのことをここから学ぶことはできそうにおもえる。  (P204−P205)


備考






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29 空虚への固執 くうきょへのこしつ 詩語論
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無意識を人工的に造ろうとする意企 終末と起源の像
項目抜粋
1

【天沢退治二郎「氷川様まで」に触れたあと】

Jかつて半世紀まえにシュルレアリストたちもまた、世界のむこうからやってきたとしかおもえない言葉の出現を期待したのではないのか。たぶんそうなのだ。ただかれらはそれをじぶんの無意識からの産出とみなした。だがこの詩人たちはこういう光景の出現と、その表記を、無意識の解放とかんがえていない。あたかも既視体験のように他界とか異現実からやってくる言葉、しかもこの言葉は、無意識を人工的に造ろうとする意企なしには実現されない言葉だとみなしている。  (P208)

【菅谷規矩雄『神聖家族』、北川透「腐爛へ至る」に触れたあと】

Kこれらの詩は比喩的にいえば、いままで挙げた詩人たちと逆に、言葉をかたく閉じてつくったせ界を基層において、事実の世界の像、その意味の流れをその表面に重ねようとしている。そんなことは本来的に可能か。もしかすると粘液状の世界に、鉄のタガをはめることとおなじなのではないか。だがそう問うても意味をなさない。これらの詩人たちにとって、それが世界のむこうから強いられた営為なのだ。これらの詩で事実の世界の意味の流れが、それと隔絶した異空間の言葉の世界にも貫流したらという願望は捨てられていない。それはたぶんこれらの詩人たちが体験した<事実の世界>という意味が、日常の規範を超えるものだったからだとおもえる。本来的には言葉として閉じられるべき世界を、あたかも事実の世界であるかのようにみなす体験を強いられたのだ。
  (P210−P211)


項目抜粋
2
Lこれらの詩の世界は、平出隆のばあいとまったく逆を志向している。内在する言葉の世界を、事実の世界の意味の流れで外装しようとする試みが、なぜ発生できるのだろうか?それがこれらの詩の現在的な意味である。この意味を詩人の個性に帰したいのなら、これらの詩人たちは詩的な体験として、事実の世界に特異な執着をもっているのだといえばたりる。ではなぜ事実の世界はそれほど執着されなければならないのか?このテーマはわたし自身にもあてはまる気がしている。たしかなことは詩的な執着の剰余分だけが、いわば倫理の鞍部を形づくって、言葉の世界をひき戻そうとしていることだ。どこに向ってひきもどそうとしているのか。それに巧く応えられないまま、現在に直面する具合になっている。わたしのかんがえではこれらの詩人たちが、規範としてひき受けている事実の世界には、その終末と起源の像がまるで現在【「現在」はゴチック体】みたいなか貌をして浸透しているようにみえる。そしてこの過剰性の質を問うことが、現在から強いられた詩のテーマになっている。   (P211−P212)


備考

註.「だがこの詩人たちはこういう光景の出現と、その表記を、無意識の解放とかんがえていない。あたかも既視体験のように他界とか異現実からやってくる言葉、しかもこの言葉は、無意識を人工的に造ろうとする意企なしには実現されない言葉だとみなしている。」





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