Part 7
心的現象論序説

  北洋社 1971.09/30発行
 



項目ID 項目 論名
55 心像とはなにか Z 心象論
56 心像とはなにか Z 心象論
57 心像の位置づけ Z 心象論
58 心像の位置づけ Z 心象論
59 心像の位置づけ Z 心象論
60 心像の時空 Z 心象論
61 引き寄せの構造 Z 心象論
62 引き寄せの構造 Z 心象論
63 引き寄せの構造 Z 心象論
64 引き寄せの構造 Z 心象論
65 引き寄せの構造 Z 心象論
66 引き寄せの構造 Z 心象論
67 引き寄せの構造 Z 心象論
68 引き寄せの構造 Z 心象論











項目ID 項目 よみがな 論名
55 心像とはなにか しんぞうとはなにか Z 心象論
検索キー2 検索キー3 検索キー4
固有夢との類比
項目抜粋
1

【1 心像とはなにか】

@●〈入眠〉時の心的な世界にあらわれる〈夢〉が、想像的な形像(あるいは概念)ともっとも類似しているばあいをかんがえれば、この〈夢〉は固有夢にぞくしているとみることができる。想像的な意識は、覚醒時の心的な世界だから、〈夢〉の表出とはまったく質がちがっている。しかし、強いて夢とくらべれば固有夢とにているといえる。   (P266)

●いま〈わたし〉が、友人Aを想像的におもいえがこうとする。この友人Aはどういう〈心像〉としてあらわれるか、ということには特定の傾向はない。…・ただ〈わたし〉にとってなんらかの意味でもっとも印象深い場面のひとこまを択んであらわれるようにみえる。この印象深い場面というのを、〈わたし〉と友人Aの関係で結節点とみなされる場面であるとみなせば、〈わたし〉にとって〈心像〉はいつも意味ありげにあらわれるということができる。〈心像〉が、いつもそれをよび込んだ個人にとって有意味的にあらわれるとすれば、それは固有夢のあらわれかたとよく類似している。    (P267)

●友人Aが〈わたし〉との関係で印象深い場面における〈心像〉であらわれるとすれば、この場面の友人Aは、記憶の連鎖によって〈わたし〉の〈心像〉をよびおこすのではないか、といった心理学的な理解の仕方ができそうな気がしてくる。けれどじっさいはそんなことはない。〈心像〉にあらわれるこの印象深い場面は、ただ、〈わたし〉と友人Aの関係の結節点として、現在のわたしの〈心像〉にやってくるので、過去の記憶像が現在に再生するわけではない。ただ〈心像〉が、記憶とむすびつけられやすいのは、知覚(視覚)の形像として〈心像〉を截断しようとすると、〈心像〉は、たんに不鮮明な知覚(視覚)像の別名としてみなされやすいからである。そのため、この不鮮明さが、過去の記憶の不鮮明さと対応するかのように錯覚されてくる。それは遠くへだたった視覚の対象は、小さく不鮮明にみえるという経験的な事実から、〈心像〉を不鮮明な視覚像として類推しやすいという理由によっている。    (P267-P268)


項目抜粋
2

●〈夢〉(固有夢)と〈心像〉とが決定的にちがうところは、〈夢〉は、夢みるひとが欲するかどうかにかかわりなくあらわれる睡眠(入眠)時現象であるが、〈心像〉は想像するひとがそれを欲し思念しなければやってこないという点である。これは〈心像〉の有意味性をネガティヴに性格づけている。〈心像〉は想像するものと、それに関係づけられている対象のあいだの結節点としてあらわれるかぎりでは、有意味的であるが、想像するものが意志しないかぎりやってこないという意味ではネガティヴなものといえる。         (P268)

Aここで、あらためて〈心像〉とはなにかという問いを提起してみる。

 この問いの答えは、〈心像〉そのものである。いいかえれば〈わたし〉にとって〈心像〉とは、〈わたし〉にやってきた〈心像〉そのものである。たとえば〈わたし〉にとって友人Aの〈心像〉というのは、友人Aを視覚的にみないところで友人Aを思念するときにやってくる不鮮明な形像であらわれる〈心像〉そのものである。おなじように、べつのたれかにとって、ある対象の〈心像〉とは、対象が眼のまえにないとき、その対象を思念することによってやってくる不鮮明な形像をもった〈心像〉そのものである。    (P268-P269)

備考

註1.国語辞典によると「心象(しんしょう)」と「心像(しんぞう)」は同じ意味である。

     ・「心像」…・「記憶や直観によって、心の中に浮かんでできた像。イメージ」(福武国語辞典)

註2.「形像」は福武国語辞典には載っていない。「形象」は載っている。




項目ID 項目 よみがな 論名
56 心像とはなにか しんぞうとはなにか Z 心象論
検索キー2 検索キー3 検索キー4
心像の源泉
項目抜粋
1

Bここで〈心像〉がなぜ不鮮明な形像と、たれにとっても誤られることのない対象物の〈心像〉そのものとしてあらわれるかという問題にむかってみる。形像としての不鮮明さは〈心像〉の対象物が、知覚的(視覚的)に存在しないものであるところからきているようにみえる。また、〈心像〉が誤られることのない対象の〈心像〉としてあらわれるのは、〈概念〉作用が〈心像〉の形成に参加しているためであるとおもえる。ただ〈概念〉はここでは対象物の〈概念〉としてではなく、ただ〈心像〉の対象にたいする〈関係〉と〈了解〉として参加する。そこで、できるかぎり形像が参加せずに対象物の〈概念〉が参加する〈心像〉と、できるかぎり〈概念〉が参加せずに形像が参加する〈心像〉をえがくことができる。

