Part 2
柳田国男論集成

  JICC出版局 1990/11/01 発行 



項目ID 項目 論名
縦断する「白」 T 縦断する「白」
縦断する「白」 T 縦断する「白」
縦断する「白」 T 縦断する「白」
縦断する「白」 T 縦断する「白」
10 縦断する「白」 T 縦断する「白」
11 縦断する「白」 T 縦断する「白」
12 「白」の神の担い手 T 縦断する「白」
13 「白」の神の担い手 T 縦断する「白」
14 「白」の神の担い手 T 縦断する「白」
15 「白」という言葉 T 縦断する「白」
16 「白」という言葉 T 縦断する「白」
17 「白」という言葉 T 縦断する「白」












項目ID 項目 よみがな 論名
縦断する「白」 じゅうだんするしろ T 縦断する「白」
検索キー2 検索キー3 検索キー4
項目抜粋
1

【1 海の流線の方位】

@●この方法の円熟ということで、まずはじめにあげるとすれば、かれの内にむかう視線がつくりあげた体内スクリーンには、日本列島(ヤポネシア列島)の地形図が、海上交通の流線、その方向性と難易度にしたがって、ほぼ完全に遠近法をかえてえいしゃされていたことだ。

 はじめに沖縄の南西諸島と、それにつらなる島々に眼をつけると、この地形図の変形ということはふたつにわけられる。ひとつは潮の流れの方向を軸にして、方位角がひらけばひらくほど、それに逆比例して交通の空間距離はましてゆくという原則にしたがう。…・そうだとすれば柳田の体内スクリーンに映像された知念、玉城から那覇までの地形上の空間距離十数キロは数百キロに、知念、玉城から宮古島北岸までの数百キロは十数キロに変形されていたはずだ。

 こういうことから、柳田はもうひとつのたいせつな変形のイメージをつくる。南西、琉球の島々の西海岸づたいの航路が潮流も風向きもきつくて、船のかたちや、大きさや、機動力や、操船技術が発達した近来のものだとすれば、往古は波のわりにしずかで潮流のよい東海岸沿いの航路がつかわれて本土までのびていた。そうすると沖縄の本島みたいな大きな島では、西側海岸と東側海岸とは文化の系統も、人間の系列も、言葉も、背中あわせなのに異質だということがありうる。あるとき沖縄本島の国頭地方の東側海岸の安田、安波の村で、人々の言葉が本土とかわらないのを知ったとき、柳田はそのことに気づく。もし安田や安波の人たちが本土からたまたま近来に移住した人たちでないとすれば、往古に本土の言葉と系統をおなじくした人たちだとみなされる。   (P32-P34)

●柳田国男が『海上の道』でみせた方法の円熟は、こういったふた通りの海上交通の在り方を、空間距離の概念に繰りこむことで、ヤポネシア列島の地形図の像【ルビ イメージ】を変容させた。沿岸の潮流とその方向線は、島々の地勢図を途方もなく変えてしまう。ヤポネシア列島の南北のイデアルな距離は圧縮され、東西の距離は膨らんでくる。

 これといっしょに柳田は、海にかかわる一、二の概念をふつうの自然主義的な意味から変えていく。

 第一に「船」だ。     (P34-P35)



項目抜粋
2

●まず「船」は、往古では木材をくりぬいたり、はぎあわせたりして、大きさとかたちをととのえ、水路づたいに物や人を運ぶものだ。そういうふつうの概念は、決定的に変えられる。「船」とは〈かたち〉〈大きさ〉だけではなく、〈帆〉〈棹〉〈櫓〉であり、また〈操船技術〉であり、さらに〈経験〉をも包括してはじめて「船」だとみなされるようになる。これが柳田の方法的な円熟のもうひとつの意味にあたっている。

 「船」を〈かたち〉〈大きさ〉〈櫓〉とかんがえることと〈かたち〉〈大きさ〉〈帆〉または〈棹〉とかんがえることは、ふつうの概念では、ただはしるための道具がちがうだけだとみられる。だが柳田の「船」の概念では絶対的といっていいほどのちがいを意味した。「船」を〈かたち〉〈大きさ〉〈櫓〉ととみなすばあいには、その「船」は「砂浜のあるところの遠浅の海岸」を走るものを指していた。また「船」を〈かたち〉〈大きさ〉〈帆〉または〈棹〉とみなすことは、砂浜のない底岩がごつごつした、すぐに深くなるような海岸を走るものを意味した。こんな認識はそれほどたいせつそうにはみえないかもしれぬが、柳田国男の方法にとっては決定的な意味をもっていた。和船の細い櫓は遠浅の砂浜がおおい列島の東側海岸(太平洋岸)の航路で使われはじめたとみなくてはならぬ。西側海岸(日本海岸)の交通では、棹または帆で走る方法がおもに使われたにちがいない。そうだとすれば、急な潮流やはげしい風や高波に逆らって走る〈かたち〉や〈大きさ〉や、操船技術や機関をもたなかった往古には、東側海岸の遠浅や砂浜沿いに北東にむかって列島の沿岸をのぼってゆく航路が、たいせつなものだったにちがいないことになる。       (P35-P36)


備考




項目ID 項目 よみがな 論名
縦断する「白」 じゅうだんするしろ T 縦断する「白」
検索キー2 検索キー3 検索キー4
項目抜粋
1

●柳田はさらにこの拡大された「船」の概念を微細に区わけしてみせた。往古ではヤポネシアの列島を南西諸島から東側海岸をつたわって北東上してゆく流線を描くとすれば、南九州の沿岸のどこかにひとまず休息点がもうけられるとみたほうがいい。そこから流線は瀬戸内海へ入ってゆくのか、それとも土佐の沖の海岸を流れてゆくかのどちらかになる。柳田は瀬戸内海に流れる線分は「船」が〈かたち〉〈大きさ〉を拡大し、操船の技術や経験が豊富になったあとにはじめてつくれるようになったもので、往古の「船」、いいかえれば〈かたち〉〈大きさ〉〈櫓〉は、土佐をとおり、紀伊半島をめぐり、伊勢、駿河、遠江をへて伊豆半島の南部まできて、そこから房総半島にまでのびてゆく航路をとるものとみた。この太平洋の交通が、往古にはたいせつだったということは、柳田の方法にはおおきな意味があった。 (P36)

