Part 1
詩人・評論家・作家のための言語論


          メタローグ 1999/03/21 発行



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内コミュニケーション 言葉以前のこと
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内コミュニケーション 言葉以前のこと
内コミュニケーション 言葉以前のこと












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内コミュニケーション ないこみゅにけーしょん 言葉以前のこと
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@ 内コミュニケーションは、視覚的なイメージで思い浮かぶこともあれば、何を意味しているのかがすぐにわかってしまうこともあります。このわかり方は、だれにでも大なり小なりあって、その能力がいつ、どこで生まれてくるのかをまず話してみます。
 どこで身につけるのかとかんがえてみると、この能力はまず母親のお腹のなかで獲得します。人間の胎児は母親のお腹のなかで、受胎から三十六日目前後に「上陸する」とされています。つまり、水棲動物の段階から両生類の段階へと進むわけです。
 この進化を確定したのは日本の発生学者、三木成夫(一九二五〜八七)さんです。三木さんの『胎児の世界』(中公新書)によれば、人間の胎児は三十六日目前後に魚類みたいな水棲動物から爬虫類のような両生動物へと変化します。つまり「上陸する」わけですが、そのとき母親はつわりになったり、精神的にすこしおかしくなったりします。たいへんな激動を体験しているわけです。三木さんによれば、水棲動物が陸へあがるときに鰓呼吸から肺呼吸に変わるわけですが、いかに困難な段階かということはそれでよくわかるということです。
 受胎から三ヶ月ほどたつと、胎児は夢をみはじめます。その夢は、いわゆるレム睡眠の状態でみます。次の段階の五ヵ月目ないし六ヵ月目で、胎児は感覚能力、たとえば触覚、味覚がそなわるとされています。六ヵ月目以降になると、耳が聞こえるようになり、母親の心臓音、母親や父親などいつもまわりにいる人の声を聴き分けます。つまり、耳や鼻や舌など、人間のもつべき感覚器官が全部そろうわけです。受胎後七〜八ヵ月になると、人間がもつ意識が芽生えるとされています。五〜六ヵ月目以降の胎児はだいたいにおいて、父親と母親の声を聴き分け、母親がどんなショックを受けたかもわかっています。つまり母親の精神状態、こころの変化、感覚の変化は、胎児に伝わっているわけです。

 ですから、五〜六ヵ月目以降の胎児は感覚的なことがほとんどわかっています。少なくとも母親の精神状態、母親の声、母親とよく話している父親の声はだいたいわかるようになっています。
つまり受胎後五〜六ヵ月で、胎児と母親の内コミュニケーションはすでに成立していることになります。       (P8−P10)


A この時期までに、人間がもつ感覚器官はすべて胎児にそろうことになりますが、母親の胎内は真っ暗闇ですから視覚はないはずだとおもわれるかもしれません。ですが、ふつうに眼でみるのとは別の意味で、視覚もそなわっているとかんがえることができます。

 ぼくは
胎児という状態にはふたつの意味があるとおもっています。人間の生命の循環みたいなものをかんがえると、胎児から前向きに生まれてくるばあいと、死に瀕して後ろ向きに胎児にもどるばあいのふたつがあるとおもうのです。
 臨死体験のような瀕死の状態で起こる聴覚と視覚の一種の連結は、後ろ向きに体内へ入っていくことと同じだから起こるのではないかという解釈になるわけです。これもぼくの思い込みといえば思い込みですが、いまに医学がもっと発達して、明瞭にうそかほんとかを科学的に判断できるようになるような気がします。
 ぼくはありうると判断するわけです。耳が聞こえる状態さえあれば、眼がみえるということが長時間ではないがありうるのではないか。そういう解釈からいくと、胎内体験には前向きのときと後ろ向きのときがあって、ここのところが科学的に解明できれば、一種の宗教と科学とが接合できる地点だとおもうわけです。また、これがうそだとわかっても、ぼくにとってはどちらでもいいのです。それは錯覚だと科学や医学が確定してくれれば、それでもいいわけです。
いまのところの解釈だと、聴覚で視覚のイメージがつくれるのではないか、また臨死体験はありうるのではないかとおもっているわけです。


