Part 3
心的現象論序説

  北洋社 1971.09/30発行
 



項目ID 項目 論名
15 前提 V 心的世界の動態化
16 純粋疎外 V 心的世界の動態化
17 純粋疎外 V 心的世界の動態化
18 空間化度 V 心的世界の動態化
19 時間化度 V 心的世界の動態化
20 精神分裂病 V 心的世界の動態化
21 感官相互の位相 V 心的世界の動態化
22 感官相互の位相 V 心的世界の動態化
23 聴覚と視覚の特異性 V 心的世界の動態化
24 聴覚と視覚の特異性 V 心的世界の動態化
25 原生的疎外と純粋疎外の関係 V 心的世界の動態化
















項目ID 項目 よみがな 論名
15 前提 ぜんてい V 心的世界の動態化
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原生的疎外の概念に細部の像をあたえる問題 時間化度、空間化度の量的な差異とその錯合構造
項目抜粋
1

【1 前提】

@人間はなぜ心的な世界をもち、またそれに左右されることがあるか。それは人間が世界をもち、そのなかに<身体>としてあるからである。では、なぜ、人間は心的世界をうみだしたのか。それは、人間の<身体>が世界をもち、また世界のうちにあるということが、いずれにせよ人間に矛盾をあたえるということの表象としてである。それはいずれにせよ人間が現実に<身体>として、環界のなかに<ある>ということから発祥している。この心的な世界を原生的疎外の領域と名づけようとどうしようと、簡単に、人間は心の世界をもっているといっている以上にあまりでないことはたしかである。そのうえ、病的現象の理解のために適用してみると、素描以上のものを与えないことがわかる。そのうえなお明晰でないことは、時間化度、空間化度、一次対応、高次対応、初原対応といった概念を自明のことのようにつかっていることである。

 たとえてみれば、いままでの考察は、心的な世界に、墨で濃淡をぼかし染めした布に網の目のように時間化度と空間化度の交錯した線を引いたモデルをあたえたようなものである。ここで心的な領域のモデルを動態化することが必要だし、原生的疎外の概念に細部の像をあたえる問題に直面している。ただ、いままでの考察に取柄があるとすれば、心的な世界を人間の生理現象にも、現実的環界にも還元しえない不可避的な領域としてあつかってきたことである。このかんがえはこれからも固執するに価するとかんがえられる。   (P101-P102)

A●もしも、心的領域を原生的疎外とみなすならば、古典哲学が感性から理性へとはせのぼる意識内容とかんがえてきた段階的な区別はすべて無意味なものになり、それらは薄ぼけた境界をもった区別にしかすぎなくなる。感性とか理性とか悟性とかいう概念はそこでは明晰に存在しえない。  (P102)


項目抜粋
2

●それゆえ、心的領域を原生的疎外の領域とみなすわたしたちのかんがえからは、ただ時間化度と空間化度のちがいとしてしか<感性>とか<理性>とかいう語が意味するものは区別されない。わたしたちはこのことを是認する。しかし、これで終ったわけではなくはじまったばかりである。なぜならば、心的現象の質的な差異、たとえば精神医学でいう分裂病や躁うつ病やてんかん病はただ時間化度、空間化度の量的な差異とその錯合構造にしか還元されないことは、いままでみてきたとおりだからである。ここで<質>的な差異を感じさせるものがあるとすれば、ただ時間化度と空間化度の錯合構造という概念だけだが、この概念がなぜ<質>的な差異を意味しうるかについて、わたしたちはまだどんな根拠をも与えていない。  (P103)

Bあらためていうまでもなく、わたしたちは個体の幻想性についての一般理論が確定されれば、個個の具体的な人間がしめす心的現象を了解し、予見しうるはずだ、という観点にたっている。つまり、個々の心的現象について知らないほどには、人間の心一般の動きについて無智ではないという根拠にたっているわけだ。    (P103)


備考 註1.「あらためていうまでもなく、わたしたちは個体の幻想性についての一般理論が確定されれば、個個の具体的な人間がしめす心的現象を了解し、予見しうるはずだ、という観点にたっている。」




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16 純粋疎外 じゅんすいそがい V 心的世界の動態化
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構造的位相
項目抜粋
1

【2 原生的疎外と純粋疎外】

@<自然>としての人間の個体が存在しなければ、どのような心的現象も個体にともなって存在しえない、ということは実証のいらない自明の真理としては定立しえない。なぜならば、心的現象が存在するかいなか(あるいは心的現象が存在する)という命題は、心的現象が人間に存在するから命題を提起するのだという自同律的循環を前提として、はじめて定立されうるものである。ここでは、心的現象の内在的な領域は、あたかも幽霊が存在するかのように、それ自体で存在するかのような仮象を呈する。心的現象がそれ自体として幽霊のように存在することを嗤うべき観念論としてしりぞけることはできる。しかし、それでおわれば、嗤ったものは嗤われたものから復讐されるほかはない。なぜならば、これを観念論として嗤った心的領域を、かれはあたかも幽霊のように観念の仮象として存在する現存性の歴史からかすめとったものだからである。   (P104)

