Part 1
柳田国男論集成

  JICC出版局 1990/11/01 発行 



項目ID 項目 論名
体液の論理-序にかえて
体液の論理-序にかえて
体液の論理-序にかえて
体液の論理-序にかえて
体液の論理-序にかえて












項目ID 項目 よみがな 論名
じょ 体液の論理-序にかえて
検索キー2 検索キー3 検索キー4
内視鏡に映している世界 外部から視ている視線
項目抜粋
1

【第1部 柳田国男論】

@体液の流れみたいな柳田国男の文体を読みすすんでゆくと、きっとあるところまできて、既視現象にであった気分にさそわれる。あっ、この感じはいつかあったとおもうのだが、かたちがあたえられないうちに、その瞬間が通り過ぎてしまう。この思いはいつもおなじだ。この瞬間の既視体験の感じに論理をあたえられたらというのは、ながいあいだの願いみたいにおもってきた。だがここが既視現象みたいなゆえんだが、この瞬間の感じは、反省的な姿勢にはいると痕かたもなく消えてしまう。いまここで柳田国男を論じようとしているのだから、すこし道具だてを準備して、この既視感の瞬間を言葉でとらえなくてはとおもう。…・ただわたしに既視の感じをしいるかれの文体と方法にはかたちをあたえたいのだ。     (P9-P10)

Aたとえばこんなことがある。

 柳田国男が日本の村里の婚姻の風習にふれながら、その風習がどんな動機で移りかわっていったか説きあかそうとする。その言葉は理路をぬきにして事実を忠実にしるすのでもなく、理路をさきだてるあまり事実を無視して抽象にはしるのでもない。また村里ごとの婚姻風習の資料を、たんねんにあつめて実証的に分類し、そのうえで論理的な結論を与えるのでもない。ある固有の熱い思いいれを結び目において、織物を織りひろげてゆくようなものだ。たて糸は事実の糸であり、よこ糸は理路の糸であるとしても、固有の熱い思いいれの結び目にあわないぎり、事実も理路も使われぬまま捨てられてゆく。それをたどりながら、しだいに柳だの固有の思いいれに結びついたわが村里の婚姻の風習にひきこまれ、しだいに深層に潜行してゆくような、内部からの感覚をおぼえる。そのときだ、既視現象のような、あるひとつの像【ルビ イメージ】がいつもやってくるのは。柳田国男がここでわたし(たち)をひきこんでゆくわが村里の婚姻風習の世界は、いわば内視鏡に映している世界だ。書きしるしていく柳田国男の文体も、それを読んでひきこまれてゆくわたし(たち)の方も、ほら、あらたまって言わんでもわかるだろうといった内証ごとの世界にはいった感じで、〈読むもの〉と〈読まれるもの〉の関係にはいっている。いわばかれの方法も文体も読者の無意識が、村里の内側にいる感じをもつことをあてにし、それを前提に成り立っている。その魅力(魔力)にひきこまれてゆくかぎり、読む者はまちがいなく、日本の村里の習俗の内側にいるという無意識をかきたてられる。それがわたし(たち)に既視現象みたいな感じをあたえる理由だとおもえる。    (P10-P11)


項目抜粋
2

Bわたしがこの瞬間に既視現象の内部にありながら、同時に想像力をふりしぼって、いま柳田国男がしるし、現にわたしがひきこまれている村里の婚姻の風習を、外部からみている視線を想像してみる。その視線からはこの風習は、環オセアニア圏の島嶼であり、同時に東南アジア、東アジア、シベリア沿海で大陸に接した小さな列島の原住民の婚姻風習としてみえる。この外視鏡に映った婚姻風習は、内部にいるわたしたちの視線とまったくちがった像【ルビ イメージ】になってみえるはずだ。わたしの内視鏡に映ったわが村里の婚姻風習と、外視鏡からみえるはずのおなじ婚姻風習の像のあいだには、ひとつの〈空隙〉の存在を喚起するのだ。

 この〈空隙〉はいわば既視空間ともいうべきものだ。わたしの言葉がそれを描写しようとすると〈またいつも感ずるあれだ〉という既視感のなかで表現を喪ってしまう。そしてかたちのない既視感情の反復のなかにいる。この〈空隙〉の像に論理をあたえることは、柳田国男がわたしにしいてくるいちばんつよい思想だ。それはまた柳田国男の方法と文体がもっているつよい喚起力だとおもえる。 (P11-P12)