 おそらく〈心像〉の領域は、形像が支配するすべての領域と、概念的な把握が支配するすべての領域にまたがっており、一般的には不鮮明な形像と一挙に把握をゆるす綜合的な概念把握との二重性となってあらわれるのである。    (P270-P271)

Cなぜ、わたしたちは〈心像〉を喚びおこすことができるのだろうか?対象が眼のまえに存在しないのに、その対象を思念するとき、どうして〈心像〉は不鮮明な闇に溶けるような形像と確定した綜合的な把握の可能性としてやってくるのだろうか?あるいは対象が眼のまえにないのに対象を思念する(対象について【ついて に傍点】思念するのではない)という矛盾がなぜ〈心像〉をうみだすのだろうか?  (P271)


項目抜粋
2

D〈わたし〉が友人Aを思念するとき、友人は〈心像〉として〈わたし〉にやってくる。けれど〈わたし〉が友人Aについて【について に傍点】思念することは、Aがこれこれの性格をもち、これこれの話し振りをし、これこれのことで〈わたし〉と関係をもち……というようなことを概念的に検証してゆく過程を意味している。

 ところで〈わたし〉が友人Aについて識っていることは、感覚的あるいは感情的に識っていることと、概念的な把握によって識っていることから組み上げられた綜合的な識知である。そしてそれがすべてである。しかし、〈わたし〉が友人Aを思念するときに喚びおこされる友人Aの〈心像〉は、もともと〈わたし〉が友人Aにについてもっているはずの綜合的な識知とは異っている。この変化は〈心像〉を感覚的(あるいは感情的)な把握からも、概念的な把握からも遠ざけてしまうが、このふたつの把握から源泉をうけとっていることだけはたしからしくおもわれる。なぜならば、〈わたし〉が友人Aについて感性的(あるいは情感的)な把握の体験も、概念的な把握の体験ももっていなかったとすれば、〈わたし〉にとって友人Aの〈心像〉があらわれるはずがないからである。   (P271-P272)

Eここであきらかにできるのは、〈心像〉が、なんらかの意味で既知の対象についてだけあらわれることである。そして既知であるとすれば、〈わたし〉がその対象を知覚的にか概念的にか知っていることを意味しており、それ以外のことをなにも意味していない。      (P272)


備考




項目ID 項目 よみがな 論名
57 心像の位置づけ しんぞうのいちづけ Z 心象論
検索キー2 検索キー3 検索キー4
項目抜粋
1

【2 心像の位置づけ】

@●ここで当面しているのは、〈心像〉の可能性が感性的(あるいは情感的)な把握と概念的な把握に源泉をもっているらしいのに、このいずれともちがってあらわれるとすれば、なにが知覚や概念作用から変化しているのか、あるいはなにがまったくべつものであるのかという問題である。

 このばあい〈心像〉にもっとも類似しているようにみえるのは、心的な病者あるいは病的状態であらわれる〈幻覚〉である。  (P272-P273)

●さきにのべた〈固有夢〉の状態を、覚醒時の心的世界を軸にして〈中性〉としてかんがえれば、〈幻覚〉は他者からの作為や強制に支配されてあらわれ、〈心像〉は意志的に思念するするときにのみあらわれるという意味で〈幻覚〉と対称的にならべてかんがえることができる。  (P273)

A●まず、心像における形像的な要素はどこから由来するのだろうか?

 おそらくそれは〈心像〉において、対象が眼のまえに存在しないということに、ことさら重要な意味をあたえる意識のあり方にかかわりがあるようにおもわれる。いいかえれば〈心像〉の意識は、〈眼のまえ〉に存在しない対象を、眼のまえに存在するかのように思念するという眼のまえ的な矛盾の領域を固執する意識である、ということができる。眼のまえに存在する対象を、眼のまえ的に再生しようとする意識にとっては、視覚像があらわれるのだが、眼のまえに存在しない意識の行為にとって、〈心像〉は形像的な要素を視覚像とはちがったように現前させるほかはない。だからもし〈心像〉の意識が、〈眼のまえ〉的な再現ということを固執しないならば、そのような意識にとって〈心像〉はあたうかぎり形像をともなわずに現前することはまちがいない。  (P274)


項目抜粋
2

●この意味では〈心像〉の意識はプリミティヴなものである。わたしたちの世界にたいする対象的な関係づけの意識は、本来的には可視的な関係づけに限定され、固執されるものではない。それにもかかわらず〈心像〉は、本来は可視的でない関係づけによって到来するはずの対象を、可視的な関係づけの領域で到来させようとする心的な矛盾を固執するのである。

 〈心像〉の矛盾は、本来的には思念の志向性に由来している。〈心像〉においては、目のまえという志向を固執するところから、心像における形像のもんだいが発生する。わたしたちはなぜ〈目のまえ〉に存在しない対象を〈目のまえ〉によびだそうとする志向性をもっているのか、現在までのところ知ることができない。ただこの志向性はプリミティヴな心性に由来するかもしれないと判定することはできる。

 〈心像〉において、いいかえれば感性的な往古に、形像の輪郭はいつも不鮮明なままで暗闇に溶けてしまう。わたしたちはこの暗闇を〈無〉とかんがえがちであるが、ほんとうはこの暗闇は〈概念〉が構成する背景であり、この〈場〉には対象についてのあらゆる概念的な構成がはめこまれている。だから〈心像〉は、形像としては不鮮明であるにもかかわらず、対象にたいする一挙の綜合的な把握だけは、まちがいなくなされていると確信させる。   (P274-P275)


備考

註1.「わたしたちはなぜ〈目のまえ〉に存在しない対象を〈目のまえ〉によびだそうとする志向性をもっているのか、現在までのところ知ることができない。ただこの志向性はプリミティヴな心性に由来するかもしれないと判定することはできる。」




項目ID 項目 よみがな 論名
58 心像の位置づけ しんぞうのいちづけ Z 心象論
検索キー2 検索キー3 検索キー4
非感性的な世界にたいする不安
項目抜粋
1

B●〈心像〉はなぜ人間にとって可能となるのか?その可能性はどこからやってくるのか?

