Part 1
心的現象論序説

  北洋社 1971.09/30発行



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方法 T 心的世界の叙述
<心>と<身体>とのあいだ T 心的世界の叙述
フロイド T 心的世界の叙述
フロイド T 心的世界の叙述
フロイド T 心的世界の叙述
フロイド T 心的世界の叙述
フロイド T 心的世界の叙述












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方法 ほうほう T 心的世界の叙述
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心的現象は自体としてあつかいうるか <心的>という概念
項目抜粋
1

【1 心的現象は自体としてあつかいうるか】

@心的なおおくの現象が、それ自体としてあつかいうるという根拠は、ひとつには、どんな要因を想定できるとしても、心的現象がかならず個体をおとずれる点にもっとも簡単にもとめられる。いいかえれば、これこれの外界の出来ごとの結果であっても、あるいは自身の生理過程の結果であったとしても、個体はなお<じぶんがいまこう心でおもっていることをたれも知らないし、また、たれも理解することはできない>という心的状態になることができる。このことは、いずれにしても個体の心的な過程が、じぶんじしんの心的な過程や生理過程とじかに関係していることがありうるというかんがえ方を成立させるようにおもわれるからである。そうだとすればこのような心的状態は、すくなくとも瞬間的にはひとつの独立した<世界>としてあつかうことを強いられるといってよい。もうひとつは個体のうちに<異常>または<病的>とかんがえられる心的な現象があらわれることを、外からみて疑いえない点にある。 (P8)

A心的な現象が、現実的な現象であることをもっともよく象徴するのは、それが<病的>あるいは<異常>な行動となってあらわれるときである。しかし心的な現象が、その内部でたんなる現実的な現象、たとえば樹木が風に揺いでいるとか、人が都市のビルディングのあいだを歩み去っていくとかいう現象とちがうのは、それが同時に可視的でない構造的な現象でありうるという点にある。   (P9)

Bそして、いったん、わたしが樹木が風に揺いでいるのを<視る>とき、それは自然の現象を器官的に反映しているのではなく、構造としてみており、この構造としてみるという特性のなかで、風に揺いでいる樹木は、自然の空間−時間そのものでなく個体に固有の空間−時間によって変えられて受容されている。・・・・わたしたちは、たんに樹木が風に揺いでいるのを視るばあいでも、視ることに、あるまつわりつくものをこめており、このまつわりつくものは、記憶の喚起であっても、事件の情景であっても、現に存在する葛藤であっても、心的現象に固有な構造にその根拠をおいている。  (P10)


項目抜粋
2

Cわたしはここで<心的>という言葉がなにを意味するかをはっきりさせておきたい。

 ここでいう<心的>という概念が<意識>にたいしてもっている位相は、あたかも<思想>という概念が<理念>にたいしてもっている位相のようなものである。<思想>という言葉が包括するものは、確定した抽象的な層まで抽出すると<理念>にまで結晶しうるが、また日常の生活の水準では、たとえば魚屋が魚をよりおおい儲けで販るにはどうすればよいかというようなことをかんがえたすえ、体験的に蓄積した判断のひろがりのようなものをもふくんでいる。それは、いわば魚屋の内部で<思想>を形成する。おなじように、わたしが<心的>というとき上層では<意識>そのものを意味するが、下層では情動やまつわりつく心的雰囲気をもふくんでいる。

・・・・さしあたって、<心的>という概念は、けっして<意識>そのものを意味するものではないことを、はっきりさせておけばいいとかんがえる。   (P10-P11)


備考

註1.「マルクスの<自然>哲学の触れなかった領域というモチーフは『心的現象論』のところで露わになったとおもいます。『共同幻想論』を進めていたときには、私的なニュアンスの部分をのぞいてしまうと、マルクスの<自然>哲学とそれを基盤とする<自己疎外>の概念が、むしろ論の根本に敷かれています。(P145)」

  (『世界認識の方法』-表現概念としての疎外)




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<心>と<身体>とのあいだ こころとしんたいのあいだ T 心的世界の叙述
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1

