Part 5
マス・イメージ論

  福武書店 1984/07/10発行



項目ID 項目 論名
30 暗喩としての地勢図 地勢論
31 暗喩としての地勢図 地勢論
32 既視体験に似た実在感 画像論
33 既視体験に似た実在感 画像論
34 既視体験に似た実在感 画像論
35 既視体験に似た実在感 画像論
36 コミックス 語相論










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30 暗喩としての地勢図 あんゆとしてのちせいず 地勢論
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項目抜粋
1

@現在というものの姿は、等高線をいわば差異線として地勢図を拡げている時間の姿みたいなものだ。時間は天空に上昇することもできないし、地に潜下することもできない。ただ地表を波紋のように這ってゆく。ここでは時間は標高のようなものを同一性で囲うことでしか差異をつくれない。だが絶対的地勢ともいうべきものは、時間を排除して、いわば地形としてすでに自然から造られてしまっている。このすでに造られた絶対的な地勢と、現在がつくりつつある地勢図とのあいだの空隙が、いわば文学の言葉がつくれるはずの暗喩の空間なのだ。等高線で画定されてゆく地形は、わたしたちの絶対的地勢のうえでは基本的にはふたつしかない。(1)、眼のまえに海をひらいては、うしろに低い山並みがひかえた低地に、ほぼ真ん中を区切るように河が流れていて、ひとりでに海に注ぐようになっている。(2)、幾重にも重畳された低い山のうねりに四周を囲まれた盆地状の平地で、せまい谷あいを介して他の土地とつながっている。谷あいは渓谷になって水が流れているばあいもあれば、ただつづら折になって谷の中腹を通っている杣路だけが、ほかの土地への通路であるばあいもある。

Aこのふたつの地勢のちがいは図表にあらわされる。ふたつは海や河の流線の勢いで別の土地に連結しているか、あるいは細い点線を徒歩でたどることで、他の土地につながっているか。このふたつの差異として描けばよい。このふたつの基本的な差異を、文学の言葉がつくる暗喩としてうけとるとすれば、ひとつは類似した型の物語の世界が、つぎつぎに連結されて繰返される世界が想定され、もうひとつは枠組の不確かな物語の流れが、つぎつぎに漂ってゆく世界が想定されよう。そしてこのどちらのばあいも、思惟が重層されてある構築物がつくられる世界を想定することはできない。思惟が重層してひとつの世界に集中するためには、おなじ地勢にいくつかの異種の流れがつぎつぎに注ぎこんで、せめぎあい<分離>と<集合>を繰返す場面が想定できなければならない。だがこれはわたしたちの地勢図からとうていできそうにないものだ。


項目抜粋
2

Bわたしたちの絶対地勢に流れこんできた異種の流れは、たかだかふたつまたは三つをかんがえればよい。しかもこれはただ表層と基層のように誰にも<剥離>できるか、またはた易く<融合>してしまう差異でしかない。わたしたちの物語が、地勢図のどの中心をえらんでも、重層的構築よりも単層あるいは複層の地勢の拡大となってあらわれ、同一の要素の円環体や連結体となってゆくのはこの暗喩の空間の性質のためだとみなすことができる。

Cいまみてみたいのは、伝統的な物語の特質ということではない。またその特質が地勢図のように拡がる類型ということでもない。この地勢図を暗喩としてみたばあい、この暗喩が何に対応できるか見積もりたいだけだ。これが確定できれば、現在がつくりだした文学作品の地勢図をふたつまたは三つの要素に解きほぐす鍵が与えられるかもしれない。一般に<歴史>または<時間>とみなされているものが、言葉の地勢図の拡がりに<変換>してゆくとき<変換>の恒等式ともいうべきものが何を指すか見きわめたいのだ。この恒等式は、物語の世界の同一性がどこの範囲までに画定されるべきものかを明示してくれるはずだ。  (P213−P215)


