Part 5
心的現象論序説

  北洋社 1971.09/30発行 



項目ID 項目 論名
32 発語 X 心的現象としての発語および失語
33 失語 X 心的現象としての発語および失語
34 概念 X 心的現象としての発語および失語
35 概念障害 X 心的現象としての発語および失語
36 概念障害 X 心的現象としての発語および失語
37 規範障害 X 心的現象としての発語および失語
38 発語における時間と空間との相互転換 X 心的現象としての発語および失語











項目ID 項目 よみがな 論名
32 発語 はつご X 心的現象としての発語および失語
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<概念>構成へ向う心的志向性の障害 規範としての言語についての心的な障害
項目抜粋
1

【1 心的現象としての発語】

@●ここでは文学の表現の理論を追及しようとしているのではない。だから言語が表現としての構造と、規範としての構造を因子としてもっていることをあらかじめ指摘しておきたいのだ。そして表現としての言語と規範としての言語とは<逆立>しようとする志向性をもっている。

 この問題にさらに立ち入ってみる。

 表現としての言語は、心的な現象としてみれば、ただ<概念>のこちら側にむかつてのみ自己表現をとげようとする傾向にある。それが外化されて話されるとか書かれるとかは第二次的なもので、ただ<他者>からは緘黙しているとみられる状態のなかで、ひとつの<概念>が構成されれば充たされるという傾向をはらんでいる。言葉にならない言葉を、ある瞬間にわたしたちが感じたとすれば、これは心的にただ<概念>にむかって言語がその本性をなしとげようとしているからである。   (P170)

●心的にみられた自己表現としての言語、いいかえれば<概念>を構成する方向に志向する心的な構造は、対象に対する空間化度を知覚作用からかりることはありえないから、ただ対自性そのものを空間化度に転化するほかはない。したがって<概念>の空間化度はまったく恣意的でありうるとかんがえられる。  (P171)


項目抜粋
2

●たとえば<灰皿>という言葉の<概念>は、<煙草の灰を落し吸がらをあつめるための容器>である。そしてこの<灰皿>という言葉の<概念>の空間化度は、知覚(たとえば視覚や触覚)として得られる個々の灰皿の空間化度から綜合的に抽出された共通性として、確定した空間化度をもっている。しかし、心的にみられた表現としての<灰皿>、いいかえれば<概念>の構成へと志向する心的な構造としての<灰皿>の<概念>の空間化度は、まったくその個人の体験した<灰皿>に付着した任意の空間化度をとりうるとみなされるのである。つまり、Aがあるとき視たり触ったりして体験した灰皿の像が、Aにとって灰皿の<概念>でありうるのである。

 つぎに、規範としての言語という側面から、灰皿とはなにかをかんがえれば、ここでは<灰皿>=記号的灰皿であり、<灰皿>という共通性は、どんな具体的な灰皿とも無関係に成立する記号でしかない。そこでは灰皿という受容の空間化度はある位相(論理系の位相)にあるのっぺらぼうな単一な面に拡がっている。ただ、のちにいくらか詳しく立ち入ることができるように、このばあい<灰皿>という共通性は、<関係>意識にかかわってくる。      (P171-P172)

Aわたしはここで言語の心的な障害、いいかえれば広義な意味での<失語>の現象を扱おうとしているのだが、言語にあらわれる心的な障害は、どんな多種多様な現象形態をとるとしても、本質的には<概念>構成へ向う心的志向性の障害と、規範としての言語についての心的な障害とにわけることができるものである。もちろん現象形態としてはいずれが基底となるかという傾向性としてしかあらわれないとしても。   (P172)

備考





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33 失語 しつご X 心的現象としての発語および失語
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この世界における人間の存在の仕方の不全
項目抜粋
1

【2 心的な失語】

@だが、心的な<失語>の概念をはっきり類型づけるためには、<気質>という概念にちかいものをどうしても導かざるをえないような気がする。しかしこのばあい、<宿命>(うまれつき)という意味をすこしもかんがえているのではない。人間がこの世界に在るために、在るということ自体から、どうしてもぶつからざるをえない障害にたいする反応の仕方という意味では、たれでもどこかに類型づけられるという必然とみなしたいのである。   (P176-P177)


