Part 1
心とは何か
       ―心的現象論入門


  弓立社 2001/6/15 発行


 

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受け身 「受け身」の精神病理について
「受け身」の精神病理について












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受け身 うけみ 「受け身」の精神病理について
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生涯でだれでも受け身だった時期 共同体の歴史の段階と対応づける
項目抜粋
1
@ ぼく自身も物事にたいして受け身なんです.個々の人間の生涯でだれでも受け身だった時期は、胎児だった時と乳児だった時です。つまり母親のお乳を飲んでいた時は、どんな人にとっても受け身だった時期なわけです。
 そうすると、受け身の人の一種の病像というのは、母親のお乳がなければ栄養が摂れないで死んでしまうとか、排便の始末ができない、歩くこともできないからあらゆる生活ができないという乳胎児の時期といちばん関連づけやすいと、どうしてもかんがえられます。
 この受け身の乳胎児の人間は、いずれにせよ受け身である以外に方法がないわけです。これをエロス的(性的)にいいますと、たとえ男の乳児だろうと女の乳児だろうと、母親にたいしてはどうしても女性的な時期なのです。その時、母親は女性ですけど同時にきわめて積極的です。ある意味では、エロス的には男性の役割をしているといえます。
 この時の受け身の中に―処遇のされ方の中に―さまざまな問題があるということ、まず第一に人間だれでも生まれたこの時期の、止むをえざる過失というものが、そこいら辺にあるのだとおもわれるのです。


 いずれにせよ、一見すると乳胎児期の母親との関係とは全くつながらない、現在のさまざまな事柄にぶつかったとことを契機にして、社会的人間関係の中での錯綜があって、病像をしぶんで手に入れています。そういう人が大部分ですけど、しかしぼくは「受け身」の病像という乳胎児期と関わりが深いとかんがえます。乳胎児期における病像の獲得の仕方、つまりじぶんが無意識に獲得してしまったその仕方と、その時の社会情勢で挫折感を持ったとかある傷を負ったという事件にぶつかって病像を獲得したということとの間には、いったいどういう関係があるのかということが、ぼくにとってはたいへん関心のある事柄になりました。
            (P7−P9)

A ・・・・・・・乳胎児期の母親との関係の仕方と、じぶんが長じて社会的挫折感みたいなものを受けることを契機にして病像を獲得する仕方とは、どうしても関係があるとしかおもえないのです。
 それをどうかんがえたら関係づけられるのだろうか?ぼくがかんがえたことは結局、子どもの時の母親との授乳接触の仕方の失敗と、現在の社会的な行動の中での挫折が病気の病像を獲得することと関係があるとすれば、その受け身になった人が、じぶんの心の深層のところでは、両方を同じものとしてしまっていて、その人の心の中では、二つは決して別のものじゃないというふうになっているんじゃないかとおもえるのです。
 それは同時に、母親との接触の仕方を乳胎児期に受け身の形でやった時期というものが、人間の社会の歴史とか、共同体の歴史と対応づけられるんじゃないか。そうすれば解りやすいんじゃないかとかんがえました。
 つまり、病像をじぶんが手に入れてしまった人たちの心の奥の底のほうで、社会的な行動や生活の挫折と、母親の乳胎児期の接触の仕方の挫折とは一緒になって同一視されているとすれば、逆に共同体がある段階にあった時と、人間が乳胎児期に受け身の形でお乳を飲ませてもらったり、おむつを替えてもらったりした時期とを関連づけることができるんじゃないかとおもうのです。
 そういう時期を、人間の歴史、共同体の歴史の段階と
対応づけるとすれば、氏族の共同体が原始共同体と古代的共同体の半ば頃から始まります。氏族の共同体はそのメンバーにたいして他の氏族の共同体の人と婚姻をしてはいけないという禁制が設けられた段階があります。氏族の内婚制という段階です。この時期に対応づけやすいとかんがえるわけです。氏族内婚制のばあい、そのメンバーは共同体の決めた内部の女性としか結婚することができません。しかも、どの女性とでも結婚できるかというと、必ずしもそうじゃなくて、母方の親族とはいいんだけど父方の親族はいけないとか、さまざまな禁止があります。大雑把にいいますと、氏族の共同体の中のメンバーでなければ結婚してはいけないという禁制が、共同体によって設けられた時期です。・・・・(略)・・・
            (P10−P11)