 まず俗流唯物論者のようにかけはなれたところからはじめる。はじめに、感性的な世界(外界)との〈関係づけ〉を、直接的、一次的なものとかんがえれば、非感性的な世界(外界)は、それ以外の間接的、二次的な〈関係づけ〉の世界とみなすことができる。そしてこの非感性的な世界(外界)にたいする間接的な〈関係づけ〉の世界を、感性的な世界の直接的な〈関係づけ〉の領域にひき込もうとする心的な志向性が〈心像〉をまねきよせる原因であるとみることができる。  (P275-P276)

●なぜ、このような心的な志向性をもつのだろうか?それは、人間が生活の総過程で、物的な関係か、心的な関係として間接的に〈関係づけ〉られているはずの対象を、あたかも直接的な感性的な関係づけのように思いならわされているという経験に反覆遭遇しているからのようにみえる。

 この意味では〈心像〉の世界は時代的であり、また歴史的である。たとえば未開人における〈心像〉と、現在における〈心像〉とは、この意味で成りたちではちがっているはずである。未開人では感性的な世界は、かれらにとって世界の全部である。そこで感性にやってこない世界は、大なり小なり彼岸の世界であり、この彼岸の世界からやってくるとみなされるすべての事象は、かれらには人格化された〈自然〉、あるいは物神化された〈自然〉によってもたらされたものとみなされる。そしてこの人格化された、あるいは物神化された〈自然〉の意志によってもたらされたものは、未開人にとって〈心像〉の対象である。このばあい未開人の〈心像〉は、むしろ〈幻覚〉ににている。なぜならばかれらにとって〈自然〉の意志によって作為された体験にほかならないからである。   (P276)


項目抜粋
2
●現代人には、非感性的な世界は、非感性的な意識によって手のとどく世界である。たとえば、わたしたちは、概念によって非感性的な世界の対象を理解し意味づけることができる。ここでの〈関係づけ〉が間接的であることは、感性的な意識(感覚)にとっては不都合であっても、非感性的な意識にとってはどんな不都合さもない。むしろ多数の〈関係づけ〉が可能であるという意味では、わたしたちは、非感性的な世界にたいしては自由さをもっているとさえ云える。この自由さは感性的な意識を大なり小なりギセイにして得られる自由である、という意味では、たんなる恣意性にすぎないが、この恣意性が、物的な感性的な世界の不自由さや制約の代償としてはじめて得られる拡大された心的世界とみれば、ただ心的世界においてのみ手にいれた自由さであるという意味で、貴重品をあずけられているのだ。もし、わたしたちが〈心像〉の意識のように、非感性的な世界の対象を、感性的な世界の領域にひき込もうとする衝動をもつとすれば、この衝動の奥には、非感性的な世界にたいする不安が存在している。比喩的にいえば、眼のまえで確かめられないものは信じられないというように〈心像〉の意識はたえずつぶやいているのだ。   (P276-P277)


備考




項目ID 項目 よみがな 論名
59 心像の位置づけ しんぞうのいちづけ Z 心象論
検索キー2 検索キー3 検索キー4
項目抜粋
1

Cこの〈心像〉の意識の挙動の仕方に対応するものを、生活過程のなかにもとめるとすれば、物的に、また心的に、多重関係のなかにいる人間と対象世界との〈関係づけ〉を、たえず一重の直接的な〈関係づけ〉のように見做さざるをえない人間の現実的な存在の仕方にある。間接的な多重関係によってつながっている対象は、直接的な一重の関係でつながっている感性的な世界にひきよせられるとき、不可避的に一部分形像の形となってあらわれざるをえない。この形像は、知覚像や知覚の記憶に由来するのではなく、多重関係を意図的に(意志的に)直接的な一重関係にとびうつらせるときに生ずる関係意識の矛盾にもとづいている。    (P277)

Dわたしたちが直接的な一重の〈関係づけ〉をなしうる世界(外界)は、感性的、知覚的な世界である。これにたいし、間接的な多重な〈関係づけ〉をやってい世界(外界)は、概念的な了解の世界である。そうだとすれば〈心像〉の意識がもたらす世界(外界)は、概念的な世界を感性的な世界へと跳躍させようとする断層の構造を意味しており、概念的な作用と感性的(知覚的)作用とのあいだの〈関係づけ〉の矛盾にほかならないといえる。   (P279)

Eところで、いったん概念的に把握された対象は、〈実在〉の次元から離脱する。いいかえれば対象が現に〈実在〉しているか否かということは、概念的な対象となった対象にたいしては、どうでもいいことである。そこで〈心像〉は、すでに概念的な対象に化けてしまった対象を、感性的な対象に転化しようとするときにあらわれるのである。それゆえ、〈心像〉の形像的な要素は、メルロオ=ポンティのいうように知覚から類同物を借りたのではなく、むしろ概念の対象であるべきはずのものを知覚化しようとする思念によって形成されたものというべきである。    (P280)


項目抜粋
2
備考





項目ID 項目 よみがな 論名
60 心像の時空 しんぞうのじくう Z 心象論
検索キー2 検索キー3 検索キー4
項目抜粋
1

【3 心像における時間と空間】

@●〈心像〉はいったいどこにあらわれるのだろうか?