備考





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31 暗喩としての地勢図 あんゆとしてのちせいず 地勢論
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項目抜粋
1

Dこういう任意の物語の冒頭で、「今は昔」とか「むかし、をとこ」とかいう定型的な発端の言葉を地勢の暗喩としてみれば、ほかのどんなことにもまして、ただひとつ、海を眼のまえにひらき、低い山並をうしろに背負って、川が海の方へ流れ貫いている村里か、まわりを重畳した山並にかこまれた盆地状の低地の村里の地勢を暗喩しているとみなされる。物語のはじめに「今は昔」とか「むかし、をとこ」とかいう言葉につきあたったとき、条里や街衢や村里の地勢がそのまま暗喩されて、作品の影絵をつくる。そのあと物語がどう展開され、どういう結末をむかえるかとはかかわりない。わたしたちは作品にはいるとき、これからひとつの地勢のなかにはいるのだ。この地勢の暗喩のすぐあとに、主人公の名告りがあげられ、説明が加えられる。するとある地勢のなかに物語の主人公となるべき人物が住んでいることを知らされる直観にみたされる。だがほんとはその逆である。この条里や街衢や村里の内部では、主人公である人物は、その性格、身分、職業、系累などが村人や市人にあまねく知りつくされている。そんな存在であることを暗喩されているのだ。あくまで地勢に固執してみれば、これを聞き伝える別の条里や街衢や村里の人々もまた、まったく類似の主人公をじぶんたちの内部にもっていることさえも前提とされる。そしてその前提を暗黙のうちにふまえていることが暗喩になっている。    (P216−P217)

E現在わたしたちは、これらの物語類とそれほど変らない地勢図をまえに、考古学的な地層のように、まったくの変貌を重ねつづけた景観に立って文学作品をみている。地勢の条里も街衢も村里もあるにはあるが、意識の囲いはすべてなくなっている。なくなっているという意識ですらなくなって、白けはてた空虚のなかにいる。そこで<現在>という意味をいちばん尖鋭な地勢の暗喩でとらえるとすれば、「今は昔」とか「むかし、をとこ」に該当するような、どんな変換式もありえない。すでに意識の地勢の束は立方体状の截線に区画されて、無執着に自在に流入し流出するだけになっているからだ。意識の山並みも海も河川も個性のある特異な貌だちなどもっていにい。人工的な直線や曲線でえぐられたり、突出したりする領域に類別されているだけだ。こんな現在の地勢図の圏内では尖鋭的であろうとすればするほど、物語は構築性を解体するほかない。


項目抜粋
2

山峡の点線の道を徒歩で運ばれたり、村落の出口から海流にのって運ばれたりするまでは、たたえられ閉じられている地勢の内部だからこそ物語は醗酵し、口承の端にのぼり、やがて流布されてゆくのだ。だが現在、閉じられたたえられ、物語を溜めておくような意識の地勢はとくに大都市ではありえない。また物語を醗酵させ潤色するような個性の貌も、集合的な共同性の貌もどこにも見あたらない。それにもかかわらず異種の流入口からさまざまな言葉が入り込んでは角逐し、融合しきれなかったものは流出してゆくといった特質もはっきりと形をもっているわけではない。ここでは地勢図は拡大されるために連環したり、連結したりするという古代からの特徴は、いまも失われているわけではない。わたしたちがすぐれて現在的な物語とみなすものは、この矛盾した特性を、ふたつながらもっているものを指している。どんな閉じられた地勢も無効であるような流出の経路をとおって、おなじ稠密さでつぎつぎに言葉の空間が拡大してゆくが、どこにも堰きとめる起伏もなく、また流れ込んでたたえられる地溝もない。発端も終末もない地勢図がかりに作られ、やがて等高線は差異線としての機能をなくしてしまう図表が予感される。そのことにはつよい現在的な関心をそそられる。動機とか志向性とかいうものは、だんだんと無効になり、ついには書くことの無動機にゆきついてしまう。わたしたちは作品と非作品のあいだにおかれて、そこに投げ出されることが、現在の作品を感ずることになるのだ。  (P217−P218)

