Part 3
柳田国男論集成

  JICC出版局 1990/11/01 発行 



項目ID 項目 論名
18 動機の鏡 U 動機・法社会・農
19 動機の鏡 U 動機・法社会・農
20 動機の濃淡 U 動機・法社会・農
21 動機の根拠 U 動機・法社会・農
22 舞台の意味 U 動機・法社会・農
23 舞台の意味 U 動機・法社会・農
24 U 動機・法社会・農
25 U 動機・法社会・農
26 U 動機・法社会・農
27 U 動機・法社会・農
28 U 動機・法社会・農












項目ID 項目 よみがな 論名
18 動機の鏡 どうきのかがみ U 動機・法社会・農
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柳田の無意識の方法
項目抜粋
1

【1 動機の鏡】

@柳田国男は、法制局参事官として、犯罪調書をしらべて、特赦にあたるかどうか判定する仕事を担当していたころ、とくにつよい印象をうけたふたつの挿話を、文学上の旧友田山花袋に語ってきかせた。

     【『故郷七十年』所収「山の人生」】                (P86)

A法社会学者としての柳田は、すべての〈法〉は極限まで追いつめていけば、万人にとって、おなじ出生と、おなじ環境におかれれば、おなじ行為を犯すにちがいない事柄にたいして、はじめて刑罰が設定されるものだとかんがえられていた。しかし同時にこんな行為だけが〈法〉を超えた人間的な行為でありうるという自然権的な真理についても、柳田は感銘をうけていたにちがいない。そしてもうひとつ、柳田が無意識のうちにこの種の犯罪調書から拾いあげている特徴があった。柳田がじぶんで衝撃をうけ、他者につたえようと記述したり、喋言ったりした、いわば〈死に至る犯罪〉の事件が、いずれも自然の風光のなかでの惨劇だということだ。人間と人間とのあいだの濃密な親和力がこじれて惨劇となった巷のなかの犯罪ではなく、自然の風光のなかで、自然の〈眼〉があるとすれば、どれもこれも等しなみに人間という類にしか視えないのに、その人物の心のなかには、異様な惨劇や悲劇や、葛藤が準備されていて、美しいさり気ない風光のなかで、やがて追いつめられて犯行が演じられる。

 すこし遠くから斜めに俯瞰された自然の風光のなかで、ちいさな人間が斧を振りあげたり、滝つぼにとび込んだり、葱を盗んだり、火をつけたりしている像【ルビ イメージ】が浮んでくる。このシチュエーションは、柳田の無意識の方法にかなっていた。そしてこのシチュエーションは、柳田のいう「山」の人生だとか「山人」だとかの本質的な像【ルビ イメージ】につながっていたとおもえる。    (P89-P90)

B●柳田と花袋のあいだにはいわば「深刻」の意味にずれがあった。柳田の「深刻」には自然法と実定法の、それぞれ起源にあたる人間的な行為のうち、このふたつの法概念のあいだの断層や亀裂や空隙ともいうべき意味空間に陥ちこんだ不可避の殺人や、死や、犯罪の行為こそが、ほんとの意味で「深刻」だった。だが花袋はそうではなかった。人間の出生や環境や偶然の不運にさいなまれて、殺人や、死や、犯罪のまで追いつめられた悲劇や惨劇であっても、そこにふつうの情念が働きあい、またその働きの如何によっては、もしかすると惨劇にまで至らなかったかもしれない余地をもった事件だけが「深刻」の名に値するものだった。


項目抜粋
2

●なぜならその「余地」だけが、文学的描写にたえるとみなされたからだ。柳田の「深刻」は自然権的な無雑作な残酷が基礎になっているため、かえってロマンティシズムや神秘主義の思いいれがはいりこむ余地があった。そこでは像【ルビ イメージ】の多義性がゆるされる。花袋の「深刻」は、どんなばあいも通常の人間の情念から切りとられた断面をもっているから、像【ルビ イメージ】は事実の次元をそんなに遠く跳躍できない。この差異から柳田の自然主義批判が発生している。花袋の小説にあらわれた自然主義など、山の住人たちにじっさいおこった惨劇や悲劇にくらべたら「まるで高の知れたもの」だという柳田の花袋批判は、もうすこし先までつっ走る。   (P89-P90)

C『重右衛門の最後』にはもうひとつ柳田の関心をひくことがあった。また花袋はそれをよく知っていたとおもえる。それは重右衛門がぐれるのも、放蕩するのも、火つけや脅迫の犯罪的な行為も、その死の悲劇でさえも、自然の風光の真っ只中に、ぽつんと孤独におかれた人間という位相でおこった出来事だということだ。これはすくなくとも柳田の無意識の方法にかなうものだった。斜め上方から俯瞰される自然の風光ので、実物大よりもややちいさく視える重右衛門が、荒れ狂い、村人を憎悪し、生まれながら腸が睾丸に垂れさがっているわが肉体を呪い、火をつけ、酒を喰らっている姿が、像【ルビ イメージ】として鮮やかにうかんでくる。いわば風光のなか(風光の無関心【ルビ イナートネス】のなか)で、もっとも人間臭い、もっとも悲劇的な行為が、重右衛門を不可避に〈死〉へつれてゆく有様がみえてくいる。これこそが柳田が『重右衛門の最後』にみていたものの本質であった。花袋はそれをよく心得ていたとおもえる。  (P93)