●人間が対象の世界と関係づけられるとき、まず空間化として関係づけられるという原則を適用することとする。すると〈心像〉が〈わたし〉に関係づけられる空間性は、〈わたし〉の〈わたし〉に対する関係づけの空間以外のものを意味しないようにみえる。〈心像〉が思念するときにあらわれ、しかも思念することが空間的及び時間的な関係づけを包括するとすれば、〈心像〉は〈わたし〉にとって思念の仕方そのものを意味している。

 じぶんの思念の仕方に空間性をあたえうるとすれば、それは〈わたし〉の〈わたし〉自身にたいする空間性である。この空間性は〈わたし〉の心的世界が〈わたし〉の〈身体〉にたいして関係づけられるとかんがえるとき、はじめて外在的な意味をもっている。つまり〈わたし〉は、じぶんの〈身体〉を観念化して把握しうる度合に応じて、まったくおなじ度合でだけ〈心像〉を空間化して受けいれることができる。だから〈心像〉の空間性とは、けっして対象のとしての〈心像〉の空間性ではない。いいかえれば現に〈心像〉となっている事物が、現実の事物とどれだけ異った形像となっているかというところに空間性があるのではなくて、〈心像〉としてあらわれるわたしたちの心的世界の空間性いがいのものではない。    (P280-P281)

●おなじように心像の時間性は、〈心像〉となってあらわれている〈事物〉が、現実的存在としての事物と、どれだけちがうか、という差異の了解性を意味するのではなく、〈心像〉としてあらわれた〈わたし〉の心的世界の時間性である。

 つまり、〈わたし〉は〈心像〉において、ただ〈わたし〉の心的世界の空間性と時間性をみているだけである。そうだとすれば〈心像〉を、あたかも〈わたし〉にとって対象性であるかのようにかんがえること自体が無意味ではないのか?たしかに無意味である。なぜならば、心像は〈心像〉となってあらわれた〈わたし〉の心的世界そのものにほかならず、けっして〈心像〉となってあらわれた〈心像〉の対象物ではないからである。〈心像〉において、対応する現実存在は、じつは〈心像〉の対象になった〈事物〉ではなく、〈わたし〉の心的世界そのものである。    (P281-P282)


項目抜粋
2
Aだがしかし、わたしのかんがえでは、〈心像〉において決定的なことは、その対象が非現実的であるということではない。非現実的な対象が、間接的な多重な関係づけによってあらわれるはずの対象物を直接的な一重の関係づけの世界(感性的あるいは知覚的世界)にひき入れようとする思念によって、はじめて不鮮明な形像的な対象としてあらわれるということが決定的なのだ。いいかえれば〈心像〉において、わたしは概念的な実体そのものに肉体をあたえようとしている。このばあい概念的な対象物が、なんであるかということは、〈心像〉の意識にとっては、その都度撰択され、思念される恣意性にすぎないが、対象物が〈心像〉にあらわれるあらわれ方は、その対象の種類や質にかかわらず、いつもおなじ仕方でしかあらわれないということが重要なのである。なぜならば対象がなんであれ、〈心像〉においては、ただ概念の実体がさまざまな鏡によってさまざまな貌をしてあらわれるだけで、いつもおなじ実体に対面しているだけである。    (P283-P284)


備考




項目ID 項目 よみがな 論名
61 引き寄せの構造 ひきよせのこうぞう Z 心象論
検索キー2 検索キー3 検索キー4
作為体験の構造
項目抜粋
1

【4 引き寄せの構造T】

@そこで、まったくべつの角度から心像をとりあげてみる必要がありそうである。ひとつの可能性は、心像の意識において、わたしたちは対象の本性のうちなにを引き寄せ、なにをとおざけているのかをかんがえることである。そして心像における対象の引き寄せの特性を、おおくの他の引き寄せのなかで位置づけてみることである。

 いまここで、対象世界にたいする心的な引き寄せ(引き込み)の類型をとりだし、そのなかで心像のはめこまれる位相をはっきりさせてみる。この見地からいえば、いままでのところ、心像における引き寄せは、現に感性的な世界にない対象を、感性的な対象世界にあるかのように現前させるものだ、といえるだけである。

 心的な世界にやってくる現象は、すべてなんらかの仕方で対象が引き寄せられた現象であるといってよい。そこで、たんに引き寄せ一般の構造が問題になるのではなく、はじめに特異な心的現象として具体的にあらわれる引き寄せがもんだいになる。    (P284-P285)

【症例サリー 症例No13 No18】

Aこれらの場合において、妄想あるいは幻覚の対象としてやってくるものは、いつも無関係(無関心)と関係(関心)の同時的な二律背反としてしかやってこないのである。疎遠な対象が、過剰に心的な世界に引き寄せられ、逆に親密な対象は、心的な世界から遠ざかってしまうというこの構造が、いわゆる作為体験の構造であり、この二律背反の性格に他から強制されたり命令されたりするというように、妄想または幻覚が体験される理由がある。なぜならば、心的な世界に疎遠な対象ほど過剰に引き寄せられるとすれば、この対象はじぶんに強制しているとか命令しているとかいう対象とかんがえるよりほかに術がないからである。また、親密な対象ほど心的な世界から遠ざけられるとすれば、対象とのあいだに正常な相互理解(相互規定)が成立する条件は、はじめから排除されることになり、ここでも強制とか命令とかいう作為体験によってしか対象と関係をもちえないはずである。

 過剰な圧迫としてしか対象世界はやってこないし、しかも正常な関係づけの条件がすべて排除されているとすれば、心的な世界は対象世界から作為性をうけとるよりほかない。  (P291-P292)


