Part 6
心的現象論序説

  北洋社 1971.09/30発行 



項目ID 項目 論名
39 夢の初期条件 Y 心的現象としての夢
40 夢の初期条件 Y 心的現象としての夢
41 入眠時の心的領域 Y 心的現象としての夢
42 夢の意味 Y 心的現象としての夢
43 夢の意味 Y 心的現象としての夢
44 なぜ夢をみるか Y 心的現象としての夢
45 夢の解釈 Y 心的現象としての夢
46 夢の解釈 Y 心的現象としての夢
47 夢を覚えているとはなにか Y 心的現象としての夢
48 夢を覚えているとはなにか Y 心的現象としての夢
49 夢の時間化度と空間化度の質的差異 Y 心的現象としての夢
50 夢の時間化度と空間化度の質的差異 Y 心的現象としての夢
51 一般夢 Y 心的現象としての夢
52 一般夢 Y 心的現象としての夢
53 一般夢の解釈 Y 心的現象としての夢
54 類型夢 Y 心的現象としての夢












項目ID 項目 よみがな 論名
39 夢の初期条件 ゆめのしょきじょうけん Y 心的現象としての夢
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項目抜粋
1

【1 夢状態とはなにか】

@●夢が本質的になんであるかからはいらずに、夢がどんな条件であらわれるかという問題からはいってゆく。この問題もつきつめてゆけば実験医学の領域にはいりこむことになる。しかし、初期条件は見かけ上きわめて単純だから、さしあたって、初期条件だけを問題にする。類てんかん性の<入眠>、<周期的傾眠>のような病的なばあいをのぞけば、夢は眠りに条件づけられてあらわれることは確かだとおもわれる。  (P208)

●この眠りの状態が、心的現象を制約する条件をまずさがすことになる。眠りは眼をひとりでに閉じてする就眠のばあいも、白昼の眼をひらいたままの<入眠>状態のばあいも、まず対象にたいする感覚的な受容を閉ざすことは確からしい。  (P209)

●つぎに、正常な覚醒時にやってくる対象に対する心的な了解の構造は変容をこうむるとかんがえることができる。眠りの状態のときも、わたしたちは了解に似た作用をもつ時間があるかもしれない。しかし、その了解は覚醒時の了解と同一ではない。眠りの状態で体験した了解作用が、そのままめざめてのちに蘇らなかったり、納得されなかったりするということだけからも、確かに了解の構造が変容している。

 つまり、心的にみられた眠りとは感覚的な受容を閉ざし、了解を変容させた状態を意味している。夢はこの眠りの心的な状態を必ずおとずれるとはいえないまでも、この心的状態にかならず限定づけられてあらわれる。  (P209)


項目抜粋
2

A形像の強さや鮮明さからみた夢の上限と下限とは、なにを示唆するのか?

 眠りの状態が、まず対象の感覚的な受容を遮断するということからやってくるのは、夢が形像のかたちでやってきても(上限夢)、非形像のかたちでやってきても(下限夢)、あらわれる夢表現に対して、<入眠>時の心的な領域は一義的な【ルビ アインドイツテイツヒ】対応性をもたないということである。なぜならば、対象が<身体>の外部に実在しないことから、心的な受容の空間化度は、それぞれの感官に固有な水準と境界をもちえないで、無定形な空間化度の集積にすぎなくなるにちがいないからである。おなじように眠りの状態が了解の構造を変容させるということからやってくるのは、夢が、どんな形像あるいは非形像のかたちでやってきても、あらわれた夢にたいして<入眠>時の心的な領域は、所定の了解をなしえないということである。なぜならば、心的な了解の時間化度は、対象が概念を結ぶような構造と水準をもちえないだろうからである。   (P210-P211)

Bこの問題についてなんの前提もせずに答えうる限りのことを云えば、夢の形像は、ある時にある場面で実際にみた形像とはまったく関係がないということである。また、もちろん記憶残像が再現されるのでもない。夢の形像は、眠りによって条件づけられた心的な受容の空間化度が消失し、心的な了解の時間化度が変容することから直接に必然的にやってきたものである。つまり、意識が対象を受容し了解するという構造をたもちえないところから、必然的に与えられたものが夢の形像であって、いかなる意味でも視覚像ではありえない。   (P211-P212)


備考




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40 夢の初期条件 ゆめのしょきじょうけん Y 心的現象としての夢 
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1

Cたとえ、夢のなかに、過去のある場面で、じっさいに遭遇した形像があらわれたとしても、この形像が過去の記憶の再生であるということには意味がないのであって、ただ本来的には心的な規範の空間性と心的な概念の時間性が、所定の水準を失ったために心的な言語の意味構成の水準を崩壊させた結果として、形像となってあらわれたという点に意味があるだけである。そしてさきにあげた非形像的にあらわれる下限の夢においては、形像的な夢ほどには心的な言語の意味構成の水準は変化をうけていないとかんがえることができる。

 このようにして形像的なあるいは非形像的な夢は、<入眠>時の心的な領域に条件づけられた必然ではあるが、この必然はそのままでは、かならずしも夢のもつ本来的な意味本質を指していない。このように必然としてかんがえられる夢は、ただ<入眠>時の心的な領域の構造的な崩壊とか弛緩とかいう受動的な意味をもっているにすぎない。  (P212)

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2
備考




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41 入眠時の心的領域 にゅうみんじのしんてきりょういき Y 心的現象としての夢 
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擬似的な了解 、擬似空間性
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1

【2 夢における<受容>と<了解>の変化】

@●夢を眠りの状態に固有のものとするかぎり、まず外にある対象の感覚的な<受容>は、まったく遮断されるとかんがえてよい。それで本来的な<受容>が、夢においてどう変化するかが問題となる。

 まず、<受容>は、それぞれの空間化度の境界と水準を消失して一集合の堆積に変容するとかんがえられる。もっともありうべき変化の構図は、もしも夢が形像化してあらわれるならば、この形像化に関与した意識の空間化度を除いたほかの<受容>は、時間的な構造に転化するだろうということである。この意味は、たとえばつぎのようなことである。  (P213)