備考

1.このあたりを読み進んでいて、中上建次の作品世界を思い浮かべた。

註2「格率」という言葉、P93、102,104,157。





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19 動機の鏡 どうきのかがみ U 動機・法社会・農
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項目抜粋
1

Dだが『蒲団』のモチーフは柳田のかんがえるほどつまらないものではない。そういうより柳田にはほとんど『蒲団』にまきちらされた俗情のつまらなさの重大な意味がわかってはいなかった。花袋の『蒲団』は、たしかに当時の世評を騒がせたほど、優れた作品とはいえないが、花袋の作品のなかでは上位にあった。それをしばらくおくとしても『蒲団』にある花袋の描写の〈眼〉は、俗情に屈託する平凡人の位置が頑強に守られている。この描写する〈眼〉の位置は、けっして作者花袋の〈眼〉と同一ではなく、いわば平凡人として意識的に設定され、意識的な方法として固執されたものだ。この〈眼〉を固守するかぎり、主人公時雄を理想化して、才子佳人の才子に仕立てることはけっしてできない。また逆に女弟子と若い男のあいだの恋情に嫉妬して、無意識のうちに二人の仲をさこうと振舞い、その間にじぶんの恋情をもぐり込ませようとする主人公の劣情を、誰もけっして侮蔑の眼差しでみることはできない。そんな確乎とした位置を獲得している。花袋の作品『蒲団』が柳田からみて、どんなに卑小な主人公の、卑小な感情の描写にみえようとも、ここにはどんな人間も、ある局面では平凡で卑小な存在だという不可欠の洞察がふまえられていた。平凡人にとっての平凡な真実の感情が描写されていることには間違いなかった。この花袋の描写の〈眼〉の位置は、俊敏な法制局の官吏という社会的な位置にある柳田の〈眼〉から切りとった、死に至る惨劇や悲劇の記述に、じゅうぶん拮抗できるといってよい。…・だがその描写の〈眼〉の位置は、どんな社会的な位置も背景もない一介の平凡人という水準線を確乎として固執するものだった。ここには、濃やかな鋭い感受性をもったエリート官吏の位置から俯瞰された「深刻」な社会苦と、そこからくる悲劇や惨劇にたいする同情と、とても悲劇や惨劇に耐えない平凡な日常感情をもった、だがどんな社会的な地位も背景もない平凡人の実生活にたいする眼差しとが、接近していわば双曲線のようにすれちがっていゆく必然があった。

 花袋は、柳田国男の農政学や民俗学の理念にとって動機の鏡だった。柳田の自然主義への批判の場所は、それはとりもなおさず柳田農政学や民俗学の場所だった。そしてその場所の微妙な光と影とは花袋によっていちばんよく写しだされたといってよい。      (P96-P97)


項目抜粋
2


備考




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20 動機の濃淡 どうきののうたん U 動機・法社会・農
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柳田の無意識の理念
項目抜粋
1

【2 動機の濃淡】

@死の四年前(昭和三十三年・一九五八年)に書かれた回想録『故郷七十年』は、柳田の生涯の動機をさぐろうとするものには、いわば動機の集積のような不思議な文章だ。むしろこれは逆さにいうべきかもしれない。柳田があまりにじぶんの生涯を、動機の集積のようにみなしているのを読んで、動機とはなにかかんがえさせられてしまう不思議な文章だというように。柳田の「法」解釈の根柢にあるのは、動機に自然権として必然といえる格率をもつ行為の連鎖は、それが殺人にいたるばあいも、自死にいたるばあいも、犯罪行為にいたるばあいも「法」を超越するか、または「法」制度の枠外に逸脱する自然の無意識が露出されたものだという観点だった。もしかするとこれは観点というものではなく、柳田の無意識の理念というべきかもしれなかった。      (P102)

A●『故郷七十年』のなかで、動機の濃度がひときわ濃くなっている個所は、ふたつ数えられる。ひとつは父母の急逝、抒情詩との別れ、農政学徒としての農商務省入り、柳田家への養子婿入りという鎖りが、折り重なってやってくる時期だ。もうひとつは官吏(貴族院書記官長)としての退陣と、民俗学への傾倒とが表裏となって噴出した時期だ。そしてこのふたつは、回想録の遠近法でいえば、ほとんどおなじにみられている。もうひとつ遠近法以外に、このおなじにみる見方に拍車をかけている要因が挙げられる。動機に内在的な動機と外在的な動機があるとすれば、柳田は、動機の自然法的な根拠をじぶんの無意識の資質においていた。柳田はじぶんが法制局の官吏として調べた犯罪者の予審記録のなかで、実定法的な拘束をこえた自然法的な格率が、犯行の不可避さになだれこんでゆく勢いに感銘したように、人間の動機が資質の無意識に根ざしているかぎり、すべておなじとみて、肯定さるべきだという理念をひそかに育てていた。あるいは無意識の理念といい直すべきかも知れない。柳田はじぶんが文学を断念して農政学徒として官吏になることも、おしもおされもしない法科の秀才として嘱望される身でありながら、わざわざ柳田家に養嗣子として入婿することも、官僚社会と確執して退陣し、在野の民俗学者に転身することも、そこなじぶんの資質の無意識が加担しているかぎり、実定的な規範をこえた、肯定すべき自己同一性とみなした。     (P103-P104)