Aいままでの考察からあきらかなように、心的な失語はただふたつの本質的な態様によってあらわれうる。

 ひとつは、<概念>の心的な構成が不全であることによって、言語が、心的な規範に同調しえないばあいである。(第10図T)

 他のひとつは、言語の心的な<規範>の不全に基づいて、概念の心的な構成が不可能なばあいである。(第10図U)

 ただ、どんな正常な人間でも、ある瞬間に、あるいは、傾向としておこりうるあの<喋言ったってしようがない>、<喋言ることがたくさんあるのにそうするのは空しいからやめる>という<失語>をくわえなければならない。(第10図V)この最後の状態では言語の<概念>の構成力にも、言語の<規範>にも心的な不全はない。ただ、なにかがかれをおしとどめる。おしとどめるものは、かれ自身の存在そのものである。かれがこの世界に在るということの重さがかれを沈黙させるのだ。かれ自身のこの世界における存在が、かれ自身を<失語>に追いやる。人間が<他者>との関係でけっして了解しあえない異和の部分をもっているところでは、精神病理学はまったく責任の外にある。それはこの世界における人間の存在の仕方の不全のなかに根源をもっているからである。

 この最後の場面でも<気質>がものをいうだろうか?

 たしかに<気質>がものをいう。ただこのばあいの<気質>はクレッチマーの気質や性格とは根本的にちがっている。<いやおなじことだ>という次元では、<気質>という概念をつかいたくないのである。かれの<気質>は、この世界のなかでかれの存在の仕方に負っているという意味で、はじめて<気質>は問題となるのだ。  (P180-P182)


項目抜粋
2

Bわたしたちは、本質的に精神分裂病の<失語>を、<概念>としての言語が不全であるために、<規範>としての言語に障害をきたすものであり(第10図T)、躁鬱性の<失語>が、<規範>としての言語が不全であるために、<概念>の構成に障害をきたすものであり(第10図U)、てんかん性の<失語>が、<概念>と<規範>とにおいて、言語は<異常>でないにもかかわらず、<概念>と<規範>の水準が発語的な水準以前でしか結びつかないもの(第10図V)であると想定する。    (P182)

C…・もし分裂病における<中性>の<概念>形成の崩壊をかんがえるならば、「一つの言葉」が問題になるのではなく、<中性>の<概念>の構造が問題となる。強調されてのこった「一つの言葉」が問題になるのではなく、むしろ強調のないランダムな言葉の構造が問題となる。

 分裂病における言語の障害は、もし症候としてあらわれうるとすれば、どんな「一つの言葉」も夢のようには障害を象徴することはできない。発語脈あるいは沈黙の全体性が、はじめて障害の像を浮びあがらせるとみるべきである。   (P185)


備考




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34 概念 がいねん X 心的現象としての発語および失語
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拡張された<概念>と<規範>
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1

【3 心的現象としての<概念>と<規範>】

@こういう過程を、外界にある対象としての灰皿と、<わたし>のあいだにではなくて、<わたし>の心的な現象としてとらえかえしてみる。すると灰皿についての<概念>とは、視覚作用の次元を離脱することで、はじめて可能な、無数の対象に共通した心的くくり方であることがわかる。なぜなら、灰皿を視覚的に受容しながら、同時にそれを<灰皿>の心的共通性としてくくることは不可能だからである。いいかえれば、一般に<概念>は対象的感覚の受容のどんな空間化度とも対応しないものであることがわかる。それならば、一般に、概念作用の<空間化度>と知覚作用の<空間化度>とは、ただ度合を異にするだけだろうか?

