Part 4
心的現象論序説

  北洋社 1971.09/30発行



項目ID 項目 論名
26 感情 W 心的現象としての感情
27 感情 W 心的現象としての感情
28 感情 W 心的現象としての感情
29 感情 W 心的現象としての感情
30 感情 W 心的現象としての感情
31 感情 W 心的現象としての感情


発語











項目ID 項目 よみがな 論名
26 感情 かんじょう W 心的現象としての感情
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項目抜粋
1

【1 感情とはなにか】

@<わたし>が、任意のたれかに出会って<好感がもてる>とか<虫がすかない>とかいう概念でいいあらわすことができる心的な状態が萌したとき、じつは心的な世界に<空間化度>が導入されはじめたことを意味している。ただ、この<空間化度>は、比喩的にいえば心的な触覚のようなものので、<わたし>の心は、ほんらい<時間>として了解すべき判断を<空間>として作動させているのである。この段階では、<わたし>が好感をもてるから対手も<わたし>に<好感をもてる>というような相互規定性はない。<わたし>の<好感>をもてるという心的な状態は、対手のわたしにたいする心的状態を、仮りに代理して充たすことができるのである。だから、この状態でも<感情>はけっして主観的な状態ではなく、対手への(あるいはなにかへの)<感情>であるにもかかわらず、対象にかかわりなく<わたし>の内部にも純粋に存在するかのような仮象を呈する。

 <感情>は心的な触覚や心的な味覚や心的な嗅覚であるかのように存在することができるが、けっして

心的な視覚や心的な聴覚であるかのように存在することはない。なぜならば、<感情>が対象物を措定するばあいに、遠隔の対象物にたいする<感情>を措定することはあっても、心的な状態はアメのように延びたり、砂糖や苦味や芳香のように滲透することで、その<感情>を措定するものだからである。心的な聴覚とか心的な視覚とかいう比喩が<感情>の比喩として矛盾した無意味な比喩であるのは、聴覚や視覚が、末端を開かれた感覚であるため、対象はかならず対象そのものを指すという志向性がともない、対象についての心的な状態を、本来の対象とする<感情>を、比喩する言葉になりえないのだ。   (P144-P145)

Aたんに眼のまえの存在にたいしてだけではなく、遠隔の対象についても<感情>をもつことができるにもかかわらず、<感情>の対象は、遠隔性でありえないことは、<感情>にとってもっとも本来的な性質である。それならば一般的にいって<感情>はかならず対象を<近隔化>するのだろうか?…・

 しかし、<感情>において、対象は<近隔化>されるといえそうにない。ある対象についての<感情>の強さは、けっして対象の形像をはっきりさせたり、近づかせたりする作用をともなうわけではないからである。<感情>の作用は、対象自体がどういうものかとはかかわらない。そうだとすれば<感情>の本質はなんであるのか?    (P145-P146)

項目抜粋
2

Bいま<わたし>が知覚一般のときとおなじに対象を措定しているとすれば、<わたし>は対象を<了解>しているのである。しかし、<感情>において<わたし>は対象物そのものを措定しているのではなく、<この対象は好感がもてる>あるいは<この対象は虫が好かない>という属性をふくめた対象を措定しているのである。…・

 そこでわたしたちは、<感情>においては、本来<時間>性として存在する心的な了解作用が、<空間>性として疎外されているものとかんがえる。だから、<好感がもてる>とか<虫が好かない>とかいう<判断>が先験的にあるのではなく、判断作用にとってかならず必要とされる心的な了解の<時間>性が、<空間>化されているため、<感情>においては、対象を受容するための心的な<空間>化と、空間化された了解作用とが二重にからまって、対象を措定しているとかんがえるのである。これを第7図のように示すことができる。  (P146-P147)


備考




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27 感情 かんじょう W 心的現象としての感情
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純粋感情
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1

C●ここで、<感情>についてさらにふみこんでみる。

 <わたし>が任意のたれかに出遇ってはじめに<好感がもてる>と感じたとする。しだいにつきあいが深くなり、年月も長くなるにつれて、はじめの<好感がもてる>が、しだいに<虫が好かない>に転化していったとする。こういうことは自己と他者のあいだでしばしば起こりうることをわたしたちは体験的に知っている。このばあい<感情>作用においてなにが起ったのだろうか?