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2
B 日本の詩歌には、動物が主人公になって物語が展開するかたちはほとんどありません。日本の神話では、風や岩が人間の声で口をきくとか、土地の名前が人の名前と同じだとか、そういう部分に古い形式が残っています。
 そういうことを一緒にかんがえると、現在からみて未開的というのは、人間の個体の発生でいえば胎内的な段階ということになるとおもいます。それもイメージとして前向きか後ろ向きかで、来世と前世がわかれています。前世はやはり胎内的な段階だとおもいます。
 宗教ではあの世があるとかんがえられていて、とくに仏教では前世があるとおもわれています。すこし科学的にいえば、それは胎内体験ということになりそうにおもいます。
           (P11−P18)




備考




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1
C 相手の考えやイメージを察知する能力は、胎児期の内コミュニケーションの過敏さ、鋭敏さが原型をなしています。たぶん超能力者や霊能者は、修行によって内コミュニケーションを鋭敏にする修練をしているのでしょう。ふつうの人でも、顔の表情から相手の考えがだいたいわかることはあるわけです。
 
人間にとっていちばん肝心な、相手の表情をみてたとえば憂うつなことがあったんだとわかる能力は、胎児・乳児のあいだに形成されます。これは恋愛感情に必要な条件で、鈍いとニブカンなやつだと相手からおもわれます。この能力は五〜六ヵ月の胎児から一歳未満のあいだに形成されるとかんがえるのが、いちばん妥当な考え方だとおもいます。とくに恋愛感情では相手の動作ひとつ、言葉ひとつで、こうかんがえているな、こうおもっているなとわかることがあります。これはみなさんも体験しているだろうとおもいます。
 もっと極端になると、思い込みをすることがあります。恋愛関係でこいつはおれに好意をもっているに違いないとおもっても、存外はずれたり見当違いだったりすることもあります。そのばあいは、
内コミュニケーションが異常なために、思い込みになってしまったわけです。
 精神科の患者さんになると、
幻覚が出てきます。幻覚というのは思い込みの極端なもので、文字どおり思い込んでいることが影像となって眼の前に出てくるわけです。
 あるいは、
妄想にもなります。一回きりの妄想なら、だれでも恋愛関係などで経験するわけですが、ひどい妄想になると、ひとつの体系をつくり、思い込みがひとつの解釈の輪をつくって、とてつもないところまで妄想が進行してしまうことがあるわけです。
 もっと病気がひどくなれば、自分の世界が思い込みと幻覚ですべて占められてしまいます。つまり自分をとりまく世界が、思い込みから出る影像やイメージですべて覆われてしまうのです。精神分裂病の幻覚はその典型だといえます。幻覚や妄想は、視覚的イメージの方向にいく異常の表れ方です。
 あとは意味の異常があります。意味をなさない言葉をしゃべったり、意味の通用しない、限界を超えた異常なふるまいをすることがあります。・・・・・・・・・
 つまり精神の異常は、イメージの異常か意味の異常のどちらかにわかれるということになります。・・・(略)・・・ラカンは精神がおかしいか、おかしくないかは結局は言葉にあらわれるといっています。要するに言葉の異常と、精神の異常は性質が似ているというのです。

 精神分裂病は内コミュニケーションの異常ですから、その人の精神状態が五〜六ヵ月目の胎児期までさかのぼることができたら、たぶん治るだろうとおもいます。そこまでさかのぼって、自分で自分の状態を客体視できれば、その体験の繰り返しでたぶん治るのではないかとおもいます。
           (P19−P23)



D そういう解釈をとるので、精神が異常になりうるのも感覚器官がそろう胎児の五〜六ヵ月目以降の育ち方、つまり母親との関係がいちばん大事な要素だとおもいます。・・・・(略)・・・・・ですから、精神の異常な状態は、胎児から一歳未満までの母親との関係によって主としてつくられるとかんがえるのがいいわけです。
 しかし精神分裂病も、もとをただせば、だれにでもある思い込みがもとになっています。その思い込みのもとは察知能力です。相手の表情をみたら、相手が何を考えているか、だいたいわかるようなきがする。とくに親しい人や恋愛関係にある相手だと、その人の精神状態がすぐにわかる。この内コミュニケーションはもとをただせば正常な能力で、すでに五〜六ヵ月目の胎児の段階から成り立っています。
 内コミュニケーションの段階がいつまでかというと、人間の子供は一歳くらいで言葉を覚えますから、その前までです。内コミュニケーションの原型は一歳未満にできてしまうと理解すればよいとおもいます。つまり、内コミュニケーションは言葉以前の段階にできます。言葉に似た「言葉以前のこと」です。
五〜六ヵ月目の胎児から一歳未満まで以外に、内コミュニケーションの原型ができる過程はありえませんから、その段階までに言葉なき言葉、言葉以前の言葉でわかってしまう能力が形成されるとかんがえればよいとぼくはおもいます。
           (P24−P25)