 おそらくそうでない。<概念>作用の空間化度は、知覚作用の空間化度とは質的にまったくちがっているとみなされる。もし<概念>の構成にとって、ある空間化度を想定することが必要だとすれば人間の心的領域の対自的な抽象(作用)を、対象として措定した空間化度の一系列ということになる。いいかえれば自己の自己抽象にたいする空間化度が<概念>の空間性である。

 おなじように<概念>の時間化度は、抽象(作用)にたいする了解の時間化度である。いいかえれば自己の自己抽象にたいする了解の時間性である。そこで、心的現象としての<概念>を、つぎのように定義することができる。

 心的現象としての概念とは自己抽象にたいする自己対象的な空間化度と時間化度の錯合した構造である。   (P186-P187)

Aいま、この過程を心的な現象として追ってみる。<わたし>が、煙草の灰をおとし、吸がらを入れる容器を<灰皿>と呼ぶとき、<わたし>の心的領域にはある約定にしたがったという感じが喚起される。この感じは、<わたし>が眼のまえに灰皿をみているということとは関係がない。いいかえれば、一般的にいって知覚とその対象とは関係がない。

 この心的な約定は、ただわたしの<身体>が現にここにあり、それが心的な領域を原生的疎外の領域としてもつということだけに根拠をおいている。(このばあい外的約定とわたしとのあいだの約定では、文化、習慣、習い覚え等々に根拠をおく)。この心的な約定が存在しうるために、心的な現象としてのある受容の空間化度と了解の時間化度とが必要であるとするならば、このような空間化度と時間化度とはなにを対象として措定するだろうか?


項目抜粋
2

 わたしのかんがえでは、<関係>(作用)そのものが心的な<規範>の対象である。それゆえここでも<規範>の空間化度は自己の心的領域の自己による<関係>(作用)に対する空間化度であり、<規範>の時間化度は<関係>(作用)の了解の時間化度である。ここで心的現象としての<規範>をつぎのように定義することができる。

 心的現象としての<規範>とは自己関係にたいする自己対象的空間化度と時間化度との錯合した構造である。

 このように定義された<概念>と<規範>とは、言語的な<概念>と言語的な<規範>の領域からはるかに拡張されている。ここでは<概念>は、ただちに言語に対応する実体ではないし、<規範>は言語の規範を意味していない。しかり、心的な<概念>や<規範>は、ただちに言語のそれを意味してはいないのである。だから心的な<概念>と<規範>とが言語を喚起するためには、幸運にも(そうだ、いわゆる正常人は幸運である)、心的な<概念>と<規範>とが同致することが必須の条件である。そうでなければ、わたしたちはどうしてさまざまな形をとりうる<失語>や<緘黙>や<独語>の現象を理解することができよう?言語障害のさまざまな態様が包括されるためには、言語表現の<異常>を<中性>構造に転化しつつ存在する心的な現象として、拡張された<概念>と<規範>とが問題となる。  (P188-P189)


備考




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35 概念障害 がいねんしょうがい X 心的現象としての発語および失語
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項目抜粋
1

【4 概念障害の時間的構造】

【アルコールをしたたかに飲んだ場合】

@このばあいあきらかに<くどく>なるのは、発語した瞬間にじぶんの言葉が<忘却>されるためではない。もしそうなら、つぎには、まったくべつの発言がとび出してくるはずである。<くどく>なるのはあくまでも自己にとって自己の発言の<概念>が所定の了解の水準をもちえないためである。じぶんの発言が<他者>へ伝達されたかどうか不安になるのは、あくまでも自身にとって発語の<概念>が所定の時間的な度合で了解できないためである。いいかえれば心的な自己抽象の障害であるということができる。

 一見するとべつの問題のようにみえるが、さきにあげた<観念奔逸>の例も、本質的にはこれと変わりがないようにおもわれる。  (P191)

A●いま例にあげた<観念奔逸>をあつかってみる。

 まずはじめに、<入院ですか、それは私の弟が私のことを病気だといいましてね>という発語が成りたつための条件を、時間性に則してふたつあげてみることができる。ひとつは<入院>という名詞の発語の<時間>的なあとに<です>という助動詞が発言され、そのあとに<か>という助詞が発語される……という<時間的>な順序の統覚が心的に存在するということである。もうひとつは、<入院>、<です>、<か>という発語がそれぞれの内部では、あたかもひと息を呼吸するように、心的な意味で共存的に統覚されていることである。だからここではすでに<入院>(ニューイン)という発語に要する自然的時間と、<入院>という<概念>にむかう心的に共存する時間とは異っている。さらにもうひとつは、<入院>と<です>との発語のあいだには、<入院><です>というそれぞれの発語自体とはちがった心的な<時間>がぜひとも存在しなければならない。