 【次に、小島信夫『別れる理由』をとりあげている】


備考





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32 既視体験に似た実在感 きしたいけんににたじつざいかん 画像論
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項目抜粋
1

@ここでわたしたちが「画像」というとき、なによりも日常の生活時間に隅々まで侵入しているテレビのような「画像」を思い浮かべている。・・・・・・窓の外に眺めているつながれた犬と、テレビの画面にうつったおなじ犬の「画像」は、眼のまえですぐ交換することができる。そのための手続はいらない。ただ視線を変更すればよいとおもえる。ほんとはこのとき画像の空間と現実空間とを交換しているのだが、異質の空間を交換したと意識もせずにスムーズにできてしまう。そのうえ、テレビ・カメラはわたしたちの<もうひとつの眼>として高度に機能し、日常の生活時間のどこでも、また現実のどんな微細な隅々でも入りこんでゆく。わたしたちはただ身体についた<眼>と<もうひとつの眼>とで、同時におなじ対象をみている。だから、視線の変更だけですむ気がする。  (P237)

A・・・・・・このばあい画像とそのものの実像とが交換可能だということを、画層の世界と現実の世界は、現在のテレビの映像技術では交換可能だと一般化しても、ほとんど不都合は生じない。・・・・・・テレビ・カメラの<眼>は、いくら高度でも肯定機械の<眼>だが、人間の<眼>は否定的契機によってみている。これは本質的な差異だが機能だけをとりあげればわずかなちがいがあるだけだ。   (P238)

Bなぜこんなことができるようになったのか。画像を映しだすテレビ技術が、高度に発達したからだというのは確からしい。このばあい発達というのは微細化とか緻密化を意味している。テレビ・カメラはその微細化と緻密化の機能が技術的に発達するにつれて、ますますじっさいの<眼>の機能に近づきつつあり、しかも居ながらにしてその人工の<眼>を行使できるようになっている。そしてそれだけだと思いこんでいるうちに、テレビ・カメラの微細化と緻密化の機能が、肉眼のもつ微細さと緻密さを、あるばあい超えることが、しばしば起こるようになってきた。すると現実そのものと画像とが転倒するばあいが、ごくふつうに起こるようになってきた。つまりは画像のほうが、ほんとよりも、もっとほんとであり、ほんとの方が虚像みたいに比重が転倒される。そんなことにしばしば出あっている。


項目抜粋
2

Cこの事態はもう普遍的だといってよい。すくなくともテレビの現実の対象(事象)とその画像のあいだでは普遍的に起こっていることだ。テレビの画像が現場の情況を映しだしている。その画像がついにじっさいの現場よりももっと臨場感にあふれ、じっさいよりももっと生々しく視える。しばしばそんなことにぶつかっている。わたしたちはあるばあいにこわくなって、こういう転倒が日常の生活時間の全域を占めたばあいを想像する。そのときわたしたちは虚構のなかで虚構を現実として生活していることになり、この虚構を破砕するには現実を辞退するほかに術がないことになるだろう。もちろんあるばあいには愉快になる。そうなった場面を想像すれば、虚構をかまえ、幻想を重視してわたしたちがやろうとしさえすれば、それだけでもう基本において成就したことになるからだ。なぜこんなことが想定できるか、それなりの根拠はある。

D本質的にだけいえば、現在すでに高度な社会では、日常の生活時間の存在感は、かつて重要だとおもわれた生産や労働を中心にみるかぎり、すこしずつ軽くなりつつある。そのうちに中心が消え失せないまでも、白けた異邦人みたいな顔をして日常生活の世界を、時間から時間へ浮動することになるかもしれない。しかも時間の意識は因果を定められないような既視体験に似た実在感におかれることになる。そこまでは想定しておいたほうがいいのだ。   (P238−P239)


