Part 2
詩人・評論家・作家のための言語論


          メタローグ 1999/03/21 発行     



項目ID 項目 論名
言葉の<自己表出>と<指示表出> 言葉の起源を考える
品詞 言葉の起源を考える
文芸批評にとって最後の問題 言葉の起源を考える
10 病気という概念と言葉の関係 言葉の起源を考える
11 言葉の表現とリビドー 言葉の起源を考える
12 日本語の起源へたどる 言葉の起源を考える












項目ID 項目 よみがな 論名
言葉の<自己表出>と<指示表出> ことばのじこひょうしゅつとしじひょうしゅつ 言葉の起源を考える
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三木成夫 自己表出と内臓 指示表出と感覚
項目抜粋
1
@ 人間の言葉にはふたつの側面があります。ぼくの使っている言葉をそのまま使わせてもらえば<自己表出>の側面と<指示表出>の側面です。
 たとえば、胃が痛くなって「うっ」とか「痛い!」と思わず口をついて出たとすれば、だれかとコミュニケーションする目的で発したのではなく、
反射的に口をついて出た言葉です。結果としてはじぶんの外側に何かを通じさせることになるでしょうが、それが目的で言葉を発したわけではありません。言葉のなかに含まれているこの種の表現を、ぼくは<自己表出>と呼んでいます。
 
言葉の自己表出は、人間の内臓の働き、こころの動きに結びつけるといちばんわかりやすいとおもいます。感覚ではなく、こころです。よくこころが痛むというでしょう。心臓のあたりに痛みを感じるかどうかは別として、ある意味を人に通じさせようとおもって何かをいうのではなく内臓の動きと同じように内側だけで出てくる表現です。それが自己表出の側面です。

 もうひとつの<指示表出>は、何かを指し示すための表現です。つまり、視覚的に景色をみてああ、きれいな景色だなといったりするのがそれです。言葉にはこのふたつの側面があります。

 
あらゆる言葉は指示表出と自己表出のふたつからなる織物で、どちらをも含んでいます。
            (P76−P77)



項目抜粋
2
A もっと生理的に、人間の身体に結びつけてかんがえれば、自己表出は内臓そのものにかかわりのある表現です。胃が痛くて、おもわず「痛い!」という。心臓がドキドキして、おもわず「あっ」といったりする。つまり、人間の内臓に関係づけられるこころの表現は、言葉の自己表出の側面が第一義的にあらわれると理解するのがいちばんよいとおもいます。

 
さらにいえば、言葉の自己表出は人間がもつ植物神経系とかかわりが深いとかんがえればよいでしょう。人間の内臓は、脳で意図して動いているのではなく、植物神経によってひとりでに動いているのです。

 
指示表出は感覚とかかわりが深い言葉の表現です。感覚は植物にもないわけではありませんが、反射神経的な動きしかありません。動物のようにじぶんで体を動かしたり、眼を働かせたり、耳で聞いたりすることはない。目や耳など動物神経で働いている器官は感覚器官ですけれども、それを介して脳に結びついており、それを第一義とする表現は言葉の指示表出に関係があるとかんがえればわかりやすいとおもいます。

 いいかえれば人間の身体は植物部分、動物部分、そして人間固有の部分を含んでいるとかんがえるのがよいでしょう。
            (P78−P80)

B そして三木さんの書いた『胎児の世界』を読んでいるうちに、この人の考え方とぼくの言語論とを対応させることができるんじゃないか、と気づいたのです。
 やや乱暴にまとめますと、三木さんは人間について、大腸、肺、心臓など植物神経系の内臓の内なる動きと、人間の心情という外なる表現は対応し、また動物神経系の感覚器官と脳の働きは対応しているとかんがえています。そのうえで三木さんは、植物神経系の内臓のなかにも動物神経の系統が侵入していくし、逆に血管のような植物神経系の臓器も動物神経系の感覚器官の周辺に介入しているといっています。ですから、内臓も脳とのつながりをもっていることになります。何らかの精神的なショックを受けて、意が痛くなるとか、心臓がドキドキするということがあるのはそのためです。
 そのとき人間は、動物神経と植物神経の両方にまたがる行為をしているわけです。植物神経系と動物神経系は、内臓では植物神経が第一義に働き、感覚器官では動物神経から脳へという働きが第一義に働きますが、第二義的には人間の精神作用は、心の動きと感覚器官の織(物)なのです。三木さんはそういっているのだとおもいます。