Aここで柳田のかんがえている「日本人」という概念は、『古事記』や『日本書紀』の神話をじぶんのものとして記載している初期王朝のかんがえた制度的な「日本人」の概念とはっきりと区分された常民の概念だ。そして柳田の「日本人」と初期王朝の神話が暗示する「日本人」の概念が、おなじといえるのは南九州のどこかに柳田によって想定された第一の休息点においてだけだといえる。柳田のいう「日本人」は、その「船」すなわち〈かたち〉〈大きさ〉〈櫓〉の概念からして、南九州に想定された両者がおなじ地点から、土佐の沿岸沿いに太平洋側の流線を描いてゆくはずである。『古事記』や『日本書紀』のいわゆる東征する初期王朝の神話的な始祖は、豊後か豊前か日向か薩摩のどこかに想定された両者がおなじ地点から瀬戸内海にはいり、ひとまず難波にいたる流線をたどってゆくはずである。…・

 だがどちらとしても柳田の「日本人」と初期王朝の神話の暗喩する「日本人」とは、ここでわかれ、はっきりとべつの流線をたどることになる。このちがいは流線のわかれであるとともに、時間の差異を象徴した。柳田のかんがえでは、関門海峡であれ、豊後水道であれ、そこをとおって瀬戸内海に入ってゆくためには「船」は大型になり、船足もはやくなり、操船術も発達していなければならないはずだった。『記』や『紀』が暗喩している東征の時代よりも、柳田の「日本人」が南西諸島を東海岸沿いに伝わって、北東の流線によって移動していったと想定されている時代のほうが、遥か以前にあたっている。それと同時に、初期王朝の神話が暗喩している制度の視点から眺められた「日本人」と、柳田国男の想定した島づたいに北東の方向に移動する「日本人」とは位相がちがっていた。柳田の「日本人」にとっては、制度も王権も何のかかわりもない。稲籾と稲栽培の方法をたずさえて、つぎつぎに稲作の適地をもとめて島々を移動する種族の像【ルビ イメージ】を意味していた。      (P36-P37)


項目抜粋
2

B●もうひとつ生みにかかわることで柳田国男は「風」の概念をあたらしくした。

 「風」という言葉が、わたしたちに暗示するすべてのニュアンスや、さまざまなイメージのまえに、柳田はまず「風」の概念を〈方向性〉〈一般経済〉それから〈コミュニケーション〉の意味で使おうとした。


●「風」は〈方位〉という概念がくっつかなければ、海上の流線を陸地にむすびつけることは決してできない。「船」という概念が〈櫓〉〈棹〉〈帆〉をもった漂流や漂着にちかい往古のころにこれがどんなに大切だったかに気づき、「風」の名がおなじでも、じっさいには反対の方向に吹く「風」がありうることに着目して「海岸に向つてまともに吹いて来る風、即ち数数の渡海の船を安らかに港入りさせ、又はくさぐさの珍らかなる物を、渚に向つて吹き寄せる風のこと」(『海上の道』三)に思いをめぐらした。

 何百というヤポネシア列島の大小の島々のうち、はじめに人々はどこの島(々)に上陸し、それからどの方角の島(々)へうつり、しだいに拡がっていったか。「風」として日本海側と太平洋側とでは対向するような〈方位〉をもったおなじ「風」をかんがえると、この「風」が潮の流れの方向と合成されて陸地に接触するところが、上陸の島(々)と上陸点を暗示することになる。柳田は各地の寄木や流木や漂流物が浜にうちあげられる伝承や、伊良湖崎で滞在中流れよる椰子の実をみたといったじぶんの体験や、地方の海辺のひとびとの経験譚などから、これに思いをめぐらし、考えをつめていった。

 潮の流れと、風の方位と、漂流にちかい操法ではしる船とが、柳田の想像のうちでながいあいだに、しだいに融けあって、そとすじの経験的な接続のイメージをつくりあげる。線の周囲にはらかな未明の雰囲気が漂いはじめ、こんなことでは空間的に拡がることも、時間的に遡行することもできるはずがないとおもわれた、ただの線分でつながった論理が、とうとうわたしたちを納得させる力をもつようになる。     (P38-P40)


備考 註1.「読書人」に連載のインタビューの「少年時代」で、もっと父親から船のことを聞いておけばよかったと語っている。




項目ID 項目 よみがな 論名
縦断する「白」 じゅうだんするしろ T 縦断する「白」
検索キー2 検索キー3 検索キー4
柳田の「日本人」という概念 走行する点概念
項目抜粋
1

C●柳田国男がつかっている理路は、いわば線分をつなげ、延長し、複雑な曲線を描きながら流れてゆき、その過程で目のさめるような着想をとりこんでみせるもののようにみえる。あるひとつの要点に立ちとまり、その点を中心にした領域を拡げ、そこに杭を打ちこんで土台をつくり、その上に構築物を組みあげるという遣り方は、すこしもとらなかった。いわば中心領域もひらかず広場もつくらず、いつも流れてとどこおることのない線分の描く軌跡のあいだから、幽明みたいに全体の像が浮びあがってくるという方法をとった。

 こういう線分の理路を荷って柳田の「日本人」という概念は、ヤポネシア列島を南西から北東へむかってはしってゆく。これはひとつの矢印の暗喩であって、この「日本人」という概念が、中心をもち、ある領域の拡がりを占め、しかも種族とか民族とか人種とかの概念に準じたものだとみなすと誤差をもつことになる。できるだけ線分のように流れるこの「日本人」の概念を、具象的にするため弁じておけば、ここで柳田が「日本人」というのは、漠然と、だがはっきりと縄文末期から弥生時代の初期にかけたころ、稲籾と稲作の技術をもって南西辺の島に到来し(と柳田はかんがえている)、つぎつぎに稲作の適地をもとめて、あたらしい島に飛び石して、北東の方向にむかって居住地帯を拡げていった人々をさしている。