備考

註.Dは現在(2000年)の多発する<事件>の本質的な背景とみることができる。




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33 既視体験に似た実在感 きしたいけんににたじつざいかん 画像論 
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虚構の使用価値
項目抜粋
1

Eいまこれがいちばん尖鋭にあらわれた場面として、テレビのCMの世界をあげてみる。テレビのCMのいちばんはっきりしたモチーフは、はじめにあるひとつの販売すべき商品(物体であってもアイディアであっても、行動であってもよい)があるとするとこの商品の実体に、イメージをつけ加えてその価値(交換価値)を高め、ひいては意図している価格構成をいかにも妥当だとおもわせる画像にまでもってゆくことだ。だがこの最初のモチーフはたちまちにさまざまな波紋をよびこんで、現在という時代の本質を露わにする。そこでは大切なことが露呈される。もちろんたかが商品のCMだとかんがえて、大切だとみなさず、ささいな徴候が垣間見られるとおもってもいいはずだ。わたしはどちらかといえば大切だとかんがえたい方だが、いまのところ共感を要請するつもりはない。

F・・・・・・ある商品につけ加えられるイメージのための画像は、だんだん微細になり、緻密化してゆくうちに、とうとう画像のほうが、その商品の実体よりももっと実体らしくなっていく。購買者は画像によって附加された商品のイメージを、実体とみなすようになり、実体のほうをむしろ虚像とかんがえるまでになってゆく。そしてもしかすると画像を実体と見なすことから生じた虚構の使用価値が、真実化された効果を発揮するまでになるかもしれない。ここまでくれば、さらにべつの波紋を生みださずにはおかない。

Gはじめに購買者の購買力を獲得しようというモチーフから、商品にイメージをつけ加えて美しい画像が産みだされた。だが購買者の購買力を誘うというはじめのモチーフはだんだんそっちのけになって、美しい画像を生みだすこと自体にモチーフは移ってゆく。そればかりではない。やがて美しい画像か醜い画像かということすらそっちのけになって、ただ画像と商品の実体とが転倒された世界を実現するのが、最後のモチーフとしてのこされるようになる。もちろんこれは、ありうるかもしれぬCMの経路の模型を想定しているだけだ。だがCMの極限の姿と効用をかんがえるかぎり、そんなところにどうしても到達する。そしてそれは同時にCMの終焉、つまりCMと呼ぼうが、いやCMではない実体そのものだと呼ぼうが、おなじだという場所を意味している。


項目抜粋
2
HここまでCMの画像がやってきたとき、たぶんCMは企画者である資本やシステムの象徴を先鋭化することで、逆にその管理を離脱する契機をつかまえるのだ。このいい方が楽天的すぎるとすれば、資本やシステムのありうべき未来の風姿を、ほかのどんな画像の世界よりも鮮やかに描きだしてみせるというべきかもしれない。その未来の風姿が明るい生の色彩をもつか暗い死の色彩をもつかは、さしあたってあまり重大ではない。ただ無意識のうちにCMがCM効果の否定を実現してしまうかどうかだけが重大なのだ。  (P240−P241)


備考




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34 既視体験に似た実在感 きしたいけんににたじつざいかん 画像論
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限界の地平線
項目抜粋
1

    【「プロセスU」の表について】

Iここにあげた例が現在のテレビの画像効果をかんがえあわせて、商品のイメージ効果を高める意図をなくさずに産みだされたいちばん正統で、いちばん高度なものだ。文学でいえばさしずめ<純文学>といったところである。そしてその意味でとても古典的な情緒をみなぎらせている。いかにも<純文学>らしくしつらえた純文学がおおく低俗なのとおなじ意味で、低俗だといってもおなじことだ。こういうきめつけ方が俗っぽいとすれば、もっと別にいい代えることもできる。こういう画像とそれをめぐる言葉は、ひとびとが狙うであろうイメージの通りに狙われ、ひとびとが期待しているにちがいないイメージの通りに実現されている。それが正統的とか古典的とかいうことの意味である。