A●このようにして、心的現象としての灰皿は、視覚による知覚作用のはんい内で、純粋視覚ともいうべきものにまで結晶しうることがわかる。この<純粋視覚>は、対象とする灰皿と、対象的な視覚なしには不可能であるが、視覚のはんい内で対象と対象への加工のベクトルが必然的にうみだす構造であり、その意味では、わたしにとっての灰皿と、灰皿にとってのわたしとがきりはなすことができないところでだけ成立する視覚を意味している。

 この<純粋>化作用は、けっして客観的物体にたいする感官の作用、いいかえれば対象的知覚作用のはんい内でだけかんがえられるのではない。古典哲学が理性とか悟性とかよんでいるものの内部でもおこりうるものということができる   (P105-P106)


項目抜粋
2

●。たとえば、わたしがいま<Aはかくかくの理由でBと同一であるにちがいない>と判断したとする。このばあいA(なる物体でも事象でもよい)はわたしの判断作用にたいして外的な対象性であるかのように存在することができる。古典哲学が<理性>的な判断をわたしが所有するというとき、あたかもAなる対象がわたしの判断にたいして対象的な客観であるかのような位相を意味している。しかし、Aなる理性的対象とわたしの判断作用の位相はここに固定されるものではない。この位相は、あたかもAなる対象性とわたしの判断作用とがきり離しえない緊迫した位相をもつこともできる。つまり、<Aはかくかくの理由でBと同一であるにちがいない>というわたしの判断が、この判断対象ときり離すことができず、わたしにとって先験的な理性であるかのように存在するという位相である。ここで<純粋>化された理性の概念が想定される。わたしたちは、このような<純粋>化の心的領域を、原生的疎外にたいして、純粋疎外と呼ぶことにする。そして、この純粋疎外の心的領域を支配する時間化度と空間化度を、固有時間性、固有空間性とかりに名づけることにする。

 原生的疎外と純粋疎外の心的位相はつぎのように図示することができる。(第5図参照)

 ここで、純粋疎外の心的領域が、けっして原生的疎外の心的領域の内部に存在するとかんがえているのではない。それとともにその外部に存在するとかんがえているのでもない。構造的位相として想定しているのである。いいかえれば内部か外部かという問いを発すること自体が無意味であるように存在すると想定している心的な領域である。 (註-存在するというのは実在するという意味ではない。)   (P106-P107)



備考

註1.「<自然>としての人間の個体が存在しなければ、どのような心的現象も個体にともなって存在しえない、ということは実証のいらない自明の真理としては定立しえない。」

註2.「そうしますと、たんに人間が感官で対象に働きかけ、受けいれ、了解するということだけではないのですね。茶碗をみながら、同時にかんがえて概念形成ができるしそれを判断できます。このことは何なのか。このことを<心的領域>として考慮にいれなければ、人間の知覚現象はとらえきれないのではないか。そこで受容し知覚しつつ、同時に概念的な判断をなしうる<心的領域>をべつにかんがえなければならないことになります。それをここでは<純粋疎外>と呼んでいるのです。」 (P159-P160)(『世界認識の方法』*表現概念としての〈疎外〉)




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17 純粋疎外 じゅんすいそがい V 心的世界の動態化
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項目抜粋
1

B●わたしたちは純粋疎外の心的な領域においては、たとえば知覚は知覚として失われることなく、また意志は意志として失われることはなく、理性は理性として失われることはないものと想定する。たとえば知覚を例にとれば、知覚に記憶や体験の痕跡が連合されて純粋化がおこるのではなく、あらゆる心的連合を排除して知覚はそのまま継続し、そのはんいの内部で<純粋>化を想定する。 (P107-P108)

●わたしたちは、原生的疎外の心的な領域では、眼前に灰皿を視たということからはじまって、恋人の家でみた灰皿を連想することもできれば、その連想をどこまでも転換させて、眼のまえに灰皿を視たというはじめの出発点を忘れ去って遠くへゆくことができる。このばあい視覚はたんにあらゆる心的現象の契機をなすにすぎない。しかし、純粋疎外の心的領域では、眼のまえに灰皿を視たということから対象としての灰皿を離れることもできなければ、また対象的知覚をたんに視覚的反映の段階で手離して他の連合にとびうつることもできない。灰皿と対象的知覚とは離れることなく錯合される。この領域では、わたしたちの意識は現実的環界と自然体としての<身体>に依存するとかんがえない。同時に依存しないともかんがえない。依存することと依存しないこととは共時である。いいかえればひとつの錯合である。このような心的な領域は、あらゆる個体の心的な現象が、自然体としての<身体>と現実的環界とが実在することを不可欠の前提としているにもかかわらず、その前提を繰込んでいるため、あたかもその前提なしに存在しうるかのように想定できる心的な領域である。原生的疎外を心的現象が可能性をもちうる心的領域だとすれば、純粋疎外の心的な領域は、心的現象がそれ自体として存在するかのような領域であるということができる。  (P108)