備考




項目ID 項目 よみがな 論名
じょ 体液の論理-序にかえて
検索キー2 検索キー3 検索キー4
柳田国男の常民概念 不変の変換項
項目抜粋
1

C●もうすこしだけ、この問題は追ってゆける。 (P12)

  【『明治大正史 世相篇』からの引用】

●婚姻史の理念からすれば、柳田国男の方法と文体はいくらでもあなどることができる。働き手ふやしの動機や、娘をはやく片づけたい親ごころで、民族の婚姻制や、母権から父権への制度のうつりゆきを片づけてしまう途方もない考えだということになるからだ。だがそうおもった瞬間から、柳田の内視鏡の眼と一般婚姻史の外視鏡の眼の〈空隙〉を無造作にとびこしたことになってしまう。招婿婚から嫁入婚へうつってゆくには、婚姻史からいえば、太古の氏族共同体の内婚制からはじまって、氏族社会の全崩壊のあとの家族制度まで、社会史の時間を想定しなければならない。これは原始またはアジア的な共同体社会の時期から室町戦乱期までの、すべての時代の経過を内蔵している。柳田はそれを無視していることになる。

 じじつ婚姻制について、柳田国男の丁寧な優れた批判者だった高群逸枝は、その通りのことをやってみせた。  (P14)

   【高群逸枝 『招婿婚の研究二』からの引用】

●これは一般婚姻史と、わが国のこまかい婚姻制の実状をふまえた正論にちがいない。でも柳田国男の方法の批判になっているとはとうていおもえない。高群逸枝の見解は、その時代を支配している階級の、典型的な豪族の婚姻をもとに、変遷する婚姻の歴史をつかまえたものだ。その意味で正統な歴史的考察にあたっている。だが柳田国男はかれのかんがえる「常民」の概念が成り立つような、村里の人々の婚姻習俗の変遷に眼をこらしている。

 「常民」とは、いわば歴史的な時間を生活史のなかに内蔵し、共時化しているものをさしている。そしてじじつ、時代の支配的な階級の婚姻の実状とうつりゆきを婚姻史とすると、村里の「常民」までおりたいったところでは、婚姻の歴史は共時的な習俗にまで凝縮をうけ保存されていることになる。この層までおりてくれば、時間はほとんど習俗のなかに停滞し融けてしまっている。
    (P17)

項目抜粋
2

●「常民」という概念が成り立つところでは、原始あるいはアジア的な村落共同体を、太古から室町期までの千数百年のあいだつらぬく歴史の時間は、ほぼ共時的な習俗空間の距たりのなかに並列になってしまう。それといっしょに村里の「常民」の親たちの〈働き手が欲しい〉とか〈はやく娘を片づけなければ〉とかいったひそかな嘆息に歴史意志が象徴されて、招婿婚か嫁入婚かといった選択は親の都合にゆだねられる。そうみなすことができる。柳田の内視鏡的な方法は、通時的な移りかわりが、村里と村里の共時的な距たりに転換されるばあいの、不変の変換項をうちに内蔵している。  (P17)

●ここで高群逸枝と柳田国男の方法のあいだに、〈空隙〉と〈亀裂〉がみえること自体が、柳田国男の方法にちかづく前提条件だとおもえる。そんなものはみえないという観点はありうるからだ。わたし(たち)がいだく〈いつもおなじで、いつか以前に出あったことがある〉あの既視感は、柳田の文体と方法がこの〈空隙〉と〈亀裂〉を、露出させる力をもつところからきている。

 かれのほかに誰もこの〈空隙〉や〈亀裂〉をみたしてみせたものはいない。そしてかれだけが、たえず、その〈空隙〉や〈亀裂〉を喚起しつづける力をもっていた。

 柳田国男じしんは、この外視鏡と内視鏡の像のあいだに浮びあがる〈空隙〉と〈亀裂〉の意味を、人々に気づかせたかったとおもえる。あるばあいには外視鏡から覗いたらどうなるか熟知しながら、あえて記述を断念してみせることで、じぶんの内視鏡の壁の内側に、じしんで既視現象を産みだしてみせた。そんなばあい、柳田国男の言葉遣いと文体が微細につぎつぎくりだされると、その流れに貼りついて浮んでくる〈空隙〉と〈亀裂〉の像【ルビ イメージ】が、何かを訴えているような衝迫を感じる。 (P18-P19)

