Part 4
柳田国男論集成

  JICC出版局 1990/11/01 発行 



項目ID 項目 論名
29 旅人 V 旅人・巡回・遊行
30 旅人 V 旅人・巡回・遊行
31 旅人 V 旅人・巡回・遊行
32 旅人 V 旅人・巡回・遊行
33 旅人 V 旅人・巡回・遊行
34 旅人 V 旅人・巡回・遊行
35 旅人 V 旅人・巡回・遊行
36 旅人 V 旅人・巡回・遊行














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29 旅人 たびびと V 旅人・巡回・遊行
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土俗を通過する外部の眼 景観をひらく眼
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1

【1 旅人とはなにか (1)】

@…・「旅行家」という花袋の命名は、この官用の任務のゆるやかさと、柳田の内部にあった通り過ぎてゆくものの外部からの観察の眼を、よく象徴していた。そしてこのときの旅行(四ヶ月)は、柳田の地方の山河と習俗にたいする眼のあり方を決定したといっていい。費用について苦慮することのない旅行家、いいかえれば遊行する先で、芸や技能を売って旅の費用にあてるとか、私費を蓄積して旅費とすることで成り立つ旅ではなくて、その意味では土俗を通過する外部の眼という性格も、このときに決定されたといっていい。

 …・【註 「旅行家」としての柳田が、この九州旅行で椎葉の山村までゆき、その見聞を『後狩詞記』にまとめあげた、に触れて】だが旅行は紀行であり、景観を名勝と平凡な風景とに区分するような時代風潮のなかで、生活史として景観をみる柳田の見方は、とても特異なものだったともいえよう。    (P163-P165)

 【高浜虚子「斑鳩物語」と柳田国男「豆の葉と太陽」の描写にみられる「景観をみる眼の流れと変化」について P165-P169、景観をひらく眼について P169 、「民俗探究の旅人菅江真澄」について P170 】

A初期柳田は花袋とおなじように、西行や芭蕉ではなく、菅江によく似ていたというべきだった。文学に訣別し、臨床農政学徒として農商務省にはいった柳田は、農村の調査と啓蒙に名をかりて、長旅をした。そこでは制度の眼が景観に効力をみつけ、背後に生活史の眼をひそめた。開化の孤独はもう奥に秘されていった。後に官途を離れ民俗研究を志して、計画的に島と陸地と海岸線と山とをすべて踏み歩こうとした旅行の構想のなかで、内的な動機は隠されたが、見聞と地誌と生活史の細部は記述された。そしておぼろ気にわが民俗の骨格と、その連結や切断の構造を透視できるところまで到達した。柳田の民俗学的な累積は、菅江とおなじように平常民の生活史の細部に、透視の光線をあてつづけて獲得された。その持続が無意識のうちにつもり積もって厚い層をつくり、初期の花袋にさそわれて、無償の旅にでたときの情念は文体として滲みついていった。それははじめての西欧的な産業と都市化の波をかぶった学芸の徒が感じた開化の逼迫感を、両肩に背負うものの旅情だったといえなくはなかった。    (P173-P174)

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2
備考





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30 旅人 たびびと V 旅人・巡回・遊行
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1

【2 旅人とはなにか (2)】

@●柳田にとって景観のあいだに停泊し、また思い立って通過するときの「旅人」の眼は何だったか。少しくわしく立ち入ってみなくてはならない。…・柳田がひそかに描いた「旅人」の眼の条件は、いくつか数えられる。

 (1)いつも外部から通り過ぎるもの、いいかえれば外側にあって絶えず流動しているものの「眼」で、景観(とそのなかの人)を見ているものだった。

 (2)山人(狩猟・木樵)でもなく平地人(農耕人)でもなく、むしろそのいずれかであることで固定してしまうことを拒んでいる「眼」だった。

 (3)それでいて架空、抽象的であることをできるだけ避けて、生活史としての景観をみた。景観と(そのなかの人々の生活)は撫でられたり、味覚されたり、ときに切開されたりしている。