●いま、<わたし>がビルディングの屋上から下の道路を鳥瞰する位置で、小さく往還する車や人人のすがたを夢にみたとする。<わたし>にとって心的にこの高所からの俯瞰は恐怖である。すると<わたし>の心的な恐怖と、<わたし>の夢にあらわれた下の方にみえる道路の往還する車や人人の形像の関係は、形像化されたその風景の空間化度以外の意味する空間性を時間性に、いいかえれば擬似的な了解に転化することによって与えられるということである。この擬似的な了解はいわば、自己了解に属するから、<わたし>の心的な状態との関係性の了解に還元されるとかんがえられる。いいかえれば、<わたし>がその風景の形像を夢にみながら、同時に夢のなかでその夢の形像の意味をなんとなく<了解>しているといった心的な体験をやっている。

 おなじことは心的な<了解>の変容についてもいえる。

 夢において<了解>作用は、夢の形像とつぎつぎにおこる形像の移動や結合や短絡といったような、形像の移動する場面の<了解>の時間化度をのぞいた時間性を、擬似的に空間性に転化するにちがいない。これがおそらくは、まったく思いもかけない形像と形像とが、夢において結びついたり、転換したりする理由である。      (P213-P214)

項目抜粋
2

●夢の形像の運動や結合が突飛でありうるのは、形像の運動性が、形像の了解に固有な時間化度をのぞいて空間性に転化したところの、いわば擬似空間性に左右されるためである。いいかえれば、夢の運動性が本来的な心的矛盾によって左右されるからである。つまり形像は、形像の了解に固有な時間性を排除されながら、しかも残余の時間性を空間構造の移動に費やすという矛盾をやっている。

 この矛盾は、夢の形像が、一定の心的な志向にそってパラレルに移動することにより意味を構成するという作用を、さまたげずにはおかない。   (P215)

Aこの理解される形像であらわれる上限夢は、つぎの第11図で示すことができる。

 ここで形像をなにもともなわないで考想の継続、判断、結合だけが存在するような下限の夢は、可能性としては入眠時の心的領域そのものとおなじだとかんがえることができる。いいかえれば、夢のなかで、じぶんが夢をみていることを識っているようにおもえるというあの心的な領域が、いわば夢の下限としての性格を典型的にもっている。  (P216)

B夢の形像や非形像の移動、転換、結合は、フロムのいうように空間と時間のカテゴリーを無視されてしまうと云うべきではなく、ただ<入眠>時の心的領域を支配する空間性と時間性の変容に左右され、限定されるというべきである。  (P217)

備考




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42 夢の意味 ゆめのいみ Y 心的現象としての夢
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入眠言語
項目抜粋
1

3 夢の意味】

@夢は本来的にはなにごとか意味をもっているのだろうか?あるいはなんの意味もない恣意的な荒唐無稽なものであろうか?  (P217)

A経験的な夢の判断を脱して、夢に本来的な意味をあたえたもっとも重要なかんがえは、フロイドによって提出されたものである。…・

 夢が「充たさるべき願望」だとフロイドがかんがえたとき、すくなくともふたつのことが方法的に前提されている。ひとつは、夢の意味を夢の形像(あるいは非形像)そのものに求めたり、因果的な関係を夢表現にもとめないということであり、もうひとつは「検閲」という概念をもうけて、一見すると支離滅裂のようにみえる夢の形像(あるいは非形像)の運動性を救済することである。べつのいいかたをすれば、夢の形像(非形像)表現はある潜在思想の顕在化したものと解すべきであり、この顕在化が撩乱されてあらわれるのは、心的な「検閲」を通過するためだということである。

 このふたつの前提は、いくらかちがった概念と定義をつかってかんがえたとしても、おおよそのところで承認することができそうにおもわれる。しかし、現在までの考察の範囲では、夢の原動力が「充たさるべき願望」だというフロイドの見解には保留をつけなければならない。この問題にについて一定の見解を披瀝するためには、夢の形像(または非形像)の動因をもうすこし緻密にかんがえてみなければならないからである。  (P217-P219)

Bわたしのおおつかみな想定では、〈入眠〉時の心的な領域でも、変容された不完全な自己概念と自己規範を因子として、入眠言語とよぶべきものが成立しうるとかんがえられる。そしてこの入眠言語が、抵抗なく流通しうるならば、夢は形成されずにすむものと仮定する。しかしなんらかの原因から、入眠言語が流通しえなくなったとき、夢は形像または非形像によって形成されるのではないかとかんがえられる。   (P219)


項目抜粋
2
備考




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43 夢の意味 ゆめのいみ Y 心的現象としての夢
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1

C●夢は、いうまでもなく〈特殊な〉心的な自己疎外である。そしてこの〈特殊な〉という意味を、もっとも範疇的に規定するものは、それが眠りの心的な世界でだけ可能だということである。

●正常な覚醒時の心的な領域にとって〈身体〉は(身体の意識はではない)、いわば〈自然〉に属している。そしておなじように、夢にとっては、覚醒時の心的な領域が、こんどは第二次的な〈自然〉に属している、ということができる。そして、覚醒時の心的な領域を、どこまで第二次的な〈自然〉に転化しうるかという度合が、夢の形像の強さ、鮮明さの度合を左右するとかんがえられる。上限の形像的な夢は、覚醒時の心的な領域をよりよく〈自然〉化しえた場合であり、非形像的な夢は、この〈自然〉化があまり巧くゆかなかった場合にあたっている。それゆえ、形像の鮮明なそして運動性に富んだ夢ほど〈正常〉な夢にちがいない。それは覚醒時の心的な領域を、充分に強固に固定しえているから〈自然〉化がよりよく行われているのだといいうる。そして非形像的な夢は、反対に覚醒時の心的領域を強固に定着しえないために、覚醒時の心的な調音がそのまま〈入眠〉時に移行し、したがって形像化がうまくおこなわれないのである。