備考




項目ID 項目 よみがな 論名
じょ 体液の論理-序にかえて
検索キー2 検索キー3 検索キー4
項目抜粋
1

【『明治大正史 世相篇』、『日本の祭』からの引用】

D●こういう柳田国男の記述にぶつかるとき、じぶんもじっさいそんな場面にでくわして、何度も熱にうかされたように高揚したじぶんの幼児期の気分を思いだして、ある懐しさと親和感を駆りだされる。いわば内視鏡の壁に沿って鮮明な記憶とイメージを喚起されながら、そこをたどっている気がする。だがそれと一緒に既視現象のように〈いつか以前にもこういう感じになったことがある〉というあの既視の雰囲気がやってくる。その秘密は柳田国男の文体、それをささえる感性にひそんでいるようにおもえる。ちょっとみただけではこの文体は、まったく内視鏡の視線だけで、わが固有の村里の語り草や、共同の幻想を、民俗現象として記述しているだけのようにみえる。鮮明すぎるイメージと、ある未知なものへの恐怖感みたいなものが、柳田国男の資質から文体にはこばれている。

 だがもうすこし注意してみると、外視鏡の視線をまったく知らずに、固有の村里の語り草を、ただ記述しているとはとうていおもえなくなってくる。すでにあらかじめ把握されたひとつの外部からの世界像があり、それを文体にひそませ、しかもその記述をじぶんに禁じていると感じられくる。そしてじしんの内視鏡の視線と、表面では禁じたじぶんの外側からの世界把握とが交錯するところに、いわば既視現象みたいに、あの〈空隙〉や〈亀裂〉の像【ルビ イメージ】を浮び上がらせている。     (P20-P21)

●こんな原住民たちの語る体験は、外部の文明の思考法では信じられないことで、ほんとは幻覚が誇張され、伝播されて共同の幻想になるか、そうでなければ村落共同体の特定の巫女たちが、長老たちの指図で隠密のうちに神に扮して、こんな神秘の役割を演戯するものとかんがえられる。

 さきに引用した柳田の文章は、外視鏡で覗けば、ざっとこんなことになるにちがいない。そこでもう一度、柳田国男の記述の方法と文体にたちもどってみたい。外部の思考法を無視して、ひたすら内視鏡の壁に沿って習俗に密着したまま記述しているようにみえるかれの文体の起伏が、ただ安直、蒙昧、無知につながる眼にしかみえないとしたら、その外部の場所は擬似的なものだ。はじめから〈空隙〉と〈亀裂〉に気づこうとしない楽天的な位置なのだとおもえる。  (P22)


項目抜粋
2

●柳田国男の文体は、筋肉や神経のあいだを体液がぬってゆくような文体だ。この文体がひたすら村里の共同の習俗にそそぎこまれ、流れはじめる。外部がない内視だけにみえるが、ほんとは外視の記述をじぶんに封じているだけなのだ。そしてこの封じた分だけ柳田の方法は、楽天的にとどまりえない固有の習俗を、掘り起こすことになっている。

 外部の思考法と、柳田国男が意識して、また無意識にじぶんに禁じている外視鏡の視点とは、合わせようとしても、けっしておなじところに重ならない。ふたつのあいだには、くさび形の〈空隙〉がひらいている。この〈空隙〉はほっておけば、ながい歳月のうちにひとりでに消滅するにちがいない。それはわたしたちが、いつも常用してきた文明史の方法だ。だまってほっておき、世界史が開花してゆく尖端(つまりそれは現在まで外部の思考だ)にだけ耳目をあつめてゆくことが、いわば最短距離をゆくやり方なのだ。  (P22-P23)

備考




項目ID 項目 よみがな 論名
じょ 体液の論理-序にかえて
検索キー2 検索キー3 検索キー4
項目抜粋
1

E柳田国男の方法と文体とは、この〈空隙〉をほっておかずに〈いまこのとき〉から充たそうとするモチーフからはじまっている。すると村里の笛の音や、神に扮した巫女の姿のイメージがたくわえられてゆく場所が、ひとりでに指定されてくる。柳田自身のいい方をかりれば、

 国民の歴史の中には、文字に録せられず、たゞ多数人の気持や挙動の中に、しかも殆と無意識に含まれて居るものが沢山あるといふことは、私たちの携はつて居る日本民俗学が世に現はれるまでは、教へようにも学ばうにも、その機会といふものが丸で無かつたのである。

    (『日本の祭』「学生生活と祭九)

