Part 2
心的現象論序説

  北洋社 1971.09/30発行



項目ID 項目 論名
原生的疎外 U 心的世界をどうとらえるか
心的領域の構造 U 心的世界をどうとらえるか
10 異常とは何か U 心的世界をどうとらえるか
11 異常とは何か U 心的世界をどうとらえるか
12 精神分裂病 U 心的世界をどうとらえるか
13 病的なもの U 心的世界をどうとらえるか
14 てんかん病の心的位相 U 心的世界をどうとらえるか












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原生的疎外 げんせいてきそがい U 心的世界をどうとらえるか
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項目抜粋
1

【1 原生的疎外の概念を前景へおしだすために】

@ビンスワンガーやヤスパースのフロイド批判は、生物体としての人間なくしてはあらゆる心的現象なしという意味では欠陥をあらわにしている。しかし、すべての心的現象が、生理(性生理から脳生理まで)現象に還元できるとはかぎらないという心的現象の本質をかんがえるときに正当さをもつといわねばならない。 (P48)

Aわたしたちは、いままで、フロイドの<エス>領域の世界を説明するのに、無意識という概念をつかわずに、原生的疎外という概念をつかってきた。なぜならば、人間の最初の心的な領域は生物体の<自然>(有機的あるいは無機的あるいは人工化された)にたいする対象的な行為によって、しかも対象的な行為を異和として受容することによって形成されたという意味で外的な<自然>とも、自己の<身体>としての<自然>とも異った領域とかんがえざるをえないからである。 (P49)

B人間の心的な領域がもつこの特異な構造はもっとも単純化していえば、つぎのようにいうことができる。

 心的な領域は、生物体の機構に還元される領域では、自己自身または自己と他者との一対一の関係しか成りたたない。また、生物体としての機構に還元されないは、幻想性としてしか自己自身あるいは外的現実と関係しえない。

 わたしたちが、フロイドの<エス>に類した心的存在性を原生的な疎外の心的な領域としてかんがえたとき、このような構造として存在する領域を意味している。  (P50)


項目抜粋
2
Cここでわたしたちは、原生的疎外の心的な領域という概念の有効性を検証しえているわけではない。また、実体性をもっていることを無造作に主張しようとしているのでもない。ただ、この概念によって人間の心的世界が、自己の<身体>の生理的な過程からおしだされた位相と現実的な環界からおしだされた位相との錯合としてあらわれること、そして、このふたつの位相は分離できないとしてもなお、混同すべきでない異質さをもっていることを明確にしめしうるものだとかんがえていることだけは確かである。   (51)


備考

 つまり外界の<自然>にたいして人間が働きかけるさいの対象とのあいだの<自己疎外>と、人間が観念として振舞ったとき、それ自体で起こる身体−人間の輪郭をもった<自然>ですね−とのあいだの<自己疎外>という、二重の契機がかんがえられなければいけないことが根底にあります。ここでいわれている<心的領域>というのは、環界と身体という二重の自然から<疎外>されて表出されてくるものとみなされています。

註1.「 もし人間の心的世界が人間の身体とそっくりおなじ形と働きをもっているとすれば<心的世界>はかんがえられないのですが、このふたつのあいだには必ずズレ【ズレ、に傍点】があります。このズレ【ズレ、に傍点】てしまう部分が<心的領域>として表出されてきます。これをかりに<原生的疎外>としてかんがえようではないか、まずそういうふうに前提してゆきました。…・

 高等であれ原生的であれ、生命体であること自体で、無機的自然と異和をなすものとして<原生的疎外>は設定されているのです。」(P155-P156)(『世界認識の方法』-表現概念としての〈疎外〉)




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心的領域の構造 しんてきりょういきのこうぞう U 心的世界をどうとらえるか
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1

【2 心的な領域をどう記述するか】

@心的な領域を、個体が外界と身体という二つの領域からおしだされた原生的な疎外の領域とみなすという了解からなにがみちびきだせるか。

 つぎの課題はどうしてもそうならざるをえない。いまのところ心的な領域はもやもやとした塊りであり、かろうじてその輪郭を判別できるだけである。そしてこの輪郭たるやどんなものでも観念の働きに属するかぎりはそのなかに包みこめるわけだから、そんなものはあってもなくてもおなじだとかんがえられても仕方がないのである。実在することが疑えないのは、いまのところ人間の<身体>と現実的な環界だけであり、観念の働きはなんらかの意味でこの二つの関数だということである。