C●誤解の余地はないものであるが、わたしたちの純粋疎外の概念は、たとえばフッサールの現象学的な還元や、現象学的なエポケーによって想定される純粋直観の絶対的所与性とちがう。現象学的な還元によれば経験的な諸対象は、経験的な諸対象についての意識とともに排除せられる。これらがどんなに客観的な確実さを証明されていてもつねに排除せられる。そして意識はそれ自体として固有の存在をもち、この固有性は現象学的などんな排除をほどこしても残留する本質としてかんがえられる。知覚についても現象学的な還元が残留させるものはおなじであり、知覚と知覚対象が統一的に内在化された客観として知覚作用の内部に残留し、その他は超越者としての方向へむけられる。


項目抜粋
2
●しかし、ごらんのとおり、わたしたちの純粋疎外は(原生的疎外はもちろん)現実的環界の対象も、自然体としての<身体>もけっして排除しない。ただ、純粋疎外の心的領域では、これらは、ひとつの錯合という異質化をうけた構造となる。わたしたちの純粋疎外の概念は原生的疎外の心的領域からの切断でもなければ、たんなる夾雑物の排除でもなく、いわばベクトル変容として想定されるということができる。     (P109)


備考





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18 空間化度 ゆとん V 心的世界の動態化
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項目抜粋
1

【3 度(Grad)について】

@さきに、原生的疎外の心的領域を内在性としてかんがえる場合、<身体>の生理的時間性と現実的環界の自然的空間性との一次対応をもとにする時間化度と空間化度を基軸として想定した。そしていずれにせよ<異常>あるいは<病的>な現象では、この一次対応は失われるものとかんがえてきた。このようにかんがえることによって心的現象は現実的な環界に<事実>として存在するものと、<身体>が存在するがゆえにかならず想定される対象物の受容、解釈、それから連合などの作用とが交錯することによって生ずるものと了解した。したがって心的領域ではかならずある時間性と空間性の内在的な度合(Grad)によって対象的認識も、本来的認識も変容をうける。この度合(Grad)の概念こそ、これから手に入れたいとかんがえるものである。なぜ、いかなる根拠によってどのように、現実的環界の対象的事物や意識を、意識するという心的な作用は、変容をうけるのだろうか?   (P110)

A●わたしたちは、ふたたび、もっとも簡単な知覚作用、いいかえれば現実的環界に実在する物体にたいする感官の作用を例にとることにする。いま、眼のまえにおかれた黄色のガラス製の灰皿がある。わたしがそれを<視て>いる。もし、この<視て>いるという状態から、あらゆる<純化>作用を排除してかんがえれば、わたしは灰皿のおかれた場所と、そこからの距離と、形態と色とを知覚として受容している。この受容が、実在する灰皿の全容と一致しないのは<視ら>れている灰皿の方向と距離によって視角が限定されるからである。この視角は、どの方向と距離をとろうとしても、その都度その視角に固有な限定をうける。この限定からぬきだすことができる共通性は、心的領域における最初の一次的な視覚の空間化度である。

●触覚の空間化度は、これとまったくちがっている。触覚はもしあらゆる連合作用と視覚の補助とを排除すれば、形態を識別することはできない。色彩を識別することもない。また、距離をもつこともない。いわば運動そのものの直接性ともいうべきものである。この運動の直接性の感覚が、触覚の空間化度である。

●臭覚や味覚のような原始的感覚において、わたしたちは、触覚よりもさらに原初的な直接性をみることができる。それは、いわば滲透の直接性の感覚ともいうべきものである。  (P110-P111)


項目抜粋
2

●振動する物体とわたしたちの聴官への到達は、たしかに一定の自然時間の距りをもっている。しかし、聴覚が受容するのは、この時間的な距りではなく、可聴周波数と波形による振動物体の空間的な性質である。いわば、もっとも発達した感覚とかんがえられている聴覚は、遠隔化された触覚にたとえることができるものであり、その空間化度は、一定の方向に物体から外延される全空間との接触性を意味しているということができる。

●もしも、わたしたちの知覚作用において、あらゆる感官相互の連合や想起作用や想像作用を排除して、固有の感官による受容だけを想定するならば、それぞれの感官による感覚作用は、それぞれに固有の空間化度をもっており、この空間化度は、生理体としての<身体>の時間化度にむすびついて知覚受容をなすことが了解されよう。これが、原生的疎外の心的な領域における感覚の空間化度の一次対応の本質である。   (P111-P112)


備考





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19 時間化度 じかんかど V 心的世界の動態化
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項目抜粋
1

B●では、このような知覚受容に結びつく時間化度の概念は、どのように想定さるべきだろうか?