 ぼくがはっとしたのはそこのところで、それならぼくの言語論における自己表出は、内臓器官的なものを第一義とした動きに対応するのではないかとおもったのです。必ずしも、対象を感覚が受け止めたりみたりすることがなくても、内臓器官の動きというものはありうるし、人間の精神の動きや表現はありえます。つまり植物系器官を主体とした表現を自己表出といえばいいのかとかんがえました。
 では指示表出は何かといいますと、眼でみたり耳で聞いたりしたことから出てくる表現です。たとえば、ぼくがだれかの顔をみて、「あいつの人相はわるい」と表現したとすれば、それは指示表出です。これを三木さんの考えと結びつけていえば、指示表出は感覚器官の動きと対応することになります。

 
そうかんがえていきますと、・・・・・(略)・・・・・・自分の言語論の体系を文字以前のところまで拡張することができるんじゃないか、と気がついたわけです。
            (P81−P83)

備考 註.三木成夫との出会いの意味について




項目ID 項目 よみがな 論名
品詞 ひんし 言葉の起源を考える
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指示表出の軸と自己表出の軸のふたつ 品詞の中間に位置する言葉 言語表現としての価値
項目抜粋
1

@

 人間の言葉は、先にもいいましたように指示表出と自己表出の織物だとかんがえることができます。・・・・(略)・・・・このように指示表出の部分が第一義の言葉の典型が名詞です。名詞になっている言葉は指示表出が最大限に多く、自己表出は少ない部分として隠れています。
 また、感覚とほとんど関係のない言葉は、たとえば助詞のテニヲハです。「私は」の「は」や「私を」の「を」は、単独では何も指示しない。指示表出は最小限に少ない。その反対に自己表出は最大限にあるとかんがえたほうがよいわけです。
 指示表出と自己表出をふたつの軸にした言葉で、指示表出最大の極が名詞とすれば、指示表出最小は助詞、助動詞、副詞です。副詞の「つまり」だけでは何も指示していない。だけど、自己表出は最大限にあると理解すればよいわけです。【P86,L1−L5参照】指示表出と自己表出のふたつを軸とした円を描くと、国文法で習った名詞、形容詞、動詞、副詞、助詞といったあらゆる品詞はその中間に入ってきます。どこかに絶対軸があるわけではないのですが、指示表出の軸と自己表出の軸のふたつをかんがえれば、名詞、助動詞、動詞、形容詞などはすべて円のまわりに含まれ、微差によって並びます。
            (P84−P85)


A

 ところが言葉は、そうお誂えむきにできていない面もあって、形容詞なのか副詞なのか、ちょっと区別できない言葉があります。なんとなくわかるけれども、形容詞ともとれるし、副詞ともとれることがありうるわけです。そのようなばあいは、形容詞と副詞の中間に位置する言葉だとかんがえればよいでしょう。・・・・・(略)・・・・・・

 一般的な品詞の区別を超えて、境界が曖昧な状態、境界が移り変わっている状態までも含めて論じているわけです。【折口信夫「副詞の表情」他】その状態までくると、名詞、副詞とはっきり区別している品詞の段階では、理解も解釈もできないことがあります。
 つまり、指示表出と自己表出の交わるところで、言葉の表情がさまざまに変わってくるのです。同じ形容詞でも表情が曖昧で区別できない段階が生まれてきたりします。学校の国文法で、名詞や形容詞と教わったことは正確ではなく、その中間もありうるということです。
 また
品詞の中間に位置する言葉をつくりだそうとおもえば、いくらでもつくりだせます。言葉は指示表出と自己表出の軸を中心にした円のなかにすべて入るので、名詞や形容詞という固定した区別に収まるわけではありません。
            (P87−P89)