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2
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1
E 人間にとって、出生はたいへんな激変で、【註.ところが、胎外に出たとたんに空気のなかに置かれます。空気の温度は常温ですから、胎内とは温度環境がまるで違うところに出てくるわけです。もうひとつの大きな変化は、肺呼吸へと即座に転換することです。】そのときに受ける障害やこころの傷は絶対にまぬがれないといいます。・・・・(略)・・・フロイトのラジカルな弟子ライヒほど極端でなくても、出生はたいへんな衝撃で、こころの傷、無意識の傷が残るとかんがえたほうがよいとおもいます。それほど大きな変化を赤ん坊は経験するわけです。
           (P27−P28)


F 人間の子供は、出生から一歳未満までのあいだにも、大きな環境変化を経験します。胎内では母親とへその緒でつながっている内部的・肉体的な環境にいて、母親との栄養の交換、感情の交換、こころの交換があります。ところが、胎外に出て乳児になると、母親や母親代理からお乳などの栄養物をもらわなければ生きていけません。母親の世話なしには、栄養補給ができないわけです。
 精神的な面でも、乳児にとっての世界は、極端にいって母親とのコミュニケーションだけでできあがっています。乳児にとって世界は母親だけで、栄養摂取、排便、睡眠の世話はすべて母親あるいは母親代理に依存しなければ生きられないわけです。世界は母親あるいは母親代理と自分とのあいだにしかなく、それが乳児にとっての全世界です。

 人間は胎児のときから内コミュニケーションの芽は出そろっていますから、母親の思いやこころの状態はすべて乳児に伝わってしまいます。母親が何をおもっているかは、すべて伝わるとかんがえたほうがよいわけです。その伝わり方の訓練は、五〜六ヵ月目以降の胎児のときからはじまっているわけです。

 子供にとって母親が全世界の時期は、意味の通る分節された言葉でなくても、胎内のつづきで簡単なことは通じてしまいます。子供のお腹がすいているとか、こうしたらうれしがるに違いないとか、そう判断できる程度には必ず通じます。
 それは言葉がはっきり分節していく前の中間的な状態で、「アワワ言葉」の段階と呼んでいいと思います。そこから発達して、母親以外の人とも話せるようになっていくことになります。
           (P28−P31)

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G さきほど、日本人の乳児の育て方はひとつの典型だと申しました。この育て方で育てられた人々、つまり日本人は内面の論理が苦手で、その代わり情感が繊細です。どんなタイプの文明や文化でも、海外から輸入してここなしてしまうことができます。とくに明治以前は内面の論理性がものすごく苦手でした。明治以降は西欧文明を全面的に受け入れたから、やっとすこし苦手ではなくなってきました。勤勉ですから、現在では本格的に内面性とは何かがわかってきたことになっていますが、ほんとうをいえば、日本人にとっては文化の型として内面性を追求することは苦手で、それは最初の育てぐあいで決まってくることが多いのだとおもいます。