項目抜粋
2
備考





項目ID 項目 よみがな 論名
62 引き寄せの構造 ひきよせのこうぞう Z 心象論
検索キー2 検索キー3 検索キー4
作為体験と不可避体験
項目抜粋
1

【4 引き寄せの構造U】

@いわゆる〈妄想〉には、よりおおく概念的な了解の異常が関与しているが、〈幻覚〉にはよりおおく感覚的な了解の異常が関与しているといっていい。しかし究極にはこの二つをはっきり分離することはできないようにおもわれる。そこで、正常な〈妄想〉とか正常な〈幻覚〉とかいう矛盾した概念が想定できると仮定すれば、この概念のうちには〈心像〉の概念ときわめて近似した心的な作用が包括されるようにみえる。

 ただ、正常な〈妄想〉あるいは正常な〈幻覚〉という概念を仮定したとしても、〈心像〉とくらべて一つの条件が不足している。〈妄想〉あるいは〈幻覚〉では、対象の引き寄せの作用において、その動因が〈不可知〉であるとかんがえられている点である。だからたとえ正常な〈妄想〉や〈幻覚〉を想定できたとしても、動因が〈不可知〉であるために、強制や命令のような作為体験としてしか引き寄せの作用はやってこないはずである。〈心像〉の意識が、意志力の此岸にあるとすれば、正常な〈妄想〉あるいは正常な〈幻覚〉という概念では、意志力はいつも主体の心的な世界の彼岸にある。つまり何者かの意志に強制されて〈妄想〉や〈幻覚〉はやってくるのである。そしてこの何者かは、〈妄想〉あるいは〈幻覚〉する本人でないことだけは確実である。逆に、さきにものべたように〈心像〉は、主体が対象を意志するときにしかやってこない。ここでは強制したり命令したりするものは、いつも主体のがわである。作為はいつもこちらがわにあるといっていい。これは心像の意識が〈妄想〉や〈幻覚〉にくらべて正常だからではなく、それぞれの本来的な性質に由来している。      (P292-P293)

A●ところで、わたしたちは一見すると〈妄想〉でも〈幻覚〉でもないようにみえる特異な引き寄せに遭遇することがある。

 【セシュエー『分裂病の少女の手記』からの引用】

 ここで「非現実」とよばれている病者の体験は、ヤスパースのいう「知覚界の疎隔」をさしている。ここで源から切り離された音や、操り人形のように視える人物や背景は、〈妄想〉でも〈幻覚〉でもなく、ただ対象的な世界の感性的な〈変容〉であるようにおもわれる。そしてこの〈変容〉では対象が不明ではないから、作為体験としての構造をもっていない。しかし病者にとってこの〈変容〉は不可避な体験としてしばしば訪れてくる。そして病者にとって意志的にやってくる〈変容〉でもなく、また対象が不可知である


項目抜粋
2

ために意志力が、対象のがわにあるとかんがえられるような作為体験でもなく、いわば〈意志〉は病者と対象世界の中間にさ迷っていると比喩することができる。この「非現実」の世界の責任を負うのは、対象の不可知性でもなければ、主体の意志でもなく、主体と対象の〈あいだ〉である。いいかえれば〈関係〉それ自体である。それゆえ、このような「非現実」に責任があるとすれば、〈関係〉それ自体が〈意志〉であるかのように作用しているという点にしかもとめられない。だから主体は「非現実」を受けとり、対象は操り人形に〈変容〉するほかはない。この状態を作為体験にたいして不可避体験とよぶことができよう。

 このような対象世界の了解作用の〈変容〉は、〈妄想〉あるいは〈幻覚〉にいたる過程的な構造としてかんがえることができる。  (P293-P295)


備考




項目ID 項目 よみがな 論名
63 引き寄せの構造 ひきよせのこうぞう Z 心象論
検索キー2 検索キー3 検索キー4
引き寄せの〈中絶〉
項目抜粋
1

●このような〈変容〉における引き寄せはどう理解されるべきであろうか?

 おそらく〈変容〉で特性的なのは引き寄せの〈座礁〉ともいうべき性格である。このばあい引き寄せは、主体のがわに根拠があるのでもなければ、対象のがわに引き寄せを強要するものがかんがえられているのでもない。対象的な世界は、それが対象的であるという理由によって主体的な引き寄せを欲しているのだが、主体はそれを引き寄せようとする志向を〈中絶〉させられているのである。そこにあらわれる対象世界は、空間的な構造を喪失してある状態の面に収容される。この状態の面は統覚の失なわれてゆく過程の面である。それは対象的な世界にたいする関係がただ関係一般として力をもつような面である。このばあい、なぜ引き寄せの〈中絶〉がおこるのかはわからないが、引き寄せられようとする対象が、途中で阻止され、遠ざかろうとする対象が途中でとまった状態として想定することができる。いわば関係づけの空間の阻害である。    (P295-P296)

Bこの対象世界の「非現実」性を、一種の〈幻覚〉性とよんでよいかもしれないが、主体と対象世界の関係一般としては存続しているという意味で〈幻覚〉とはちがっている。   (P296)

 【ヤスペルス『精神病理学総論』からの引用】

Cこれはメスカリン服用者の体験の記録からとられた記述だが、もちろんアルコール服用者から分裂病者にいたるまでさまざまな個体にあらわれうる現象である。

 この〈変容〉はまえの「非現実」体験にくらべれば、より感覚的な〈変容〉であるということができる。ここでは対象の世界は感覚的(視覚的)にじっさいよりも豊富にやってくるようにみえる。しかし対象が過剰に引き寄せられている状態であるとはいえない。なぜならば対象が過剰に引き寄せられるためには、作為体験が存在しなければならない。そして欲しないのに視野に過剰な対象がどっとおしよせてくるという体験がなければならない。ここにはたんに対象そのものの〈変容〉があるにすぎないことは確かだからだ。