●だが柳田のばあい、いつもどこかちがうところに動機の貯蔵場所があった気がする。   (P105)


項目抜粋
2
B動機は解釈可能性の束ではなくて、広さと幅をもった領域だ。そして積極的な動機と消極的な動機によって上限と下限を区切られている。これが柳田が生涯の終り近くまでもちこたえた洞察力の発明だったようにおもえる。      (P114)


備考




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21 動機の根拠 どうきのこんきょ U 動機・法社会・農
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項目抜粋
1

【3 動機の根拠】

@●動機が広さと幅をもった領域だったことは、それぞれの時期の柳田の法社会学的な振舞いの違い方をなくさせた。むしろ領域となった動機が、地下の貯水槽のように無意識の底辺にあって、そのうえにさまざまな時期の閲歴が、いわば考古学的につぎつぎ時代区別の層を積みかさねているさまがかんがえられる。こういう像のほうが柳田国男の生涯の実体をつくるのにふさわしいようにおもわれる。

 柳田国男の動機が広さや幅をもった領域なのは、かれがいつも消極的な動機と同時に、積極的な動機をあつめて、生涯の転機を意味づけたかったからだ。そしてこの動機の領域にふれると、生涯の時期は同一化されて、共時的な貯水池にとどいた気がする。そこでは生涯のどの時期もおなじ時間帯に還元される。また抒情詩人と、農政担当の官吏と、法務官僚と、民俗学者といった振舞いの違いも同一になる。かれが何であってもその都度、無意識の動機と深くつながっていることにかわりなかった。そうだとすればこの動機の領域は、いわゆる無意識の自然権と似てくるのではないか。そしてたしかにその通りになった。もちろんまったく逆だとみなしてもよい。柳田国男がじぶんの生涯を、じぶんの無意識の自然権によって、はじめに統括してみせたために、わたしたちがその跡をなぞっているのだというように。どちらでも結局はおなじことだ。     (P115-P116)

●柳田の資質の無意識はいつも、何を指したのだろうか。    (P116)

A柳田の感受性は、このたぐいの哀切な習俗、ルソーのいわゆる第四番目の法的な規範が、人間と人間とのあいだの実定的な関係をひき裂いてしまう事態に、かくべつ過敏だった。この例はさきにのべた山人たちが自然の風光のなかで演じた惨劇にたいして、柳田が執着したところと、その根っこはおなじだといえる。こういった事態は、柳田を無意識の底で無限に啼泣させた。その泣き声は音声にならなくても、柳田の無意識の深層が涙の貯水池にかわるほどだといってよかった。

 柳田はこのたぐいの事態の根っこに、生れ落ちてすぐのじぶんでは養いもならず、歩くことも、視ることもできぬ乳胎児のとき「母」に冷たくひき離されたものの悲哀をみていた。ではなぜ柳田はそんな悲哀に執着したのか。それは柳田自身がおなじような体験を「母」からうけとっていたからだとおもえる。   (P118)

…・たぶん柳田の母にたいする乳胎児期の関係は、意識的な渇望と無意識の裂け目をうつしていると推測してあやまらないはずだ。   (P119)


項目抜粋
2

Bこのたぐいの自然法的な裁定が、習俗によって黙々と行われるとき、この習俗とは何を意味するのか。また人間の心象と情念の影に、どこまで入りこむことができるものなのか。そして「愛」の自然な直接性である家族(親子・兄弟姉妹)の紐帯は、このたぐいの習俗の裁定にたいして、どこまで逆らえるものなのか。これらすべての疑問は、柳田民俗学へむかう気持の底に横たわっているにちがいなかった。

 柳田の動機がとび去ろうとする力を、繰返しひき戻し、ひき戻すことで広さと幅をもった領域にまで、動機の概念を高めたのは、幼く遠い乳胎児期にすでに形成された、かれの資質の無意識だったといってよい。        (P119-P120)


備考





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22 舞台の意味 ぶたいのいみ U 動機・法社会・農
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1

【4 舞台の意味】

@柳田国男が農政学者として登場してくる舞台は、もうドラマが第二幕目か第三幕目まですすんでいたかもしれぬが、まぎれもなく明治六年の地租改正からはじまった、農業における近代革命の劇だった。