H 西欧的な育て方では、たぶん母親と赤ん坊はわりと早い時期に離してしまうのでしょう。子供は子供、親は親と、どこかで区別するのですが、日本のばあいはべったりと情感をこめて育てるから、内コミュニケーションもそういうタイプになっていきます。母親が自然にふるまっていれば、その母親どおりのものが子供に移ります。その母親の情感が適切に働けば乳児によい影響が伝わりますが、適切でなかったらわるい影響をかぶってしまいます。そして、よい母親のばあいには、人類の模範的な乳児の育て方になるわけですが、もし母親の内面性がわるかったら乳児にとって世界全体がよくないこととおなじになります。・・・・(略)・・・母親が親身に育てたばあい、子供が異常になりにくいということはできます。乳児までの育て方に失敗すれば異常になりやすいということになりましょう。
 しかし、ひどい育てられ方をされたからこそ、偉大な文学者になった人もいます。太宰治や三島由紀夫がそうです。内面性の豊富な文学者は、えてして母親からよい育てられ方をされなかったということはありえます。よい母親、わるい母親の基準は、そういう意味あいまでしか拡張できないでしょう。
 ごく自然にかんがえて、おかしな精神状態になりにくい子供のほうがよいというのであれば、よいわるいの基準はそこにあります。精神の
正常と異常のあいだの防壁が高いということでしょうか。この特質から導かれることは、精神の過剰や欠乏の体験でもスムーズに通過できる自然な性格でしょう。
           (P35−P38)

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I 日本的な育て方の欠点があるとすれば、家庭内暴力としてあらわれます。家庭内暴力は、日本的な乳児の育て方の特産物といえます。日本の母親のように、密着した関係で乳児を育てるところでは、母親の育て方の欠陥が子供に擦り込まれてしまいます。そこに家庭内暴力のいちばんの原因はありますが、家庭内暴力を安易にかんがえて、思春期に親がすこし言葉づかいを変えたり、かわいがったり、気をつかったりして、よい母親のようにふるまいを改めれば子供の家庭内暴力はやむとおもっている人もいます。家庭内暴力が軽度のばあいには、それでやむこともありえましょう。
 しかしそれは違います。一歳未満までの胎乳児の時期にほんとの愛情を注いで育てなかったら、幼年期以降にどんなによい母親のようにふるまってももう遅いのです。これが深刻な家庭内暴力の根底にある問題です。
 父親は乳児と直接にはあまり接触しません。乳幼児に対しては間接的な場所に退いてしまいます。反対に母親は、乳児のときによく育てなかった代償として幼児期以降、子供を過剰にかまいすぎて束縛になってしまい、いわゆる教育ママになります。これが、子供が家庭内で暴力をふるうようになる一つの原因です。
           (P39−P40)

 家庭内暴力では、子供と母親父親との内コミュニケーションがどうだったかが第一義的な意味をもちます。子供が暴力をふるえば、母親や父親のほうは無限に譲歩していきます。逆に、親のほうが独裁的になれば、子供のほうは無限に退いていく。これをどうにかすることは難しいことですが、退く必要のないところまで退いてしまうことが深刻な問題です。

 すべての重要な問題は、内コミュニケーションと、内コミュニケーションから外コミュニケーションに移りゆく一歳未満のところの問題に帰着してしまいます。それから、変な言い方をしますと、人間のこころのかたちはそこで第一義的には決定されてしまいます。一種の性格宿命論になるとかんがえるでしょうから申し上げますと、人間の精神はこころだけでできているわけではありません。感覚が加わったり、こころと感覚が絡み合ったり、理性、知性、論理性も加わって、そのぜんぶでもって人間の精神はできています。必ずしも性格宿命論といっても、決定論ではありません。
 人間のこころの核になる部分で決まってしまう、あるいは決まっているとかんがえたほうがよいとぼくはおもいます。もちろんみなさんのこころの核もそこで決まっているはずで、いつか何かの拍子に出てくるかもしれません。ふつうの平穏な生活のなかでは出てこなくても、何かひどい目に遭ったり、ひどい境遇、ひどい事件にぶつかったときに、。内コミュニケーションから外コミュニケーションに移行する一歳未満までに形成された、こころのかたちが必ず出てくるとかんがえるのがよいとおもいます。ある意味では、それくらい決定的なものなのです。
           (P49−P50)
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J 内コミュニケーションの段階で起こった問題は、精神的に極端に異常なところにいくことがあります。たとえば妄想、幻覚、作為体験などがそうです。どこからか声が聞こえてきて、おまえ、こうしろ、ああしろと命令されているという人がいます。こういう体験は異常に属するわけですが、たぶん母親の育て方の枠組みがとても不安定だったことに由来するだろうとおもいます。閾値というか、正常から異常へとはみだしてしまう壁が低くなっているイメージが浮かびます。正常だとおもえるところから異常に移りやすくなります。ただの思い込みだったのがすぐ妄想になってゆきます。壁が高ければ、そこからまた引き返すこともできるのです。なぜ壁が低くなるかをかんがえますと、母親によってつくられる精神(物語)の枠組みがうまくいっていないのだとおもいます。枠組みが不安定で、あまり輪郭が明瞭ではない。壁が低いものだから、すぐ正常から異常にいく。正常のところで踏みとどまるのがたいへん難しいわけです。 ・・・・(略)・・・