 もっとも単純なのは、人間の<身体>を生理的自然体としてみたときにかんがえられる神経伝播の速度であり、神経生理学者のいう<クロナクシー>によってこの時間化度は規定される。(クロナクシー〈興奮をおこすに必要な刺戟時間の最小値〉)   (P112)

●しかしながら、たとえば<Aはかくかくの理由によって馬鹿である>というような判断的な理性がしめす心的現象の時間化度は、すでにこの神経生理的な<クロナクシー>の規定をこえてしまう。そこでは<A>という人物への対象的指向のつぎに<かくかくの理由>が継起的にかんがえられ、つぎに<馬鹿である>とはんだんされるという分割された概念をそれぞれの仕方でむすびつけうる速度が、時間化度の本質である。そして、すでにこのようなときには、人間は生理的自然体としての時間化度を超えてしまっている。この分割された対象性の再構成が、<クロナクシー>によって規定される時間化度を離脱すればするほどわたしたちは高度な時間化度をもつものとかんがえることができる。  (P113)

C●つぎに、わたしたちは純粋疎外の心的領域における時間化度と空間化度の概念は、どうかんがえるべきかという問題に直面する。ここではじめてハイデッガーやベルグソンの主著における空間性と時間性の概念と身を擦りあわせることが必要となってくる。かれらが導きだした時間性と空間性の概念は、心的な領域では古典哲学の量子化のような意味をもっており、この領域で問題にする価値があり、どうしても、避けてとおりすぎることのできない稀な業績である。  (P113)

●ところで、わたしたちの純粋疎外の心的領域における時間と空間の概念はどうかんがえるべきだろうか?

 それは、もっとも単純にすでに原生的疎外の心的領域における時間と空間を前提とするベクトル変容であり、ただ<時-空>性として存在し、かんがえられるだけであるというほかはないことがわかる。

項目抜粋
2
●しかし、わたしたちの純粋疎外の心的領域における<時-空>性は、あるばあい固有時間性と固有空間性を原ベクトルとして想定することが必要であるようにおもわれる。このあるばあいとは、心的領域における<異常>または<病的>という概念をかんがえざるをえないときである。なぜならばこのときは<時-空>性の障害こそが問題であり、これを了解するためには固有時間と固有空間とのなんらかの形での共時障害を想定するほかはないからである。  (P117)


備考





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20 精神分裂病 せいしんぶんれつびょう V 心的世界の動態化
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1

【4 ふたたび心的現象としての精神分裂病について】

@●原生的疎外の心的領域からのベクトル変容としての純粋疎外を想定することによって、新たに精神分裂病の概念について獲得するものはなんであるか?   (P119)

●シュナイダーのすぐれた著者が、慎重にのべている分裂病の臨床像からおもな一、二の症候を挙げて考察してみる。

 一 考想化声、その他の類似幻聴

 考想化声は、じぶんの思考が音声となってじぶんに聴えるという現象をさしている。この現象はさきにのべた聴覚の本質によってかんがえれば、じぶんが聴きとるということが、じぶんの思考を外延的に空間化して聴覚に達せしめることを意味している。じぶんの思考が自己に聴えるという心的な現象は、じぶんにとってじぶんが対象的な話しかけであるということを意味しており、純粋疎外の心的領域に属している。聴知覚は本質的にいえば、耳の鼓膜が物体の振動の空間的外延として共振するかどうかではなく、対象である物体を外延的空間として受容しうるかいなかにある。それゆえ、考想化声において主要なことは、じぶんの思考の振動とおなじようにじぶんの<純粋>聴覚が共振するかいなかということとはべつに、じぶんの思考が<純粋>聴覚にとって外延的空間として受容されうるかどうかに本質が存在している。

 ところで、<自分の思考の振動>とはなにを意味するのか。このばあい、あきらかに固有時間化度と固有空間化度の分割と構成の構造を意味している。考想化声のばあいのように、それが自身に聴取されることは、じぶんの<思考>がじぶんにとって遠隔であること、いいかえればじぶんの思考とじぶんとが、あたかも振動する物体と聴覚的受容のあいだとおなじように外延的空間を想定せずには結びつかないほどかけ離れていることを意味している。

 この本質の考察はシュナイダーのいう話しかけと応答の形の幻聴のばあいでも、自分の行為を絶えず批判する声の幻聴のばあいでも、けっして変える必要はないとかんがえられる。


項目抜粋
2

 二 身体被影響体験、その他の作為体験

 …・その本質は、じぶんの考想によってじぶんの<身体>が変容されるということである。したがってじぶんの思考の固有時間性が、じぶんの<身体>の時間性、いいかえれば<クロナクシー>からの一次対応から<距て>られていることを意味している。思考の時間性は、その判断の分割の速度にしたがって規定されるが、この判断のとりこむ空間性が自分の<身体>であるということは、べつに特異なことではない。ふつう、わたしたちは自分の<身体>についてどこそこに傷あとがあり、どこそこにアザがありというような判断をしばしばやっている。しかし、身体被影響体験に類するあらゆる場合には、思考の固有時間性にともなって<身体>の時間性は変容させられ、この変容の態様にしたがって、<身体>はその<クロナクシー>をすてて変容された時間性に対応する変形と、変形された行動とを体験するのである。