 そこで<入院ですか>という言葉が発語されるには、すくなくとも三つの異った心的な<時間>がなければならない。これを記号にすれば、 入院 です か

                       <―   \  />という心的な時間がこの順序で存在しなければならない。

項目抜粋
2
 それに、<入院>と<です>と<か>のあいだに、異質な<時間>あるいは空虚な<時間>があるということは、外側からは承認されない。なぜならば、たれも<入院>―<です>―<か>と、言葉に間隔をおいて区切りながら発語するものはなく<入院ですか>とひと息に発語すると同時に、共時的に了解するだろうからである。しかし、それにもかかわらず、心的な<時間>がこれを異質な、しかも前に発語された概念を包括する意味で後の発語があることを<分割>できなければ、<入院ですか>という言葉の発語自体が不可能であることははっきりしている。    (P193-P194)

備考




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36 概念障害 がいねんしょうがい X 心的現象としての発語および失語
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項目抜粋
1

●ここで、まず、ひとつの問題がおこる。

 <入院ですか>という場合、<です>というとき前の<入院>という言葉の概念を<記憶>しているのだろうか?また<か>と発語するとき、その前に発語した<入院です>という語の概念は<記憶>されているのだろうか?

 ベルグソンのようにいえば意識の持続の変化する線に沿って<記憶>が現在化されることは承知するだろう。しかし<記憶>という概念はわたしたちの考察にはそぐわない。

 わたしのかんがえでは、このばあい<入院ですか>という発語が可能なための条件は、だいいちに<入院>という概念の心的な自己抽象の度合、いいかえれば時間化度がある<水準>をもち、けっしてたんなる<点>でないならば、そしてつぎに<です>という助動詞の概念の心的な自己抽象の度合がある<水準>にあるならば、……<入院ですか>という発語が可能であるとかんがえる。

 もうひとつは<入院><です><か>という言葉の自己抽象の時間化度の相異が心的に受容されるならば、<入院ですか>という発語が可能であるとかんがえるのである。このばあい<入院>と<です>と<か>のあいだの自己抽象の時間化度が相異していることが、心的に受容されるならば、それは<変化>が心的に受容されるために、<入院>のつぎに<です>がやってきて、そのあとで<か>がやってくるというような<順序>を可能にするものであるとかんがえられる。つまりかれはこの意味では<失語症>ではありえないのだ。

 もし、反対に<入院>という概念の自己抽象の度合と<です>という自己抽象の度合と<か>という自己抽象の度合の相異が、心的に受容されないならば、<時間>はのっぺらぼうであるために<入院ですか>という発言の<順序>が不可能である。このばあいには、<入院>という発語だけが可能であるか、あるいは発語自体が不可能なものとなるだろう。

 このようにして、わたしたちは心的現象としての言語の意味を自己抽象の時間化度の水準であると定義することができる。


項目抜粋
2

● ここで当然つぎのような疑問に出遭うはずである。

 なぜ、<入院ですか>という発語体系(脈)が、個々の単語のつながりと順序としてではなく、ひとつの統一として存在しうるのだろうか?この疑問はいままでの説明だけでは解くことはできないとかんがえる。      (P194-P195)


備考

註1.「しかし<記憶>という概念はわたしたちの考察にはそぐわない。」

註2.「このようにして、わたしたちは心的現象としての言語の意味を自己抽象の時間化度の水準であると定義することができる。」

註3.「そして、わたしたちはつぎのように言語の意味を定義する。言語の意味とは意識の指示表出からみられた言語の全体の関係だ。」(『言語にとって美とはなにか』P78-P79)




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37 規範障害 きはんしょうがい X 心的現象としての発語および失語
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項目抜粋
1