項目抜粋
2
B 本当は何を意味しているかといいますと、氏族内婚制で、氏族の外の人と結婚したり、関係を結んだりすることが禁止されている段階では、外の共同体の男女と関係したときは、神様と関係したんだという以外にないのです。云い逃れる術がないわけです。そうしますと、神婚神話というのは、いずれにせよ氏族内婚制という強固な掟が敷かれていた時代の婚姻ということを物語っています。
 神婚制といいますか、神様と関係した人間が共同体の半分以上になってしまえば、その共同体の内婚制は崩壊してしまう。その次の段階の
氏族外婚制に入っていくわけです。
 いずれにせよ、共同体の歴史と個人の精神的な歴史を対応づけるとすれば、氏族内婚制の時代の共同体の段階と対応づけやすいとかんがえられます。
その時代には、氏族内婚というのはもちろんですけど、その中で近親婚の禁制がまだ半分ぐらいしか通用しない段階だということができます。
 そうすると、ここでバイセクシュアルといいましょうか、両性具有的で、近親の兄弟姉妹や親と子というような関係がまだタブーになっていないところがあり、それが逆に氏族内婚制を支えていた面があります。この時代の男・女には、近親相姦的な性的傾向が、同時にあったとかんがえることができます。


C フロイトは
パラノイアの特徴についてとても鮮やかなことを云っています。パラノイアにかかる人―乳胎児期の母親との接触の失敗、つまり男であれ女であれ女性的であった時代、受け身であった時代に障害がある人間がかかりやすい―の病像の一つに必ず同性愛的傾向がつきまとうということを、シュレーバーの症例で詳細に述べています。
 このことについても、精神医学者の中には否定する人もいます。これはいわば精神の現象というふうにみますと、たいへん解りやすくて、鮮やかなもんだなと感じさせるフロイトのいちばんみごとな点だとぼくにはおもわれます。つまり、男性でも女性でも同性愛的傾向というのが、どうして生ずるのか。例えばシュレーバーの症例の記述の中で、男なんですけど、女性になって神様と性行為をしたみたいな幻覚を抱くところがあります。なぜそういうことになりやすいのかといいますと、たぶん近親婚があまり禁止になっていないということ、それから氏族内婚制時代の外の人と結婚したときには、男じゃない見知らぬ神様がやってきて性的関係を結んだと弁解する以外になかった時代の病像を、フロイトはよく症例の中で分析しています。根本的にいいますと、そういう時代に障害感を与えられた人間がかかりやすい病像の一つは同性愛的傾向と関わりがあると指摘しています。ぼくはそのことに反対があったにしろ、それに関わりなく、たぶん共同体のある段階と精神的な病像のあり方を対応づけやすい考え方だとおもわれます。


D さまざまな社会的な人間関係の中での挫折とか衝撃とかによるある一つの病像の獲得のされ方は、個々の人にとっては、じぶんの生涯の乳胎児期と人間の歴史のある段階を同一視してしまう。だから社会的な行動とじぶんの性的な処遇のされ方とが同一だった時期に、じぶん自身の精神を退行させてしまうことが具体的な病像をうみだす。あるいは逆にその病像をじぶんが獲得することによって、じぶんの心を社会的な行動とじぶんの精神的な傷、無意識の傷が同じだった時期にまで還元してしまうことが原因なんだとかんがえますと、とてもかんがえやすいのです。そうしますと、学生運動での挫折とか、労働運動・社会運動の挫折とかが、どうして病気と関係するのか。そしてその病気はどうかんがえても本人が意識していない、あるいは意識できない時期における親あるいは親につぐ重要な人間との関わり方の中に根本的な原因があるとかんがえると、そこを説明するばあいに、とてもかんがえやすいとおもいます。