 二万年くらいまえには、ヤポネシアの列島は大陸と地続きの領域をもっていたとかんがえられている。朝鮮半島やシベリヤ沿海州を介して、九州、山陰や樺太、北海道を流入口として、列島にはすでに古アジア的な諸種族がいくつも先住し、分布していた。もし「日本人」という概念を、中心をもち、拡がった領域をもち、時間をもつとみなせば、先住の人々もまた「日本人」のそれぞれの構成要素であることはいうまでもない。これは柳田にも充分納得されていた。

 ただここでいう柳田の「日本人」は、ある矢印の方向にむかう衝動をもった線分であり、その意味ではほとんど矢印の一点に収斂してしまうような、走行する点概念にほかならない。だからそこまで限定をつめてゆかなくてはならない。柳田の「日本人」は縄文と弥生のはざまに、稲作適地をもとめてつぎつぎに島々を渡って拡がってゆく〈稲の矢印〉のことを意味している。そこまでここで使われている「日本人」の概念を凝縮しなければ、柳田の意図をうけとることは難しいとおもえる。

 またもうひとついえば、三世紀から五世紀ごろにかけて畿内に最初の統一王朝のの基礎を築き、したがって中国文化をもとに統一文化を開花させた初期王朝の勢力、その消長、その影響下にかたちをもっていった「日本人」という概念とは、まったくちがった位相で、柳田はここで「日本人」という概念をつかっている。    (P43-P45)


項目抜粋
2

●しかもこの〈稲の人〉は点概念にちかいものだから、どれだけの人口が、どれだけの期間に、どの地域からどの地域の島々まで分布したか、それは先住している縄文の諸種族とどう混合し、どういう制度的な関係をむすんだか、と問うことは意味をなさないものだった。柳田の概念に弱みがあるとすれば、かれの〈起原〉や〈到来した人〉としての「日本人」の概念が、時間的にも空間的にも点の動きとしてしか成り立たず、移動の方位に流れはじめたときに、わずかに線分を、なすにすぎないことだ。柳田の想像していた画像をいえば、ほとんど無人のヤポネシアの島々に、わずかな人数の〈稲の人〉が、つぎつぎ充ちみちていくイメージとしかおもえないことだ。これは途方もない誤解のようにおもえる。もちろん柳田も縄文期からこの列島の島々に〈稲の人〉からは異系の先住の種族が(たとえば柳田のイメージにあった「アイヌ」人、「山人」など)いたことは勘定にはいっていた。だがこれとても数えれば指せるほどの人口で、無意識のうちにかんがえられていたようにおもえる。
     (P45-P46)


備考




項目ID 項目 よみがな 論名
縦断する「白」 じゅうだんするしろ T 縦断する「白」
検索キー2 検索キー3 検索キー4
項目抜粋
1

●だがほんとのイメージをいわしてもらえば、江上のようにも柳田のようにも、アイヌ即ち縄文人のすべてであるかのような主張のようにも、早急なものとならないはずだ。いずれとても長い期間にわたって、それぞれの経路からヤポネシアの島々に分布し、それぞれ縄文および弥生期における「日本人」の諸要素を形成しながら融合して、同一な部分をつくっていったとかんがえたほうがいい。そしてそれぞれ「日本人」の南方的と、畿内的と、アイヌにひとつの象徴をみる北方および南方的な特性が、差異の部分として維持されながら、しだいに同化の過程にはいった。柳田の「日本人」という概念が、ほんとは〈稲の人〉の点概念でしかないのに、妥当なところがあるとすれば、この点概念の「日本人」が常民という位置で、いいかえれば制度以前の稲の耕作種族の水準でかんがえられているからだ。統一した制度をつくり、王権として統一した支配の版図をもったかどうかということは、〈稲の人〉としての「日本人」という概念とはちがう次元ででてくる問題だった。   (P46-P47)


●ここでも柳田国男はべつの弱みをひきずっている。〈稲の人〉を「日本人」として措定したいあまり〈稲の人〉の時期とおなじころに、ちがった経路でやってきて、島々に分布していった人人も〈稲の人〉よりもはるか往古の縄文期以前から、すこしずつ列島の島々に分布して存在していた人々をも、非「日本人」とみなしたことだ。『遠野物語』の「山人」の挿話からはじまり、柳田国男の「山人」にたいする考察のうしろにも、アイヌ起源とみなされる家祭(大白神)に言及するときの言葉のうしろにも、見えかくれするのは〈稲の人〉以外の非農耕、非南方の種族を、異民族とみなす視線だった。
   (P47)

●だが民族をつくっている同一さのうちで、その一部分としてある異種性は、それだけでは異民族をつくれない。ただ言葉と文化と信仰の差異をあらわすだけだ。「日本人」はどんな人種的な混成からなる民族で、どこからきたのか。「日本語」とはどういう言葉でどこに起原をもつか。この種の問いにたいするさまざまな回答を通底させて、空間的(地域的)な、あるいは時間的(時期的)な差異と同一の構造を、現在よりももっとゆっくりと熟成させた条件におきなおすことがいちばん重要なことのようにみえる。      (P47)


項目抜粋
2

●柳田が「日本人」を〈稲の人〉という点概念であらわしたことで、あとのこる問題はひとつしかかんがえられない。柳田の「日本人」はどこまでいっても、つくられた制度の秩序、その頂点にたった初期王権がどういうものかと関わりないということだ。ひと通りの意味でいうと、柳田の「日本人」の概念は、どこまでいっても、〈稲の人〉としての常民であり、自然法的な村落共同体の秩序をのぞいては、べつに秩序や制度を構成することはないものをさしていた。   (P47)

●たぶんだれでも柳田の「日本人」というイメージをうかべたみると、民族とか種族とかでなく、故郷の村里をやみがたく、あるいは偶然に捨てて、他郷に住みよい場所と職業をもとめて家出した一家の長が、まず危険をおかして遥かに薄ぼんやりとみえる島影をめざして漕ぎだしたり、海流にのって漂流したあげくに流れついた島に、生活のいしずえをつくってから、妻子を呼びよせに故郷へもどって、また一家をつれてやってきて、最初の漂着地に住みついたという個人的な、あるいは家族的な出郷物語におさまってゆく感じがするにちがいない。こういう動機の人をどんなに寄せあつめても、広漠としたヤポネシアの列島の海辺や山野をおおいつくした「日本人」の像はえられそうにもおもえない。