【5 規範障害の空間的構造】

@発語のときの意識における<時間>的な変化を了解できることは、そのままでは言葉の表出あるいは発語の受容を意味しない、ということは先験的である。なぜならば、<入院>のつぎに<です>がやってきて、そのあとで<か>がやってきても、<入院>のつぎに<か>がやってきて、つぎに<です>がやってきても、自己抽象の意識は、時間化度の変化を了解し、その意味では<順序>を了解することができるにちがいないから。<入院><です><か>と<入院><か><です>との決定的なちがいを、意識は、<時間>的な変化を識知しただけでは、了解できないはずである。もっとげんみつにいえば、<入院>、<です>、<か>と<入院>、<か>、<です>とは、心的な<時間>によっては<意味>の相異としては了解できないはずである。

 <入院>のつぎに<です>がやってきて、そのあとで<か>がやってきたときにだけ、ひとつの発語体系(脈)が成立することを意識が識知するためには、意識は<規範>として、いいかえれば自己意識にたいする<関係>の意識として存在しなければならない。いままでつかってきた言葉でいえば自己関係の空間化度のちがいが識知されていなければならない。   (P196-P197)

A●人間が自己意識にたいするじぶん自身の関係を意識しうるのは、ほかのどんな理由からでもなく、<わたしがここに存在する>という意識を<場所>的にとらえうるということに根源をおいている。その意味では最初の自己関係の意識の空間化度は<わたしの身体がここに在る>ということを、わたしの意識が<場所>として識知するところに発している。

 たとえば、ごくふつうにいって<入院>という名詞がふくんでいる概念は<病院に入ること>である。…・はじめに<わたしがここに存在する>という意識にくらべて、<病院に入ること>という概念が異った空間性の度合として、わたしの意識と<関係>していることだけは確かに識知できるはずである。またこの意味では<です>という助動詞や<か>という助詞が、それぞれ<わたしがここに存在する>という場所的な識知にたいして、<入院>という概念とは異った空間性の度合として<関係>していることだけは確実である。それならば<入院ですか>という発語体系が、時間性の変化と順序としてではなく空間性の変化と順序として<わたし>に統覚されうるのは、それぞれの発語が、<わたしがここに存在する>という自己の場所的な存在にたいする自己関係にたいして、それぞれ異った空間性の度合として存在することが、<わたし>に識知されるためである。このようにして<入院ですか>という発語体系は、いわば<正常>な発語としてはじめて存在し、またはじめて<他者>に理解されるということができる。  (P197-P198)


項目抜粋
2

●もしも、この空間性の度合の<関係>のどこかに、障害があれば、時間障害とおなじように、さまざまな形の<失語>をうみだすとかんがえることができる。

●ところで、わたしたちはここで、<観念奔逸>の例について取上げている。このばあい<観念奔逸>というのは、発語体系内部の障害ではない。ひとつの発語体系と、つぎの発語体系との転換に<異常>があるということである。

 さきの例でいえば、<入院ですか、それは私の弟が私のことを病気だ病気だといいましてね。>までは発語体系にどんな<異常>さもふくまれていない。しかしここで<弟>という発語に<私>にとっての<障害>があらわれる。このばあい、<私>にとって、<弟>という言葉は<おなじ両親からじぶんより後に生れた男性>という概念を逸脱する。この逸脱は<弟>にたいする感情が歪められているとか、過去と現在の<弟>とのかかわりあいの記憶によって歪められているとかいうことではない。現在の発語として逸脱があるというべきである。…・<私>にとって<弟>という概念の自己抽象の時間的な水準に<異常>があるために、発語体系は、突然<弟はそれはひどい人間なんです。小さい時にはよく山へ連れていってやりましたのにね。>というように、本来的な発語体系とはかかわりのない発語脈に<転換>してしまうとかんがえることができる。

 では、なぜ、<私>にとって<弟>という発語の概念が、自己抽象の時間性に<異常>があるだけで、発語体系の総体がまったく<転換>してしまうのだろうか?