 ここにあるのは、まえとおなじように、引き寄せの〈中絶〉である。そしておそらくこの種の〈中絶〉は、対象世界との関係づけの障害を〈感覚化〉(視覚化)する性格をもっているとかんがえられる。        (P296-P297)


項目抜粋
2

Dなぜ、あるばあいに引き寄せの〈中絶〉は、感覚的な氾濫となってあらわれ、あるばあいに「非現実化」となってあらわれるかの根拠を確定することはできない。ただこの種の〈中絶〉において、対象世界の〈変容〉はより感性的にあらわれるか、より概念的にあらわれるかのいずれかであり、それによって感覚的な氾濫を体験したり、非現実化を体験したりするとみなすことができよう。

 ただ、この種の感覚的な氾濫となってあらわれる引き寄せの〈中絶〉は、より生理的であると見做される。それゆえ人間の存在の仕方は問題とならない。これにたいし「非現実」体験はより心的である。ここでは心的な世界は有意味的であり、したがって人間的な根拠が問われる。    (P297-P298)


備考





項目ID 項目 よみがな 論名
64 引き寄せの構造 ひきよせのこうぞう Z 心象論
検索キー2 検索キー3 検索キー4
意志の恣意性
項目抜粋
1

【4 引き寄せの構造V】

@〈妄想〉や〈幻覚〉や〈変容〉のような、大なり小なり異常な心的体験には、ひとつの共通性をみつけだすことができるようにおもわれる。それは対象世界にたいする意志の方向性(志向)に、正常な位相がかんがえられないことである。このばあい志向性は、あるときは対象そのものに、あるときは対象との関係に付随しているような仮象を呈する。そして対象に付随しているようにみえる志向性は、作為体験として引き寄せられ、関係に付随しているようにみえる志向性は不可避体験として引き寄せられる。志向するときにのみ引き寄せられ、志向しないときには引き寄せがおこらないという恣意性のみが、人間を対象的な世界(環界)に結びつける正常な仕方である。なぜならば対象世界が〈自然〉ならば人間の存在も〈自然〉であり、対象世界が〈心的〉世界ならば、人間もまた〈心的〉世界であるという対応性は、きわめて客観的なものとしてかんがえられるからである。人間が存在しても存在しなくても、対象的世界は存在しうるということは、論理系として証明するのは手やすくはないとしても、きわめてありふれた陳腐な事実であることはまちがいない。そうだとすれば、人間は心的な世界では、対象世界が人間にむかって存在していると見做すことも、むかっていないと見做すことも、恣意的でなければならないはずである。そこでは意志(志向)を対象にむかわせる衝迫がなにに由来するかは、一律に云うことはできないとしても、対象との関係について判断をくだすものが、その都度意志であることだけは保証されているとみなされる。正常な心的世界が、対象の世界にたいしていつも自由な選択性をもっているようにみえるとしたら、それは意志の恣意性にもとづいている。     (P298-P299)

【ヤスパース『精神病理学総論』からの引用】

A眼で視た絵の形像が、その絵をとのさったあとで再現されるという意味で、この〈視覚的直観像〉は心像とよくにているようにみえる。また再現された形像が残像でないという意味でも、心像とよくにている。またけっして〈幻覚〉や〈変容〉でないことが、はっきりしているという意味でも心像とよくにているといえる。

 だが、この〈視覚的直観像〉は、「詳細な点まで」再現されるという点で、心像とまったくちがっている。また、あくまで視覚像的であるという点でも心像とちがっている。   (P300)


項目抜粋
2

Bところで、かつて一度視た感性的世界の対象を、ふたたび感性的に再現したいという志向はなにを意味しているのだろうか?

 わたしたちが、一度視た視覚的な対象を単純にふたたび視たいとかんがえたとすれば、なによりも〈身体〉的な行動によって、その対象を手で引き寄せるとか、その対象を眺めうる位置に歩みよることによって、対象をふたたび視覚的に対象とするのが普通である。そして形像の細部にわたる再現を、もっとも正確に保証する方法はこの〈身体〉的な行動によって対象へどこまでも近づくことである。

 こういう場合、〈身体〉的な行動の志向性は、ただ対象をふたたび視たいという欲求にそって集中される。〈視覚的直観像〉は、おそらくこの単純な身体的行動の感覚的な代理とみなしてよいとおもわれる。         (P301)
 

Cこのような個体は、たしかに〈特異〉的であるにちがいないが、〈異常〉とか〈病的〉とかよぶことはできない。その理由は、〈視覚的直観像〉が生理的な反映に負うところがおおく、〈心像〉のように心的な価値の創出にあずかることがすくないからである。

 〈心像〉の意識では、それに対応するどんな〈身体〉的な行動を想定することもできない。〈心像〉には〈身体〉的な行動によって代理されたり、実現されたりするどんな要素もかんがえることはできない。         (P302)


備考




項目ID 項目 よみがな 論名
65 引き寄せの構造 ひきよせのこうぞう Z 心象論
検索キー2 検索キー3 検索キー4
項目抜粋
1

Dこうかんがえると、〈心像〉においては〈身体〉的な行動によって代理しうる要素はまったくないといってよい。それゆえ〈心像〉にとって〈身体〉的な要素が関与するとすれば、ただ意識作用の生理としてだけである。そしてあらゆる心的な現象は生理的な器官の上に座しているという意味では、このばあいの〈身体〉生理的な変化は、べつに〈心像〉に固有なものとは云えない。