2 心的な内容】

@人間の心的な世界のなかには、みずからの作用や異常を、身体的異常によって意味づけることを拒否する世界を包括していることはたしかであり、また、人間が人間であるという意味のなかに、あきらかにこの拒否によって他の動物と区別される根拠がおかれていることは確からしくおもわれる。人間が動物的でありうる部分は、ふつう観念論がかんがえているよりもはるかに徹底して動物性とかんがえるべきであろう。しかし、それにもかかわらず存在しうる心的な余剰の絶対性を人間的本質としてみなすべきである。この部分では、心的な異常は身体的な異常とあるたどることのできる過程をつうじて対応しているということができない。<心>と<身体>とのあいだはもっとも非因果的な構造によって媒介されてはじめて合理的である。 (P16)

項目抜粋
2
備考




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フロイド ふろいど T 心的世界の叙述
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原生的疎外
項目抜粋
1

【3 心的内容主義】

【註 フロイトにふれ、フロイトをたどりつつ】

@ここで心的内容主義とよぶものは、心的な世界が徹頭徹尾個体の中身からできており、またこの中身が人間の心の動きをかんがえるばあいの唯一の根源であるというかんがえ方のことをさしている。そしてこのばあいわたしはフロイドの体系をもっとも徹底したものとして想定している。(P19)

A・・・・かれの考察したところを記述してみることにする。

 フロイドにあるもっとも原理的な問題意識は、類としての人間が、世代をつうじて<永続>的に行きつづけるのに、種としての人間は、なぜ死ぬか、という問いにあった。この問いは貴重なものである。この問いは、類としての人間の心的内容は遺伝と心的な影響(親と子の)によって、世代をつうじて<永続>するのに、個体としての心的内容はなぜ死ぬかという問いをはらんでいる。・・・・

 このような人間の<死>と<永続>のうちで、心的内容にとって重要なのは、つぎのような点である。

 (1) 個体の生誕から死にいたるまでの心的内容の過程は、どうなっているか?

 (2) 生殖行為とは、心的現象にとしてはなにをいみするのか?

 (3) 個体の生誕から青年期にいたるまでの親(またはその代理者)との接触の仕方と影響は、子(また    はその代理者)にとって心的になにをいみするか?

 (4) 人間にとって個体の<死>と類としての<永続>とは、心的になにを意味するか?

 (4) 個体の生誕から死にいたる過程は、人間の類としての<永続>の過程をも二重底のようにそのま    まもっているのではないか?

 このような諸点からみちびき出される命題は多岐にわたっている。

 まず、生命体(生物)は、それが高等であれ原生的であれ、ただ生命体であるという存在自体によって無機的自然にたいしてひとつの異和をなしている。この異和を仮りに原生的疎外と呼んでおけば、生命体はアメーバから人間にいたるまで、ただ生命体であるという理由で、原生的疎外の領域をもっており、したがってこの疎外の打消しとして存在している。この原生的疎外はフロイドの概念では生命衝動(雰囲気をも含めた広義の性衝動)であり、この疎外の打消しは無機的自然への復帰の衝動、いいかえれば死の本能であるとかんがえられている。


項目抜粋
2

このいずれの意味でも生命体は、外側を無機的自然に開き、内側を<身体>に開くひとつの混沌とした心的領域を形成している。たとえば、原生動物ではこの心的領域は、心的というよりも、たんに外界への触知にともなう無定形な反射運動にすぎないが、人間では心的領域といいうる不可触のあるひろがりをもった領域を形成している。フロイドが<エス>と名づけたものは、この原生的な疎外の心的内容であるとかんがえられる。 (P19-P21)

B<エス>をこれだけ実体あるものとして想定することは、ある意味で観念的な踏みはずしである。もともとそれ自体としては実証しえない領域のようにおもわれるからである。しかし、フロイドはあきらかに深部意識の奥をもうけることが、かれの体系にとって便利だからという理由で<エス>を設定してはいない。かれにとってまさに実在のように疑いようのない心的構造として想定されている。