 こういう条件をみんなみたすには、ただ通り過ぎる「旅人」であり、しかも心に叶う景物や人事や習俗に出あったときは、村里の人の家に宿を乞うて、数日でも数週間でも滞在して、またきっとそこから出かけてしまう者でなくてはならない。      (P174-P175)

●柳田は菅江の生涯をじぶんになぞらえる願望を、ひそかにもったかもしれないが、農政官吏としての柳田にははじめから不可能だった。後に官途を退いていくらか菅江の旅に近づいたかもしれないが、それはたいして意味があるとはおもえない。意味があったのは菅江を「旅人」だとすれば、柳田はどうしても「旅人という文体」であり、菅江の「旅行」が「芸術」だとすれば、柳田の「旅行」は「芸術の文体」だということだったにちがいない。     (P176)


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2

●柳田が、菅江のような、山河を生活史として見ながらたびに生涯をおえた「旅人」にたいして、「旅人という文体」を深め、菅江のもっていない特徴を発揮したとすれば、何だったのか。時代は景観の変貌を加速してゆく。新しい時代というのは加速されて変貌する景観のことだといえる。菅江がもたないが、柳田がもったものはこの加速だった。「旅人という文体」とは、この加速の変貌に対応して獲得した「眼」の技術であった。

 (4)それは風景(とそのなかの人の生活)を対象にして認識を深めてゆく技術をもった認識者のことである。村里の人間関係をよく洞察し、認識し、村人に指針を与えられるものは、里長になったり、僧侶になったりして、村里にとどまり、村里を納めてゆくかもしれない。だが風景の変化にたいし、風景と風景の比較にたいして認識を深め、洞察をもつものは、「旅人」であるよりほかない。これが柳田の「旅人」の意味である。

 (5)「旅人」は村里の風景の変貌、村人が働きかけることで風景が変貌してゆくことを知っているものだ。し    かも村里の内部に定住して、風景の変貌のひと齣ひと齣に手を借すものではなくて、村里の風景の変    貌を鳥瞰したり、俯瞰したりできるものが「旅人」である。     (P179)

●柳田の景観のなかに、いつ俯瞰や鳥瞰の視線があらわれたのか、その時期ははっきりということはできない。     (P180)


備考






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1

Aここで柳田の「旅人」の条件をもうひとつ加えることができる。

  (6)旅人は自然を耕やす「眼」をもつものである。自然を耕やすものの起源は、農耕する人々であった。農耕者が食べられたり、見られたりする植物の種子を植え、育て、平地に区画をつくったとき、むせかえるような緑一色の風景が、色彩と区画模様の変化をもつようになった。また聞き伝えて美しい植物、食べてうまい植物は、遠くから求めてきて栽培するようになって、ますます風景は多彩になった。すくなくとも最初の農耕文明は風景の豊饒化であって、自然の破壊と呼ぶものなど、だれもいなかった。また自然の拡張であって、自然の貧困化ではなかった。      (P182)

B自然はどこからきたのか。自然のつきない源泉はどこにあるのか。柳田の認識によればそれは「山」であり、平地が変貌してゆくたびに、また新たに自然を供給するものだった。「旅人」は「山」を見つづけているものでなくてはならない。柳田の「旅人」は平地や海岸を歩いているときでも、同時に「山」から俯瞰する視線を行使するものだった。平地の村里を通過してゆく「旅人」にとっては、この「山」から俯瞰する視線は、その視線のなかに通過しつつあるじぶんの姿をも包括するものとなる。それはまた柳田のいう「旅人」の条件に繰りこまれる。