 〈心像〉が〈身体〉的な行動によって代理される要素をもたないということは、〈心像〉においてあらゆる心的な行動の経路が、すべて心的な構成に参加することを意味しており、このことは〈心像〉によりおおく価値を与える根拠をしめしている。     (P303)

E対象が眼のまえに存在しないという意味では、〈心像〉と〈視覚的直観像〉は区別することはできない。そして質的な差異があるとはいえ、形像的に再現されるという意味でもこの二つはおなじような属性をもっている。ただ引き寄せの構造からみれば、〈視覚的直観像〉は単純な視覚的な形像の〈再現〉にほかならないが、〈心像〉の引き寄せはたんなる形像の再現を志向してはいないのである。

 〈心像〉においては概念的に把握された対象を、感性的な世界の対象であるかのように再現させなければならないし、たんなる視覚的に把握された対象をも、無数の心的な経路の綜合的な同時像として再現しなければならない。〈心像〉におけるこのような再現作用は、〈身体〉的な行動を無意味化することによって、〈身体〉的な行動の意味を心像のうちに、価値として吸いあげることを意味しているようにおもわれる。    (P303-P304)

項目抜粋
2
備考





項目ID 項目 よみがな 論名
66 引き寄せの構造 ひきよせのこうぞう Z 心象論
検索キー2 検索キー3 検索キー4
項目抜粋
1

【7 引き寄せの構造W】

@ふつう〈考想察知〉とよばれている心的な症状は、症候主体が受け身になったばあいをさしている。いいかえれば〈考想察知される〉という状態を病状とみなしている。主体は、じぶんの心身の行動がことごとく他者に〈読みとられ〉〈盗みとられ〉ていると感じるのである。このような例をあげてみる。     (P304)

Aこの症例2の心的な状態にとって、あらゆる事象は、原則的にはすべて強力に関係づけられる状態にあるといっていい。このような状態が起りうる大前提は、申すまでもなく、ひとつには個体の心的な世界は、それ以外の世界にたいして直接的にか間接的にか関係づけられることによってしか、人間はこの世界に存在しないという先験的な根拠である。この意味では、個体が〈正常〉であろうが〈異常〉であろうが、心的な世界をすべての事象に結びつけうる可能性はひらかれているといっていい。だから症例2が、じぶんの心的な状態を、荒唐無稽な仕方で、たまたまじぶんにやってきた事象に関係づけているということには、見かけほどの病的な意味あいはない。

 もし病的な意味あいがあるとすれば、じぶんの心的な状態が〈読みこまれている〉あるいは〈盗まれている〉あるいは〈察知されている〉という妄想が、事象との関係づけを支配しているという点にあらわれている。    (P306)

Bこのばあい〈……されている〉という症例2の受動性は、いくつかの構造からできている。そのひとつの要素は、妄想が自己妄想であるということである。すでに自己妄想として存在する心的な世界は、他の事象と関係づけられるときは、受動態であるほかにありえないということである。もうひとつの要素は、この妄想が、事象にたいして相互性をもたない恣意的なものであるという点である。症例2が、じぶんの心的な状態が察知されているとかんがえたとしても、事象の側では察知しているとはかんがえていないし、また察知しているわけでもない。    (P306-P307)


項目抜粋
2

Cこのような考想察知における引き寄せの構造はどうかんがえられるべきであろうか?

 このばあい事象はそのままの状態で引き寄せられていないことはいうまでもない。事象は、事象に〈投射〉された自己妄想に潤色されて引き寄せられる。けっして事象が自己妄想によって潤色されて引き寄せられるのではない。自己妄想はひとたび事象に〈投射〉されなければならない。そして〈投射〉された妄想に、潤色された事象が、はじめて対象として引き寄せられるのである。このちがいが妄想知覚と考想察知現象とのちがいである。   (P307)

Dなぜ考想察知においては、自己妄想は、ひとたび対象である事象に〈投射〉され、あたかも対象自体がもともともっている妄想であるかのように装われるのであろうか?

 そのもつとも重要な理由のひとつは、患者の心的状態にとって、〈環界〉はすべて〈直接的関係〉の世界としてしか存在していないということである。かれはこの世界で、ひとりことりの人間は、それぞれに固有な条件を背負って存在しており、それがたまたま直接の関係づけのなかで出遇うこともありうるということが了解できなくなっている。また、人間は、直接的な関係のない事象に対しても、関係づけをおこなうために、知識や判断や想像力をはたらかせうる存在だということを了解できなくなっている。かれにとって間接に関係づけられる世界は存在しない世界である。また、関係づけられる世界は、すべて直接的関係の世界として引き寄せられる。かれにとって他者や他の事象は、じぶんを直接的関係として関係づけていなくてはならない。    (P307-P308)


備考




項目ID 項目 よみがな 論名
67 引き寄せの構造 ひきよせのこうぞう Z 心象論
検索キー2 検索キー3 検索キー4
妄想的再現の初源性
項目抜粋
1

Eところで、わたしたちは想像力の世界が、もともと直接的関係の世界には存在しない対象を、直接的関係として現前させようとする志向によってもたらされる世界であることを知っている。それならば想像力の世界もまた、すべてを直接的世界として関係づけようとすることによって成りたっているということができるはずである。けれど想像力の世界は、想像的意識によって引き寄せられる世界である。考想察知の世界はしかし察知の意識によって引き寄せられる世界ではなく、自己妄想の〈投射〉によって引き寄せられる世界である。    (P308)