 この近代革命は決定的で、アジアのふかい眠りのなかにあった農村に、一挙に西欧型の近代へむかう慣性力をあたえたにひとしかった。その結果は予測できないものだったが、明治維新の要をなしたのは確かだ。誰がどこから示唆されて、この政策をうち出したかよくわからない。西欧の先進的な諸国では、そうやっていたから、まるで当然のように実施された。     (P120)

A●地租改正の要点と、それが実施されたためにおこった農民層の変貌とを、当時の日本人にはとうてい及ばないほど高い水準で分析したのは、明治政府が招聘した外人たち、とくに『農業保険論』を書いたパウル・マイエットだったとおもえる。地租改正そのものも、それによっておこった事態についてもマイエットの見解をみるのが、いちばんふさわしいことになる。維新までのわが国の農業思想は、佐藤信淵や二宮尊徳などの農政思想の域をそれほどでていなかった。佐藤信淵の『経済要略』や二宮尊徳の『夜話』などにある農政思想が、マイエットなどが移植した近代西欧の農政思想といちばんちがっていたのはなんであろうか。第一は統治するものと統治される農とのあいだが、媒介なしに直通し、手工業(家産工業)と商業とが、農の傍流におかれたアジア型の図像が根柢にあった。    (P120-P121)

●マイエットらの農業分析は、いうまでもなく近代資本制社会のなかの農業生産と農産物市場の在り方が前提にされている。統治するものは国家であり、政策を担当するものは政府で、これにたいし農民が構成する社会は、統治を法として受けとめる存在であり、産業としての農業を推進し、拡大し、またどう興隆させるか、その工夫発明と相互救済は、農民自身の自主的な創意によるものだと信じられている。

 もっとべつの違いもあげられる。信淵や尊徳の農事思想には、横に領域をこえてひろがる生産と交換と消費の普遍性がまったくなく、統治者と被治者を直通する上下の交通しかなかった。それは藩の領土が半独立的な封鎖性をもったことと同時に、媒介となる市場が名目以上にはかんがえにくいためでもあった。マイエットの農業分析は、はじめから、自由な農産物市場が形成できることを前提としていた。  (P121-P122)


項目抜粋
2

●地租改正は信淵や尊徳などの農事思想のほうが切実にみえる半自然経済といっていい農業の構造を、一挙に西欧の近代農業経済が通用する水準まで吊りあげることを意味した。それは数千年来のアジア的な農村の眠りを、はげしくゆりおこすことになった。他方、たかが藩領ごとで区切られていた農産物の閉じた市場しかもたず、受け身の残余生活にきりつめられた農業を、一挙に世界市場にまでひろげ、流通させることを意味した。いわば大飛躍であった。    (P122)

B日本農業のアジア的な特徴といえば、小作人も、自作の小地主も、さしてかわりばえもせず、一様にせまい土地をじぶんで耕し、じぶんで収穫し、現物で納租にあてたあとは、いくらかの農作物が手元にのこるという境涯を、幾世代も積みかさねてきたことだ。停滞したちいさな規模の小作人と、小地主的な自作農とが、農民の大部分を占めて、農村共同体の底部に貧しく均等に沈殿している。ほとんど例外的にしか大地主はいない。しいて地主と小作人をわけてみても、あまり変わりばえのない小土地自作農と、借地自作農だった。それが農村の構造をほとんどすべてに決定している。こんな実像が日本農村にふさわしかった。それが上代ならば貴族の地方官に、中世ならば豪族の武者たちの村落支配に、近世ならば封建領主に、現物貢納で農産物を吸いあげられ、のこりで自活している農民の姿だった。   (P123)


備考






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23 舞台の意味 ぶたいのいみ U 動機・法社会・農
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項目抜粋
1

C地租改正は、税率を減らし、金納制にして全国的に均一化するとともに、大地主と小地主とで負担額に等級をつけるなど、古代から近世まで農村共同体の底に、泥のように停滞していた作用素を、劇的に刺激したことになる。…・        (P123-P124)

 じっさいには地租改正は、農民層の劇的な下向分解のひき金になった。  (P125)

Dたいせつなのは最高部にある近代化力と、最底部に千年もふかく横たわってうごかない農業共同体のアジア的な静止力のあいだにおこった内部のひずみが微細にどう分布していて、その結果どうなっているのかだった。明治近代化の型が歴史環境の必然だとすれば、この農業の近代化の型は必然の型だったはずだ。これが農民層の劇的な分解の起動力として働き、その結果すさまじい中農層以下の土地所有の喪失と貧窮化をもたらしたとすれば、その救治の処方箋もまた近代化力の最高部の頂点からだされるほかなかった。底辺の静止力が暴動によって消散していったあとに、どんな救治策が可能なのか。この問いに応えようとしたのは、マイエットやフェスカをはじめとする少数の招聘された外国人の明治最初期の農政策の専門家たちだった。
    (P127-P128)