 つぎにやってくる夢の〈特殊な〉という意味は、〈受容〉の空間性が、ある特定の空間化度をのぞいて時間性に転化され、また心的な了解の時間性は、ある特定の時間化度をのぞいて空間性に転化されるということである。それゆえ、夢の内部では特定の空間化度と時間化度に対応する意味だけが存在し、夢の外では特定の空間化度と時間化度をのぞいたすべての空間化度と時間化度にみあった多義的な意味性が流れることになる。で夢は〈入眠〉時の心的領域にあらわれた〈充たされた空孔〉という比喩によってあらわすことができる。

 しかも〈入眠〉時の心的領域は、とうぜん特別な構造をもっている。特定の空間化度をのぞいて〈受容〉の空間性は時間的な構造(擬似了解)に転化され、特定の時間化度をのぞいて〈了解〉の時間性は空間的な構造(擬似受容)に転化されているからである。〈わたし〉が夢のなかで夢の〈形像〉(または非形像)を〈了解〉しているとき、その〈了解〉は本来的には〈受容〉の空間性を意味し、夢の形像(または非形像)を〈受容〉しているとき、それは本来的には〈了解〉の時間性を意味している。  (P222-P224)


項目抜粋
2

●それゆえ、形像的な(または非形像的な)夢の意味性は、形像(または非形像)がそのままでみせる意味にはなく、むしろそれが意味しないところにもとめられる。いいかえれば、〈入眠〉時の心的世界の逆立的な構造のなかに、である。

 〈入眠〉時の心的な領域は、もしも〈夢〉がみられることがないとすれば、覚醒時の心的な領域を第二次的な〈自然〉と見做したときの第二次的な心的領域であるが、〈夢〉がみられるや伊奈逆立的な構造に転化する。

●ふつう〈夢をみる〉といういい方で夢形成を呼んでいる。しかし、もっと厳密にいえば、夢を〈しゃべる〉とか夢を〈書く〉とか呼ぶべき場合にも出合うことがわかる。綜体的にいえば夢を〈表現〉するのである。夢が表現されたものとかんがえられたとき、入眠言語と入眠形像との間の関係の問題に遭遇していることになる。じじつ、わたしたちは〈うわ言〉で夢を形成したり、〈書く〉ことで夢を形成したりすることもあるし、なんとも支離滅裂な文字を読みながら夢みていることもある。  (P224)


備考 註1.「夢は、いうまでもなく〈特殊な〉心的な自己疎外である。そしてこの〈特殊な〉という意味を、もっとも範疇的に規定するものは、それが眠りの心的な世界でだけ可能だということである。」




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44 なぜ夢をみるか なぜゆめをみるか Y 心的現象としての夢
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1

【4 なぜ夢をみるか】

@なぜ人間は(一般には動物は)夢をみるのだろうか?そして、ある場合には夢をみるが、ある場合には夢をみないようにみえるのはなぜだろうか?夢は忘れられるだけであって眠りの心的な状態にとって夢は不可避なものであろうか?

 フロイドは、この問題に、かれの体系にそくして、はっきりとした回答をあたえている。  (P225)

A「検閲」「抵抗」の減退が、夢形成を可能にするし、また、それがあるために、夢は覚醒した時に忘れられるというのは、フロイドが明瞭にいい切っているところである。

 ところで、いままでの考察から、この問題について云いうることは、ただひとつ、〈入眠〉時の心的な領域で特定の〈受容〉と〈了解〉とに〈選択〉の強度が集中しうるならば、夢は形成されうるということだけである。なぜそのような〈選択〉がおこりうるかはあきらかではない。

 夢にとっての〈環界〉は、〈入眠〉時の心的な領域そのものであり、夢にとっての〈身体〉は、覚醒時の心的領域そのものである。そこで、〈入眠〉時の心的な領域と、覚醒時の心的な領域とが〈関係づけ〉られる条件があるならば、すくなくとも夢は可能性としては形成されうる。しかしこの可能性は、夢が表現されることと同一ではない。夢が表現されるためには、〈入眠〉時の心的領域が覚醒時の心的領域と〈接触〉するとともに、その〈接触〉によって心的な〈表出〉力が働かなければならない。いいかえれば、このような〈接触〉を異和とおぼえるような補償力が、異和をなだめるために作用しなければならないはずである。   (P226-P227)


項目抜粋
2
備考 註1.「ところで、いままでの考察から、この問題について云いうることは、ただひとつ、〈入眠〉時の心的な領域で特定の〈受容〉と〈了解〉とに〈選択〉の強度が集中しうるならば、夢は形成されうるということだけである。なぜそのような〈選択〉がおこりうるかはあきらかではない。」




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45 夢の解釈 ゆめのかいしゃく Y 心的現象としての夢
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〈わたし〉の幼時の夢
項目抜粋
1

【5 夢の解釈】

@しかし、フロイドの方法に依存するためには、どうしても〈記憶〉とか〈無意識〉とか〈前意識〉とかいう概念を、げんみつにフロイドが想定したとおなじ意味で認めなければならない。

 わたしたちは、〈幼児記憶〉が〈無意識〉のなかにしまい込まれていて、何十年もあとで夢のなかにあらわれるといった心的系統発生論をそのまま認めがたい。幼児の体験が、心的な現存性としてあらわれるとすれば、かならず〈現在〉の心的なパターンとしてだけ意義をもっている。それは〈記憶〉ではなく心的なパターンというべきである。  (P228)

A●〈わたし〉が子供の時にみた夢で、現在も鮮やかにパターンを覚えている夢がある。フロイドのいう「子供の時分に見た夢で、何十年も経って猶、まざまざと記憶に残つているような夢」にあたっている。      (P228)

【その夢の記述】  (P229)