 ここはいつも柳田の方法がつきあたるところだ。…・だが柳田の方法がふくんでいる柳田の意識の場所にたてば、ほとんど一行ごとに驚くべき知見を埋蔵した鉱脈の露出がみえてくる。 (P48-P49)


備考




項目ID 項目 よみがな 論名
10 縦断する「白」 じゅうだんするしろ T 縦断する「白」
検索キー2 検索キー3 検索キー4
項目抜粋
1

Dわたしたちが思いつきの(着想)や、思いこみの(独断)をつなげてひとつの見解をつくりあげるように、柳田もまた思いつきの(着想)や思いこみの(独断)をつなげて、「日本人はいかにして渡って来たかという題目」にいどみ、答えをつくりあげているかにみえる。すくなくとも実証の次元に手続きはなにもなされていないにひとしい。ただ独特の想像的経験ともいうべきものの、眼には視えぬがたしかな手ごたえのようなものが、わたしたちの触覚にふれてくるようにおもえる。想像的なだけでもだめだ。また経験的なだけでもだめだ。想像と経験のあいだには、文字像ともいうべきもののテニオハをぬいた配列があり、それが柳田の内視鏡を充足させている。わたしたちが感ずる確かさの証しがないたしかさは、そこからきているようにみえる。   (P50-P51)

E●柳田のいう「日本人」は、たまたま漂着した無人の島々の浅瀬に「宝貝」がぞくぞくとみつかることに驚き、ふたたび家郷である南中国沿海部へひきかえし、妻子眷属や器什をたずさえてふたたび海を渡って、島に住みつき、そのときに稲籾や稲の栽培方法をも運んできた。この「日本人」の概念はとうてい「一つの大きな民族として」はたええないものだ。だが柳田の「日本人」は、それ自体が稲籾や椰子のみや、寄物の植物の種子や、昆虫や、渡り鳥とおなじような、本能的な趨向性にちかいもので、列島の南西の島にとりつき、つぎつぎ移動していった生物生理にちかい「日本人」の地平でかんがえられている。そのかぎりで「民族」の人種的な構成要素のひとつとみなすことはできても、とうていそれだけで民族ぜんたいの概念に到達できるパイプをもっていない。だがかれは虚妄を語ったわけではなかった。種族の生物生理は、すでに柳田の方法にひとりでに組みこまれた概念だった。そしてこういう「日本人」という概念の起原にくっつくように、本能的な趨向性を挑発した「宝貝」や「稲」についての柳田の記述は、いちばん円熟した時期に、いちばんたいせつな民俗学の主題をめぐって、いちばん精髄をあらわしている個所だった。それがわたしたちに、この主題から立ち去るのが惜しい感じをあたえるゆえんだといえる。

「宝貝」や「稲」は、なぜ柳田のいう「日本人」にとって、本能的な趨向性でありえたのか。これらが物欲や食欲を介して原「日本人」の交易品や食糧として、生活と生存に不可欠のものだったからだ。この不可欠の必要性がなければ、とうてい原「日本人」が海を渡り、島にとりつく本能的な趨向性をもちえたはずがない。柳田の記述はそんなふうに暗示している。だが同時にこれが不可欠な必要性にとどまるだけだったら、漂着し「宝貝」を見つけ「稲籾」をたずさえてきた人々は、ふたたび家郷の大陸沿海にもどって、採取のためのほかは南西の島々をふたたび訪れなかったろう。かれらが島々に定住したり、またそれから適地をもとめて島々を移動してゆくためには、どうしても別の動機がなくてはならない。
    (P52-P53)


項目抜粋
2

●ここまできてはじめて柳田の方法は、深層にまでおりてゆく契機をみつけだした。「宝貝」の発見と採取の必要性、つまり貨幣としての必要性は、そこではひとつの否定の契機でしかなく、その必要性の彼方に「占いや夢の告げ」がそこへ移り住めと卜定をくだし、「鳥や獣の導き」によって、それらの生物が導くものには無意識の安住と安楽が横たわっていることを信じて、家族や器什をたずさえて、あらためて定住したのにちがいない。

 おなじように「稲」は、食糧としての必要性をひとたびは否定されねばならなかった。柳田のいう「日本人」にとって「稲」は不可欠の食糧ではなかった。稲を栽培し収穫する〈稲の人〉にとっては、稲は自己表出にほかならなかった。そのために祭儀や信仰の対象になったり、祝祭のための供犠だったり、あるばあい文学や暦法や気象の道具だったりしても、食糧として生存に不可欠なものではなかったのだ。稲は「非農民」や「貴族」や「富者」にとって必須の食糧だったかもしれぬが〈稲の人〉としての「日本人」にとっては、祝祭の晴れの日にだけ食べて、祝意を身にいれる信仰用のものにほかならなかった。…・「宝貝」の採取も「稲」の耕作も、柳田のいう「日本人」にとっては他者の囲いのなかにある生産物だった。だがそれにもかかわらず(それとともに)ふたつとも魂の自己表現にあたっていた。このことこそが〈稲の人〉たちをヤポネシア列島の南西の島々に定住させ、耕作地をもとめて島島を北東へむけて移住させはしたが、ふたたび家郷の華南沿海の地へ帰郷させなかった理由だった。      (P53-P54)


備考 註1.直接関わることではないが、現在の日本に、いろんな生活の事情や夢や神話を織りこんだ魂が、流入してくる(外国人)線分を思い浮かべた。その軋轢と混交の未来。