 【「セイコー・ソシエ セイコー・ブレスレット」のCMについて】

Jテレビの画像を構成している機能的な要素は、(1)音声または、メロディをつけられた音声によるナレーション、(2)文字の映像表現、(3)画像、(4)バック・ミュージックであるとみられる。・・・・・・ただどの機能的な要素についても精練され方の方向は、もったいぶった古くさい感性が狙われていて、そのぶんだけ風俗的な情緒に屈折してしまっている。

 もちろんほんとはわたしたちは、この出費をかさねて作成されたCMの画像に批判的なのだ。ここにも現在が映し出されているのだが、内部にいるものの現在で、鳥瞰された現在でもなければ、現象としてつき放された現在でもない。また劇化された現在でもない。ちがいがわかる程度の男たちが、願望となった現在なのだ。   (P248−P249)

   【「プロセスV」の表について】

KたぶんわたしたちはここにあげたCM画像まできて、現在というものの本性にはじめて出あっている。それはまず画像によって瞬間的に成立するドラマ性あるいは物語性によって象徴される。もっとつきつめていえば、ドラマ性あるいは物語性によって瞬間的にうち消されるCM効果によって象徴されるといいかえてもよい。  (P252)


項目抜粋
2

LなぜCM画像自体によってCMが否認される瞬間が成立つのか。そしてなぜそこに現在の姿が瞬間的に暗喩されるのか。もちろんありうべき個性的な解答はこういうことになる。これらのCM作者たちにはCMの枠組が内在的な世界の全体に変容しているために、作者の内在性はたえず枠組自体を超えようとする勢いをもつようになっている。ちょうど白熱した忘我の瞬間に、目的への志向が喪われるように、CM効果への狙いが喪われるのだ。だがまた、まったくちがう根拠からもいうべきだ。現在すでに商品の実体にイメージをつけ加えるという本来的な意味は危うくなっている。どこかでその意味は無化されつつあるのではないか。なぜ商品は生産されるのか。使用価値の欲求をみたすために。財貨をとりこむために。賃金を獲得して生活の窮乏から脱出するために。どんな理由をつけてもよかった。どんな理由をつけても根拠がないような限界は、遥か遠方の地平にあった。現在わたしたちの社会をふくめた先進的な社会では、おぼろ気ながら、その限界の地平線が見えがくれするようになった。その過程がどうであれ、その限界線の近傍では、商品の生産という行為を持続するためにだけ、商品は生産されるので、ほかのどんな理由があるからでもない。そういう極限の像を描くことができる。  (P253−P254)


備考




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35 既視体験に似た実在感 きしたいけんににたじつざいかん 画像論
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イメージの附加競争
項目抜粋
1

Mはじめに商品の実体にイメージの画像をつけ加えるのは、販売の競争に耐え、それにうち克つためであった。だがその第一次的な競争にうち克って、第二次予選にのこってみると、イメージがつけ加えられた画像を、そのまま商品の実体とみなす購買者の群れにとりかこまれていた。そうなればつぎつぎに新しいイメージをつけ加え、拡大される新しい競争にむかってゆくほかはない。もっとべつのいい方をすれば、新しいイメージ附加の競争に赴くためにだけ、商品を生産しなくてはならない。必要なのは商品の生産ではなくイメージの附加競争なのだ。そして生産はそのためにだけなされるようになってゆく。このイメージの附加競争でテレビのCM画像はいちばん先鋒をつとめあげなくてはならない。そうだとすれば目的はイメージ附加の競争であり、イメージ附加を巧みにやって商品の販売競争にうち克つという当初の狙いは、すくなくとも第一次的な意味をもたなくなってゆく。・・・・・・このCM画像によってバスボン石鹸(その製造販売者)が、イメージ附加競争に参加しているというイメージをあたえられるかどうかだけが、ほんとうの狙いになってゆく。その証しとして瞬間的なドラマあるいは物語がCM画像のうえで成立し、その成立の頂点でCM効果自体の否認が成立している。しかしここではまだ、その瞬間がすぎされば依然としてCM効果の有効性が期待されているのだといっていい。だがそのばあいでもCMにイメージを附加されて、商品が優れていると思い込む購買者をあてにするよりも、これだけのCM効果の否認のモチーフをもつCM画像を、提供するゆとりのある豊かな企業の製品を購入してみようという購買者をあてにすることになっている。   (P254−P255)