●〈わたし〉は、ごく通俗的に、ここには〈わたし〉の倫理性の基盤が象徴されていると長い間おもいつづけてきたらしい。…・〈わたし〉は、この少年時の夢を、〈わたし〉の倫理的な面での発生点とかんがえてきた。いつもこういうような矛盾を、他の人間とのあいだ、他の事件とのあいだに感ずるので、その典型的なパターンを、この子供のときの夢が保存しているとかんがえてきたらしい。しかし〈わたし〉のこの夢の解釈はもっと疑ってみたほうがよいようにおもわれる。   (P230-P231)

●フロイドの方法によって、この〈わたし〉の幼時の夢を解釈すれば、まず〈わたし〉の〈父親〉にたいするリビドー的な関係の異変として了解されるとおもう。…・〈わたし〉が、この幼時の夢を何十年も経た現在もまざまざと保存しているとすれば、〈わたし〉のこの世界にたいする異和は、〈父親〉にたいする〈リビドー〉的な関係の異和に発祥していることを示している。なぜならば、この夢のなかの異和がその後、いく度もおなじパターンで繰返されたために、〈わたし〉は何十年もたった現在も、まざまざとその夢を記憶しているのである。   (P231-P232)


項目抜粋
2

●ところで、〈わたし〉がフロイドの方法を捨てて〈わたし〉自身の解釈によってこの幼時の夢を分析すれば、どんな問題が提起されるだろうか?

 第一にこの夢は〈わたし〉の〈わたし〉自身にたいする関係づけの失敗を語っている。そしてこの関係づけの失敗は〈わたし〉の〈身体〉にたいする〈わたし〉の観念の関係づけの失敗に根源をおいている。だから〈わたし〉は〈わたし〉の〈身体〉についてある部分にたいしては過剰に執着し、ある部分にたいしてはほとんど無関心である。そこで〈わたし〉は〈他者〉(あるいは他の事象)にたいしても、ある部分については無関心で、ある部分については過剰に執着している。〈わたし〉にとって〈わたし〉は、どこまでも了解可能な底無しの沼のようにおもわれるために、〈他者〉(あるいは他の事象)にたいしても、どこまでも了解可能なものとおもっている。しかし、じじつは〈他者〉(他の事象)なるものは、〈わたし〉と関係づけられている丁度その度合でしか了解可能性をあらわさない。この〈わたし〉の〈わたし〉にたいする了解可能性と、〈わたし〉に関係づけられている〈他者〉(あるいは他の事象)にたいする了解可能性の異和が、〈わたし〉の幼時の夢の基本的なパターンである。いいかえればこの夢は、自己にたいする過剰な執着と自己にたいする過少な関心との両価性を語っている夢である。  (P232)


備考




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46 夢の解釈 ゆめのかいしゃく Y 心的現象としての夢
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心的なパターン 世界にたいする関係の結節
項目抜粋
1

Bところで、フロイドは〈幼時記憶〉というように、〈記憶〉という言葉を便宜的に無造作につかっている。しかし、〈記憶〉というものは、幼年のときにじっさいあったことを、何十年もあとで覚えているといった意味ではもともと存在しない。一般に〈記憶〉とよばれているものは、心的なパターンということにほかならない。そしてわたしたちが心的なパターンをもっているのは、それが世界にたいする関係の結節を意味しているからである。つまり、わたしたちはなんらかの意味で世界に対する関係づけのキイ・ポイントとしてしか〈記憶〉を保存しないし、逆の云い方をすれば〈記憶〉されるものは、それが夢であれ、言葉であれ、出来事であれ、すべて世界にたいする人間の関係づけの結節だけである。   (P232-P233)

C〈わたし〉の子供のときの夢で、いまも覚えている〈夢〉は、しばしば現実体験のなかでおなじパターンとして繰返されたとかんがえてきた。そうだとすれば、この〈ゆめ〉は、いわゆる〈正夢〉【ルビ まさゆめ】に相当している。なぜならこの〈夢〉は、その後で〈わたし〉がぶつかる〈他者〉(あるいは他の事象)との関係を〈予言〉していたことになるからである。ふつう〈正夢〉というときは、夢のなかの情景や出来事が、やがてそのように実現されるというふうになっている。〈わたし〉の夢では情景の細部の形像が実現されるのではなく、その夢の基本的なパターンが実現される。しかし〈正夢〉としての本質的な性格はかわりないのである。ただ形像を主とする夢であるか、非形像が優勢である夢かというちがいにすぎない。  (P233)

Dここで、もしひらき直れば、いくつかの困難な問題が介入してくる。〈夢〉が〈記憶される〉(心的なパターンとして現存する)ためには〈正夢〉でなければならぬ。いいかえれば覚醒時の心的な体験によってなんらかの意味で現実的に裏付けられなければならない。そうでなければ〈夢〉は何十年も保存されるはずがないのである。  (P233-P234)


項目抜粋
2
備考 註1.「一般に〈記憶〉とよばれているものは、心的なパターンということにほかならない。そしてわたしたちが心的なパターンをもっているのは、それが世界にたいする関係の結節を意味しているからである。つまり、わたしたちはなんらかの意味で世界に対する関係づけのキイ・ポイントとしてしか〈記憶〉を保存しないし、逆の云い方をすれば〈記憶〉されるものは、それが夢であれ、言葉であれ、出来事であれ、すべて世界にたいする人間の関係づけの結節だけである。」




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47 夢を覚えているとはなにか ゆめをおぼえているとはなにか Y 心的現象としての夢
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覚醒時の心的な領域と接触していること 〈正夢〉をつないでいる結節
項目抜粋
1