項目ID 項目 よみがな 論名
11 縦断する「白」 じゅうだんするしろ T 縦断する「白」
検索キー2 検索キー3 検索キー4
項目抜粋
1

Fわたしたちは、華南の沿海部にあった「東夷」が〈稲の人〉として柳田のいう「日本人」の概念を象徴するにたりるかどうか、実証的にたしかめることはできない。たしかなのは「日本人」という概念を、はしってゆく点のようにみなす柳田の内在的な方法をうけいれるかぎり、疑うことのほうが不自然だといえることだ。だが柳田がここで「日本人」という、ほんらい民族あるいは人種概念としてしか使えないはずの呼称を、流線の像に転化したために生じた無意識の深層が、夢や卜占に促されてつぎつぎに島々を渡ってゆく〈稲の人〉の画像を鮮明に浮びあがらせることに成功した。わたしたちが居ながらにして二〜三千年ほどまえ、黙々として島々を渡ってゆく短軀の〈稲の人〉の姿を眼前にできる気がするのは、かれの内在化と線型化の力能が、ほとんど経験という概念に拮抗し、それを無化する力をもっていたからだ。       (P54-P55)

項目抜粋
2
備考




項目ID 項目 よみがな 論名
12 「白」の神の担い手 しろのかみのにないて T 縦断する「白」
検索キー2 検索キー3 検索キー4
項目抜粋
1

【2 「白」の神の担い手】

@…・だが原アイヌ人とはいったい何なのだろう?

 柳田の胸のなかをいつも去来したこの民俗学的な問いを推測してみる。はじめに柳田のいう「日本人」、すなわち〈稲の人〉をヤポネシアの列島の全域にわたって分布させてみる。そして〈稲の人〉とそれぞれの地域に先住する諸種族とが、できるかぎり混血や融合をひろげたとする。そのうえ時代的な上限をできるだけさかのぼって、〈稲の人〉の概念を縄文にまでひきのばしてみる。それでもなおこの拡大された「日本人」の概念からはみだす異人種(民族)は想定できるだろうか。これがたぶん柳田がひそかにいだいた問いだった。柳田の民俗学の流れ、とくに「日本人」とはなにかという主題の底に、いつも非農耕的な「山人」の影と、アイヌの影がみえかくれするのは、そのためだった。

 柳田あるばあいにはかれのいう「日本人」である〈稲の人〉と、「山人」やアイヌの人々を、すこしばかり異種族てきな要素をもった同種とみなそうとした。そうかとおもうと、あるばあいまったく異人種からできた異民族とみなした。とくにアイヌの人々が、融和してかんがえにくい異信仰と、異った生活様式と言語をもった異人種だというかんがえ方は消えなかった。ときに矛盾するこういう揺れのあいだから、微妙に働きかけてくる柳田の真意のようなものが、はじめてのぞかれる。  (P57)

A柳田がここで「山人」を「我々と全然社会を異にせる此国の原住民」というばあい、じぶんをじぶん自身が規定した「日本人」、いいかえれば〈稲の人〉の場所に無意識においている。そこでここでは「山人」は〈稲の人〉である「日本人」の以前に、すでに〈稲の人〉と無関係にこの列島に住みついていた「生蕃」とみなされている。柳田は〈稲の人〉が縄文末期から弥生初期のころに列島の南西の島々にとりついたと漠然とかんがえているから、「山人」は縄文期あるいはそれ以前から原住していた原縄文人の末裔のひとつとみていることになる。

 さらにもうすこしさきまで、無意識にいわれている。

 東北地方の山間に住む「特殊の移民」である「山人」は、木を樵り、これを細工する木工の技術をもち、わけても杓子をつくって平地の農民と交換していた。…・ここからさき柳田の「山人」は、異種線につながる連結手をひとつの方向にさし出している。それはこの特異な木工のつくる「杓子」を介して、大白神(オシラカミ)信仰の荷い神たちにむすびつくものだった。   (P59)


項目抜粋
2

B…・さまざまに変形されたその神体が樹木信仰にかかわりがあり、その憑依物である樹木を象徴する棒状体だということが肝要だった。ここまできて柳田の「山人」は、初期の金山師や野の鍛冶師のような金属にかかわりをもつ「人」、つぎに樹木をあつかい細工する「人」を経て、狩猟にたずさわる「山人」にまで途絶えることなくたどりつく。

 柳田の「日本人」、すなわち〈稲の人〉からみれば、非「日本人」である非農耕の〈人〉の像は、ここまできて「山人」という概念にすべて含まれることになった。そしてもしかすると、柳田には大白神(オシラカミ)の信仰の荷い手をさかのぼってゆくことが、すべての「山人」を解きほぐす中心にあたっていたかもしれない。

 だが柳田には、それをうち消そうとする考えもいつもまつわっていた。その危惧は言ってみたかった。引用の中段にあらわれた大白神(オシラカミ)の祭祀の日付は、その危惧のひとつだった。 (P62)


備考




項目ID 項目 よみがな 論名
13 「白」の神の担い手 しろのかみのにないて T 縦断する「白」
検索キー2 検索キー3 検索キー4
柳田の事実
項目抜粋
1

C大白神(オシラカミ)の祭日は、正月十六日と、三月および九月の十六日になっている。そして三月と九月の十六日は、農耕についての祭儀の折目とみられている。だが正月十六日の祭日だけは、ヤポネシアの列島を縦断しているいちばん重要な祭日である。宮廷制度のなかの祭日としても、常民の生活のなかの祭日としても、まったくおなじように分布している。そのためにこの正月十六日を祭日とする大白神(オシラカミ)信仰を、「他種族」(アイヌ)からうけついだものとみなすことに、柳田は躊躇せざるをえなかった。この心のなかにある疑義はときとして柳田の口調からこぼれでた。

 柳田がいだいた疑いを解消するには、大白神(オシラカミ)の信仰を、奥州の北の端にちかい地域で家祭としてまつられる地域的な土俗信仰とみずに、さまざまな変形をうけてはいても、ヤポネシアの全域に分布するものとみなすか、逆に大白神(オシラカミ)の起源にいる荷い手(アイヌ)を、特殊な「人」とみずに、柳田じしんが拡大した「山人」のなかに、構成の一要素として組みいれるか、その何れかしかない。柳田はこの場所まできて〈ためらい〉、〈不安定〉、〈懐疑〉をしめしては、また〈決断〉して線分をむすびつけていった。そしてこのうしろめたそうな姿にかれの方法的な精髄があらわれたといってよい。     (P62-P63)