項目抜粋
2

B

 どうやって品詞と品詞の中間の言葉をつくるかという問題は、文学的な表現ではとても重要です。たとえば、「ある朝、彼は早く起きて歯を磨いた」という表現と、「ある朝、彼は午前五時に起きて歯を磨いた」という表現があるとします。作家はどちらを選ぶか。「彼」が早く起きて歯を磨いたという意味は、どちらの言い方でも伝わります。しかし、この両者は明らかに違うわけです。・・・・・(略)・・・・・・
 なにが違うのかといえば、指示性が違います。文章を書いている人に時間を限定したいという願望が強ければ「午前五時に起きて」と書くし、漠然としたほうがいいとおもっていたら「早く起きて」と表現するわけです。「早く」にはいろいろな度合があります。この含みが言語の価値概念を与えるとかんがえれば、「早く起きて」のほうが
言語表現としての価値が高いことになります。なぜなら「早く」と表現したために、午前四時半のばあいも午前六時のばあいも、すべて含んでいるからです。明瞭に「午前五時」と指し示すよりも多くの含みをもち、多くを象徴しているために言語表現としての価値は高いことになります。
 言葉が指示表出と自己表出の交点だとかんがえると、言葉を一種の網の目にたとえることができます。「早く」のばあいは、網の目だけではなく、それを広く覆う膜のように多くのことを象徴しているわけです。
 この場合の価値は
言語表現としての価値で、文学的価値つまり芸術としての価値ではありません。文学的価値でみるばあいには、前後の文脈や物語の移り変わりを考慮しないといけません。
            (P89−P92)


備考




項目ID 項目 よみがな 論名
文芸批評にとって最後の問題 ぶんげいひひょうにとってさいごのもんだい 言葉の起源を考える
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あまり印象深くなく、読みすごしてしまうような箇所
項目抜粋
1
@ 文芸批評がどう成り立つかは、この問題に大きくかかわってきます。「午前五時に起きて」と「早く起きて」との違い、それによって作品の価値が違ってくるというところまで分析しないと、ほんとうは文芸批評にならないとおもいます。
 作品の成り立ちや物語性には大した意味をもたないとおもわれる表現上の違いでも、創作する側や文芸批評にとってはきわめて重要な問題です。作品のなかで、だれも気がついていない点、だれも重要だとおもっていない点きちんと分析することは、文芸批評にとって最後の問題になってきます。

            (P92−P93)


項目抜粋
2
A 批評の問題を突きすすめていきますと、あまり印象深くなく、読みすごしてしまうような箇所が重要になってきます。たいては、「午前五時に起きて」と書いてあろうと、「早く起きて」と書いてあろうと、作品にとっては大した問題ではないとおもって読みすごしてしまいます。
 しかし作品批評の最後の問題がどこにひっかかってくるかといえば、一見読みすごしていまうような部分が批評に含まれているかどうかです。作品を正確に読んで論じているのか、強く印象に残った箇所をつなぎ合わせて全体の印象をつくっているにすぎないのかはそこで決まってきます。
 何でもないことのようですが、これはとても重要です。つまり指示表出性と自己表出のどちらを主体にして表現するのか。名詞と形容詞のあいだに何もないように表現するか、あるいは微妙な表現をもちいて、どちらともつかない表現をするか。これは、書く人にとってとても重要な問題になってきます。
            (P94)