【6 夢を覚えているとはなにか】

@以前にみた〈夢〉で、何十年も覚えているような〈夢〉は、なんらかの意味で現実体験によって裏打ちされた〈正夢〉である。このことは、夢で重要なのは、フロイドのいうように〈検閲〉や〈抵抗〉によってなにを忘却したかということでも、なにが歪曲され、迂廻されて、保存されたかでもなく、なにをおぼえていたかであることを教えている。なぜならば、醒めて後に覚えている夢だけがこの世界にたいする人間の関係の位相を語ってくれるからである。〈覚醒時にも覚えている夢〉というのは、夢にとっては現象的な矛盾であるが、夢が、いいかえれば〈入眠〉時の心的な表出が、覚醒時の心的な領域と接触していることを証拠づけている。    (P234-P235)

A●フロイドは、いわゆる〈正夢〉の機構について、じぶんのみた夢を例にあげてつぎのようにのべている。  (P235)

●フロイドのかんがえで重要なことは、最初の〈体験〉が覚醒時にまったく痕跡さえのこさぬほど忘却されているのに、なお〈無意識〉の奥深くに貯蔵されているとかんがえられている点である。

 けれど、わたしにとってほんとうに重要なのは〈正夢〉をつないでいる結節である。さきのフロイドの夢でいえば、「グロテスクな石像」のある「ビヤ・ホールの入口」が、忘却した〈実見〉とたびたびあらわれる〈夢〉と、そのあとで実際に行ってみて夢でみたとおなじ風景となってあらわれた〈追認〉のあいだを結んでいるという点である。つまり、重要なのは忘却しさった体験と夢と追認とを結びつけているものとしての「グロテスクな石像」のある「ビヤ・ホールの入口」の光景なのだ。なぜなら、この光景が〈夢〉を覚醒時体験につなぎとめている結節だからである。そしてそのかぎりでこの光景には意味がかくされている。   (P237)

B●とうぜんつぎに問われるのは、わたしたちの心的な領域が、〈入眠〉時と覚醒時とを連結する位相で、ある事象をパターンとして現存させているとすれば、このパターンはなにを意味しているのかという問題である。     (P238)


項目抜粋
2

●もちろん、フロイドならば〈幼児記憶〉の〈無意識〉による保存として〈幼児体験〉に意味があるのと、おなじように意味があるとなるはずである。しかし、〈記憶〉とか〈無意識〉とかいう概念をもちいないとすれば、フロイドの解釈ははじめから拒絶される。わたしたちはこの心的に保存されたパターンを心的な固有了解と固有関係とかんがえたいのである。  (P238-P239)

●さまにあげた〈わたし〉の少年時の夢でいえば、〈記憶〉は〈仲間たちがそうしようというときに、《わたし》はためらいをおぼえているが、《わたし》が決意して行ったときには、仲間たちは行わない、この異和には、《わたし》の人間にたいする理解を疑わせるなにかがある〉という概念のパターンとして、往時の夢が保存されている。そして概念のパターンであるため、〈夢〉の形像がどうであったかは重要な意味をもっていない。ただ重要なのは、この概念的なパターンが、〈わたし〉のこの世界にたいする固有了解と固有関係を象徴しており、だからこそ、〈わたし〉は後年になってたびたび現実上の体験として、これとおなじパターンに出遭ったようにおもい、したがって、いわば〈概念の正夢〉のように保存してきたのである。    (P239-P240)


備考 註1.「わたしたちはこの心的に保存されたパターンを心的な固有了解と固有関係とかんがえたいのである。」




項目ID 項目 よみがな 論名
48 夢を覚えているとはなにか ゆめをおぼえているとはなにか Y 心的現象としての夢
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入眠言語と入眠形像 心的な固有了解と固有関係
項目抜粋
1

Cここでふつういわれる〈正夢〉というものが、じつは個体の心的な固有了解の時間性と、心的な固有関係の空間性とによって決定された〈夢〉をさしているということができる。そしてこの〈固有性〉は、〈入眠〉時の心的な領域では、概念のパターンとしてあらわれることも、形像のパターンとしてあらわれることもありうるが、それが〈正夢〉としての本質をもつことはすこしもかわらない。

 いままで挙げてきた二つの長年月のあいだ保存された夢は、夢一般についても両極を象徴している。一方は〈夢〉が入眠言語ともいうべきものによってパターン化され、他方の〈夢〉は入眠形像ともいうべきものによってパターン化されている。…・しかし、どうやら〈夢〉はこの入眠言語と入眠形像との二重性によってあらわれるらしいのである。   (P240)

Dもしも〈入眠〉時における〈夢〉が、覚醒時においても〈覚えられている〉とすれば、この〈覚えられている〉ことのなかには、すでに意味が存在しなければならない。〈覚えられている〉ということは、覚醒時の心的な作用であって、もちろん現実にある事件にぶつかった実体験ではない。しかし観念の体験という意味では、実際体験であるから、〈幻想の正夢〉ともいうべき正確をもっていることはたしかである。それゆえフロイドのように、幼児期の〈リビドー〉の分布に、パターンの原質をもとめることはできないとしても、心的な固有了解と固有関係にパターンをもとめることはできる。そしてここに〈正夢〉ではなくて〈一般夢〉の解釈可能性の問題がフロイドと異った方法で提起されるといえよう。それとともに、〈正夢〉よりもさらに原質的なところに、〈原夢〉ともいうべきものが想定される。  (P241-P242)


項目抜粋
2
備考




項目ID 項目 よみがな 論名
49 夢の時間化度と空間化度の
質的差異
ゆめのじかんかどとくうかんかどの
しつてきさい
Y 心的現象としての夢
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心的な原関係と原了解 既視の夢
項目抜粋
1