A…・わたしたちは純粋疎外の心的領域を想定することによって、分裂病の内側にややふみこむことができたはずである。現在の段階で、わたしたちが謙虚さを失わずにいいうることはたったこれだけであり、まだ幾重にも息苦しい壁が立ち塞がっているのを感ずる。  (P120-P122)

備考





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21 感官相互の位相 かんがんそうごのいそう V 心的世界の動態化
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項目抜粋
1

5 感官相互の位相について】

@ここで心的な世界にさらに微細にふみこんでみなければならない。いままでかんがえてきたゆきがかりからすれば、これは、さしあたって感覚的な受容とその了解作用を微細につきつめる課題としてあらわれる。もちろん、感官の作用は心的現象のすべてであるわけではない。ただ諸感官は対象世界にたいして主要な、そしてきっかけをつくる窓であることはたしかである。

 この問題ははじめにつぎのようなふたつの問いとして提起することができる。

 第一に、さきに心的な領域として想定したように原生的疎外と純粋疎外という概念がベクトル変容としてのみ相互の関係をもっているというとき、ベクトル変容とはなにを意味するか?第二に、感官の作用を対象についての感覚の空間化度のちがいとして措定したとき、個々の感官はどんな位相で想定されるか?そしてそれは感官相互の空間化度のちがいにどんな影響をあたえるか?このふたつの問題を一定の仕方で理解できたとき、わたしたちは心的な現象の理解にどのような踏み込みがえられるかという課題につながる。 いま、試みに感想をさきにいわしてもらえば、これらの問題をつきつめてゆけばゆくほど、心的現象としての<異常>とか<病的>とかいう概念の成立する余地はせばめられてゆく一方であるとかんがえられてくる。   (P123-P124)

【『アヴェロンの野生児』に触れて】

A●この四つの問題は、いずれひとつの問題に帰せられるような連関をもっている。乳幼児期から天然以外の外界との接触を断たれて少年期にまで成人した正常な人間の心的世界の問題である。そしてどのような感官は人為的な働きかけによって発達する可能性をひらかれているが、どのような感官はある限界以上に高度化しえないかという問題である。

 いずれにしても、アヴェロンの野生児がしめすこの状態は、正常な幼児の世界にも、自閉症的な<異常>成人の世界にも類似する点をみつけられるのはあたりまえのことである。だが、この自閉的に外部からみえる世界が、野生児の心的な世界として空虚なものであるか、奔騰する世界であるのかは、これだけでは判断できない。  (P125-P126)


項目抜粋
2

●高村はべつに触れていないが、この種の「秘法」なるものには、呪文をとなえるとかなにか、それ自体では無意味な手続きがあるはずである。正常な個体が一時的に無感覚になりうるためには<入眠儀式>を細かく踏みながらたとえ熱源体に接触していても、その了解を切断したり、ほかの対象に了解を集中したりすることが必要だからだ。

 アヴェロンの野生児のばあいは、これとはちがって、はたからつくりあげられたほど作為的でないし、また意識的でない。了解作用自体が関係意識を喚起しない対象や状態では未発達であり、この未発達はある幼ない年齢を無造作にこえたあとでは恢復ができないかもしれない。

●問題は、第一に触覚や嗅覚の空間化度が本質的に低いという点にあるにちがいない。したがってこの種の始原的な感官作用から了解を切断するには、身体を異常に高い心的時間性か異常に低い心的時間性の領域に統御すればよいことになる。正常な個体では、異常に高い心的時間に統御することでもこの種の受けいれ感覚は了解作用と切断することができるにちがいない。アヴェロンの野生児のばあい、正常な身体作用の<クロナクシー>とかんがえているよりも、低い時間化度をこの状態ではしめしていることを意味している。ここに野生児の正常な未発達という概念があらわれうる。  (P127)

備考

註1.「この問題ははじめにつぎのようなふたつの問いとして提起することができる。

 第一に、さきに心的な領域として想定したように原生的疎外と純粋疎外という概念がベクトル変容としてのみ相互の関係をもっているというとき、ベクトル変容とはなにを意味するか?第二に、感官の作用を対象についての感覚の空間化度のちがいとして措定したとき、個々の感官はどんな位相で想定されるか?そしてそれは感官相互の空間化度のちがいにどんな影響をあたえるか?」




項目ID 項目 よみがな 論名
22 感官相互の位相 かんがんそうごのいそう V 心的世界の動態化
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個々の感官の内部に位相的な構造を想定する 仮象
項目抜粋
1

B●さきに、諸感官をそれぞれに固有な空間化の度合(Grad)にあるものとして、相互の位相を位置づけた。しかし、ここでは位相の概念はさらに詳細に考察されなければならない。

 たとえば、触覚の空間化度を運動の直接性の感覚として想定した。ここでは直接性の構造が問題となるのだ。いいかえれば、触覚が触覚の内部でもつ構造を踏み込んでかんがえなければならない。