●これらのいずれの理由も、それぞれもっともらしくみえることはたしかである。しかし、この種の<感情>の転化の機作をきわめようとするばあい、自己と他者という関係のなかでは根拠ある解明ができないようにおもわれる。だからこのようなばあいの考察は、もっと根源的な自己と他者の関係である一対の男女の<性>を基盤とする関係にまで煮つめることが必要である。そこではどんな虚構も関係意識としては存在しえないから、<愛>が<憎悪>に転化しながら、なお<愛>は消滅したのではなく錯合として存在するといった徹底した<感情>の姿があらわれる。フロイドが心的な両価性というかんがえにたっしたのはこういう原型をもとにしたものであった。

●自己と他者のあいだの<感情>が、<好感がもてる>から<虫が好かぬ>にまで転化するためには、その途上にかならず<無関心>とか<習慣化>とかいう中性の<感情>が想定できるはずである。この中性化によって<好感がもてる>という<感情>は、消滅するのではなく、心的な時間性の<空間>化という<感情>にとっての本質的な作用のある強度に転化する。そしてこの強度は中性であるから、<虫が好かぬ>のほうへ転化する蓋然性も、<ますます好感がもてる>のほうへ転化する蓋然性もおなじであるといってよい。そしてこのような<感情>の転化の過程は、一対の男女の<性>を基盤にした関係のなかで、徹底した<愛憎>のすがたになってあらわれるというべきである。フロイドは、一対の男女のあいだの世界として限定したわけではないが、この<感情>の転化をつきつめた。そして、蓋然性の問題よりも両価性として、いいかえれば背中あわせの形で存在する<愛憎>の姿に到達したのである。   (P148-P150)


項目抜粋
2

Dここでひとまず感情について定義をくだしてみる。

 心的な了解の時間性が空間性として疎外されるような、対象についての心的領域を感情とよぶ。

 ここで<感情>とよばれるものは、情動性一般をも情念とか情緒とかよばれるものをも包括している。

 ところでひとつの極限のばあいとして心的な了解の時間性が空間化されたとき、それが対象にたいする知覚の空間化度と同致するばあいを想定してみることができる。そしてこのようにかんがえられる<感情>を純粋感情と名づけることにする。

 たとえば、<わたし>が眼のまえに灰皿をみていたとする。<わたし>は視覚によって灰皿の色や形態を受けいれ了解している。この状態でどんな連合にもよらないで灰皿について<好ましい>とか<虫が好かぬ>とかいう<感情>を同致させたとすれば、わたしの灰皿についての<感情>は純粋感情と呼ばれるべきである。この状態では<感情>は世界を構成せずに矢のように対象へ走る。この純粋感情は、中性化された<感情>の対偶に位置づけることができるもので、この状態では対象にたいする知覚と対象についての<感情>をきりはなすことができない。   (P150-P151)


備考 註1.「心的な了解の時間性が空間性として疎外されるような、対象についての心的領域を感情とよぶ。」




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28 感情 かんじょう W 心的現象としての感情
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項目抜粋
1

2 感情の考察についての註】

@ベルグソンでは、空間性がゼロになった対象の知覚が感情を意味している。いわば吸収された対象的知覚をさして<感情>とよんでいる。だから<知覚>と<感情>とは同位におかれる。

 しかし、わたしのかんがえでは、<感情>と<知覚>とは、いわば<純粋感情>とでもいうべき幸運な同調場面を仮定しないかぎり、けっしておなじ位相で共存できないものである。<感情>では、<知覚>のばあい必須の条件とみなされる了解の時間性が消滅しなければならない。しかも、たんなる消滅ではなく空間化された時間、という変容として消滅しなければならない。<感情>はどんな遠隔の対象をも措定するが、この措定には、対象の空間性にくわえて、時間性の変容した空間性がサンドウイッチされるはずである。

 <感情>の心的領域は、本来の空間性と、時間の変容した空間性によって<知覚>の世界にくらべれば、奇妙におしひしがれた世界として存在する。<感情>的な世界では、灰皿はたんなる自然物としての灰皿ではなく、奇妙にゆがんでおしひしがれた灰皿としての心的な灰皿である。ある任意のたれかに対する<感情>とは、そのたれかがどんな容貌をもち、どんな皮膚の色をもち、どんな背かっこうをしているかについての知覚的<感情>ではなく、<了解>が空間性として加わったために、似ても似つかぬほど歪んだ空間性になった心的な任意の、たれかについての<感情>である。   (P152-P153)