  (7)「旅人」は村里を通過するじぶんの姿を、じぶんの視線のなかに包含していなくてはならない。

 なぜ「山」は尽きない自然の源泉でありうるのか。柳田のいう「旅人」にとっては、これは最終の問いに似ていた。アジア的な郷村の共同体意識が、世代を超えて停滞し、世代を超えて平穏であることを、逆に叡智として生かしえたものを、柳田はそこに見ようとした。      (P184-P185)

C…・アジア的という概念は、広漠とした平地や湿地に孤立した農耕の村落を組み立てることからできている。だが柳田の旅人はこの大陸的な認識を修正した。平野の農耕とそれにからみ合っている「山」里の狩猟と木樵とが、不可視の複合をとげたものが、柳田の最終のアジア的ということの認識だった。  (P186)


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2
備考






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山の負荷
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1

【3 巡回と遊行 (1)】

@柳田が景観を枯れさせない源泉としてかんじたものには「山」の負荷とでもいうべきものがあった。山人の負荷といってもいいし、山神の負荷といってもおなじだ。べつのいい方をすれば、鳥瞰または俯瞰する視線の負荷というべきものだった。平地の視線からすれば仰角として視るべき景観を、俯角として視ようとする柳田の思いがけない視線は、どうもこの負荷に由来しているとおもえる。

 この負荷は山人漂泊者の末裔だという柳田のひそかな自恃が、心理的に内在させたものに相違ない。これはヤポネシアの列島の自然史にもまた内在していた。せまいこの列島の山稜、丘陵、台地は、ほんらいは広漠とした平野や湿地帯の外輪に、涯しなく重畳して山岳地帯をつくっているべきものだ。また背後を丘陵に迫られて、わずかに海辺のせまいひだにおしつめられた平野や、海や湖が干上がってできたせまい盆地は、本来は涯もなくひろがる平原や湿地帯であるべきものだった。これがアジア的な地勢が意味しているものだ。ところでわがヤポネシアの列島では、この本来的な山岳地帯と本来的な平原とが折り重なって縮刷された。地誌からくる習俗は山岳―平野的ともいうべき重層性のうえに、このふたつの要素の融合として形成されたものだ。…・だが習俗としての地勢は、山岳と平野とが折り重なり、山岳は平野に覆いかぶさろうとし、平野はその覆いかぶさりを、最小にとどめようとして抗って、均衡をつくっている。    (P186-P187)

Aこのばあい平野の抗う力の源泉は、平らに移動し、分布し易いのに、ちょうど水の流れみたいに、斜面を遡行して登ってゆけない力である。これにたいして山岳の力の源泉は、広く平面的に分布する力能をもたないが、水の流れのように、斜面を降りてゆくことができる力である。またこの山岳と平野の地勢が均衡する力を習俗としてみれば、停滞しながらも分布をひろげようとする平野の習俗と、水の流れのようにせまいが、斜面を流下しようとする習俗との、混合と連結と対立を意味した。そして山岳と平野の境界は、このふたつの要素が重なり溶けあった帯域だった。これがいわば柳田の感じた「山」の負荷ともいうべきものの本体だった。          (P187-P188)


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2

B柳田は平地の農耕の村里と、山の斜面や頂きや台地のあいだに、沈黙の交易だけではなく、信仰の交通があるという考えを導きだした。平地に住む農耕人が、ときとして山の奥に出かけて異形の山人に出遭うという伝承を『遠野物語』でたくさん知ることができる。また農耕人の信仰が、村里の外れの秀麗な山の頂上に、巨石や樹木を祀ったあとを、いたるところでたどることができる。

 だが柳田がいうように山の神が、村里に降りてきて平地の田の神になり、そこで春から秋へと季節をめぐり、季節が過ぎるとまた山に帰るという巡回神の信仰が成立するためには、鳥瞰または俯瞰の視線が必要だった。いいかえれば山神の負荷がどこかに作用しなければならなかったはずだ。   (P188)


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柳田の文体
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1