 それには心的な領域をささえる基軸をみつけだすことが必要である。さしあたって、わたしたちはひとつの仮説をもうけることにする。その仮説は、

 生理体としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域の構造は、時間性によって(時間化の度合によって)抽出することができ、現実的な環界との関係としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域の構造は、空間性(空間化の度合)によって抽出することができる。ということである。 (P52-P53)

Aこの仮説は、つぎのようなことを意味する。

 たとえば、古典哲学が、<衝動>とか、<情緒>とか、<感情>とか、<心情>とか、<理性>とか、<悟性>とかよんでいるものを、身体から疎外された心的な領域としてかんがえるばあいには、それらは心的時間の度合とみなすことができるということである。たとえば、<衝動>とか<本能>とかよばれる心的な領域は、有機的自然に固有な時間と対応させることができる。<情緒>とか<心情>とかよばれるものは、もはや有機的自然の時間性と対応させることができないし、そこでは時間化度はより抽象され、この時間化度の抽象性は、<理性>とか、<悟性>とよばれるものでは、もっと高い。

 おなじように、心的な領域を現実的な環界との関係においてみるばあい、空間化の度合は、たとえば視覚的な領域では、対象となった<自然>の空間性とある対応をもうけることができるが、触覚のとりこむ空間性は、もはや対応というよりも接触とみなされる特異な空間性であり、また聴覚の空間性となると、その抽象性は高い、とかんがえることができる。 (P53-P54)


項目抜粋
2

Bこれを図示すれば第2図のようになる。ここで、A・B・C・D・Eという点をめぐるそれぞれの円環は、時間化と空間化の度合のちがった心的な働きであり、たとえばAを味覚や嗅覚のような知覚の領域とすれば、Eは視覚や聴覚のような心的作用であるし、またAを<衝動>とか<本能>とかの心的作用とすれば、Eは<悟性>とか<理性>とかいう心的作用の層面である。

 ところで、このようなモデルには説明が必要である。わたしたちがほんとうに構成したい心的なモデルは【第2図 心的領域のモデル】、心的現象として動的であり、しかも心的な構造として本質的なものであるはずだから。さしあたってここに提出されたモデルは静的であり、まったくおあつらえむきにつくられているといっておかなければならない。・・・・ただ、ここでは、心的な領域が時間性と空間性の抽出の度合がつくる層面として、構造的に了解されるということを示したにすぎない。 (P55-P56)


Cつぎに、このような心的なモデルは、個体としての人間の存在が、百年たらずのあいだに生誕と死にはさまれた時−空性の曲線をえがくという問題とどこでかかわるのだろうか?

 心的な領域の時間性の度合は、身体の成熟の完了する時期まで高まり、それ以後はゆるやかに減衰してゆくとかんがえられる。しかし、心的領域の空間性は、現実的な環界にはたらきかけることによってどこまでも抽出の度合を高め、かつひろげ、その結果、人間の<年齢>は心的な世界に錯合をくわえてゆくはずである。・・・・心的な領域としてみられた老化は、ゆるやかに減衰してゆく時間性と、どこまでも抽出度と錯合をましてゆく空間性との矛盾である。死は、それゆえ心的時間性の無機的自然の時間性への同化であり、同時に心的空間性の突然の切断であると解される。(第3図) (P56-P57)



備考

註1 「生理体としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域の構造は、時間性によって(時間化の度合によって)抽出することができ、現実的な環界との関係としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域の構造は、空間性(空間化の度合)によって抽出することができる。ということである。」「図の円錐状にしめされた心的領域は、無数の錯綜した時ー空性の構造としてかんがえるべきである。」

註2 いまのところ「無数の錯綜した時ー空性の構造」というのがよくわからない。





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10 異常とは何か いじょうとはなにか U 心的世界をどうとらえるか
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時間化の度合の<異常>あるいは<病的>ということ
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1

【3 異常または病的とはなにか】

@●もっとも通俗的な理解の仕方では、<日常生活>の反覆にさしつかうない程度に軽度であるか、あるいは一過的である心的現象を<正常>の範囲にいれ、すでに生活の反覆に支障がきたすほどの強さで持続する心的現象を<異常>または<病的>とよびならわされている。(P57)

●次に通俗的なものは、まえと逆に、個体を基軸にして<異常>または<病的>な心的現象を了解しようとする傾向である。たとえば、脳生理学的にあるいは神経生理学的に欠損のあるために生ずる心的な現象を外因性とよび、現実的環界から人間がうけとるものを心因性とよび、それ以外の身体的な素質によるとかんがえられるものを内因性とよぶたぐいである。しかしこのような区別の仕方はほとんど無意味にちかい。すでに心的現象を、身体と現実的環界との双方から疎外された領域とかんがえた段階では、どのような心的現象もその二相からの疎外の構造であるからだ。しかも、わたしたちは、心的な領域を身体生理的な原因、あるいは現実的環界からうけとる原因とみなしうるばあいも、それらに還元することは不可能である領域として設定したはずである。  (P58)