 母親の物語はどのようにしてできるのか。それは単純なことで、要素を取り出せば、授乳したり、寝かせつけたり、排便の世話をしたりするといった、ごく少ない要素からできている物語です。でも、その物語の内容はどこからできるかといったら、母親と父親の関係から主としてできるとおもわれます。いうなれば、夫婦関係のなかにその物語の原型があります。夫婦の関係がたいへん立派で、豊富な感情と理性と物質的な基礎があるとすれば、母親の物語は豊富で正常になります。その精神状態は乳児のなかにちゃんと移されますから、たいへん立派な物語を潜在的な核に植えつけることになるとおもいます。
           (P56−P50)


K 心理学者は五歳から十歳ぐらいまでを「児童期」「学童期」として幼児期以前と区別しています。幼児期から児童期にかけては、無意識の核が下のほうに沈められていく段階だとおもいます。
 ところが近代社会では、西欧でも日本でも、児童期の子供たちに逆のことをやるわけです。幼児期から児童期にかけて、
教育によって多くのことを訓練することになります。訓練はある意味で規制です。・・・・(略)・・・

 母親から豊富に性的コミュニケーションを受け継いでいるので、野放図にそれを表に出したり、無茶苦茶に性的なるまいをするはずですが、「これはいけません」とその年齢の段階で教えてしまう。全体的にみれば、意識的な禁止のはじまりの段階に入るわけです。また、言葉も自然に覚えるのではなく、その年齢では使いもしないような言葉や文字を教えたりします。
 児童期あるいは学童期の段階は、ほんとうにこれでいいのか。まだ根本的な問題に逢着しないからすんでいますが、たいへん疑問だとおもいます。いわゆる教育専門家みたいな人が、小学校はこうあったほうがいいといろいろなことをいいます。ですが、根本的に問うとすれば、児童期、学童期といわれる五歳から十歳ぐらいまでのあいだに、母親から擦り込まれた豊富な性的無意識を抑圧して規律と知識を覚えさせることはほんとうにいいのか、これは真剣に問われなければいけないとおもいます。ほんとうに問う教育専門家がいないのは、まだ問わなければいけない段階に当面していないからです。
           (P64−P66)


L 現在の中学生、つまり前思春期の問題は、母親の性的な物語を移し植えられた胎乳児期の体験が、ふたたび解放されることです。これは学童期にいったん抑圧された性的な物語です。ある意味では、父親や母親ではもう止められない物語で、どれだけ解放されるかという問題になります。
 これはみなさんが現に体験された問題です。性的な感覚や感じ方がどこで入れられたかといえば、胎乳児期に母親から受け継いだ物語が核になっています。それが解放され、なおかつ意識的な考え方が加わって、前思春期から思春期にかけて問題が出てきます。ここまでくれば、もう母親の問題というには遅すぎます。すでにできあがっている性的な物語をどれだけ解放するか、どれだけ節制し、どれだけ抑圧するか。性的・エロス的なふるまい方の問題は個々人でそれぞれ違ってくるでしょう。現にみなさんは違っているだろうとおもいます。
 また前思春期は、妄想が幻覚になってしまうことの起こりやすい時期です。もうひとつ、こころを決める問題がそこで生じます。母親の性的な物語がとんでもない物語であったり、十歳未満のときに性的ないたずらを受けた体験があると、こころの形成にかなり響いてきます。・・・・(略)・・・
 それがこころの宿命だとしたら、どう克服していくかは自分自身の問題になります。それを克服することが人間の本質になります。つまり、自分のこころの宿命はどうすることもできないけれども、これを超えていくことが生きるということなんだ、それは自分の責任だから超えていくよりしようがない、と自分を意識的に豊富につくっていくよりしかたがないわけて゛す。
           (P71−P73)



項目抜粋
2



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