 生命体が、生命体という存在であるということ自体から、いいかえれば存在するということ自体によって存在が影響されるという心的な現象を、もし人間が痕跡としてもっていると想定せざるをえないならば、フロイドの<エス>は、原生的な疎外の領域として考慮さるべきである。 (P23)


備考




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フロイド ふろいど T 心的世界の叙述
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<エス>領域の想定 フロイドの体系の欠点
項目抜粋
1

C人間が存在するということ自体が、その存在にとって心的世界をあたえるという領域をかんがえざるをえないばあいには、<エス>を想定することはすでになにものかを意味している。この意味を実体としてとりだすことはできない。なぜならば、存在すること自体(の心的現象)だからである。時間−空間をかんがえることもできず、因果律も、可逆的なまた不可逆的な心的過程も想定することはできない。なぜなら存在すること自体の心的な反映であり、生命体が生命体であるという理由自体だからである。

 フロイドの体系的な特徴は、このような<エス>領域を、単純に、身体における内分泌系、あるいは体液系の機能と対応させなかった点にあるということができる。かれは神経症反応における他者と自己との一対一での対置の過程において、<エス>領域の存在を確信し、おそらくこの対置が一対一のばあい以外にはその存在を確信するまでにいたりえないということを洞察したのである。

 もし<エス>にともなう時間が、実体として想定されるようならば、ただ個体が存在する(いいかえれば個体の生誕と死)というばあいだけであるはずだが、このばあいでも空間は想定されない。個体の存在の心的な反映はどのような空間をも残さないからである。つねに現在でありながら滞留することができない。しかし、人間の存在は心的現象としての<性>が<身体>にあたえる反作用によって生理的な性行為をうながし、これが個体の死をこえて次の世代の<身体>に相続され、それはふたたび心的現象にかえるという迂回した路をとおって<永続>化されるとみてよい。この意味で<エス>にともなう幻想的時間は<永続>的なものである。フロイドの<エス>は<身体>として断続的であり、幻想的な時間として<永続>的であるという理由で、ひとつの心的矛盾の現象としてのみ想定される。  (P24)

D<エス>領域をひとつの心的な雰囲気として、その内部に<自我>が想定される。<自我>の尖端は知覚として外界にひらいており、ここに<意識>の問題があらわれる。<意識>はだから意識された現実の構造であるが、それが<自我>のすべてではない。意識された現実は<自我>の内部では、ある代理以外によっては表現されない領域をもっている。これを<無意識>領域とよぶ。そしてこの代理作用は一定の原則を想定しうるがゆえに<無意識>は、ある種のホン訳の手続をへて<意識>のもんだいに移しかえて確認することができる。

 なぜ、意識された現実は、ある心的な領域では代理によってしか表現されないのだろうか?

 フロイドは、神経症の症候と夢の解析からこの領域の存在と代理の性格を確定した。 (P24)



項目抜粋
2

Eもしも、あらゆる心的現象の動因が、個体に還元しうるならば、フロイドの心的内容主義は、個体における観念的な疎外論としての真理をもっているようにおもわれる。・・・・そして、フロイドの個体の幻想的な疎外論は、男女の一対、あるいはそれを基底とする家族の共同性という範疇の内部では、おおくの真理をみちびきだしている。そして、フロイドの体系の欠点は、社会をその現実において考察し、それを心的内容に繰り込みえなかったということではなく、社会における幻想的共同性が、家族あるいは一対の男女における幻想対の表出と逆立するものであるということを洞察しなかったところにあった。  (P29)

Fフロイドの心的内容の構造は、神経症候の治療の過程で、おおくの臨床像をもとにしてかんがえぬかれ、しだいに明瞭に構成されていった。これに関与したのは、いつも患者と医師という一対一の関係である。そして、フロイドのつくりあげた心的内容のモデルは、一対一の関係以外からは、けっして覗いえないという本質的な特徴をもっている。・・・・フロイドの心的なモデルと考察が、一種の秘教と見做されやすい理由はこの点にある。  (P30)


備考





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1

【4 <エス>はなぜ人間的構造となるか】

Gフロイドの<エス>が自然にたいする異和がもたらす有機体の原生的な疎外の領域とかんがえられるならば、原生動物から脊椎動物まで進化してゆくとき、原生的な疎外はどうちがってゆくのか?さらに哺乳類と人間とをへだてる原生的疎外の構造のちがいはなにによってきまってくるのか?そしてさいごに、人間の原生的疎外の構造はなにによって決定されるのか?