 「多数人の気持や挙動」のなかに、無意識にたくわえられているものは、官能や感覚、その身体的な振舞いの反射に、非言語的にあらわれるにちがいない。ひろくいえば記号的な表出にふくまれる。この問題を記号の社会史、風俗史、産業史、宗教史、風景史として展開したのが、たとえば『明治大正史 世相篇』の画期的な述作であった。

 柳田国男がいう「気持や挙動」の無意識な記号的表出と「文字に録せられ」た歴史の表出の差異は、べつのいい方をすれば、記号としての〔言語〕と、言語としての〔言語〕との差異に帰せられる。そこの場所で、もうすこし柳田国男の方法にこだわる余地がのこされている。  (P23-P24)

 【柳田国男『雪国の春』二の引用】

F●柳田国男が言おうとしているのは何か。かんがえてみる。いちばんわかり易いわかり方は「時雨」とか「春霞」とか「朧月」とか「秋霧」とか「秋の月」とかいう四季折々の季語をあらわす文字言語は、ソシュールみたいにシニフィアンとシニフィエの次元で素通りしたら間違えるといっているようにみえる。こういう季語の背後にある、語の概念に対応するじっさいの景観や、そのほかの天然現象は、地方、地域ごとにそれぞれちがっている。そういうことに驚かないのはおかしいという気づき方を語っている。いちおうそう受けとってみる。ところで詩歌の歴史はまったく反対の方向をたどった。「時雨」など滅多にめにかからないところでも、「秋霧」などしらぬ地方でも、詠題として提出されれば、言葉の記号性を組みあわせて詩歌をつくりあげる。    (P25)


項目抜粋
2

●かれが「京都の時雨の雨はなるほど宵暁ばかりに、物の三分か四分ほどの間、何度と無く繰返してさつと通り過ぎる。東国の平野ならば霰か雹かと思ふやうな、大きな音を立てゝ降る。」ことに気づいたことは、景観とそれを構成している天然の要素を、本質的に差異化できたことを意味している。景観はいつどこでも地史の条件と、固有な天候条件でそれぞれちがっているが、人間の主観はそれに人工を加えることはできるとしても、ただ感情を転移しては、そこから情感を受けとるだけだ。自然の本質性を動かすことはできない。そんなつもりで、わたしたちは景観がいつもおなじだとおもいこんでいる。だが柳田国男の方法と文体は、そこのところでさらに景観に喰い込んでいった。かれは景観が都城地村里の共同の幻想や、幻覚や、習俗によって、本質的に差異化されてしか存在しないものだという認識にたどりつく。共同の幻想や、幻覚や、習俗の内部にあるものにとって、景観はいつも絶対におなじものにされている。おなじように、その外部にあるものにとっては、絶対にそれぞれちがってあるものだ。柳田は旅人としては、共同性の外部からやってきて、この景観はじぶんが習俗として受けいれてきた地域の景観と違っていると感じている。

 だが柳田国男が、京都の宿に滞在してつかんでいる京の「時雨」の降りざまと音は、方法としては外部と内部の何れの視線でもない。強いていえばと内部の視線と外部の視線をおなじものとすることで、はじめて景観を本質的に差異あるものとすることができている。かれはこの景観の本質的な差異化を、日本民俗学の眼によってはじめて獲得された方法だとみなした。ほんとはじぶんがはじめて獲得した方法だといいたかったのだ。    (P30-P31)


備考





項目ID 項目 よみがな 論名
じょ 体液の論理-序にかえて
検索キー2 検索キー3 検索キー4 検索キー5 検索キー6 検索キー7
項目抜粋
1
Gここまできて、柳田国男の文体の特質がいいあてられる気がしてくる。それは、じぶんを刻々と微細化しながら景観や習俗にわけあたえるような、じぶんを差異化する処理法がうみだした文体であるようにみえる。かれは空間を媒介に、じぶんをじぶんと差異化する方法を見つけだした。こういう文体は、景観や習俗を事実として記述するには、あまりに任意性がつよくて適するとはおもえない。また自分を内在的に告白することは、はじめから諦められてしまっている。かれはこの文体でじぶんをじぶんにわけあたえるばあいに、微細さと平準性を、同時に成し遂げようとした。そうおもえる。かれが像【ルビ イメージ】としてもっていた〈安穏〉さにかなう村里の景観や習俗のうえに、まるで微細に噴霧して、すこしずつまき散らすように、じぶんの体液の言葉をわけあたえていった。   (P31)