E 強引だと思われるかもしれませんが、人間が病像を獲得する第一次的要因になっている乳児・胎児という時代の母親あるいはそれに代わる重要な人間との接触の仕方の中に問題があるという考え方を
敷衍していって、どこまで敷衍できるかということをいろんな面でかんがえたいわけです。
            (P12−P15)



備考  




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受け身 うけみ 「受け身」の精神病理について
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1
F 人間の歴史の共同体の組まれ方、つまり婚姻というもの、セックス、エロスということが主ですけど、エロスを軸とした共同体のあり方の歴史とさまざまな病像に敷衍される人間の生涯の中のいわゆる無意識の中に入ってしまう乳胎児期以来の母親あるいは母親に代わるような人間との接触の仕方の対応を、できるだけ緻密にやってみたいととかんがえてきました。
       (P15−P16)

G 誕生を契機にして、赤ちゃんは母親との接触が始まります。お乳をもらわなければ死んでしまう。お乳をもらうことにたいして、赤ちゃんは受け身のまそれをいただいています。ところが、赤ちゃんのお乳のいただき方は、赤ちゃんのほうからはいただく他に術がないわけです。母親はさまざまなおもいをしながら授乳しています。・・・・(略)・・・
 つまり赤ちゃんのほうには一つの態度しかないのですが、母親のほうの態度は千差万別でして、これをお乳をやるという一つの行為の中に全部こめているのです。ですから、この行為は母親のほうからいえば、とても重層的で複雑なものであり得ます。そしてこれを受けとる乳児のほうは、受けとっていても意識してすることができないのです。
 これがやがて無意識の形成に大きな役割をするわけです。もっと大きくなってからも、決しておもいだすことはできないんです。・・・・(略)・・・母親だけしかそれは判らないのですが、しかしそこには大きな問題があります。さまざまな個性とか性格とかが形成される第一の要因があるとすれば、そこのところでまず始まるといえるからです。

 もう一つあります。誕生したばかりの時は、自我といいますか、じぶんというものはあまり外界との区別がついていません。ところが授乳期は、母親のお乳を飲みながら、じぶんとじぶん以外の外部というものがあるんだということを、朧気ながらだんだんじぶんの中でかためてゆく時期です。
この時期はたぶん人間の共同体の社会的な歴史の中で、対応する段階があります。この段階は、未開の共同体以前からほんのちょっとだけ進んでいるところを想定すればいいんで、共同体の意志とそのメンバーの意志がまだ矛盾や分離をきたすことがなく、個人の側から共同体に対して違和感を持つことがない段階を想定すればいいとおもいます。


H その誕生の時期をすぎて、つぎにどんな時期を想定すればいいかというと、幼児期だとおもいます。幼児という時期は特別なことがないようにおもいますけど、しかしただ母親のオッパイを対象としただけでも、まださまざまな態度がありうるとおもいます。・・・・(略)・・・そういう意味あいで、乳児が母親にたいしてさまざまな反応ができるようになった時です。じぶんが満足すると母親も満足している。母親が満足しているとじぶんも満足するということの中に、たぶんこのような体験がどこかに挟まっていて、それが作用して一種の
察知の能力みたいなものが形成される。そこでの母親とじぶんとの心的な交流の中に、ツーカーで通ずる感じを獲得するんだとおもいます。

 この段階をどういうふうに越える【ママ】かというと、たぶん共同体と個々のメンバーとが別なんだ、つまり


       (P16−P     )


項目抜粋
2
備考




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言 質 げ つ 第 性
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1
項目抜粋
2
備考  




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言 質 げ しつ 第 性
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1
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2
備考




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言  げ つ 第 詞
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1
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2
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言 質 げん つ 第 品詞
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1


項目抜粋
2



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