 フロイドの心的なモデルは、この問いにたいして確定した回答あたえた。それは心的な領域を徹底的に生物体としての<身体>へ還元することによってえられたものであったが、・・・・

Hわかりやすくするため、単純化をおそれなければ、フロイドは、人間が生物体として胎外に(つまり外界に)でるまでの10ヶ月余のあいだに、原生動物からもっとも高度な哺乳動物にいたる系統的な全進化の過程をすばやくとおるとかんがえた。つぎに、胎外にでた乳幼児から、青春期までにいたる過程で、人類史がはじまって以来、人間が体験してきた生物体と精神体としての全過程をとおるとかんがえた。生物体としての完成は、はじめの数年にほぼ完了するが、生物体と精神体との複合としての身体の完成は青春期までを必要とする。青春期にいたって、人間ははじめて生物体として完成されるとともに、そのことによって<身体>と現実的環界の双方から疎外された原生的疎外の領域を自己分離し、確定することになる。 (P30-P31)

Iわたしたちはここでフロイドの体系について、どんな問題に当面しているのであろうか?

 人間の存在を、胎児から青春期までの生理的なまたは心的な発展過程としてみるとき、フロイドの考察は真を記述しているようにみえる。しかし、かくして発展した人間の存在を、逆にその過程に還元して考察しようとすれば不可能であるという矛盾に当面するほかはない。わかりやすくしえば、BはAに由来するものであるが、BはAに遡行することができないという問題につきあたっている。

 この矛盾は、フロイドの考察が、いわば個体の心的なあるいは生理的な発展過程を、<リビドー>に永続還元することによって成立するものであるにもかかわらず、個体は各瞬間、各時期ごとに発展と断絶した飛躍との錯合する構造的な存在でしかありえないという点に由来している。 (P34-P35)

項目抜粋
2

J人間の原生的に疎外された心的な領域を、他の一切の高等動物とへだてている特質は、心的な領域をもつこと自体ではなく、心的な領域をもつという心的な領域をもっている(精神を精神する)点にもとめられる。フロイドが<エス>と名づけた心的領域は、あるばあいに<意識>にたいする<無意識>、<認識>にたいする<衝動>のような意味につかわれているが、フロイド自身の混乱は、人間の存在を発生史的な存在とみたばあいと、現に解析している対象存在としてみたばあいとの不可逆性を、その考定のなかに入れなかったところからきている。 (P34-P35)

K人間はずっと以前には、たんなる動物のひとつの種族であった。この種族は天然である<自然>や生物体である<自然>との長い間の代謝をへて<言葉>を<言葉>として、おなじ種族の他の動物や、ひとつの動物であるじぶんの<身体>からとりだすことによって、ある特殊な位置を占めるようになった。しかし人間がそうなってからも動物のひとつの種族であることにはかわりない。しかし、この種族は自身や他の種族や<自然>を考察することができるゆいつの種族である。そしてこの考察は動物のひとつの種族に属するという位相からはなしえず、逆に観念を行使するものという位相からのみなしうるとともに、この観念なるものは台座としてのじぶんの動物性なしには独在できないという不可逆性を、いいかえれば矛盾をもった存在である。そこで、人間にたいするどんな考定も、ひとつの方向に還元することはできない。 (P35)  【註 「考定」?】

備考




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1

【5 新しいフロイド批判の立場について】

L人間を生物の発生史としてみたばあい了解可能とみなされる心的な領域は、いったん現にいま存在している人間がもっている心的領域としてみるやいなや、過去からの続きとして解析することができなくなるという不可逆性を、不断の<リビドー>(広義の生命)への永続還元によって解析可能なものとみなすフロイドの体系に、もっとも本質的な批判をくわえているのは、知見のおよぶ範囲でいえば、『精神病理学総論』におけるヤスパースと、『精神分裂病』におけるビンスワンガーであるとかんがえられる。(P36)