●これらの<異常>または<病的>な状態の心像の理解の仕方に欠陥があるとすれば、<異常>または<病的>な心的世界を、無条件に外部から了解可能とみなしている点にもとめられる。  (P61)


●わたしたちは、<異常>または<病的>な心の世界が、対象的な観察と類推からは了解できない独自の価値観、判断、衝動、感情によって構成されたそれ自体の世界をもっていることをみとめる。そうならば、対象的には評価が不可能であるから、内在的な基準から心的構造をささえる方法を見つけなければならない。…・


 個体の心的な世界は<身体>の生理や<環界>とのかかわりから、個体ごとに独自な構成をもっているため、どうしても対象的にはうかがい知れないところがうまれる。外からはうかがい知れないこの領域を包括する形で、生理と<環界>から生じながら、しかもそれ自体であるかのように挙動する心的世界の働きをとらえる基軸はありうるか?

 こういう問いにたいして、いままでの記述からわたしがこたえられるのは、つぎのようなことだけである。  (P62-P63)


項目抜粋
2

A心的な世界の<異常>あるいは<病的>というのは、身体からの疎外として心的領域をみる位相からは、時間化の度合の<異常>あるいは<病的>ということを意味する。たとえば、<衝動>とか<本能>とかが、それに固有な時間性であらわれずに、<感情>とか<理性>とかいうように高次の抽象度をもった時間性で出現したとき、あるいはこの逆に、感情>とか<理性>とかが<衝動>の時間化の度合で出現したとき、それは異常または病的とよばれる。

 おなじように、現実的環界からの疎外として心的領域をみたとき、たとえば<視覚>に固有な空間性が他の感覚、たとえば、<聴覚>に固有な空間性として出現したばあい、あるいはその逆であるようなばあいに<異常>または<病的>とよばれる。そして、じっさいの<異常>または<病的>な現象はこの両者の錯合としてあらわれる。

 もちろん時間化と空間化の障害は混合してあらわれるから、これの基軸で明確にとらえられるわけではない。しかし、漠然と個体の心的世界の働きは、外からはうかがいしれぬ部分をもつものだと称して安堵するよりも、はるかに根拠をもっているといえる。 (P63-P64)


備考




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11 異常とは何か いじょうとはなにか U 心的世界をどうとらえるか
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項目抜粋1

【4 異常と病的とは区別できるか】

B心的現象の<異常>と<病的>との区別と連関は、それを生理体(自然体)としての心的現象の<異常>と<病的>という概念に限定すれば、<神経症>と<精神病>との区別と連関に対応される。

 逆のいいかたをすれば、心的現象の<異常>と<病的>との区別は、ただちに<神経症>と<精神病>との区別を意味しない。

 ここで求めているのは、あくまでも心的現象としての<異常>と<病的>とを区別しうるか否かという課題である。いいかえれば、医学的または治療体系的に還元することなしに、心的現象の<異常>と<病的>とが区別されるか否かということである。 (P70-P71)

Cしかし、わたしたちが、いままで展開してきたところからは、心的現象の<異常>と<病的>とは、つぎのように区別される。

 心的現象の異常とは、心的な空間化度と時間化度の錯合した構造が、有機的自然体としての人間の時間性(生理的時間性)と現実的環界の空間性との一次的対応が喪われない心的異変としてかんがえられるものをさしている。

 心的現象の病的という概念は、すでに有機的自然体としての人間の時間性と現実的環界の空間性との双方からの心的対応性が喪われた心的異変として規定される。 (P72-P73)

Dわたしたちは、この相互規定性【P71-P72参照】を治療体系に還元する方法が歴史的に累積されたものを精神医学とよんでいる。そしてこの体系の妥当性は他者に伝達可能な歴史的累積に還元しえたという一点にかかっている。

 人間と人間とのあいだの直接的な関係にあらわれる心的な相互規定性は、このような生活史と精神史との歴史的な累積を、心的現象の時間化度と空間化度の錯合した構造としてしか保存できないし、この構造にしか他者に伝達可能な客観的な妥当性を見出しえない。そして、これが人間と人間とのあいだで、相互に他者を<異常>または<病的>と規定しうる唯一の根拠であるようにみえる。 (P76)


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2
備考




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12 精神分裂病 せいしんぶんれつびょう U 心的世界をどうとらえるか
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時間性と空間性の異化結合
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1

【5 心的現象としての精神分裂病】

@心的な世界を原生的な疎外の領域とみなすかんがえからは、一般的に、有機的自然体としての人間の時間性と、現実的環界の空間性との一次的対応を喪った心的領域にしか<病的>という概念をあたえられないことは、いままでみてきたとおりである。この時間性と空間性において第一次対応を喪った心的な領域はどんな構造をもちうるだろうか?