D柳田はここで、暗示のうえに暗示をかさね、暗喩にまた暗喩をかさねる文体と方法をとっている。そしてわたしたちは知らず識らずのうちに、かれの文体の暗示や暗喩を、まるで事実であるかのようにみなして連鎖をつくっている。ほんとをいえばこの遣り方はいい方法だとはとてもおもえない。ただ近似解とてそうするより仕方がないからやっているだけだ。暗示は暗示のままに、暗喩は暗喩のままにかさねあわせて、あくまで未知にたいする懐疑の手触りを柳田はのこしておきたかった。いいかえればそうすることで、永続的な生命をもたせていたかった。事実に事実をかさねてえられる実証的な判断は、あたらしい反証の事実がくわえられれば、誤りに転化し、死にたえてしまう。だが柳田の暗示や暗喩は、いわばいつも他界を、あるいは輪廻の生命を目指そうとしているといってよい。   (P63)


項目抜粋
2

E大白神(オシラカミ)の信仰を北方大陸の種族的な信仰とむすびつける柳田の暗喩を、田村浩やネフスキイの見解はいわば事実のむすびつきにひきよせている。柳田はもちろんよくよく承知のうえで暗示的な含みを捨てなかったのだから、ほんらいは田村浩やネフスキイの見解と並列させるのは無意味かもしれない。それといっしょに暗示的な文体のうちに収縮してえられる事実ではなく、じぶんの暗示を外にむかって開くことで事実を手に入れることは、切実な柳田の願望でもあった。このふたつは事実の意味がまるでちがっていた。

 こういう微妙なちがいは柳田の無意識に属していて、わたしたちが見つけるよりほかないものだ。     (P66)


備考




項目ID 項目 よみがな 論名
14 「白」の神の担い手 しろのかみのにないて T 縦断する「白」
検索キー2 検索キー3 検索キー4
実証的なおなじと無意識のおなじ
項目抜粋
1
Fところでネフスキイや田村浩の断定的な推論にくらべて、柳田国男の大白神(オシラカミ)にたいする理解は、〈ためらい〉と〈ふくみ〉にみちている。「外の異俗に接触して目新らしい宗教の奇瑞に驚かされたといふだけで、我々が果して彼等の心までを学び得るものであるかどうか。」といった言い方で柳田がいいたかったのは、大白神(オシラカミ)信仰がアイヌの固有の信仰であるとして、そのあらたかな予言や占断の適中におどろいただけで、われわれの北奥郡の人々が、かんたんにとり入れたりするものだろうかという疑念だった。これと逆に「又血が混じ人が入込んで共に住んで、始めて彼に在ったものを此に移し得るのか。」といういい方で、アイヌと柳田の「日本人」が接して住んだ北奥郡で、混血したために、もともとはアイヌの神であったものが「日本人」のオシラ神として家々に祀られるようになった、というのは本当かという疑念をさし出している。断定を避けたいかにも優柔な〈ためらい〉にみえるが、じつは柳田の方法の本質に根ざしている。大白神(オシラカミ)の神体である桑の木や、にわとこの木のかたちの種々相や、それに纏いつかせた布切れの種々相や、それを祀る方式などの類似性を、どこまでも微細にしてゆけば、起源の同一性や差異性の判断に到達するはずだというのは、実証的な分析と綜合にほかならない。柳田はそれを信じていないし、じぶんの方法ともしなかった。    (P67-P68)
項目抜粋
2

G神の観念や、それを憑き降ろすための憑り代の形質や、その方法は、人種や民族を超えて同一でありうる。この同一性はそれぞれの種類や民族の相異によって固有の形状や方法の変化があるのが当然だということと矛盾しない。したがって神の観念や、憑り代の形質や、その神降ろしの方法がおなじだということは、種族や民族のおなじをなにも保証しない。この意味では北方大陸の沿海ちかくに住む古アジア種族やウラル・アルタイ系の種族と、アイヌ人や奥東北地方の「山人」とのあいだに、神の観念や、憑り代や、その憑依方法の類似が、微細な点まで実証されるということは、そのままでは人種や民族の同一(起源)を語るものとはいえない。柳田は内視鏡の壁面に無形のままふり積もった眼に視えない想像力の体験の積みかさねによって、それを直観的に理解していたとおもえる。そして実証的なおなじよりも、無意識のおなじが、神の観念や、神を降ろすための憑り代の形質や、その方法にあるとすれば、その無意識のおなじの方が実証的なおなじよりも重要だとみなしたのだ。ここには柳田の方法的な本質があった。無意識のおなじは、意識された差異を直観によって排除したとき得られるものだといえる。そのとき対象の差異が消去されるのではなく、かえって無意識の差異が露出してきて、おなじの世界を析出するのだ。柳田はほんとは優柔不断なのではなく〈ためらい〉や〈ふくみ〉によってしかあらわれない本質を暗示しようとしている。    (P68-P69)

Hそしてこれ以上柳田を追いかける理由があるとすれば、実証的に記述できる推論の場所と、柳田の方法的な主張である無意識のおなじが語りかける所属の出所とを、さらに接近させ、緊迫させることのほかありえない。   (P69)


備考




項目ID 項目 よみがな 論名
15 「白」という言葉 しろということば T 縦断する「白」
検索キー2 検索キー3 検索キー4
項目抜粋
1

【3 「白」という言葉をめぐって】

@大白神(オシラカミ)の「白」という言葉は、田村浩によればアイヌ語の「オツシ」で「木の心」の意味であった。ネフスキイは「シラッキカムイ」は(看守する、番する神)という意味になると述べている。ところで柳田国男は「白」(シラ)という言葉が、刈稲を積んである稲積み、または稲そのもの、あるいは稲積を収めた小屋の意味で、八重山諸島に使われていることに言及している(「稲の産屋」)。そのときこれが大白神(オシラカミ)とかかわりをもつかどうか意識していたかもしれなかった。「白」という言葉に、とくに柳田が見ていたことは、この稲積をイニマヂン(稲真積)とかニホ(稲積)の系統の言葉でよばずに「白」(シラ)とよぶのは、稲栽培が食糧の生産の意味よりも宗教的な意味で行われ、田のなかの稲積(高倉)が、刈穂を積みあげて乾かすためというよりも、稲穂をあつめて祭るさいの中心の祭城(小屋)という宗教的な意味をもつ古い時代の名残りをふくんでいるかもしれぬことだった。これはシラは産屋、シラビトウが妊娠している女性、ワカシラアが産婦人をよぶことと関係して、生命の生産を祭る意味をもっていた。「白」(シラ)を稲または稲積(小屋)の呼び方とする言葉の系譜は、稲栽培を食糧のためよりも、信仰としてみた最初の〈稲の人〉のあり方を象徴するものとみえた。そしてこれが八重山諸島にのこり、おなじようにもしかすると大白神(オシラカミ)を祭る北奥郡の旧家の「白」(シラ)とかかわりがあるかもしれなかった。     (P70)