備考




項目ID 項目 よみがな 論名
10 病気という概念と言葉の関係 びょうきというがいねんとことばのかんけい 言葉の起源を考える
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異常
項目抜粋
1
@ 言葉についてもうひとつ申し上げておきたいのは、病気という概念との関係です。こいつは異常だとかんがえられることが、言葉の表現にとってはたいへん重要になるということです。
 さきほど自己表出性は内臓の動きやこころの動きに関連し、指示表出性は感覚の動きに関連していると説明したように、人間の言葉は、情動性と感覚性が織り合わされ、融合してできています。こころの表現としての言葉、感覚の表現としての言葉を説明するばあい、精神の病気や異常をどうしても考慮に入れなければいけなくなります。
 
異常は、その人の精神の動きが通常の範囲を逸脱していることです。精神に異常をきたしているばあい、その人の言葉もまた、通常の範囲を逸脱しているか、通常の範囲よりも小さく縮んでいます。指示表出と自己表出を軸とする円の範囲を逸脱し、言葉のもつ範囲を無限に拡げてしまうか、無限に縮めてしまうか、どちらかの作用が起こります。指示表出と自己表出をの軸を想定できないほど、極端に拡げてしまうか、狭めてしまっているのです。

 たとえば「美しい」という言葉には、だれもが抱くイメージがあります。赤い花が咲いているのをみて、美しいと感じる。これが正常とすれば、「美しい」の共通な感じ方といえるわけです。この範囲を逸脱すると異常になります。その赤い花をみて、ものすごく醜いとしか感じない人は異常とみなされます。
「美しい」という言葉の範囲が、指示表出と自己表出を軸とした円と一致していれば正常で、とんでもなく外側に拡大したり、極端に範囲が狭くなると異常になるわけです。
 極端な例をあげれば、幻覚症状があります。幻覚とは、実際に存在していないけれども、目の前にあるかのごとく、人や物のイメージが出てくるというものです。本来的にいえば、言葉の指示表出性や、言葉を表現するこころがそこまで達していないのに、人や物のイメージがみえてしまう現象です。幻覚が常態になると、通常の指示表出の範囲をはるかに逸脱し、こころがもつ指示性の働きは異常な範囲にまで拡大してしまいます。・・・・・(略)・・・・・・幻覚のばあいは、指示表出性が言葉になる前に、イメージとして通常の意味を超え、極端に拡がってしまったばあいを想定すればよいわけです。
            (P95−P98)



項目抜粋
2
A 言葉の異常は、その人がもつ固有のイメージが通常のイメージから逸脱するように、あらかじめ内部で固定観念ができあがっていることです。たとえば「美しい」という言葉であらわす物について、あらかじめその人の内部に固定観念がつくられている。固定観念が正常と違っていれば、何を美しいというのかも、正常な人とは違ってきます。
 ある特定の事柄をあらわす言葉についておかしな固定観念をもっていると、その言葉は、指示表出と自己表出を軸にした円を逸脱したところに位置してしまいます。これが妄想や幻覚と呼ばれているものです。
 ただ、普通の人と違っていること自体は、異常とはいえません。精神異常は、日常性に障害をもつ欠損や歪みであるといいますが、単に少数であるためにわるいとされているだけです。もし多数を占めていれば、それが正常となるのです。
            (P99−P97)

B 妄想や幻覚も同じで、現在の社会では異常とみなされますが、妄想や幻覚のある人が多数を占めれば正常となります。そういう状況はありうるのです。人類の未開時代では、幻覚や妄想のある人のほうが正常で、ない人は異常だったということがありえたわけです。現在の社会では精神異常でも、未開社会にもっていけば、正常と異常が逆転することもありうるわけです。
精神の異常はけっして固定的なものではありません。

 
また、かつて人類が体験したことがないような、新しい異常もありえません。未開時代に体験したか、いま体験しているかの違いだけで、過去に一度も体験したことのない精神の動きを人類はもちえないのです。新しい精神の異常な動きやイメージが出てくることはなく、すべて過去の時代にあった精神の動きです。そのほうが多数を占めていたなら正常といわれたとおもいます。