Eマイエットが、農業事情の調査や政策の研究を委嘱されて、農商務省に入ったのは明治二十三年であり、柳田国男が大学で農政学を専攻して、農商務省に入ったのは明治三十三年である。すでにマイエットは明治二十六年には帰国しているから、この二人はすれちがっただけだった。だが地租改正にともなう農民層の分解とその救治策について、比類ない分析をやってのけたマイエットの『農業保険論』を、柳田が胸におさめてないはずがなかったとおもえる。柳田国男がやった当時比肩するもののない農民層の分析と、その救治策『最新産業組合通解』は、マイエットの『農業保険論』や『日本農民の疲弊及其救治策』を踏まえ、それを意識して書かれたとおもえる。柳田国男はたぶん最初に日本の農民層がすさまじい勢いで窮乏にむかう分解過程を分析し、それを救治する処方箋を、お雇い外人の優れた比類ない見識から、自国人の見識にすえなおした最初の世代の、もっとも優れた農政学徒だった。        (P128)


項目抜粋
2
備考





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24 のう U 動機・法社会・農
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起源の概念
項目抜粋
1

【5 農 】【@農と国家】

@農とはなにか。農はどうあれば理想的なのか。こういう問題を経済の学の形成に組みいれるかたちで、近代資本制国家の創成期に、原理的にかんがえてみせたのは、スミスやリカァドォやマルクスなどの古典学派の経済学者たちだった。それとおなじように、近代的な政治体や、社会体や、国家のあるべき役割や形態を、原理的に思索してみせたのは英国のホッブスやロックや、大陸のルソーなどだった。かれらが古典学派的とよばれる根拠を勝手に描いてみれば、かれらの国家や社会体や政治体や経済体についての考察には、共通に〈起源〉の概念が述語の論理に含まれていることだ。      (P131)

A国家や社会体や政治体にたいするホッブスやロックやルソーの考察もまったくおなじだった。かれらの考察がどんなに単純で原則だけにみえても、人間が社会のなかで振舞う仕方の〈起源〉が、いつも手離されずに保たれていた。人間は自然状態のままに無制約な振舞いが許されたら、自在に採取し、捕獲して食糧にしながら、誰からも統治されず、誰をも統治せずに、平等に自由に生活するだろう。だが自然状態の人間が、ひとつの社会体の形成を余儀なくされれば、かならず個人どうしの自在な振舞いは、接触し、衝突し、戦争状態になって殺戮や強奪をふくむ不安にさらされて生活することになる。

 そこで人間はじぶんにも他者にもかかわりのない、だがじぶんからも他者からも平等で全面的な権限を委任された第三者的な権力を設定して、それにたいしては被統治者になることを承認するようになる。国家や政治体と呼ばれているものの〈起源〉は、こうしてじぶんと他者である諸個人が相互に契約することで生みだされた第三者の権力を意味している。ホッブスやロックやルソーのかんがえは、立入ればそれぞれちがっているが、人間の振舞い方の〈起源〉の概念を含んでいることは共通だった。そしてこの共通の〈起源〉が、近代の曙光期にふさわしい自由や、平等や、自然権から説きだされたところが重要だった。  (P132-P133)


項目抜粋
2

B●この西欧近代の曙の時期に「農」はどうなれば、理想とみなされたのだろうか。これにはマルクスの忠実な(忠実すぎる)同僚だったエンゲルスが、率直に、簡明に披瀝している見解をみるのが便利である。

 エンゲルスによれば、現在(資本主義興隆期)のままに近代化がすすんでゆけば、小土地所有者やそこに依存する農夫たちは、かならず大土地所有者がおおきな規模で、農業機械を使って耕作した安価な農産物から圧倒されて、市場を駆逐されてしまう。そして小農民や小土地所有者が没落してゆく勢いをとめることはできない。

 これをふせぐには、共同体所有の新しいかたちとして、土地を協同組合的な所有にかえ、共同体経営にして、大規模な耕作をやるほかにかんがえられない。…・(エンゲルス「アメリカの食糧と土地問題」)      (P132-P133)

●エンゲルスの考えはどこが楽天的かといえば、農民にとって耕作する土地は、ただの地面ではなく、人間化された土地だということを勘定にいれないことだ。大小にかかわらずそれを私有する意味は、生ま身の神体をひろげるのとおなじだ。

●もうひとつのエンゲルスの弱点をいえば、土地の国家所有や国家管理は、それ自体が官僚階級による集団収奪の別名にしかなりえないことが、意図的に無視されたことであった。このばあい国家官僚にだけ超人的な倫理の実行を期待するのは馬鹿気た話だ。     (P134)


備考





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25 のう U 動機・法社会・農
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項目抜粋
1