Mビンスワンガーが、「エスとは現存在を客観化してしまうところの学問的産物」とよぶとき、じつは、フロイドが神経症と夢の解析から、現に確実に存在するものと信じた<エス>の心的な領域が、発生可能であるにもかかわらず遡行不可能であるという矛盾として存在していることを指摘したかったにちがいない。<エス>を「衝動の貯水池」として、原生的に遡行しうる領域とかんがえたとき、フロイドは本来対象化しようとすればかならず一方向に歪めてしか客観化されない心的領域を、あたかも総体のようにかんがえたことはたしかだからだ。ビンスワンガーの批判は、もとより人間の存在を、現に存在する有意味的な世界内の綜合であるとする徹底的な形式主義によってはじめて可能である。 (P38-P39)

Nこの批判【註 ビンスワンガーのフロイド批判】は、フロイドの心的なモデルの古典的な性格、静的な決定論、それから心的な世界としての人間の存在を、ありもしない歴史的な過去のつみかさねられた凝縮物としてみるという観念性を破壊することに役立っている。また、人間の心的な現象を、還元なしに解析するという概念の水準をはじめて確定した。しかし、現存在は、たんに現に、存在するものではなく、生誕と死にはさまれた曲線によって存在するという二重性をもつことを無視するものである。不死である現存在は無機的自然そのものであり、有機的生命体はこの不死と死との二重性にはさまれて現に存在しており、これこそがあらゆる生物体に原生的な疎外の心的領域をあたえる根拠であることは、ビンスワンガーが、その現存在分析において逸したところであるといえる。 (P40-P41)


項目抜粋
2

Oたとえば、フロイドによれば、<不安>の概念は、まず胎生的には、分娩によって母胎から離れることの不安、いいかえれば胎内からはじめて外界にあらわれたときの胎児の不安に、回帰的に反覆されるものである。 (P42)

Pフロイドによれば、個体が心的に<異常>または<病的>な過程をたどるためには、精神が内発的なリビドー(広義の性)の奔騰を制御できないときにかぎられる。このとき<不安>は<病的>あるいは<異常>な不安となってあらわれる(不安神経症)。いいかえれば、<不安>は心的な現象としての<性>が媒介することによって、はじめて恒常的な<不安>(病的な不安)となってあらわれ、外的な現実によりこうむる<不安>は、なんらかの意味で一過的であり、したがって<病的>あるいは<異常>とはなりえない。いいかえれば、フロイドは<素質>という概念を解体して、個体におけるリビドーの発生史と、たんなる一過的な不安感情とに分離したのである。

 このような、<不安>の理解が、ニーチェとキェルケゴールを思想上の始祖とするヤスパースによって受け入れられるはずはなかった。ニーチェにとってもキェルケゴールにとっても<不安>はきわめて倫理的な、いわば反自然の概念に属していたからである。(P43)


備考




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1

Qところで、わたしたちはヤスパースのフロイド批判の位相を肯定しない。人間の<身体>はひとつの<自然>であり、そのかぎりにおいて対象的客観性である。そして精神分析というときの<精神>の台座は、あきらかにこの対象的客観性である<身体>である。だが、フロイドが無造作であったのとちがって、<精神>は台座である<身体>とはちがった<自然>である現実的環界の関数である。そしてこの関数は、フロイドのいう意味での<精神>の問題としては人間の個体とじぶん以外の他の個体、あるいは多数の共同存在としての人間との<関係>の関係である。そして残念なことに人間の<関係>の総体としてのこの世界は、フロイドが無造作にかんがえたほど等質ではなく、異なった位相の世界として存在している。そこではじめてフロイド批判がはじまるので、この批判は、現在の新しい立場からなされるフロイド批判のように簡単なものではない。  (P46-P47)


項目抜粋
2



備考




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