項目抜粋
2
備考




項目ID 項目 よみがな 論名
縦断する「白」 じゅうだんするしろ T 縦断する「白」
検索キー2 検索キー3 検索キー4
項目抜粋
1

【1 海の流線の方位】

@●この方法の円熟ということで、まずはじめにあげるとすれば、かれの内にむかう視線がつくりあげた体内スクリーンには、日本列島(ヤポネシア列島)の地形図が、海上交通の流線、その方向性と難易度にしたがって、ほぼ完全に遠近法をかえてえいしゃされていたことだ。

 はじめに沖縄の南西諸島と、それにつらなる島々に眼をつけると、この地形図の変形ということはふたつにわけられる。ひとつは潮の流れの方向を軸にして、方位角がひらけばひらくほど、それに逆比例して交通の空間距離はましてゆくという原則にしたがう。…・そうだとすれば柳田の体内スクリーンに映像された知念、玉城から那覇までの地形上の空間距離十数キロは数百キロに、知念、玉城から宮古島北岸までの数百キロは十数キロに変形されていたはずだ。

 こういうことから、柳田はもうひとつのたいせつな変形のイメージをつくる。南西、琉球の島々の西海岸づたいの航路が潮流も風向きもきつくて、船のかたちや、大きさや、機動力や、操船技術が発達した近来のものだとすれば、往古は波のわりにしずかで潮流のよい東海岸沿いの航路がつかわれて本土までのびていた。そうすると沖縄の本島みたいな大きな島では、西側海岸と東側海岸とは文化の系統も、人間の系列も、言葉も、背中あわせなのに異質だということがありうる。あるとき沖縄本島の国頭地方の東側海岸の安田、安波の村で、人々の言葉が本土とかわらないのを知ったとき、柳田はそのことに気づく。もし安田や安波の人たちが本土からたまたま近来に移住した人たちでないとすれば、往古に本土の言葉と系統をおなじくした人たちだとみなされる。   (P32-P34)

●柳田国男が『海上の道』でみせた方法の円熟は、こういったふた通りの海上交通の在り方を、空間距離の概念に繰りこむことで、ヤポネシア列島の地形図の像【ルビ イメージ】を変容させた。沿岸の潮流とその方向線は、島々の地勢図を途方もなく変えてしまう。ヤポネシア列島の南北のイデアルな距離は圧縮され、東西の距離は膨らんでくる。

 これといっしょに柳田は、海にかかわる一、二の概念をふつうの自然主義的な意味から変えていく。

 第一に「船」だ。     (P34-P35)


項目抜粋
2

●まず「船」は、往古では木材をくりぬいたり、はぎあわせたりして、大きさとかたちをととのえ、水路づたいに物や人を運ぶものだ。そういうふつうの概念は、決定的に変えられる。「船」とは〈かたち〉〈大きさ〉だけではなく、〈帆〉〈棹〉〈櫓〉であり、また〈操船技術〉であり、さらに〈経験〉をも包括してはじめて「船」だとみなされるようになる。これが柳田の方法的な円熟のもうひとつの意味にあたっている。

 「船」を〈かたち〉〈大きさ〉〈櫓〉とかんがえることと〈かたち〉〈大きさ〉〈帆〉または〈棹〉とかんがえることは、ふつうの概念では、ただはしるための道具がちがうだけだとみられる。だが柳田の「船」の概念では絶対的といっていいほどのちがいを意味した。「船」を〈かたち〉〈大きさ〉〈櫓〉ととみなすばあいには、その「船」は「砂浜のあるところの遠浅の海岸」を走るものを指していた。また「船」を〈かたち〉〈大きさ〉〈帆〉または〈棹〉とみなすことは、砂浜のない底岩がごつごつした、すぐに深くなるような海岸を走るものを意味した。こんな認識はそれほどたいせつそうにはみえないかもしれぬが、柳田国男の方法にとっては決定的な意味をもっていた。和船の細い櫓は遠浅の砂浜がおおい列島の東側海岸(太平洋岸)の航路で使われはじめたとみなくてはならぬ。西側海岸(日本海岸)の交通では、棹または帆で走る方法がおもに使われたにちがいない。そうだとすれば、急な潮流やはげしい風や高波に逆らって走る〈かたち〉や〈大きさ〉や、操船技術や機関をもたなかった往古には、東側海岸の遠浅や砂浜沿いに北東にむかって列島の沿岸をのぼってゆく航路が、たいせつなものだったにちがいないことになる。       (P35-P36)


備考




inserted by FC2 system