Cようするに柳田の国家観には明治開化期の匂いといっしょに、ホッブスやロックやルソーが、西欧の古典近代の曙の時期にかんがえた単純な、だが根源的な形の契約国家の概念が祖述された。だが何かに衝き動かされるような不協和音として伝統的な共同体国家への本音が、ときとして姿をあらわした。それは柳田自身の思いの深さから発した響きのようにみえる。各個人や諸階級の権利の調和をとりしきるため、第三者的な主権を譲渡された国家が必要だという西欧的な国家観は、柳田の描く法社会の背景にいつも敷石みたいにおかれていた。だが同時に自然権のままに各個人や階級の自由な権利をうたうのが有効な時期は、もう過ぎたという認識は、はやくもあらわれた。柳田の不協和音は、ホッブスやロックやミルや、ほとんど一緒に移植された初期社会主義者の理念を、すべて同時にうけとり、地租改正以後の社会の実状に対面したところから、発せられた。明治はやっと近代の自由な競争のために、各個人や階級が所有の権利を拡張しようとスタートラインに並ぶかならばないうちに、すでに中農層以下の急な分解と窮乏化がはじまり、都市にでてきた労働者もまた、ロンドンの街区のような貧窮に対面していた。柳田のおもいえがいた国家は、はやばやとこの貧窮化した農民や労働者から、自由放任の保護ではなく、干渉による法的な救済策を要請されて、理念のおもてに顔をだす破目になっていた。    (P137)

 【柳田国男『農政学』の引用】

D●法社会学者である柳田がみた国家は、国家「間」の国家(ナショナリズム)よりも、とくに農事社会からみられた産業国家のイメージがつよいことがよくわかる。そしてその面から国家は、各階級や各産業分野の対立や矛盾を、調和させ、困窮した階層には救治の策をもたなくてはならないとされた。     (P139)

●柳田の法社会学的な視線は、ある意味で経済体としての国家を重くみることになった。馴染みにくい考え方だが、柳田は生産という概念を、富の増加を直接な自己目的にする行為に限定すべきだとしている。そして生産を担当し、これに従事するのは国家の目的だとみなしている。柳田によれば、個人の経済活動は、ほんとは生産が直接の目的ではなく、生活を維持し改良するのが目的で、それがたまたま生産に合致しているために、生産という結果が生ずるにすぎないと述べている。この考え方は新渡戸稲造の『農業本論』から影響されたともいえよう。       (P139-P140)


項目抜粋
2
●柳田は社会契約としての国家からはじまって、生産をめぐる干渉と管理に対して、自在な権限を与えられた独特の産業国家というところに達した。もうそのあとは、国民の一部または一階級が困窮の極に達したときには、その一部あるいは一階級の意志をもって一般意志とするように、国家を改変する権利があるという考えしかのこされていない。柳田の国家観は過剰な、肥大した国家の像をあたえるが、それとともに一方では困窮する国民の部分があるかぎり、国家は自体の繁栄や進歩を犠牲にしても、それを救済すべきものだとする管理機能をもつ国家の像をも提出している。     (P141-P142)


備考





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26 のう U 動機・法社会・農
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項目抜粋
1

【5 農 】【A 救治(T)】

@マイエットの農民救治策は、農業保険を設立することだった。柳田が救治策として提出し、啓蒙にあたったものは、産業組合の設立論であった。あたかも産業組合法がはじめて公布された(明治三十三年)すぐあとにあたっていた。柳田によれば産業組合というのは「多数の人が申合せて、各自の生活状態を改良発達せしめんが為に、 一金銭の預入及び貸付、 二生産物の売却、 三物品の買入並に 四器具機械の使用を目的として、設立したる社団法人をいふ。」(柳田国男『最新産業組合通解』)と定義される。    (P142)

A柳田国男が在野の農政学者だったら、いまの社会状態は破滅的に改造されなければならぬという主張になったかもしれない。ここにあるかんがえは、花袋の眼に蒼白い顔をして上司につっかかって、その旧弊さに絶望的になっているとうつった、若い日の柳田の姿と照応している。柳田をそこへ理念的には走らせなかったものは、たぶん過大で独特な「国家」と「家」の像【ルビ イメージ】だったとおもえる。さらにいえば経済体としての国家という像が、政治体としての国家という像【ルビ イメージ】よりも、はるかに柳田にとっては重要だった。そのために国家による法的な直接統制の発想は、柳田にはやってこなかったとおもえる。   (P144-P145)

Bわたしは柳田の農業問題についての方策が、温和で、社会政策的で、エンゲルスの農業問題への見解は政治革命的でラジカルだ、というふうにはかんがえない。資質の不可避さと、時代的な差異をのぞいたら、ほとんどちがいはないとみなしている。わたしたちがここで当面している本質的な問題は、「農」のあるべき不可避の方向性について、普遍的にも特殊時代的あるいは地域制度的にも、ほとんどなにも正当な論議をもっていないことだ。あるのは祖述にしかすぎないのに、わかったような顔をした論議だけなのだ。 (P146)

Cたとえばホッブスやロックやルソーならば、はじめに自然状態では、万人は平等で自由に振舞うことができたが、万人が平等で自由な社会体では、どうしても衝突や矛盾の場面をきたすために、契約によって主権を平等に第三者にあずけて国家をつくったと主張しただろう。またマルクスなら、はじめに征服や強奪があったので、個々人の勤勉や怠惰や運賦があったのではないと言っただろう。すくなくとも運不運や心掛けの問題に帰することはありえない。柳田には尊徳の『夜話』にのぞかれるような思想の伝統がのぞいていた。またそこが興味ぶかいところでもあった。     (P146-P147)