A<感情>は、心的現象の領域であるために、なんらかの意味で<時間性>が介在すべきはずであるにもかかわらず、ただ心的空間性の領域としてだけやってくるという了解作用の本来的な矛盾として存在している。     (P155-P156)

【例示 P156-P158】


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2
備考





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29 感情 かんじょう W 心的現象としての感情
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項目抜粋
1

【3 感情の障害について】

@●<知覚>の系列と<感情>の系列とがけっして単系でないことわしめすもっとも鮮やかな例は、心的な<異常>や<病的>な状態に出あうときである。

 【セシュエー『分裂病の少女の手記』の引用】

 少女ルネはこのばあい、はっきりと「友達」を認め、名を識り、声をきき、言うところを完全に理解している。いいかえれば、<知覚>としてはどこにも障害をもたずに「友達」を了解している。しかし、それにもかかわらず「友達」は「彫像のように奇妙で非現実的にみえ」て、不安感をおぼえる。この不安感は、「友達」と心的な接触がえられないとき、ルネにかならずおこる<感情>である。そしてこの<感情>が、本来ならば眼のまえにあたりまえの「友達」が立っていて、じぶんに話しかけているという<知覚>と、それを<知覚>しているじぶんが「友達」をみて、その話をきいているときの感情(たとえ中性の<感情>であっても、何気ない安心感でもよい)とが、本来ならば分割されてあり、それが再び結合していなければならないはずなのに、<知覚>自体を奇妙にゆがめ、「非現実的」な「彫像」が立っているようにみさせている。    (P155-P160)

●不安な感じが<感情>として<異常>または<病的>であるためには、<感情>の心的な領域が<知覚>と分離し結合するという正常な状態からそれて、<知覚>の水準に<侵入>することができていなければならない。セシュエーのこの例では、少女ルネの<不安感>として存在する<感情>が、<視覚>の領域に<侵入>しているために、「友達」が「彫像のように奇妙で非現実的にみえ」るのである。このような<感情>の心的状態はつぎの図のように示される。  (P160)



項目抜粋
2

●<他者>にたいする<感情>の基軸をなしているのは、おそらく<不安>や<怖れ>として存在する関係の障害感か、<安堵>や<愉悦>として存在する親密感であり、このふたつのあいだには、依然として<中性>の感じが介在するとかんがえられる。対象が<無生物>や<動物>や<事物>であるときも、この基軸は変化しないとかんがえてよい。ただ<物>であるばあいと<動物>であるばあいとは相互規定的であるかどうかという点にだけちがいがあらわれる。さらに<他者>が<人間>であるばあいの<感情>は、相互規定的であるとともに心的な体験でもあるという要素がつけくわえられるはずである。

 しかし、<感情>が真に綜合的な深度をあらわにするのは、一対の男女の<性>的な関係を基盤にするばあいにおいてであり、ここでの<感情>の基軸は一方で<愛>であり、一方で<憎悪>であり、その過程に<中性>の<感情>を想定することができる。もちろん、<他者>との関係のうちでも<愛>や<憎>の感情をもつことができるが、その原型をわたしたちは男女の<性>的関係の周辺から借りてきているのだ。わたしのかんがえでは、この意味でフロイドはきわめて本来的であり、けっして正当性を欠いていないとおもわれる。  (P160-P162)


備考





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中性の感情の構造
項目抜粋
1

【4 好く・中性・好かぬ】

@ところでここでまずもんだいになりうるのは<接触>の構造である。

 もし、この<接触>が、個体としての<他者>との接触であるばあいは、つねにかぎられた現実の局面で、かぎられた時間だけの<接触>がもんだいとなり、しかもこの<接触>には質的な固定化と、その繰返しという構造がかならずつきまとう。そして、人間と人間との<接触>は、このような意味では、大なり小なり臨界的(kritisch)であり、ある範囲での固定と繰返しとが伴うものである。

 それゆえ<接触>の因子は、@かならず臨界的であることであり、Aかならず場所的にまたは時間的に場面が限られることであり、Bさいごに、そのため固定化と反覆とを伴うものである、ということである。そして、これらの因子は<感情>の構造をきめる要素として入りこんでくる、ということができよう。もしも、人間と人間との<接触>が、このような構造的な因子からかならず免れないものとすれば、<接触>の構造を、もっともあらわに要素的にむきだしにするのは、一対の男女における<性>を基盤にした<接触>であるということができる。そして<感情>の構造もここでもっともあらわに要素的にあらわれる。  (P162-P163)