【7 夢の時間化度と空間化度の質】

@●しかし、〈既視〉の夢(あるいは白昼夢)において重要なことはそんな問題ではない。幼児にとって〈夢〉は観念の行為そのものである。その〈夢〉が心的な願望であっても心的な飽満であってもどうでもいい。観念の行為そのものであるため、幼児にとって現実的な行為の代同物であることだけが重要なのだ。いいかえれば、幼児にとって観念の行為と現実の行為との区別は未分化であらざるを得ないため、〈夢〉は行為そのものとなる。したがって極限に〈原幼児〉いいかえれば胎児を想定すれば、その観念の行為も現実の行為も、すべて〈いつか視たことがある〉あるいは〈いつか行ったことがある〉とならざるをえない。なぜならば、胎児にとっていかなる幻想上あるいは現実上の行為も、ただ〈胎内に、そこに在ること〉を意味しており、〈行為〉はただ〈そこに存在すること〉以外の意味をもちえないからである。そうであればいかなるものも〈すでに一度みた(あるいは体験した)もの〉であらざるをえないことは、〈存在すること〉が〈すでに一度みた(あるいは体験した)もの〉であるのと同様である。  (P243)

●人間の個体にとって、〈そこに存在すること〉自体は、どんな関係の空間性も了解の時間性ももたないが、ひとたび〈そこに存在すること〉が対自化しうるようになれば(幼児)、そこには自己内の関係の空間性と了解の時間性をもたざるを得ない。これを心的な原関係と原了解と呼ぶことができ、この条件のもとでは〈夢〉は行為そのものを指している。

 〈既視〉の夢(または白昼夢)は、心身の疲労状態のもとでおこる〈ひとたび完結された対象の了解そのものを、ふたたび対象として了解する〉ことであるにすぎないが、この二度目の了解において、対象を心的な原関係と原了解にひきよせることを意味している。   (P243-P244)


項目抜粋
2
Aさきに〈正夢〉とは、夢みたことと現実上の体験とが、その個体にとって固有のパターン(結節)によって同致する現象であるとみなした。そしてこの固有のパターンが、形像であれ非形像的な概念のパターンであれ、夢みた個体自身にとっては重要な意味をもつものであるとかんがえてきた。まったくおなじように〈既視〉の夢(または白昼夢)は〈いつか一度みたこと(体験したこと)がある〉という普遍的なパターンによって、個体のみる夢でありながら、〈存在そのもの〉に還元されるとみなすことができる。いいかえれば、個体が〈そこに存在する〉ことの自己関係自体、自己了解自体の心的な表出とかんがえられるのである。   (P244)


備考 註1.「まったくおなじように〈既視〉の夢(または白昼夢)は〈いつか一度みたこと(体験したこと)がある〉という普遍的なパターンによって、個体のみる夢でありながら、〈存在そのもの〉に還元されるとみなすことができる。いいかえれば、個体が〈そこに存在する〉ことの自己関係自体、自己了解自体の心的な表出とかんがえられるのである。」





項目ID 項目 よみがな 論名
50 夢の時間化度と空間化度の
質的差異
ゆめのじかんかどとくうかんかどの
しつてきさい
Y 心的現象としての夢
検索キー2 検索キー3 検索キー4
夢の解釈可能性
項目抜粋
1

Bわたしたちは対象にたいする知覚作用では、それぞれの感覚(聴覚、視覚等々)によって特有の関係の空間化度と了解の時間化度が存在すると想定した。そしていまさらに、特定の感覚的な空間化度と時間化度の内部で、原関係と原了解、固有関係と固有了解、一般関係と一般了解というようにかんがえられる空間化度と時間化度の質的な差異が生ずると想定せざるをえないのである。そしてこの質的な差異は、人間が〈そこに存在する〉からはじまり〈じぶんの心的な領域のじぶんの身体にたいする心的関係と了解〉をへて〈じぶんと他者(他の事象)とのあいだの関係と了解〉にいたる過程の、質的な差異に対応するとみなされる。   (P244-P245)

Cここまできて、フロイドが〈胎児記憶〉や〈幼児記憶〉が無意識内で保存されるとみなしたものを、原関係と原了解、固有関係と固有了解の空間化度と時間化度の現存性という概念におきかえることができる。

 〈夢〉がもし心的な原関係と原了解のところでやってくるならば、その〈夢〉は〈いつかそんなことがあった〉とか〈いつかそんなことがあるはずだ〉というような〈既視〉あるいは〈未視〉のように体験される。そして心的な固有関係と固有了解のところでやってくるならば、それは心的なパターンとしてそれぞれの個体に固有性の意味をもつとかんがえられる。そしてもし〈夢〉が心的な一般関係と一般了解のところへやってくるならば、その〈夢〉がどんなに荒唐無稽にみえようとも、ある一般的な意味づけが可能な要素から成りたっているとみることができる。

 このような〈夢〉の質的な差異が、生理体にどういう条件のもとでやってくるかを確定することはできない。…・しかしこれらの〈夢〉が、個体の心的な構造のなにに対応するかは、すくなくともいままでみてきたとおり明確に示すことができるようにおもわれる。そのかぎり、わたしたちはどんな〈夢〉も、解釈可能性としてかんがえることができるのである。  (P245-P246)


項目抜粋
2
備考 註1.「こまできて、フロイドが〈胎児記憶〉や〈幼児記憶〉が無意識内で保存されるとみなしたものを、原関係と原了解、固有関係と固有了解の空間化度と時間化度の現存性という概念におきかえることができる。」



項目ID 項目 よみがな 論名
51 一般夢 いっぱんゆめ Y 心的現象としての夢
検索キー2 検索キー3 検索キー4
抽出された共通性
項目抜粋
1

【8 一般夢の問題】

@ここまできてとりあげたいのは、夢が夢みた個人に固有な意味としてあらわれずに、ある普遍的な解釈可能性としてやってくるようにみえるばあいである。夢が心的な一般関係と一般了解の領域にやってくるとき、大なり小なり荒唐無稽の形像あるいは概念の夢となってあらわれる。しかし問題なのは、このような夢はたんに荒唐無稽ののようにやってくるということではなく、荒唐無稽のようにやってくるために、かえって夢みた個人以外の、他の個体にもあてはまるある共通性をとりだすことができるということである。いいかえれば、夢みた特定の個人の〈入眠〉時の心的な世界というだけではなく、その夢の形像あるいは概念のあらわれかたに、ある普遍性をあたえうる可能性をもっている点である。このような夢を一般夢と呼べば、一般夢は夢みた個人の固有な心的世界の内奥について、あまり語らないかもしれないが、個体としてみた人間一般の心的な世界として、共通性を想定することができるようにおもわれる。      (P246)