 正常とか異常とかは、いまの社会段階で判断したいるだけですから、確たる根拠はありません。ただ現在では不自由なだけです。日常生活に差し支えるし、たにんとのコミュニケーションに差し支えるから、治さなければいけないというだけのことです。ほんとうは異常ではないのですから、本来的には治しようがありません。少数だから異常とされていますが、ほんとうはそういえないわけです。
            (P100−P101)


備考 註.B「また、かつて人類が体験したことがないような、新しい異常もありえません。未開時代に体験したか、いま体験しているかの違いだけで、過去に一度も体験したことのない精神の動きを人類はもちえないのです。新しい精神の異常な動きやイメージが出てくることはなく、すべて過去の時代にあった精神の動きです。」について。 ?




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11 言葉の表現とリビドー ことばのひょうげんとりびどー 言葉の起源を考える
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フロイトのリビドーと言葉の表現 宮沢賢治
項目抜粋
1
@ 精神の異常や病気について、たとえばフロイトは、自己表出性ないし指示表出性のどちらの側面をとっても、言葉を表現したいという人間の欲求は、広い意味での性的な欲望、性的な衝動、性的な関心と深く関係があると一生懸命に説明しています。フロイトは、それら人間の性的表現を「リビドー」という言葉を使って呼んでいます。「リビドー」は狭く解釈すると性的な欲動や衝動の表現になりますが、広く解釈すると「性的」よりも「生命」に近い意味に受け取ることができます。
 つまり、人間の生命感の表現は「リビドー」だと理解することができます。言葉の表現には「リビドー」の意味あいが必ずつきまとうとするフロイトの説は、性がつきまとう意味と、生命の表現がつきまとう意味と、この広範な中間段階をすべて含んでいるとかんがえたほうがわかりやすいのではないでしょうか。あまり極端すぎないから、そのほうが理解しやすい面があります。
「リビドー」には性の意味あいもあるし、生命の意味あいもあると理解すれば、言葉の表現には必ず「リビドー」が伴うことになっていきます。


A フロイトの考え方を人間の身体に結びつけてしまえば、心臓や胃など内臓器官の動きも、眼や耳や鼻など感覚器官の動きも、器官という器官の動きはすべて、生命表現あるいは性的表現という広い意味での「リビドー」を含むと理解すればよいとおもいます。人間が言葉を使って何かを表現するあらゆるケースが、そのなかに含まれるということができます。
 たとえば、もし内臓に異常や病気があったら、それは必ず病的なこころの表現に関係してきます。病的なこころの表現は、言葉の表現にもかかわってくるとおもいます。つまり言葉には、指示表出と自己表出のふたつの軸があるということ、そして、あらゆる性的表現ないし生命の表現は、人間の内臓の動き、あるいは動物神経系の感覚の動きに全部かかわりがあるということです。
            (P101−P103)


B 言葉は「アイウエオ」と分節されたかたちで出てくるばあいと、
言葉以前の言葉で【註.独り言など ?】出てくるばあいとがありますが、いずれも性的表現ないし生命の表現を含んでいます。
            (P103)


項目抜粋
2
C それは宮沢賢治の特徴で、多くのカッコを用いて違う精神内部の次元から表出されたことをあらわしています。ふつうは同じ詩のなかではそれほど多くの使い分けはしませんが、宮沢賢治は厳密です。その言葉を表現したい欲求がどの次元から出てきたか、あるいは視覚的にみえたか、とてもよく区別しています。童話でも同じように多く使い分けていますが、詩のばあいはとくに顕著に表現されています。
 あまりうるさくやると作品の流れを切断してイメージを失わせるのではないかとおもわれますが、宮沢賢治には文学に対する一種独特の考え方があって、流れがよいかどうかは詩の本質ではなく、どの次元の、どんなところから言葉が出てくるかをうまく表現することのほうがはるかに重要だったのです。自己表出の出どころと段階で表現を区別しているわけです。
 宮沢賢治はさまざまなことを統一的にいうよりも、彼のいう心象スケッチとして表現するための方法をもっているから区別しているのです。
            (P107)