【『記』歌謡41、『記』歌謡53、『万葉集』巻第一 2の国見歌の引用】

C…・よくかんがえてみれば、これらの歌謡は、どれひとつとっても、天皇の詠んだ歌である必然はない。誰でもが詠める村落の伝承の歌謡であってさしつかえない。人々は村落の外れの山に、山神を詣でに登り、習俗の礼拝をやり、あるいは人形にじぶんの村里の景観を眺めさせ、山神のゆるしを得る行事だという柳田の理解にしたがえば、国見の行為は、山人の村落と平地の農耕人の村落とを横断し、年ごとに循環する行為だということになる。このとき山人の村落と平地の農耕人の村落とは、両者を連結する信仰によって、農耕の村落の連合体を支配している天皇の版図の外部に出ることを意味している。縄文と弥生を連結する神が循環する閉空間は、平地の農耕村落の連合体の版図を、位相的に超えることだからだ。

 ひとによっては柳田は、山人への認識と山人への探求を、生涯かけて静かに曲げていったという見解をいだいている。だがわたしにはそうおもえない。山人と山の神の負荷が、柳田を終生かり立てていて、山の斜面や台地や、山に囲まれた高い盆地に住む人々と、平地の湿地帯に稲作農耕を拡げていった人々を連結する環状の経路を構想させた。この衝迫は柳田のなかで、たとえば神に憑かれた女性の画像に転嫁されて、いくつもの形で追求されたのである。わが列島の北端のオシラ神を守護するイタコと、南端のオナリ神を守護するオナリとは、どこか旅の途次で連結されるはずだった。その推進力は山の神の負荷からうながされた衝迫だった。      (P190-P192)

 【『木綿以前の事』「遊行女婦のこと」から引用】

D柳田がここで「遊行」という言葉で説いている、オシラ神にうながされた東北辺の女婦たちの出奔と、流浪の神事と、芸事と(あるばあいには娼婦的な役割と)、の運搬は、山人の村落と農耕人の村落のあいだ、山の神と田の神のあいだ、山人と農耕人のあいだを横断する巡回や循環と、位相的に同型だった。巡回と循環は、山と平地のあいだの俯瞰と仰高の軸をもとに、遊行は南北に延びた列島の軸をもとに転換される。また西南の辺境に、純粋に伝えられてきたオナリ神に憑かれた婦女たちの神事や、芸事(あるばあいには娼婦的な役割)と、まったくおなじものだった。御嶽の森の樹木や、岩山の石や洞穴に、ま上から降りてくる太陽(光)の神という西南端の神体と、オシラ神の桑の木のような棒状物や、杓子の神体とは、同型で等価だった。そこには地誌と景観と生活風土の差異がこしらえた相違があるだけだった。山神の負荷は、西南端のさまざまな島嶼では、海神(ニライ神)の負荷に転化され、山神と平地神とは未分化なまま融和していた。西南端のオナリ神が、家神(兄弟姉妹神)としての性格をたもちながら、なお制度としての神であり得たのは、そのためだったといってよい。

 巡回と遊行と。これは憑かれた女婦に背負われて神が移動するふたつの方向と型を意味した。これをつきとめたと感じたとき、柳田の文体の方向と型もまた決定された。          (P193-P194)


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2
E柳田国男の文体は、いわば〈流れる〉文体である。ふつうの意味でいえば、任意の場所から、いつでも思い立ったときにとびだして、触れるべき事柄にはかならずふれながら、停滞することなく〈流れ〉さるための文体だといってよい。もうすこし、その事柄についてじっくりと説いてもらいたいとおもっても叶わない。また逆にさり気なく〈流され〉た一行に、膨大な資料とその考察の蓄積が匿されていて、ひとつの書物が成立しそうなことが、その一行に濃縮されているばあいもある。ひとつの言説に起点があり、承ける場面があり、転換の変容があり、結末があって構成されるとすれば、柳田の文体ははじめからこんな意味の構成を拒んでいる。いってみれば中間が連続するというわが習俗の原理を記述するのに、じぶんの文体そのものをその原理と化している。なだらかな形のよい山の稜線に沿って昇ってゆき、頂まで昇りつめると、ひとりでにまたなだらかな稜線を降りてゆきて、麓のところで平地に接続される。たしかに起点があったし、頂もあったはずなのに、なだらかな曲線をたどっているだけで、どこにも渋滞も結節もない。      (P194)