 …・ただはっきり云えることは、それまでの発語体系を統覚している時間化度と空間化度の綜合的な構造が、<私>にとっての<弟>という発語の時間化度と空間化度の綜合的な構造の強度に及ばなかったということである。    (P198-P199)


備考 註1.「<入院>のつぎに<です>がやってきて、そのあとで<か>がやってきたときにだけ、ひとつの発語体系(脈)が成立することを意識が識知するためには、意識は<規範>として、いいかえれば自己意識にたいする<関係>の意識として存在しなければならない。いままでつかってきた言葉でいえば自己関係の空間化度のちがいが識知されていなければならない。」




項目ID 項目 よみがな 論名
38 発語における
時間と空間との相互転換
はつごにおける
じかんとくうかんのそうごてんかん
X 心的現象としての発語および失語
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時間性の問題 心的な時間性(空間性)の根源
項目抜粋
1

【6 発語における時間と空間との相互転換】

@そこで発語体系における時間性と空間性はどこで相互転換しうるかという問いを提起してみる。

 のちに心的現象としての<規範>はどこまで拡張しうるかという問題を心的な共同性の問題としてもっと普遍的にとりあげることができるかもしれない。それゆえここでは自己抽象の時間性という側面から接近してみることにする。時間性の問題は、極微の世界の問題をのぞいては自然時間という上限と、意識の時間性という下限と、自然体としての人間の生理的な時間と、心的な時間の境界領域の問題として、けっして解決されていないが領域としては知りつくされている。  (P201)

A●いままでかんがえてきたように、A→Bという<時間>性を統覚するに際して、わたしたちはけっして<記憶>や<持続>や<継起>や<知覚>にたよっているわけではない。だいいちに、本来的には<時間>性は、<知覚>とは関係がないのであり、意識の自己抽象の度合が認知されているかぎりは、事象A→Bの<時間>性は存在しうるのである。

 また、わたしたちはA→Bという事象の転換を<時間>性として認知するために、どのような<記憶>にもたよってはいない。いいかえればベルグソンのいうようにAとBとの自然的な時間差の統一、また、へつの云いかたをすれば、過去の記憶と持続を現前化して意識することで、時間を獲得するのではない。<時間>は現存する事象の、自己抽象の度合と水準が認知されるかぎりは、意識にとりこむことができるのである。そして、事象A→Bが感覚に関与するかぎりにおいてだけ、フッサールのいうように<知覚>は<時間>に関与するにすぎないのである。

 ついでにいえば、おなじことは事象の<空間>性についてもあてはまる。わたしたちが事象A→Bの自己意識の関係の度合と水準さえ認知できれば、そこに意識の<空間>性は存在しうるのである。

 わたしたちは、意識の<時間>と<空間>について語るのに<知覚>的な与件を用いねばならないという現象学的な必要性をみとめない。
     (P204-P205)


項目抜粋
2

●いま、事象A→Bを、実例として発語A→Bとかんがえてみれば、フッサールの単純さと誤解ははっきりしてくる。発語Aが事象Aでありうるのは、それが空気の振動として<他者>と共有しうるからである。だから発語Aが<知覚>と関係づけられるのは、それが空気の振動として<聴覚>に関与するという点においてだけである。…・

 わたしたちは、このようなあいまいさに排除を施した後に、<発語>体系の時間性と空間性はどこで相互転換しうるかという問題に到達することができる。

 いままでの考察からあきらかなように、<発語>体系の時間性と空間性が相互転換しうるのは<自己抽象>と<自己関係>とが共通でありうる根源においてだけである。いうまでもなく自己抽象の意識と自己関係の意識とは矛盾するようにみえる。なぜならば、自己抽象の意識はどこまでいっても<わたしはわたしである>という自己同一性であり、自己関係の意識は、どこまでいっても<わたしにとってのわたし>という自己対象性をふくむからである。しかしこの矛盾を同致しうる根源があるとすれば、人間が自然体であるにもかかわらず、<わたし(の身体)がここに在る>という現存性の意識をもちうる点にもとめるよりほかにないのである。           (P205)


備考




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