D フロイト流にいえば、宮沢賢治の使い分けは生命表現がそれぞれ違っていて、おもわず違うところから言葉が出てきたということです。フロイトは、指示表出性が拡がってしまうイメージの異常や、指示表出性と自己表出性が塊のように分離できない病的な表現も含めて、広い意味での生命表現の異常が言葉以前の言葉には必ず伴うものだとかんがえています。
            (P109)


E 精神分裂病の妄想ないし幻覚が起きている状態は、五〜六ヵ月目以降の胎児期から生後一年未満のあいだ、つまり
言葉以前の言葉を発する乳児期のこころの状態とよく似ているとおもいます。あるいは、その時期のこころの世界に対応させることができます。ですから、母親や母親代理を指示表出と自己表出の全対象としていた当時の状態までたどり着くことができたら、精神分裂病は治る可能性があるとおもいます。
 フロイトは、言葉になる以前の世界がひとまとまりになった状態を人間の精神や感覚の範疇に入れようとしました。性エネルギーないし生命エネルギーが、人間のこころ、感覚、言葉につきまとっているものだと理解することで、得体の知れない精神状態とみえるものを理解し、治療できる範囲内に入れようとかんがえたわけです。
            (P110−P111)



備考




項目ID 項目 よみがな 論名
12 日本語の起源へたどる にほんごのきげんへたどる 言葉の起源を考える
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胎児期と人類の歴史の対応 逆語序 なんらかの契機による停滞 自然物を描写する以外になかった
項目抜粋
1
@ 個人における胎児期後半から一歳未満までの状態は、人類の歴史でいえば、野蛮や未開のような未明の社会や原始社会の段階に対応します。人間が言葉をはじめて獲得した時期や、そのすこしあとの状態とパラレルにかんがえることができます。言葉がまだ民族語にわかれていないか、民族語にわかれたばかりの段階です。
 つまり、未明の段階における人間の言葉、民族語にわかれてすぐの言葉がどうなっていたのかを類推するばあい、いちばん役立つのは、一歳未満の乳児が言葉を覚えはじめるときの状態をよく観察してみることです。どんな優れた言語学者の考え方も、もとをたどれば乳児を多く観察して、言葉の発生や民族語の分化を類推しているところがあります。
 また、世界には未開原始の段階をあまり出ていない状態の地域がまだ存在しています。人類学者などは文明社会からフィールドワークに出かけ、その土地の人と一緒に住んで風俗,習慣、言葉を観察しながら、じぶんなりのの考え方をまとめていくのです。
 このふたつ以外に、一歳未満の状態、未開原始の状態を追究していく手段はありません。だれもがどちらかの手段、あるいは両方の手段をとりながら、言葉について考え方をつくってきたわけです。

A 日本は言葉の調べ方が発達していませんから、現在でも西欧の言語理論を使っています。インド−ヨーロッパ語を基準にした理論か、西欧からみた未開原始の場所での体験からつくった理論か、あるいはその両方からつくった理論です。つまり、日本語からつくられた理論でもなければ、日本の未開原始時代をもとにつくられた理論でもありません。ですから、西欧の言語理論からはインド−ヨーロッパ語の特徴とおもわれる部分はあまり使わないで、もっと骨格となる部分の理論を使っています。
 西欧の理論を借りてこないとすれば、日本語から独自の言語理論を築く以外にありません。現在、言葉の問題として大きく引っかかってくるところです。

            (P111−P113)