備考


註1.「閉空間」「位相的に超える」「位相的に同型」…などの数学的概念。トポロジー。




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F●この(1)から(8)までのうち、東北端と南西端の差異は(1)〜(3)と(4)〜(8)のあいだに屈折をひとつかんがえればよいことになる。この屈折点を通って連続する曲線を引くというモチーフが、柳田国男の文体を決定するものだった。

●柳田は、家神オシラ神を背負った婦女たちの遊行や家居と、姉妹神オナリ神を背負った婦女たちの遊行や家居を、ぴったりと鏡に合わせたかったかもしれない。だがなかなかうまくいかなかった。その理由は、いくつかあげられる。      (P196)


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2
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斜めにはしる「時間」という柳田の概念
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【4 巡回と遊行 (2)】

@「焼畑」農耕の技術は、平地の耕作法とのちがいによって、その生産物は米作物など平地農耕の生産物との交換を介してむすびついた。山人たちが狩猟の獲物だけを喰べて生活し、平地の村里の農耕民が農の産物だけを喰べて生活していたら、たとえ交通や交易があっても、神事や祭祀の交換はありえないだろう。農耕民と漁民のあいだもおなじで、汐で塩田をつくり、海草を刈って肥料に供し、砂地に畑物をつくることがなかったら、船霊と穀霊との交換はありえないはずだ。    (P201-P202)

 【柳田国男『後狩詞記』の引用】

Aここには平地の農耕とちがった焼畑の耕作法とおもな収穫物が記されている。だがもっと大切なのは列島の山人と平地農耕民とをつなぐ「時間」についての認識だった。山人と平地人とのあいだでは「時間」は斜めにはしる。柳田は「思うに古今は直立する一の棒では無くて。山地に向けて之を横に寝かしたやうなのが我国のさまである。」という言い方をしている。ここで柳田が認識している山人(猟師、木樵)と平地人(農耕民)との差異は、たんに居住地域の空間的な違いでもなく、またたんに山人を先住民とし、平地人を後住民とする違いでもなく、このふたつがきり離せない合力の成分要素として表象されることをさしている。この斜めにはしる「時間」という柳田の概念は、ひとつには「春は山の神が里に降って田の神となり、秋の終りには又田から上つて、山に還つて山の神となる」という山神と平地の田神との巡回と反復の根拠をなしていた。「時間」認識が斜行せずに直行すれば、山の神は里へ直線的に降下し、里の神は山へ直線的に上昇しという像は描けても、山の神と里の神が、相互に変換しながら巡回する像はえられないはずだ。

 山人たちもまた、焼畑に稗やソバや栗のほかに、芋や豆や麦などをつくり、平地の農耕人も山の斜面を区画して水田を作る。こういう相互の浸透が、この巡回をたすけたにちがいない。習俗が神とするものは、けだし必要と祈念との凝り固まったものに相違ない。そこには共同の表象が、習俗としてなら成り立った。


項目抜粋
2

Bほんとうをいえば、習俗が固執されてひとつのかたちにまで高められる機作も、地域によって変形される機序も、わたしにはよくわからないままだ。ほんの偶然の言い違い、やり違い、あるいは長老や、憑かれた巫人の立言によって、途方もない変更にまで発展するものなのか、それとも習俗の固執や変更をつかさどるものは、ひとつの規範をもつものなのか。あるいは自然条件、季候、地勢や地形の変更が、それに適応しようとして習俗を変更させるものなのか。このことは柳田に困惑をしいたかもしれなかった。そしてあえていえば、もうひとつ柳田を最後まで悩ませたのは、地勢や地形名がそのまま地名になった地域にだけ遺跡を残し、そのほかは、列島の東北と西南の辺域に孤立した習俗と言葉を固守して、少数の村落をつくっているようにみえるアイヌを含めた縄文種族と山人との関わり、その異質と類似性とであった。