●一般的にいって、未発達の人間や動物の感覚では、その対象的感覚の空間化度は、ある部分では飴のように異常に伸びて発達した空間化度にあるかとおもうと、ある部分ではまったく無にひとしいほど退化した空間化度にあるとかんがえることができる。ひとつの対象的感覚の内部でおこるアモルフな奇妙に歪んだ空間化度はその感官に固有な構造をもっている。   (P128)

●ここまできて、つぎのようなかんがえをおしすすめることを余儀なくされる。さきに、わたしたちは感官の相互の位相をそれぞれに固有な空間化度の段階としてかんがえてきた。いまやそれぞれの個々の感官の内部に空間化度の構造を想定することが必要である、と。

 たとえば、わたしたちは嗅覚を聴覚よりも原始的な感覚であり、したがって低い空間化度にあるものとみなしてきた。しかし、感官による受容を了解作用とむすびつけてかんがえるとき、いいかえれば<身体>から疎外された時間化度とのむすびつきをかんがえざるをえないとき、さらに個々の感官作用の空間化度の内部に構造を想定することがひつようである。この空間化度の構造の内部では、たとえば嗅覚のような原始的な低い空間化度の内部で、異常に高い空間化度によってしか、<身体>の時間化度とむすびつくことはできないこと、いいかえれば異常に高い空間化度の仮象によってしか了解作用をもつことができないことがありうると想定することができる。

 感官作用の空間化度は、もし対象世界との相互作用としてだけかんがえるのではなくて、<身体>の了解作用、いいかえれば時間化度との結びつきの作用としてかんがえると、その内部に位相的な構造を想定せざるをえなくなる。このとき空間は異質(heterogen)なものとなる。ある種の対象にむけられた感官作用は異常に長い通路でつながっているが、またべつの種類の対象に対しては結滞している。そしてこの空間化度の異質性(Heterogenitat)【註 aはウムラウト】を測る尺度は関係意識の強度である。
   (P129)


項目抜粋
2

●このような感官内部の位相的な構造を想定することによってもうひとつでてくる重要な問題は、べつの感官とのあいだの異化結合の可能性である。視覚と嗅覚とが結合するためには、嗅覚の空間化度がある特定の対象に対して視覚の空間化度を侵すだけの高度化の仮象をもちうればよいとされる。

 ある特定の匂いを嗅感したとき、すぐにある視覚的な像とむすびつくということは、正常な個体でもしばしば体験することである。また、<異常>な個体において、ある嗅覚を感じたとき、まったく無関係におもわれる視覚的な像の奔出に悩まされるという症例がありうる。また、聴覚作用が、すべてその受容の瞬間に無定形な像を奔出させるというばあいがある。 【具体例として、芥川竜之介『歯車』からの引用】                (P129-P130)

Cわたしたちが個々の感官の内部に位相的な構造を想定することによって獲られるものは、<異常>とかんがえられていることのおおくは、非本質的な心的現象として<異常>の範疇から卻けてゆくべきだ、ということである。

 個々の感官の空間化度の位相に、あるひとつの構造を想定すれば、ある対象に対しては、各感官がそれぞれの空間化度の段階をはなれて、他の感官の空間化度の位相に侵入する可能性がありうると結論される。そしてこの可能性の前提となるのは、<身体>の時間化度と結びつくこと、いいかえれば感官の受容したものを了解とみなしうるとき、ということである。   (P132)

Dここで、どうしても提起を強いられる問題は、つぎのようなことである。

 人間のすべての感官は、内部に位相的に構造を想定することによって、異質な(heterogen)空間性に転化するだろうか?それとも、異質化をうけない等質的(homogen)な空間性によっても特異な感官は存在するだろうか?

 そしていずれのばあいも、<異常>または<病的>な心的な世界では、どのように変貌するだろうか?         (P132)


備考





項目ID 項目 よみがな 論名
23 聴覚と視覚の特異性 かんかくとちょうかくのとくいせい V 心的世界の動態化
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人間の心的な世界だけが経験する特異性の問題 ただ<視ている>こと自体の時間であるかのような瞬間
項目抜粋
1

【Y 聴覚と視覚の特異性】

【『アヴェロンの野生児』に触れて】

@ここでいわれている聴覚と視覚のそれ以外の感覚にたいする特異性は、本質的には人間の心的な世界だけが経験する特異性の問題を提出しているようにみえる。

 聴覚と視覚にあらわれた人間の心的な特異性は、聴覚と視覚の空間化度だけが、そのままで構造的時間性に転化しうるものだという点に帰せられる。ひらたくいいかえれば、聴覚と視覚のばあいにはある対象を<聴く>ことと<視る>ことは、そのまま時間として感ずることができるということである。たとえば、遠く響いている汽笛の音をききながら、わたしたちはしばしばそれを対象である汽船からの音をきいているのではなく、ただ音の響きをきいているという意識の瞬間を体験することがある。そのときわたしたちは聴覚において時間を知覚しているのだ。おなじように、眼のまえの灰皿をみているばあい、たしかに灰皿をみながら灰皿という対象を視ていないで、ただ<視ている>こと自体の時間であるかのような瞬間を体験することができる。このときわたしたちは視覚において時間を知覚しているのである。このばあいの時間は擬似了解の作用を代理しうるとみなされる。   (P134)