B 日本の言葉は、まだわかっていない部分が多くあるので確定的なことはいえませんが、少なくともふたつの大きな層があるとかんがえられます。大ざっぱにいうとひとつは旧日本語の層、もうひとつは新日本語の層です。
 旧日本語は、奈良朝以前に日本列島に住んでいた人たちの言葉です。新日本語は、奈良朝以降に新しい文明と一緒に入ってきた言葉です。つまり現在の日本人は、奈良朝以前からいた旧日本人と、奈良朝以降にやってきた新日本人との混血だということです。現在の日本語は、旧日本語と新日本語が混ざり合って、どちらとも違う言葉になったものだとかんがえられます。


C ・・・・・多くの学者がさまざまな地域の言葉に似ていると主張していますが、どれひとつとして確定的な説はありません。別な言い方をすれば、どれにも似ていないことになります。本来的にいえば、ある言語は近隣の言葉に似ているはずですが、いまの段階では、どれにも似ていないといったほうがよいわけです。
 
どれにも似ていない理由はふたつあります。
 ひとつは現在の日本語が、旧日本語と新日本語が融合しているので、もとの形がわからないためです。もとのふたつに戻せるなら、近隣の言葉と似ているか似ていないかを判断できますが、もとに戻すこと自体が困難ですから、どれに似ているともいえないのです。
 もうひとつの理由は、旧日本語がどこと似ている言葉で、いつごろのどんな言葉か、不確定な部分があることです。
 たとえば、アイヌ語は北方の人の言葉であるか、南方の人の言葉であるか確定できていません。・・・・(略)・・・・しかし、比較的妥当とおもわれる言語学者によれば、アイヌ語は南方の言葉です。


 たとえば、琉球沖縄語は南の言葉だとおもわれますが、これもすこしあやしいところがあります。存外、北の言葉かもしれませんから確定的にはいえませんが、日本列島の南端に住んでいるのだから、琉球沖縄語を南の言葉だとかんがえますと、琉球沖縄語と本土の言葉はまず類縁関係にあります。つまり、どちらも似ている言葉で、時代をさかのぼれば同じ言葉だといってよいでしょう。

 ・・・・琉球沖縄語は
逆語序であり、逆語序は正語序よりも古い時代のものだと折口信夫【註.「日琉語族論」】はかんがえたわけです。このばあいの古いとは、奈良朝以前を意味します。たとえば本土語で「小橋」は小さな橋のことです。琉球沖縄語では「橋小」【ルビ はしぐわ】といいます。
 琉球の『おもろさうし』という歌謡集は、十二〜十三世紀ころにつくられたとおもいます。日本の奈良朝時代は、琉球の発達度では十二〜十三世紀に該当し、そのころに編まれた歌謡集ですから、古い時代の言葉や言いまわしがたくさん残っています。奈良朝以降の日本の古典『古事記』『万葉集』などには残っていない言いまわしがいくつもみられるのですが、そのひとつが逆語序です。
            (P114−P120)


D インド−ヨーロッパ語抽象的な言いまわしが得意で、論理的なことをかんがえるにはインド−ヨーロッパ語がよく使われてきました。日本語を含むオーストロネシア語は、抽象的なことをいうには不便で、具象的なことをいうには便利です。なぜそうなったのでしょうか。
 ぼくらの唯一の解釈は、言葉の発達には具象的なことでしかあらわせない段階があり、
何かしらの契機によって、オーストロネシア語全般はそこで長期間にわたって停滞して、民族語の特色になってあらわれたということです。では、インド−ヨーロッパ語ではどうしてそれがなかったのか。ぼくの理解では、具体的なことであらわす段階はあったけれども、何かしらの契機で速やかにその段階を通過していったということです。
 これは誤解の起こりやすい問題です。たとえば、類人猿の頭蓋骨は横からみると長く、南アフリカ人の頭蓋骨は鼻の部分があまり出ていなくて、ヨーロッパ人は鼻の骨が出っ張っている。それは発達の過程で徐々に鼻の部分が出っ張ってきたのだと、かなり優秀な考古学者でも信じています。そう誤解しやすいけれども、鼻の低い高いは発達の段階とあまり関係はなく、知恵のあるなしとも関係はないのです。人種的特色は、発達のどの段階で停滞し、それが特色となったかというだけです。・・・・(略)・・・