Aフロイドが〈婦人帽子〉→〈男性器〉という対応性を、夢の顕在内容と潜在思想のあいだにかんがえているとき、それは抽出された共通性【註 抽出された共通性に傍点】としてかんがえられている。つまり具体的な個々人に固有なものでもなければ、具体的な万人に共通でもなくて、諸個人における抽象された共通性【註 諸個人における抽象された共通性に傍点】として想定されているといえる。

 この抽象された共通性という意味は、さまざまの問題をはらんでいる。     (P248)

B一般夢においては、夢の形像は夢みた個人の心的な世界を、ある共通性のところで捉える。しかし、このばあいも形像が万人に共通な心的な世界の表出であるのではない。だからいかなる意味でも夢の形像を記号の体系に還元することはできない。その意味では固有夢とべつのものではない。ただある度合で抽象するときに、はじめて夢みた個人の心的な世界は、他の諸個人にとっても共通な位相におかれるのである。   (P249)


項目抜粋
2

C一般夢における形像とその思想のあいだの抽象された共通性は、第二にはつぎのような問題を提示する。

 それは、心的な共同性の歴史や、現実を異にする種族のところでは、一般夢にあらわれる共通性をもった形像は、ちがったものでありうるということである。フロイドが〈婦人帽子〉や〈外套〉や〈ネクタイ〉等にあたえている潜在思想の共通性は、習俗、宗教、道徳、法等々の心的な共同性の異なるところでは、まったくべつの形像にとってかわられるということである。〈婦人帽子〉をかぶる習慣をまったくもっていない種族にとって、〈婦人帽子〉の形像が共通の潜在的な意味をもつことは、先験的にありえない。

 この問題は、一般夢における形像の解釈可能性が、共通性のうえにはじめてひらかれることからきている。いいかえれば、一般夢の解釈は、なんらかの意味で共通性を設定することではじめて成りたっているため、この共通性は、習俗や宗教や道徳や法のような、なんらかの意味での心的な共同性に接触するから、それぞれ異った共同性の形像にしか、一般的な共通の意味はあたえられないのである。   (P249-P250)


備考




項目ID 項目 よみがな 論名
52 一般夢 いっぱんゆめ Y 心的現象としての夢
検索キー2 検索キー3 検索キー4
項目抜粋
1

Dフロイドは、一般夢における形像の共通性に対応した夢みる個人の心的な世界の共通性を、〈性〉的な範疇にみた。いいかえれば夢の形像が、諸個人をつうじて共通の意味をもちうるとすれば、この諸個人の心的な世界の本質は〈性〉としての人間にあるとかんがえたのである。  (P250)

Eわたしたちは、〈リビドー〉という概念を、人間が個体として共通性をもつ本質であるとかんがえてこなかった。もし〈リビドー〉という概念を、心的にか自然的にか想定すれば、それは個体と他の個体との二体概念であり、げんみつには個体の領域には属さないのである。

 個体の心身相関の領域において共通性となりうる本質は、自己の〈身体〉にたいする自己抽象づけの意識と、自己の〈身体〉にたいする自己関係づけの意識である。わたしたちは、現にここにある自己の〈身体〉が、自然としては【註 自然としてはに傍点】意識に関係なく存在するとかんがえることができる。しかし、〈これはわたしの身体だ〉という意識にやってくる〈身体〉は、すでにある度合の抽象度をもっている。この自己の自己意識にたいする抽象性は、時間意識の根源であり、この抽象性は自己の自己意識にたいする関係としては空間意識の根源をなしている。

 そこで、わたしたちは、一般夢の形像が、抽象された共通性として、夢みる個体にやってきたとすれば、この形像を還元しうる潜在的な内容は、この自己抽象づけと自己関係づけの時-空性にあるとかんがえるのである。

 たとえば〈婦人帽子〉という形像が、一般夢の領域にあらわれたとき、それを〈男性器〉の潜在的意味をもつとはかんがえない。それがいかなる自己関係づけと自己抽象づけの心的世界に対応するかを測るだけである。なぜならばそれ以外に個体の心身相関の世界が、そのまま共通性として流通する意味はかんがえられないからである。  (P251-P252)


項目抜粋
2
備考

註1.「個体の心身相関の領域において共通性となりうる本質は、自己の〈身体〉にたいする自己抽象づけの意識と、自己の〈身体〉にたいする自己関係づけの意識である。わたしたちは、現にここにある自己の〈身体〉が、自然としては意識に関係なく存在するとかんがえることができる。しかし、〈これはわたしの身体だ〉という意識にやってくる〈身体〉は、すでにある度合の抽象度をもっている。この自己の自己意識にたいする抽象性は、時間意識の根源であり、この抽象性は自己の自己意識にたいする関係としては空間意識の根源をなしている。

 そこで、わたしたちは、一般夢の形像が、抽象された共通性として、夢みる個体にやってきたとすれば、この形像を還元しうる潜在的な内容は、この自己抽象づけと自己関係づけの時-空性にあるとかんがえるのである。」




項目ID 項目 よみがな 論名
53 一般夢の解釈 いっぱんゆめのかいしゃく Y 心的現象としての夢
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1

【9 一般夢の解釈】

@一般夢における顕在内容と潜在思想を関係づけるばあい、フロイドの解釈はいままでのべてきたところからすれば、二重に修正されなければならないとおもわれる。つまり顕在内容において一般夢の形像が、心的共同性、いいかえれば習俗や宗教や法や政治体系等々の歴史的現存性を異にするところでは、それぞれ異なりうるということと、もうひとつは、一般夢の形像が〈性〉的な象徴の周辺に一義的に還元されないということである。   (P253)

A●わたしたちには、一般夢のなかにあらわれる〈橋〉の形像は、〈性〉的なものとみなすべきでないとかんがえられる。それとともに夢のなかにあらわれる〈橋〉の形像を、たんなる普遍的な〈ハシ〉の概念とみなすべきでないのである。

 わたしたちの伝承民譚のなかにも、この種の〈橋〉の夢はしばしばみつけられる。その多くは一般につぎのようなパターンをもっている。    (P255)

●それぞれの何某はなぜ〈橋〉の夢をみるのだろうか?また〈橋〉の形像が一般夢にわりあいに普遍的にあらわれるのは、〈性〉が普遍的であるからだろうか?