A●わたしたちがここでかすかに感受するところは、大白神(オシラカミ)の信仰とかたちとに、いくつかの段階を想定しなければならないのではないかということだ。この段階のそれぞれに応じて「白」(シラ)の意味が変遷をうけるところが想像される。そして大白神(オシラカミ)の原名称が、稲積(小屋)あるいは稲の名称と複合してかんがえられるようになったのも、農耕神の性格をもつようになった以後だと見做すことができる。(図2参照)   (P73)


項目抜粋
2

●柳田はつづいて、稲積(高倉)と人間の産屋【ルビ うぶや】とが共に、南西諸島の八重山群島で「白」(シラ)という言葉で呼ばれてのこされていることを、語源のうえから考察しようとした。まず柳田はダ行の音は古い時代にはラ行に近く発音されていたとかんがえる。たとえば太陽を琉球語でテダというのは、〈照るもの〉としてのテラに当っている。おなじ理由で「白」(シラ)はシダで〈生むもの〉〈育つもの〉に当っている。南西諸島でスダテイン(育てる)は、シデイン・シデイルンとも変化するが、生まれるという意味をもっている。…・

 柳田はこれらがすべて同系統の語で、生育するものの意味をもつ語、シデ、スジ、スデとシダ、シラはおなじ概念を表わすものとみなした。

 こういう柳田の語源的な推論がどこまで的をあてているかわからない。わたしたちのみた範囲で、言語学者村山七郎は「白」(シロ、ロは甲類)、「被覆形」(シラ)を考察して「輝かしいこと、ひかり輝くこと、光」という意味を引きだしている(村山七郎『日本語の研究方法』)。村山はそれによって、イチ・シロ・シ(著ろし)、シラ・ヒ・ワケ(筑紫の古名)、シラ・ヌ・ヒ(「光・ノ・日」)(筑紫の枕詞)などの語義も容易に解せられるとした。村山七郎はジャワ語sila〔光線〕、フィージ語zila〔(天体が)輝く〕、サモア語u|ila(「いなづま」)に対応させて南島祖語*t'ilak(光線)を導いている。村山の「白」(シラ)の考察をおしすすめると、柳田とはちがって「白」(シラ)はむしろティラを介してテダ(太陽)の系統のほうにひきよせられることがわかる。       (P73)


備考




項目ID 項目 よみがな 論名
16 「白」という言葉 しろということば T 縦断する「白」
検索キー2 検索キー3 検索キー4
項目抜粋
1

Bところでわたしたちはここで「白」(シラ)が大白神(オシラカミ)の(シラ)として、また稲積(高倉)の(シラ)として具象物をさすものだという柳田の理解の場所から出発した。そして柳田は〈生育するもの〉という意味でシデ、スジ、スデにさかのぼることができるものとみなした。これを村山七郎が南島祖語としてt'ilak(光線)にさかのぼっているのと比べると、ほとんど種族の言葉が、分節化と概念化とをうまく同致させた当初の原型のところまでさかのぼっているような任意の感じにさせられる。ある事物の名称が、当のその名称である必然性はなにもないという任意性と、何とかして概念と概念のあいだにある差異を、差異としてではなく上位概念と下位概念のあいだの包括と被包括の関係におきなおしたい欲求の任意性とに、これらの語源的な操作はつきあたっている。そして誰も民俗や歴史や考古学的な資料が、はっきりさせてくれないことがらにたいする焦燥感を、ともすれば言葉の原型にむかって告白することになっている。これらの「白」(シラ)の語源的な推論もやみがたくそのかたちだといえよう。

 わたしたちも以前に「白遠ふ」という枕詞のあり方、その意味をめぐって「白」(シラ)について考察したことがあった。 (「ある枕詞の話」『言葉という思想』所収)            (P75)

Cここまできてわたしたちは柳田のかんがえてきたように「白」(シラ)を「稲」または「稲積み」のようにみる見方と、たとえば村山七郎が考察したように「光線」「輝くもの」「太陽」のようにみる見方を相応のものとみなしてみる。すると「白遠ふ」は「稲穂(積み)が遠くまでひろがった」という意味にとるか、「光りが遠くまで輝いている」という意味にとるか、いずれかになる。そしていずれであっても、それぞれかなり適応性をもっているようにおもわれる。     (P77)

Dだがここではもうすこし重層した事態につきあたっている。

 「白遠ふ」は『常陸風土記』と『万葉集』の東歌にあらわれている。語序が逆になって形容詞化した「とほしろし」は『万葉集』の赤人と家持の歌と『日本書紀』にあらわれている。いわば中央制度のもとで、その文化圏のなかで使われている。「白遠ふ」が、中央の用語法「とほしろし」の逆語序にあたっているとすれば、「白遠ふ」の方が、東国の古層にあたる語であるとみなしてさしつかえないとおもう。「とほしろし」が「ひろびろとひらけている」とか「雄大である」という意味で、中央で使われるようになったときには、すでに逆語序「白」(シラ)あるいは「白遠」の意味は、おそらくは不分明にちかくなっていた。そしてすでに「遠くまでかがやきひろびろとしている」というように転義して、複合形容詞的なものにかわってしまっていた。そしてわずかに東国の『常陸風土記』に、土地人のいい習わす諺として地名新治に冠せられるか、『万葉集』の東歌に用語がのこされるにすぎなくなっていた。   (P79)