F●この症例【註 症例4】の考想察知は、〈幻聴〉としてあらわれている。ただ作為幻聴ではない。自己妄想が自己に〈投射〉され、こだまのように自己と自己とのあいだを往き来している〈幻聴〉である。この症例4のあらわれかたを、考想察知現象にとってかなり本質的なものとすれば、考想察知の世界は、自己妄想が〈投射〉されうるすべての領域にわたるといっていい。ただ、実在の自己は、考想察知ではいつも受動態としてしかあらわれないことはたしかである。

 ところで、考想察知現象が、能動態として個体をおとずれるばあいがある。このような個体は〈察知〉あるいは〈予知〉の能力の所有者と呼ばれている。

●この種の〈予知〉または〈察知〉能力の所有者を、病者と区別しうる点は、ある程度、〈察知〉または〈予知〉の時間を、意志的に統御しうるという点だけである。かれらは一定の手続きによって〈察知〉または〈予知〉の対象に集中して、幻聴または幻視をつくりだすとかんがえることができる。しかしもちろん病者との区別はあいまいである。かれらが常時においても作為体験として幻聴あるいは幻視ををうけとっていることは充分にありうるからである。ただ人格崩壊をまぬかれているだけである。  (P311)

●そうだとすれば、〈予知〉能力者にあらわれる能動態としての考想察知と、ごくふつうの想像力による対象の構成とは、どこがちがうのだろうか?

 そのちがいは、わずかにつぎの点である。

 …・いいかえれば自己妄想による場面の再現は、じっさいの場面の再現であると信じられているが、想像力による場面の再現は想像的再現であると識知されている。  (P315)

項目抜粋
2
G妄想的再現は、本質的には心的に構成された世界と、現実の世界が地続きであるという識知にねざしている。もちろん、人間にとって世界がこのように視えた時代はあったにちがいない。かれらにとって雨乞いをしたがゆえに雨が降ってきたのであり、何者かに呪詛されているがゆえに病気は治らなかったのである。世界がこのようにみえるかぎり、たんに妄想的な再現が現実の場面の再現として識知されるばかりでなく、逆に妄想的な再現のとおりに、現実の場面が成就することも可能とかんがえられたのである。         (P315-P316)

備考 註1.「妄想的再現は、本質的には心的に構成された世界と、現実の世界が地続きであるという識知にねざしている。もちろん、人間にとって世界がこのように視えた時代はあったにちがいない。かれらにとって雨乞いをしたがゆえに雨が降ってきたのであり、何者かに呪詛されているがゆえに病気は治らなかったのである。世界がこのようにみえるかぎり、たんに妄想的な再現が現実の場面の再現として識知されるばかりでなく、逆に妄想的な再現のとおりに、現実の場面が成就することも可能とかんがえられたのである。」





項目ID 項目 よみがな 論名
68 引き寄せの構造 ひきよせのこうぞう Z 心象論
検索キー2 検索キー3 検索キー4
項目抜粋
1

【8 引き寄せの世界】

@考想察知現象の世界のように、心的な世界と現実的な世界とが〈地続き〉であり、したがって心的にそうであると信じられたことは、ある契機さえあれば、現実的にそうであると信じられてすこしもうたがわれないといった世界は、どのようにできあがっているのだろうか?

 未開的な思考の世界像も、ある程度このような世界であるとかんがえられている。このような開的な思考の世界では、心的な世界と現実的な世界とを接地させているものは、なんらかの意味で共同的な観念の世界とかんがえることができる。たとえば、未開的な種族にとって、太陽はもっとも高位の種族的な信仰の対象であったとする。そうだとすると、太陽の方向にむかって弓や矢をむけて射ることは、冒瀆であり、かれらが戦で敵に敗れたのはそのためである。このことはまともに信じられる。  (P316)

A考想察知の現象では、心的な世界と現実的な世界とを〈地続き〉のようにかんがえさせているものは、さきにものべたように〈自己妄想〉の世界である。しかしこのばあい〈自己妄想〉は、たんに病的な個体の内部に発生する〈自己妄想〉という意味ではない。いいかえれば自己妄想の意識によって心的な世界と現実的な世界とが〈地続き〉のように接続されているわけではない。このばあい自己妄想は、対象に〈投射〉されたうえで自己妄想の世界として引き寄せられるため、自己妄想が対象と自己とのあいだをボール投げの繰返しのように往き来することによって、共同観念の世界の代同物の性格をもつようになる。そしてこの共同観念に擬せられる性格をもった自己妄想の世界が、心的な世界と現実的な世界とを接続する媒介の世界となるとみなすことができる。      (P317)

Bこのようにして考想察知の世界は、心的な世界と現実の世界とを自己妄想の〈投射〉によって接続してしまうために、そこでの事象は、もともと観念に帰属するものか現実に帰属するものかは分明でなくなっている。それとともに世界はすべて〈有〉化されてしまう。   (P318-P319)


項目抜粋
2
C想像力において、わたしたちが当面するのは、二律背反の世界である。もしも現実の世界が有形または有声として把握されるならば、そのものについての〈心像〉【ルビ イメージ】の世界は存在しえない。そして存在しえないばかりでなく、このばあい〈心像〉の世界は、迂遠であり無意味なものとなる。逆に、もしあるものについての〈心像〉の世界が存在するならば、そして存在することに意味があるならば、現実の世界は有形または有声の世界から遠ざけられる。もちろん現実の世界の存在は、〈心像〉の世界の有無にかかわらず存在しうるものであり、また存在している。想像力は現実の世界を抹消することはできない。ただ現実の世界が、有形あるいは有声として〈心像〉に関与することが、想像力の世界では禁止される。現実の世界はただ二次的な世界に退かされるのである。(了)    (P319)


備考 註1.8-A……これによって、すこし前から出てきている〈投射〉という概念が、はっきりしてきた。




inserted by FC2 system