 現在までのわたしたちの考察の範囲では、このような心的な領域は、あらゆる時間性と空間性の異化結合が可能であるといいうるだけである。いいかえればどんな妄想もどんな対象的な表現も、どんな行動も、個々の<病的>な心(をもった人間)がつくりだす数だけ可能である。 (P76)

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2
備考




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13 病的なもの びょうてきなもの U 心的世界をどうとらえるか
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1

【6 心的現象としての病的なもの】

@そして、この不分明さ【註 なぜ少女ルネを分裂病としなければならないかという理由の】から、さきに心的現象としての<病的>という概念にあたえた規定にひとつの条件をつけようとするかんがえにみちびかれる。

 その条件は、ただつぎのようなことである。心的現象としての個体が、身体からの時間性の一次的対応と、環界からの空間性の一次的対応とを喪うということは、高次対応への移行および一次対応以前の原初対応への移行という二つの分極のいずれをも意味するもので、いずれか一極への志向性ではない。

 この条件にいくらかの説明をくわえれば、わたしたちが<病的>とかんがえてきた心的現象の現実的環界からの一次的対応の喪失という現象は、かならずしも時間性、空間性の二次対応以上への退行を意味するだけでなく、一次対応以前の原生的対応への奔出をも意味しうるということである。   (P88-P89)

Aわたしたちがいままで考察してきたように、心的現象を原生的な疎外の領域とみなすかんがえからは、分裂病概念は、さしあたってつぎのように要約される。

 一、心的世界の時間性と空間性が、身体および環界との一次的対応を喪失することである。いいかえれば心的世界の病的ということである。

 二、つぎに、一次的対応の高次対応への移行である。

 三、高次対応への移行が、心的世界の軸としての時間化度が高度化し、逆に、空間化度が退行する形で現れることである。

 四、最後に高度に異化したもっとも抽象性の高い固有時間化度へ、退行した空間化度が<引き寄せられること>である。

 わたしたちは、このような要約を、さしあたってとしなければならない。   (P91)


項目抜粋
2
備考




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14 てんかん病の心的位相 てんかん U 心的世界をどうとらえるか
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てんかん病の心的位相
項目抜粋
1

【7 ミンコフスキーの『精神分裂病』について】

@ミンコフスキーの基本的な立場は、精神病の概念について、体質因子をもとにして、その体質因子が現実的環界というべつの因子の働きによって病的過程にはいりこむものだというかんがえにつらぬかれている。それゆえ、あらゆる精神の病的概念は、現実的環界との接触の仕方に還元される。だからミンコフスキーによれば、分裂病は、現実との生きた接触の喪失にその本質があり、躁うつ病は、環界との永続的な接触の状態に本質があるとされる。    (P93)

Aそれゆえ、私たちの考察からは、てんかん病の心的位相は、心的現象としての時間化度の低下に結びついた空間化度が、ついに低下した時間化度の軸に<惹きつけ>られる現象として理解される。たとえば、ドストエフスキーが描いているように、古典哲学が<理性>とか<悟性>とか呼んでいる高度の時間化度が、きわめて低下した<衝動>とか<本能>とかに固有な時間化度であらわれ、これに環界との相互性から由来する空間性が<惹きつけ>られた状態である。この高度であるべき時間化度が、自然体としての<身体>の時間性にちかづくことが、ドストエフスキーの描いている発作寸前の心的状態の本質であり、また発作が一過的であるのも、この時間化度の低下と自然的時間性への接近という現象が永続することは、いわば自然体としての人間の死を意味するから、それ自体が生体にとって永続不可能だからという理由によっている。分裂病はその荒廃が生きた死体のように現象するのに、てんかん病の発作は生きた動物性のように現象する。それは時間化度の上昇と低下という両者の心的位相の相異にもとづいている。

 かくして、心的位相としての<病的>という概念は、図【註 第4図】のようにしめすことができる。

 図に対照としてかかれた<正常>な心的領域は、ただ理解の便のためにかりにえがいただけで、なにが心的な世界として<正常>かという根源的な問いに耐えようとするつもりはない。またいまの段階ではそれは不可能である。     (P98-P99)



項目抜粋
2
備考




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