項目抜粋
2

D中世以来日本の農村は、ただ収穫物の生産を多くすることをかんがえればよく、農作物を販売して利益をうけることなどかんがえる余地はなかった。近世の末期まで農民の大多数は、じぶんで土地を耕し、じぶんで衣類を織って身につけ、じぶんたちの生産物以外にはあまり眼をむけないで、用を足した。地租や地代は物納制であったから、いわば自然経済をそれほど脱することはなかった。そしてその理由のいちばん大きいのは、農業がせまい小区画の土地しか所有しない小規模経営だったことである。そのつぎにあげられる理由は、地租の大部分(田はほとんど全部、畑は一部分)が物納制だったことである。もうひとつあげるとすれば、小農は貧困で年貢を納めたあとは残る現物も少なく、他の日常品や用具を買うにも余裕がなかった。そのうえ各藩は国境いを封鎖していて、藩外のものとの交易もままならないことが、この停滞を助長したとみなされる。 (柳田国男『農政学』)  【註 この部分は、柳田の著作の要約?】     (P149)

E農とはなにかについて柳田は、人間の力でする天然物の増殖であるとかんがえる。天然の法則にしたがって発育させるもので、原動力はあくまで天然の法則そのものにあり、これを導きだし、生育させてじぶんの用途につかおうとするモチーフで人間の意思がくわえられれば「農」というべきだとみなしている。

 ところで柳田によれば「農」の行為にたずさわり、利潤をあげ、危険な義務を負荷するものに、二種の人民を包含している。そのひとつは地主で、農地をもっていて他人にそれを貸して地代をとる。もうひとつは農業労働者で、他人の農場で働いて賃金を得て生活している。せまい意味の農民にも自作農と借地農(小作人)を分けることができ、農業労働者も農僕(婢)と日雇いとに区別することができる。…・日本の農業では、小土地所有者の数がおおく、しかもその大部分はじぶんが「農」を営み、また耕作の労働もまたじぶんでしているのが普通だ。英国のように、はっきりした地主、はっきりした労役者は、ほとんど無いといっていいのが、特徴とされる。    (P150)


備考





項目ID 項目 よみがな 論名
27 のう U 動機・法社会・農
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項目抜粋
1

【5 農 】【B 救治(U)】

@●柳田の追及はさらに微細な地点へ分けていった。

 柳田によれば、明治三十年代の現状からみて、日本には賃労働者よりももっと貧窮した独特な労働者がいる。それが日本の小作農および一部の小自作農だった。      (P152)

●この農業の現状にたいして、柳田の救治法はつぎのようにあらわれる。かりに国家が、抜本的な政策をふるって、大農の土地を分割し、無くしてしまい、全国のすべてを中小農業者に均等化したとしても、人間の自然の本性として、じぶんの土地を拡大したいという欲求をもち、そう努めることで競争状態をまねき、ふたたび格差を生じてしまうことは避けられない。

 これに比べれば、自作農として存立できる最小限度の所有地はどのくらいかを見つけ出し、それ以下の所有耕作地で、とうてい自力で維持し発展させる余地のないものには、国家が援助して改善の機会を与えるか、できなければ比較的よい職業に転換させるという方策を採用する方がずっと事態に適合した処置だというべきである。  (柳田国男『農政学』)

 この柳田の農業策は、過激で空想的にみえても、わが国の耕作地のせまさや、地勢条件をふまえれば本質論にかなっている。ここにはエンゲルスのいう土地の共同体所有によって農業を大規模化して大地主農業に対抗するというかんがえもなければ、農業の耕作地を国有化し、大地主の土地は没収するというかんがえも披瀝されていない。その意味ではいわば上限策について言及も着想もない。だが逆にエンゲルスには下限策がないので、もしエンゲルスの思い通りの事態が実現し、国家権力を掌握したとしても、国家管理だけで私的自在感や私的所有の本源を欠いた、強制収容所管理国家ができあがり、官僚層による農民の収奪が実現してしまうだろう。柳田がここで披瀝しているのは、いわば下限策だが、しかし人間の本来的な耕作地所有の欲求にふかく根ざしている。そのうえ丘陵地や、山並みや、海によって小区域に分断された日本では、農業の大規模化や耕作機械化がそれほど進展するはずもないし、またそれが農業の近代化に重要な意味をもつかどうか、疑わしい。この意味でも柳田の農業策のヴィジョンは理路に叶っていた。   (P153-P154)