項目抜粋
2
Eもし「白遠ふ」が「稲穂(積み)が遠くまでひろがる」という意味、または「稲穂の田が水をたたえて輝いている」という意味にうけとれるとすれば、東国から奥東北にわたる北方地域でも、南西諸島の最南端八重山諸島で、稲穂(積み)を「白」(シラ)といった使用期と、おなじ時期の名残りが、失われずにのこされたのかもしれなかった。そういう推測が成り立ちうる。そしてさらにその以前の時期を想像すれば「白」(シラ)が稲穂(積み)と産屋を意味する語であったのは中部以西にかぎられていたとみなしうる。(図5参照)       (P79-P80)


備考




項目ID 項目 よみがな 論名
17 「白」という言葉 しろということば T 縦断する「白」
検索キー2 検索キー3 検索キー4
枕詞の古層 地名発生
項目抜粋
1

Fところでもうひとつ「白遠ふ」にあらわれた「白」(シラ)または「白遠」の釈義の可能性についていい添えておくべきかもしれない。…・

 おなじように「白遠ふ 新治の国」は、アイヌ語の地(形)名称「しるとうる(sirutur)」(村と村の中間地、境、川中の島)あるいは「しることる(sirkotor)」(山腹の傾斜地、山の斜面)(宝田清吉『アイヌ語と東北』、知里真志保『地名アイヌ語辞典』)である可能性はかんがえられる。ただこのばあいには「白」(シラ)が稲穂(積み)を意味する語として東国から奥東北の地方に分布するよりも以前の時期を、想定しなくてはならない。『常陸風土記』にでてきて地名に冠せられる枕詞は、ほかの『風土記』にでてくる枕詞にくらべて特異な性格をもっている。それは象徴的な自然(物)の概念的な意味や像や語音を掛けるところにあらわれていて、単純でまた素朴だといえよう。これは枕詞としていちばん最初の、いちばん単純な形にあたっている。そしてそのうち地名を二つに重ねたかたちはとりわけ古層とみることができる。たとえば「春日【ルビ はるひ】の春日【ルビ かすが】」とか「まきむくの ひばら」、「みわの ひばら」、「はつせの ひばら」などがそれにあたっている。「白遠ふ 新治の国」あるいは「白遠ふ 小新田山」の「白遠ふ」が、アイヌ語の〈新田が開墾される場所の地(形)名〉をあらわすとすれば、ほんらい同じ地名をふたつ重ねて、その冠せられたひとつが枕詞を意味するばあいにあたるともみられる。このばあいは東国あるいは奥羽の特徴として、冠せられた地(形)名がアイヌ語の同一語を意味していたと解することができる。     (P80-P82)

G枕詞の起源をかんがえれば、さらにそれ以前にさかのぼって、地(形)名が地(形)名と重ねられる枕詞の母型を、まったく理論的には想定することになる。たとえば「岬の 岬」であり「入海の 入海」だ。このばあい冠せられた「岬」や「入海」は差異としての入海であり、あとの「岬」や「入海」は同一性としての「岬」や「入海」である。ここではじめて地(形)名(地勢名)は自己同一化されて、地名発生のはじめにたつことになる。柳田はおもにヤポネシア列島の東北部にのこされているアイヌ語の地名が、そのような起源の段階にあることをはじめて指摘してみせた。(これはヤポネシア列島の西南端の島にのこされた琉球語の地名にもあてはまる。)     (P82)

【柳田国男『地名の研究』からの引用】

項目抜粋
2

H●柳田がここでいいたかったことは、つぎのことだった。たとえば「さねさし 相模」という慣用の地名枕詞が成り立っているばあいに、はじめに〈長い出崎〉を意味するアイヌ語の地(形)名「たねさし」が、その海に突出した土地に名づけられていた。その場所へあとから異系統(柳田のいう異民族)の人たちが移り住むようになった。もし先住する人々とあとから移り住んだ人人とが、混合して定住したとすれば「たねさし」という先住者の地(形)名が容認されることになり、逆にあとから移動した異系統の人々が、先住の人々をまったく追いはらって住みついたとすれば、「たねさし」という地(形)名は消滅してしまうことになる。そして「さねさし 相模」という慣用の成句が成立していることは、差異としての「たねさし」と同一性としての「相模」が、いいかえれば先住者の地(形)名の残り香を受容するさまざまな陰影、つまり微差異が「相模」の定住者にあったことを意味していた。

●わたしたちがここで柳田の洞察につけくわえることがあるとすれば、ひとつしかない。柳田がここで「アイヌ」という呼び方でよんでいる先住の人々の概念を拡張して〈稲の人〉の以前に住んでいた縄文の一種族とみなすか、あるいは逆に先住の縄文の諸種族の概念の一部分として「アイヌ」を包括させるか、だ。そしておなじように地(形)名としてのこっている「アイヌ語」という概念をまた拡張して、縄文日本語の一部分と解するか、あるいは先住諸種族の言語の一部分として包括させることであるとおもえる。柳田が「アイヌ語」の地(形)名がのこっているとかんがえているものは、柳田のいう「日本人」、すなわち〈稲の人〉より以前にヤポネシアの列島に先住していた人々の〈先住語〉の一部分という意味にまで拡張されれば、ほぼ妥当するものだった。柳田が「二種の民族が共棲し」というのは誇張であって「二種の時間としての【傍点 時間としての】(エポックとしての)民族が共棲し」というか、「一種の民族が空間としての(地域性としての)差異を拡大し」というほうが、実体に叶っていたかもしれなかった。   (P84-P85)


備考 註1.「もし先住する人々とあとから移り住んだ人人とが、混合して定住したとすれば「たねさし」という先住者の地(形)名が容認されることになり、逆にあとから移動した異系統の人々が、先住の人々をまったく追いはらって住みついたとすれば、「たねさし」という地(形)名は消滅してしまうことになる。そして「さねさし 相模」という慣用の成句が成立していることは、差異としての「たねさし」と同一性としての「相模」が、いいかえれば先住者の地(形)名の残り香を受容するさまざまな陰影、つまり微差異が「相模」の定住者にあったことを意味していた。」




inserted by FC2 system