Aようするに、聴覚や視覚において、対象をはっきりと措定しているのに、茫んやりする瞬間をもつことができるが、この<茫んやり>は、聴覚と視覚それ自体で時間を感じている徴候だとかんがえているにすぎない。あるいは、ここで嗅覚や味覚や触覚でも、茫んやりする瞬間がありうるはずだという反論がおこるかもしれない。しかし、このばあい<茫んやり>はなにかを連想しているか、<茫んやり>一般かのどちらかであって、嗅覚や味覚や触覚に固有なかかわりはないものである。

 <異常>な個体が、あるばあい作られた体験、他動体験として幻聴や幻視をもつことがある。(もっとも幻視は、幻聴にくらべて、この種の意志にかかわりない強制体験としてはより少ないはずである。それは視覚の空間化度が聴覚にくらべて低いからである)のは、聴覚や視覚の空間化度がそのまま時間性として了解されることがありうるため、<身体>の時間化度とまったく無縁であるかのような了解作用の仮象が成りたつからである。<身体>の時間化度と無縁であるかのように存在しうる了解作用は、他者に属するという仮象をもった自己の体験、いいかえれば作られ強制された自己体験としてあらわれるほかはない。   (P135-P136)


項目抜粋
2

B●なぜ、人間は聴覚と視覚に特異な位置をもつようになったのか?

 この問いに対して生物学者は脊椎動物いらいの感官の進化の過程から説明するだろうし、脳生理学者は脳の感受機構とむすびつけて理解しようとこころみるだろう。しかし、ここでは、このいずれの方法をも援用しようとはおもわない。心的世界を原生的疎外の領域とかんがえ、それに関係づけられる構造的位相を純粋疎外の領域として想定したとき、高次の感官作用を生理的<身体>へ還元することが、たんなる一方向への還元にすぎないこととして卻けてきたからである。

 心的な存在としての人間は、不可避的に関係の意識を<多様化>し、また<遠隔化>してゆく存在である。意志によって拒絶する以外に、心的世界をせばめてゆくことも、停止のままでいることもできない。そしてこのような心的世界の本質にたいして、末端を可能性としてたえず開放しているようにみえる感覚は聴覚と視覚だけであるために、このふたつの感官は、他の感官にたいしても、また動物の感官にたいしても特異な位相をしめすようになったとかんがえることができる。   (P136-P137)


備考

註1.「 聴覚と視覚にあらわれた人間の心的な特異性は、聴覚と視覚の空間化度だけが、そのままで構造的時間性に転化しうるものだという点に帰せられる。ひらたくいいかえれば、聴覚と視覚のばあいにはある対象を<聴く>ことと<視る>ことは、そのまま時間として感ずることができるということである。」




項目ID 項目 よみがな 論名
24 聴覚と視覚の特異性 かんかくとちょうかくのとくいせい V 心的世界の動態化
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項目抜粋
1

●<関係>の概念は、かならずしも眼に<視える>ものだけをさすとはかぎらない。心的世界が関与しているかぎり視えない<関係>も含まれる。そして、この視えない<関係>を人間が了解しうるにいたったことには、聴覚がかなりな深さで荷担しているようにおもわれる。天空や自然森林の奥から聴えてくる音や叫びが、どんな対象から発せられたか判らないとき、人間はその対象物を空想においてつくりあげた。そして<視えない>ものを<視える>ものにおきなおすすべを意識としてえたとき、人間の<関係>の世界は、急速に拡大し、多様になったとかんがえられる。聴覚と視覚の空間化度が、そのまま時間性として受容されることがありうるのは、このふたつの感官作用が、視えない<関係>概念を人間にみちびくのに、本質的に参加しているからである。

●なぜならば、視えない対象を関係づける意識こそは、<関係づける>という空間的な橋わたしを、そのまま時間構造として了解する意識だからである。このような意識に適合しうる感官は、聴覚と視覚、とくに聴覚である。もちろん、視覚もまた想像的視覚、あるいは技術的媒体によって、視えない対象を視ることができる。

 聴覚や視覚にあらわれる本質的な意味での<異常>、いいかえれば他から作為され強制されたという仮象であらわれる幻聴と幻視は、心的存在としての人間の<関係>概念の<異常>に帰着する。そしてこの種の<異常>は、分裂病において典型的にあらわれる強制体験としての幻聴のように、高度(もしそういう言葉をつかえば)なものである。かれは、自己の外に仮象として存在しうる聴覚や、まれには視覚の受容と了解作用を、自己のうちに体験するという<異常>な関係概念の世界にいるのだ。 (P137-P138)