項目抜粋
2
A近世における各藩の領主たちは、じぶんが直接に大土地を耕して、農業を直営することはしなかった。もちろん古代以前からそんなことはなかったのである。領主たちは、閉じられたそれ自体が自立した農村の共同体のうえに、領地の封主としてただ乗っかって、貢納米を運上させて、自家を経営しただけだった。だから領主の発案によって農業が根本的に改良されるということは、特別な領主をのぞいてはほとんどなく、ただ農民の生活を安堵させるような方策を、凶年にさいして配慮することが、明君たる所以であった。近世の農学者たちの「農」のすすめが、ほとんど領主にに向かって産業の振興策を説くことを主眼としたのもそれによっている。また生産の技術を改善したり、他の職業にかわろうとしたりするときびしい禁止をうけた。いいかえればアジア的な郷村支配の方法が、各藩の領土ごとに分断されて伝承され、郷村の共同体の内部にまで立入って農業生産を改善したり、技術を改良したり、ということは稀にしかありえなかった。また支配領主層と農民との知力や学力の相違はきわめて甚だしいものであった。耕作の旧習を守っているかぎり安堵してもらえたが、それはべつの意味では農業のアジア的な停滞の姿をいつまでも保存したのである。  (P154)


備考





項目ID 項目 よみがな 論名
28 のう U 動機・法社会・農
検索キー2 検索キー3 検索キー4
項目抜粋
1

Bマイエットが、地租改正で急速に展開しはじめた農業近代化のはげしい影響を解剖したように、柳田国男もまた、たぶんマイエットの見解の影響下に、地租改正でもたらされた資本制的な階級分化が、農業に及ぼした影響と、それによって中農層以下の農民が、極度に窮乏化してゆく現状に、救治策を思いめぐらした。

 地租改正が農業を近代化するための画期的な改革だった所以は、すでにマイエットが指摘したとおなじように柳田によっても指摘された。柳田の指摘はやや微細にわたっている。第一に、土地の権利の売買を自由にしたことであり、第二に地租を金納制にして、農産物の制限をとき、一挙に農産物の内外市場をひらいたことであった。具体的にいえば、お茶や生糸は輸出市場を得て、生産がきわめて増大し、その他の農産物も格段に増産されることになった。これが地租改正のもたらした革命的な意味である。ところでこの維新の革命を象徴する地租改正は、同時に不可避的に、いままで知られなかった農民層の分解をもたらした。これについてはすでにマイエットはその分析をすすめていた。   (P154-P155)

C●柳田の農業論のうち、とくに保存しておくべき特異性は、ちょっとみるとかれの弱点がいちばんあらわな、アジア的な特質の強調であった。かれは農政や農業経済の課題にたいして、とても特異な形で「家」の問題を導入している。これが柳田国男の農政論の資質的な謎で、もしかすると民俗学へ駆り立てたおおきな潜在的な要因かもしれなかった。柳田の過激といってよい農業政策論の調子を、まるで逆な方向から引きもどそうとする力だといってもよい。

 柳田の「家」への関心は、はじめはかれの「農」をみる眼が、法社会学的なところからきているようにみえる。わが農村のように共同体意識の強いところでは「家」とその周辺の土地だけが、私有の砦みたいなものであり、また農村の共同体は「家」の存続を重視することで、永続の基盤を成り立たせてきた。そのために共同体にとって「家」は下位概念の単位共同体であるとともに、それ以上は解体できないつよい基石でもあった。この村落共同体と「家」共同体との相互の契機は、そのいずれも他の一方の存立にとって不可欠であった。習俗や不文の格率のようなものが村落共同体をつないで、ある地域ごとに成立し、それが習慣となって流布され存続されるためには、共同体と不可分の関係にある「家」の存在が必須の条件でとなる。家父長が体現してゆくのは共同体の掟て(格率)と「家」の対幻想との調和と二重性であり、この体現者によって習俗法ははじめて規定され、維持されるものだった。この意味で、もし柳田に「農」の村落における「家」の在り方にたいする独特の思い入れがなかったら、ルソーのいわゆる第四番目の「法」である習俗への深い思い入れも、民俗の学への展開もありえなかったかもしれない。    (P156-P157)


項目抜粋
2

●柳田は村落共同体の習俗法のつよい維持者あるいは支柱である「家」に特異な意味を与えた。また「家」存続にたいして、生命の権利の存否とおなじような、重要で特異な法社会学的な眼差しをむけている。     (P157)

【柳田国男『時代ト農政』田舎対都会の問題の引用】

Dここには超保守主義者にみえるかとおもうと、貧農や小作人や非農的な民衆のラジカルな救治者ともみられる柳田の両義性がよくあらわれている。だがほんとは法社会学者としての柳田が、その視点をどこにおくかで、展望が違ってくるだけかもしれなかった。視線を「農」において理想の法社会を想定すれば、ディスポットを頂点として、平等と自由を実現した農村共同体の段階的な秩序が想定され、逆に明治近代化を、資本制的な産業構造へむかう必然の過程とみなせば、農村の理想像は、小土地所有者の自作農が、平等に自立してならび立つ図面を想定せざるをえない。柳田が指しているのはそこだった。    (P160)


備考

註1.「柳田が指しているのはそこだった。」の「そこ」とは?




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