 柳田はもともと、東北辺の山村の祭りや祝ひ【ルビ ほがひ】と、西南辺の山村の祭りや祝ひ【ルビ ほがひ】の根を、おなじ起源とみなしたかったにちがいない。かれは断続する認識のなかで、列島の東北辺と西南辺とが等価であるという潜在的な結論に到達していた。山村の同一性は、とりもなおさず平地の農耕村落の同一性を意味しているとおもわれた。また、アイヌと山人(狩猟人、杣樵人)とを、習俗のあまりの類似から同一性とみなそうとしては、またためらいつづけた。習俗の同一性はかならずしも種族や人種の同一性を意味しないからだ。ところで最終的な難関は言葉であった。      (P204-P206)


備考

註1.「機作」「機序」…広辞苑、福武国語辞典には記載なし。

註2.「杣」…・樹木を植えつけて材木をとる山。杣木を伐り採ることを業とするもの。杣人(そまびと)。(広辞苑)




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36 旅人 たびびと V 旅人・巡回・遊行
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1

C…・。ところで最終的な難関は言葉であった。

 アイヌ語がわたしたちの慣用の日本語と類似しているようにみえるのは、地勢と地形名が地名や人名として遺されたことだけにちがいない。だが山人たちが使っている言葉は、閉じた共同体で慣用語に生ずる符牒語や略語や特異な言いまわしはあっても、はっきりと慣用の日本語の方言の範囲を出ない。アイヌ語と山人の言葉とを同一とみることは、とても困難だ。だが地勢や地形や地名や、人名にのこる著しいアイヌ語との類似性は、東北辺の端から西南辺の端にいたるまで、とくに端周地域ほど遺されている。柳田はこの事実の認識が象徴的に暗示するところで、佇ちつくした、そういってよかった。

 平地の農耕民の側から山人の側にむかう結合手と、山人の側から平地の農耕民にむかう結合手を、地誌的にいうためには、景観の名がまだ地勢や地形名をのこしていた時期の村里の起源を、人間と地勢や地形とのかかわりの側からみることができなくてはならない。柳田にはこんなことを書いている個処がある。       (P206-P207)

  【柳田国男『豆の葉と太陽』「武蔵野の昔」から引用】

Dまずはじめに平地にあっては自然採取にちかく、山地の地勢にあっては狩猟を営む先住の人たちがいる。そこに後住の農耕の技術をすこしでも心得た人たちが移住してくる。住みつく場所は、谷間のような樹木の生い繁った湿地の辺か、山に囲まれた水はけのよい台地が、耕作の便のために選ばれる。どんな人たちが移住してきて、どんな人たちが出ていったのか。先住の人たちと後住の人たちが、種族や氏族を異にしたばあい、融和したのか、一方が他方を追い払ったのか、それとも墻【註 かき】をめぐらして交通することはなかったのか。これらを確定するには、まず想像力をできるだけ根柢に働かすほかない。柳田はそのことを記しておいた。柳田が暗々のうちに言いたかったことは、もうひとつあった。先住の人々は列島の東北辺縁と西南辺縁に、いちばん色濃く振り分けられた。そして中央部にゆくほど後住の人々の因子が濃くなる濃淡の分布をつくったことだった。

 柳田のいう山人は、先住の人々と後住の人々の融合として、濃淡の分布の東北辺と西南辺のある地域帯に対応するものとみなされた。 【了】          (P207)


項目抜粋
2
備考






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