C●生理的にいって、人間は<関係>の意識が拡がり、多様化するにつれて、感覚の空間化度を高度にしていったと推定することができる。そしてこの高度化は、了解作用の時間性とむすびつくとき、必然的に空間概念を高度化していったのである。聴覚や視覚がとどかないほどへだたった場所にある対象についても、人間がその存在を了解することができる(想像することができる)のは、高度化された空間概念のうちにその対象が包括されうるからであり、いわば高度化された空間概念の抽象的な等質性ということが、その媒介をなすものだということができる。  (P138-P139)

項目抜粋
2
●これにたいし、嗅覚や味覚や触覚が、ある種の動物で、ある対象にたいしてのみ異常に遠隔化されうるとすれば、この動物が、そのばあい高度化された空間概念を所有しているからではない。むしろこのばあい動物は対象を<近隔化>して、じぶんの<身体>の外延に転化しているのだ。猫や犬がある摂取すべき対象にたいして、異常に鋭敏な、遠くからの嗅覚をもっているとすれば、その遠くにある対象は猫や犬にとって<身体>のとどく延長にほかならないといえる。そして、猫や犬の嗅覚は、べつの対象に対しては異常に鈍感でありうるのだ。ここでは感覚の空間化度は低く、等質性をもちえない。極端にいえば、対象ごとに異質な空間性をもっているだけである。  (P139)

備考





項目ID 項目 よみがな 論名
25 原生的疎外と純粋疎外の関係 げんせいてきそがいとじゅんすいそがいのかんけい V 心的世界の動態化
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項目抜粋
1

【Z 原生的疎外と純粋疎外の関係 】

@個々の感官の内部に構造的な位相を想定することによって、ある種の体験から確信している心的な世界の像に、いくらかずつ接近しているようにおもえる。また、視覚と聴覚の特異性をあげつらうことで、心的な世界がどのように対象世界にたいする<関係>の意識を獲得してゆくかをみてきた。そして<関係>の意識が、けっして感官作用だけに依存するわけではないとしても、その感性的な基礎について理解をすすめた。

 このようにして得られたものは、想定される原生的疎外と純粋疎外の心的領域にとってなにを意味するだろうか?原生的疎外の心的領域からのベクトル変容として想定された純粋疎外の領域は、どんな意味づけの変化をこうむるのだろうか?

 第一に、わたしたちは原生的疎外も純粋疎外もたんに空間化度と時間化度と機械的な交点や等質的なベクトル変容として想定することができなくなる。異常に低い空間化度が異常に高い時間化度とむすびついたり、その逆であったりすることがありうるからである。

 第二に、聴覚と視覚のような高度な空間化度の位相で存在する感官の了解作用によって心的な領域はすべて(いいかえれば原生的疎外の領域としても純粋疎外の領域としても)屈折をうけるものと想定しなければならなくなる。この屈折を境界として、その一方の領域でのみ等質的な時間性と空間性が仮定される。

 第三に、もしそうだとすれば等質的な時間性と空間性がが想定される心的領域において、異質な(heterogen)了解作用が成立するばあい、あるいはその逆のばあいは、これを<異常>な心的現象とみなされうる。したがって、<異常>な心的現象とは、本来的には動物や未開段階の人間の心性や未成熟時の個体の心性との類推をゆるすものではない。

項目抜粋
2

第四に、あらゆる心的な<異常>現象は、けっして通常の意味での異常ではなく、人間の心的な領域が本来もっている可能性という意味しかもたない。したがって、真の意味で<異常>または<病的>とよびうる心的な現象はただつぎの条件を充たす場合にかぎられる。ひとつは、その心的な現象(とその表象又は行動)が<身体>の時間化度の外で【傍点有り 外で】了解されることである。したがって意志や判断的理性によっては統御されないことである。もうひとつは、等質的な時-空性のなかでの異質的な時-空性あるいは、異質的な時-空性のなかでの等質的な時-空性としてその心的な現象(その表象と行動)が存在することである。

 第五に、わたしたちの<関係>の意識を、心的な領域の内部でかんがえれば、つぎのベクトル等式が成立するはずである。

  ベクトル(原生的疎外)−ベクトル(純粋疎外)=関係意識

 そして、わたしたちが第5図で描いた心的領域のモデルは、つぎのように微細化されるだろう。

 ちょうど、二枚貝が一端で閉じられた二枚の貝がらの口を開いているように、原生的疎外と純粋疎外の領域は空間化度の低い領域において閉じられる。それとともに、聴覚と視覚の領域を境にして等質的な時-空性は失われる。(第6図)     (P139-P142)



備考

註1.「第三に、もしそうだとすれば等質的な時間性と空間性がが想定される心的領域において、異質な(heterogen)了解作用が成立するばあい、あるいはその逆のばあいは、これを<異常>な心的現象とみなされうる。したがって、<異常>な心的現象とは、本来的には動物や未開段階の人間の心性や未成熟時の個体の心性との類推をゆるすものではない。」

註2.「第四に、あらゆる心的な<異常>現象は、けっして通常の意味での異常ではなく、人間の心的な領域が本来もっている可能性という意味しかもたない。」




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