A●はじめに仮定したように、任意の個体である<他者>との<感情>的な<接触>において、一対の男女の<性>にもとづく生活過程での<接触>を要素的にとりあげるとすれば、そのもとになる<感情>は、<好く>と<好かぬ>(<愛>と<憎>)であり、そのあいだに介在する過程として<中性>の<感情>を想定することができる。

 わたしのかんがえでは、この種の(個体と個体との)<接触>において、もっとも重要なのは<好く>あるいは<好かぬ>という<感情>ではなく、介在する過程としての<中性>の<感情>である。   (P164)


項目抜粋
2

●はじめに、一対の男女が<好く>という<感情>からはじまり、しだいに長期間に<中性>の<感情>に変容した。このとき<中性>の<感情>の構造はどうなっているのだろうか?

 このばあい<中性>の<感情>は、<好く>というはじめの<感情>の喪失(消失)を意味していない。おなじようにあとをひいていることをも意味していない。この<中性>の感情は、<好く>という<感情>からの質的な転化というべきで、その転化の構造は、<好く>という<感情>を、心的な了解の時間性におきかえ、これをふたたび空間化して<感情>の対象にしてえられるような新たな<感情>を意味している。それゆえ、このばあい、<好く>という<感情>を了解し、これを空間化するとちょうどその度合に応じて、<感情>の空間性は、<遠隔>化するものとかんがえられる。

 いうまでもなく、<好く>から<好かぬ>という対極的な<感情>への転化が可能となるのは、その過程に<遠隔>化された<中性>の<感情>が介在しているからである。なぜならば、この<遠隔>化された<中性>の感情では、<好く>という<感情>自体が、ひとたびは了解作用に転化されるために、それ自身で<感情>の<身体>化の仮象を呈し、ふたたびこれを空間化するにさいして、<好かぬ>に転化するか、深化された<好く>に転化するかは恣意的となりうるからである。  (P164-P165)


備考






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31 感情 かんじょう W 心的現象としての感情
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項目抜粋
1

B●ここでシュナイダーが「感情がみな本物でない空虚なものになったように感じる」とか「無関心な、あきらめ切った、なるようになれというような態度」とよんでいるものは、本来的には<中性>の<感情>をさしているといえる。そして、心的な<異常>あるいは<病的>ということが、<感情>の障害となってあらわれるばあい、真に原因となり、また結果となるのは、外側から観察された<温みのある接触の喪失>とか<感情移入の不可能>とかいうことではなくて、<中性>の<感情>の構造が<異常>または<病的>になっているかどうかということである。

●精神症候、とくに分裂病の症候を、わたしたちは知らず知らずのうちに、フロイドや、もっと極端なばあいパプロフのように、個体のある時期、あるいは人類史のある未明の時代における人間の感性への<退行>にむすびつけてかんがえやすい。…・しかし、人間は<感情>的にいっても、<好き>とか<好かぬ>ということが、いかに重要であるかのようにみえようとも、真に人間的な<感情>の構造は<中性>の<感情>のなかにしか存在しないといっても過言ではない。なぜならば、<中性>の<感情>こそが、人間の観念作用の必然的な特性、いいかえれば<感情>の対象的な<遠隔>化の結果としてのみあらわれる構造だからである。もっとも不可避的に云って、人間は<感情>として<好き>や<好かぬ>の対象を<遠隔>化させるのである。だから<異常>あるいは<病的>とみなされる精神の働きは、一見すると外からは<感情>の喪失とみなされやすい<中性>の<感情>のなかに、もっともあらわれると申すべきである。     (P166-P167)

項目抜粋
2
註1.「しかし、人間は<感情>的にいっても、<好き>とか<好かぬ>ということが、いかに重要であるかのようにみえようとも、真に人間的な<感情>の構造は<中性>の<感情>のなかにしか存在しないといっても過言ではない。なぜならば、<中性>の<感情>こそが、人間の観念作用の必然的な特性、いいかえれば<感情>の対象的な<遠隔>化の結果としてのみあらわれる構造だからである。もっとも不可避的に云って、人間は<感情>として<好き>や<好かぬ>の対象を<遠隔>化させるのである。だから<異常>あるいは<病的>とみなされる精神の働きは、一見すると外からは<感情>の喪失とみなされやすい<中性>の<感情>のなかに、もっともあらわれると申すべきである。」

備考




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