 オーストロネシア語が具体性のある言葉を得意とし、インド−ヨーロッパ語が抽象的なことが得意になったという問題は、それと同じです。
 ただ、オーストロネシア人は論理的な抽象語が苦手だったから、抽象的な学問があまり発達しなかったとはいえるだろうとおもいます。・・・・(略)・・・

 しかし、どちらが発達しているかという問題は別の話です。美的なものをつくることが
人類の文化がめざす最後の目的だとすれば、日本人は決しておくれているわけではありません。しすし「二たす二はどうして四になるのか」をかんがえることが文明発達の果てだかんがえれば、いまでも相当おくれをとっているとはいえそうです。 
            (P124−P127)


  註. 「オーストロネシア語」(P122)「一般的に南島語、ネシア語といわれる言葉を話す地域、ポリネシア、ミクロネシア、メラネシア、インドネシアと東南アジアとの中間にある島(ネシア)全体を合わせるとオーストロネシア語群になります。オーストロは「南の」ですから、「南の島の言葉」という意味になります。琉球沖縄も含まれ、もしかすると旧日本列島もふくまれるかもしれません。」


項目抜粋
2
E 旧日本語には抽象的なことをあらわす言葉がなくて、「あいつはわるいやつだ」というには「腹黒い」という言い方をするよりほかにありませんでした。いまの感覚ではメタファーになりますが、メタファーとは違います。そうとしかいえなかった。その段階からきた特色だとかんがえるのがよいとおもいます。
 萩原朔太郎以降、近代詩に大才をもつ詩人はあまりいませんが、その偉大でない詩人たちが苦心をかさねて、現在の日本語表現で効果的なメタファーをつくりました。一生懸命にいろいろな方面からつついてみて、イメージがよくわくようなメタファーをつくってきたわけです。
 けれども、国文学の最初はメタフォリカルな言い方しかなかったのです。これも、折口信夫がある程度洞察しています。
日本の詩歌の起こりでは、何かを伝えるためには自然物を描写する以外になかったのです。・・・・(略)・・・

 【狭井川よ 雲立ちわたり 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かんとす (『古事記』 歌謡二一) の引用】

F ほくらが神話を読むばあいは、自然を描写した比喩で何かを物語っているように読んでいますが、おそらく当時の人は逆です。自然を描写する以外に、「あいつは陰謀でおまえを殺そうとしているぞ」という言い方はなかったとかんがえるのが正しいとおもいます。
 ですから、ぼくもその端くれですが、萩原朔太郎以降の新しい詩人たちが一生懸命に方々からつついてきたので、「こういうメタファーの使い方が現在の日本ではいいんだぜ」というのをだいたい確定しています。しかし、まったく新しい言語表現というわけではありません。日本語の詩の言いまわしは、はじめはすべてメタファーでした。意味をじかにいう抒情詩はあとから出てきたのです。
 メタファーは最も新しい日本語の言語表現であると同時に、最も古い日本語の言語表現であったということになります。抽象的なことを伝えるために具象物をもってくるという日本語の特色は、広くいえばオーストロネシア的な言葉、つまり古い日本語の大きな特色だということができます。
            (P128−P131)




備考 註.1   @「個人における胎児期後半から一歳未満までの状態は、人類の歴史でいえば、野蛮や未開のような未明の社会や原始社会の段階に対応します。人間が言葉をはじめて獲得した時期や、そのすこしあとの状態とパラレルにかんがえることができます。言葉がまだ民族語にわかれていないか、民族語にわかれたばかりの段階です。」・・・・この「対応」について

註.2   A「何かしらの契機によって、オーストロネシア語全般はそこで長期間にわたって停滞して」・・・・その「契機」について




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