 わたしには一般夢にあらわれる〈橋〉の形像は、宗教あるいは民俗信仰に属する〈橋〉から、村落や都市に架けられた〈橋〉にいたるまで、心的な共同性の象徴のようにおもわれる。〈ハシ〉という概念が問題なのではなく、どのような種類の〈橋〉の形像かがもんだいなのだ。

 もしこの〈橋〉が、地獄極楽のなかにかつてみた〈橋〉とか、神社、仏閣の庭でかつてみた朱塗りの〈橋〉とか、村外れにかかっていた丸木づくりの〈橋〉とかの形像であったなら、夢みる個体の心的な世界では、自己抽象づけの不確かな状態に、またこの〈橋〉が、鉄骨やコンクリートでつくられた都市街の〈橋〉であったら、自己関係づけの不確かな心的世界に対応しているかもしれない。そしてこのような個体の心的な世界の状態には、共同性の世界にたいする障害をかんがえたほうがよいかもしれない。それは明瞭な概念をつくることができない心的な状態、明瞭な秩序をつくりえない心的な世界の産物である。


項目抜粋
2

●もしこのような〈橋〉の風景のなかで、さきほどの何某のように、途中からひきかえした夢をみたとすれば、この夢の意味は、なにはともあれ〈橋〉のむこう側が、夢みた個体にとって心的に〈未知〉の世界を象徴していることはたしかである。

 わたしたちは、心身の既体験のことしか夢にみることはできない。…・夢のなかで〈橋〉のむこう側へどうしても渡れなかったとすれば、〈橋をわたる〉という夢のなかの行為に対応する潜在思想(心的な共同性と個体の心的な世界のあいだの矛盾をとびこえること)において、渡りきるということが、心身にとって未体験であるということだけ【だけに傍点】を語っている。そして、これが未体験であることは、個体の心的な世界が、心的な共同性の世界に完全に同致しきるということが、もともと人間にとって不可能だからである。

 わたしたちは、自己にとって未体験なものの象徴を〈死〉にみいだすことができる。   (P256-P257)


備考 註1.本論では、フロイドの方法が超えるべきおおきな峰としてみなされている。




項目ID 項目 よみがな 論名
54 類型夢 るいけいゆめ Y 心的現象としての夢
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項目抜粋
1

【10 類型夢の問題】

@一般夢のうち、たんに形像だけではなく、形像がおちこむパターンに、ある共通性がかんがえられるばあい、それを類型的な夢としてとりだすことができる。この種の夢もまた、荒唐無稽な形像(または概念)となってあらわれるとしても、パターンの類型性ということから統一的に把握できる位相があるようにおもわれる。類型的な夢において、わたしたちの心身相関は、たとえば皮膚と皮下の筋肉のあいだのように近接した形で接触しているといえる。ここでは夢みる個体の心的な世界が外界とむすぶのは〈結節〉によってではなく、〈密着〉によって接触するとかんがえることができる。   (P258-P259)

●【イ 裸で困惑する夢】

 しかし、このばあい、どうやら夢みた個体の心的世界のうち、自己関係づけの障害が本質的なものであるようにおもわれる。だから一般には裸になった夢でなくてもよいにちがいない。こんなに耻かしくてはとうてい生きていられないといったパターンをもった夢で、夢の形像はなんだかわからないといった場合でも、おそらくこの裸の夢と等価なのである。そしてこのばあい、阻止は、自己関係づけが、過剰な自己関心としてあらわれたばあいに特長的なようにおもわれる。

 ここで裸になって羞耻や困惑を感ずることが、フロイドのいうようにただちに〈性〉的な羞耻や困惑とつながっているのではない。このばあいの〈裸〉は、べつに〈性〉的な象徴ではなく、じぶんの〈身体〉にたいする自己関係づけの意識が過剰であることの形像的な表出とみるべきである。   (P260)

●【ロ 近親者が死ぬ夢】

 わたしのかんがえでは、この夢では、フロイドよりも露骨に、〈性〉的な意味をみるべきである。ただ、ここで〈性〉的というとき、フロイドのいう意味での〈リビドー〉をさしてはいない。ここで〈性〉的という云いかたをつかうとすれば、自己関係づけの他の個体にたいする外化という意味である。それゆえ、夢みる個体が、一般夢として近親者が死んで悲嘆にくれるという夢をみたとすれば、その個体が、他の個体にたいする心的な関係づけにおいて障害があるとみなしていいとおもう。つまりこの個体はじぶんだけで正常であることもできるし、多数のなかで正常であることもできるが、他の個体との一対一の関係づけでは障害をもつとかんがえられる。   (P261-P262)


項目抜粋
2

●【ハ 試験の夢】

 この試験に落第する夢は、わたしの解釈では、自己抽象づけ(自己了解)の障害である。そして、この夢が一般夢の領域にあらわれるとすれば、心的な共同世界のなかにおける自己抽象づけ(自己了解)の障害であるようにおもわれる。けっきょく夢みた個人はあらゆる条件を完備しているにもかかわらず、自己抽象づけによる自己の位置に関して不安があり、共同世界にたいして不安なのである。

 この試験の夢は、もし一般の領域にやってこないで、固有夢の領域にやってくるとすれば、高所から墜落する夢となってあらわれるにちがいない。   (P263-P264)


備考




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