    【「プロセスW」の表について】

N現在までのところここにあげた例で象徴されるのが、CM画像にとって最終の問題を提示している。いわばCM効果の買いたいというモチーフの過程で産みだされている画像だということができる。そしてこの解体の方向はおおざっぱに二つにわけることができる。ひとつは本来的には商品の主体に附加されるイメージは美麗さに向かうものでなければ価値増殖に耐えないという常識に反して、わい雑性とずっこけを強調することによって異化効果をうみだしているものだ。・・・・・・

 もうひとつの解体の方向は、現在の無表情な空虚、明るい空しさともいうべきイメージに、画像の全体を近づけることである。   (P257−P258)


項目抜粋
2
OCM画像が解体を象徴してあらわれるということは、生産した商品の価値の解体を暗喩するイメージが、商品の実体につけ加えられたということと同義である。いいかえれば商品の価値の崩壊を暗喩するイメージをつけ加えることが、商品の価値を高めることだという二律背反のなかにCM画像が足をかけはじめたことを象徴している。わたしたちはここに象徴された未知にむかって、すこし胸を躍らせる。    (P259)


備考




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36 コミックス こみっくす 語相論 
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項目抜粋
1

@画像と言葉とが補いあいながら、あるばあいたがいに拮抗したり、矛盾したりして展開される物語性という課題に、いちばん意識的なのは、山岸涼子のコミックス画像の世界のようにみえる。そこではすくなくとも次のようないくつかの差異と同一性が、明晰に分離されている。   (P260)

A山岸涼子の「籠の中の鳥」が感銘ぶかい作品だというのは云うをまたないが、それよりももっと意味ぶかいのは、画像と組みあわせることが可能な言語の位相を、その同一性と差異性の全体にわたってはっきりと抑えきっていることだとおもえる。   (P266)

Bつげ義春の作品の世界を、山岸涼子が意識的に分離している画像の精緻な語相と、対称的な位置にあるものとみなしてみよう。そこでは語り手の言葉は、語相として画像空間から分離されず、むしろ画像の一部分として、画像とおなじ位相にはめこまれていることがわかる。登場人物のかわす会話の言葉は、これに反して、劇的な言語の位相におかれる。そして強引に作品の物語性を引っ張ってゆく。この語相の特徴にくわえて、つげ義春の画像は、ひとびとの常識的な皮膜をつき破るように、ラジカルに劇的事実をむき出しに正面から描ききっている。とくに画像は性的にラジカルな表現をとり、ポルノグラムの域に達している。たぶんここを中心にすえれば、つげ義春の世界はいい尽くすことができよう。   (P267)

Cつげ義春からはじまって岡田史子や大友克洋のコミックス画像に象徴されるような、画像の様式化と言語の位相を平準化する方法は、ラジカルな自己主張をいちばん強力に集約できる方法みたいにおもえる。だがいつも新しい様式的な補給を必要としている。そうでないと画像が言語の<意味>の重さにおしつぶされてしまいそうだからだ。

 画像にともなう言語的な位相は、いつも多層化の試みにさらされている。それはさまざまなモチーフを秘めているが、いちばん大切なモチーフは、画像にともなう言語の<意味>の重さを分断して軽くし、またその言語的陰影を微分化しようとするところにあるようにおもわれる。  (P277)


項目抜粋
2
備考




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